-小麦粉記-

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図書室とサックス~神崎~


 ただでさえ体育館の中をぞろぞろ並んで歩き、用意されたイ
スの前に整列し、退屈な話を聞くというマヌケをさらしているにもかかわらず、まるでそのみじめさを助長するかのような吹奏楽のしょぼい演奏にはかなりの腹立たしさを覚えた。これなら演奏などしてくれなくても、むしろ演奏してくれないほうがこっちの身としては嬉しい。本来は明るい行進曲のはずが、めんどくせーなーたりーなーでもしゃーねーなーという部員のため息が聞こえてきそうなくらい。
 父が勤めていた会社が傾いて、もともと通っていた私立学校の中等部から高等部への進学を断念せざるを得なくなり、結局入学したのは公立の進学校だった。そのことについては私自身も仕方がないと納得はしていたし、今ではむしろそのほうが私にとっては良かったのかなぁとも思っている。全国大会の常連だった吹奏楽部に入れないことは残念だったけど、私が何とかしてやろうというような意気込みだってあった。
 入学式の翌日、私は自分のアルト・サックスを持って吹奏楽部の部室へ乗り込み、入部を決める。驚いたことといえば、誰も自分の楽器を持っていないこと、放課後だというのに、誰一人として練習をしていないことくらいだったかな。私立の、それもコンクール上位校の中学にいた私としてはなかなか信じ固いことだった。楽器の手入れはぞんざいで、体力づくりや筋力トレーニングの基本的な体づくりも練習メニューにはなく、とりあえず集まってはテキトウに楽器を散発的に鳴らし、最後にちょっと合奏して、終了という具合だ。楽器を手にしている時間よりも、おしゃべりしている時間のほうが多い。合奏だってテンでバラバラなのにあわせることもせず、ピッチもあっているのかわかっていないみたいで、音も弱い。吹奏楽は文化系の部活だと思っている連中しかいないというのも信じられなかった。どんな楽器を扱うにしても、正しい姿勢というものを続けるにはある程度の筋力が必要になってくるし、大きな音を出すには腹筋と肺活量が必須だ。少なくとも、練習メニューにランニングと筋トレが入っていない学校の実力というのはだいたい底が見える。自慢じゃないけど、私自身について言えばその辺の運動部の男子と長距離走を走っても負けない自身がある。まだ誰にも見せたことは無いけれど、腹筋だって割れている。吹奏楽部員とは、本来そういうものだ。
 本当はすぐにでも無能な部長に代わって練習を仕切りたかったけれど、やはり1年の分際でそれをやるのは具合が悪い。それよりも、まずは同学年の新入部員の人心掌握と、2年部員の信頼を勝ち得ることが先決だった。
 自分で言うのもあれだけど、幸か不幸か、私はそれなりに見た目は良くできている。『同性にもウケる容姿・性格』という要素は、女社会を生き抜く上でかなり大事なモノになる。たとえどれだけ美人だったとしても、その容姿が完全に男の目を引く美しさだったとしたら、それだけである程度のやっかみや陰口は覚悟しなければならない。その点、可愛らしいと美人の中間ぐらいの私は、あとは性格にさえ気をつければたいがいの人を味方につけることが出来る。人間、生きていくのに大事なことは、敵を倒す能力ではなく、いかに味方を増やすかどうかだ。どんな環境でも、自分のことを知っていてくれる人がいるかいないかで大きく境遇は変わってくる。
 相手を味方につけるといっても、特に難しいことは無い。特に、高校生くらいの人間は簡単だ。大人を相手にするとなると、本当に人間不信になっている人だったり、人と向かい合うことが出来ない人間になっている人がいるが、20年も生きていない高校生にはそんな奴はいない。自分は人を信じることが出来ないーなんてことを言っている奴ほど、実は一番手なづけやすかったりする。
 要は、相手の話をいかに否定せずに最後まで聞いてやるか、どうかだ。
 そうすれば、大概の人は勝手に私のことを『いい人』だと思い込んでくれる。
 後は笑顔と、日常のあいさつ。
 これで決まる。
 ところで、誰かの話を聞く、というのは単に世間話をするということじゃない。
 文字通り、相手の、その人にしか出来ない話を聞く、ということ。ただ仲良くなるだけならば、別にそこまでしなくともいい。けれど、相手の心を掌握するときに、自分語りをさせるということは非常に大きな意味を占める。相手の心を出来るだけ無防備にさせ、その人の大事にしているものを引きずり出し、捕まえる。
 例えば。
 当時の同級生でトランペットを吹いていた常原という女の子の場合。
 少し意地っ張りな性格だった彼女は、少しでも仲良くなった人にだれかれ構わず自分の事を話したがり、あまり自分の非を認めるのが上手じゃなかった。まぁ、よくあるパターン。
 吹奏楽の部室で出会ったときから、同級生だということもあってかすぐに彼女は私に話しかけてきて、そして私も、彼女の話を良く聞くことにした。大事なのは、最初の、このタイミングから『話しやすい場』を提供してあげること。自分から話してくれる人ははともかく、あまり話さない人でも、できるだけ自分という存在が『話しやすい』人間であるか認識させ、いかに『話すことが気持ちいい』状況を作り出せるかということが大事だ。そのためには、まず相手を否定しないこと。徹頭徹尾、これに限る。ある程度の会話のスパイスとして相手の話に反駁してみたりするとこは、さらに会話を深めるのに大事なことだから、それをするなということじゃない。人間を否定したらいけない。そういうことだ。
 彼女の場合、我が強い分視野も狭く、自分の吹いている楽器、トランペットこそが吹奏楽の主役だとやたらと主張した。もちろん、そこで否定や、曖昧な態度をとってはいけない。彼女にとって『トランペット』と『自分』は、かなり被ったイメージを持っている。それを見極めなければいけない。
「トランペットってさぁ、楽器全部に力がみなぎっているような気がするんだよね。ほら、ホルンなんかと比べてもさ、あの楽器、やたらとぐるぐるしてて無駄が多いじゃん。緊張感が無いって言うか。もーどうせならさ、みんなペット吹けばいいのに! チューバとかトロンボーンとか何やってんのかよくわかんないような楽器はなくしちゃってさ!」
「あーうん。確かにわかる。やっぱりトランペットは格好いいと思うよ、実際。だってさ、どんな曲もトランペットがしょぼかったら、全部だめになっちゃうもんね」
「そーそ! わかってくれる!? みんな「フルートだって曲の大事なところをやってると」とかうるさいんだけど、そっかぁ、朱実はわかってくれるんだぁ。でもあれ、朱実ってアルトサックスだよね」
「たまたまね。一応トランペットも吹けるよ。そんなに上手に吹けないけど。やっぱり主役だもん、ペットは。吹けるようにしておかないと、吹奏楽部員としてまずいでしょ?」
 私は、特に大したことは言っていない。
 相手に合わせて話をしているだけ。
 それでも彼女は、それまでの私の対応から、その対したこと無い「話を合わせてくれる」ことに実に感動し、そうして口を滑らす。
「あたしさ、実はお兄ちゃんのおかげでペットを吹くようになったんだ。……べつに大した話じゃあないんだけど、あたしのお兄ちゃん、ちょっと今、家を出てるんだよね。父さんも母さんも反対したんだけど、どうしても俺は音楽やるって言って、トランペットを一つだけ持って家出したんだ……あはは、詰まんない話したね!」
 そこまで聞き出せば、もう充分だ。
 実はその後に彼女の兄が出奔先で意識不明の重態になり、今も目を覚まさず病院に入院しているというようなお話があるのを後々聞くことになるのだけれど、彼女の心を掴むにはそこまで聞く必要はもはなやい。
 なにかの犯罪をおかしたり、犯罪とまではいかなくても悪いことをしでかしたときに、それがばれないかどうか結構気になるのが人間の心理だ。
 同じように、自分の中で仕舞っていることを、少しでも話してしまったら、その相手がその後自分の事をどう思うか、その話したことを言いふらさないか。たとえ強く意識せずとも、無意識に気にしてしまう。そして、出来れば、いつだって自分の見える場所にいてもらいたい。その人が自分の事を言いふらす間も持たせないように、できれば自分と話をし続けていて欲しい。自分に興味を持ち続けてほしい、自分の秘密をばらそうと思うような人を見つけて欲しくない。
 側に、いて欲しい。
 そういう、具合だ。

 もちろん、たった数時間の会話でここまで持ってこさせるにはそれ相応の技術と、運と、天性が必要になる。
 しかも、やっかいなのは少々野生の強い奴や、年の割りにいろんなものを観てきている連中にはなかなか通じづらい。要するに、軽音楽部の連中だ。
 ヴォーカル中條里三は私のことを「なんとなく気に入らねぇ」の一言で片付けるし、ギター橘光紀はあの屈託のない笑顔の中で私のことを抜きネタ程度にしか捕らえていない。ベース林文彦は知能が小学生だし、ドラム斉藤一志は、軽音楽部以外の連中で自分よりテストの点数が低い連中を完全に見下している。
 そして、キーボード小倉勝人は、わからない。

「あのぉー!」
 と声をかけられて、はっと我に返った。
「いまからちょっと三人でやってみるんで見てて欲しいんですけど。あの部長、聞いてますか?」
 目の前にはクラリネットを手に持った1年が三人、力のこもった目で私のことを見つめている。
「ん、うん。いいよ。やってみな。さん、に、いち、はい」
 ほかの三年生の半分近くは、まだ大学受験の最中だったりするけれど、早々に推薦を決めてしまった身としてはどうにもやることが無い。どこかへ遊びに行くにしても付き合ってくれる人はいないし、予定ではもう少しかかるはずの自動車学校も、思ったより早く卒業してしまった。そうして結局、私は『吹奏楽部元部長』の笑顔を貼り付けて後輩のいる部室にお邪魔している。引退した3年が日曜日の練習に顔を出すことなんてそう珍しくも無いことだけど、普通だったらそれは嫌われる行為だ。
 ようやく口うるさい上級生がいなくなったと思ったらまた口出ししに来るのかと、普通はそういう気になるだろうし、むしろそうでなければ気合が足りない。だっていうのに、この下級生ときたら……
「加奈子、ピッチが下ってる。あとでちゃんとチューナーで確かめなさい。久美は、音の出し始めが弱いよ。サキは全般的にはいいんだけど、ちょっと先走るところがあるから、それを気をつけて。けど、みんないい感じだよ。ちゃんとまとまって、一つのサウンドになってるから」
「「「はいっ! ありがとうございます!」」」
 これだ。
 ふと、この間小倉が言っていたことを思い出す。
 本当に音楽に向かい合ったのならば、たった一つの楽譜を見ても、三者三様の音楽がある。それなのに、みんなで一つの音楽を目指す吹奏楽は、思考放棄だ、か。
 たしかに、あの子たちは何にも考えちゃいない。
 渡された楽譜を見て、一通り演奏できるように練習し、そして、友達と一緒にそのパートを練習する。上級生や部長、顧問の言うとおりに、みんなとあわせ、たった一つのずれも無い、完全な演奏を求めて、練習と合奏を繰り返す。そこに、たとえばビブラートをかける努力はあっても、自分が演奏している音楽が、どんな音楽なのか、身をもってする努力は無い。
 彼女たちは、本当に音楽を演奏しているんだろうか。
 それとも、みんなで一つになるために、楽譜と楽器は存在しているのだろうか。もしそうだとすると、そりゃ手段と目的の、入れ違いだ。
 わたしは

 爆音が聞こえた。
 深みにはまりかけていた思考が、締め切ってくらい部屋のカーテンと窓を開けたときのようにパッとはれる。
 どこから響いてくるのかよくわからないその爆音は、私が何も出来ずにいるうちにだんだんと弱くなって、消えていった。と、思うまもなく今度は何かを叩き弾くような、そんな音が聞こえてくる。
 ベースの、音?
 冷静になった頭で音の聞こえてくる方向を探る……たぶん、図書室だ。きっと、あのアンプからの音に違いない。たしか中條が持って行ったはずだから、あのアンプが図書室にあるというのも頷ける。それに、図書室でそんなことをしでかすのは、もう中條以外に考えられない。
 ここから図書室は、ちょうどコの字になっている校舎の反対側だ。
 首にかけたサックスを外すのももどかしくて、私は大またで図書室に向かった。
 ベースをスラップする音が聞こえる。たまに林がやっていたのを聞いたことがあるけど、あいつはこんなに激しい演奏はしない。それに、この学校で図書室に足を踏み入れる連中なんて数が知れている。ちょっとは頭が働く人間なら、中條と、青柳三鈴がいる図書室に近づこうとすら思わない。あんなところにいたら、10分もしないうちに神経がすり減っておかしくなってしまう。
 図書室に近づくにつれ、だんだんと音量が大きくなる。けど、中條がベースを弾けるなんて知らなかった。アイツは、ヴォーカル専門だと思っていたんだけどなぁ。
 図書室の扉の取っ手は、下ったままだった。開いてる。
 ベースの重低音の大音量で、おなかと胸が、ずんずんと震える。
 そのまま足でドアを蹴り飛ばし、同時に叫んだ。
「ちゅうじょう!」
「中條」
 どういうわけか、図書室の中には、ベースの演奏を止めてアンプをバックに、私が今叫んだ名前を呟く、青柳三鈴が突っ立っていた。

「なんだ、神崎……。ふぅん、どしたの、血相変えちゃって」
「って、あ」
 どうしたもこうしたも、なんで青柳三鈴がベースを構えているんだろ。そういえば何のためにこんなに意気込んで図書室に突入したのかも忘れそうになった。
「どうして」と私が言い終える前に、三鈴の声が私の声を消した。
「そういえばさ、中條、見なかった?」
「え、うん、見てない、けど……ちょっと」
「そ、わかった。ちゃんと時間も言ったのに、ゲロクソだなぁ、中條」
「げろ、くそ……」
 華奢な体つきに端整が過ぎるほど容姿をした三鈴のくちから「ゲロクソ」なんていう単語を聞くとは思わなかった。別に三鈴とは、話したことが無いわけじゃない。2年のときにクラスが一緒だったから、それなりに会話はしているはずだ。持っている印象としては、クールで、それほど口を開かないものの表情は良く笑い、ウィットの利いた頭の良い話し方をする人だったのに、いま目の前でベースを構えている三鈴からは、そういう感じがほとんどしない。
 静かで、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうなのに、近づいただけで体中が切れてしまいそうな、そういう暴力的な嫌な雰囲気。細い線と鋭利な先端だけで出来た幾何学のガラス細工。
「神崎。笑顔、笑顔。いつもの笑顔。そんな顔してると、シワ残っちゃうよ。可愛い顔が、台無しじゃない」
 三鈴の言葉に、ほとんど反射的に表情筋を動かす。きっと今、私は泣きそうな顔になってるにちがいない。なんと言うか、一瞬でも早く視界の中から三鈴を排除したかった。いつの間にか、私は、牙をなくしている。学校にいる間に私に向けられる目は、信頼、共有、友情、敬愛、恋慕、畏敬、好意の目ばかりだった。それは私が1年のときから要所要所の人間に手を回し続けた結果の、私のこの学校における成功だった。だからかどうかわからないけれど、そのうち私は、好意的な目で見られることに慣れすぎていたに違いない。いま三鈴から向けられている視線と、言葉は、私のことを欠片も気遣っていない。たまたま開いた古い本のページを這っていた小さな虫に向ける、そんな感情。放って置いても何の害も無いけれど、つぶそうと思えばつぶせるし、戯れの声をかけて別の本に吹き飛ばすことも出来る。
 でも、一歩引いてしまえば、負けだ。
 無理に作った笑顔を止めて、ギリと奥歯をかみ締める。
 ふと、後ろのほうから
「だれか、出してよう。あ
おやぎぃ、やめてようこんなこと……。あやまるからぁ」
 と、誰かの声がくぐもって聞こえた。思わず体のの緊張を解いて振り返っても、もちろん廊下には誰もいない。一瞬、背中がヒヤッとする。
「神崎」
 そう突然三鈴に呼ばれたので過敏になった神経が体中を逆巻いた。
「入り口で突っ立ってるのもなんだし、ちょっと入りなよ」と、三鈴は右手で可愛く手招きをする。
 後ろから聞こえた声と、三鈴に呼ばれたことでまた硬直した身体も、
「神崎、入りなよ」
 というトドメのような三鈴の声に、黙って従い、図書室のドアを閉めた。そのとき、せめてもの抵抗か、それとも自分を追い詰めるだけの愚考かわからない。ほとんど突発的な閃きで、ドアを閉めた後ろ手で、音を立てないように鍵をかける。
 鍵を閉めた瞬間、ふと体が軽くなった。さっきほどの緊張感は、もうない。
「三鈴」
 と呼びかけた私の声に、三鈴は返事をせず、ただまっすぐ私を見返した。
「あんたさぁ、なんで図書室で、ベースやってるわけ?」
 すると、三鈴はふっと表情を柔らかくして、あはは、と、私の知っている三鈴のイメージ通りに可愛らしく笑い始めた。
「そこにアンプがあったから、とか、ダメ?」
「なに『そこに山があったから』みたいなこと言ってんのよ、ばか。びっくりしたんじゃない。いきなり爆音が聞こえてくるんだもの」
「ねぇ神崎。心臓、震えた?」
「そりゃもう、あんな大きな音だもん」
「そっか。うん、こういうやり方もあるってことだ。なるほど」
「?」
「いゃ、なんでもない。そうだ神崎。せっかくサックス持ってるんだからさ、何か吹いてみてよ。私の知ってそうな曲」
 そういって三鈴は、アンプのボリュームをいじり始めた。
「何か吹いてって、だってここ図書室だよ?」
「だから? 図書室は静かにしましょうって言うのはさ、静かにして欲しい人がいればこそのテンプレートだもん。いまこの図書室に、神崎に静かにして欲しいと思う人は、誰一人いないから大丈夫。いるのは、神崎とセッションしたいべちゃべちゃしたベーシストが一人だけ。中條だって、まだ来ないから」
 べちゃべちゃした、ベーシスト? なんだ、それ。っていうか、ベースとサックスのセッションなんて、そんなの今までしたことが無い。コントラバスなら吹奏楽でも使っていたけど……。
「なぁに難しい顔してるの。別に神崎が吹奏楽でやっていたみたいに完璧にあわせたり、一つにするわけじゃないんだから。だから神崎の好きな曲を一曲、神崎の好きなようにやってくれたら、私も好きなようにあわせるから」
 そういって三鈴は、挑発するようにベースの弦を弾いた。
 そこまで言うなら、こっちだって黙っちゃいられない。
「わかった。それじゃあね……」と、少しポピュラーな70年代の洋楽ナンバーを三鈴に告げた。ビールのCMで使われている、やたらめったら明るい、抜けるような青空が嫌が応にも浮かんでくる曲。
「いいよ、オッケー。知ってる、知ってる。それじゃあいこうぜ、3・2・1」
 長い間使い込んで手に馴染んだサックスのキィは、特に練習しなくてもある程度知っている曲ならばテキトウに吹ける。
 2月の末の図書室に、アルト・サックスの明るいメロディーと、やたらと跳ねるベースの音が鳴り響く。
 三鈴と、目が合った。
 三鈴のベースは、かなり巧い。巧いが、自分勝手だ。勝手にメロディーを持っていくし、勝手に刻みにもどりやがる。三鈴の目は、ゆらめいていた。冷たさはなく、鋭利でもなく、ろうそくの焔みたいに、ゆらゆらとゆらめいていた。勘ぐりもなく、話術もなく、ただ、音楽を二人で好きなように食い散らかしているような、そんな気がした。決して人に聞かせる音楽じゃない。気がつけば私も滅茶苦茶に、好きなようにサックスを鳴らし、三鈴はさらに原曲を叩きのめすような演奏をエスカレートさせていった。もう途中から、ピックは折れて、床に落ちている。二人とも、何の考えも無い、ただ自分の体から出てくるままを、楽器を使って爆発させているような、そんな……。
 ふと横を見れば、志賀直哉と、武者小路実篤がずらりと並んでいる。ぐるりと身体を回せば、「図書室は静かにしましょう」とかかれた、少し色あせた張り紙が、じぃっとこっちを睨んでいた。
「神崎! こんな風に合わせたのって、初めて?」と、三鈴はメロディーを弾きながら私に叫んだ。ベースの奏でるメロディーラインというものが、こんなに格好がいいとはいままで知らなかった。
 こっちは演奏しながら会話は出来ないから、口を離して返す。もう曲は終わり口だ。三鈴に任せよう。
「初めてよ、こんなの。滅茶苦茶だもの」
「実はね、こうやって人と合わせるのは、初めて」
 と言い、三鈴は音をフェード・アウトさせ、図書室を以前の静寂にもどす。それでも耳鳴りは続き、胸と、おなかは、じぃんじぃんと震えていた。
 三鈴がベースから手を離し、
「ねぇ神崎。私、神崎と話をするの、嫌いだった」
「………え」
「私の母親と話し方が似てるからかもしれない。媚を売っているのに、弱みを握るような、いやらしい話し方。でもね、神崎のことは嫌いじゃない。いつかソロコンの練習してるの、聞いたことあるからさ。私と神崎の間に言葉があれば、きっとそれば、一方的に神崎を刺すばかりの言葉にしかならないと思う。でも音楽なら、お互い好き勝手にできるし、何をしても別にどうってことないじゃない。また、付き合ってよ。今日のことは、たまたま真夜中の二車線の赤信号で止まっている私の車の横に、神崎が来て、タイミングよく青信号のスタートを切っただけだけど。一人で走るより、二人で走るほうが、アクセルを踏み込める、でしょ?」
 三鈴の話を、私は欲整理して聞かなきゃならなかった。どうして三鈴が、私の話し方を分解しているのかどうかはともかく、真夜中の車社会についての知識はそれほどあるわけじゃない。ただ、赤信号で止まっているところにもう一台がやってきて、青信号を合図に競争を始めることくらいは知っている。
「中條に怒られる前に、帰ろ、神崎」
 私が何かを言う間も与えず、ちゃっちゃと片づけを始める三鈴。
「なんなら送っていこうか。そのサックス、ケースに収めてきなよ。車は学校の側に止めてあるから」
 私は、ただパタパタと部室に戻り、サックスをソフトケースにしまった。途中で後輩たちが何人か「部長、ちょっとみてください!」としつこく迫ってくるのを無下にあしらい、ベースを背負った三鈴の後を追って、学校を出た。
 そういえばあの声はなんだったんだろうと、三鈴の車に乗り込むとき、チラリと頭をよぎったが、彼女のあまりの運転の乱暴さにどうでも良くなっていた。



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