ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

真夜中の電話




午前二時半。
けたたましいベルの音が部屋に響いた。
やっと寝ついたばかりの躰をゆっくりと起こし、立ち上がる。
受話器を耳まで運ぶ。

「もしもし?」

電信音だけが、ツーツーと鳴っている。
パジャマ代わりに着ていたTシャツの襟元に浮かんだ汗を拭い、受話器を戻した。
こんな夜中に…。両親だろうか。
何十回も呼び出し音が鳴っていた気もするけれど、間違い電話の可能性もある。
何十回というコールが、数回に亘って激しく鳴っていたような…。
夢だったのだろうか。
再び、ベルが鳴る。

「もしもし」

ひとつめのベルが鳴り終わる前に、ユウキは勢いよく受話器を取り上げた。
夫の趣味で購入した黒電話は、夜中に鳴ると近所迷惑になりかねない。
相手の声より先に、背後のざわめきが訊こえた。

「ナカタさん?」
「そうですけど」

語気の上がった男の声。
歳は三十前後だろうか。
イタズラだと思った。真面目に返答したことに激しく後悔したが、遅かった。

「部長さん出してくれ。則武って奴がいるだろ。そいつのことだ」

ブチョウ。ノリタケ。
寝惚けた頭に、予想外の言葉がグルグル回る。
数秒間困惑するユウキの耳に、さらに男は荒い声を飛ばしてくる。
「うちの女房がそいつと浮気して今帰ってきたんだ。いいから部長出してくれ」

ニョウボウ、ウワキ、ブチョウ。

「はぁ…ノリタケなんていませんけれど?」

考える時間を作り出すようにして、ユウキはゆっくりと丁寧に言葉を返した。

「則武ってのが、おたくの部署にいるだろ」 

夫の敦が上体をこちらに向け、どうしたのと眼で訴えかける。
二時間前に居間で仕事を終え、眠りについたばかりだった。
眠そうな、まぶしそうな表情で力なくベッドに横たわっている。

「あなたを出せって」

溜め息で伝えるが、受話器は自分で握ったまま。

「どちら様ですか?」
「近藤。近藤あずさの夫だ」

もの凄く興奮しているくせに、自分のことを夫だなんて、よく云う。

「眠っていますけれど、こんな時間にどんなご用件ですか?」

意識が戻った頭で、語調を落として尋ねる。
なるべく苛立ちをおさえて、相手を刺激しないよう努める。

「うちの女房が、おたくの部署の則武と浮気してんだよ。早く部長さん出せよ。こっちは、離婚するかしないかの大問題なんだ」
「そんな。そちらの問題でしょう? こんな時間に失礼だと思わないんですか」
「離婚してもいいってんですか」
「…それとこれとは別でしょう」

アホらしくてまともに答える気にもなれない。
でも、夫と同じ会社にいるらしい、そのノリタケという人物が
本当に絡んでいるかもしれなく、夫の不利になる発言もできない。
眼を閉じ、腰にあてがった右手をおでこに持っていく。
その後、いくつか言葉を交わし、とりあえず先方は納得いかないまま電話を切った。

「なんだって?」

まだ起きやらぬ表情で、敦が尋ねる。

「自分の女房が浮気して帰ってきたんだって。それで、あなたを出せって」
「誰?」
「近藤だって…。近藤あずさの夫だとかなんとか云ってたわよ。ノリタケって部下いるの?」
「ノリタケ?…あぁ、うちの部の若いのだ。則武がなんだって?」
「その則武さんが奥さんと浮気してて、上司としてそれでいいのかって話よ」

なんで、こうもだらしないのだろうか。
家庭の問題も自分たちで解決できないうえに、人に吐露するなんて。
恥ずかしくてゾッとする。
しかもこんな夜中に。
馬鹿らしくて腹が立つ。

「そんなことで起こされるなんて迷惑な話」

掛け布団をあごまで引き上げて横になる。
ここのところ、風邪で躰調を崩していた。
久々の休みで、まだ陽のある頃から何度も湯船につかり、
躰中のこりをほぐしたのはいいが、躰が火照ってなかなか眠れなかったのだ。
やっと寝ついたところに、さっきの電話。
冴えた頭は、眠るのにまた時間がかかりそうだった。

「明日早いんでしょ?」
「ん、まぁね」

敦は、枕もとの灯りをつけると、躰を起こした。

「しかし、こんなことってあるもんなんだなぁ」

妙に感慨深げに腕を組む。

「何が?」
「や、そんな理由で、夜中に起こされるってことがさ…」
「普通ないわよ」
「現実は小説より奇なり、か?」
「そんな情けないお子様男だから、浮気されんのよ」

それもそうか、と敦はユウキにおどけてみせる。

「あのね。敦の部下のせいでこんな夜中に起こされたんだから、そんな感心しないでよ」
「俺かい」

それにしても…。

夫の眼から天井へと視線を移し、考える。
結婚している女が、亭主を家において夜中まで別の男と逢ってるなんて、
そもそも常識が欠落しているとユウキは思う。
たとえ相手が男でなくとも、行動自体に疑問を持たざるをえない。
こんな電話をしてくるダンナであれば、
妻が自立して仕事をすることに理解はないだろうし。

ユウキは仕事上、プロジェクトがスタートすると明け方近くに帰宅することも比較的多い。
たまには早く帰ろうと思って十二時や一時に帰ろうものなら、
何事かと反対に驚かれるのが関の山。
だから比べる対象にはならないのだが、あまりに女たちの行動が安易というか、
物事の流れや相手、周囲が見えてなさ過ぎて情けなくなるのだった。

男と逢うなとも、浮気をするなとも云わない。
逢うんだったら、尻尾を見せないようにすればいい。
そして、パートナーを傷つけない行動を徹底すること。
どうしても逢いたいなら、昼間に逢うとか他に方法はいくらでもある。
そりゃ、褒めたことではない。
でも、本当に逢いたいなら、それ以外のシチュエーションは切り捨てるしかない。 

ホテルのバーでの待ち合わせ。
仄かな灯りを隔てた互いの微笑み。
ライトアップされたショーウィンドー越しの歩調。
耳元で交わす会話。
切なく美しい逢瀬の約束。
瞳が放つ妖しい光。
暗闇に感じるその人の手の温もり。
誰かに会うかもしれないというスリル。

そういった、非日常を彩る数々の美しい演出を。
たとえただの友だちだとしても、夜に二人きりで楽しそうに言葉を交わしていれば、
あらぬことを想像したくなるのが心情というもの。
薄暗いバーで肩寄せながらお酒を飲んで笑いあっていれば、
いくら仕事相手だと云っても、多分、誰もまともに取り合ってはくれない。
それと同じこと。

全ての欲望に完璧を求めてはいけないのが、
家庭という場所を二人で作り上げる男女のルール。
当然、どんな恋愛関係においても云えるだろうけれど。

だから、周囲の要らぬ関心や心配、疑念を招かないよう、
そういう準備はキチンと手順を踏まなくてはならない。
それが責任というものであり、大切な人を守る場合も仕事も基本的に同レベルだと、
ユウキは信じている。
実直だけが能ではない。
目的を達するためにどうすればいいのか、いくつもの方法を考えるべきだし、
それは周りを良く見て決定すべきこと。
それができないなら、どちらかあきらめたらいい。
恋愛でも仕事でも。

女は周りが見えないと痛感させられるのは、こんな時だ。
それと同じことを今、見ず知らずの近藤あずさに感じていた。
まぁ、彼女の場合、それ以前に別の何かが欠けているのかもしれないけれど。

近藤と名乗った男の、手のつけられない興奮ぶりと言葉の端々に滲む嫉妬が、
ユウキの脳裏に蘇えった。
あんなにも取り乱して…。
好きだからとか、大切だからとかいった感情から生まれる嫉妬ではないように感じた。
その反対の憎しみからくる、
裏切りへの悲しみや怒りに似たモノが受話器を通して伝わってきていた。

「敦だったらどうする?」

ユウキは夫を見上げた。
敦は柔らかい表情で眼の端に笑いをたたえると、
「自分の女房が浮気したら?」と、声に出して笑う。

「そう」
「その前に。ユウキの浮気をどうやって知るか、だな。」

同じように肩までブランケットに埋めると、向き直って微笑む。

「気づかないかもしれないしな、浮気に。ユウキが相手だったら、たとえコロンボ刑事でも気づかないんじゃないか。状況証拠だけじゃ逮捕はできない」
「なぁにソレ」

吐き出すように笑ったユウキに、敦は少し真面目な顔をした。

「状況証拠さえ難しいか…」

自分に云い含むと、今度は可笑しそうに、おちょくるようにユウキを見る。

「結婚するまで、俺たちが付き合ってたこと誰も知らなかったんだ。二年半も…普通無理だろ。ユウキだってわからないかもしれない。俺が浮気しても」
「どうかな…」
「コイツ」

鼻で一笑すると、敦はユウキに躰を寄せ、頑張って寝るぞと呟いた。
十三歳年上の敦と結婚したのは半年前。
ユウキが二十七歳になった冬。
その二年半前、彼の会社が主催した年末のパーティーが初対面の場。
第一印象は最悪だったけれど、最初のデートで関係を持った。
それでもしばらくは、付き合っているというのではなかった。
互いに特定の恋人はいなかったけれど、ベッドを共にするパートナーがいたし、
生活のリズムが違いすぎた。
親元から通勤し、朝から夜遅くまで仕事詰めの、メーカー勤務の敦。
それでも、商社並みに土日祝日が休み。
ユウキはといえば、昼過ぎから深夜、
明け方まで仕事になるのが普通のプロダクションに籍をおいていた。
コンパニオンをしていた頃の生活とは見事に逆転していた。
休みは不定期で、しかもほとんど仕事で消える。
けれど、年にいち二度は二週間ほどまとめて休むことも可能だった。

出会って数ヶ月経ったころ。
一緒にジャズのライヴへ行くはずだった女友だちが、
当日昼になってキャンセルしてきた。
どうにも相手が見つからず、手帳をひっくり返しているうちに、
敦の携帯番号が出てきたのだ。
それが二度目のデートだった。

ライヴ後に彼がエスコートした店、その晩の会話。
全てが、ユウキにとってとても気持ちのいいもので、それがきっかけで、
その後二年半付き合って、結婚した。

でもその間、敦はそれまで続けていたパートナーとの関係を終らせることはなかった。
それどころか、もう一人別の女性を近くにおいていた。
多分、その相手がユウキより年上でなかったら戒めていただろう。
自分本位なただの興味だけで、遊び方も満足にわからない子と関係を持つのは、
恋愛でもなんでもない。
勿論、年下の女の子全員が遊び方を知らない訳じゃないけれど。

何も云わなかったのは、敦がユウキを大事にしていたから。
そして、彼女自身もまた、以前からのパートナーである乃木豪との関係を、
切らなかったことにある。
人のことを云えないから、という理由からではない。
その関係なしには、敦との有意義な関係を築けないからだった。
彼との関係を大事にしたいと願うからこそ、豪との関係は必要で、
それと同じ理由で敦もいることを感じていたから、何も云わなかった。

豪と逢うのは、いつも仕事前の夕方かイベントで泊まりこみのある時と決めていた。
それ以外の休みや午前中は敦と過ごすことが多かった。
もっとゆっくりとロマンチックに二人で過ごしたいと思ったこともある。
けれど、そこまでにしておいた方がいいことを、経験として知っていた。
ひとつ希望を叶えてしまうと、その次が欲しくなる。

豪の前に付き合っていた上司は、自分が既婚であるという後ろめたさからか、
ユウキの我儘をほとんど受け入れた。
それが外泊目的の出張であっても。
本当は、そんなことを望んでいたわけではない。
でも、その人が自分の我儘を許せば許すほど、
自己嫌悪と悔しさでますますエスカレートしていった行動。
あんな蟻地獄のような関係はもう沢山。

だから、長続きさせようという理由からではなく、
自分自身の精神状態を安定させるためにも、周囲を巻き込み傷つけないためにも、
豪との関係にはルールを敷いた。
そのリズムは、今も続いている。
敦のそれと同様に。

でも、傷つかないわけじゃない。
敦も私も、苦しんではきた。苦しんで選んだ道を歩いているというだけ。

「お昼、グランドホテルで食べようか」

返事がない…。
隣りで、静かに寝息を立て始めた夫の唇を見つめ、思わず吹き出してしまった。
この先、いつか本当に、二人きりで向き合って生きていくことになっても、
私たちなら大丈夫だと感じた。
それまでの生活の中で、お互いに充分傷つき、その痛みをわかっているだけに、
相手を思いやることができる。
自分たちの歩いてきたことを、反省しながら。そして、誇りに思いながら。

© Rakuten Group, Inc.
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