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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。神田川を上流に向かって歩いて行きます。川沿いにあるのは首都高速道路です。このビルの前を通ると、離れていてもウナギを焼くいい匂いがしました。実はこのビルのお隣が「うなぎ はし本」(→→→こちら)という、天保六年(1835年)に創業して以来、同じ場所、同じ味で暖簾を掲げ続けているうなぎの老舗です。そして、高速道路が大きくカーブし神田川から離れていくあたりに来ました。神田川に流れ込む大きな暗渠の流出口がありました。これは今は暗渠化された東池袋から流れてきている水窪川(→→→こちら)の暗渠だと思われます。この橋の名称は、「江戸川橋」。かっては、神田川の中流域の中でも都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近まで約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていたそうです。だから江戸川橋とい名称で、東京メトロ有楽町線の駅も江戸川橋なんだそうです。しかし、この区間も1970年8月に「神田川」に名称が統一されたそうです。こちらの暗渠の流出口は、豊島区立元池袋史跡公園の西に接する池袋デュープレックスタワーの敷地内にあった丸池が源泉として神田川に合流していた弦巻川(→→→こちら)が暗渠化されたことによるものでしょうか。そして、川に沿ってあるのが、文京区立江戸川公園(→→→こちら)です。神田川沿いにソメイヨシノが植えられており、春には多くのお花見の人が訪れます。訪れたのは2月の中旬なので、桜には早過ぎましたね。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その15) 神田川から江戸川
2023年05月02日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。この駅ハイキング、御岳渓谷の紅葉を楽しみにしてやって来たのですが、まだちょっと早かったですね。再び御嶽駅付近に戻ってきて、この建物に立ち寄りました。玉堂美術館(→→→こちら)です。川合玉堂といえば、こういう分野に疎いMoMo太郎も名前を耳にしたことのある近代日本画壇の巨匠の15歳頃の写生から晩年の作品まで幅広く展示されている美術館だそうです。駅からハイキングの参加者は、500円の入場料が100円割り引きになるという特典もあったので、見学することにしました。皇太子殿下も行幸されたようですね。館内の展示品は撮影できませんでしたが、美術館の庭園は撮影できました。枯山水の見事な庭園です。玉堂美術館を見学して、JR青梅線の御嶽駅に戻り、帰りました。【了】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その10) 玉堂美術館
2020年12月29日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。のんびりと川を下っていくラフティングの人たちを途中で見かけました。鵜の瀬橋を渡って多摩川の左岸側に渡ります。鵜の瀬橋の上からの下流側の眺めです。河床に岩が突き出していて、ここをラフティングで下っていくのは難度が高そうですね。橋の上流側も流れが速そうです。橋の真下もこんな流れで、ラフティングには確かに良さそうです。御岳渓谷遊歩道ぞいにあった「お山の杉の子記念碑」です。作曲者の佐々木すぐる氏が、戦争中にこの地に疎開されていたことから、この記念碑が建立されたそうですね。佐々木すぐる氏といえば、こんな歌も作曲されていましたね。こんな歌を子供が歌っていた時代があったんですね。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その9) ラフティングとお山の杉の子
2020年12月28日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。次は寒山寺に向かいました。寒山寺に向かう階段の途中にあった鐘です。鐘にはこんな言葉と絵が記されていました。板碑がありました。刻まれたのは漢詩のようでした。寒山寺といえば、中国江蘇省蘇州市にある臨済宗の寺院が有名ですから、中国の寒山寺にある漢詩「楓橋夜泊」の石碑へのオマージュで設置したのでしょうか。そういえば、ここで多摩川に架かる橋の名前も「楓橋」というのもオマージュでしょうかね。寒山・拾得の碑というのがありました。寒山と拾得は共に詩僧、唐代の人物で、寒山寺は、この寒山が草庵を結んだ地とされる蘇州に創建されたそうですから、石碑ではその寒山と拾得の姿が描かれていました。こちらが寒山寺の本堂です。この寒山寺は、書家の田口米舫が明治18年(1885年)に中国の姑蘇城外の寒山寺を訪れた際、主僧の祖信師より釈迦仏木1体を託されました。帰国後、昭和5年(1930年)に青梅鉄道の経営などに携わった実業家の小澤太平氏の協力によって建立されたそうです。水位観測所がありました。途中でこの大きなマットを背負って歩く人に出会います。大きなマットは「クラッシュパッド」というもので、このように忍者修行、ではなくポルタリングをする時に、墜落した時の衝撃を和らげて怪我しないようするものです。御岳渓谷、忍者修行の場として有名なんですね。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その8) 寒山寺とポルタリング
2020年12月27日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。 JR青梅線の沢井駅の南側、青梅街道沿いにある小澤酒造(→→→こちら)です。 門の看板にあるように「清酒澤乃井醸造元」です。日本酒「澤乃井」は数少ない東京の地酒です。お店でも買えますが、青梅市や中央線沿線の飲食店でも提供されていますし、浅草の大黒屋や葵丸進などの有名な天ぷら屋さんでも飲むことができます。 小澤酒造の酒蔵です。いつもは酒蔵見学もできるのですが、今年はコロナの関係で明日(11月1日)から再開しまいとのことでした。ちなみに蔵の前でお酒を飲んでいるのは従業員の方で、新酒ができたので、お祝いで飲んでいるとのことでした。 小澤酒造から青梅街道の下の地下道を潜っていくと小澤酒造が経営している「清流ガーデン澤乃井園」です。園内にある売店では、澤乃井の酒、わさび漬け、お豆腐などが売っていて、ちょっとお酒を飲みながら、多摩川の清流と御岳渓谷の自然を味わうことができます。 皇太子殿下(多分、今の上皇殿下)もここに訪れたようです。 こちらは「ままごと屋」という澤乃井直営の料亭です。豆腐、ゆば料理が有名らしいです。MoMo太郎の孤独のグルメ向きのお店ではないですね。 澤乃井園から多摩川に架かる楓橋を渡りました。 これが楓橋の全景です。もう少し紅葉が進んでいるとMoMo太郎の下手な写真でも映えたかもしれませんね。 楓橋から見た多摩川の下流側です。 こちらは上流側。 楓橋を渡って多摩川を下流側に進むとあるのがこの建物。 「櫛かんざし美術館」(入場料600円)です。まあハイキングに来ているのでこういう見学はパスさせてもらうことにしました。ちなみにここも小澤酒造さんが経営しているそうです。 【つづく】 人気ブログランキングへ 御岳渓谷を歩く(その7) 東京の地酒
2020年12月26日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。沢井駅の前にあった石碑です。「道路竣工記念」。鉄道沿いの今まで歩いてきた道ができたことを記念して建立された石碑のようでした。今は集落の道が整備されたくらいではこんな石碑は建立しないでしょうが、昔はそれなりに地元の悲願の大事業だったということでしょうか。雲慶院と言う禅宗のお寺に立ち寄ります。隣の看板の三田保育園の「三田」というのは鎌倉時代から戦国時代まで青梅を拠点としていた武将の三田氏(→→→こちら)との関係があるのでしょうか。こちらがお寺の本堂のようです。境内に置かれた石仏。素朴な感じがします。お寺と言えば、やはり梵鐘は必須アイテムですね。本堂に掲げられた雲慶院の扁額です。雲慶院は、天寧寺六世九山整重を開山として野村豊後守高貞が開基となり天正14年(1586)に創建、寛文年間(1661-1672)には寺領7石の御朱印状を拝領したそうです。青梅線を越えて沢井駅の南東側に出ると、立派な石柱がおそらく雲慶院に関係したものだと思われました。次に訪れたのは、東京都指定有形文化財の福島家住宅(→→→こちら)です。こちらが福島家住宅。茅・杉皮葺き屋根が古い江戸時代の建物だと主張していました。福島家は江戸時代には名主、および水運を担う筏師の元締めであった家柄で、今は誰も住んでいないそうてすが、秋の東京文化財ウィークなどで一般公開される時や近くにある田畑の世話で青梅市に住む子孫の方が使われているそうです。こういう古い生活道具も大切に残してあるのが、文化財たる所以でしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その6) 雲慶院と福島家住宅
2020年12月25日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。道端で見かけたこの小さな祠。この祠の横の坂道を登っていきます。山の上の送電線の鉄塔で作業をしているようでした。そして、この鳥居のある神社が青渭神社です。この神社は、御祭神は大国主命で、創建年代等は不詳ながら、崇神天皇の御代の創建と伝えられ、惣岳山頂近くにある真名井と称する霊泉(別名青渭の井)から社名が起ったといい、延喜式神名帳所載の青渭神社は当社だといいます。源経基をはじめとして三田、北条、徳川と厚く崇敬を受け、明治6年郷社に列格していました。だそうです。手水舎には柄杓がなく、この水で直接、清めるみたいです。新型コロナウィルスの予防対策ですね。社叢に囲まれた拝殿です。扁額の文字も青い色で書かれていました。参拝を終わって、山を下っていくと、こんな看板が。そして、これ。工事用の資材運搬をするモノレールです。山の上までレールが敷設されていました。先ほどの山の上の送電線の工事に使われているのでしょう。さらに行くとかんきつ類の果樹園が。これが、有名な沢井ゆず(→→→こちら)。その昔、江戸時代の参勤交代の際、江戸のお殿様に謙譲されていた代物。その香りは天下一品と評価されていたそうです。そして、青梅線の沢井駅が見えてきました。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その5) 青渭神社と沢井ゆず
2020年12月24日
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62020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。 JR青梅線の山側にある道に沿って、御岳の手前の沢井に向かって歩いていきます。 石仏がいくつか置かれていました。 きれいに植林されていました。 森林再生事業と書かれた看板が、山があって森があるから、多摩川の水も枯れることなく流れているので、森林を守ることは大切でしょうね。 途中にみかけた、これは山での作業用のモノレールですね。 コスモスが咲いていました、秋桜ですね。 花びらが整然とバランスよく並んでいるので、コスモス(cosmos)という「秩序と調和の表われとしての宇宙」いう意味の名前がつけられたのでしょうね。 鉄道沿いの道なので、また撮り鉄気取りの一枚です。 ここは橋です。 青渭(あおい)橋という名前の橋でした。 「渭(い)」というのは川の名前の意味で、中国の甘粛省に源を発し、陝西省をほとんどまっすぐに東に流れ、洛水などをあわせて、陝西・山西・河南三省の境を接する地点で黄河に合流する渭水(いすい)という川のことです。 【つづく】 人気ブログランキングへ 御岳渓谷を歩く(その4) 森林再生事業とコスモス
2020年12月23日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。東京都交通局の多摩川第三発電所を過ぎると、この心細くなる山道を進みます。そして、この神路橋(かみじばし)という吊り橋を渡って、多摩川の左岸へ。橋の上から上流側をみると、魚釣りをしている人たちが、こちらは奥多摩フィッシングセンター(→→→こちら)があるのですね。下流側に見えたのは、先ほど見た多摩川第三発電所の施設が見えます。これが神路橋の全景です。神路橋を渡って左岸側に出ると青梅街道、このあたりは国道411号線です。この道は奥多摩湖あたりから「大菩薩ライン」と名前を変えるようですね。この青梅街道に並行するJRの青梅線です。丁度、奥多摩行の列車が走ってきたので、撮り鉄気取りで撮影しました。しかし、東京都でもこんな山深いところがあったのですね。東京都民として通算11年。東京にもこんなところがあるとは想像もしていませんでした。山の斜面は、コンクリートでおおわれていました。のり枠工と呼ばれる斜面を安定させる工事だそうですが、ワッフルを連想させる構造物ですね。【つづく】追伸:「杣」は「そま」と読みます。人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その3) 巨大なワッフル
2020年12月22日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。御岳渓谷で、カヌーというかカヤックというのかの練習をしている人たちです。「杣の小橋」を渡って、多摩川の右岸に出ます。(ちなみに右岸とは川下け向かって立った時に右側ある方のことですね)また、杣というのは木を植えて木材をとる山を指すそうで、それに従事する人を杣、または杣人と言い、採れた材木も杣、または杣木と言うそうですね。国語の試験に出そうなので覚えておきます。その「杣の小橋」の下には、ラフティングのゴムボートがあり。カヤックで急流と格闘している人も見えました。杣の小橋の下流側です。こちらは流れが緩やかですね。杣の小橋を渡り、右岸側を上流に向かって歩いて行くと、こんな施設がありました。東京都交通局発電事務所多摩川第三発電所(→→→こちら)です。二酸化炭素などの温暖化ガスを排出することがなく、水の循環サイクルによって再生可能な、自然の恵みを最大限活かした環境にやさしいクリーンエネルギーです。SDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標))ですね。東京都交通局というと都営地下鉄、都バスを思い浮かべますが、明治44年(1911)に交通局の前身である東京市電気局が発足し、東京市の路面電車を運営していた東京鉄道株式会社を買収した時に、引き継いだ3か所の火力発電所(品川、深川及び渋谷)の運営を開始したことに始まる発電の歴史も持っているそうです。こちらは、かつて発電所で使われていた水車と弁を展示していました。水車は多摩川第一発電所(→→→こちら)で使われていたもので、弁の方は多摩川第三発電所で使われていたそうです。平成19年に50周年を迎えたということは、交通局の水力発電事業は昭和32年(1957)から始まったわけですね。この鉄管は、上流にある白丸調整池ダム(→→→こちら)からこの第三発電所まで水を送っています。ちなみに、多摩川の上流には4カ所の水力発電所があって、交通局が運営しているのは、小河内ダムの直下流にある多摩川第一発電所、白丸調整池ダムにある白丸発電所、そしてこの多摩川第三発電所です。平成12年(2000)に完成した白丸発電所は、周辺の環境に配慮して、その大部分が地下に設置されています。そして、多摩川第一発電所と白丸発電所の中間にある氷川発電所です。実はこの発電所が一番古く昭和6年(1931)から水力発電を行っています。今は、昭和32年(1957)に完成した小河内ダム直下から導水路と経て氷川調整池に送られた水を使って発電しています。ところで、第一と第三があるのに多摩川第二発電所がないと思われますが、氷川発電所を東京都が買収して多摩川第二発電所となる予定だったのが、水利権の関係で東京電力の施設のままになっていたとか、さらに平成19年に、東京電力から子会社の東京発電株式会社に譲渡されています。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その2) 東京都交通局多摩川第三発電所
2020年12月21日
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。中央線に乗って、立川を経由して、やってきたのは青梅。はじめてやって来ました。そこからさらに奥多摩行に乗り換えて、そして、ここ御嶽(みたけ)駅で電車を降りました。御嶽駅周辺の観光地です。風格のある木造建築の駅舎。さすが御岳山にある武蔵御嶽神社へお参りするための最寄り駅という感じですね。駅名の看板も凝った字体の筆文字で、雰囲気ですね。御嶽駅を出て、少し青梅街道沿いに東に行ったところにあるのが、御岳山登山ケーブルの駅に向かうバス乗り場。多くの人が御岳山に向かうために並んでいました。MoMo太郎はそのバス停を過ぎて、多摩川沿いに延びる御岳渓谷にやって来ました。石碑には「名水百選 御岳渓流」(→→→こちら)と刻まれていました。御岳渓谷を流れる多摩川の流れ、ここは急流ですね。広い河原です。多摩川の上流に向かって御岳橋の下をくぐって行きます。一級河川、多摩川、海からは71kmの地点です。泡立つ多摩川の奔流を見ながら、さらに上流に向かって歩きます。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その1) 海から71km
2020年12月19日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。地蔵坂の交差点を左折します。左折した道。この道は「骨董通り」と呼ばれています。この狭い道に路線バスが走っています。建物が骨董品というわけではなく、売っている商品が骨董品なんです。こんな感じのお店があります。そして、この店では、ペルシャ絨毯を扱っているみたいでした。この交差点をまた左折です。駅前の商店街になりました。ゴールの西荻窪駅に到着しました。JR東日本が開催する「駅からハイキング」。知らなかった東京に出会えたようで楽しめました。また、機会を見て参加したいと思いました。それから、東京に限らず、JR東日本の路線がある、青森県でも、千葉県でも、開催されているようですから、一度参加されてみてはいかがでしょうか。【了】追伸:ビリケンさんは「万事あるがままの神」です。昨日紹介した地蔵坂の「縁結び童子」について、大阪のビリケンさんに似ているとのコメントをいただきましたが、確かに顔つきは、尖った頭と吊り上がった目という点で似ていますが、大きな違いは、ビリケンさんは足を投げ出して牛の裏をみせた座り方をしていないといけませんが、「縁結び童子」はお行儀よく正座しています。ビリケンさんの足の裏を撫でるとご利益があるといわれていますが、縁結び童子の足の裏は撫でられないので、ビリケンさんとは全く別の神様だと思われます。ちなみに、ビリケンさんは通天閣公認のビリケンさんキャラクターなので、勝手に真似ると通天閣から商標の侵害などで訴えられるかも。そして、ビリケンさんの台座には「THE GOD OF THINGS AS THEY OUGHT TO BE」(万事あるがままの神)と書かれているので、縁結び以外の願い事もかなえてくれそうな神様なんですね。人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その20) 骨董通り
2020年11月27日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。女子大通りに沿って、荻窪中学がありました。荻窪駅からは遠いけど、荻窪中学なんですね。女子大通りと思っていましたが、この坂道は地蔵坂(→→→こちら)と呼ばれているんですね。さすが、地蔵坂。お地蔵さまが。と思ったら、「縁結び童子」という神様(?)でした。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その19) 地蔵坂
2020年11月26日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺池から水が流れ出しているところです。出てくる水が少ないのか、水路の底に狭い水路を造ってあり、そこを流しています。水深がそこそこあるので、魚も泳げるようにしているのでしょうね。途中から水路の幅が広がっています。勾配が緩くなっているのでしょうか。善福寺川に屋根がついている区間がありました。丁度、井荻小学校の敷地が川を挟んで建っているところにこの屋根がついています。善福寺川、住宅街の間を下流に向かって流れて行きますが、ここで今度は川から離れて、一旦、東に向かって、この緩やかな坂を登って行きます。この坂道の先に東京女子大があるので「女子大通り」(→→→こちら)と呼ばれています。駅からハイキングのコースは、果たして、東京女子大に立ち寄るのでしょうか?【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その18) 善福寺川に沿って歩きます
2020年11月25日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 善福寺公園の生い立ちを解説した説明板がありました。看板の解説を引用してみました。福寺公園の生い立ち この公園は、多摩川が東京湾に流入して形づくられた隆起扇状地で、武蔵野台地の一部をしめております。標高約50メートル、西側はほぼ平坦な台地で東側は、石神井川・妙正寺川並びに神田川などが流れ、起伏に富んだ丘陵になっています。 また善福寺池は、三宝寺池・妙正寺池並びに井の頭池と共に武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺からの湧水によってできた池である点が、共通の大きな特徴となっています。なお善福寺の名称については、昔丘の西側に善福寺・万福寺の二寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれています。 ここは、交通の便にめぐまれなかったため、自然の景観がよく保存されていました。その後、周囲の住宅化や近代施設の接地などによって、この風致を保存するために、昭和五年十月都市計画法によって風致地区に指定してこの区域では、建築物その他工作物の築造、土地の形質変更、樹木等・土石の採取、あるいは風致維持に影響ある行為を制限することにしました。その後昭和三十二年に東京都市計画公園として決定され、その一部が昭和三十六年六月東京都善福寺として開園し現在に至っています。 公園の東側、「下の池」の方へ向かいます。 園内の鬱蒼とした雑木林は、かっての武蔵野と呼ばれたこのあたりの面影でしょうか。 上の池と下の池を結ぶ水路を水遊びができるような「遅野井川親水施設」と呼ばれる場所を杉並区が整備したそうです。川岸の勾配が緩くなっていて、水の中に入り易くなっています。それゆえ、水に親しむことができる「親水施設」なのでしょうね。 そして、遅野井の湧水を水源としていた善福寺川は、かつて「遅野井川」と呼ばれていたことから、「遅野井川親水施設」と命名されたそうです。しかし「遅野井川親水施設」とは、ちよっとお役所らしい角張った名前ですね。 池の周りには、野鳥を撮影するカメラ愛好家の方がよく来るようですね。 下の池はアシなどの水生植物でかなりの面積が覆われていました。 善福寺川に流れ出る池の下流側はスイレンに覆われていました。花が咲く頃は綺麗でしょうね。 そのスイレンの繁茂しているあたりにダイサギが佇んでいました。 この堰になっているところから下流側が善福寺川となっています。 そして、堰のある付近では、真鯉がゆったりと泳いでいました。 【つづく】 人気ブログランキングへ 善福寺川ウォーク(その17) 善福寺川はむかし遅野井川でした
2020年11月24日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺池は武蔵野台地から湧水池だそうですが、「上の池」の畔に小さな滝がありました。「遅野井(おそのい)の滝」と呼ばれています。滝の近くにあった説明です。源頼朝が奥州征伐の帰路この地に立ち寄った際、この地で飲料水を求めたが、折からの干ばつでなかなか水が出ず、頼朝が弁才天に祈り、自ら弓の筈(はず)で土を7か所掘ると、しばらくしてその7か所に水が湧き出たそうです。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅の井」と命名されたというわけです。傍らには「遅の井」と刻まれたちょっと古びた石碑がありました。こちらは黒御影石が使われた新しい石碑も建立されていました。ちなみに、現在は泉が涸れてしまったので、新たに井戸を掘り、ポンプで汲みあげて遅の井の滝として復元しているそうです。遅野井の滝の向かい側あった善福寺池にある小島には、社がありました。昔は橋が架かっていたような痕跡がありましたが、今はないのでお参りはできませんね。市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)というそうです。源頼朝が奥州合戦の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけた時に、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事に倣って、建久8年(1197年)に江ノ島弁財天を勧請したのが当社の始まりであると伝えられています。善福寺公園の周辺はベンチやテーブルが整備されて、ちょっとしたピクニックにいいですね。また、こんな銅像もありました。内田秀五郎という方の銅像です。この内田秀五郎は旧井荻町の長で、現在の井荻界隈に影響を与えた政策をいくつも立案し、地域発展に貢献したということです。上の池のバス通りにあった自動販売機、「おそ乃井」と屋号が書いてあるテントがありました。遅野井の故事にちなむ、古くからあるお店があったのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その16) 遅の井(おそのい)
2020年11月23日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。井草八幡宮のわきにあるこの道を抜けて、小学校の横を通ります。桃井第四小学校だそうです。このあたり善福寺という地名なのに「桃井」という校名なのはちょっと不思議です。近頃、みかけなくなっていた、二宮金次郎の石像がありました。善福寺公園前のバス停に到着です。善福寺公園は善福寺池を中心にした公園です。池は「上の池」と「下の池」に分かれています。まず西側の「上の池」の周りを歩くことにしました。ここは池のボート乗り場です。池の水は、かつては神田上水の補助水源として利用されたほど澄んでおり、湧水量も多かったそうです。井の頭池(井の頭恩賜公園)・三宝寺池(石神井公園)と並び武蔵野三大湧水池として知られ ていました。また善福寺池の名称は、昔、この湖畔付近にあった寺の名からとったと伝えられています。ここからすこし離れたところに善福寺というお寺がありますが、このお寺は昭和17年(1942)に善福寺に改称したそうです(→→→こちら)。さて、湖畔にあった、この建物は、善福寺公園サービスセンターです。公園の施設を使いたい時などに申し込みを受け付けてくれるようです。この足で漕ぐダイブのボート、サイクルボートというそうですね。広々とした池でのんびりとボートで遊ぶって楽しそうですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その15) 善福寺公園「上の池」
2020年11月22日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。再び住宅街の道を歩いて、善福寺1丁目の交差点にやって来ました。また、青梅街道です。青梅街道沿いに、大きな赤い鳥居が、ここが井草八幡宮(→→→こちら)です。木立に囲まれた広い参道を進んでいくと、赤い楼門が見えてきました。井草八幡宮の由緒が紹介されています。創建当時、春日社をお祀りしていたそうですが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際にここに立ち寄り、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来以来八幡宮を名乗っているそうです。こちらが境内の案内図です。やはり都内でも有数の広大な社叢を誇る神社ですね。この松は「頼朝公お手植えの松」と呼ばれています。奥州征伐の際に立ち寄り戦勝祈願し、報賽として2本の松を植えたと伝えられています。現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまったそうです。子供会のみなさんがお囃子の練習をしていました。この回廊の中に拝殿、本殿があります。これは「七五三((しちごさん)」と読みますが、名字で七五三掛(めししめかけ)さんという人がいますね(→→→こちら)。こちらが拝殿です。見事な金文字の扁額でした。お参りを済ませると、北参道に向かいました。北参道にある大灯籠(だいとうろう)です。本当に大きい灯篭ですね。北参道を出ると青梅街道と早稲田通りの交差点に出ます次は、いよいよ善福寺公園に向かっていきます。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その14) 井草八幡宮
2020年11月21日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。青梅街道にやって来ました。青梅街道、日曜日だったのですが、かなりの交通量ですね。そして、次の目的地に到着しました。杉並区立桃井原っぱ公園(→→→こちら)です。面積40,000平方メートルの広い公園。以前は日産自動車荻窪工場でしたが平成10年(1998)に移転した跡地を平成23年(2011)に公園として開園したそうです。ちなみに、日産自動車の工場になる以前は、中島飛行機株式会社東京工場としてゼロ戦のエンジンなどを製造していたそうです。この公園にも手押しポンプの井戸がありました。結構、家族連れで遊びに来ている人たちが多いようで、園内には綿あめの移動販売車や、クレープ屋さんなどが店を開いていました。今日はみなさん売り上げが立ったでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その13) 桃井原っぱ公園
2020年11月20日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。「東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム」の向かい側にあるのが、この荻窪八幡神社です。境内にあったこの胸像。有名な人かと思ったら、この神社の宮司だった小俣金治氏のものでした。神社の宮司さんって世襲が多いので、小俣家は代々この神社の宮司さんなんでしょうね。こちらが二の鳥居。その隣の小さな円の穴があいた門。祓門というそうです。夏越の大祓や年越の大祓でくぐる茅の輪のように、くぐると穢れを祓ってくれる門のようです。こちらが神門となります。神門を抜けて、こちらが拝殿となります。文明9年(1477)江戸城主であった太田道灌が、上杉定正の命をうけ石神井城主・豊島泰経を攻める際に、この神社に武運を祈願した時に植えた高野槇です。「道灌槇」として、御神木として崇められているそうです。この小さな鳥居が、善福寺川に架かる社橋から見えたもので、荻窪八幡神社の南の参道の入口になります。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その12) 荻窪八幡神社
2020年11月19日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。さて、善福寺川から離れて北に向います。青梅街道の手前までやって来ました。善福寺川ウォークの次の見学ポイントは、東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム。この建物の中にあります。でもこの建物、むかし結婚式場なんかあった「杉並会館(→→→こちら)」では?どうやら、ネーミングライツの導入で、「東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム」となったそうです。この、杉並アニメーションミュージアムは、日本のアニメの歴史やアニメ制作の過程を直接体験できる施設で、入場無料です。アニメ好きな人にはいいところかも。そして、東京工芸大学、アニメの仕事に携わりたい人にはいい大学かもしれないですね。建物の内部の壁です。陶壁と呼ばれるもので、陶芸家の會田雄亮(1913-2015)(→→→こちら)の作品だそうです。区立の施設にしては重厚な内装ですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その11) 杉並会館
2020年11月18日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。さて、荻外荘公園から折り返して、この小さな児童遊園を抜けて、今度は善福寺川を上流に向かって歩いて行きます。歩道まではみ出してきた桜の木の下を潜ります。そこで振り返ってみると、大きな看板が。ゆたかな、夢をそだてるチャイルド社(→→→こちら)です。保育用教材や書籍を販売する会社のようです。普通の住宅街の中に本社を持っているのは意外な感じでした。こどもの夢を育てるためには、都会の真ん中ではなく、こういう閑静な住宅街がいいのかもしれませんね。また、川沿いには、庭に柿の木があるお宅もありました。この柿の収穫されるんでしょうか。こちらのお宅なんか、木も大きく育って、随分高いところにまで柿の実がなっていて、取るのは大変そうです。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その10) ゆたかな、夢をそだてる。そして柿の木も
2020年11月17日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。このあたり、大きな家屋敷が並んでいる割には、道が狭いです。多分、第二次世界大戦の時に空襲で焼けなかったので、むかしの区画のまま残ったせいなんでしょうね。戦災や震災で焼け野原になっていたら、江東区や墨田区のように、区画が整理されて道も広くなってこういう狭い道はなかったかもしれませんね。町中、いたるところでポスターが貼られていました。都議会議員の方です。化粧品の宣伝ではありません。そんな細い道の住宅街を抜けて、広々とした芝生の広場に出ました。芝生の広場の真ん中にあった井戸の手押しポンプです。災害の時、水が確保されているというのは安心できるかもしれませんね。水が枯れていないでちゃんと出ればの話ですが。広場の北側には、建物があります。ここが国指定史跡 荻外荘(てきがいそう)(近衛文麿旧宅)(→→→こちら)です。荻外荘は、昭和戦前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の別邸だったそうで、近衛文麿という人物、 1945年12月16日にこの荻外荘で服毒自殺したそうです。石柱も建立されています。説明板には荻外荘の来歴が詳しく書いてありました。2012年(平成24年)、永らく荻外荘に居住していた所有者で近衛の次男・通隆氏が逝去したことから、地元の町会長の連名で要望書が区に提出され、2013年2月、杉並区は荻外荘を買い取ることを明らかにしたそうです。そして、2014年に買い取られて2015年3月に敷地の一部が荻外荘公園として整備・公開されましたそうです。しかし、改めて建物を見ると、古い日本家屋だなとは思いますが、文化財的な価値は・・・・?「荻外荘(てきがいそう)」は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所ということで、国の史跡として指定されたのだとか。マンホールの蓋はちょっと凝ったデザインになっていました。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その9) 国指定史跡 荻外荘
2020年11月16日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 次に訪れたのは、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」(→→→こちら)です。 こちらも入園料は無料。この中を入って行くと、 こちらの「幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」の入口に着きます。 こちらは、日本文学研究者で角川書店の創立者である角川源義の自邸を整備し、2009年(平成21年)5月10日に開園した公園です。 この建物は、幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は旧角川源義宅で、旧書斎が展示室とされて、角川源義にゆかりのある品や俳句などが展示されていました。また、詩歌室、茶室が設けられているそうです。 こちらが茶室となっていますが、マスクをしてお茶を点てるという、コロナ時代にふさわしい茶会となっているようでした。 【つづく】 人気ブログランキングへ 追伸:お詫びと訂正 昨日の投稿で、「荻」と書くところを「萩」と書いてしまい、また、「荻」はススキに似た植物で花札でイノシシと一緒に描かれている「萩」とは別の植物だそうです。ここで訂正させていただくとともに、全国の「荻野目慶子」ファン、並びに「荻野目洋子」ファンの皆さん、そして「萩本欽一」さんに、謹んでお詫びをさせていただきます。 善福寺川ウォーク(その8) 角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)
2020年11月15日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。ハイキングコースのポイントになる「杉並区立太田黒公園」(→→→こちら)です。立派な石柱が建立されています。この公園、入園料は無料です。無料といいながら、みごとな公園で、正門からつづく見事なイチョウ並木。ギンナンの独特な香りがします。この木戸をくぐると、日本庭園が広がっています。日本庭園には欠かせない池ですね。錦鯉も欠かせないアイテムですね。こちらは記念館。この公園の所有者だった太田黒元雄氏のアトリエだった建物だそうです。太田黒公園の由来が書いてありました。この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年10月1日に開園したものです。大田黒氏は、86歳で逝去されるまで47年間余りにわたって、この地で音楽活動を続けられ晩年を過ごされました。この公園の約30%に当たる2,679.63㎡は公園にしてほしいとの氏の遺志により、ご遺族から杉並区に寄付されたものです。公園化に際し、できる限り原形保存を図り従前からあった池の再現をしました。園内には樹齢100年を超えるイチョウ並木を始め、ケヤキ、アカマツ、シイノキなどの巨木がうっそうと茂っています。また、数寄屋造りの茶室、民家の土間を思わせるような休憩室のほかに、氏の仕事部屋であったレンガ色の記念館が保存されています。記念館は、昭和8年に建築されたもので当時としては珍しい西洋風の建築物です。室内には生前氏が愛用されていたスタインウェイ社製のピアノや蓄音機などが残されています。つまり、元の持ち主だった太田黒元雄氏(→→→こちら)は、こういうお家を維持できるほどお金持ちだったのが、残されたご遺族はそれほどのお金もなく、建物と敷地を杉並区に寄付したということなんでしょうか。こちらは茶室だった建物で、管理事務所も兼ねているようです。この茶室の中から見える「萩」の木が見えるそうです。花はもう終わっていました。この公園、春夏秋冬楽しめそうでいいですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その7) 太田黒公園
2020年11月14日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川に沿って下流側に向かって歩いてきて、春日橋を渡ります。ここで善福寺川と別れて、荻窪の住宅街の中に入って行きます。緩い坂道となったこの道を荻窪駅の方に向かって歩きます。この道、「荻外荘(てきがいそう)通り」と呼ばれているみたいです。このような立派なお屋敷が立ち並ぶ通りです。駅からハイキングのコースなので、こういう公園で、トイレを利用できるように配慮されています。荻窪つどい公園という名前の公園です。この公園、昭和23年から平成28まで東京フリーメゾジスト杉並中部教会がありましたが、教会の解散に伴い遺族の方から土地が杉並区に寄贈されて開設された公園だそうです。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その6) 荻外荘通り
2020年11月13日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。大きな電波塔が見えました。この会社のものでした。こちらの排水口にハトが集まっています。この排水口はハトの巣になっているのでしょうか。この橋。さかいばし(界橋)というそうです。昔の地名の上荻窪村と下荻窪村の境だったのでしょうか。ここにも水位監視の施設がありました。この橋は荻窪橋、上を走っている道は環状八号線です。この歩道橋を渡りました。環状八号線(→→→こちら)です。日曜日なので交通量は少ないのでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その5) 環八を渡ります
2020年11月12日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川は一級河川です。一級というとなんとなく重要な川って感じですね。重要な河川ですから、こういう施設がありました。河川の水位を測定して、水位が上昇して危険なレベルになりそうになると、このスピーカーから「とっとと避難しなさい」と放送されるのでしょうね。水位を測定している施設は手前にあります。測定機械で測定しているほか、標尺も備えて、機械が故障しても目視できるようになっていました。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その4) 一級河川善福寺川
2020年11月11日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川、住宅街の中をくねくねと蛇行しながら流れています。小さな公園がありました。手入れの行き届いた花壇ですね。そして井戸水の手押しポンプもありました。周辺の案内図も整備されていました。そして、川は中央線の鉄橋の下をくぐっていきます。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その3) 手押しポンプ
2020年11月10日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川沿いの細い歩道を歩いて行きます。社橋という橋です。善福寺川水源から2.5kmの地点になります。社橋の「社」とは、この橋の北に位置する荻窪八幡神社のことです。八幡神社の境内からまっすぐ南へ伸びる道が、この橋の上を通っています。道の彼方に荻窪八幡神社の鳥居が見えますね。善福寺川には水鳥がよく遊んでいます。白鷺と呼んでいますが、シラサギという種はおらず、白いサギ類の総称を意味しているんだとか、これはダイサギでしょうね。サギの仲間って、ジッとしていることが多く写真は撮影しやすいですね。別に写真撮影のためにポーズをとっているのではなく、本当はこの姿勢で川の中の魚を狙っているのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その2) 社橋
2020年11月09日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 JR東日本のイベントだけに出発は、中央線の西荻窪駅です。 受付です。参加者はやっぱり足腰を鍛えたい暇な中高年が多いですね。ギャルはいなくて10年後が楽しみなギャル候補生が家族に連れられて参加しているのをたまに見かける程度です。 駅を出で西荻北銀座を北に向かって歩きます。 街路樹があって、なかなかいい雰囲気の道でした。 橋にさしかかりました。 善福寺川に架かる関根橋という橋です。関根は、荻窪八幡神社の神官の屋号と言われています。 ここから善福寺川を下流に向かって歩き出します。 【つづく】 人気ブログランキングへ 善福寺川ウォーク(その1) 西荻北銀座
2020年11月08日
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夜明ダムです。このダムは九州電力が所有する水力発電専用のダムです。このダムの貯水池には、二ヵ所の取水口がありました。下流側にあるのは、この近代的な取水口です。近くに行って撮影してみました。耳納山麓地区への取水口だそうです(→→→こちら)そして、このやや古いタイプは、袋野用水の取水口です。袋野用水とは、寛文 13 年(1673)にうきは市北西部の荒野に筑後川の水を引き、田畑を潤そうとうきは市吉井町の大庄屋田代重栄(たしろしげよし)と重仍(しげより)親子が私財を投じ、完成させた施設です。袋野堰と袋野隧道(=トンネル)があることで知られています。この袋野隧道は全長2kmに及ぶかんがい用の水路トンネルだそうで、このように今も使われており、3年に1度、トンネルの中を見学できるそうです。(→→→こちら)元々の袋野堰は、この位置ではなく、この上流にあったようです。詳しくは、この動画で確認して下さい。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その38) 袋野堰
2019年03月16日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。久留米藩は尾張国出身の土木技術者丹羽頼母重次を普請奉行として招き、河岸防護を目的とした荒籠(「あらこ」と読むそうです)を築造しました。下流側から撮影した下の写真では、筑後川に向かって石積みが飛び出しているだけに見えますが、上流からみると、川岸から川の中央に向かって張り出し、水の流れに沿って湾曲していることがわかります。もともとは洪水の勢いのある流れが堤防に当たるのを和らげるためりものたですが、流速緩漫な下流の水深維持と流路の固定にも役立ったそうです。それだけ江戸時代には筑後川の水運が重要だったのでしょうね。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキング筑後川を行く(その37) 荒籠(あらこ)
2019年03月15日
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八女市立花町の矢部川左岸にある千間土居公園を訪れました。千間土居は、1695年(元禄8年)に現在の立花町の矢部川左岸に八女市立花町北山地区からみやま市瀬高町中ノ島にかけて築かれた約2.3kmの堤防です。現地にはこのような石碑がありました。千間土居築堤300周年記念碑でした。この堤防の工事を指揮したのは、柳河藩普請奉行田尻惣助・惣馬親子だそうです。柳川藩に元禄5年(1692)御書院番に登用された田尻惣助・惣馬親子は、父惣助が普譜役で、千間土居の築堤に従事し、子の惣馬が助手役となり元禄8年(1695)完成したそうです。この石積みは「水刎(みずはね)」と呼ばれるもので、矢部川の勢いのある水流が堤防に向かってくるのを対岸側の久留米藩に向かって水勢をはねだす仕掛けだそうで、これは対岸の久留米藩も作っていたそうです。さらに、水防林として、堤防に楠木を植えて、洪水の被害から地域を守ってきたそうです。現在およそ樹齢300年を越すクスの大木が約300本林立し、森林浴にはぴったりですね。人気ブログランキング千間土居(せんげんどい)
2019年03月14日
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沖端川(おきのはたがわ)は、一級河川矢部川からの分派点を上流端として、みやま市、筑後市、柳川市を流下し有明海に注ぐ流域面積26.7平方キロメートル、幹川流路延長14.2キロメートルの河川です。その起点となる松原堰です。一級河川にある堰なので、国土交通省の管理所が堰の傍にあります。この赤い欄干の橋は「きずな橋」という名前だそうです。橋の親柱には「沖端川」の銘板がありました。この沖端川を通じて柳川市の川下りをする水路に水を送っています。こちらは柳川市内の川下りのどんこ舟です。舟に乗っての結婚式をされている方もいました。人気ブログランキングへ沖端川の起点、松原堰
2019年01月24日
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八女市を流れる星野川です。この川から分水されて筑後川に向かって流れる山ノ井川という半ば人工的な河川があります。ここに見える赤い水門が、その山ノ井川の始点になる山ノ井堰です。そして、こちらのれが山ノ井川です。ここではまだ河川というより、人工的な水路っていうイメージですね。中島内蔵助翁の記念碑です。この中島内蔵助が山ノ井堰を作るのに大いに貢献したそうです。中島内蔵助、は江戸時代の吉田村庄屋です。山ノ井川井堰が洪水のたびに決壊するので、農作物が被害を受け人々は苦しんでいました。そこで水神の怒りを静めるために草履の緒が左結びの者を人柱に立てることになりました。翌日内蔵助は自ら左結びの草履をはいて人柱に選ばれ、濁流怒濤の堰の一角に水神の加護を祈りながら身を沈めました。以後堰が決壊することはなく、内臓助の功績を賛えて、山ノ井水系では長峰地区が1番に水を引いて田植をするようになりました。こちらは水天宮です。水に縁のある神様なんでしょうね。人気ブログランキングへ山ノ井堰
2019年01月23日
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久留米市に津福という地区があります。そこにある水路、多分、水田に灌漑するための用水路、があります。周辺の土地よりも盛土されて高くなったところを流れているようです。今は冬なので水を流す必要が無いので、水路は空っぽです。水路の端はパイプでさらに流れるようになっていて、この斜面の下に向かって流れているようですが、しかし、゜この道路の下を流れているようで、これはいわゆる「伏せ越し」とか「逆サイフォン(→→→こちらです)」と呼ばれる形式になっているようです。この仕組みは「ベルヌーイの定理(→→→こちらです)の応用です。久大線のところまで続いています。水路は線路の下を逆サイフォンになって流れているようです。この水路、まだ続きます。ここからまたも逆サイフォン。家と家の間を流れ、まだ、このあたり水田がありますね。そして、またも逆サイフォン。さらに追いかけて行くと、こんなところに出てました。でも、まだ、♪水路は続くよどこまでも。道路の側溝みたいですが、用水路の続きです。ちょっと幅が広くなっています。そして、盛土の上をまた流れます。ここでさらに逆サイフォンになって、また続いているのでしょうか?この川は金丸川で、この先は住宅街です。対岸から見ると、ここで終わって、金丸川に流しているのでしょうかね。水色の線が、今回歩いた道筋です。人気ブログランキングへ逆サイフォン
2018年12月20日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川中流域で、有名なかんがい施設と言えば、この朝倉三連水車ですね。山田堰で取水された筑後川の水は、この堀川用水路をながれ、この水車でくみ上げられて周辺の農地を潤します。220年以上の歴史を刻む三連水車は、毎分6000リットル以上もの水を供給。下流にある2基の二連水車とともに、筑後流域に広がる合計約35ヘクタールの水田を潤しています。この三連水車は菱野の三連水車と呼ばれています。水車でくみ上げられた水は、このマスの中に流れ込み。地面の下にある導水管を通って、サイフォンの原理で田畑へ流れて行きます。こちらは、三連水車の下流にある三島二連水車です。さらにその下流にある久重二連水車です。大量の水を、電気も重油も使わず、流水の自然のエネルギーだけでくみ上げています。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その36) 朝倉三連水車
2018年11月22日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。今回は床島堰(とこじまぜき)に行ってきました。床島堰とは、筑後川の中流にある恵利堰、床島堰、佐田堰のことをまとめていいます。しかし、恵利堰というのが、筑後川の本川にあるので、恵利堰と呼んでいることが多いようです。場所は下の地図をみてください。筑後川に桂川と佐田川という二本の支流が流れ込む付近にこの床島堰は作られています。こちらは恵利堰の横あった祠と説明板です。2012年にこの恵利堰ができて300年経ったようです。元々、この堰の建設は、上流にある大石堰ができ水田開発が進んだことに刺激され、ここに堰を建設し干ばつに苦しむこのあたり田畑を救うため、ここでも五人の庄屋、高山六右衛門、秋山新左衛門、鹿毛甚右衛門、中垣清右衛門、そして丸林善左衛門が宝永7年5月(1710年)に久留米藩へ請願したことから始まったそうです。しかし、この床島付近は川幅が広く、また深く、流れは急であり、それに加えて福岡、久留米両藩の境にあって、なかなか着手されなかったことに加え、福岡領の村民は、筑後川に堰を設け床島に水門を設ければ、洪水時には、当地は水没するとして徹底的な抗議のみならず工事の妨害も行った。とはいえ、久留米藩士、草野又六が普請総裁として堰の建設を行い、1714年(正徳4年)堰は完成し2000haの水田が潤ったそうです。こちらは対岸の耳納連山です。ちなみに、現在の恵利堰は、昭和28年の大出水により災害を被り、昭和40年3月に復旧したものだそうです。そして、これが現在の恵利堰です。下流側からみると堰の様子がよくわかります。堰の横にあるこの水路は、魚道といって魚が堰に遮られることなく上流と下流を行き来できるようにしたものでしょう。恵利堰の少し上流にある水の取り入れ口です。この取り入れ口からの水路です。なかなか広い水路ですね。この水路を床島用水と呼ばれています。ここが桂川を横断するところ。水路はいったん、桂川の下を潜るようです。でも江戸時代は普通に平面交差していたんでしょうね。こちらが桂川にある樋門です。この樋門の横には立派な石碑がありました。桂川床島用水魚道完成記念碑だそうです。揮毫は建設大臣、山崎拓でした。こちらは桂川を渡り、佐田川へ向かう水路です。この先にあるのが桂川の下を抜けてきた水路とつながる水門です。そして、こちらが佐田川にある床島用水の水門です。床島用水と佐田川が立体交差しています。左から右に流れているのが佐田川で、水がありませんが、手前の広い水路が床島用水です。川の橋みたいになっています。この神社は、大堰神社という神社で、床島堰起工に貢献した5人の庄屋、鏡村(現福岡県久留米市北野町金島)高山六右衛門、八重亀村(現久留米市北野町八重亀)秋山新左衛門、高島村(現久留米市北野町金島)鹿毛甚右衛門、稲数村(現久留米市北野町稲数)中垣清右衛門、早田村(現久留米市田主丸町八幡)丸林善左衛門、そして、床島堰難工事の普請総裁判(指揮官)にあたった草野又六が奉られています。 筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その35) 床島堰
2018年11月21日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。大石堰の横にある「五庄屋遺跡」。大石堰(水路も含めた施設全体を大石水道)は、五人の庄屋の発願よって江戸期に建設されたました。それを記念する施設です。江戸初期の浮羽地方は、筑後川の沿岸にありながら土地の地盤が高く水利が極めて不便で、お米がとれなかったそうです。そのため、栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五人の庄屋は、筑後川の水をこの大石から取り入れて水田を開くことを計画したそうです。その五人の庄屋を奉る大石水神社がありました。五人の庄屋は、寛文三年(1663)9月にこの大石堰の計画を久留米藩に提出しました。しかしながら水路筋にあたる11カ村から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」と反対運動にあいます。それでも、久留米藩の土木技術者丹羽頼母がこの計画を改めて精査し、藩としてこ大石堰の建設を決定しました。他方で藩は「計画通りに導水できなかったときは5人の庄屋全員を磔の刑にする」と表明しました。5人の庄屋は「成功せず徒労に帰したならば、誅罰を加えて世の見せしめにされたい」と答えました。で大石堰が失敗し、五人の庄屋さんが処刑されたので、神社で慰霊されたわけではありません。工事が始まると、大石堰の現場に5人の磔台が立てられました。しかし、このことで工事に参加する村人のの団結が生み出され。寛文四年(1664)1月、藩営事業として工事が始められ3月中旬に開通。翌年寛文5年に溝幅が拡張され、続いて6年、7年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、延宝2年(1674)難工事の末、大石堰が無事完成しました。今も下流域一帯、約2,000ヘクタールに及ぶ水田地帯を潤しています。この大石堰建設をモデルにしたのが、帚木蓬生の歴史小説『水神』(→→→こちらです)です。五庄屋の偉業を称えた三堰の碑(さんえんのひ)です。ここで言う三堰とは袋野、大石、長野の三堰を指しているそうです。【碑文の紹介】筑後川は諸史にあらわれ、実に天下の大水なり。我が米府の東辺にて河に随って邑するものを、生葉郡となし、其の次を竹野郡となし、又た其の次を山本郡となす、三郡を合して国は総べて称して上郡という。上郡の地は河の近くして水は乏し、農耕は利あらず、民は大に苦しめり。 郡人に夏梅村庄屋次兵衛。清宗村庄屋平右衛門。高田村庄屋助左衛門・今竹村庄屋平左衛門・菅村庄屋作之丞というがあり、皆乞う慷慨にして器幹あり、相謀りでおもえらく、河を堰かば必ず水を得ん、水を得ば貧は憂ゆるに足らずと。 既にして又おもえらく築鑿の事は大難なり、府に請うといえども必ずゆるされざらん、然りといえども、郡は今将に枯滅せんとす、郡が枯滅すれば、死するにしかざるなり、等しく死せば大功に死せんと、議合えり、すなわち血をすすりて相誓い、死を決して将に府に請わんとしたり。 近隣の諸庄屋等之を聞き相奮って身を投じ、其の員に入らんと請いしに、五庄屋はきかずして曰く、後れたり、員は益すべからざるなりと。諸庄屋は皆大に怒り、将に別に上書して以て其の事を阻まんとしたれば、郡中は?々たり。五庄屋は皆吉井大庄屋田代氏の管下に属せり。田代氏の同職なる石井氏は、田代氏と同閭にして相善し、之を聞きて大いに憂之、すなわち二人相共に喩解すること多方にして、和は成りたり。 是に於て寛文初年を以て、五庄屋及び諸庄屋の某々すべて十三人は連署して府にもうして曰く、水来らずば極刑に就かんと、府は大いに之を壮なりとし立どころに其の請いをゆるす。 五庄屋は唱首なるを以て、ために五人の磔具を作り、之を村口に立て、勢は必ず罰せんとするに在りて、以て衆を励ましたり。是に於て衆気は百倍し、急に大堰を大石と長野の二所にたてたるに、水勢は猛く流れ、万派は意の如く、ついに美田一千四百余町を得たり。 府より其の功を賞して、物を賜いしこと差あり。五庄屋を賞するには年税各々二百石を免ぜんことを以てしたるに、皆拝して曰く、水を得んことは小人の素願なるが賞を受くることは欲する所に非ざるなりと、辞して受けざりしかば、人は益々其の義なること 高しとしたり。 其の後八年にして郡に又袋野理の挙あり。袋野は郡の最東の地に在り、田代名は重栄と其の千名は重仍とは相与に久しく河水の別に堰くべぎを相し、十二壬子に上議して府にもうしたれば、府よりゆるされたり。 すなわち堰を獺の瀬に作り、巌をうがつこと千間、匿溝を造りて以て大に水を取りしかば、また美田数百町を得たり。此の堰と大石と長野の堰は、国中にて之を上郡の三大堰と稱せり。三堰とも皆奇功にして雄大、鬼作に非ざれば即ち神造にて、絶えて人力の及ぶ所には非ざるなり。 上郡はもとやせ地なり、寛文は今によりて百六・七十年、上郡が今に至りても、沃土膏壌と稱せらるる者は、三堰にて水を得つつあるを以てなり。上郡の吏民が大に国になすことありたるは、何ぞそれ盛んなるや。袋野には宝暦の碑ありてすでに立てり、大石と長野には未だ立てし石あらず、今年重栄の玄孫なる重陟、及びかの五庄屋の後えい等石を大石壇上に立てんとし、余に碑文を製せんことを請いたり。 銘して曰く。一国の大利を起して、万歳の鴻美を垂れたり、数子の偉功は、水のごとく遠く山のごとくたかし。 文政10年丁亥冬11月 石梁樺島勇七公礼撰 男小助孝継書【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ
2018年10月29日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。うきは市浮羽町の古川地区にある大石堰に行ってきました。筑後川がいったん分流しているところにありますが、左岸側は水が多い時にだけに流れるようになっていました。これが大石堰です。対岸は、朝倉市杷木地区です。元々は江戸時代初期寛文4年(1674年)に建設されたものですが、現在の堰は昭和28年災害の復旧として、昭和31年3月完成したそうです。こちらが筑後川からの取り入れ口です。取り入れ口の先端から、水門の方を撮影しました。水門の上の建物は操作室になっているのでしょう。操作室、ちょっとデザインには気を使っているみたいですね。水利使用標識というのがありました。これによると平成25年に許可されて平成35年までの10年間は水を使っていいということですが、平成35年になっても農業は行われているはずなので、これはまた更新されることになるのでしょうね。この水路を流れる水が、筑後川左岸側のおおよそ2,000ヘクタールの農地を潤しているのですね。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その33) 大石堰
2018年10月28日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。小郡市内を流れる筑後川の支流、宝満川です。この宝満川に築かれたこの稲吉堰は、今は改修されて近代的な堰となっていますが、元々は正保4年(1647)に久留米藩の普請奉行、丹波頼母により築かれたものです。この堰の完成により、宝満川沿岸一帯740町歩を開拓し水田とすることができました。そして、丹波頼母はその後、筑後川本流に大石・長野、袋野堰等の取水堰を築堤し、筑後川中流域の新田開発がすすめられたのです。この稲吉堰こそ、その後の筑後川中流域の開発の礎となったものです。丹羽頼母は尾張国丹羽郡の人で、久留米、有馬藩祖有馬豊氏に仕え、元和8年(1622年)36才の時に家禄400石の普請奉行となったそうです。95才で没するまで半世紀にわたって、藩内の治水、利水にその手腕を発揮したといわれています。堰の上で羽ばたく、白鷺。稲吉堰は今のこのあたりの水田を潤しています。ここがカンガイ用水の取水口です。稲吉堰から水で潤される水田。取水樋門の傍にあるニ柱の石碑。こちらは耕地整理を記念する石碑でしょう。石水道改築碑とあるので、水路に関する記念碑でしょうか。宝満川から堤防の下を通って水を取り入れます。こちらが下流側です。ホタルが棲むような清らかな流れなんでしょう。こちらにも石柱が二註あります。板井堰改修記念碑とありました。ちょっと謎ですね。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その32) 稲吉堰
2018年10月27日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川を日田市から大山川に沿って遡り、松原ダム、下筌(しもうけ)ダムを過ぎて、国道387号線を菊池市の方へ行く途中に日田市上津江町(旧上津江村)に差し掛かると、この施設があります。上津江フィッシングパーク(→→→こちらです)。ヤマメ釣りの好スポットして知られる渓流を仕切った釣場でヤマメ・ニジマスなどの渓流釣りが楽しめる場所として人気のあるスポットらしいです。ここにもありました「筑後川源流の碑」。立派な石碑ですね。筑後川源流から143kmの旅というお馴染みの看板もセットですね。ヤマメ釣りのスポットとなっているこの川(川原川)が筑後川の源流のひとつです。この施設のさらに奥に行くと、このような看板が立っていました。「かっぱリンク」とは、筑後川の水に水道水の約3分の1を依存する福岡都市圏、および筑後川流域のボランティア団体が、筑後川の水源地または筑後川流域で植林や森林の手入れi取り組む活動のことです(→→→こちらです)。このあたりで福岡市やその周辺から市民のみなさんがやってきて、植林などを行っているのでしょうね。こちらは日田市の観光案内マップ。日田市って広いですね。この清流の水が有明海まで川を下って行くのですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その31) 上津江フィッシングパーク 筑後川源流の碑
2018年09月30日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。黒川温泉からさらにやまなみハイウェイの方へ向かう途中から、右折して平野台高原展望所に向かいます。ここは、阿蘇五岳が一望出来る絶好のロケーションで、2009年4月1日に「恋人の聖地」として認定を受けたところですが、ここへ来るまで、道がわからず、MoMo太郎、かなり苦労しました。そして、ここにありました「筑後川源流の碑」。その隣には、例のごとく筑後川流域図。九重連山がすぐそこに見えます。このような木造の展望台があって登ることができました。展望台の上から見下ろすと、深い九州の山河一望できました。この山々が九州一の大河、筑後川の源流となるのですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ黒川筑後川を行く(その30) 平野台高原展望所 筑後川源流の碑
2018年09月29日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。阿蘇山の北に位置し、熊本県阿蘇郡南小国町にある黒川温泉にやってきました。正直に言うと、黒川温泉街、道も狭くとても車で回れるようなところではなく、どこかの駐車場(これも狭くて駐車できないことがあるかもしれません)に置いて、歩くか、或いは高速バスで来くることをお勧めします。ここが中心でお土産物などを売っている「風の舎」というところ。一応駐車場がありますが、すぐ満車になります。この隣にある旅館組合の建物です。ここで「入湯手形」を購入すると、ほとんどの旅館にある露天風呂、3カ所まで選んで入浴することができます。つまり、温泉旅館に泊まらなくても日帰り温泉気分で楽しめるということです。温泉街を歩いてみました。こんな狭い道を車ではちょっと無理ですよね。でも元々は鄙びた温泉地だったことが想像できます。田の原川の渓谷の両側にこぢんまりとした和風旅館が建ち並ぶ温泉街です。また温泉街によくあるパチンコ店とかストリップ小屋とかが見あたりません。それはそれで雰囲気がいい温泉街の佇まいを演出していますね。温泉街を流れる田の原川。この川の水もまた筑後川につながっています。川の上に架かった橋です。この橋で対岸の旅館に行くことかできます。なんか渋いデザインの木橋ですね。こちらは黒川温泉の中心地にある「地蔵堂」。ここには、黒川温泉の発祥となる逸話の「身代わり地蔵」に登場する首なし地蔵(首と胴体が分離している地蔵)が祀られています。「身代わり地蔵」とは、瓜を盗んだことで首を刎ねられそうになった男の身代わりになった地蔵さんの首が刎ねられてしった。男はまこの地蔵を景色のよい場所に運ぼうとして、そしてこの地に着いて、ここに奉祀することにした。すると、その岩の裂け目から湯が噴き出てこの黒川温泉になったそうです。(詳しくは、→→→こちらです)【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その29) 黒川温泉
2018年09月28日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川の支流のひとつ「杖立川」を遡って国道442号線を黒川温泉に向かっていく途中、熊本県南小国町に「夫婦滝」という名勝があります。ここにフーテンの寅さんの顔ハメがありました。ここがシリーズ第21作「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」(→→→こちらです)のロケ地になったからのようです。思えば、この「男はつらいよシリーズ」、日本全国を紹介してくれる、地方には有り難い映画だったんですね。そして、夫婦滝というだけあって、ハート形の絵馬が沢山吊るされていました。しかし、この絵馬、いつまでも残されているわけでないでしょうから、誰かが、適宜、片づけているんでしょうね。夫婦滝、二つの川の合流点なんですね。左側が男滝、右側が女滝となるそうです。男滝のアップです。こちらは女滝のアップです。どちらも水量が多くて、見事な滝でした。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その28) 夫婦滝
2018年09月27日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。さて、この花が有名なヒゴタイ(→→→こちら)です。長者原ビジターセンターのタデ湿原の近くで見つけました。こちらが長者原にある「久重登山口長者原ヘルスセンター(→→→こちら)です。阿蘇くじゅう国立公園を訪れる人たちのためのドライブインというところでしょうか。2階には温泉がありますよ。この彫刻が「山のガイド犬」として有名な平治(→→→こちら)の銅像です。こちらは{坊がつる讃歌の碑」(→→→こちらです)。この歌、MoMo太郎が最初に入った職場の上司がカラオケでよく歌っていました。こちらは坊がつる讃歌の説明ですね。こちらはこの石碑建立にお金を出した人の名前です。この石碑除幕式の映像がありました。しかし、「坊がつる」(→→→こちらです)はこちら九重町ではなく、くじゅう連山を超えた西側にある竹田市久住町のことなんですがね。そしてお目当ての筑後川源流の碑が、この坊がつる讃歌の碑の傍にありました。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その27) くじゅう連山 筑後川源流の碑
2018年09月12日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。この山並みが見える飯田高原の長者原(ちょうじゃばる)までやってきました。この山なみが九重連山というそうです。、いくつかの山が集まっています。大分県玖珠郡九重町から竹田市久住町北部にかけて広がる火山群の総称だそうです。また、「九重」(くじゅう、ここのえ)と「久住」(くじゅう)の2通りの表記及び読みが用いられてきたのですが、最近は、混乱を避けるためにひらがなの「くじゅう」を用いられるみたいです。この九重連山も筑後川の源流となります。この谷あたりが源流になるのでしょうか?この道が絶景を走るやまなみハイウェイ(→→→こちら)です。元々は日本道路公団の管理する有料道路別府阿蘇道路でしたが、今は無料の大分県道・熊本県道11号別府一の宮線となっています。やまなみハイウェイ、九州でも屈指のドライブコースとして言われていて、MoMo太郎も、いつか愛車の「フェラーリ」と呼んでいるトヨタ車で全線を走破してみたいと思っています。長者原ビジターセンター(→→→こちら)は、環境省の施設です。駐車場には、結構、車が止まっていました。これが長者原ビジターセンターの建物です。九重(くじゅう)の自然などの様子を、わかりやすく展示をしている施設です。そして、建物の裏には、このような草原が広がっています。ラムサール条約に登録されたタデ原湿原だそうです。タデ原といいながらタデが生えているということでもないようで、こんな植物(タムラソウでしょうか)やお馴染みのススキなどが見られました。湿原ということでこんな小川が流れていました。この水が、有明海に注ぐ九州一の大河、筑後川になっていくのですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その26) 長者原(チョウジャバル)
2018年09月11日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。桂茶屋のそばには、願いが叶う「天狗の滝」というのもありました。「天狗の滝」の滝の由来が書いてありました。しかし、弘法大師というお方、香川県で満濃池を作ったり、全国あちらこちらで色んなことをされていますね。天狗の小さな顔がついた絵馬に願い事を書くようですね。沢山の願い事で、天狗さんも忙しいでしょう。こうなると天狗さんの過労死が心配です。これが天狗の滝です。落差約10m、滝の中段左側辺りの岩が光線の角度によって天狗の顔に見えることから「天狗の滝」というそうです。また、ここには温泉もあるようでした。お湯に浸かりながら紅葉も楽しめるのでしょうか。九酔渓を後にして、県道40号線を飯田高原の方に向かうと、「九重"夢"大吊橋」というのがあります。夢をクォーテーションマークで囲むのが正式な名称のようです。2006年10月30日に開通。高さ173m(水面より)、長さ390mの歩行者専用吊り橋です。、観光名所で九酔渓の紅葉を楽しんだりするにはいいのかもしれませんが、入場料500円を払う気にはなれなかったです。ちなみに、九重町では、この夢大吊橋からの収益金の一部を使って、子供の医療費補助などを拡充しているそうです。そこまでやるなら、ついでにカジノも作れは住民福祉がもっと向上するかも。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その25) 天狗の滝と九重"夢"大吊橋
2018年09月10日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川水系の玖珠川と鳴子川の合流地点にある九酔渓(きゅうすいけい)に行ってきました。紅葉の名所ということですが、去年の10月初頭に訪れましたので、まだ紅葉は見られませんでした。でも、高低差は約200メートルにおよぶV字谷が約2kmにわたって続き、紅葉がなくてもこの景観だけでも見にきた価値があります。川の中には砂防ダムが見えました。ここに来るには、大分自動車道九重ICから、国道210号、県道40号を走り、十三曲がりと言われる急カーブの続く道をドライブしてきました。そしてこの「桂茶屋」につくと、ここの駐車場からは渓谷を一望できます。なかなか、趣のあるお店ですね。お土産物はもちろん、食事もできます。メニューは蕎麦、うどん、カレーライスなどですが、ヤマメの塩焼きもありました。この水車も雰囲気の演出でしょうかね。トウモロコシも干してあって、山の中の茶屋というイメージがするお店でした。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その24) 九酔渓
2018年09月08日
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