-小麦粉記-

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図書業務ロンド・・


 さよりが入学してから二ヶ月が経ち、最初は孤立していたものの図書局でだした冊子のお陰で何人かの友達ができていた。さすがに二ヶ月が経って友人の一人もいないほど人見知りが激しいわけでもなかったのでその数人の女子グループとはすぐに馴染み、また別のクラスの一人の男子ともよく話すようになっていた。
 その別のクラスからわざわざさよりに会いに来たという下川という男は、さよりの小説を読んでどうしても話をしたくなったと、放課後に図書室へとやってきてその場で自己紹介を始めた。なかなか爽やかな奴で、背も高く、部活はサッカー部だという。
 圭吾としてはいきなり図書室にやってきた奴が自分の事をまるっきり無視し、一方的に池ノ内に挨拶をして長々と自己紹介をした挙句颯爽と帰っていった下川のことがどうも気に入らず、中でも一番気に食わないことが池ノ内がまんざらでもない表情を自分に向けたことだった。
 何だって俺にそんな顔をするんだよ。とは思ったものの、池ノ内の小説が褒められたことに対して「よかったな」としか言うことができず、圭吾はなんだか面白くなかった。
 あの下川って言う男、どうもおかしい。…爽やかだ。無駄に爽やか過ぎるぜ。あそこまですがすがしいと逆に違和感を感じる。しかも池ノ内はなぜかかなり嬉しそうだ。なぜそんなに嬉しそうな笑顔を俺に向けるんだ池ノ内!なんだか滅茶苦茶面白くねぇぞ。
 きっと池ノ内はあの下川という男に何かしら好意を抱いていると思った圭吾は、自分がうさんくさい奴だと思った男と可愛い後輩を仲良くさせるわけにはいかないぜと、勝手に頭の中であれやこれやと考えをめぐらしていた。
 さよりにしても、いろいろと考えていることはあったのだが。

 今日の昼休みにも下川君は図書室へと足を運びに来た。
 カウンターの前の机で本を読んでいるだけだけど、たまに私と目が合うとにこりと笑顔を向けてくる。…正直、下川君は、爽やか過ぎた。バカみたいに爽やかな風が常に彼の周りで吹いてるみたいに、見ちゃいられないほど爽やかだった。
 先輩がちょっといなくなると
「池ノ内さん、いままでで一番面白かった本はなに?」
「なぁ、いっつも腕につけてる時計、ちょっと見せてよ」
「俺今彼女いないんだよね。池内さんは?」
などなど。正直言って、とっても迷惑だ。
 極めつけは
「ねぇねぇ、あの先輩ってさ、ちょっと感じわりいよな。池ノ内さんあんなひとと一緒にいてイヤじゃないの」なんてきいてきたから、そのときは思わず怒ったくらいだ。
 クラスで友達になった女の子たちは彼を見てキャーキャー騒いでいたし、実際学年の中でもカッコイイ男子ということで有名だったらしい。
 だけど、どうにも私にはあの爽やかさが好きになれない。
 最初に図書室に来たときも、いきなりやってきて私の小説をべた褒めした挙句、頼んでもいないのに自己紹介をし始めた。まるで私がそれを聞くのを心待ちにしていただろうといわんばかりの得意さで、名前だけでなく趣味がサッカーと読書でよくバッティングセンターに行くとか最近体力がついたんだとかそんなどうだっていいことをべらべらべらべら良くもまぁそんなに舌が回るものだといいたくなるくらいしゃべってしゃべってようやく帰ってくれた。
 茶木先輩がたまに来て先輩と話していくときは、確かに話は多いけれど耳の邪魔にはならない話だ。ふつうにきいていられるお話なんだけど、下川君のお話は、全然面白くもないし、自分の事ばっかりだ。いい加減しるかそんなもん!と叫んでしまいたい。茶木先輩が先輩と仲良さげに話し込んだ後私にチラッと目配せするのもムカつくけれど、この男もねちねちとしつこい。エンサイクロペディアブリタニカで殴ったら、どんなに気持ちがいいだろうか。アメリカーナでも広辞苑でもいいけどさ。
 あまりいい気分じゃなかったから先輩のほうを向いたら、先輩も下川君のほうをいやそうに睨んでいた。先輩のそんな顔を見たらほっと安心できたから、笑ってみた。
 逆に今度は困った顔をされたけど。あ、先輩の困った顔って、結構…。

 「先輩」と、まだ下川君が座って本を読んでいた席を睨んでいる先輩に声をかけた。
「ん、なんだ」
「もう六月に入りましたし、次の図書局の冊子つくらなきゃならないんじゃないですか?」
「まぁ、そろそろそんな時期か。それに買出しにもいってないな」
「買出し?」
「本の買出しだよ。ほら、学校の近くに開文堂っていう本屋があるだろ?あそこにいって局員が本を選んで買っていくんだよ。図書局のメインの仕事だ」
「それは、局員の独断で?」
「そうそう。常識の範囲でだけど、なんでもオッケーだ。予算以内だけどな」
「へぇ!すごいですね。予算はいくら位なんですか?」
「図書委員の予算をぶんどるから今回の予算は3万くらいだな」
「さ、3万円」
 思わず舌をかんだ。先輩と私の二人だけだったら、一人少なくとも1万5千円の予算が当たる。ずっと買いたかった本が次々と頭の中をちらついた。お金が無くて買えなかったハードカバーもあるし、全十巻の文庫だって買えてしまう!
「…いいですね。買出し」
「いいだろ。買出し」
 先輩と私は、だれもいない図書室で静かに笑った。下川君ことなんて、もうどうでも良かった。
 先輩と二人で買い物に行くのも、実は結構楽しみだったりするんだけどね。

 図書の買出しのことについて説明すると、池ノ内の顔がみるみる明るくなった。きっとコイツの頭の中では買いたかった本がびゅんゆん飛んでるに違いないと思いながら、その笑顔をちょっと見つめた。
 五月のちょっと前に図書局に入ってきた頃は、こんなに笑わなかったはずだった。一人で冊子を作っていたときなんて、もう泣きそうな顔しかしてなかった。それななのに、冊子が出来上がった頃から、池ノ内は良く笑うようになったなぁと、俺まで嬉しくなった。
 そうだぜ池ノ内、人って言うのは笑顔が一番似合うんだ。お前の困った顔とか、生意気そうな顔とかも好きだが、やっぱり笑ってくれると嬉しいぜ
 こんなに可愛げのある奴なのにいままで友達ができなかったことが不思議だけど、その前にあの下川という男をどうにかせにゃならん。
 俺がいなくなるとやたらと池ノ内に話しかけてるところを見る。慎一の話だと、相当なプレイボーイらしい。そんな奴に大事な後輩をたぶらかされるにはいかんのだ。…我ながらたぶらかされる、はどうかと思うが、すくなくともあの下川という奴は池ノ内には合わない野郎だということはゼッタイなんだから、野郎をどうにかして池ノ内からはなさねばなるまい。
 一発しめてやるのもてだけど、そいつはいい方法じゃない。短絡すぎだ。それに池ノ内が下川に好意を抱いている可能性も否定しきれない。
 というか、何で俺はこんなにもバカみたいに池ノ内のことを考えてるんだよ。あいつがだれと付き合おうが池ノ内の勝手だし、俺の知ったこっちゃ無い。
 …まぁ、あれか。妹が男と付き合い始めた兄貴の心境、って言うところだな。たった一人の後輩なんだから、できればちゃんとした男と付き合って欲しいと思うのは、先輩として当然だろう。
 慎一は「最近池ノ内とどうなのよ」と勘ぐりを入れてくるけど、残念ながらまあ俺は池ノ内を女としてみることができていないし、情けないがまだ早智子先輩のことを引きずっているらしく恋愛沙汰に関わろうという気がしない。池ノ内は可愛いが、やっぱり「大事な後輩」って言うところだな。
「それじゃ池ノ内、買出しいくぞ」
「へ?今からですか」
「気分転換にも本屋に行くだけでだいぶ違うだろ。それに今日は結構時間あるしな」
 ということで、俺たちは開文堂へと向かった。

 開文堂はここら辺では一番古いお店で、秋野山商店街のまとめ役的存在だ。学園からも近いのでよく利用しているし、秋野山学園の生徒はここで教科書を買うので、必ず三回は来る本屋だ。
 どしんとした店構えで、「来る者拒まず、新旧人気作珍作古今東西あらゆる本を取り扱っております。 万引き上等」と書かれた張り紙が大正時代からの大きな扉に貼り付けられている。今のオカマの店主になるその前の店主の前の前から受け継がれてきたお店と信条で、郊外の大型ショッピングモールの中に大手全国チェーンな本屋ができてもその客足はにぶらなかったという。
 一階がふつうに本屋、二階が古本・レコード・CDで、三階が文房具雑貨その他いろいろというこの店にいるだけで最低2時間は時間をつぶせる便利な本屋だ。まだ取材中でアパートに帰ってこない叔母のオカルト雑誌も、基本的にネットでしか買えないがこの店だけが店頭においてある。
 カウンター奥のほうにいたオカマ店主にちょっと挨拶をしたあと、早速バカみたいに広い売り場の入り口に立って本の選考に取り掛かった。と言っても、選ぶのは池ノ内に任せるんだが。
「よーし池ノ内。これから1時間、好きな本選んでこい。気に入ったらカゴに放り込め。値段は考えるな。金なんていうのは使ったもんがちなんだぜ?昔のお偉いさんはこういっている。一億円ためた人間より、一億円使った人間のほうが、偉大でかつ豊かだ、ってな」
「ホントにいいんですね。3万円越しちゃうかもしれませんよ?」
「いいんだいいんだ。予算なんて図書委員を脅したらすぐに出てくるんだから。じゃあ俺は少し古本屋のほうに行って探しものしてくるから、よろしくな」
 本当にほいほいカゴに本を入れ始めた池ノ内に、ほんのちょっとだけ予算の心配をしつつも、さすがに初めての図書買出しで遠慮なく3万をオーバーすることは無かろうよと二階の古本屋に上がった。三十分ほどでお目当ての本を探しあ照ることに成功し、静かな本棚の森で、俺は一人でガッツポーズをしてしまった。前々から読みたかった本で、以前この古本屋で見かけたもののお金が無いうちに誰かに買われてしまったいたのだ。それをまた売りはしないかと定期的にこよっていたんだけど、どうやらそうしてくれたらしい。
 もう2・3冊個人的に買いたい本を選んでから池ノ内の様子を見に下に降りると、さすがの俺もびっくりした。
 何より驚いているのは周りにいたふつうの客で、池ノ内のそばを通るたびに目を丸くしてゆく。
 すでに、本がぎっしり詰まったカゴは、2つをこえて3つになろうとしていた。
 1つ目のカゴにはハードカバー。2つ目のカゴには文庫本。3つ目のカゴには新書という具合にきれいに整頓されてるんだがしかし買いすぎだ。
 ザッとみて5万は軽くオーバーしている。文庫のカゴで一冊600円として2万、ハードカバーが一冊1500円として2万、なぜか新書だけで1万はいきそうだ。というかなぜそんなに新書を買い込む?文庫やハードカバーならまだしも、池ノ内に新書を読む趣味があったとは知らなかったぜ。
「あ、先輩。一応これと思ったものを放り込んでみたんですけど、大丈夫でしょうか。ちょっと多いかなとも思ったんですけどね」
 背中を冷や汗が流れた。後ろから店主の視線をいたいほど感じる。「買えよ」と、無言の圧力、背後からのビハインドプレッシャーってこれは使い方がちがうってどうするよ。
 実際問題、今の俺の財布に入っているのは予算から持ってきた5万とちょっと。冊子の売り上げの金は池ノ内と喫茶店に行くまで手をつけないと決めているので、ほとんどジャスト5万円だ。そういやまだ行ってねぇな、喫茶店。
「でも先輩、予算のほうは気にしなくてもいいっていってましたよね」
 池ノ内の笑顔が、今は怖かった。俺の焦りを読み取ったのか、今の問いは、同意しか許さない、一度いったものはまさか取り消しませんよね先輩的な笑顔の質問だ。
「あ、あぁ。問題ないな」
 問題ありありだった。
 正直なところをいおう。もともと廃部予定だったから割り当ての予算はかなり少なくて、実はこの5万が図書局に割り当てられた予算の残りだった。あとは印刷代へと消えている。
 図書委員を脅せばいくらでもでる…とはいったものの、実は顧問が代わったから去年までのように誤魔化しきれるかどうか微妙なところだ。
 まさかはじめての買出しで、一人で5万オーバーを出すとは予想してなかったぜ池ノ内。
「い、一応この辺にしておこうぜ池ノ内。俺がこの中から蔵書とダブってる奴を抜くから」
 これでいくらか抜いておけば、ぎりぎり間に合うかもしれん。池ノ内には悪いが、蔵書に無くても抜かせてもらうぞ。
「問題ありません。全部蔵書に無い本ばかりですから。確認済みです」
「そ、そうか」
 おいおいおいおい!なに得意そうな顔してるんだよ池ノ内!いつの間にうちの図書室の蔵書を把握したんだよ。しかも見たところ本当にダブりはなさそうだ。
「生まれつき記憶力はいいんですよ。あと店主さんが電卓を貸してくれて、計算してみました」
 コイツは参ったぜ…。池ノ内は自分が読みたい本を選びまくってニコニコしてやがるし、店主はもうレジスターに値段を打ち込んでやがる。池ノ内が打ち込んだであろう電卓を片手に、消費税込みの最終的値段を表示したレジの液晶を俺に向けた。
「5万5340円…」
 俺の口から、ため息と笑いが一緒になって漏れた。あはは、5340円、足りん。
「池ノ内、ちょっと待ってろ」といって店主のいるカウンターへと向かった。
「あらぁ高梨ちゃん。学校図書の買出しだろう?いつもありがとうねぇ」
 店主がしなをつくった。くそ、きもちわりぃ。
「んなことはどうでもいい。単刀直入に言おう。5340円、足りん!」
「本を減らせばいいじゃないの」
「あの後輩に「いくらでも買え」といった手前、減らすわけにはいかないだよ」
「じゃあアタシと寝てくれる?んもぅ一回くらい、いいじゃないのよぅ!」
「絶対いやだよ!なんかいい手は無いのかよ!」
「…んー、無いわけじゃないわよ。それに高梨ちゃんだってたまに使うじゃない」
「何だっけ」
「寝るって言ってくれたら教えてあげる」
「死んだほうがましだ」
 俺もたまにつかう?財布を開いても、別に…あ。
「ポイントカードだな」
「なぁんだ、気づいちゃったの?残念」
「だけどよ。これじゃ1万5千円で1000円の商品券になるんだろ?まだちょっと足りねぇじゃねぇか」
「そうねぇ。それじゃアタシの質問に答えてくれたら足りない分はチャラにしてあげるわ」
「言ったな」
「じゃあ第一問。あの子、後輩でしょ?可愛いじゃない。どうなの?あの子のこと、どう思ってるのよ」
 …いきなりそう来るのかよ
「後輩だな。大事な後輩だ。妹みたいなもんだ」
「あら、好きとかは無いわけ?」
「…まだわからん。正直、いま人を好きにはなんないよ」
 店主が、ちょっと俺の顔を見つめた。オカマのかおじゃなくて、男の顔で。
「早智子ちゃんのこと、まだ好きなの?」
 俺は、だまってそれに答えた
「そう。まぁ、あんな子、いないからねぇ。でも早智子ちゃんは、あなたのことを好きだったし、今だってそうだと思うわよ?でもね、だからこそ戻ってこないわ。あんたがどうなるかわかってるから、戻ってこないのよ。そこらへん、ちゃんとわかってあげてる?」
「…あぁ。わかってるつもりだよ」
「それじゃあ最後の質問。あの後輩の子、好きになれそう?」
 ちょっと考えたけど、正直なところを話すことにした。
「早智子先輩のことで気持ちの整理がついたら、もしかしたら、わかんないけど、好きになれるかも知れないとは思うよ。生意気だけど、いい奴だしな」
「そう、それを効ければ満足だわ。…あぁんもう高梨ちゃんったらそんな顔されると縛りたくなっちゃうじゃない!はぁ、高梨ちゃんの筋肉質でかつマッチョほどでもないしなやかな肉体を荒縄で縛ってあえがせる…あぁっヘヴンッ!」
「よせよ!なにを好き好んで男同士でSMしなきゃなんないんだよ!」
「あら、知らないの?結構気持ち良いのよ、あれ」
 やったことあんのかよ。
「まぁ、きちんとした答えを聞けたし、おまけしてあげるわ。ジャスト5万円。後はポイントカードとおまけ分でちゃらにしてアゲル」
「どうもすみません。お世話になります」
「あらぁ、そんなお礼よりもアタシの部屋に…」
「いかねぇよ」
 後ろでは池ノ内が怪訝そうな顔をしていた。そりゃそうだ。男同士顔くっつけ合ってひそひそ話してれば、どう見ても怪しいからな。
 俺はあの生意気な顔をして俺を見上げている後輩を、果たして好きになるときが来るんだろうか。
 どうなんでしょうね、早智子先輩。
 俺はまだ、あなたの事が好きなんだと、思うんですけど、ね。先輩。

 さてそれじゃ、あの遠慮の無い後輩に、余裕の顔してこの本を運ばないと。まさかはじめての買い込みで、ここまで買うとはねぇ。
「池ノ内、その本をダンボールに詰めろ。今日はハードカバーと文庫だけ持っていく。さすがに新書はもてないから」
「え、これ全部先輩持てるんですか?」
「持つしかないだろうよ。家に行くんだったらここの軽トラ借りることもできるけど、さすがに学校に軽トラで乗りつけるわけにはいかんだろ。中学のときはやってたけどさすがに高校三年でそれやるとまずいし」
「そうですね。それじゃあ頑張ってください。たくさん買ったかいがあります」
「…それはどういう意味だコラ」
「いえ、先輩の困った顔って、あんまり見れませんから。そういう意味です」
 いや、そんなことふつうに言うなよ池ノ内。

 先輩がふるふるふるえる腕の筋肉の限界を必死に我慢して学校の図書室まで本の詰まったダンボール2箱を運び終えたときには、もう六時をまわっていた。
 私はといえば懸命にダンボールを運ぶ先輩の横で、ちらちら先輩のしかめっ面を眺めながら歩いていただけなので、全然疲れてない。むしろ元気になっている。
「はぁ、結構疲れたぞこれ。もう腕がばかになってやがる」
「よく持って来れましたね、すごいです。あ、腕がぴくぴくしてますよ」
 前に茶木先輩が先輩と腕相撲をしていたのを見てムカついたので、ちょっと度胸を出してピクついている先輩の腕をムニ、と掴んで揉んでみた。
「わ、かたい。しかも太い」
 ほとんど筋肉だ。よく見ると何かの傷跡が結構ある。ケンカのときに怪我したんだろうか。
「あ、今のさ、連続で言ってみて」
「え?硬くて、太い…?」
 なぜか先輩は一人で笑っていた。なぜ硬くて太いと笑えるのかは理解したくなかった。なので先輩の腕をつねるだけにしておいた。
 先輩がつねられた腕を「痛ぇよ!」とおさえているときに、私のケータイがブーンと震えた。母からの電話だった。
─あ、もしもしさより?今日お母さんとお父さんね、ちょっと知り合いの人の会合みたいなのに行かないといけないんだ。だからね、ちょっと怖いだろうけど今晩は一人で留守番してくれないかな。え、ご飯?うーん、まぁ適当に食べときなさいよ。鍵は持ってるでしょ?あんまり遅くまで遊んでないで、早く帰ってきなさいよ?居間の電気はつけっぱなしだからね?それじゃ─
 私が何か言う前にプツンと電話を切られてしまった。…かあさん、私ご飯作れないのに。
「どうした池ノ内。いつもに輪をかけて思案顔だな」
「いつもに輪をかけてって…いえ、今日は家に誰もいないそうなのでどうしたものかと」
「で、ご飯はどうするんだ?」
「どうしようもないので外食かコンビに弁当ですね」
「料理は作れんのか」
「…はい。作れません」
 そうすると先輩は「ちょっと待ってろ」とケータイ電話を取り出しどこへやら電話をかけはじめた。
「あ、もしもし?今日誰か来る?来ないよね。鉄子姉さんも出かけないだろ?今日ちょっと後輩連れてくるわ、うん、女の子。そう、そう、わかった。よろしく」
 どうも、私を先輩の家に連れて行くらしい。
「って、ちょっと待ってくださいよ先輩!そんな、先輩の家になんていけませんよこんな時間に」
「いーのいーの、全然構わん。こんな物騒な世の中に女の子一人で残しちゃおけねぇよ」
「えぇ!?でもそれはちょっとまずいというかいきなりそんなわたしはもう少し段階を踏んで…!」
 一気に顔が赤くなる。わわわどうしようどうしようそんない、いきなり先輩の部屋に呼ばれてしかも今日は母さんも父さんもいなくてこんな時間帯だしそういえば明日は休みだしということは先輩は私にあんなことやこんなことを1“#W#E$ER%RT…!!!とばりばりのヴィジョンが脳内を駆け巡った。さっきさわった筋肉質な腕の感触がありありと思い出されて、ついには頭の中の回線がショートしそうだった。なんかもう息とかやばいくらい上がってる。
「…池ノ内、何を言ってるんだこのバカ!狭いアパートだけど叔母さんもいるし変なことはしねぇよ!飯作ってやるだけだ!」
「…え?先輩は、その、わたしを手篭めに」
「するかっ!俺がそんな節操無しに見えるのかお前は」
「…茶木先輩とかと仲良さげですし」
「いや、茶木だけだろ。俺が会話する女子なんてお前と茶木しかいねぇよ。たった二人なのに節操無しかよ」
「まぁいいですけど」ちょっと落ち着きを取り戻して頭の中を整理する。
「えーっと、それじゃあ今日の晩ご飯は先輩の家で食べさせてくれる、と」
「あぁ。俺も前にそういうことがあったからな。先輩の家にお邪魔させてもらって、晩ご飯作ってもらったこと。あんときゃまだ料理がちゃんと作れなかったし、助かったなぁ」
 また先輩はどこか遠くを見る目になった。
「ま、泊まっていってもいいぞ。明日休みだし」
「絶対止めときます」
 またさっきの想像が頭を駆け巡って、まともに先輩お顔を見られなかった。

 いつもの私の家への道ではなく、まったく正反対の道を今日は歩いている。
 先輩の家がどこにあるのかは知らなかったけれど、確実に私の家とは全然逆の方向で結構遠い。それなのに毎日毎日送ってくれている。申し訳ないと同時に、ちょっと嬉しかった。たとえ後輩としてしか見られていなかったとしても、十分嬉しかった。
 いつものように自転車を押している先輩を見上げたら、先輩もいつもより嬉しそうな顔をしていると思うのは、きっと私の思い違いじゃない。
 私のすぐ横には、ワイシャツを脱いでTシャツからむき出しになっている腕がある。自転車を押してるから目下稼働中で、ぽこぽこと筋肉の筋が見えた。
 それだけで顔からぽっと火が出そうになる。
 なにやってるんだろうね私。これじゃあ俗にいう恋する乙女じゃないの。
 不意に、前に言われた一言がよみがえった。
「…さぁ、ね。少なくとも俺と普通に話してくれる奴を、俺は冷たいとは思わないぜ。お前は、十分あったかいよ」と言われたことが、余計に心を火照らせる。
 初めて「あったかい」といわれて、先輩が私を大事だと思ってくれてる、何てことも考えた。
 もう一度、先輩の腕を掴んでみた。
 あったかくて、私も熱くなる。
 先輩はちょっとだけ私を見て、その後はなんにも言わなかった。

 先輩の住んでいるアパートについた頃にはもう腕は放していたし、なにが食いたい?といかれたけど、別に何でもいいですとしか答えなかった。というか考えがまともにできなかったのもあるけど。
 アパートは、なんというか、お世辞にもきれいな、とは言いがたいボロアパート。幽霊みたいなおじいさんがふらふらーっと出てきて、先輩のほうになにかごにょごにょいってまた戻っていった。
「ただいまー。鉄子姉ちゃん、起きてるー?あ、入っていいよ。ちょっとちらかってるけど気にしないでくれ」
「お邪魔します」と靴をそろえて部屋に入ると、確かにものが多くて散らかっていたけど、割と整頓されていて汚い部屋ではなかった。
 巨大な本棚が壁を占領していて、芥川龍之介の全集とか太宰治の全集、それから司馬遼太郎があって最近のエンタメ小説もあり文庫のライトノベルまで無節操な種類の本が納められていた。何冊かは抜けていて、たぶん先輩のだと見える机の上や下に散乱していた。結構読んでるんだろう。ほとんどの本からはしおりのひもが飛び出ていて、下の角がつぶれている。きれいに並べられてはいるけれど整然とした感じはなくて、しょっちゅう出し入れしているあとがみえた。私が好きな本も何冊かあって、少し嬉しくなったり。
「先輩って、やっぱり本読んでるんですね。太宰の本とか、芥川とか」
「まぁな。最近の本も読むっちゃ読むけど、やっぱりちょっと前の日本人の本も、結構面白いんだぜ?」
「へぇ。私はあんまりその辺はよまないんで、よくわからないんですけどね」
「ふぅん。あ、荷物はそこにおいて、適当に座っといてくれ。ざぶとん、あるだろ?」
 そのまま言うとおりに荷物をおいて、座布団に座りかけたけどストップかけた。
「先輩。私も手伝いますよ。お世話になりっぱなしっていうのもなんだがむずがゆいですし」とキッチンに行こうとしたら、別の部屋、たぶん寝室から背の高い女の人が目をこすりながら出てきて「あぁ、あんたが後輩さん?可愛いじゃないの」と私の頭をなでてキッチンに向かっていった先輩になにやら呟いていた。
 いきなり頭をなでられたから、びっくりした。
 先輩の家系は、頭をなでるのがすきなんだろうか。
 「池ノ内は今日はだまって座っとけ。俺の料理の腕を見せてやる。本棚の本は適当に読んでて良いぞ」
「…そうですか。それじゃあだまって待ってます」
「おう」
 初めて男の人の部屋に入った割には、なんというか大した緊張もムードもへったくれもありゃしない。「秋野山UFO最新情報!鮮明画像とともにこのたび発覚した新事実を暴露!」なんていう感じのタイトルがつけられた雑誌がぱさっと置かれていた。先輩の趣味だろうか。
 テーブルの側の座布団に座って部屋の中を眺めていると、いつの間にかその女の人が後ろに突っ立って私のことをじぃっと見つめている。結構、怖い。
「あの、なんでしょうか」
「んー、圭吾の女の趣味ってわかんないわー」
「へっ?!女の趣味って、その」
「この前までは背の高いナイスバディのクールな年上かとおもってたら、今度はちっちゃくてツルペタの生意気そうな後輩ときたか。…まぁこの子も合格点といえば合格点だけど、どうなのかしらねぇ」
 ツルペタじゃねぇだろ一応ちょっとは凹凸があるわと毒づきたくなったけどぐっと我慢してみる。十秒、十秒心の中で深呼吸するんだ、私!
「えーっと、何の話でしょうか」
「だから、あんた圭吾の彼女でしょ?いや、ちがうか。どうもあの様子だと、あんたが一方的に圭吾にほれてるって言う感じだね」
 顔がカァッと熱くなった
「ななな何言ってるんですか!?」
 じぃっと見つめてくる目に、吸い込まれそうになる。どうもこの人は、私の天敵らしい。冷静さが剥ぎ取られてゆく。そしてさらに顔が赤くなった。
「ほーら、図星」
「ち、ちがいます!第一先輩はそんな風に私のことを見てません!」
「いや、圭吾じゃなくてあんた。あんたが圭吾のことをそういう風に見てるんでしょ?」
「え、いや、ちょっと待ってください」
「いーのいーの。わかってるから。でもさ、あんた、あの男おとすためには、早智子ちゃんに勝たなきゃいけないわけでしょ?たいへんよねー」
「だれですか早智子ちゃ、さん、って」
「あれ、あんた聞いてないの?あいつが前に好きだった先輩だよ」
 そういえばなんだかそういうようなことをきいたかもしれない。
「もしかして、背の高い人ですか?そのひと」
「そうそう。髪が長くてねぇ、美人だったわよ」
 と、そこにちょっとこめかみにしわを寄せた先輩がご飯の茶碗をもってやってきた。
「鉄子姉ちゃん、余計なこと吹き込まなくていいから」
 三人分のご飯茶碗を置いた後、美味しそうな匂いのするふきとお肉の炒め物と、ウドやシドケなどの山菜、それと焼いたほっけが食卓にならんだ。
「これ、全部先輩が作ったんですか?」人は見かけによらないというけれど、さすがにここまで料理ができると、見直すレベルじゃない。尊敬してしまう。
「今はちょうど山菜が美味しいからな。今日はふきとウドとシドケだ。池ノ内のところじゃあんまり食べないだろこういう食材は。スーパーじゃなかなか売ってないからな。これはな、全部実家の裏山で採ってきたんだぜ」
「ほんとですか?なんだか凄いですね。自給自足みたいで」
「そうそう。圭吾と一緒に暮らしてれば食べ物にはほとんど困らないわね」
「いや、鉄子姉ちゃんもさ、女なんだから自炊くらいしようよ」
「いーのよー。できる奴がやれば良いの。さよりちゃんだってお料理できないでしょ?」
「へ?まぁ、できないですけど」なんで私にふるんですか?
「女なんだから自炊くらいしろなんていう考えは古いのよ圭吾。現にさよりちゃんみたいな可愛い女の子だってお料理できないのがほとんどなのよ?ましてやアタシみたいな美人がお料理ができなくても罪はないわ。むしろその現実をありがたく思いなさい。これであんたは料理ができる男として株が上がるんだから」
「いや、料理ができない女は美人だ、みたいなのはちがうだろ。というか池ノ内、お前も高校生なんだから料理の一つや二つ習得しておけ」
 そんな風に始まった夕食は、正直言って私の母親の料理よりも美味しかった。ひいき目無しに、全然美味しかった。どんぶりみたいな茶碗でご飯を書き込む先輩をみて、どうしてこんな人が、こんなに美味しい料理を作ることができるのかしらとちぐはぐな世の中の仕組みを考えたりしながらウドを味噌で、シドケをしょう油で食べる。少し苦い、春の味がした。
「…おいしいです」
「そうかそうか!!そりゃ良かった!山菜ってけっこう嫌いな人いるからな、ちょっと心配だったんだ。うん、よかった」
 やっぱり自分の作った料理がよく言われると嬉しいのか、先輩はいっつも以上にニカっと笑って、ご飯をさらにかきこんでいた。鉄子姉ちゃんと呼ばれた人も、ニヤニヤしながらさらに上のウドをパクパク食べていた。私も負けじと、シドケに手を伸ばした。

 美味しかった食事が終わった後、鉄子さんが「圭吾、あんたちょっとビール買ってきなさい」と半強制的に先輩を追い出して、私と二人きりになった。
「さて」と鉄子さんが座りなおしたので、私もつられて座りなおす。
「あんた、圭吾のことが好きだろう…いやいや、いいんだ。見ていればだれだってわかる」
 またその話か!と思って声をあげようとしたら、やんわりと収められた。どうもさっきのようなからかいじゃなくて、真面目に聞いているようだったので、黙っていた。
 そもそも私は、先輩のことが好きかどうかなんてわからない。わからない。わからない。
「自分でもわかっていないみたいだったら教えてあげる。さよりちゃん、あんたは圭吾のことが好きなんだよ」
 何と言って良いのかわからないから、黙っている
「そこでさ、私からあんたに頼みがあるんだよ。どうかさ、あのバカを、彼氏にしてやってくれないか?」
「はぁ?」
「さっき早智子ちゃんのこと、あいつの先輩のことを話したよね。圭吾がその人のことを好きだってことも」
「…はい」
「本当は圭吾本人から聞いたほうがいいとは思うんだけどさ、きっといわないだろうから、アタシがいっておく」
「別に、聞きたくないんですけど」
「じゃあ聞かなくてもかまわない。アタシの勝手なお願いだからね。でも、一応しゃべるから。聞きたくなかったら帰ってもいいよ」
 何を好き好んで先輩の恋愛話を聞きたいんですかともいいたかった。ここで私が出てゆけば、ややこしいことは何にもなくて、今までどおりヌルイ関係が続くだけ。ここで話を聞いてしまえば、いやがおうにも先輩のことを今までどおりには見ることができない。鉄子さんの目は、そう語っていた。
 選択肢は、二つ。
─話を聞く─聞かない─
 私は。
 私は…

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