-小麦粉記-

-小麦粉記-

司書室プレリュード・・


 書き直した原稿を渡すと黙ったままカバンに突っ込んで、そのまま印刷所に出かけてしまった。ほとんど一語も話さないままだ。一応冊子はできたけれど、これもわたしにだまって図書室に並べてしまい、気がついた頃には完売していたという有様。
 声をかけても「あぁ」とか「おう」とか、そういう感じにしか受け答えてくれなくなった。廊下で偶然会ったりするとまずいものにあったみたいに顔をそらすし、司書室でも意図的にわたしに背を向けて座っている。それでも何故か学校の帰りは一緒に帰ってくれていた。
 その先輩の背中が、ずいぶんと遠くに見えた。
 そんな日が一週間ほど続いて、私は少し、司書室に顔を出すのをやめた。
 中間テストも終わってしまって、学園祭まであと一ヶ月をきってしまった七月。
 一枚だけ手紙を置いて、わたしは司書室のドアを閉めた。
 うじうじと考え込むのもいやだったから、気持ちの整理もこめて、先輩のこと、自分のこと、図書局のこと、最近あったことをまとめて、小説を書いてみることにしよう。
 なにか書いたら、きっと気持ちも整理できる。少し間を取ったら、先輩だって機嫌を直してくれるはずだ。
 久しぶりに早く帰る帰り道は、なんだかいつもより優しい雰囲気に見えたのは、きっとわたしが落ち込んでるからだ。




 だいぶ暑くなってきて、体育の授業も今日からプール授業だった。一番最初の組だということで、水泳部の女子しか入っていないきれいなプールの水に慎一と一緒にダイブする。体が冷たい水にくすぐられたように気持ちいい。
 でも。
 体は浮力でプカプカ浮いたけれど、心のなかまではそうはいかない。あの一件以来、俺の心は暗澹としていた。
 池ノ内に怒鳴ったのは、完全に俺のミスだった。
 きっと池ノ内が、一人であの一文を書き直すことをもう一度考えて欲しいと頼んできたのなら、俺もそれに応じたはずだ。怒鳴る必要なんて、どこにもなかったんだ。俺は本当にあの文章はいいと思っていたし、池ノ内がこだわったのも、自分でもその一文がきにいっていたからだ。
 俺があんなに怒鳴ってしまったのは、下川が横にいたからだと、後になって頭が冷えたときに気がついた。なんだか知らないがしょっちゅう池ノ内にまとわりついている。どうやら口説いているらしい。気に食わない奴だ。そんな奴が一緒になって、いや、俺が考えたことを、池ノ内は下川になにか言われて、俺のところに来たのだ。
 要するに、俺は、池ノ内が下川といっしょになっているのが気に食わなかったんだ。
 いかえると、嫉妬か?いやいやまてまて。それじゃあ俺が、池ノ内のことを好きだといっているようなもんじゃねぇか。下川だったからムカついたんだ。池ノ内がどんな男と付き合っても、それで池ノ内が良いのなら、俺はいい。だけど、下川はだめだと思っているからだ。
 それじゃあ、例えば池ノ内といっしょに来たのが、いかにも文学青年風の男だったらどうだろう。そいつは俺より多い回数池ノ内の小説を読んだという。…きっと俺は「池ノ内らしい文章を、池ノ内の人間が出る文章をアドバイスできるのか?」と怒鳴るな。
 池ノ内とずっとまえから友達だという男がいたとして、池ノ内のことは自分の事のようにわかるというのなら。…俺はそいつに…そいつを、殴るかもしれん。
 頭の中のシュミレーションは、全てムカついた結果になる。池ノ内の隣にいる誰かを想像しただけでムカつくことは、認める。
 それでも。
 それでもたった一人しかいない後輩を、なにも泣かすことはなかったんじゃないのか?先輩なんだから。早智子先輩みたいに、もっといい方法をぱっと思いつかなきゃならなかったんだ。冷静になるべきだったって言うのに、どうして、俺は、池ノ内のことでペースを乱されなきゃならねぇんだ?下川のことをちょっと呼び出してぶちのめしたやろうか?
 そんなことても、どうせ現状はかわらない。
 しかもだ。
 一番の問題は怒鳴った内容だ。今でも一字一句間違わずに復唱できる。
「てめぇに好意的な奴に見せて、前の気を引こう引くとそればっかり考えてる奴の軽い褒め言葉は、俺が考えて、何回も何回も見直した上で直したほうがいいと思って行った言葉よりもいいものだったのかよ!俺だってわかってるっていってんだろ!悔しいのはわかってんだよ!それでもいい小説に仕上げてもらいたくて!池ノ内が本当にいい小説だと褒められる顔がみてぇから、俺は毎回毎回お前にうらまれるのを!びくびくしながら訂正してんだよ!いったい何回読み返したと思ってるんだ!どうしたらお前の考えに沿えるように直せるか、どうしたらお前のやる気を持たせつつ訂正させるか何時間悩んだと思ってるんだ?どれだけお前のことを考えて…それを、こんな……いや、いい。俺よりもそっちのボンクラのほうがいいっていうなら、それでいいぜ池ノ内。お前の好きなように出せよ。俺に見せて直されるより、こいつに見せて褒められるほうが嬉しいもんな。そうだよな。わるかったよ、やる気をなくさせて。すきにしろよ」
 まったく。
 何様のつもりだ、俺。これじゃあただの押し付けじゃねぇか。頼まれてもいねぇのに勝手に心配して、それを恩着せがましく並べ立てて。
 泳ぐ気力もなくなったので、泳げない連中がいるレーンの方でプカプカと浮いてみた。ちょっと眩しいけれど、ビニールの屋根越しに見える太陽がちょうどいい具合の水温にしてくれている。開け放った窓から吹いてくる風が、バカに気持ちよかった。体の力を全部抜いて、レーンを仕切るプラスチックの丸い仕切りに頭を乗せて、空を見ていた。ビニールの屋根のせいでちょっと滲んでいるけれど、ぽかんと浮いた雲が、池ノ内のポニーテールに見えた。
 あんなことを言ったのでまともに顔を見られなかったからしばらく池ノ内のポニーテールをみていない。子犬のしっぽみたいに、嬉しいときはひょこひょこして、悲しいときにはくたっとなって。
 あのポニーテールは、今頃どんな形なんだろう。
 そんなことを考えていたところに、いきなり顔に水をかけられて、びっくりしてざぶんと沈んだ。鼻から水がはいって痛い。
「っぶは!慎一!てめぇこら何しやがる!」
「いや、どうも高梨が気持ちの悪い顔をしているからな、景気づけだよ」
「景気づけに水をぶっかけるやろうがあるか。この腐れ会長が」とげほげほしながら慎一に水をかけたが、絶妙のタイミングでよけやがった。
「腐って結構。むしろ腐っているのは高梨の頭だろうよ。まーた貴様はあの図書局の後輩のことでも考えていたんだろう?」
 なんでこいつが知っているんだ?
「なんでこいつが知っているんだ?って言う顔だな。この後輩泣かせめ。あの子、この間司書室で泣いてたんだぜ?お前が帰ってくるのを待ちながら」
 俺は、だまって聞いていた。
「先輩のことを考えないでひどいことをいってしまった。先輩に人の小説を批評できる資格なんてないなんていってしまった。先輩の心を、踏みにじってしまった、ってよ」
「…いやぁ、全部ホントのことだし、いいんだよ。池ノ内の小説のにどうこういう資格なんてもともとないし、そもそも俺が勝手にやったことだし。あいつが泣くことなんてないんだ。池ノ内はなんにも悪くない。悪いのは、感情的になった俺のほうなんだよ」
「ふぅん」
 隣の列ではみんな並んで平泳ぎの練習をしていた。水泳なんてクロールができりゃあいいんだ。きっと。平泳ぎの練習なのに、何故か後ろで派手に水しぶきがとんだ。
「それじゃきくけど、高梨はべつに彼女のことを怒っているわけじゃないんだな?」
「まぁ、そうだけど。なんとなく顔を合わせずらいというか、な」
「なんで」
「…となりに男がいたから」
「そうか」
「そうだ」
 いつの間にかみんな向こう側にいて、深いほうにいるのは俺たちだけになっていた。体育教師に睨まれて、二人でど下手な平泳ぎを披露することになってしまった。あまりに下手くそだったからなのかしらないけれど、普段は俺のことを敬遠している連中がげらげら笑って俺の肩をビタビタたたいてきた。俺もつられてビタビタたたいた。
 大したことじゃなかったけれど、そんなことでだいぶ元気が出てきたということは、俺も結構おちこんでたんだ。
 きっともう少し間をおけば、池ノ内だって落ち着くだろう。
 あせっちゃ、だめなのさ。



「会長、ちゃんと仕事してください。さっきからぼーっとしすぎです」
 そういって投げつけられた書類のはいった袋×3。
「できればコレは手をつけたくないのだが」
「この仕事は会長じゃないとできない仕事です。この学生会のメンバーで学園祭の模擬店の部屋割りなんてできる人間、会長しかいないじゃないですか」
 ほかの学生会メンバーもうんうんと頷いている。おまえら、プライドというものはないのかね。
 書記の二年生が「今年も運動部が目覚しい活躍をしていますから、そっちを優遇しないと運動部連合の反乱が起きますよ?」と去年の悪夢を思い出すようにうめいた。
「かといって露骨にえこひいきすると文系部局解放戦線のゲリラが激化するでしょうね。運動部連合の反乱は割りと直接的ですから対処のしようはあるとしても、こっちのゲリラは相当厄介ですよ?今年はあの図書局が二人だけですし影響力はなくなったとしても、去年の図書局が作成した学園ゲリラマニュアルは他の部局でしっかりと受け継がれているみたいですし」
 「運動部連合」「文系部局解放戦線」そして「学園ゲリラマニュアル」
 思い出しただけで頭痛がしてくるとともに何だかんだいって楽しかった去年の学園祭。図書局の奇人変人集団が中心となって引き起こした学園祭の模擬店の集客力のある部屋の獲得戦争。そしてその際に文系部局に配布されその後門外不出の極秘として扱われている「学園ゲリラマニュアル」
 今年もあの騒ぎがおこるのかとおもうと、取り敢えず逃げたくなった。成田山慎一、学生会長。モラトリアム権発動。
「ちょっと仕事あるから、そっち片付けてから取り掛かる」と言い残し、取り押さえようとするメンバーを投げ飛ばし、さっさと学生会室から逃げ出した。
 とりあえず。と慎一は考えた。
 tりあえず、高梨と池ノ内とかいうあの後輩との勘違いをとかなければならないだろう。両方に話を聞いたところによると、お互いに自分が悪いと思っている。そのことを二人に伝えてしまえば誤解は解けるが、以前のような関係には戻らないと見たほうがいいだろう。俺という存在が中に入ってしまうのは、まずい。かといっていい方法があるわけでもない。
「ふぅむ」と一人うなっているところに、前から茶木ともう一人バスケ部のマネージャーの男が歩いてきた。
「あ、慎一じゃない。なに難しい顔してるの?」
 一瞬茶木に手伝ってもらおうかとも考えたが、確か茶木高梨のことが好きだったはずだ。それじゃあ意味がない。
「いやね、ちょと難しい問題をとかなきゃならなくてな」
 すると茶木がはっとした顔になって、にやにや笑い始めた。
「慎一が難しい問題っていうことは、圭吾のことだよね」
 隣でマネージャーの男が「圭吾って、あの高梨のことか?と怪訝そうな顔をすると「大丈夫よぉなーにびびってんのさ」と茶木がバシバシ背中をたたいた。その様子をみると、どうも腑に落ちない部分がある。茶木はこんなに男にベタベタする奴だっただろうか。
 茶木だけをちょっとこい、とよんでみると彼女のほうも心得たようですぐに白状した。
「実はね、わたしあの人と付き合ってるの」
「だがお前は高梨に惚れてたんじゃあないのか?」
「まぁ、それは確かにね。いまでも圭吾のことは好きだと思うよ?(あ、内緒ねこのこと)でもね、なんていうか、ほら、あれじゃん」と、そういって彼女はケラケラ笑い出した。
「何を笑っている」
「わっかんないかなー?そりゃわっかんないよねー!あたしってね、愛情を注ぐより注がれたいタイプなの。これでいいでしょ」
 なんとなくわかった気がした。もともとポジティブな人間だし、高梨にその気がないのがわかったところにあの男に告白でもされたんだっろう。仲は良さそうだし、みていて爽やかなアベックだ。くそ、俺も副会長とあんなふうになりたいなぁ。
「あ、そうだ。それなら茶木、ちょっと付き合ってくれ」
 言い方を間違えたので彼氏のほうがぎょっとしたかおになった。茶木も茶木でそれをわかっていて「うんいいよ。わたしも前から…」などというもんだからたちが悪い。
「まぁ冗談はともかくだ。高梨のことで、さ。いやだったらいいんだけど」
「いや、いいよ。だいたい想像できるもん。最近圭吾、生き悪かったもんねー。わかった、協力してあげる」


 司書室に顔を出さなくなってからしばらくたった。
 学校は学園祭の準備であわただしいムードになってきて、生徒も教師も授業に身が入っていない。もちろんわたしも授業なんてぜんぜんやってなくて、ちょっと小説を書いている。
 小説とはいえないのかもしれない。
 どっちかというと自分の気持ちを整理するための、いままでの気持ちと記憶の確認と沈静化。それと先輩との関係の解決策の模索。
 わたしは今の状況をどういう風に不満なのか。いったいどうしたいのか、どうなりたいのか。そんなことを小説にして書いてみた。
 心が不安定なときにそのことを何かに書いてみると、不思議と心が安定してくる。どんな文でもどんな言葉でも何でもいいからかいてみると、不思議と効果がある。そもそもわたしが小説を書き始めたのも、大体そんな理由だったと思う。
 クラスの催し物をどうするかという会議が終わった後、久しぶりに司書室に行ってみようと思った。
 先輩がいたって、別に気負うことはない。たぶん今回のことだって、私が先輩のことを意識しすぎているからこんなにややこやしいことになってしまったんだ。前みたいに、自然でいいんだ。きっと、そのほうが、いい。
 そもそも二つの上の先輩のことを好きになったとしても、相手がこちらを好きになってくれることなんてほぼありえない。たぶん。高梨先輩ならなおさらだ。先輩には茶木先輩のほうが、ずっとお似合いだもの。そんな茶木先輩の好意にすら気がついていない朴念仁の先輩のことだから、わたしが先輩のことを好きだなんてことはこれっぽっちだって気がついてないと思う。絶対。
 それでも、いいか。
 そう思って、久しぶりに司書室への廊下を歩いた。

「あら、さよりちゃんじゃない。久しぶりー」
「あ、茶木先輩…?こんにちは」
 司書室に高梨先輩の姿はなくて、何故かかわりに茶木先輩がカウンターに座っていた。司書室は、だいぶ汚くなっていた。書類やらプリントやらが散乱して、文庫ハードカバー問わずいろんな本が
 内心ドキドキしながらドアを開けたって言うのに、これじゃあ不意打ちだ。平常心平常心なんて呟きながらドアの前で一分固まっていたのがバカみたいじゃない。
「茶木先輩、こんなところで何してるんですか?」
 そうきくと「ふふん」と笑って
「圭吾を待ってるに決まってるじゃない。最近元気ないし、落ち込んでたみたいだからね。そういうときに優しくされると、男って落ちやすいのよ」
と私のことをじろじろ見てきた。なぜかすごくむかつく。さっきはお似合いの二人だと思ったけれど、頭の中ですぐに撤回した。この人には、先輩と付き合って欲しくないとさえ思った。
「彼が落ち込んでる原因、なんだか知ってる?」
「落ち込んでる、原因?…なんで高梨先輩が落ち込んでるんですか?」
「わかんないの?あんたに決まってるじゃない。勝手に来なくなるから。圭吾、一人ぽっちでここでパイプイスぎしぎしいわせてるのよ?放課後の図書室ってただでさえ感傷的になるのに」
「…でもっ!わたしちゃんと手紙書いておきましたけど」
「圭吾、多分気づいてないよ。ほら」
 茶木先輩が指差した机のしたに、わたしが書いた手紙が落ちていた。おまけにほこりまでかぶっている。
「うそ…」
「あんたがここに来なくなっちゃって、相当荒れたみたいだよ?俺が感情的になったから!とか俺のほうが二つも先輩だって言うのに!とかいってそこの壁殴ってたし」
 白い壁に前までにはなかった穴があいて、中の綿のようなものがとびだしていた。
「なんで、先輩が落ち込む必要があるんですか…」
「圭吾は自分が悪かったって、そう思ってるみたいだよ」
「悪いのは、わたしなんです」
「そう、じゃあ、あんたが悪いのね。ま、なんにせよ、わたしは今から圭吾がきたら優しく誘惑しちゃうけど、さよりちゃん、どうする?」
 何かがわたしの頭の中で切れた。
「…なにが「優しく誘惑」ですか。いやです。ここから出て行ってください。ここは図書局員の部屋です!部外者は出て行ってください。」
「あら、圭吾が取られちゃうのがいやなんだ。そうよねー。何だかんだいって面倒見がいいし、優しかった先輩が取られちゃったら、そりゃだれだっていやよねー。ベタベタに甘えてた先輩が他の女とイチャイチャするのを見たくないんだ」
 高梨先輩が茶木先輩といちゃいちゃするところを想像してみた。なんだか悔しくて勝手に泣きそうになった。
「そんなんじゃありません。さっさと出て行ってください。先輩に用があるんですから」
 先輩に用なんて、別になかったけど。
「どんな用?」
「先輩に言う必要はないですから」
「あ、さよりちゃんも優しく誘惑しちゃうの?」
「しませんっ!」
 茶木先輩がニヤニヤしたままこっちを見てくる。こっちも見返す。しばらくそうしていると、茶木先輩のほうがクスリとわらった。なぜか全然邪気のない笑いで、拍子抜けした。
「わかったわよ。ちょっといじめすぎちゃったかな?ま誘惑しろとは言わないけど、やさしくしてやんなさいよ?あいつ、精神年齢高めだけど、そのせいで甘えること知らないんだから。さよりちゃんが二つしただからって遠慮することないわよ。がんばんなさい?」
「はぁ?」
「じゃあね」
 さっきまで滅茶苦茶言っていたくせに、こんどは「頑張んなさいね」?意味がわからない。っていうかケラケラ笑いながら出て行っちゃったし。
 取り敢えず汚かったので司書室の散らかった本や書類を片付けてみた。読みっぱなしの本を棚に戻して、ごみだと思ったプリントを余っていたダンボールに詰め込む。妙な走り書きっぽいのもまとめて捨ててしまったけど、最初っから床に捨ててあったんだから多分問題ない。はず。
 そんな感じで三十分くらい掃除をして、それでも来なかったので少し不安になった。
 先輩、今日は来ないんじゃないだろうか。
 五分くらいイスに座って待っても来ない。窓の外は少し薄暗くなってきている。いくら日が伸びたとはいえ、この時間帯だと空気は藍色だ。
 もしいま、先輩がそこのドアを開けてきたら、私はどうするんだろう。さっきは用があるなんていったけど、本当は会ったらなんていっていいのかわからない。
 ずっと先輩は怒ってると思っていた。小説を書かない先輩に、人の小説を評価する資格がないなんていって。本当は先輩には、その資格がある。というかそもそも小説を批評するのに資格なていらないけど、もしあるんだったら、先輩はその資格を十二分にもっている人だ。
 わたしが小説を書くのを再開したあの小説だって、たぶん先輩が書いたはずだし、冊子だって先輩がいなかったら発行なんてできなかった。
 なにより、わたしが一番見てもらいたい人は、先輩なんだから。
 先輩が落ち込むことなんて、ないのに。怒って当然なのに。わたしが甘えすぎていただけなのに。
 しれなのに、茶木先輩のいう「優しくしてあげろ」なんて、できるわけない。それこそそんな資格、わたしにはない。
 なんだか、ここにいることさえあつかましいようにおもえた。
 カバンを持って、最後に図書室のほうをのぞいて帰ろうとおもって、静かにドアをあけた。
 もちろんだれもいない。
 はずだった。

「せん…ぱい」
 図書室の奥のほうのテーブルで、頬杖をつきながら、先輩が眠っていた。
 多分わたしが来る前から寝ていたんだろうと思う。近くに行ってみても、全然起きる気配がない。スースーと規則正しく背中が上下していた。
 正面に回りこんで、先輩の顔を見る。
 久しぶりに、先輩の顔をまともに見た。相変わらずの不良っぽい顔だし、杖にしている腕の筋肉もヤバイ。強そうだ。
 図書局に入ったときは、この先輩のことが、あまり好きではなかった。先輩の不良っぽい雰囲気で虐められていたときのことを思い出した。だから態度もつっけんどんだったはずだ。
 先輩に対する見方が変わったのは、最初の冊子を出したときだ。
 意地になっていたわたしにこういった。
「池ノ内。人っていうのはな、何でもできるわけじゃないんだ。今までやったことの無いことに挑戦したり、苦手を克服することはいいことだぜ?だけどよ、個人個人には天敵っていうやつがいるんだ。その人にとって、ゼッタイにできないことっていうものが、この世の中にはある。それもたくさんな。そういうのを無理してやっても、成果は出ない。頑張っても、ダメなことっていうのはあるんだ。そういうときは、素直に人に頼れ。お前は入局したての後輩だ。そして俺は最上級生だ。後輩が先輩を頼ったって、そんなのは自然なことだ」
 先輩は、ずるいんだ。こんなせりふ、ふつう恥ずかしくていえないよ。後輩としてしか見てないからこんなことがいえるんだ。
「その代わりといっちゃなんだけど、俺はお前の作品が、どんなにひどい作品だって、その中のひとかけらのいいとこを見つけて、褒めてやるからさ。冊子を作るときは俺もズケズケいうけど、ちゃんと出来上がったら、絶対いいとこをみつけて、褒めてやる」
 先輩の寝顔を見いていたら、次から次へと先輩にいわれたことがちらついてくる。
 もう頭の中が先輩でいっぱいだった。いつの間にか視界も先輩でいっぱいだった。このままの状態でいることが、どうしてもいやだった。

 だから、

 キスとか、してみた。

「「あ」」

 起きちゃった。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: