そういちの平庵∞ceeport∞

そういちの平庵∞ceeport∞

ミシェル・フーコー



フランスの哲学者、思想史家。コレージュ・ド・フランス教授。高等師範学校では哲学、のち心理学、精神医学を修める。近代以来の人間中心主義に疑問を呈し、構造論的な手法による歴史の分析をとおして、西欧的人間像の系譜を明らかにした。著書に『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』など。(『現代思想の冒険者たち26 フーコー──知と権力』より引用)

なぜ学校に行かなければならないのか?
 「なぜ学校に行かなければならないのだろうか?」──この問いは、子どもの頃に誰もが一度は問うたことのある問題だと思う。あるいは、犯罪を犯したらなぜ刑務所に入らなければならないのか? 狂気はなぜ悪いのか? 同性愛はなぜイケナイのか?──こういったとても身近な問いに、フーコーは1つの答えを与えてくれるだろう。

 ここでひとつ想像して頂きたいのだが、生まれたての無垢な赤ん坊は、それぞれ色々な人生を歩み、それぞれ個性的な人間に育っていくだろうと思う。しかし、現実に私たちが社会のなかで出会う人たちは、皆それなりの一定の型に当てはめられた人たちである。例えば、種類やジャンルこそ違うけれど皆或る程度パターン化された服装や髪型をしているし、それなりの社交辞令や儀式といったものも習得している。言葉も同じ日本語を話しているし、電車の乗り方を知らないような人はまずいないだろう。若者が無礼だなんだと言われたところで、皆それなりに文化的な教養を身に付けているのである。(「~が無礼だ」という判断は、前提として守られるべき文化の価値観をあらかじめ知っていなければできない話である。)

 しかし、考えようによってはこれも不思議なことだ。人間は本来的には様々な生き方や自己実現の方法があるのに、なぜこうも一定の同じ型の人間のみが産出されてくるのだろうか?

 フーコーはこの眼差しで私たちの社会の諸現象を分析する。すると学校、刑務所、病院(特に精神病院)、マンションなどの諸施設が、一種の「プレス機」あるいは「鋳型」としての機能していることが見えてくる。人間は、学校や家庭や社会といった装置をベルトコンベアー式に通過していくことで、或る一定の「型」の人間に変形させられると言うのである。

 イメージ的に言えば、「○ △ × □ → → → ● ● ● ●」という感じであろうか。この「→」の部分こそが、学校、家庭、職場といった諸セクションである。様々な可能性を持った色々な人間(○△×□)は、これらの諸機構を通過することで、一定の「型」を持った「●●●●」へと改造されるというわけである。

近代の学校制度において特徴的なのは、こうした成績のランクは常に変動するものであり、変えることが可能であるという点である(近代以前は、固定的な身分制度が幅を利かせていて、どれほど個人が頑張っても、例えば平民が貴族を追い抜かすことは困難だった)。例えば、テストで勉強を頑張れば、成績の席順は上げることができる。つまり、「自分も努力すれば、上に登りつめるチャンスがあるんだ」という意識が常に与えられているのである。このことは子どもたちに、常に他人と自分を比較して競争意識を感じ取らせ、「あいつらには負けないぞ」という闘争心を掻き立てる効果を発揮する。

こうした学校的なランク分けは、義務教育だけではなく、その後の労働活動などにおいてもずっと続いていく。というより、この「他者と比較し、自分の立場を基礎づける」という比較による主体の位置づけは、社会のなかで生きる私たちの生き方そのものであるとさえ言うことができる。こうして「目標やノルマを目指して怠惰を克服し、自分を犠牲にして頑張ることが良いことなのだ」という価値観が支配的になる。私たちは常に、自分と他者の比較を通した競争意識に絶えずあおり立てつづけられている。

このように、或る価値観やイデオロギーに染まることで、私ははじめて「主体」となることができる。例えば、学校の成績などといった評価の価値観を受け入れて、それに参加して、初めて子どもは「生徒」として承認されるのである。だから、学校に行きたがらなかったりする子どもは、社会から締め出される傾向がある。不登校や登校拒否は「不健全な」症例だと言うのである。

 フーコーが分析する学校や刑務所や監獄などの諸施設は、すべてこのような社会のイデオロギーを人間に植え付けるための装置として分析される。例えば、刑務所とは、実際には、犯罪者を隔離する施設というよりは、犯罪者を再び社会にふさわしい人物に「調教」するための施設である。だからこそ、学校と刑務所はどこか構造が似ているのである。

 こうした学校や刑務所といったイデオロギー装置は、歴史的に、近代社会ができあがってくるにしたがって誕生したものだった。それ以前は、子どもたちは家庭や徒弟のなかで暮らし、犯罪者や狂人たちも一ヶ所の監獄に閉じ込められる、といったことはなかった。

フーコーの思想的な立場を一言で言えば、この世の中には絶対的な真理などはなく、あるのは人工的・歴史的に作られた規範や価値観だけであるということになるだろう。フーコー自身が認めているように、この一種の「相対主義」とでも言うべき立場は、特にニーチェの思想が主要な源泉となっている。ニーチェの有名な言葉である「真理などはない。あるのは(各人が都合が良いようにでっちあげた)解釈だけだ」という言葉の通りである

近代と言うシステムが戦争、犯罪、貧困、病気の根源
この社会の病気が治癒するかどうかに我々の未来もかかってる
「原始人が最初に石弓を用いてから、原子爆弾までは、理性の連続的なプログラムである。」という哲学者もいる
だとするならば・・・

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: