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1955年2月24日 (フランス出身)
1978年79年ユーロF3、フランスF3チャンピオン
1985年・86年・89年・93年 F1ワールドチャンピオン
出走回数 199回(歴代 7位)
優勝回数 51回(歴代 2位)
PP 33回(歴代 4位)
FL 41回(歴代 2位)
獲得総ポイント 798.5P(歴代 2位)
マクラーレンM29・フォード
予選最高位 7位
決勝最高位 5位
シリーズ 16位(5P)
◆78・79年と2年連続して、フランスF3、ユーロF3の両タイトルを獲得。期待の新星としてマクラーレンからデビュー。デビュー戦はアルゼンチンGP。予選12位からスタートすると、早くも6位入賞を遂げる。その後も計4度の入賞を果たす。
◆2年目はルノーに移籍。チームメイトはルネ・アルヌー。
戦闘力はあるものの、熟成不足のため完走率は高くない。そんな中、母国第8戦フランスGPでデビュー20戦目の初優勝を飾る。結局、優勝3回、2位2回、3位1回の成績をあげ、残る9戦はリタイア。完走さえできれば必ず表彰台に乗るという活躍で、先輩ドライバーであるルネ・アルヌーを凌駕する。
ルノーRE30B/ルノー
PP 5回
優勝 2回
FL 4回
シリーズ 4位(34P)
◆開幕から2連勝。その後も、4回の入賞(内、2回の表彰台)を獲得。この年は予選ではプロスト、アルヌーが共にPP5回を獲得。マシンの速さは第一線に躍り出る。しかし、信頼性はは高くなかったため、両者共にリタイアは多かった。それでも、両者共に2勝をあげる。
ルノーRE40/ルノー
PP 3回
優勝 4回
FL 3回
シリーズ 2位(57P)
◆フランスGP、ベルギーGP、イギリスGP、オーストリアGPで4勝を挙げる。そのうち3戦ではFLを記録。決勝で早いプロストのレーススタイルが現れてきている。
しかしシーズンは、ブラバムのネルソン・ピケに逆転でタイトルを奪われ、初のタイトル挑戦は失敗。
マクラーレンMP4/2・ポルシェ
PP 3回
優勝 7回
FL 3回
シリーズ 2位(71.5P)
◆ロン・デニスが率いるプロジェクト4と合体した新生マクラーレンに移籍。チームメイトは、元世界チャンピオンのニキ・ラウダ。圧倒的な速さで7勝をあげたプロストに対して、ラウダは5勝。しかし、チャンピオンはラウダが獲得した。クレバーで確実な走りでポイントを着実に積み重ねたラウダは、わずか0.5ポイント差でプロストを上回りチャンピオンとなった。
ちなみに、獲得ポイントが0.5ポイントとなっているのは、第6戦モナコGPが雨の為に短縮して終了したためポイントが半分だけ与えられたため。(このレースは、セナがデビューの年で、豪雨の中弱小マシンでプロストを追いつめたことで知られている)
マクラーレンMP4/2B・ポルシェ
PP 2回
優勝 5回
FL 5回
シリーズ 1位
ワールドチャンピオン
◆シリーズを通して、優勝5回、2位2回、3位4回、4位1回、リタイア3回。確実に上位しかも表彰台圏内でフィニッシュし初のチャンピオンを獲得。前年にラウダからチャンピオンを獲得する方法を学んだプロストは、速さに堅実なドライビングをプラスして、早くて強いドライバーに成長していた。その冷静な走りは「プロフェッサー」と表されるようになっていった。
プロストはフランス人初のF1ワールドチャンピオンとなった。
マクラーレンMP4/2C・ポルシェ
PP 1回
優勝 4回
シリーズ 1位
ワールドチャンピオン
◆シリーズをリードしたのは、力を発揮し出したHONDAエンジンを積むウィリアムズ。ドライバーはネルソン・ピケとナイジェル・マンセルの二人で、最終戦を迎える段階で、マンセルが6勝でリードし、ピケが4勝で追う展開。プロストは3勝でタイトルに望みを残す展開。最終戦では、マンセルは3位に入ればチャンピオンが決まるのに対し、プロストは優勝してかつマンセルがノーポイントに終わらないとチャンピオンを獲得できない。
プロストのチャンピオンはほぼ無理だろうと大方が考えていたが、レースは予想できない展開となる。マンセルはなんとタイヤバーストでリタイア、同じマシンのピケは、安全のためにタイヤ交換にピットインし、プロストが首位に出る。そして、プロストは燃費が厳しい中冷静な走りでマシンをゴールまで導いた。まさにぎりぎりの状態で走り抜き、チャンピオンを獲得したのだった。プロストが、プロフェッサーの異名に最もふさわしいシーズンといえるかもしれない。
マクラーレンMP4/3・ポルシェ
予選最高位 2位
優勝 3回
FL 2回
シリーズ 4位(46P)
◆セナが頭角を現し、プロスト、マンセル、そしてプロストが4天王と呼ばれるようになった時代。ウイリアムズのピケとマンセルがタイトルを争い、プロストは3度の優勝を記録するのみ。しかし、シーズン3勝目となったポルトガルGPの優勝は、当時の最多優勝記録となる、プロストの通算28勝目だった。
マクラーレンMP4/4・ホンダ
PP 2回
優勝 7回
FL 7回
シリーズ 2位(87P)
◆当時最強といわれたHONDAエンジンと共に、A.セナがチームメイトに加入。いわゆるセナ・プロ時代の幕開けだった。
マクラーレンMP4/4、ホンダのRA166E・ターボ・エンジン、そしてプロスト、セナと言う二人の最強ドライバー。チームは16戦中15勝をあげるという歴史的な強さを見せるが、シリーズはけっして退屈なものでは無かった。セナとプロストというドライバーが真っ向からぶつかり合ってレースを戦ったからだった。
予選ではセナの走りが圧倒。プロストのPP獲得は2回に対して、セナがPPを13回獲得したのに対して、プロストは2回のPP、2位が9回。
しかし決勝では、互角の勝負を繰り広げる。序盤の第7戦までは、プロスト4勝で3勝のセナをリード。しかし、第8戦から第11戦までをセナが連勝。プロストは第13/14戦と連勝するも、第15戦日本GPでもセナが勝って、セナの初のチャンピオンが決まった。
プロストは、プロフェッサーらしい走りで、優勝7回、2位7回(残る2回はリタイア)という素晴らしい成績を残しながらチャンピオンを獲得できなかったのだった。
なお、FLに関してはプロストが7回記録しているのに対して、セナは3回。PP獲得回数と合わせて、対照的で特徴的でもある。
マクラーレンMP4/5・ホンダ
PP 2回
優勝 4回
FL 5回
シリーズ 1 位(81P)
ワールドチャンピオン
◆第2戦サンマリノGPでいわゆる「紳士協定」事件がおき、セナとプロストの関係は決定的なものとなった。プロストは、チームがセナを中心としていると口にするようになる。
セナ・PP13回、6勝、プロストPP2回、4勝。しかし、チャンピオンを獲得したのはプロスト。3度目のタイトルだった。しかし、決定したのは鈴鹿サーキットでのシケインの入り口。セナとの接触によって決定したチャンピオンはどこか後味の悪さも残るものだった。
フェラーリ641
予選最高位 2位
優勝 5回
FL 2回
シリーズ 2 位 (71P)
◆タイトルを手にフェラーリに移籍。フェラーリにNo.1のカーナンバーをつけて走る。チームメイトは、N,マンセル。
セナとプロストは90年も熾烈なバトルを繰り広げた。プロストは5回の優勝を記録するものの、セナは6勝。そして、セナのリードで迎えた日本GPでは、1コーナーでまたも両者が接触。今度はタイトルがセナのものとなる。激しいバトルを繰り広げるセナ・プロ対決。後味の悪いものが再び残った。
フェラーリ642
予選最高位 2位
決勝最高位 2位
FL 1回
シリーズ 5 位 (34P)
◆この年フェラーリは低迷。シリーズはウィリアムズのマンセルとマクラーレンのセナがチャンピオン争いを繰り広げセナがチャンピオンに。プロストはデビューの年以来となる優勝をあげることの無いシーズンを送る。それでもFLを1回記録しているのはさすがか。
終盤プロストはチームを批判することが多くなり、チームとの関係は悪化。最終戦を前にして、解雇されるという結果に終わる。
休養
◆トップチームのシートを得られず、休養。シリーズはウィリアムズのマンセルが異次元の速さを見せ、念願のチャンピオンを獲得。しかし、ウィリアムズとマンセルは次年度の契約でもめ、なんとマンセルを放出。プロストが93年のウィリアムズのシートを獲得する。
ウィリアムズFW15C・ルノー
PP 13回
優勝 7回
FL 6回
シリーズ 1 位(99P)
ワールドチャンピオン
◆最強を誇るウィリアムズ・チームにプロストが加入。最大のライバルであるセナは、ホンダエンジンを失ったマクラーレン・フォードで戦うしかなく、シーズンはプロストがあっさりとリードするものかと思われた。しかし、思った通りには進まない。
予選では開幕7連続PP獲得。PP数13回、予選2位3回。つまり全てのGPでフロント・ローからスタートするという素晴らしい結果。しかし決勝では思うようにいかない戦いもあった。
第2戦はリタイア、第3戦ヨーロッパGP(ドニントン・パーク)では雨中のセナの奇跡のオープニングラップにより、屈辱の敗戦(それでも3位なのだが・・)それでも第4戦から第10戦までの7戦中は6戦で優勝。シーズンを大きくリードし、第14戦ポルトガルGPでチャンピオンを決定する。しかしこのポルトガルGP直前に、プロストは引退を発表した。
最終戦オーストラリアGP。プロストは2位で表彰台に上がった。優勝はA.セナ。ファンを沸かせたセナ・プロ対決の最後だった。セナとプロストの関係が悪化してからの数年、共に表彰台に上っても、言葉を交わすことも目を合わせることも無かった二人は、どちらからともなく握手を交わしていた。
プロスト・グランプリ 監督
◆リジェを買収する形で、プロストGPを立ち上げる。デビューシーズンの 97年
は無限-ホンダエンジンを搭載。ブリヂストンタイヤのエースチームとして快走。O.パニスは序盤は上位の常連となったがカナダGPの事故後は下降線をたどる。
98年
、純フランスチームを目指すプロストは、エンジンをプジョーに変更。しかし成績は中段以降に低迷する。昨年までプロストが搭載していた無限エンジンを積んだジョーダン・チームが初優勝したのとは対照的だった。
プロストGPとプジョーは成績の不振を互いの責任と非難しあい、2000年限りでプジョーがF1から撤退。
2001年はフェラーリエンジン(バッジネームはスポンサーの「エイサー」)を搭載したが、成績は向上せず、資金難の為、シーズン終了後に破産した。
しかし、チームは破綻しても、プロスト個人の資産は一切使用されなかったという。プロストらしいといえば、らしいかもしれない。
アラン・プロストというドライバーの印象は、「プロフェッサー」と呼ばれるように、クレバーで冷静な走りが印象としてある。チャンピオン獲得のため、リスクを犯すよりは堅実な結果を残し、速く走れるシーンでは圧倒する。セナとプロストの対決が顕著になった1987年以降、日本では、情熱がわかりやすく人気のあるセナに対する敵役として認知された感がある。
しかし、彼が戦ってきたドライバーはニキ・ラウダ、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、そしてアイルトン・セナという、いずれ劣らぬ名ドライバー達であり、その中で4度のチャンピオンを獲得したしたという事実は素晴らしいものがある。
特に2度目のチャンピオンを獲得した1986年は、マシンではウィリアムズの2台に先行されながら、プロストらしい着実にチャンスをものにする走りでポイントを積み重ね、最終戦で逆転するというドラマを演じている。プロストにしかできない、もっとも価値あるチャンピオンと言えるかも知れない。
ただ、プロストもデビュー当初から確実な走りを身につけていたわけではなく、当初は荒く危険と評されたこともあったようだ。それが大きく変わったのは、1984年にチームメイトとなったニキ・ラウダの走りを見てからと言われている。「チャンピオンとはこうして取るものだ」というラウダの走りはプロストに大きな影響を与え、ただ勝ちを狙うのではなく、チャンピオンを獲得するためにシーズンを通しての戦い方を実践するようになる。
プロストのキャリアの後半に、大きなライバルとなったのはアイルトン・セナ。マクラーレンでチームメイトとなった1988年以降その対決は大きくファンを魅了した。この二人の対決無くして80年後半から90年初頭のF1人気の盛り上がりは無かったのではないだろうか。
予選では圧倒的な速さを誇り、PPから逃げ切るセナに対して、プロストはFLを多く記録するようにレースでの強さで対抗する。このスタイルの違いもファンにとっては見応えのあるものだった。ただ、マスコミに対して不満や、相手への攻撃をするプロストは、日本人には受け入れにくいもので、その意味でセナの敵役とならざるを得なかったことはプロストにとって不幸な事だろう。
また、89年、90年と2年連続して二人の接触でチャンピオンが決定するという結末もファンにとっては受け入れがたいものだった。しかし、二人の対決がF1の華であったことは事実。圧倒的なマシンを手に入れたプロストに対して、マシンに劣るセナがテクニックで対抗すると図式となった93年も見応えの多いシーズンだった。
現役引退後は、リジェを買収してプロストGPを立ち上げ、チーム監督として参戦。97年はブリジストン・タイヤのエースとして活躍したが、それ以降は低迷してしまったのは残念。特に98年にエンジンをプジョーに変更して以来、成績の不振を互いに責任をなすりつけあうこととなってしまった。
現役時代から、他人に対する不満を口にすることの多かったプロストだが、監督しては向いていなかったのかも知れない。