-小麦粉記-

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エンジンとベース~青柳~


 最初こそシールドをアンプにつないで弦を弾いても音が出なかったけれど、ボリュームのつまみをマイナスドライバーでいじくってやるとすぐにビュンビュンと元気な音を出し始める。
 弾き始めると、一発で気に入った。
 多少の傷に目をつむれば、漆器のような黒に細く金の蔦模様がちりばめられているボディはいいセンスだし、なんとなく私の身体にも合う。私がこのベースを弾いていることがごく自然なような、そんな感じだ。
 他の一般家庭から見ると(と、既に言い方が非常にイヤミだけど)かなり広い部屋に、ベッドと机とソファーが一つづつ、どれも値段の張るものだし、デザインもよく、頑丈だ。クローゼットにはこれもまたブランド物の服がぎゅうぎゅうに押し込んである。他にはテレビとデスクトップのパソコンがあって、壁にはカレンダーとどこかの風景を描いた水彩画が一つ。
 そして、今私が座ってベースをいじっている空間には、やたらとでかいウッドスピーカーを備えたステレオと、スライドするこれまたでかい本棚兼CD棚。譜面台。大・中・小の三つのアンプ。今は小のアンプからシールドが伸びている。さらに、スタンドに立てかけてあるのが5本と、ケースにしまってあるものが5本あるエレクトリック・ベース。中條に持ってきてもらったこの1本を足せば11本だ。
 別にバンドをしているわけでもなければ、家が楽器屋というわけでもない。
 お酒と、ご飯と、睡眠と、人を怒鳴ることと殴ること、その後ひたすら泣いて謝ること、それくらいしかすることが無くなった、というかそれくらいしか出来なくなった父が私にしてくれた、数少ない親子のスキンシップをはかろうとした努力の結果の成れの果てだ。
 ついでに言えばこの家も、何もかもが父が遺したものなのだけれど、今はぜんぶ、私のものということになっているらしい。父がいなくなったときに、弁護士だというキツそうなオバサンがそれを教えてくれたのを覚えている。まだ私が、小学校の5年生だった頃だ。
 その頃既に父が買ってよこしたベースは3本。ガキが持つにしてはあまりに多すぎる数だったと思うし、なにしろまだろくすぽ弾くことだって出来なかった。アコースティック・ギターならば小学生でも十分に弾けるし、エレキもそんなに変わりは無い。ただ、自分で言うのもなんだけど、かなり華奢な体格の小学生の女の子がベースを弾くのは、実際かなりきつかった。
 その頃の青柳家は、なんともまぁどこかのテンプレートかといいたくなるくらいの『崩壊した家庭』というような感じで、父親はアル中、母親は男狂い、娘は病弱根暗の三拍子。それでももともと父は良家の三男で金はあり、正確には『もう崩壊寸前なくせに金があるせいでなかなか崩壊しない家庭』というかなり微妙といえば微妙なバランスの上に成り立っていた。
 母はもとから父に興味はなく、これもよくある話だけどまさに父の金と結婚した女で、そこそこの容姿を保つために躊躇なく金を使い、整形に整形を重ね、ホストクラブに入り浸り、男を囲い、そのくせ周囲には『円満家庭の良妻賢母』ぶりをアピールするのに労力を惜しまない人でもあった。一度私が学校で怪我をしたことがある。母はすぐに駆けつけてきて「三鈴ちゃん、まぁ、もう、大変! ママはもう心配で心配で……! さ、今日は一緒にお家に帰りましょ。おいしいもの食べさせてあげる」というようなセリフを担任と養護教諭の前でやって見せ、久しぶりの母親の優しい言葉に嬉しくなった私が彼女の腕を掴んで甘えてもいやな顔一つしなかった。ところがそのまま家の玄関を開けた瞬間蹴り飛ばされ、驚いている私に信じられないような勢いで罵声を浴びせ、どうやら学校に呼び出されたせいでシラけて帰ってしまった男の名前を連呼するという具合だ。
 父親はたとえたまに家に帰ってきたときに自分ではない男が母を抱いていたとしても何も言わずに私にお酒を求め、怒鳴り、『あの淫乱女の血を引いてるてめぇも同罪だ』などなど、毎回貧弱なボキャブラリーの組み合わせな言いがかりをつけた上で殴り飛ばす。
 もちろん私は一発でダウンし、動けなくなる。w
 すると父は急に正気なのか何なのかよくわからない表情に戻り、なにやら謝罪と悔恨と更生の誓いを、私をぎゅううと抱きしめながら呟く。
「三鈴ぅ……パパはなぁ、パパはなぁ、うぅぅ、ごめんなぁ、こうなってしまったのは、みんあパパのせいなんだよ、三鈴……。もうお前のことは殴らないよ、うん、なぐったりなんかしないからな。だからさぁ、三鈴だけは、三鈴だけは俺をさぁ……俺を、俺を……俺を……、ゆるしてくれなぁ、ゆるしてくれなぁ……」
 私もまた、父の骨ばった背中に手を回し、酒臭い胸元に顔を埋め、泣いたのだ。

 私は、父のことが好きだった。
 たとえアル中で、もしかしたらシャブ中だったかもしれない(あのやせ方は、酒飲みにしてはおかしかったのだ)父だとしても、私のことを子供としてみることのなかった母より、暴力を振るうにしろ泣き言を言うにしろ、私のことを自分の子供としてみてくれたのは、父だった。
 そんな父が初めてベースをくれたのには、いくつかの理由がある。
 父が素面なときに、二人でジャズのビデオを観たことがあった。
 ピアノと、ドラムと、ベースとサックスの4人組で、やたらとピアノが上手だったのを覚えている。
 それをみながら、酒が抜けきった状態のときだけに見せる光のある目つきで、父がわたしに聞いた。
「三鈴は、この四人の中でどの人が一番好きかい?」
「んとね、この人」と、私は頭の禿げ上がったベーシストを指差した。
 父は意外そうな顔をし、
「またどうしてベースなんだよ。俺はてっきりピアノかと思ったんだがなぁ」
「うん、べーすがいい」
「どうしてか、教えてくれるかい?」
「心臓がゆれるから」
 そういうと、「そうか」と言った後父はしばらく黙ってビデオをみていた。
 次の日、朝に部屋で目が覚めたら、目の前にアンプが一台とベースが一本、スタンドに立てかけられている。びっくりして父の寝室にいくと、そこにはいつものようにアルコールが無くて震えているダメな父がいた。
 震えてはいたけれど、目には欠片ほどの正気のひかりが見えたような気がしたのは、ガキだった私の間違い、ではなかったと思う。
「三鈴、今日からベースの練習だ。いいか、スラップだ。ベースがただのリズムだったり低音をやるばかりの地味な楽器だと思ってるやつらに見せ付けろ。そんなことに徹しているベーシストは、ゲロクソだ。覚えとけ。ギターソロより、ベースソロだ。今度はおまえが、誰かの心臓をよらしてみろよ、三鈴」

 上の部屋から、母親の声とベッドと床がきしむ音が響いてくる。
 いつもながら、サイアクだ。
 セ=ックスは美容と健康にいいらしい。なかなかに体力を使うみたいだし、汗も出れば違う体液だってどんどん出る。新陳代謝もさぞよくなるはずだ。それに声も出せば腹筋も鍛えることも出来るし、濃厚なバキュームフェラを続ければ当然肺活量もあがる。
 そのおかげで母親はいまでも艶めいた美貌を維持して、今日も今日とて男を連れ込み、性を吸う。まるでおとぎばなしのインキュバスだ。
 最近はどうも趣旨を変えたらしく、『そこそこ経験のあるダンディズム』からターゲットを『10代の初々しい青年』という奴にしたらしい。童貞を奪うことに淫靡な背徳感を味わっているのか、単に体力の有る連中と長時間入り浸ろうとでも思っているのかどうかは、娘の私にはよくわからない。とにもかくにも、天井を通して聞こえてくる母親の声と男の声をきいていると、どうやら今日の相手は同級生の一人だと気がつくのにさほどの時間はかからなかった。どうせ私の部屋に勝手に入って集合写真を見たか、住所録を調べたかしてたぶらかしたに違いない。
 別に私の何メートルか上でいま「あぅあぁっ!」と情けない声をあげた席が三つとなりの三谷クンとは親しかったわけじゃないし、自分の同級生が自分の母親とどういうことをしようと、こと母親に関してはもうどうでも良くなっている。三谷クンが、たったいま自分の白いのを中に射出した女性が、クラスでよく本を読んでいる『青柳さん』の『母親』であるかどうかを知っているかいないかくらいはちょっと気になるけれど、それにしたってもう何度も顔を合わせないうちに卒業してしまう。
 確か彼は、もう大学を決めていたはずだ。
 私がだまって教師の言うとおり受けていれば、もしかしたら合格していたかもしれない国公立。レベルはそこそこ。
 だから、彼の帰り際に私が玄関で待ち伏せして
「どうだった? 三谷クン。わたしの母親の具合は。年の割には胸も大きいし肌もモチモチ。声で判断しただけなら、キミ、6回はイったみたいだったけど、そんなによかったの?」
 などと余計なことをしなければ、一言も話すことなく、すれ違う程度をのぞけばこの後お互いを意識して出会うことは無い。
 たぶん、三谷クンじゃなくても高校の連中とは、そういうことになる。
 もう家に居たくないからと土日祝日に図書室に逃げ込むことも出来ないし、そうすると中條とも同じように会わなくなる。
 中條。
 母親の喘ぎが、一際大きく響いた。
 腹いせに、アンプの音量を最大にしてかなり激しくスラッピングをする。飛び跳ねるような、叩きつけるような電子音が、鼓膜を揺さぶる。
 ゲロクソだ。と、父の口癖を、つぶやいてみる。

「三鈴、昨日アンタ、やけにうるさかったじゃない。ベロベロビュンビュン、あんなくだらないものやってて良く飽きないわね」
 翌朝。
 快晴の天気で目が覚め、その爽やかな気持ちのままシャワーを浴びに浴室へ向かうと、既に母親が真っ裸で髪を拭いていた。うわサイアク、と思わず呟きそうになるのを、ムリに飲み込む。
 私とは正反対の、肉感的な身体。ルネッサンス期の絵画の女性を日本人仕様にして具体化したら、この母親になる。揉んだらさぞ気持ちがいいだろうバスト・ヒップ・太もも。幾多の男をほおばってきたぽってりしたくちびる。化粧無しでもはっきりとしている目元。艶の褪せない髪。
 もし私が男だったら、こんな人に誘われたらすぐに堕ちてしまうと思う。寝室では牝の獣で、外では清楚な奥様、だ。
「そっちも、昨日は三谷クンとずいぶん張り切ってたじゃない」
「あら、知ってたの? あの子、アンタと同じクラスでしょ? クラスで一番の美人は誰? ってきいたら、可愛い声で『青柳、さん』って言ってたわ。まーあたしのおかげで見てくれはいいけどサァ、あんたみたいな性格のべちゃべちゃした女のどこがいいんだか。学校でどういう猫の皮かぶってるのよ? まーさか誰とも話してないとか、そこまで根暗な根性してたっけ?」
 もうこのレベルの会話なら、腹が立つこともなくなった。
「で、その青柳さんの母親だってこと、話したわけ?」
「べつにぃ? 話してほしかった?」
 そこでわたしは会話を止め、髪を結んで顔を洗う。
 石鹸を泡立てて顔に塗った瞬間、柔らかく、重たい感触が背中に触れ、それを疑問に思うまもなく母親の腕が私の胸に伸びる。とっさに身をよじろうとしても私の力じゃ母の力には勝てず、その上こっちは洗顔中だ。ほとんど無抵抗のまま胸のふくらみをにぎられ、その頂点をつねられる。
 悲鳴が、声にならない。
「ゲロためこんだ生娘がいっちょ前の口きいてんじゃないよ、あぁ? その腐った面を見ただけでむかむかするね。悔しかったら男の一人でも物にしてみろよ」
「誰が、アンタみたいな風に」
 やっとのことで、精一杯の抵抗をする。
「はっ、たしかにアタシは淫乱さ。男が好き。あんたの親父は、もう顔も見るのもごめんだけどね。あんたはアタシを軽蔑してるかも知れないけど、処女膜が破れてすらいない奴が何を言ったところでアタシにとっちゃハエが飛んでるようなもんだよ。さっさと顔洗ってこの家から失せな」
 そういって母は、私から身体を離し二階へ上がって行った。
 あのアマ、いつかどうにかしてやる。
 そう何度目かもわからないことを思いながら顔を拭き、鏡を見る。
 寝不足で血走った目をした誰かが、そこにいた。どうみても、街であってもあまり近づきたくない。
 母の言うことは、なかなか正しいこともある。
 わたしは、学校の連中が思っているほど、清楚な女じゃあ、ない。
 根暗で、べちゃべちゃした性格。
「べちゃべちゃ、ね」と、口に出して母のセンスを笑った。なかなか、イカシテルじゃないの。

 母が「さっさとこの家から失せろ」という類の言葉を残したときは、たいてい一日中家の中でぐゅちょぐちょヤっているのが恒例なので、車を拝借するっことにした。ベースを肩に担いで学校まで行くのは、ちょっと面倒だから、ちょうど良い。トランクに昨日のベースと、お気に入りのヴァオイリン・ベースを乗せ、シールドを一本放り込む。
 キーを挿して、回し、エンジンをかける。電気系が目を覚ます。着火プラグにバッテリーが電流を流し、スパーク。ガソリンに引火、爆発、一速にギアを入れてクラッチを離すと同時にアクセルを踏めば、シャフトが回り、タイヤも回る。そういうイメージを頭の中でつくり上げる。頭の中でシナプスがスパークし、知識や感覚が引火し爆発する力でピストンはシャフトの脊髄神経を回す。複雑な工程を経て動力は運動神経と感覚神経に行き渡り、指の関節がベースの弦を、振動させる。頭の中の回転数が上がっても、一速ならば指はスピードを上げられない。二速、三速のあげていくとともに、アンプは排気音を盛大に響かせる。頭の中の超静動エンジンのエグゾーストノートは、媒介のベースとアンプを通して爆音になる。
 ベースはエンジンに直結しているわけではないけれど、マフラーだろうか。アンプは、なんだろう。
 排気の行き場がなければ、車内は一酸化炭素が充満し、運転者は死ぬ。
 ベースとアンプがなければ、私は、私の中の溜まった有毒ガスで、死ぬだろう。
 ところ構わず、別にキーをインサートせずともスタートする頭の中のエンジン。迷惑千万。
 燃費も、一馬力なのか六千馬力なのかもはっきりしやがらない。
 朝の静かな高級住宅に、クラッチを踏んだままアクセルを全開にして、乱暴なふかしを一発響かせる。
 香水の匂いと芳香剤のきつい香り、それでも隠し切れない汗と白濁の匂いが混じってカオスな空間を演出している車内の空気を入れ替えるために後ろの窓を全開にし、かなり乱暴に車体を発信させた。ギアチェンジをしくじって、車体がノッキング。気持ちだけ焦っても、まだ回転数は上がっていない。ギアをあげるのには、早すぎる。
 落ち着かなきゃ。
 中條に、会いたいと思った。
 きっと、中條に会えば、いつもの通り、黙ったままでいられる。話しかける必要も、話しかけられることもない。それはきっと、楽なことだ。
 回転数も、スピードも、一瞬、ブチ切って、静かな……。


 高校に入学した年の学校祭で、私は中條のことを初めて知った。
 それまでは廊下ですれ違うことがあっても、別段目を合わせるわけもなく、特に話しかけることも無かった。別のクラスの、少し強面な同学年の生徒であって、それ以上でもそれ以下でもない。
──許してくれ! 許してくれ! 許してくれ許してくれ許してくれ俺が犯した数々の説明のつかないあなたへの! ささげるものなんて、何一つ無い、永遠なんて、ずっとなんて、そんなセリフは欠片ほどもない、贖罪と嘆願に満ちた、こんな感情を。だがあなたは言う。I love you but I don’t need you. 必要にされなくてもいい、ただあなただけには、見てもらいたかった──
 ギターも、ドラムも、ピアノもベースも、そして何よりヴォーカルが、見事にばらばらだった。ロックをやっているのにブルースのクラプトンを感じさせる、同じクラスだった橘というギター、そこへ超ヘヴィ・メタルな乱打を続ける成績優良者リストの常連に顔を連ねていたはずのドラム、なぜかキーボードを放り出してステージの横においてあるグランドピアノにコーラスのマイクを設置し狂ったように鍵盤を叩き壊すがごとく弾く痩せた体躯のピアノ、唯一行動は普通レベルのベースも、半音下げのディストーションかけまくり、身体をくの字に折りマイクを両手で握り締め明らかにシャウトしている姿勢であるにもかかわらず澄んだよく伸びる声で滅茶苦茶な歌詞を歌い上げるヴォーカル。
 全員がばらばらだって言うのに、恐いくらいに調和するサウンド。
 体育館の入り口で渡された冊子に、『月見やぐら』と書かれた一ページを見つける。
 作詞・Vo中條 作曲・Gt橘&Kye/Piano小倉
──ただ、あなただけには、見てもらいたかった。許せ、許して、許してください。だがあなたは嘆願には答えずに言う。I love you but I don’t need you.それでもいい。ただ一瞬でも、あなたが俺を見てくれたのなら、みてくれたのなら。ぁあ! 許してくれ!──
 わたしはそこに、父の姿を見た。

 学校の近くの空き地に車を止め、トランクからベースを二本引っ張り出した。
 これを二つ担ぐのは、ちょっと、重い。
 結局、ヴァイオリン・ベースの方をまたトランクにもどし、中條にもらった方を担いで校舎に向かった。
 よく晴れた空の下で、校舎の大時計が9時43分をさしている。たぶんまだ、中條は着てないはずだ。昨日は10時に図書室を開けるよう頼んだから、彼が学校に着くのは、少なくともこれから10分はかかる。どうせ元咲センセイに頼めばいつでも開けてくれるから大丈夫だけど、彼に女の子に指定された時間の少なくとも30分は前に来るというような甲斐性をもとめるのは、まちがいだろうか。別に私と中條がどうという関係じゃないのは、わかっている。友達、ですらない。街でばったり出くわしても、軽いあいさつもそこそこにその場を立ち去る程度だ。今まで交わした会話など、1分を超えたことなんて片手で数えられる。
 中條が何かのトラブルに巻き込まれて停学をくらい、その後バンドを辞めたというような話は、教室にいればどこからか聞こえてくる話題だった。
 それから放課後に図書室をのぞくと、カウンターで回転イスに腰掛けカウンター台に足をのせながら本を読んでいる中條を良く見かけるようになる。ただでさえ人が少なかった図書室には、中條以外誰もいなくなった。そこへ私がすべり込み、かくて無言の放課後空間は半年間続き、しかしそれももうすぐ終わりだ。
 いつの間にか私と中條がいつも放課後に図書室にいるということが知られても、別に私は困らなかった。会話もしない相手との仲を問われても、焦ることも隠すこともなく、「なんにもないよ。ただ、たまたま図書室にいるだけ」と答えれば、それでよかった。
 中條がどう思っているかなんて、そんなことはわからない。
 ただ私は、何の交流もない空間に、一種安息を感じていたことは、確かなのだ。
 家にいても母親がいるし、教室にいればなにかと小うるさい人もいるし、私のことを友達だと思っている連中の相手もしなくちゃならない。「別にあんたたちのことを、友達だと思っちゃいないけど」と言ってしまえばそれで終わるような関係の人だって、たまにそういう人がいないとさびしくてどうしようもないことだってある。『友達』は一人でもいれば御の字だという話には賛成するが、『知り合い』だっていないよりいたほうがいいコトだってたくさんある。誰か特定の人物にだけ心を開いて生きていけるほど、私は強くない。人間、生きていくのもいろいろとままならないのよねぇ。
 「努力しないと『友達』でいられない人は、本当に『友達』か」という命題があるとすれば、それでもきっと、ノーなのだ。
 その点、私は中條といるときには、なにか努力らしい努力をしたことが無い。
 でも彼は『友達』じゃあない。単に、居心地がいい。それだけだ。


「元咲センセ、おはよう」と、司書室のドアを開けて声をかける。
「あれ、青柳……。まだ中條はきてないけど」と、無造作に束ねた髪をばさばさと振り、センセイは図書室の鍵を投げてよこした。空いている左手で、辛うじてキャッチする。
「別に中條がいるから図書室に来てるわけじゃありませんから」
 そう言うわたしに、センセイは急にへらへらした笑いを貼り付けて書類をまとめて立ち上がった。
「そうねぇ、そういうことにしておきましょうか。中條に会いに来たんじゃなくて、中條のいるところに来たって? あんたもずいぶん、ひねちゃってるわねぇ」
「まぁ、こうみえてもべちゃべちゃしている性格らしいですからね」
「なにそのべちゃべちゃって」
「さあ。あ、そうだ、センセイ。これからちょっとうるさくするけど、いい? 図書室だったら教室から離れてるし、扉を閉めちゃえばある程度音もカットできるでしょ? あのアンプ、使わせてもらうから」
 返事を聞かずに司書室のドアをパタンと閉めて、外側から鍵を閉める。実はちょっと前に司書室に勝手に忍び込んだとき、無理やりのピッキングで鍵が壊れてしまい、内側のつまみを回す鍵がバカになってしまった。かくして元咲センセイは司書室に閉じ込められて、その意外と可愛らしい顔をくしゅくしゅにしながら助けを呼ぶ羽目になるわけだ。「ちょ、青柳!? あんた図書室がどういう場所かって、あれ、あれ、ちょっと、何してるのよ青柳! 鍵開かないじゃない。ねぇ青柳、悪ふざけは止めなさいよ。ちょっと、ほんとに……」
 私は黙ったまま図書室の鍵を開け、誰もいない図書室で場違いに鎮座するベースアンプのところへ向かった。肩にかけたソフトカバーのファスナーを開け、礼のベースを引っ張り出す。シールドを接続、アンプのコンセントを差し込み、電源を入れると、おなじみの「ばっつん」というノイズ。
「……あおやぎ、……けて、ねぇ……」
 排気のボリュームは、イライラしている私のエンジンの状況を鑑みながら、まぁ常識の範囲内で。
「……やぎ、あんた、……ほんとに……」
 開放弦で思いっきりストローク。
 おおよそ図書室には似つかわしくない爆音にも似た音が、静謐だった空気をぶち壊わす。
 ぜんぶ、みんな、こんな風にぶっ壊したい。
 鬱屈したもの、ぜんぶ。

 人は皆、楽な方向へ行きたがるなんていうことわざは、言えて妙だ。
 だからみんな、たいていの人は、そこそこに勉強したり、一生懸命働いたりする。なぜならその先には、現在よりも比較的豊かな生活があると思うからだし、一定の努力をすればそれを手に入れられる世の中だ。
 逆に、勉強もしない、仕事もしない、誤魔化し続け、逃げ続け、負け続けるということは、苦しくて苦しくてたまらない。そんないばらの道を歩むとしても、身が持たない。飯も食えなけりゃ、金もないからだ。生活保護にすがればいいかれど、それもまた、楽な道。
 全てのことから全力で逃げ続けられる人が、この世に何人いるんだろう。
 今アンプから響き、図書室の静謐を壊し元咲センセイの泣き声を聞こえなくしているベースの爆音も、もうそのうち消えてしまう。
 そうすれば誰かこの音を聴きつけた人が何事かとやってくるかもしれないし、元咲センセイからの追求は免れないだろう。
 現実に立ち向かうことよりも、逃げ続けることのほうがはるかに難しい。
 そんな取りとめの無いことを考えながら、徐々に収まってきたアンプの振動を補うために、つまんでいたピックを放り投げてやや乱暴に弦を叩く。チョッパー奏法とも、スラップ奏法とも呼ばれる、父がやたらと好んで私に教えた奏法だ。
 サァて、いつまで私の逃避は続くかなぁと調子に乗ってスラッピングを続けていると、案の定図書室のドアが弾け飛んだ。ように見えた。とっさに時計に目をやると、10時3分。
 私は、ベースの弦を弾く動作を止め、期待していた人の名前を呟く。
 ところが私の期待はあっさりと裏切られ、なんとも微妙なことに、ドアを開けたほうも私が呟いた名前を叫んだ。
「中條」
「ちゅうじょうっ!」
 憤怒の形相で図書室のドアの前に立つ神崎朱実に、思わずもう一度、思いっきりベースをストロークして、図書室に爆音を轟かせた。

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