「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ネオリアヤの言葉
竣
いないのかな。
二度ほどチャイムを鳴らしても、何の返事もない。
約束の時間を十五分ほど経過しているので、まさかとは思うけど、
もう家にいないとか?
私は、アパートの竣の部屋の前から、携帯に電話をしてみた。
「悪いっ」
呼び出し音が切れて、第一声は竣の叫び声だった。
「いま話しても大丈夫?」
「うん。今さ、大学にいるんだ。教授に呼び出し受けちゃって、十二時過ぎには戻れるから部屋には入っててくれる?」
「わかったぁ。鍵は?」
「郵便受けん中」
「はあい」
携帯の向こう側で、風の流れる音が訊こえてる。
たぶん、大学へ向かっている途中なんだろうと想像する。
竣の急いでいる速度が、風の重さでわかる。
私は、一階まで降りてから、郵便ボックスを開け、
赤や青、白や黒のチラシの文字の底に埋もれている鍵のついた紙を取り出した。
「完全無修正」「即日宅配」という太くて黒いゴシック文字が眼に飛び込んでくる。
竣は、合鍵をキーホルダーにつけずに、こうしてDMやチラシの裏に、セロテープでくっつけて、
ボックスの底に裏返しにして入れておく。
今回のチラシは、アダルトビデオものだった。
A5サイズの白い紙に、黒い微粒子写真がコピーされていて、
それこそ裏側には数百ものビデオタイトルが列記されていた。
何もこんなのに貼らなくったっていいのに。
私は苦笑しながら、三階へ上がり鍵を差し込んでなかに入った。
竣の部屋は、台所の水場下の戸棚の匂いがする。
キッチン用品や調味料などが入っていて、水道管が露出している、あの空間。
様々な調味料の強い匂いと湿気が混ざり合って、なんとも形容し難い匂いがする。
でも私は安心する。
その匂いイコール竣の部屋、竣の部屋イコールその匂い、
という定義ができあがっていたから。
鍵を、玄関横の定位置に置いた。
部屋の端っこにカバンを横たわらせてから、私は部屋を見渡す。
さて、どこに坐ろうか。
「なんで鍵預かってくれないの?」
いつかそう竣に訊かれたときのことが思い起こされた。
「私の部屋じゃないもん」
「付き合ってるのに」
「でもやだよ。一緒に住んでるなら、私が好きなときに部屋に戻っていくのも私の権利だけど、そうじゃないんだし」
「付き合ってるんだからユウの権利だよ」
そんな権利はいらない。
「いやです。そこまで竣の生活のなかに入りたくない。馴れ合いになっちゃうのやだもん。それに、竣なら『あれ忘れたから持ってきて』とか『俺寝てるから、勝手に入ってきていいよ。起こして』とか云いそうだもん。私はあなたのお母さんではありません」
「あっ、そ」
「そういうのが当たり前になっちゃうような権利はいらない」
思い出しておかしくなる。あのとき、竣はいじけたような表情をして、石ころを蹴っていた。
鍵を預かっていなくてよかったと今でも思う。
今日は外が寒いし、理由が理由なので、先に勝手に入っているけど、
普段は私がそうしたいと思わないかぎり、ほとんど絶対勝手に部屋に上がったりしない。
たとえ、今日のように「先に入ってて」と電話で云われても。
人の部屋に私が一人で入っていくというシチュエーションもいやだし、
見たくないものを見つけてしまうのも嫌い。
それに本当は、部屋にいることが当たり前になることが嫌いだった。
外にデートすることもなく、なんとなく互いに部屋にいて、セックスをしたりビデオを観るのも。
ほかにしたいことが山ほどあるのに、それがだんだん億劫になりそうで。
そういう関係になりそうな予感が、竣との間にはあった。
好きな人とは、好きな気持ちのままで接していたい。
馴れ合いや安らぎを求めるほど、私は恋愛に疲れてもいなかったし、
まして経験も多くはない。
それに、私の存在を部屋や鍵と同じように、当たり前に思われることも避けたかった。
互いに一人の時間が必要なことを示すためにも、断固として鍵を受け取らなかった。
部屋が散らかっているけれど、鍵と同じ理由で、
私はその空間を勝手に片付けたりしない。
自分の居場所を確保してから、お茶を煎れるために、机のうえだけ、
ちょっと物を端に寄せた。
目覚まし時計が、十時半を指している。
お菓子かなんか買ってこようかな。
その瞬間、見ちゃいけないなという思いと裏腹に、
文字が丸見えになって開かれた手紙の文章が眼に飛び込んできた。
文章というより、たった一箇所の文字が。
『あの夜、抱き合って眠ってくれたこと…』
やってしまった。
私はひどく沈痛な面持ちで、ため息をついた。
ほかにも別の言葉が、やまほど書き連ねられているのに、よりによってその文字だけが、
えらくクローズアップされて、私の視界に飛び込んできた。
だから嫌だったのに…。
部屋に一人で入ってしまったことを痛切に後悔した。
普段しないことをしたときに限って、こういうことが起きてしまう。
私は天井にできた、タバコの黄色と茶色の染みを見つめてから、
ちょっと変に開き直る。
その手紙の最後の部分だけを見た。
『…でもこの手紙は、彼女に見られないようにしたほうがいいよ。
ありがとう』
そりゃそうだろう。
私は妙に納得した。
たぶん、この女性は、竣のことを結構わかっているんだろうな。
なんとなく、彼女と竣は、一緒に抱き合って眠ったかもしれないが、実際にセックスという意味では、
寝ていないような感じがした。
そういう雰囲気が文字から浮かんでいた。
寝ていないからこそ、私に読まれて誤解を受けないようにしなさいと、
竣を諭しているようだった。
と、そこまで思ってから私は自分の気持ちに立ち止まった。
やきもちは焼いてないみたい。
セックスをしようがしまいが、あんまり気にしてないことがわかる。
確かに、ショックはショックだけど、それは勝手に手紙を盗み見てしまったことへの、
自己嫌悪に似た感情に近い。
『ありがとう』の文字の隣に書かれた、小さな名前を見て、
彼女の名前が、私と竣の会話のなかでも何度か出てきたことのあったことが思い出された。
それにしても竣は馬鹿だな。
なんて軽率なんだろう。
彼女の想いも私の存在も、全く無視した行動を平気でとってしまう。
きっと、この手紙を読んだあと、竣はテレビを見始めたのか、
眠くなったのか、とにかく別のことに意識が集中してしまったのだろう。
そして朝になって、教授から電話がきて大学に行くことになり、急いで準備をして、
手紙の存在を忘れたまま、出て行ってしまった。
まあ、そういう勝手さも人間くさくていいんだけど。
私はどうしようか迷った挙句、手紙を小さく元の形に折りたたんで、
机のうえに置かれたままの手帳の下にすべりこませた。
そして、見てしまったことを云うべきか、気づかなかったふりを通すべきか。
なんと云って告白するべきか、
とかいろいろなことを考えているうちに、あっというまに竣が帰ってきた。
十一時半前だった。
「ただいま。ごめんな」
「ううん。外が寒かったから助かったよ、鍵、あって」
「だから預かってくれてたらもっといいのに」
「しつこいね」
笑って、立ち上がることもせずに、竣がジャンパーを脱いで足元にばさりと置くのを見つめていた。
「コーヒー飲む?」
竣は、私に訊ねてから、やかんで水を沸かし始めた。
「早かったね」
「ああ…卒論を仮提出した内容でさ…別に今日でなくてもよかったんだけど、俺がバイトで忙しいから、今日の午前ってことになったんだ」
「それで大丈夫そうなの?」
「そりゃバッチリ。この竣様の視点だもの、素晴らしいに決まってるでしょ」
「はいはい」
これで、有言実行だったらもっといいのだけど、
と心のなかでこっそりつぶやく。
竣は、理想をよく口にしたり、大きな夢を言葉にする。
でも、実際はその半分にも満たない行動になる。
そして云い訳をしてしまう。
せめて云い訳だけでもよせばいいのにと思う。
私は別に、云ってることと違うじゃない、とか、云うこととやることが違うよね、などと云ったりしない。
それが竣のやり方なんだろうと思って、
この人の生き方を興味深く見ているにすぎない。
私とは違うのね、と。
もしかすると、それが竣には重荷だったのかもしれない。
もっと言葉にしてけなしたりしたほうが、ラクになれるのにと思ってるのかも。
だから先回りして、云い訳したりするのかもしれない。
「ねえ竣」
右隣に腰を下ろした竣に、私は俯きがちに声をかけた。
「?」
「ごめん。私、読んじゃった」
覚悟を決めて、申し訳なさそうに竣を見た。
「? 何が?」
「この、手紙」
そう云って、さっき自分で折りたたんでしまった、手紙を手帳の下から引っ張り出す。
「机のうえに、広げて置いてあって…やめようと思ったんだけど、つい眼がいっちゃった。ごめんなさい」
全部読んだのじゃないけど…と私は付け足した。
「…」
竣は、悲しそうな複雑な表情をした。
「いや、謝るのは俺のほうだ。ごめん。…でもね、これ、彼女とは寝てないんだ」
「…」
「実は彼女、恋人と別れて、俺んとこに悪口云いにきたんだ。で、飲んでたし、泊まっていけって云って…別々に寝てたんだけど、夜中にさ、泣いてるの見たら、放っておけなくて、ただこう肩を抱いてというか…添い寝みたいにしてただけなんだ」
「…」
「云うなって云われたけど、なんか、隠すのも…それで、ごめん。実はわざとこうして置いていったんだ。見てもらってホッとしたかったっていうか」
「…そう。で、彼女は元気になったの?」
「わかんない。でも本当に何もなかったんだ」
「大丈夫だよ、竣の言葉を疑ったりしないから。そうなんだろうと思うし」
竣と彼女の関係や距離感は、二人にしかわからないし、
私は竣の言葉をそのまま受け取るしかない。
あとは自分がなんとなく感じる直感のようなものを頼るしか。
それにしても、私は自分の冷静な、妙に落ち着いた気持ちに驚いていた。
こんなもんだろうか。
浮気とは云えないことだから、こんな気持ちなのかな…。
でも、そんなはずはないと思って問い詰めたりすることだってあり得るんだろうし。
きっと、私には冷静さを欠くことができないんだろうな。
竣を好きじゃないという想いがあるわけじゃないから、
こういうふうにしか私は人を好きにはなれないと思う。
これが私の想い方なんだよ。
それからしばらくして、些細なことが発端で、竣と喧嘩をした。
大したことではなかった。理由を覚えていないくらいのことだった。
ただ、その途中からの言葉が、私の胸に奇妙に突き刺さった。
「本当にユウは俺のこと好きなのかよ」
「何それ。今の話となんの関係があるのよ」
「好きなのかどうかわかんないんだ」
喧嘩をしてるのに、好きだなんて云えるだろうか。
私は気持ちが急に萎えるのを感じた。
ヒートダウンした心が、今度は竣を、いつものように冷静に見つめてしまう。
「この前だって、ユウはあんまり反応しなかっただろ」
「この前って?」
「手紙のこと…俺がああいうことしたからって、ユウは仕返しとして浮気したり、同じことしたりしないだろ。なんか…」
「ちょっと待ってよ…だって竣も云ったでしょ。何もしてないって」
「そうだけど」
「何よ、して欲しいの? 変だよそんなの」
「でも俺を責めなかったし、そういう大人な態度って…俺のこと、あんまり好きじゃないのかなって」
「…やきもちやいて浮気するのが、好きな気持ちの裏返しだなんて、おかしいよ。好きだったら、それだけでいい…ものじゃないの?」
私の心が悲しくなってきた。竣の想いを想像して、苦しくなってくる。
声が涙声になってきた。
何てことを、竣は独りで悩んでいるんだろう。
「俺はユウが好きなんだよ」
そうつぶやいて、竣は、私を強く抱きしめた。
物凄い力で、息が止まるほど。
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