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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京都水道歴史館に隣接してある文京区立本郷給水所公苑(→→→こちら)です。東京都水道歴史館に隣接している本郷給水所の上部に人口地盤を築き作られた公園なので、この坂道を登って行きます。南側に武蔵野の雑木林のイメージをもとに造られた和風庭園があり。北側にはフランス式の西洋庭園があります。その西洋庭園にあった大きな地球儀です。こちらは和風庭園。四阿(あずまや)がありました。こちらは公園の東側にあった、盛土と木柵。文京区第五中学校(現文京総合福祉センター)で発掘された神田上水の石樋が復元展示されているそうです。これが復元された石樋です。【つづく】文京区散策(その10) 文京区立本郷給水所公苑
2023年04月26日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。このレトロな洋館は順天堂大学(→→→こちら)。文京区、やっぱり大学という高等教育の場が多いですね。順天堂大学から本郷台の住宅街に入っていくと、大きな建物がありました。東京都水道歴史館(→→→こちら)です。神田上水や玉川上水などの江戸時代の上水道から、近代水道、現在の水道に至るまで、規模・水質ともに世界有数のレベルである東京の水道400年の歴史や技術を、実物資料や模型、映像資料などで紹介しています。また、水道の歴史に関する講演会や江戸時代の上水道を学ぶ講座なども開催されています。それで入場料は無料。無料が好きなMoMo太郎にが見学しないわけにはいかないですね。写真撮影については、「個人利用の範囲において撮影は可能です。但し、フラッシュの使用、三脚・椅子などの使用はご遠慮ください。」とのことだったので、撮影してきた館内の様子を紹介します。こちらは実物大の水道鉄管を展示しています。一番大きいものは直径2.9mだそうです。こちらにあるのは共用栓と消火栓。近代水道が開通すると、それまでの上水井戸に替わり、水圧のかかった水を手元で得ることのできる「水栓」(蛇口)が設けられました。しかし多くの家庭では専用の水栓(専用栓)を引くことができなかったため、複数の家庭で共同で使う「共用栓」が各所に設置されていました。団体見学で申し込むとこのような、歴史館の人が説明をしてくれるようです。玉川上水を造った玉川兄弟の石像。江戸時代に使われた木製の水道管です。上水井戸の実物です。江戸の井戸は地下水ではなく神田上水や玉川上水で送られてきた水を利用していたそうですね。【つづく】文京区散策(その9) 東京都水道歴史館
2023年04月25日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。外堀通りに面してある元町公園と昭和第一高校の間に本郷台地を登って行く坂道の途中に元町公園下の擁壁に、楕円形に空けられた穴をコンクリートで塗りこめたような痕跡があります。太平洋戦争のころに構築された防空壕の入り口跡だそうです。この坂道を登り切って少し行くと、立派な建物の学校があります。桜陰学園(→→→こちら)です。高校からの入学者を募集していない完全中高一貫校の桜蔭中学校・高等学校で、女子学院中学校・雙葉中学校と共に「女子御三家」といわれている進学校。卒業生には、「このハゲ」と秘書を怒鳴った元衆議院議員の豊田真由子さん(→→→こちら)。現参議院議員の猪口邦子さん、女優の菊川玲さん、クイズ番組タレントの三浦奈保子さん(→→→こちら)、そしてイラストレーター、タレント、女優と多彩な水森亜土さん(→→→こちら)と、才色兼備といってもいい方ばかり。ちなみに、制服は基本ジャンバースカートでちょっと体形の不利は目立ちません。可愛い制服を着たい女子にはちょっと不向きなのかも、観察していると最近はパンツスタイルの制服もあるようです。そして、大学の多い文京区、外堀通りに面したところにある順天堂大学です。どうして、桜陰に詳しいかというと、親戚の子が通っていたからです。文京区散策(その8) 名門女子御三家のひとつ
2023年04月24日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。水道橋というのは、神田川に架かるこの橋のことですが、橋の親柱にある銘板にも「水道橋」と記されています。橋の欄干にはこんな銘板がありました。水道橋について次のように書かれていました。「水道橋の名は、江戸名所図会によればこの橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。」と。ということで、神田川に沿って外堀通りの坂道を登って行きました。そうするとこんな石碑を発見しました。「お茶の水分水路」(→→→こちら)と刻まれていました。神田川の中流部(お茶の水一帯)は、もともと江戸時代の初期、幕府の命により仙台藩が本郷台地(神田山)を開削して導水した河道。そのため峡谷を形成していますが、拡幅による河道整備が困難で、洪水の際の対策上のネックになっていました。神田川の治水安全度向上を目的に、バイパス的な流路を築いたのがお茶の水分水路。全区間が神田川沿いの外堀通り・都道405号(外濠環状線)の地下に敷設されています。昭和62年~平成6年にかけて上流開削区間(220m)と、湯島聖堂あたりまでのトンネル区間(760m)を整備し、その後、平成8年~11年にかけて、下流開削区間(320m)を整備しています。さらに歩いて行くと、こちらの石碑が、男性の方が興味深げにこの石碑を撮影していました。この人が退くまで待って、MoMo太郎も石碑を撮影。「神田上水懸樋跡」(→→→こちら)とありました。下の銘板には、神田上水懸樋の様子を描いた絵図と文京区教育委員会による説明文がありました。江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。平成8年(1996)3月 東京都文京区ここに懸樋、つまり神田川を越えるために設けたパイプ(樋)が架かっていたわけですね。この懸樋(水道橋)が現在の水道橋の地名の由来なんですね。神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、1596年~1615年(慶長年間)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(あんきょ、埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。そういえば、文京区役所近くの春日町の交差にある小さな広場にあるこの石も「神田上水石樋の石」だそうで、昭和62年(1987)、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものだそうです。【つづく】文京区散策(その7) 水道橋とは
2023年04月23日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文化の京の文京区ですが、区内にはJRの駅が一つも存在していません。文京区役所の最寄り駅のこのJR中央線の水道橋駅も厳密には所在地は千代田区です。この駅のそばを流れる神田川です。川の清掃をする船が見えました。そしてこの神田川が千代田区と文京区の境になっていて、神田川を超えて東京ドームホテルなどのある方に来ると文京区になります。神田川に並行する外堀通りを歩いて行くと、小さな広場があります。このあたりは「市兵衛河岸(→→→こちら)」という地名だったそうです。この付近が神田川の水際に作られた物揚場(ものあげば)だったそうで、今の東京ドームシティのあたりに東京砲兵工廠のあったころは、工廠用の貨物が揚げ下ろしされた場所です。神田川市兵衛河岸防災船着場として今でも緊急時にはこの船着場が利用できるように整備されていました。ちなみに、この付近には「岩瀬市兵衛」のという人の屋敷があり、それが市兵衛河岸の地名の由来になったそうです。そして、岩瀬市兵衛は旗本だった家柄で、その中で岩瀬市兵衛の家を継いだ岩瀬 忠震(いわせ ただなり)(→→→こちら)は、嘉永8年(1853年)ペリーの来航後、アメリカとの交渉に当たり、特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印した人物だそうです。【つづく】文京区散策(その6) 水道橋駅近くの市兵衛河岸
2023年04月22日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文京区立森鴎外記念館から団子坂を登っていくと、ちょっと変わった建物のお寺に到着しました。こちらが駒込大観音で有名な光源寺(→→→こちら)です。山門(?)を入ると、「蓬莱梅(ホウライバイ)」の由来と書かれた説明板がありました。かって、樹齢3百年を超える蓬莱梅と呼ばれる梅の木が境内にあったそうですが、空襲で焼けてしまったそうです。そして、現在は榛名山で見つけてきた、二代目の梅の木があるそうです。こちらが二代目の蓬莱梅です。訪れた2月中旬には、梅の花が見事に咲いていました。こちらが駒込大観音が安置されている観音堂です。この中に大観音がおられるのですね。こちらが駒込大観音です。初代の像は元禄10年(1697)に豪商丸屋吉兵衛の発願により御丈約5mの十一面観音像が建てられましたが、惜しくも東京大空襲で焼失し、1993(平成5年)に御丈6m余の御像として再建されたそうです。こちらの石の台座は、初代の大観音が設置されていた礎石です。再建まで48年も掛かっていたんですね。【つづく】文京区散策(その5) 駒込大観音
2023年04月20日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。夏目漱石とくれば。次はやはり森鴎外ですね。そして、こちらの建物が、文京区立森鴎外記念館(→→→こちら)です。この記念館は、森鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に建てられたものです。観潮楼は、1892(明治25)年鴎外が30歳のときから、1922(大正11)年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ家だそうで、家の2階からは遠く海が見えたことから、鴎外により観潮楼と名づけられんだとか。千駄木団子坂から見た森鴎外記念館。こちらが建物の正面になるそうです。小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医といくもの顔をもつ森鴎外。こういう不世出の才人っているもんですね。【つづく】文京区散策(その4) 文京区立森鴎外記念館
2023年04月19日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。根津神社の西口から出ると、すぐにあるのが日本医科大学。やっぱり文京区。大学が多いんですね。そこから少し住宅街の中を歩くと、日本医大同窓会館の敷地に石碑がありました。この猫の置物から、想像できますね。夏目漱石旧居跡です。文豪・夏目漱石が、イギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ場所。ここで、処女作「我が輩は猫である」を執筆し、旧居は作品の舞台となったそうです。【つづく】文京区散策(その3) 夏目漱石旧居跡(猫の家)
2023年04月18日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。さて、東大から野球グランドの横の坂道を下って不忍通りの方へ向かうと、その途中に「根津神社」(→→→こちら)があります。日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられているそうです。手前は神橋、その奥にあるのは重要文化財の楼門つつじの名所として知られる根津神社のつつじ苑です。訪れた2月半ばだと、つつじはまだですね。毎年4月~5月はじめにかけて「文京つつじまつり」が開催されていますから、今の時期行けばよかったのですが、なんやかやと暇がみつけられる、こんな季節感のない写真で申し訳ありません。この楼門を抜けて参拝します。唐門と透塀、どちらも重要文化財です。こちらが拝殿です。しつこいようですが、これもまた重要文化財です。江戸時代までの神仏混淆時代には、根津権現と呼ばれていたそうで、森鴎外や夏目漱石の小説では根津権現と書かれています(→→→こちら)。こちらは摂社の乙女稲荷神社に続く千本鳥居です。本当に千本あるのかどうかはわかりませんが、「北」から「南」に通り抜けると「邪気がきれいに祓う」といわれているそうです。というわけで、邪気に包まれたMoMo太郎もこの千本鳥居の中を通り抜けました。千本鳥居、奉納した人の名前と願意が書かれているので、個人情報ほごの観点から、撮影には注意ですね。千本鳥居の参道の途中にあった、石のオブジェ。徳川家宣胞衣塚というそうです。第六代将軍徳川家宣の「胎盤と胎膜」を埋めたところになるそうですが、ここは甲府藩江戸下屋敷があったところで、甲府徳川家初代徳川綱重の長男だった家宣はここで生まれましたが、五代将軍綱吉に男子の跡継ぎがいなかつたことから、綱吉の養子となり六代将軍になったそうです。その時、家宣は藩邸を閉じて江戸城へ移るとともに、藩邸址を根津神社に献納したそうです。乙女稲荷から見た透塀です。池もあってなかなか落ち着いた感じの景色でした。こちらが乙女稲荷です。乙女という名前からして、女性を応援する神様なんでしょうね。こちらが根津神社の西口にある鳥居です。もう少しじっくりと味わいたい根津神社でした。【つづく】文京区散策(その2) 根津神社
2023年04月17日
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東京23区の中で首都東京を東京たらしめている区というと、国会や官庁がある千代田区、金融や経済の中心地ともいうべき中央区、そして文化の都(みやこ)である文京区の3つの区があれば、港区や台東区、まして練馬区などがなくても東京としての機能は維持されるのではないのでしょうか。そんな文化の京(みやこ)、文京区を散策してきました。まず、文京区が文化の京といえるのは、やはりこの大学があればこそでしょう。赤門がシンボルの東京大学です。MoMo太郎の義理ママは、東大入学を願い、まだ赤ん坊だった孫を抱いて、この赤門をくぐったそうです。しかし、義理ママ、あなたは知らなかったのですね。東京大学の正門は、こちらなんです。そんなわけで、あなたのお孫さん、東大入学はかなわなかったです。まあ、MoMo太郎のDNAを受け継いでいるせいでしょうね。まあ入試に合格しなくても、正門を抜けて東大に入ることはできました。こちらは東大農学部の門です。農学部の門を入ると、犬と戯れるおじさんの銅像があります。これは東京帝国大学教授、上野英三郎博士(→→→こちら)とハチ公の銅像だそうです。ハチ公って東大の先生の愛犬だったんですね。【つづく】文京区散策(その1) 文京区を文京区たらしめているもの
2023年04月16日
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桜と菜の花のありがちな構図です。東武鉄道の隅田川橋梁、中路カンチレバーワーレントラスという形式です。高いトラス橋にせず、中路式を採用しているので、鉄道車両もよく見えますし、また、列車の窓からも隅田川の河岸に植えられた桜もよく見えるでしょうね。隅田川でボートを漕いでいる人がいました。ボートというよりカヌーになるんでしょうか。そういえば、墨堤にこんな石碑がありました。隅田川ボート記念碑(→→→こちら)です。かつてはボート競技の中心地であった隅田川を記念する石碑だそうです。この石碑の建立に尽力した関係者の名前が刻まれていましたが、大学ボート部のOB会の名前は当然ですが、なぜか国土交通省下水道部の名前もありました。昭和30年代の高度経済成長時代、長きにわたり季節の風物詩として親しまれていた早慶レガッタは、隅田川の汚染が進んだことにより1962年に中止を余儀なくされていたのですが、東京の下水道整備が進み、隅田川の水質が向上したため1978年に17年ぶりに復活したのは、国土交通省下水道部のおかげということですかね。【了】人気ブログランキング今年のお花見(その5) 隅田川ならボートでしょ
2023年04月14日
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墨田区側の隅田公園、墨田区側の隅田川の堤防なので墨堤とも呼んでいます。また、地名としては向島というところになります。といこうとで、桜並木に飾られている提灯の名前は、多分、向島の料亭なんでしょうね。このあたり、かなり花びらが散り始めていました。それでも、まだ頑張って咲いている桜です。こちらにあるのは、向島墨堤組合(→→→こちら)の茶店。向島墨堤組合というのは向島の料亭とそこへ派遣される芸妓の置屋さんの組合なので、芸妓さんたちがお給仕してくれる茶店なので、ちょっと楽しいですよ。墨堤沿いを吾妻橋の方に向かって歩いてゆきます。こちらにも茶店がありました。こちらは向島二・三町会が出店している茶店のようです。朝の10時頃なので、まだ営業はしていないようです。メニューは、こんな感じですが、時節柄ですかね、酒類は隠しているみたいです。こちらは、向島一丁目町会の茶店です。こちらで使われていた提灯にはアサヒビールの名前が。アサヒビールの本社が墨田区にあるからでしょうか。【つづく】人気ブログランキング今年のお花見(その4) 墨堤を歩く
2023年04月13日
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隅田川に架かる「桜橋」です。この橋を渡って墨田区側の隅田公園へ。桜橋の上から青空を撮影してみました。川の上の空は、広々していていいですね。桜橋の上にあるモニュメントです。対になって、台東区側と墨田区側に二体がありますが、どちらも「双鶴飛立の図」というタイトルで、二羽の鶴らしいとりが並んで飛んでいる模様が描かれていました。桜橋の墨田区側、上流の桜並木です。この桜並木の向こう側、高速道路を越えたところには、さくら餅で有名な長命寺があります。こちらは下流側、吾妻橋へ向かっての桜並木。桜を見ながら川の上を走っているのは、水上バイクに乗っている人たちです。こういう花見のやりかもまたいいですね。【つづく】人気ブログランキング今年のお花見(その3) 桜橋
2023年04月12日
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台東区リバーサイドスポーツセンターの方までやって来ました。桜の淡いピンク色、このどちらかと言うとあいまいな感じがいいですね。「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」本居宣長のこの歌にある「大和心」とは、こんな「あいまい」な優しい感じのことにも思えますね。この桜の咲く青空の下で、野球に興じる人たちもいました。甲子園出場かWBC(World Baseball Classic)を目指して、大和心で頑張りましょう。隅田公園の所々にはこんな句碑や歌碑が建てられています。これはやっぱり、正岡子規の句碑なんでしょうね。そして、こちらにはちょっと立派な石碑。「花の碑」だそうです。武島羽衣作詞、瀧廉太郎作曲の有名な楽曲、「花」の歌碑ですね。石碑には、武島羽衣の詩が刻まれています。春の情景を歌った曲ですが、この「花」というタイトルから、この花が、桃や梅、ましてはチューリップではなく、「桜」のことを意味しているとわかるのも、日本人の「大和心」ですね。達筆すぎて読めないかもしれませんので、一応、歌詞を掲げておきます。春のうららの 隅田川のぼりくだりの 船人が櫂のしづくも 花と散るながめを何に たとふべき見ずやあけぼの 露浴びてわれにもの言ふ 桜木を見ずや夕ぐれ 手をのべてわれさしまねく 青柳を錦おりなす 長堤にくるればのぼる おぼろ月げに一刻も 千金のながめを何に たとふべき【つづく】人気ブログランキング今年のお花見(その2) 大和心と桜
2023年04月11日
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今年のお花見は4月1日の隅田公園でした。今年の東京の桜の開花は3月14日、満開は3月22日と早かったのですが、なんとか4月1日までは持ちこたえましたが、もう花が散って葉桜になっている桜もありました。浮かれて花見を楽しむのもいいのですが、言問橋のたもとにあるこの石碑も訪れましよう。戦災により亡くなられた方々の碑です。昭和20年3月10日の東京大空襲、多くの方が亡くなられました。安らかに眠られることを祈ります。平和な日本だからこそ、こうやって、桜を楽しめるんだと改めて思いました。【つづく】人気ブログランキング今年のお花見(その1) 平和だからこそ桜も楽しめます
2023年04月10日
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赤羽八幡神社(→→→こちら)にお参りします。この神社は武蔵野台地の東北端にあるため、この階段を登っていきます。伝説では、延暦3年(784)に征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折、この地に陣を取り、遙かに八幡三神を勧請して武運長久を祈られ、その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田道灌の父・資清が社領として土地を寄進し、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとあります。江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付されていた、重要な神社だったのですね。神社の下には東北新幹線、埼京線が通っています。神社に向かって新幹線もお参りにやってきて、道中の安全を祈願してから北に向かい。道中の安全をお礼して東京に帰ってくるようになっています。神社にお参りした後、赤羽駅に到着しました。ここから家に帰ります。(板橋宿のコースです)【了】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その17) 赤羽八幡神社
2023年03月04日
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こちらの道へ歩いてみます。赤羽自然観察公園から赤羽駅西口方面へと続く「赤羽緑道公園」(→→→こちら)です。廃線となった軍用貨物の線路跡を利用して作られた、細長い公園です。舗装のデザインが線路を模していますね。訪れた昨年の12月10日には、見事な紅葉を見ることができました。道の途中でこんな景色が見えました。何の工事なんでしょうね。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その16) 赤羽緑道公園
2023年03月03日
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赤羽スポーツの森公園の北隣にある「赤羽自然観察公園」(→→→こちら)です。多目的広場や小川、池、色々とありそうです。陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地跡地の一部を公園として整備し1999年4月1日に開園したそうで、面積は5.4ヘクタールという広大なものです。こちらの多目的広場では、子供たちがサッカーやっていました。北区の人って、本当にサッカー好きなんですね。ここでは、自然に触れあいながら散策を楽しめたり、青空の下、色づいた木々を眺めて歩くと、ちょっと東京にいるとは思えないですね。訪れたのは2022年12月10日、紅葉も見事でした。園内には湧水があり、そこから流れ出した小川もあり、緑と水の豊かな自然環境を形成してるのですね。こちらは、北区ふるさと農家体験館。 江戸時代に北区内の浮間にあった古民家・松沢家を移築したものだそうです。北区指定の有形文化財だそうです。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その15) 赤羽自然観察公園
2023年03月02日
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この交差点を渡ります。向こうにも大きな建物が見ますね。この大きな建物は、「赤羽スポーツの森公園競技場」(→→→こちら)です。施設としては、サッカー専用の競技場。北区では野球やラグビーはスポーツとしては認められていないんですかね。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その14) 赤羽スポーツの森公園
2023年03月01日
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環状7号線を超えて、旧中山道からそれて赤羽方面に向かいます。(JR東日本が企画している駅からハイキングなので、出発と到着はJRの駅にしているようですね。)このちょっと細い商店街を歩きます。あけぼの商店会という商店街です。旗に「アスリートの街」とありますが、商店会のメンバーはスポーツ選手ばかり!? それともスポーツ選手だと割引優待があるのかも。このあたりが、今回の駅からハイキングのコースの中間点になりました。そして、近代的なビルが「味の素ナショナルトレーニングセンター」(→→→こちら)。日本のトップレベル競技者用トレーニング施設だそうです。オリンピックで金メダルが狙えそうなアスリートがトレーニングしているんでしょうね。色々、施設がありますが、全て国民の税金で建設された施設なんでしょうね。「金メダルは金で買え」、オリンピックって国民の税金をチューチュー吸い取ることで、成り立つイベントなんですね。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その13) ナショナルトレーニングセンター
2023年02月28日
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こちらが、江戸時代から板橋宿の名所として名高い縁切榎(→→→こちら)です。こちらが、縁切榎の由来が記された説明板です。江戸時代、この場所の道を挟んだ向かい側に、旗本近藤登之助の抱屋敷があって、その垣根の際には榎と槻の古木があり、その榎がいつの頃からか「縁切榎」と呼ばれるようになり、嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れ、その下を通らなかったと言います。現在では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるという信仰が広がっているそうです。また、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う際、榎から削ぎとった樹皮を煎じて対象の人物に飲ませると成就するという信仰もあり、今では、肝心の榎の樹には樹皮がこれ以上削ぎ取られないように竹竿のバリケードがぐるぐる巻かれていました。こちらは石碑の中にコンクリート詰めにされている二代目の縁切榎、初代は明治の大火で焼けてしまい、二代目は昭和40年代に切られて、現在の縁切榎は三代目になるそうです。祠の横に建てらていた石碑、おそらく縁切榎の由緒が刻まれているだと思います。さて、縁切榎の下にある「旧中山道岩之坂」という地名。ここはかっては貧民街として呼ばれる地域で、この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという、岩の坂もらい子殺し事件(→→→こちら)というような恐ろしい事件があったそうです。ちょっとこの緩い坂道が「岩之坂」ですが、今では坂町商店会と呼ばれています。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その12) 縁切榎と岩の坂
2023年02月27日
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仲宿商店街から石神井川に架かる板橋を渡ると、こちら板橋本町商店街に入ります。今までの商店街に比べると、ちょっと寂しい感じもしますね。さらに進んでいくと、火の見櫓がある三角形の広場がありました。ここは本町にぎわい広場(→→→こちら)と呼ばれています。広場の端には「中山道板橋宿 上宿」の石柱と説明板がありました。説明板には次のようなことが記されていました。 江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。 板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約1.7Km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。 平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その11) 中山道板橋宿上宿
2023年02月26日
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仲宿商店街ノの終点に近づいてきました。仲宿商店街を過ぎると旧中山道が石神井川を渡る橋があります。橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」と記された標柱と、案内板がありました。この橋が地名「板橋」の由来とされる橋、「板橋」(→→→こちら)です。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた「義経記」などの古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、そして明治時代には町名、そして現在の板橋区になったそうです。もとは木製の板で作られた、文字通りの板橋でしたが、昭和7年(1932)を境に以後はコンクリート橋になり、現在の橋は昭和47年(1972)に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。橋の親柱にも板橋と書かれています。これが、石神井川に架かる現在の板橋です。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その10) ここが板橋
2023年02月25日
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商店街から少し脇に入った道の奥にそびえる大きな集合住宅。その入口の前にある大きな樹木と説明板、そして石柱。そして、その石柱には「板橋宿中宿脇本陣 名主飯田総本家」と刻まれています。板橋宿中宿名主飯田家本家跡は、代々、宇兵衛家を世襲し、板橋宿中宿名主を務めた脇本陣飯田家の屋敷跡(→→→こちら)です。幕末には14代将軍家茂へ降嫁する皇女和宮が宿泊し、また明治初年に大宮氷川神社に行幸する明治天皇が休憩したところだそうです。ちなみに、宿場は南から平尾宿・中宿・上宿に三分されており、そして中宿では、飯田家は本陣をつとめる新左衛門家と名主・問屋・脇本陣をつとめる宇兵衛家に分かれ、以降幕末まで両家によって板橋宿の宿場機能の中心であった中宿を管理する体制となっていたそうです。また、平尾宿では三河国出身で家康の関東入国とともに移住してきたという豊田孫右兵衛門家があり、その子孫とされる豊田市右兵衛門家が平尾宿の名主・問屋・脇本陣をつとめており、上宿には中世武士、豊嶋氏の出自である板橋市左衛門家が板橋宿上宿名主・問屋・脇本陣をつとめました。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その9) 中宿脇本陣跡
2023年02月24日
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文殊院(→→→こちら)という院号です。江戸初期の寛永2年(1625年)、延命地蔵を祀る既存の堂を寺院として開山したそうです。板橋宿本陣を務めた飯田家の菩提寺がこのお寺だそうです。山門の脇にあるのが、延命地蔵の地蔵堂です。こちらが本堂。本堂前にあった、小さな梵鐘。山門を入ると左手にあった閻魔堂。中には、懸衣翁(けんえおう)、閻魔大王、奪衣婆(だつえば)の像が並んでいました。端にいる奪衣婆が閻魔大王より妖怪じみてて怖い。奪衣婆が亡者から剥ぎとった衣を左端の懸衣翁が樹に掛けて、枝の垂れ具合で生前の罪の重さを測ったのだと言われています。地獄図もありました。境内にあった祠。子大権現という扁額がありました。これが子(ね)の大権現の石像です。子大権現は足腰守護の神様と聞くので、道中の無事を祈ってお参りしました。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その8) 文殊院の閻魔大王
2023年02月23日
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さらに仲宿商店街を進むと、板橋宿の史跡を紹介する説明板がありました。「板橋宿本陣跡」(→→→こちら)と刻まれた石碑が門の脇に建立されていました。代々、新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡で、参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩したところです。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その7) 板橋宿本陣跡
2023年02月22日
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板橋宿の旧中山道、にぎやかな商店街が続いてます。こちらの建物は、「板橋地域センター」と「いたばし観光センター」(→→→こちら)この「いたばし観光センター」では、区内の名所、旧跡など板橋の魅力をPRする観光パンフレットの配布や観光グッズの販売、パネル展示などがありました。まだまだ商店街は続きます。ここからは仲宿商店街になるようです。大正時代からあるような古い商家ですが、レンガ壁で洋風の意匠あるちよっと近代を感じさせる建物に、沢山の人が並んでいました。板五米店(→→→こちら)という名前の商店で、今はお米ではなく「おむすび」を売っていました。この説明板によると、整備工事の際に棟札が発見されたことで、当主の川口角太郎氏が大正3 年(1914)に建立したことや、棟梁である市川寅吉をはじめとする大工の名前が判明した。「田中米店」から「板五食料販売所」、「板五米店」と改称され現在に至る。板五米店は、中山道の街道に面して立地する町家の系譜を引いた、道路側に下屋庇(げや・ひさし)をもつ土蔵造町家(どぞうづくり・まちや)であり、店舗部分と住居部分で構成されている。全体的に近世町家に煉瓦の袖卯建を配しており、和風建築に洋風の意匠(いしょう)が加味された、近代の息吹を感じさせる建造物である。とありました。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その6) 賑わう商店街と板五米店
2023年02月21日
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この不動通り商店街と呼ばれる旧中山道から脇に入る道があります。この道を入っていくと、普通の集合住宅の前に石碑が建てらていました。板橋宿平尾町脇本陣跡(→→→こちら)と刻まれていました。板橋宿は、「上宿(かみしゅく)」「仲宿(なかしゅく)」「平尾宿(ひらおしゅく)」の3つの宿場からなり、こちらが板橋平尾宿の脇本陣のあった豊田家の屋敷跡だそうです。豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねていたそうです。ここには、近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあるそうです。ちなみに、説明版の文字は劣化してほとんど読めませんでした。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その5) 平尾宿脇本陣
2023年02月20日
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板橋区の旧中山道を歩くと、このような「板橋宿今昔みちしるべ」という案内板があり、この町の歴史を知りながら歩くことができます。ちなみに、このあたりの旧中山道は不動通り商店街と呼ばれています。この不動通り商店街に沿って歩くと「観明寺(かんみょうじ)」(→→→こちら)というお寺がありました。こちらがお寺の山門です。なお、不動通り商店街のいわれは、明治6年(1873)、当時の住職が宿場に旧来の活気を取り戻そうと、成田山の不動尊を勧請して縁日を開いたことにあるそうです。山門の脇には、屋根をかぶせた石碑がありました。これは寛文元年(1661)の庚申塔だそうです。全景を撮影できなかったのは、山門の石柱の横に車が止まっていたからです。ちょっと残念・・・。こちらが本堂です。加賀藩下屋敷から遷されたといわれる稲荷社だそうです。真言宗豊山派の寺院ということで、お約束の弘法大師の立像がありました。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その4) 観明寺
2023年02月19日
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板橋駅から北西方向に向かって商店街を歩いてゆきます。この道は「旧中山道」、たどっていけば軽井沢、下諏訪、木曽路、関ヶ原を経て京都に行けるのですね。江戸時代は、東海道は長期の川止めもある大井川、安倍川があるので、こちらの方が行程が遅れることもなかったのでよく使われていたのかも。そして、首都高速中央環状線の下をくぐり、旧中山道に沿って商店街が続きます。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その3) ここは旧中山道
2023年02月18日
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近藤勇の墓を出て商店街に出ました。こちらの商店街は滝野川銀座、旧中山道沿いの商店街になります。ちなみにこの道を南東の方へ進むと、おばあちゃんの原宿、巣鴨地蔵通りにつながります。つまり、中山道を歩くと原宿と銀座が楽しめるというわけですね。そして踏切があります。赤羽線の仲仙道踏切、中山道に人がいるので、にんべんをつけて仲山道にしているのでしょうか。踏切を渡ると、板橋駅西口に出ます。西口には大きなケヤキの木が日本並んでいました。ケヤキは肥沃で水はけのよい武蔵野の関東ローム層(赤土)に生育環境がマッチしており、伸び伸びと育ち、板橋の農家の屋敷林としてもよく見かけられたもので、今では「区の木」となっているそうです。「むすびのけやき」(→→→こちら)というそうです。平成14年(2002)に商店街の経営者たちが、JR板橋駅前のケヤキを「むすびのけやき」と名づけ、商店街の振興をはかってきたそうです。板橋区本町にある「縁切榎」で悪い縁を切り、「むすびのけやき」でおみくじを結んで良縁を願うという趣向だそうです。西口駅前のロータリーにあった板橋区の観光キャラクター「りんりんちゃん」の石像です。「りんりんちゃん」とは板橋区の花である「ニリンソウ」がモチーフ、葉っぱの帽子をかぶった明るく元気いっぱいな妖精。そのニ“リン”ソウと、“板橋”の部首の木へんを合わせて「林(りん)」の二つで「りんりんちゃん」とネーミングになるのだとか。この石像は、板橋区と防災時相互協定で交流のある茨城県桜川市から寄贈されたそうです。防災時相互協定とは「被災を免れた自治体が物資調達・職員派遣を行う」という取り決めだそうです。ちなみに桜川市(→→→こちら)というと石材業で有名な町ですね。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その2) むすびのけやき
2023年02月17日
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2022年12月10日に参加してきたJR東日本駅からハイキング「中山道第一の宿場町「板橋宿」の史跡めぐりと自然ウォーキング」の報告です。やってきたのは、赤羽線の板橋駅、ちなみに池袋と赤羽を結ぶ路線は「赤羽線」ですが、運行系統は「埼京線」となっています。まず、こちらの板橋駅東口に出ますと、駅前にある住居表示街区案内図を確認すると、板橋駅は板橋区と北区の境界腺にあることがわかります。そして、最初に訪れたのは近藤勇墓所(→→→こちら)です。入口付近には、新選組の主要メンバーだった局長の近藤勇、副長の土方歳三、そしてこの墓所を建立した永倉新八の肖像が描かれた案内板がありました。北区教育委員会が作成した説明板もありました、正式には「近藤勇と新選組隊士供養塔」というそうですね。新選組局長だった近藤勇は、鳥羽伏見の戦いの後、さらに甲州勝沼の戦いでも敗北。そして流山で捕らえられ、板橋で処刑され、首は京都まで運ばれて三条河原にさらされました。板橋処刑場近くの当地に、同士だった永倉新八らによりこの墓所が建立されたそうです。色々と石碑が並んでいました。こちらは、近藤勇の肖像を刻んだものですね。この墓所を建立した永倉新八(→→→こちら)の墓です。この人は明治維新後も生き残って新選組顛末記などの書籍を残し、新選組が単なるテロ集団ではなかったと伝えたそうです。この石碑が新選組供養塔です。石碑には、「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。また側面には亡くなった主な新選組隊士名が刻まれているそうですが、風化か激しく判読はできませんでした。近藤勇の銅像もありました。こちらは新選組の歴史について記された碑文が刻まれた石碑です。近藤勇埋葬当時の墓石とありますが、処刑された当時の近藤勇は、坂本龍馬の暗殺が新選組の仕業と思われていたり、幕府側からは、「近藤勇とは関係ない」という回答があったため、「勝手に徳川家の家臣を名乗って官軍に手向かいした」という、新選組の存在自体が否定されていた、相当な悪人ということで、こんな墓石だったんですかね。ちなみに近藤勇は刑場ではなく、馬捨場で斬首されたともいわれていますから、新政府からは人間扱いされていなかったのかも。(板橋宿のコースです)【つづく】人気ブログランキング中山道の板橋宿(その1) 近藤勇の墓
2023年02月16日
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雑司が谷七福神巡りの七福神もいよいよ最後の布袋尊になりました。こちらの布袋尊はお寺や神社ではなく、中野ビルの前に鎮座しています。この布袋尊は中野石材商店が建立したものです。大正6年(1917)、中野石材商店の7代当主の弟が建立し、中野ビルが落成した8代当主の時に、ビルの前に布袋尊像を安置したそうです。右側の小さい石像が見切れていますが、これは親子二体の布袋尊像として造られたとのこと。七福神巡りを結願した証として、それぞれの場所にあったスタンプを押印してきました。最後に、西武池袋本店の屋上にある「食と緑の空中庭園」に行って食事しました。空中庭園というだけあって、百貨店の屋上でも池があったりして、ちょっと憩えますね。フードコートのようになっていて、食事も楽しめます。天気がいい日にはいいですね。抜けるような冬の青空でした。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【了】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その16) 布袋尊と西武池袋本店の屋上庭園
2023年02月13日
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鬼子母神堂からむ次は日蓮宗寺院の観静院(かんじょういん)にお参りしました。扁額には山号の「平等山」とありました。こちらにある七福神は弁財天でした。観静院を出ると大きな山門を持つお寺があります。こちらは、本明寺(→→→こちら)と言う日蓮宗の寺院で、弘仁元年(810)、真言宗の旧跡で威光寺として開創され、正和元年(1312年)、宗祖日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めて現在に至るそうです。山号の威光山と書かれた扁額。ちなみに鬼子母神堂は法明寺の飛地境内にあるお堂で、観静院は元禄初期に法明寺塔頭として創立されたそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その15) 観静院(弁財天)と法明寺
2023年02月12日
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そして、いよいよ雑司ヶ谷鬼子母神堂(きしもじんどう)(→→→こちら)にやって来ました。鬼子母神は、安産・子育ての神様として信仰されています。こちらは鬼子母神堂の境内にある駄菓子屋さんの「上川口屋」。創業は、前年にアメリカ独立戦争が始まった安永10年・天明元年(1781)の「上川口屋」さん。もともとは、加賀藩主・前田利常公の息女・自昌院殿が鬼子母神に寄進したことから、加賀藩御用達となった飴屋がその前身という、由緒正しい歴史を持つ駄菓子屋さんです。こちらの鬼子母神堂では「鬼」の字を一画目がない字を用いています。永禄4年(1561年)山村丹右衛門が清土(現・清土鬼子母神堂)あたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、法明寺の塔頭東陽坊(後に大行院)に祀ったのが始まりとされています。こちらに祀られている七福神は大黒天で、この大黒堂の中におられます。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その14) 鬼子母神堂(大黒天)
2023年02月11日
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大鳥神社から少し歩くと、都電荒川線の鬼子母神前駅から鬼子母神堂に続く参道に出ます。、この参道には大きなケヤキ(欅)の木が並んでいます。「都天然記念物 鬼子母神大門欅並木」の石標がありましたが、このケヤキの木、東京都の天然記念物だったんですね。この参道に面してあるのが「雑司が谷案内処」(→→→こちら)です。雑司が谷のおすすめ散策コースなど、雑司が谷の観光情報を得ることができるそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その13) 鬼子母神大門欅並木
2023年02月10日
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清立院から池袋駅の方向に向かって都電荒川線(東京さくらトラム)を横切ります。通り過ぎっていく都電の車両です。踏切からすぐのところにあるのが、雑司ヶ谷一帯の氏神様の大鳥神社(→→→こちら)です。大鳥神社は、鬼子母神堂境内に正徳年間(1711-1716)から祀られていた鷲明神を、明治の神仏分離後に当地へ遷座したものだそうです。まだ正月松の内だったせいでしょうか、12月31日の年越の祓(はらい)に使われたらしい茅の輪がありました。参拝に来られた方はみんな茅の輪くぐりをしていますね。大鳥神社の拝殿です。また、関東各地の大鳥神社や鷲宮神社などの例にもれず、ここでも11月の酉の日に行われる商売繁盛を願う「酉の市」があります。大鳥神社の七福神は恵比壽神。商売繁盛の神様ですね。しかし大阪の今宮戎のように「♪年のはじめのえべっさん、商売繁盛で笹もってこい♪」というお囃子はありませんでした。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その12) 大鳥神社(恵比寿神)
2023年02月08日
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目白通りから離れて雑司が谷の方に入ってきました。この道は弦巻通りと呼ばれている商店街を横切ります。この通りは、かってあった「弦巻川」という川を暗渠にし、その上にできた道だそうです(→→→こちら)。弦巻通りを越えて北にある清立院(せいりゅういん)(→→→こちら)という寺院に参詣するためにこの石段を登ります。清立院の山門です。清立院は今から750年以上前の寛喜年間(1229~1232年)に真言宗三嶽山清龍寺として創立されたそうです。のちに日蓮宗のお寺に改宗したそうです。雨乞いと皮膚病に御利益があり、大変霊験あらたかであったため、人々に親しまれ参詣人が絶えなかったそうです。このお寺では、雑司が谷七福神の毘沙門天が祀られています。毘沙門天は、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一人に数えられる武神です。開運勝利と共に財宝富貴の福を授ける事で七福神のメンバーに加えられたそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その11) 清立院(毘沙門天)
2023年02月07日
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肥後細川庭園を出て、この文京区立目白台運動公園(→→→こちら)の中を抜けて、再び目白台の台地を上がって行きます。目白台運動公園は、元は国家公務員共済組合連合会運動場でしたが、今では文京区の管理する運動公園になっています。ここは広大な芝生の多目的広場を中心にフットサルコートやテニスコート、そしてこのようなパークセンターと呼ばれる管理棟や子供たちの遊べる芝生広場や噴水池があり多くの人々に利用されています。その目白台運動公園に隣接するこのお屋敷、かの有名な田中角栄の目白御殿です。田中真紀子さんの代になって敷地の一部は相続の時、物納したそうで、そこが目白台運動公園に利用されているようです。こちらは日本女子大学の校舎です。なかなか立派なビルですね。その手前には古い木造建物もありました。さすがは明治時代に創設された日本初の女子大学だけのことはありますね。目白通り沿いにあった公園からの神田川、高田馬場方面の眺めです。新宿の高層ビル群も見えています。不忍通りが目白通りにぶつかるYの字交差点になっているところに建っていた酒店。大正~昭和初期の建築物のようですね。インスタ映えしそうな建物ですね。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その10) 文京区目白台を歩くと
2023年02月06日
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和敬塾と目白台運動場の間の坂道を下っていくと、土壁に囲まれた一角があります。ここが肥後細川庭園(→→→こちら)です。こちらの門から中に入りました(入園料無料)。中は広々とした庭園と古い和風の木造の家屋がありました。木造家屋の前にあった梅の木。1月初旬ですが、梅の花が開花していました。肥後細川庭園は、その名の通り幕末に熊本54万石の細川侯の下屋敷になり、明治15年には細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となりました。その後は東京都が買収し昭和36年に「新江戸川公園」として開園し、昭和50年に文京区に移管されました。平成29年3月に「肥後細川庭園」に名称変更したそうです。庭園は、目白台の台地(関口台地)の自然景観を活かした池泉回遊式庭園だそうです。池畔にある5本の松の枝には雪から守るための円錐形の雪吊りが施されています。鹿威し(ししおどし)なんかもあって、日本庭園の雰囲気を感じますね。こちらが庭園の正門となっています。こちらの建物に入ってみました。松聲閣(しょうせいかく)と呼ばれ、もと細川家の学問所だったそうです。一時期は細川家の住まいとして使用されていた大正時代の建造物なんだたとか。それを歴史性を生かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成28年1月にリニューアルオープンしています。建物の二階からの庭園の眺めです。四季折々の景観を眺めてみたいものです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その9) 肥後細川庭園
2023年02月04日
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清土鬼子母神を後にして、不忍通りを渡り目白台の住宅街を歩きます。丁度、このあたりが今回の駅からハイキングコースの中間地点になります。その住宅街を抜けると目白通りにでます。この目白通りに面して、いかにもといった門構えのお屋敷がありました。個人のお宅ではなく、「財団法人和敬塾」(→→→こちら)という表札が掛かっていました。和敬塾(わけいじゅく)、いわゆる受験勉強を教える学習塾とは違って、このような看板がありました。つまり、この和敬塾とは、男子の大学生・大学院生のための学生寮であり、産業用冷凍機を始め、各種ガスコンプレッサーやそれらの周辺機器などを製造している株式会社前川製作所(→→→こちら)の創業者でもある前川喜作によって、「共同生活を通じて社会人としての『知性』と『徳性』を備えた人材の育成」を趣旨として、1955年(昭和30年)に設立されたそうです。こういう学生寮で大学生活を送っている学生さんっているんですね。知らなかったです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その8) 和敬塾
2023年02月03日
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雑司が谷七福神巡りの幟が町の中の七福神巡りのコースに立てらています。そして、このマンションですが、菊池寛旧居跡という碑がありました。菊池寛は、明治21年(1888)12月26日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正12年(1923)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和10年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。 寛は大正12年(1923)以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和12年(1937)に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和23年(1948)3月6日没。 「不実心不成事 不虚心不知事」(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。 平成11年(1999)11月 東京都豊島区教育委員会雑司が谷七福神、やって来たのは清土鬼子母神(せいどきしもじん)(→→→こちら)です。お寺の門前には、「鬼子母尊神出現所」と刻まれた石柱が建立されています。「鬼」の字の上の点がないことに注意。角(つの)のつかない鬼の字を用いるのが南池袋法明寺の鬼子母神堂の尊称だそうです。ここ清土鬼子母神は、南池袋法明寺の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が、永禄4年(1561)1月16日に山村丹右衛門によって掘り出された(出現)した旧跡だといわれており。清土は当地の旧地名(雑司ヶ谷村小名清土)だそうです。こちらが清土鬼子母神の本堂になります。そして、ここにおられる七福神は「吉祥天女」になります。でも、吉祥天女か七福神と聞くと、普通「エーッ!!」となりますね。だって七福神のメンバーといえば、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、寿老人、福禄寿ですから、ちなみに、補欠の吉祥天女は寿老人の代替で参加しているそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その7) 清土鬼子母神(吉祥天)
2023年02月02日
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さて、雑司が谷旧宣教師館(→→→こちら)に入ってみました。この建物は、明治40年(1907)、アメリカ人宣教師のジョン・ムーディー・マッケーレブが自らの居宅として建てた豊島区内最古の近代木造洋風建築です。こういう意匠の建物をカーペンターゴシック様式というそうです。マッケーレブ氏は明治25年(1892)、新婚の妻デラらと来日し、築地・神田・小石川と伝道活動を展開、そして明治40年(1907)雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)に帰国するまで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けていたそうです。約50年間にわたるマッケーレブの日本での活動は、慈善事業から幼児や青年の教育活動にまで及び、数多くの人々に感銘をあたえたそうです。室内の様子です。マントルピースやピアノがあって、いかにも欧米人が住んでいた洋館という雰囲気です。太陽光を取り入れた明るいサンルームですね。こういう家に住んでみたいものです。張り出し窓の張り出し方、一階は斜めに、二階は直角にと変えているのがデザインというものでしょうか。庭の方から見てみると、窓が広い。庭にあったブロンズ像「少女」です。作者は彫刻家の河野新氏で、宣教師マッケーレブ氏の青少年教育、社会福祉活動に取り組まれた遺徳を偲び寄贈されたそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その6) 雑司が谷旧宣教師館
2023年02月01日
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雑司ヶ谷霊園を出てこの細い道を歩いて行くと、カラーブロックで舗装した道がありました。「旧宣教師館通り」という名前の道です。注連縄が飾られた雑司ヶ谷キリスト教会です。その隣にある建物には多くの人が訪れていました。門柱には、東京都ㇺ豊島区立雑司が谷旧宣教師館(→→→こちら)と書いてありました。ということでここへお邪魔させていただきます。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その5) 旧宣教師館通り
2023年01月31日
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次の目的地である雑司ヶ谷霊園に向かって、イケ・サンパークから出て住宅街を抜けて歩くと、栃電荒川線(東京さくらトラム)の踏切がありました。東池袋四丁目の電停です。再び首都高速5号線の下を抜けて、細い路地を歩いて行くと、雑司ヶ谷霊園(→→→こちら)に着きました。1870年代前半に墓地に関する各種法律が明治政府より出され、共葬墓地が必要となり、明治7年(1874)に解説されたそうです。有名人のお墓があることでも有名ですが、これは日本人女性初の国家資格を持った医師、荻野吟子氏のお墓だそうです。しかし、こんな広くて沢山お墓があると、自分の所のお墓がどこにあったか、たまにお参りに来ると迷いそうですね。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その4) 雑司ヶ谷霊園
2023年01月30日
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このあたり東池袋というエリアになります。ここに大きな公園があります。「イケ・サンパーク」(→→→こちら)と呼ばれている公園です。お役所的には「としまみどりの防災公園」というそうですが、「IKE・SUNPARK(イケ・サンパーク)」との愛称で、多くの人に親しまれるようにしてしています。このイケ・サンパークに隣接して「としまキッズパーク」(→→→こちら)もあります。遊具や施設が「真っ赤」に塗られていて、子供向けの「真っ赤」な公園ですね。訪れた時に園内の樹木は毛糸のセーターを着せられていました。毛糸を使って公園の樹木や建築物を編みくるむ「ヤーンボミング(Yarn bombing)」(→→→こちら)というものだそうです。「としま編んでつなぐまちアート2022」というイベントの一環だそうですね。こちらの樹木には編み物のフクロウが枝にぶら下げられていました。「ヤーンボミング(Yarn bombing)」、直訳すると、糸爆弾、このフクロウが爆弾ということではないですよね。このイケ・サンパーク、元は旧造幣局関東支局の敷地だったそうです。池袋の街の中にこれだけのまとまった土地があるんですね。防災公園なので、゜非常時は避難場所やヘリポート、災害用物資の集積所として活用されるんでしょうね。でも、日常時は憩い、スポーツ、賑わいの場所として利用されているそうで、毎週末、園内でファーマーズマーケットが開催されているそうです。また、こちらの建物はカフェになってるようですね。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その3) イケ・サンパーク
2023年01月29日
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仙行寺から豊島区役所の近くを通った時に見かけた真っ赤なかわいいバス。「IKEBUS(イケバス)」(→→→こちら)というそうです。このバスは、池袋駅周辺の4つの公園や賑わい施設を回遊するそうです。ちなみに、MoMo太郎はイケオジを目指しています。区役所から、首都高速5号線の高架下をしばらく行くと、変わったレストランを発見。喫茶、中華、うなぎ、和食と揃った町の食堂。なんでもできる料理人の方がいるんですね。そして、池袋のシンボルみたいなサンシャインシティの南端にやってきました。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その2) IKEBUS
2023年01月28日
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2023年1月9日、最初のJR東日本の駅からハイキング「福来たる!雑司が谷七福神巡り 過去と未来をつなぐまち散歩」に参加してきました。七福神めぐりで今年の福にあやかりたいということで、ここ池袋駅から出発です。池袋東口というと、やはり西武百貨店ですね。「西武」と名乗りながら、セブン&アイ・ホールディングス傘下で、百貨店を展開するそごう・西武の百貨店なんですね。その上、そごう・西武はアメリカの投資ファンド、フォートレス・インベストメント・グループに売却が決定されたそうですね(→→→こちら)。また池袋の雰囲気も変わっていくのでしょうか。まず、朝の腹ごしらえ。池袋駅前のマクドナルドで、朝マックのベーコンエッグマフィンコンビ(270円税込み)をいただきました。やっばり人出の多い池袋のマック、お客さんが多くて、商品が出てくるまで結構待たされました。こちらが最初に訪れた、日蓮宗松栄山仙行寺(→→→こちら)です。お寺の本堂はビルになっていますが、壁面に様々な木々が植えられているのが、寺院という雰囲気を伝えているんですかね。土壁が使われているのが、ちょっと渋いですね。仙行寺さんで有名なのはこの「池袋大仏」です。木曽檜の木彫で、空中に浮かんでいます。やはり、名のある佛師と呼ばれる方の作品なんでしょうね。そして、ここにあるのが雑司ヶ谷七福神のひとつ「華の福禄壽」です。ちなみに、雑司が谷七福神は、南池袋1丁目町会長の渡辺隆男氏が、雑司ヶ谷の町おこしのために平成22年(2010)に七福神を定めたそうです。七福神巡りって、なにかのキッカケで制定するようなものなんですね。ちなみに歴史のありそうな浅草名所七福神巡りも今の9社(浅草寺の大黒天、浅草神社の恵比寿神、待乳山聖天本龍院の毘沙門天、今戸神社の福禄寿、不動院の布袋尊、石浜神社の寿老神、鷲神社の寿老神、吉原神社の弁財天、矢先稲荷神社の福禄寿)に定まったのは昭和52年(1977)だそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その1) 仙行寺(華の福禄壽と池袋大仏)
2023年01月27日
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埼京線の板橋駅前です。もう新年を迎える準備は万端ですね。人気ブログランキング新年を迎える準備は万端です
2022年12月30日
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今日は世間一般ではクリスマス・イブ(Christmas Eve)ですね。だだキリスト教の教義に従うと、正確に言うと、キリスト教では「教会暦」で日付を区切ります。教会暦では、日没から次の日没までが1日です。12月24日の日没から24:00までがクリスマスイブ、12月25日の日没までがクリスマスになるそうです(→→→こちら)。そして、やっぱりこの時期はクリスマスの飾りつけが町のあちらこちらで見られます。こちらはイタリア料理店の前にあった小さなクリスマス・ツリーです。こちらは両国の北斎通りにある葛飾北斎の作品を多くの色糸を用いて織った布を展示・販売しているお店→→→こちら)ですが、こういう和風の店の店頭にも、クリスマス・リースが飾られていました。人気ブログランキングChristmas Eve
2022年12月24日
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