子だくさん兼業主婦のつぶやき。

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命・・阪神大震災で学んだこと



忘れもしない、平成7年1月17日。

前日には旦那がTVを見ながら

「珍しいな~~神戸で地震があったよ。
震度1だって。」妙に気になったその一言。

そのとき、私たちは兵庫県に住んでいた。

そして、あの揺れ!!
まるで遊園地のコーヒーカップにでも乗ってるかのような激しさ。
ガチャンガチャンと食器が割れていく音を聞きながら
「これはただ事ではないぞ!」と直感した。
(ちなみにうちは、後に半壊という判定を受けた。)

タンスが倒れる!
直感した私は無意識に起き出して寝床の横にあるまだ新しい嫁入り道具のタンスを支えていた。

ふと見ると布団に包まって旦那が
「ばか!!タンスが倒れるわけないだろう!ほらこっちへ!!」

でも、後から聞くとタンスの下敷きになってなくなった方も沢山いて
やっぱりいざと言う時は“感”も大事だと思った。

まだうすくらい外では不思議な光が放っている。
今でも、あれがなんだったかは不明。

その後の状況は皆さん、TVでよくご存知でしょう。

それから日が昇ってくると同時に、一番に気なったのはその当時勤め始めたばかりの病院の事。

なんの情報も入らない状態だったのでとりあえず、絶対これは怪我人がいてばたばたしてるに違いない!!
と思い、とりあえず、病院に向かうことに。

出かけようとすると近所の方に今、動くと危ない!!
と言われたが「看護婦」という二文字がそのときばかりは自分を病院に向かわせた。

その道中、これはすごいことになったと現実が押し寄せてきた。

つぶれた家屋、、線路から脱線した電車・・看板が外れてしまっている老舗の店みせ・・

ついてみるともうそこはいつもの穏やかな空気ではなく知ってる顔が血相変えて走り回っていた。

あふれかえった院内。
そして怪我人。
私はただ呆然としてしまって何をどこへ行けばいいのか判断しかねていた。

そこへ、「あなた手が空いてるならこっち来て・・」婦長さんに言われ行って見るといつもはリハビリ室に使われているフロアが大勢の遺体の安置所になっていたのだ。

ほとんど、即死状態だった。

5歳と8歳の兄弟もいた。泥まみれだった。
そして私は死後の処置を任された。

ひたすら皆をきれいにしていった。

本当の死後の処置は、まずは末期の水で口を湿らせ、顔と体をきれいに拭いてそのあと、鼻腔・耳腔・肛門部等、綿を詰めていく。
そしてきれいな服に着せ替え(普通は白装束)、女性は化粧を施す。
手の指を組ませて手首をくくる。

そういったことは丁寧に出来ないくらいの遺体の人数だった。

涙も出なかった。
家屋が倒壊して顔面が痛んでる人もいた。
ただただひたすらに・・

なんとか、終わりがけた時、その幼い兄弟の親がやってきた。
その日に限って近くに住む祖父母のところに預けていたらしい。

号泣していた。

しばらく、鬱気味になった。
そのとき、旦那が何も聞かないでいてくれるのがありがたかった。

今じゃ、あのころの記憶がものすごく薄い。

ガスも水道も2ヶ月近く止められていたというのに自分がどうやってしのいでいたかがあんまり思い出せない。

脳があの状況から自分を守っているようだ。

今の私は、すっかり元気なのだけど、あのことで学んだのは命はかけがえのないもの。
そして危ういもの。

今を精一杯生きて、今ある命を大事に・・

突然の事態に面してもなるべく後悔が無い様に生きて行きたい・・

いつも思う事です。


・・・なんか、急にしんみりなっちゃった・・f(^_^; スンマセン




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