在日朝鮮人で、日本政府の旧植民地に対する政策の責任を追及してきた宋斗会さんが、 2002
年 6
月 8
日、京都市左京区の病院で肺がんで逝去された。韓国慶尚北道出身。 87
歳。
宋さんは、 1969
年、日本国籍の確認を求める訴訟をおこし、また、浮島丸事件の補償を求める裁判の原告側代表をつとめた。『週刊金曜日』 2001
年 4
月 6
日号には、「浮島丸事件訴訟 それでも日本は黙殺するのか? 宋斗会さんに聞く」(中川喜与志)が掲載されている。 昨年8月の京都地裁判決は、国の安全配慮義務違反を戦後補償訴訟では初めて認定、国に計 4500
万円の賠償を命じたが、原告・国双方が控訴した。宋さんたち原告団は、「国は事件の真相を明らかにし、謝罪しようという姿勢がまったくない」と強く非難した。
宋さんは、かつて、ベ平連に参加している知識人らが、日本の過去の植民地政策の被害を受けている人びとに対し、口で言うだけで具体的な支援行動を何もしていないと、批判したことがあり、以後、ベ平連グループとの交流がはじまった。 1973
年 7
月、法務省前で宋さんが外人登録証を焼却したときにも、ベ平連のメンバーがそれに立ち会ったりした。【写真は、 1973
年 7
月 14
日、法務省前】
2002年に亡くなられていたのです。
プロフィールです。
1915(大正4)年、韓国慶尚北道漆谷郡生まれ。20年、父に連れられ京都府網野町へ。小学校入学前、日蓮宗本覚寺に引き取られ、木村岩雄と呼ばれる。33年9月、満州へ渡る。日本の敗戦後、47年網野町の次兄の所に引き揚げる。
64年、外国人登録法違反で逮捕。懲役1カ月、執行猶予1年の判決を受ける。69年、「日本国籍確認訴訟」提訴。73年、法務省前で外国人登録証を焼き、自ら刑事被告人となり日本国籍を主張。8月1日から15日まで、樺太の朝鮮人問題を訴えてハンスト。 この年、春から京大近くの鴨川の橋の下で暮らすが、秋、京大熊野寮委員会から寮の一室を提供される。以後、亡くなるまで熊野寮で起居する。
74年、樺太裁判提訴。76年頃から数年、「朝鮮征伐」「三韓征伐」の語句を見つけては改めさせる。92年、浮島丸事件訴訟提訴。2001年1月、 『満州国遺民―ある在日朝鮮人の呟き』
の元となる「呟き」を友人たちに送り始める。2002年6月8日、肺がんのため、京大病院にて死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
満州国遺民
ある在日朝鮮人の呟き
』より
「慰安婦合意」や少女像、そして徴用工判決を巡る態度、さらには無償化裁判 ―― 。不実の底が抜けきったいま、「日本」を問い続けた先人を思い返している。宋斗会(1915年生)である。
一度見れば忘れられない風貌、学生時代から何度か目撃していたが、話を聴いたのは「 浮島丸訴訟
」の取材時だった。
強制徴用された朝鮮人らが帰国のために乗った旧海軍輸送船が舞鶴沖で爆沈、判明分だけで549人もが死亡した大惨事の責任を問い、在韓遺族らが日本政府を訴えていた。宋は生存者や遺族を掘り起し、提訴を呼びかけた「 仕掛け人
」だった。
取材の場は、彼が 70
年代から暮らしていた京都大熊野寮である。宋に京大との縁はない。彼を慕う新左翼学生らが、鴨川の橋の下で寝起きしていた彼を寮に招き入れたのだ。仕事はしておらず、弁護士や大学教員を回って「カンパ」を集めていた。早い話が「カツアゲ」である。
2019
年2月号に掲載)
浮島丸訴訟の 1
審判決を 9
日後に控え、終の住み家となった京都大熊野寮でたばこをくゆらす宋斗会さん(京都市左京区で 2001
年 8
月 14
日)
私が彼を見かけたころは、60歳くらいだったようです。
学生の私にはずいぶん年取った人に見えました。
今の75歳くらいの感じでしたね。
マスコミに取り上げられることもなく、
東アジア反日武装戦線
のアジビラがびっしりと貼られていた 熊野寮に住んでいたので
その関係の人間と思い込んでいたのでしょう。
それにしても、亡くなるまでタダで学生寮に住んでいたとは驚きです。
最後は 京大病院
です。
新左翼の側にすれば、それなりの利用価値があったのでしょう。
学生寮は国有財産で利用料が徴収されますが、もちろん踏み倒していたことでしょう。
請求さえもなかった?
文科省も(公安)警察も、見て見ぬふりというのは不思議です。
私の誤認は解消されましたが、こちらはもやもやが残ったままです。