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束の間の夢

束の間の夢
 オペで遅くなり、馴染みの串揚げ屋へ行くと、見たことのある初老の男がカウンターに座ってひとり飲んでいた。まだ先日退院したばかりのUさんであった。Uさんが私の外来に紹介されてきたのは平成5年1月の末であった。虚血性心疾患で1ヶ月入院した以外医者とは縁のない人であった。暮れから食欲が落ちたが、仕事の疲れでそのうちよくなるだろうと思っていた。年があけてもよくならず、1月10日頃から痛みも伴うようになり、嘔吐が始まった。もともと太ってはいないが、1ヶ月で10kgも体重が減ってしまった。還暦を迎えたUさんは奥さんとは仕事の関係で長く別居しており、長男夫婦も独立し、一人で医療関係のセールスをして九州・四国のあちこちを回っていた。仕事のあとに一杯やるのが唯一の楽しみであった。佐賀県の近くの開業医で1月末に胃透視を受けて、幽門狭窄で手術が必要といわれ、娘2人が嫁いだ蒲郡に紹介をしてもらった。病院に来たときは、2日前のバリウムが胃内に残り、食事は全く通らず、時々指を入れては戻していた。お腹の外からも腫瘤を触れ、内視鏡でみると、大きなボールマン3型の胃癌により、幽門は完全に閉塞していた。しかし、割と病識がなく、戻して楽になるとケロッとして、胃の出口が潰瘍の瘢痕で狭くなっているからという説明もそれ以上疑うそぶりもなく、早く切って楽にしてくれという。IVHを2週間行い、胃洗浄を繰り返し、2月12日に手術を行った。腫瘤は全周性で十二指腸にも浸潤しており、リンパ節にも広範な転移を認めた。何とか原発巣は切除し、B-2法で再建したが、組織は未分化型で、脈管侵襲も強く再発は近い将来必発と思われた。術後経過は極めて順調で、6日目に食事を開始し、8日目には「早くさしみで一杯やりたい」と言い出す始末であった。16日目にめでたく退院となり、しばらく娘の家から通院することになった。飲み屋で顔を合わせたのは退院後まだほんの1週間くらいのことであった。また酒が飲めるようになったことを喜び、いままでの身の上話をポツリポツリと話し、天草でとれる海老もおいしいが蒲郡の魚もおいしいといい、車でこの付近を回って、暮らしやすそうだから九州を引き上げてこちらに住むところをさがそうと思うとか、全く将来の不安を抱いていない様子であった。私は告知賛成派だが、こういう人に敢えて予後について話をして不安に陥れることはないだろうと、Uさんの話に相槌を打ちながら、黙って聴いていた。3月中頃に一度九州へ帰って仕事の整理をしてくるというので、最初紹介してくれた近所の開業医にしばらくの経過観察を頼んだ。こっそり、昔市民病院で働いていた長女を呼んで、「組織検査の結果は予後不良である。本人はこう言っているが、本当のことを言うのも気の毒だし、好きにさせた方がいいのではないか。」と話した。3月23日に九州に帰り、2週間くらいしたら、天草の生きた車エビを宅急便で送ってきた。次に便りがきたのは、紹介した先生からの「荒尾市民病院にて5月21日最後を迎えられました。」という報告であった。その間の経過はわからないが、術後3ヶ月と少し、あまりにも早い再発であった。いったい私のしたことは何だったのだろうか、延命という点では手術をせずにIVH だけで様子をみていても大差はなかったろう、唯一の救いは好きな酒がまた暫く飲めたことと束の間の夢をみることができたことであろうか。



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