「改撰江戸志」には、この塚について地元の説に「大塚通の南裏、小普請神尾豊後守組森川鉾太郎屋敷内に塚あり、高さ五尺(約1.5m)ばかり、上に大樹の榎の朽木五尺ばかり残れり、是大塚なりと云、塚の脇に稲荷あり、大塚稲荷といふ」と記されている。
塚は昭和の初めに崩され、稲荷も昭和20年の戦災で焼失した。この大塚は古くから古墳であったとか、中世の塚や物見やぐらの跡だったとも言われてきた。
貞静学園の改築に伴い、平成12年の発掘調査で区内で初めて5~6世紀代の竪穴住居跡が確認された。文京区の古墳時代を知るうえで、貴重な歴史資料といえる。
今は失われた塚も”大塚”という町名として残っている。
文京区教育委員会 平成15年3月
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