そういちの平庵∞ceeport∞

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日本には「世間」はあっても「社会」はない


「そんなことは世間では通らない」
「もっと世間を知らなければ」
「渡る世間に鬼は無し」
そのくせ、「世間」とは何かと問われて、答えられる人はまずいないだろう。
定義できないながら、「世間」は確かにあって、その曖昧模糊(あいまいもこ)としたものが、私たちの人間関係を律しているのだ。

現在行われているリストラの非情さは、資本の論理が「世間」の閉鎖的で差別的な面を利用しながら自分を押し通している姿なのだと言えないだろうか?
かつて、日本人にとって、「人の茶わんをたたき落とす」ことは、最も人の道に反することだった。
このモラルも実は「世間」が培ったものだったはずだ。
「世間」がよい意味で機能しているなら、リストラの行われ方も、もっと違ったものであり得たかもしれない。

日本人は西欧の『個人』とは違った個人を生きていると思う
近代の行き詰まりをどう打開するかという方向で考える時、
この日本的な個人のあり方や、そういう個人を包んでいる『世間』は、案外、可能性のある土壌なのではないか?
『世間』がなくならない以上、それがあることを前提にして、西欧的なものとは違う『社会』や『個人』のあり方を探すしかない

ACの問題が画期的だったのは
自分が世間や他者からどう見られてるか?
そのこととによって我々がどう適応してったか?
このことがひいてはこの国が他国からどう見られ
その事によってこの国が国際社会の中でどう適応してきたのか?

何故、ACやひきこもりは過剰に他者の目を過剰に意識するのか?
西欧化と世間この対比によってこの国が少し見えてくると思う

多分この国は、西欧コンプレックス世間主義国家だと思うのだが
だから見る人がこの国を見れば社会主義国だと言うのだ

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