ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

こんな日




ユリは、家に戻った昼過ぎから、ずっと居間のソファで本を読み続けていた。

いや、正確にいうと、
読書と入浴をきっかり三十分ずつくり返していた。
秋の風をまとって帰宅した躰は、温まるまでに時間を要したが、
二度目以降はものの十分も湯船につかっていると、
額や鼻のあたま、手首にじんわりと水滴が浮かんだ。

白いTシャツの上に、大好きな紫色のセーターを被り、
窓から注ぐ陽の光で本の頁をめくる。
そして、その情景を思い描きながら、立ち上ってくる湯気の中へ躰を沈める。
それは、ユリにとってこのうえなく贅沢な休日の過ごし方だった。

気づくと、何度も読み返していた数行――主人公と恋人のベッドシーン――を
頭の中で回想しながら、ユリはつい一週間前のことを思い出していた。

岡田と逢うのは久しぶりだった。
地下鉄から程近いイタリア料理店でアルコールと軽い食事をとり、
たっぷり話をしてからいつものホテルへタクシーで向かう。
その移動方法は彼女のやり方。
たとえ、一キロと離れていなくても、
ホテルへは絶対にタクシーを利用する。

歩いてホテルを目指すという行為も、
途中で誰かに会うかもしれないという可能性も、
嫌いだった。

「誰に隠してつき合ってるんでもないのに」

と岡田は笑う。
けれど、どこから、誰に見られているかわからないのは厭。
ついでに云えば、バレンタインやクリスマスといった行事に、
二人では逢わなかった。
何万というカップルが同じことをしているのかと想像するだけで、
げんなりするのだ。

彼は、変わってるよなと笑いはするが、
そんなユリを好ましく想っていた。

「少し眠る?」

岡田の言葉に、ユリは小さく頷いて枕に頭をうずめた。
彼は左腕を腕枕にして差し出してくれる。

「いいよ…」

優しくその腕を断る。
彼も疲れるということを知っているし、
ユリ自身が好きではなかったから。

「来週も逢おうか」

午前二時を回った、
ベッドサイドのデジタル時計の灯かりが眼に飛び込んでくる。

「逢えるの?」
「朝早く出なきゃなんないけど、水曜か木曜ならね。逢える」
「本当?」

微笑んだまま、会話はそこで止まる。
それ以上の約束も確認もあまり意味がない。

精神的にも肉体的にも満たされた行為のあとで、
彼がまた逢おうかと想ってくれている。
それだけでユリは充分だった。
守られないかもしれない約束をして傷ついてしまうより、
何かの拍子に突然逢えることの方が、数段いい。
ユリは岡田をそんなふうに愛していた。

そして、それが愛とは異なることも知っていた。

彼は、ユリの肩に触れ、指で胸をなぞりながら

「おいで」

と呟いた。
その躰から離れないようにして彼の上に重なり、たくさんのキスをする。
自分の唇を通して流れてくる彼の躰の感触と、
触れる瞬間に生まれる微かな風が好きだった。
いい気持ちになる。 
彼の指がユリの中へ入っていくのを感じ、深く長い息をもらした。

「もうすぐ誕生日だな」

岡田はユリの答えを待っているようだった。
でもすぐには答えない。
ユリは、岡田とのセックスそのものよりも、その手に触れられることをいつも悦んでいたし、実際、言葉にして求めた。
だから、どんなに淫らな言葉をかけられても、
どんなに部屋を明るくされても、触れられている間は、
マタタビを吸い込んだ猫のように陶酔しきっていた。

「?」

二人のあいだの空気が、どうなの? と訊いている。

「そうよ。もうすぐ…ね」

途切れる言葉に、彼の上気した低い呼吸が重なる。
ゆっくりと確実に彼女を溶かしていく岡田の動作や言葉、声が、
彼と逢えなかったユリの気持ちを安定させてくれる。
躰の温かさ、肌触り、匂い、カタチ。
どれもユリを満たしてくれる。
時に発せられる優しくない言葉も、何もかもが愛しい。

「どこがいい?」
「黙ってて…」
「云わないんだったらやめるよ」
「意地悪」

そう呟きながら全身をセンサーのようにはりつめさせるけれど、
でも、何者にもなりきれない自分。
こんなに躰の奥から満たされながらも、
どうしても頭の中はいつも冷静だった。
没頭できないと感じた瞬間、快感はそこで終わる。

この人ではないのだ。

愛しているとどんなに想っていても、超えられない壁。
それがなんの壁なのか、
ユリ自身が一番よく知っているのかもしれなかった。
でも、それを口にしたら、
そこで岡田との全てが終わってしまう気がしていた。
どんなふうにしたら、彼と自分だけの時間を作れるか…。
何回も何回も、おかしくなるほど考えた。
けれど辿りつく応えはいつも同じ。

彼ではない。

何がいけないとか、どこが間違ってるとか、
もう、そういう部分的なレベルではなかった。

「好き」

ユリは、ほとんど悲鳴に近い呟きを、岡田に浴びせた。
その気持ちは嘘ではない。
好きな想いは真実だったし、彼を愛しいと感じる心も存在している。

それでも、セックスのあとに残る、
堪らない孤独感と淋しさだけは消えない。
その後に訪れる充足感や安らぎ、優しさを知らない人間であれば、
また別なのかもしれなかった。
が、ユリはそれを心と躰で知っていた。

隣で眠る人の寝息を訊いて、なお満たされない孤独。
それは行為そのものが無意味だと云っているに等しい。
孤独を埋めるために、人を抱くわけではないけれど…。

「好き…」

眼を閉じながら囁く。
つながった躰と温もり、そして肩にかかる声がここにありながら、
黒い瞼の奥には、何の影も揺れていない。
必死に誰かの顔を思い浮かべようとするけれど、
そうすると岡田には伝わってしまう。
彼女の躰も、彼の心もとても敏感にできていた。

「おいで…」

岡田は、ユリの両肩に触れていた手を下ろし、
彼女の腰を軽く持ち上げてから、自分の躰を引いた。
閉じていた瞼をどうしていいのかわからずに、
ユリはベッドの上で膝を抱えるしかなかった。

「大丈夫だよ、ユリ。もっとラクに好きになっていいんだよ」
「ラクにって?」

もう少しで泣きそうだった。

「ユリが欲しい約束を、僕は破らないし…ユリが悲しくて泣いたり、弱音を云ったって、僕は怖がったり距離を置いたりしない。怒ったりもしない」
「…」
「ユリをみつめていたいんだ。だからユリも、少しずつでいい…、僕を見てくれないか…? 今、君と一緒にいるのは、この僕なんだよ」

優しい、でも懇願するような彼の声が、ユリの耳に届く。

さっきから、同じ行ばかり読んでいて、
しかもベッドシーンであるということ以外、
内容がちっとも頭に入ってこない。
あの日、どうやって岡田と別れ、
家に辿り着いたのか今もぼんやりとしている。

確かに、ユリと一緒にいたのは、あの時、岡田だった。

仙道ではなかった。
仙道という男が、彼女の心を今も支配していることをわかって、
彼はあんなことを云ったのだろう。

仙道は、ユリの恋人であったけれど、
彼女の涙やふとした弱音を訊かされることを拒否し続けた。
あからさまに背を向け、部屋を出て行くことさえあった。
泣きながら、一人取り残された彼女は、
自分を責めることでどうにか感情が壊れていくのを抑えた。

決して守られることのない約束。
破られるとわかっていながら、
もしかしたら今度こそは…と微かな、淡い期待を抱いてしまう。
そして落胆。

それら以外は、申し分なく幸せだった。
だから、それさえ我慢すればいいと思っていた。

けれど。

彼女に残ったものは、心の鎧と不信感しかなかった。
自分の弱い姿を隠すことで、人との距離を保っていく。
それは、他人を受け入れたいという気持ちとは裏腹に、高い壁を作った。
そして外面だけの社交辞令。
人に期待しなければ、裏切られて傷つくことも減る。
人の言葉を、簡単に信用しなくなっていた。

「どうしてなの?」

岡田は、ユリとの最初の出会いで、そう訊いた。

「何が?」
「さっき云ったこと。人に期待しないって…どうしてなのかな」
「わりと不躾なのね」
「そうかな。根が正直なのは認めるけど」

海外協力隊員として東南アジアへ行く友人の壮行会が、
東区にある小さな中華料理店で行なわれた。
二十人ほど集まった席に、二人は偶然参加していた。

紹興酒を片手に、少し酔いの回った眼をした岡田が、
四人用テーブルにかけていたユリの向かいに唐突に腰を下ろした。

「訊いてたの? 人の話」
「訊こえちゃったの」

人懐こい笑顔で歯を見せると、
空いた白い皿のうえの彼女の箸をつかみ、青椒肉絲をほお張る。
ユリは、怪訝な表情を隠さなかった。

「彼は、岡田くん。なかなかいい男でしょ。今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの外資系証券会社のエリート」

知恵子の紹介を受けながらも、ユリはあまりパッとしない。
証券会社の名前もエリートという言葉も、
あまり訊き慣れないせいかもしれなかった。

「アイツとは幼なじみなんだ」

主役の近藤君をうつろな柔らかい眼でみつめながら、
記憶を辿るようにゆっくり話す。

「そう…わたし…ハセガワユリ」

私は、近藤君の親友の恋人。

その言葉をウーロン茶で飲みこんで、当り障りのない自己紹介に変えた。
本当は、名乗る気もなかったのだけれど、
そうしたら、彼がとても傷ついた顔をしそうだった。

「証券会社で何してるの?」
「企業スパイ」
「え?」

彼の眼が、それは嬉しそうに輝いた。

「冗談だよ」
「…」

初対面なのに、ずいぶんと自分のペースでことを運ぶ人間だった。
不快ではなかったが、ユリは少し用心した。

「企業情報管理部ってとこにいるんだけど、企業間の吸収合併なんかを仲介する部署」
「証券会社ってそんなこともするの?」
「まだ珍しいけど、少しずつ増えてきてるよ。社内では一番底辺の部署」
「企業の情報を調べたりするわけ?」

いまいちイメージが湧かないまま、
最初の「スパイ」のひと言が尾を引いていた。

「そうだね。倒産したり、民事再生法の適用申請してる会社の再建を手伝ったりとか…。ま、特殊な部署に変わりはないよね」
「企業管理…なんだっけ?」
「企業、情報、管理部…」

互いに、まあいいや、という空気が漂い、その会話はそこでストップした。
近藤君の自由奔放なエネルギーに比べると、
彼の若さは落ち着いて感じられた。
そして、恋人・仙道の斜に構えた雰囲気とも違っていた。
そこで、ユリの視線はフロアで楽しそうに笑っている仙道に移った。
側には近藤君をはじめとする大学時代の仲間が群がっている。

「で、どうして期待しないって?」

反れたはずの会話が、振り出しに戻った。
視線をフロアに残したまま、ユリは初めて岡田の質問に言葉を返す。

「…期待するから落胆したり、傷ついたりするでしょ…そういう経験ない?」
「そりゃあるさ。でも、期待しない人間関係って嘘っぽくないの? 下心じゃないけどさ、人と出会って人間同士の付き合いが始まったら、絶対何かは期待しちゃうと思うんだけどね。そっちの方が人間らしい気もするし…僕はね」

質問しといて説教じみた話をするなんて、
どこまで失礼なのかとユリは呆れていた。
でも、酔っ払っている人を相手に本気になっても、
空回りするのがオチだし…。

「でも、何度も期待を裏切られたら、期待そのものが億劫になるものよ、自然と」

ユリは、子どもに語りかけるように、眼を見て、ゆっくりと言葉を区切った。

「…だったらそんな奴とは縁を切ったらいい」
「…」
「違うかい?」

返す言葉を失い、彼女は視線を外してしまった。

「…一人の人間だけに何度も裏切られたっていう訳じゃないから…」

思わず云い訳をする。

「あ、ごめん。勝手に、そんな気がしただけだから…」

なんでこんな話をしているのだろう。
ユリは、立ち上がるとバッグを抱えてトイレへ駆け込んだ。
これ以上、彼と話をしていると、そのペースにはまってしまいそうだった。

彼の云うように簡単に物事を決められたら…。
そんなふうに考えてしまうかもしれない自分が、厭でたまらなかった。
自分の中で築き上げた像が、
こんなにいともアッサリと崩れ去ろうとしていることを、
ユリは許せないでいた。
仙道を好きでいることも、
期待しないことでクールに笑っている大人びた自分も、
全てユリ自身が決めたことで、
誰に何を云われて揺らぐことも、後悔することもないと思っていたのに。

その壮行会の二ヶ月後、彼と再び会うことになった。
別の中華家庭料理店で。

「ここの青椒肉絲の方が、おいしいんだ」

顔を近づけて、そう呟く。
何がどうなったのか。
…たぶん、その気軽さに救われたかったのが理由だった気がする。
その後しばらくして、岡田と付き合い始めた。
もちろん、仙道の存在を共有したうえで。

「私…やっぱりできない」
「?」

岡田の手のひらから顔を離し、ベッドの上に起き上がった。
クーラーが効いていて、上半身が涼しい。

何を想い巡らせていたわけでは、決してなかった。
隣で横になり、瞼を閉じて、いつものように深呼吸をしていただけ。
あまりに突然のユリの言動に、
岡田は身動きひとつせずにベッドの背もたれに躰を預けたままだった。

「どうしたの?」

ユリは、自分でも何を云っていいのかわからなかった。
けれど、その手の温もりを感じていることに、突然、
例えようのない絶望と耐えられない恐怖を感じた。

「…」

言葉を失くしたまま、何から伝えていいのか、
ただ困惑した眼で見つめ返す。
その不安はたちまち彼に感染した。

「僕はどうすればいい…?」

まるで、迷子になった子供が道を訊くように、
彼は自分の無力さを露呈した。

ユリを責める調子ではなく、手持ちのカードをすべて曝け出し、

「僕にはもうこれしか残っていない。好きなカードを選んでかまわないよ」

と訊ねるような、懇願するような。

「怒らないの?」

ユリはぼんやりと、でも確実に終わりへと針を進めた。

「…そりゃ、ユリを殴り倒したい気持ちもあるよ。でも、そんなことしたら、自分を許せなくなる」
「どうして」
「大切に想う人を傷つけることは、僕自身のルールに反する」
「私のためなの?」

岡田は、哀しげな口元に、微かな笑みを浮かべた。

「いや、そうじゃない。自分のためだよ」

ベッドサイドの黒いTシャツを拾い上げて、
躊躇せずに一気に羽織る。
しばらくうつむいたあと、ユリの眼を見つめながら続けた。

「ユリが、自分のルールを曲げてまで、僕のそばにいようとしないのと、同じことさ」

穏やかで静かな悲しみが、二人のあいだをゆっくりと流れていく。

「結局は、僕も、自分で築いた像を壊せないし、ここでユリを殴って、君を完全に失うことが怖いんだ」
「…でも私は」
「何も云わなくていいよ。…わかるから」

岡田と別れることは、互いを失うことだ。
たとえいつまた出会うことがあっても、
それは、伴に過ごした時間が過去になり、
その過去がすでに失われたものだと知るほかはない。

ユリは、そうして仙道のもとへ戻ろうとは思っていなかった。
やはり、彼のこともまた、過去の存在にしなければ、
自分が一人では生きていくこも、
誰かを心から愛することもできないと気づいたからだ。

「もっと、違うカタチで出逢いたかった…」

その言葉に、岡田は優しく微笑んだ。

「いつ、どこで逢っていても同じだったよ。僕はユリを好きになってた」

窓から見える太陽が、くすんだ緑の山かげに沈みかけていた。
空気が白く濁って、ある瞬間、陽の光だけが山あいから空を照らす。
握り締めたレースのカーテンが、指先に模様をつくる。
浅い呼吸をしながら、ユリは、ようやく泣くことができた。
微笑みながら。



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