元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第七篇第二一章~二二章



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 蓄積の第一の条件は、資本家が、自分の商品を売ること、また、こうして手に入れた貨幣の大部分を資本に再転化させることをすでに済ませているということである。以下では、資本はその流通過程を正常な仕方で通るということが前提される。この過程のもっと詳しい分析は第二部で行われる。
 剰余価値を生産する、すなわち不払労働を直接に労働者から汲み出して商品に固定する資本家は、その剰余価値の最初の取得者であるが、けっしてその最後の所有者ではない。彼は、あとで、それを、社会的生産全体のなかで他の諸機能を果たす資本家たちや土地所有者などと分けなければならない。したがって、剰余価値はいろいろな部分に分かれる。剰余価値の断片はいろいろな部類の人々の手に入って、利潤や利子や商業利得や地代などという種々の互いに独立な形態を受け取る。これらの剰余価値の転化形態は、第三部ではじめて取り扱われうるものである。・・・・・
 なおまた、蓄積がおこなわれるかぎり、資本家は、生産した商品の販売に、またそれによって得た貨幣を資本に再転化させることに、成功しているわけである。さらに、剰余価値がいろいろな部分に分かれるということは、剰余価値の性質を変えるものでもなければ、剰余価値が蓄積の要素になるために必要な諸条件を変えるものでもない。資本家的生産者が剰余価値のどれだけの割合を自分の手に確保し、どれだけの割合を他人に引き渡すにしても、とにかく彼はそれをいつでも第一番に取得するのである。他方、剰余価値の分割と流通の媒介運動とは、蓄積過程の単純な基本形態を不明瞭にする。だから、蓄積過程の純粋な分析のためには、蓄積過程の機構の内的な営みをおおい隠すいっさいの現象をしばらく無視することが必要なのである。

第二一章 単純再生産

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 もしこの収入が資本家にとってただ消費財源として役立つだけならば、言い換えれば、周期的に得られただけが周期的に消費されるならば、他の事情が変わらないかぎり、単純再生産が行なわれる。

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・・・・・貨幣形態が生み出す幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形態で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に反し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級から引き取る。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とがこの取引を変装させるのである。
 こういうわけで、可変資本は、ただ、労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要とし社会的生産のどんな体制のもとでもつねに自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源または労働財源の一つの特殊な歴史的現象形態でしかないのである。労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼の手に流れてくるのは、ただ、彼自身の生産物が絶えず資本という形で彼から遠ざかるからでしかない。

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 「労働日」の考察などでおりに触れて示したように、労働者はしばしば自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。・・・・・
 われわれが、個々の資本家と個々の労働者とにではなく、資本家階級と労働者階級とに目を向け、商品の個別的生産過程ではなく、資本主義的生産過程をその流れとその社会的な広がりとのなかで見るならば、事態は別の様相を呈してくる。――資本家が彼の資本の一部分を労働力に転換すれば、それによって彼は彼の総資本を増殖する。彼は一石で二鳥を落とす。彼は、自分が労働者から受け取るものからだけではなく、自分が労働者に与えるものからも利得する。労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生み出すことに役立つ。それゆえ、絶対的に必要なものの範囲内では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本よって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。・・・・・
 それゆえ、資本家も、その理論的代弁者である経済学者も、労働者の個人的消費のうちでただ労働者階級の永久化のために必要な部分だけを、つまり資本が労働力を消費するために実際に消費されなければならない部分だけを生産的とみなすのである。・・・・・もしも資本の蓄積が労賃の引き上げをひき起こし、したがって資本によるより多くの労働力の消費なしに労働者の消費手段の増加をひき起こすとすれば、追加資本は不生産的に消費されることになるであろう。実際には、労働者の消費は彼自身にとっては不生産的である。というのは、それはただ貧困な個人を再生産するだけだからである。それは資本家や国家にとっては生産的である。というのは、それは他人の富を生産する力の生産だからである。・・・・・ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。

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・・・・・資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方に人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのもの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである。
 こうして、資本主義的生産過程は、関連のなかでみるならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。

第二二章 剰余価値の資本への転化
   第一節 拡大された規模での資本主義的生産過程
         商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転
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 これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるのかを考察しなければならない。剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。

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 資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。ところが、剰余価値ははじめから総生産物の一定の部分の価値として存在する。総生産物が売られ、貨幣に転化されれば、資本価値は再びその最初の形態を得るが、剰余価値のほうはその最初の存在様式を変えている。とはいえ、この瞬間からは資本価値も剰余価値も両方とも貨幣額であって、それらの資本への再転化はまったく同じ仕方で行なわれる。

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 まず第一に、年間生産は、その年のうちに消費される物的資本成分を補填すべきすべての対象(使用価値)を供給しなければならない。これを引き去ったあとには、純生産物または剰余生産物が残り、それには剰余価値が含まれている。では、この剰余生産物はなにから成っているのか?ことによると、資本家階級の必要や欲望をみたすべき物、つまりこの階級の消費財源に入るものからでも成っているのであろうか?もしそれが全部だとすれば、剰余価値は残らず使い果たされ、ただ単純再生産が行われるだけであろう。
 蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化させなければならない。だが、奇跡でも行わないかぎり、人が資本に転化させうるものは、ただ、労働過程で使用できる物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者の生活維持に役だちうる物、生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった量を越える追加生産手段と追加生活手段との生産にあてられていなければならない。一言でいえば、剰余価値が資本に転化できるのは、それをになう剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならないのである。
 次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば、追加労働者を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐまにあうようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである。このような、いろいろな年齢層の労働者階級によって年々資本に供給される追加労働力を、資本は、ただ、年間生産のうちにすでに含まれている追加生産手段に合体させさえすればよいのであって、剰余価値の資本への転化はそれですんでいるのである。具体的に見れば、蓄積は、累進的に増大する規模での資本の再生産ということに帰着する。

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 そこで、われわれの例に帰ることにしよう。それは、アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、うんぬん、という昔話である。最初の10,000ポンドの資本は2000ポンドの剰余価値を生み、それが資本化される。新たな2000ポンドの資本は400ポンドの剰余価値を生む。これがまた資本化されて、つまり第二の追加資本に転化されて、新たな剰余価値80ポンドを生み、また同じことが繰り返される。・・・・・
 もし追加資本がそれ自身の生産者を働かせるとすれば、この生産者は、まず第一に元の資本を引き続き価値増殖しなければならないが、さらにそのうえに彼の以前の労働の成果を、それに費やされたよりも多くの労働で買いもどさなければならない。資本家階級と労働者階級とのあいだの取引として見れば、以前から働いていた労働者の不払労働で追加労働者が使用されるとしても、事柄に変わりはない。場合によっては、資本家は追加資本を機械に換え、この機械は追加資本の生産者を失業させてその代わりに二人か三人の子供を就業させるということもあるであろう。どの場合にも、労働者階級は、自分の今年の剰余労働によって、次の年に追加労働を使用する資本をつくりだしたのである。これが、つまり、資本によって資本を生む、と人の言うことなのである。

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・・・・・最初は、所有権は自分の労働にもとづくものとしてわれわれの前に現れた。少なくとも、このような仮定が認められなければならなかった。なぜならば、ただ同権の商品所持者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり、そして自分の商品はただ労働によってつくりだされうるだけだからである。所有は、今では、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物取得する権利として現われ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現われる。所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである。

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 だから、貨幣の資本への転化は、商品生産の経済的諸法則とも、そこから派生する所有権とも、もっとも厳密に一致して行われるのである。だが、それにもかかわらず、この転化は次のような結果を生む。
 (1)生産物は資本家のものであって、労働者のものではないということ。
 (2)この生産物の価値は、前貸資本の価値のほかに、剰余価値を含んでおり、この剰余価値は労働者には労働を費やさせたが資本家にはなにも費やさせなかったにもかかわらず、資本家の合法的な所有物になるということ。
 (3)労働者は引き続き自分の労働力を保持していて、買い手が見つかりしだい再びそれを売ることができるということ。
 単純再生産は、ただ、この第一の操作の周期的反復でしかない。そのたびごとに、絶えず繰り返して、貨幣は資本に転化される。だから、法則は、破られるのではなく、反対に、引き続き実証される機会を保持しているだけである。

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 このような結果は、労働者が労働者自身によって商品として自由に売られるようになれば、不可避的になる。しかしまた、そのときからはじめて商品生産は一般化されるもであって、それが典型的な生産形態になるのである。そのときからはじめて、どの生産物もはじめから販売のために生産されるようになり、いっさいの生産された富が流通を通るようになる。賃労働がその基礎となるとき、はじめて商品生産は自分を前社会に押し付ける。しかしまた、そのときはじめて商品生産はそのいっさいの隠された力を発揮する。賃労働の介入は商品生産を不純にする、と言うことは、商品生産は不純にされたくなければ発展してはならない、ということである。商品生産がそれ自身の内在的諸法則に従って資本主義的生産に成長してゆくのにつれて、それと同じ度合いで商品生産所有法則は資本主義的取得の諸法則に変転するのである。

   第二節 拡大された規模での再生産に
         関する経済学の誤った見解

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・・・・・たとえばリカードの言うところを聞いてみよう。
 「一国の生産物はすべて消費されるものと考えなければならない。しかし、それが別の価値を再生産する人々によって消費されるか、それとも別の価値を再生産しない人々に消費されるかによって、考えるかぎりの最大の相違が生ずる。われわれが、収入が貯蓄されて資本につけ加えられる、と言うとき、その意味するところは、収入のうちから資本につけ加えられるといわれる部分が不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって消費されるということである。資本が非消費によって増殖されると考えるよりも大きな誤りはない。」
 リカードもその後のすべての人々も、
「収入のうちから資本につけ加えられると言われる部分は生産的労働者によって消費される」というアダム・スミスの誤りの口まねをしていたのであるが、これ以上に大きな誤りはないのである。この考え方によれば、資本に転化される剰余価値はすべて可変資本になるということになるであろう。そうではなく、剰余価値も、最初に前貸しされる価値と同様に、不変資本と可変資本とに、生産手段と労働力とに、分かれるのである。労働力は、可変資本が生産過程のなかでとっている形態である。この過程では、労働力そのものは資本家によって消費される。労働力は、その機能――労働――によって生産手段を消費する。それと同時に、労働力を買うために支払われた貨幣は生活手段に転化し、この生活手段は、「生産的労働」によってではなく、「生産的労働者」によって消費される。アダム・スミスは根本的にまちがった分析によって、次のようなばかげた結論にたどりつく。すなわち、各個の資本は不変成分と可変成分とに分かれるにしても、社会的資本はただ可変資本だけになってしまう、言い換えればただ労賃の支払だけに支出されてしまう、というのである。たとえば、ある織物業者が2000ポンド・スターリングを資本に転化させるとしよう。彼はこの貨幣の一部分を織物工の買い入れに投じ、他の部分を毛糸や毛織機械などに投ずる。しかし、彼に毛糸や機械を売る人々はさらにその代金の一部分で労働に支払い、このようにして、ついには2000ポンド・スターリング全部が労賃の支払に支出されてしまう。つまり、200ポンドに代表される生産物の全体が生産的労働者によって消費されることになる。明らかに、この議論の全支点は、「このようにして」という言葉にあるのであって、これがわれわれを次から次へとどこまでも追い立てるのである。じっさい、アダム・スミスは、まさに研究が困難になろうとするところで研究をやめてしまうのである。・・・・・
 なお、経済学が、純生産物のうちから資本に転化される部分は全労働者階級によって消費されるというアダム・スミスの命題を、資本家階級のために利用することにぬかりがなかったのは、言うまでもない。

   第三節 剰余価値の資本と収入とへの
        分割 節欲説

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 剰余価値の量が与えられていれば、これらの部分の一方が小さければ小さいほど他方はそれだけ大きいであろう。他の事情はすべて変わらないと仮定すれば、この分割が行われる割合は蓄積の大きさを決定する。しかし、だれがこの分割を行うかといえば、それは剰余価値の所有者、つまり資本家である。・・・・・
 資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、・・・・・だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の教信者として、彼は容赦なく人類に生産ための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な至富欲を持っている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。・・・・・蓄積は、社会的な富の世界の征服である。蓄積は、搾取される人間材料の量を拡大すると同時に、資本家の直接間接の支配を拡大するのである。

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 だが、原罪の結果はどこにも現われる。資本主義的生産様式が発展し富が増大するにつれて、資本家は資本の単なる化身ではなくなる。・・・・・しかし、資本主義的生産の進展は、ただ享楽の世界をつくりだすだけではない。それは、投機や信用制度によって、いくらでもにわかな至富の源泉を開く。発展がある程度の高さに達すれば、富の誇示であり同時に信用の手段でもある世間並みな程度の浪費は、「不幸な」資本家の営業上の必要にさえなる。奢侈は資本の交際費の一部に なる。もともと、資本家は、貨幣蓄蔵者とは違って、彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生のいっさいの快楽を断つことを強要する程度にしたがって富をなすのである。だから、資本家の浪費は、はでな封建領主の浪費のような無邪気な性質をもっているのではなく、むしろその後ろにはいつでも最も卑しい貪欲や最も小心な打算が潜んでいるのであるが、それにもかかわらず、彼の浪費は、彼の蓄積といっしょに、しかも一方が他方を中断させる必要なしに、増大するのである。それと同時に、個々の資本人の高く張った胸のなかでは、蓄積欲と享楽欲とのファウスト的葛藤が展開されるのである。

   第四節 資本と収入とへの剰余価値の分配比率とは
別に蓄積の規模を規定する諸事情
         労働力の搾取度――労働の生産力――充用
される資本と消費される資本との差額の増大
         ――前貸資本の大きさ

P781 L1
 剰余価値が資本と収入とに分かれる割合を与えられたものとして前提すれば、蓄積される資本の大きさは、明らかに剰余価値の絶対量によって定まる。・・・・・
 われわれがおぼえているように、剰余価値率は労働力の搾取度によって定まる。・・・・・
 だが、もし労働者が空気だけで生きていられるものならば、どんな価格でも彼らは買われないであろう。だから労働者がただだということは、数学上の意味での極限であって、ますますそれに近づくことはできても、けっしてそれに到達することはできないのである。彼らをこの虚無的な立場に押し下げることは、資本の恒常的な傾向である。

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 最後に、本来の工業では、労働の追加支出はつねにそれに対応する原料の追加支出を前提するが、しかし必ずしも労働手段の追加支出は前提しない。そして、採取産業や農業は製造工業にそれ自身の原料を供給するのだから、前者が追加的資本補給なしで生みだした追加生産物は後者のためにもなるのである。
 一般的に結論すれば次のようになる。資本は、富の二つの原始的形成者である労働力と土地とを自分に合体することによって、一つの膨張力を獲得するのであって、これによって資本は、外観上は資本自身の大きさによって画されている限界を越えて、すなわち資本の定在がそのなかにあるところのすでに生産されている生産手段の価値と量とによって画されている限界を越えて、それ自身の蓄積の諸要素を拡大することができるのである。
 資本の蓄積におけるもう一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。
 労働の生産力の増大につれて、一定の価値を表わす生産物量、したがってまた与えられた大きさの剰余価値を表わす生産物量は増大する。剰余価値率が不変ならば、または、それが低下しても、労働の生産力が上昇するよりも緩慢にしか低下しないかぎり、剰余生産物の量は増大する。それゆえ、もし収入と追加資本とへの剰余生産物の分割が元のままならば、資本家の消費は蓄財財源が減少することなしに増加することができる。蓄積財源の比率的な大きさは、消費財源を犠牲にしても増大しうるが、その場合にも資本家は、商品が安くなることによって、以前と同じかまたはもっと多くの享楽手段を自由に処分することができる。しかし、労働の生産性の上昇につれて、すでに見たように、労働者の低廉化、したがって剰余価値率の上昇が進むのであり、実質労賃が生産性が上がる場合にさえもそうなる。実質労賃はけっして労働の生産性に比例しては上がらない。だから、同じ可変資本価値がより多くの労働力を動かすのであり、したがってまたより多くの労働を動かすのである。同じ不変資本価値がより多くの生産手段に、すなわちより多くの労働手段や労働材料や補助材料に表わされ、したがってより多くの生産物形成者とともに価値形成者を、または労働吸収者を供給する。それゆえ、追加資本の価値が変わらなければ、またそれが減少してさえも、加速された蓄積が行われるのである。再生産の規模が素材的に拡大されるだけではなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも速く増大するのである。

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 労働の生産力の発展は、原資本すなわちすでに生産過程にある資本にも反作用する。現に機能している不変資本の一部分は、機械などのような労働手段からなっており、このような労働手段は長い期間を経てはじめて消費され、したがって再生産され、または同種の商品と取り替えられる。・・・・・もし労働の生産力がこのような労働手段の出生の場所で増大したならば、そしてこの生産力は科学や技術の絶えまない流れにつれて絶えず発展するのであるが、そういう場合には、いっそう有効な、またその効率から見ればいっそう安価な機械や道具や装置などが古いものにとって代わる。・・・・・ただ単に労働力の緊張度を高めることによって自然の富の利用を増進することと同様に、科学や技術は、現に機能している資本の与えられた大きさにはかかわりのない資本の膨張力をつくりあげる。同時に、科学や技術は、原資本のうちのすでに更新期にはいった部分にも反作用する。原資本は、その新たな形態のなかに、その古い形態の背後で行なわれた社会的進歩を無償で取り入れるのである。もちろん、このような生産力の発展には、同時に、現に機能している諸資本の部分的な減価がともなう。この減価が競争によって痛切に感ぜられるかぎり、おもな重圧は労働者にかかってくる。すなわち、労働者の搾取を強めることによって、資本家は損害を埋め合わせしようとするのである。

P791 L5
・・・・・このような労働の自然力は、労働が合体されている資本の自己維持力として現われるのであって、また資本家による剰余労働の不断の取得が資本の不断の自己増殖として現われるようなものである。労働のすべての力が資本の力として映し出されるのであって、ちょうどすべての価値形態が貨幣の形態として映し出されるようなものである。

P794 L8
 労働の搾取度を与えられたものとすれば、剰余価値の量は、同時に搾取される労働者の数によって規定されており、また、この労働者数は、いろいろに違った割合でではあるが、資本の大きさに対応している。だから、、蓄積の連続によって資本が増大すればするほど、消費財源と蓄積財源とに分かれる価値総額もますます増大するのである。それゆえ、資本家はますますぜいたくに暮らしながら同時にますます多く「節欲する」ことができるのである。そして、最後に、前貸資本の増大につれて生産規模が拡大されればされるほど、生産のすべてのばねがますます精力的に働くのである。

   第五節 いわゆる労働財源

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・・・・・いわゆる労働財源は、社会的富のうちの、不変資本として機能するべき、または、素材的に言い表せば、生産手段として機能するべき部分を動かすためには、一定量の生きている労働が必要である。この量は技術的に与えられている。しかし、この労働量を流動化するために必要な労働者数は与えられてはいない。なぜならば、それは個々の労働力の搾取度につれて変動するからである。また、この労働力の価格も与えられていないのであって、ただこの価格の最低限界が、しかも非常に弾力的にそれが与えられているだけである。この説の根底にある事実は次のようなものである。一方では、労働者は、非労働者の享楽手段と生産手段とへの社会的富の分割に口出しはできない。他方では、労働者は、ただ例外的な恵まれた場合に富者の「収入」の犠牲においていわゆる「労働財源」を拡大することができるだけである。

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