春三月。残雪の越後を旅する車寅次郎は、集団就職のために別れを惜しむ少年とその家族を見て故郷を想い出してしまった。
一方、柴又には、寅の生みの親菊が三十年振りで「とら屋」を訪れた。しばらくして菊は帰ったが、そこに寅が帰って来た。そして、さくらと一緒に菊を訪ね、再会した嬉びも束の間、寅の結婚話が元で喧嘩になってしまった。菊は、そんな寅に終始気を使うさくらに感謝しつつ京都へ帰った。
寅もこのことが原因でまた柴又を去った。その旅で、寅は、津軽から紡績工場へ出かせぎに来ている、頭は弱いが純真で可愛い少女花子と知りあった。
彼女は工場になじめず、故郷に帰りたいと寅に相談した。寅はなけなしの金をはたき、柴又を訪ねるよう住所を教えた。
数日後、柴又に戻った寅は、津軽に帰らずおいちゃんの店で働いている花子を見てびっくりした。ある日、突然花子が寅さんのお嫁になりたいと言う。その気になった寅は、早速さくらに相談した。さくらは、おにいちゃんが幸せになれるならと賛成したが、おいちゃん、おばちゃんは、生れてくる子供のことを考えて猛反対である。
そんな時、花子の身許引受人と名乗る福田先生が、突然紡績工場から行方不明になった花子を引き取りに来た。寅の不在中、花子は福田先生と共に津軽へ帰っていった。それから数日後、失意の寅は置手紙を残して柴又から消えた。
さくらは、直感で津軽にとんだ。さくらの勘は当り、バスの中で偶然に寅と出会った。二人の目には涙が浮んでいた。窓の外には、まだうっすらと雪を残す津軽山脈の向こうに真赤な夕陽が沈もうとしていた。
(KINENOTE)
『
男はつらいよ 奮闘篇
』は、
1971
年
4
月28
日
に公開された
日本映画
。『
男はつらいよ
』シリーズの 7
作目。同時上映は『
花も実もある為五郎
』。
本作で初めて脚本に参加した朝間義隆は、以降第 48
作までの全作品の脚本を共同執筆することになる。
92分
(ウィキ)
おいちゃん役は森川信で、なつかしかったです。
実母役のミヤコ蝶々も芸達者でした。
今回のマドンナは知的障害のある少女役の 榊原るみ
でした。
少し足りないところと津軽弁で熱演していました。
久しぶりに津軽弁を聞きましたが、お手上げです。
学生の頃、京都から実家に帰る途中の 急行「日本海」
で秋田弁なら何とかわかりまでしたが、津軽弁のほうは理解不能でした。
冒頭の集団就職シーンは、新潟の 越後広瀬駅
(只見線)でのロケでした。
1971年の大阪万博後の作品ですがまだ貧しい所もありました。
その頃私のクラスで、中卒で就職したのはひとりだったと思います。
高校以外では、職業訓練校(今は短大ですが)という進路選択もありました。
就職先は市内の企業?
もちろん集団就職とは無縁でした。
参考:
寅さん語録 「灯台の根元は暗いよ」「緑(みどり)は異なるもの、味なもの」。
(さかきばら るみ、
1951
年
3
月5
日
-
)は、
日本
の
女優
。
東京都
渋谷区
広尾
出身。
東映マネージメント
所属 (
業務提携 )
。
幼児のころから雑誌モデル・女優業を行っており、舞台、テレビなどで幅広く活躍した。 1970 年代前半の映画『 男はつらいよ 奮闘篇 』、テレビドラマ『 帰ってきたウルトラマン 』のヒロイン役や『 気になる嫁さん 』などへの出演で人気を博す。
娘の 松下恵 も女優として活動している。生まれてから 1999 年 に 19 年間連れ添った前夫と離婚するまで、広尾の実家住まいだった。 映画監督 の すずきじゅんいち と 1 年半にわたる同棲生活を送った末、 2001 年 1 月16 日 に入籍再婚する。すずきが監督した映画『 ひとりね 』では、過去の清純派のイメージを覆す、過激なシーンにも挑戦した。
夫のすずきと共に ロサンゼルス に移住し、夫の仕事である映画プロデュースを手伝っていた。
2010 年 9 月 29 日、 ラスベガス 近くで夫妻の乗った自動車が自損事故を起こし、助手席に乗っていた彼女も指の複雑骨折など重傷を負った。運転していたすずきは、 脊髄 の一部などを骨折。意識不明のままヘリコプターで病院に搬送されたが、命に別条はなく、榊原も 1 日で退院した。
上記の事故がきっかけで [1] 11 年間のアメリカ生活に終止符を打ち、帰国。現在は仕事に復帰している。
(ウィキ)
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