元MONOZUKIマスターの独白

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第二篇第四章


  第四章 貨幣の資本への転化
   第一節 資本の一般的定式

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 商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。・・・・・この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。

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・・・・・単純な商品流通は売利で始まって買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。・・・・・
 ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W-G-Wは完全に終わっている。それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。・・・・・これに反して、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。・・・・・
 循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G-W-Gは、貨幣の側から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。
 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。・・・・・流通G-W-Gではそうではない。この流通は一見無内容に見える。というのは同義反復だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。・・・・・それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G´であって、ここではG´=G+ΔGである。すなわちG´は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

P198 L18
・・・・・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。

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 この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。・・・・・使用価値は決して資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。・・・・・この絶対的な至富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむことによって、それをなしとげるのである。

P203 L8
 売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G´は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。買いと売りとの中間で、すなわち流通部面の外で、行われるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に、利子生み資本では、流通G-W-G´は、短縮されて、媒介のないその結果として、いわば簡潔体で、G-G´として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。
 要するに、実際に、G-W-G´は、直接に流通部面に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。

   第二節 一般的定式の矛盾

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・・・・・このような、諸商品の一般的な名目的な値上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変わらないであろう。・・・・・
 要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである。・・・・・
・・・・・等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである。

   第三節 労働力の売買

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・・・・・ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである――労働能力または労働力に。
 われわれが労働力または労働能力というのは、一人の人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させる肉体的および精神的諸能力の総体のことである。

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・・・・・両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。・・・・・
 だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出合わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。・・・・・自然が一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。

P223 L3
・・・・・資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。

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 労働力の生産は、他のどの商品の価格とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。・・・・・この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。

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・・・・・だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。・・・・・だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。・・・・・だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。
 労働力の所有者は死を免れない。だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように、やはり生殖によって永久化されねばならない。消耗と死にとによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されねばならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。
 一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。・・・・・
 労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。

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・・・・・だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけでなく、多くのもっと持続的な結果によって示されている(51)。

引用51 「一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「フル・ブラスト」と、この価値よりも安く売る「アンダーセラーズ」とである。あとのほうの部類はパン屋の総数の四分の三以上を占めている。」(『製パン職人の苦情』に関する政府委員H・S・トリメンヒーアの報告、ロンドン、1862年XXX2ページ。)このアンダーセラーズが売っているパンは、ほとんど例外がなく、明礬やせっけんや粗製炭酸カリや石炭やダービシャ石粉やその他類似の好ましい栄養のある衛生的な成分の混入によって不純にされてある。(前に引用した青書を見よ。また、『パンの不純製造に関する1855年の委員会』の報告、およびドクター・ハッスルの『摘発された不純製品』、第二版、ロンドン、1861年、を見よ。)サー・ジョン・ゴードンは1855年の委員会で次のように言明した。「この不純製造によって、毎日二ポンドのパンで暮らしている貧民は、いまでは実際には栄養素の四分の一も受け取ってはいないのである。彼の健康への有害な影響は別としても。」なぜ、「労働者階級の非常に大きい部分が、不純製造について十分によく知っていながら、しかもなお明礬や石粉などまでいっしょに買いこむのか」ということの理由として、トリメンヒーア(同前、XLV111ページ)は、彼らにとっては「パン屋や雑貨屋がよこすパンを文句なしに受け取るのはやむをえないことである」ということをあげている。彼らは一労働週間が終わってからはじめて支払いをうけるのだから、彼らもまた「彼らの家族が一週間前に消費したパンの代価をやっと終末に支払う」ことができるのである。そして、トリメンヒーアは証言を引用しながらつけ加えて次のように言っている。「このような混ぜものをしたパンが特にこの種の客のためにつくられるということは、隠れもないことである。」「イングランドの多くの地方では」(だがスコットランドの農業地方ではもっと広く)「労賃は二週間ごとに、また一か月ごとにさえ、支払われる。この長い支払い期間のために農業労働者はその商品を信用で買わなければならない。

P230 L6
・・・・・労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品とも同じに、市場すなわち流通局面の外で行なわれる。・・・・・
 労働力の売買がその限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうのエデンだった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。・・・・・彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害だけである。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことを考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益、事業をなしとげるのである。

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