-小麦粉記-

-小麦粉記-

その1


 ぐるぐるとまかれた管についた唾抜きのレバーを押し、ぱたぱたぱたと水滴を落とす。念のために、マウスピースをくわえて息を吹き込み、残った水滴を吹き飛ばす。
 もう夏はとっくにどこかへ行ってしまい、身の回りの色彩がだんだんと暗く、くすんだ感じになっている。私の家をほとんど飲み込んでいる裏の山は、立っている木がほとんど杉だから紅葉も何も無いし、今向いている方向には暗い青みの太平洋。なんにもない、クソ田舎の。
 昔はゴールドブラスでぴかぴかに輝いていたのに、今じゃもうラッカーはほとんど剥げ落ちて、薄汚れた黄土色と黒のブルマー。この間買ったばかりのマウスピースだけが居心地悪そうに新しい銀色を晒してる。管と管の間に挟んだタバコが、もうすっかり灰になっていた。
 ホルンの、話ね。
 そろそろ山に、日が落ちる。

 蟻地獄でワルツを。

 高校を卒業してからというもの、あたしは半分死んでいる。そう思う、ほんとに。
 苦労して入学した高校は卒業後の希望進路が99%進学みたいな学校だったけれど、あたしは残りの1%に入っていた。正確には、進学をしようにも出来ない、「学力」以前の「経済力」という問題があっのだけれど、たとえウチにお金があったとしても大学に行くかどうかは、どうも微妙な感はある。ただ「奨学金でなんとかなるじゃない」という担任のイメージの、さらに下を行っていたのは確かだ。授業料だって滞納していたのだから。
 大学に行った知り合いからは「元気―? こっちは授業大変だけど毎日楽しいよー」というようなメールがたまに入ってきていたけれど、返すのはどうも面倒だった。こっちの気なんて知りもせず能天気なメールをよこすことに腹も立った。夏に帰ってきた連中から「集まって飲みやるべ」という話が来ても断り、昔席が隣で割りとモテていた男からの突然の「付き合おうぜ!」メールへは着信拒否で返答。浪人生が調子に乗るな。
 そうこうしているうちに高校の連中とは、本当に気心の知れた奴等2,3人(浪人中)を除いて自然と縁が切れる。おかげで取り繕うような笑顔をすることも無くなったし、電話口で声だけの笑いをすることも無くなった。かくしてあたしから笑顔が消えて、鏡に映るのは魚みたいな目をした女が髪をとかしている安っぽい油絵。
 今は死んだ父親の兄の友達だというおっさんと、田舎の一軒家で二人暮らしだ。
 おっさんと二人で地元の海産物とか山菜だとかを取り扱うネット通販のサイトを立ち上げて、なんとか食っていけるレベルの生活。
 やることといえば、飯の用意、毎日2時間ごとのメールチェックと、テンプレート化した返信作業。配達のニイチャンに伝票を渡し、漁師のオヤジと世間話&値段の話をして、いつものように「イイ男見つけろやー!」といわれて帰るだけ。
 あとは、こうして暇をつぶすのに、ホルンを吹いている。
 人生をただ消費しているような気がしてならない。
 目的も、目標もなければ、特別悩むような問題もない。
 今このままでも生きていく分には何とかやっていけてるし、高校生の頃には人並みに恋愛感情をもてあましたりもした。バンドもやったし、部活はやってなかったけれど、割と「ジュージツ」してたと思う。
 けど、「なんか足りね」という感じが、いつまでたっても拭えない。
 あたしは、別に東京のオバハンからの昆布の注文メールを確認するために生きてるわけじゃない。そんなのは嫌だ。そんなことで、せっかく生まれてきたって言うのに、人生を潰したくない。
 あたしは何をなすべきなのか。
 生きてるからには、なにかしなくちゃ。
 でもそれが何か、よくわかんね。
 あたしが生きてる意味ってなにさ。
 あたしがしなけりゃならないことが、あるはずなんだけど。
 はたして世の中にあたしがいる必要はあるのか。
 あたしは、どうしたいのか。

 あたしはいったい、何をするために生まれてきたのか。

 まぁ、ばかばかしいっていうことは、わかってる。
 けれど、ばかばかしいほどに単純な不安だからこそ、ふとしたタイミングで頭の中に出てくるものだ。
 注文の品を仕入れて発送表に住所を書き入れているとき、ご飯を盛っている最中、ふと頭の中が真っ黒になって、白抜きの文字がおどる。
─お前は何をしに生まれ、生きているのさ─
 それは、蟻地獄に似ている。
 考えれば考えるほどずず・ずずと砂の中に落ち込んでいって、逃げられない。しかも悪いことに肝心のアリジゴクはどこかに行ってしまっていて、あたしは止めを刺され、吸い尽くされることも無く、ずるずると思考の砂の中で窒息しそうになりながらもがくしかない。日常のルーチンワークに埋没するあたしの人生。
 昔は人付き合いやら、授業やら、バンドの練習なんかで誤魔化してきた。
 けど、それがみんななくなってしまった今、考えることといえば、そればっかりだ。
「ふぅ」と一息。
 誰に聞かせるでもないホルンを足元に放ってあるソフトケースにしまいこみ、いつもと変わらない日常の待つ家の玄関に、足を進めた。

 家に戻った瞬間、やたらとドスの聞いたでかい声が玄関フードのガラスとあたしの鼓膜をビリビリさせた。さっきまで鎌首をもたげていた感傷がぶち壊されたことに、なんとなく情けなくなる。満足にセンチメンタルになることすら出来ないってのか。
「瑠衣子! 知ってたか? カレーはな、ブッダが作ったんだってよ。だから、今日は、カレーだ」
「だからさ、今日はシチューだって朝から言って……あぁもう、カレーが食いたきゃ自分で作って。あたしは、今日はシチューだって決めてるんだから、いまさら変えらんないからね」と、サンダルを脱ぎホルンのケースを自分の部屋のベッドに放り投げながらあたしもそれに応戦する。
「あぁ!? てめぇシチューもカレーも途中までは同じじゃねーか! ルーが違うだけだろ、斉藤商店で買って来い。あと、今度はジャワカレーにしろ。辛味がたりねぇんだよてめぇのカレーは」
 確かにそうだけど、それは暴言だ。あたし的に。
「だって今日金曜日じゃないんだよ!? こんな曜日感覚の無い仕事ばっかりやってて、今日が何曜日かもわからないようになるのかを防ぐために、あたしはずーっと金曜日はカレーにしてるの。海軍式。最近までそれに気づかないで「お前の料理のレパートリーはカレーが多すぎる気がする」なんてひどいこと言った人が好き勝手いわないでよね。今日は、えーと、木曜日。だから、絶対にカレーにはならない。そう、シチュー」
 そう言いながら洗面所で手を洗い、しばらく切っていない伸びすぎた髪の毛をゴムで一本にまとめて居間兼キッチンに顔を出す。
 岡崎猛という名前の男が、すっぱだかのフルチン丸出しで、ビールを片手にニヤニヤしていた。テーブルにはエロ本。天井に向かって自己主張する、凶悪な面構えのアレ。
「せめてバスタオルくらいは掛けてよね」
「ふん。そういうセリフは少しは恥じらいを持ってから言え。俺のムスコを見ても顔色一つ変えずにいられると少し腹が立つ。これでいろんな女の腰を砕いてきたんだがなぁ」
 そりゃ最初の頃はあたしも驚いたけど、こうも毎回見せ付けられると慣れてくる。さすがにどこかの女の人を連れ込んであたしの隣の部屋で事を始められたときはどしようもなくて外に逃げるしかなかったけどさ。
「で、どうしたの? なにか良い注文でもあったわけ? ビールなんか、ご飯前に飲んじゃって」
「おうよ。おめぇが外でラッパ吹いてるときに、ぴろーんってメールが入ってな。埼玉のレストランだったけど、ただのレストランじゃあねぇ。昨今話題の『和洋折衷』って奴だ。昆布を一気に100箱ご注文。もし気に入れば定期的に卸すことになるやもしれん。今年は海が凪いで、昆布の質も大きさもいい。いい値がつくかも知れねぇ。天然モノは名前をつけてブランド化する話が出てる。この間の、テレビの反響がきてるうちにな。このあいだの時化のおかげで拾い昆布も調子がよかった。いつにない大漁だ。油代が高くてイカはからっきしだけんど、昆布で埋め合わせが出来る」
 のこったビールを飲み干して、おっさんがぬっと立ち上がった。
「精悍」という単語がよく似合う筋肉のついた、浅黒いからだ。ギラギラとしている鋭い目。短めにしてツンツンとしている黒い髪。身長は180センチを越えて今なお成長を続けているらしい。
 おっさん、とあたしは呼んでいるけれど、そう呼ばれるほど実際は歳じゃない。まだ30代前半だ。
 離婚したのか別居なのかは知らないけど、内地に奥さんと小学生の娘が2人いる。奥さんは「どうしてこんな人がおっさんにひっかかったんだろう。弱みでも握られたんだろうか」と思うほどの可憐な人で、何度か話をしたことがある。微妙に敵対視されているような気がしたのは、気のせいじゃない。感情的には、愛しているんだろう。
 そう、おっさんは、別段悪い人じゃない。
 なんだかんだで頼りにはなるし、人付き合いが上手だ。ただ少し、冒険をしてしまう癖がある。奥さんから三行半なのか手紙なのか、とにかく別居させてもらいますということを突きつけられたのも、おっさんが子供をほったらかしにして世界中を放浪しまくりいろんな商売に手をつけて、危ない橋を渡った片っ端から崩壊させていくようなキワドイことをしながらも、家に帰ってくれば心配して作ってくれたご飯を無視し、がははと笑いながら問答無用でセッ○スを迫る絶倫だったからだ。
 子供は奥さんにについて行った。当然である。しかしおっさんにとっては結構なダメージだったらしく、それからというもの少し落ち着いてなぜかあたしの家に住み着き、通販の商売を始めた。養育費を払うためには、ガキが成人するまで少し安定を確保する必要があるとか。ネット通販の商売が果たして『安定』という言葉とどれだけシンクロできるかどうかの疑問はあったけれど(しかも未成年の一人暮らしの家に転がり込んでおいて)、一応一か所にとどまっている分、いままでのおっさんの行動に比べたらはるかに「安定」しているのかもしれない。とにかく今は、ネット通販以外にも昔の人脈を生かしてある程度の収入があるんだからおっさんもあなどれない。
 この間お昼の定番番組でこの町の特集を組み、結構な反響を呼んだのだけれど、そのテレビを呼んだのが、実はおっさんなんじゃないかと疑っている。どうやったのかは知らないけれど、撮影に来た番組のプロデューサーと通じていたことは確かだ。撮影する前月の電話代が他のつきに比べて跳ね上がっていた。番号は東京。
 おかげでウチの売れ行きは伸び、2年間分の滞納していた高校の授業料を完納することも出来た。卒業した後も授業料の催促がくるのは、かなりいい気分じゃない。
「瑠衣子」
「ん?」と、あたしはシチューの用意をしていた手を止める。
 おっさんが、窓の外を間が目ながら、あたしのことを呼んでいた。
「今日はやっぱり、寿司だ。街に出る、着替えろ。ったく、てめぇみたいな女でも髪を結んでエプロンなんかしてやがると、むらむらしてくるぜまったく。最近ヤってねぇからなぁ……」
 あたしはおっさんの呟きを無視して、だまったままエプロンを外した。
 そんなことを言ってあたしにどうしろっていうんだろう。あたしが、おっさんの相手をする? ありえね。あたしはまだ、処女だ。アイ・アム・ヴァージン・ファック・オフ。

 ちょいよそ行きの服装に着替えて、おっさんの運転する軽トラに揺られながら海岸を眺めていた。
 夕陽の照り返しを受けてテトラポットに当たって砕けるオレンジ色の波の飛沫が、強い風に吹かれて飛び散っている。まるで黄金が砕けるように。などと気どった表現をしてみる。似合わないし、気味が悪い。
 ちょうど太平洋と日本海の境目が、海の色の境界線ではっきりとわかる。呼び方は同じ海水だって言うのに、日本海と太平洋はきっちりと自分の領分をわきまえているかのように、交じり合わわない。
「瑠衣子、お前、男はまだ出来んのか」と、おっさんが話しかけてきた。
 あたしは全開にした窓にひじをつき、外を見たまま無言で回答する。
「お前な、もうそろそろ二十歳になるってーのにまだ処女ってのは、どうかと思うがな。特別誰かに操を立ててるわけでもねぇんなら、お前がその気になりゃそこそこの男はやり放題だろ。毎日毎日同じことの繰り返しで出会いが無いってのもわかるがな、別にずぅっと根詰めてやることもねーだろ、この仕事は。街に出たって、いいんだから」
「ネットの仕事、一人で、できるの?」まったく、こっちの気も知らないでテキトーなことを言わないで欲しい。
「いや、そういわれりゃそうだけど……そういう問題じゃねえっての。そういえば、瑠衣子。お前が高校のときに好きだった男、まだこっちのほうにいるんだろ? そいつはどうなんだよ」
「やだ、なんで知ってるのさ。つーか別にあたしは、アイツと付き合おうとか思わないし」といいつつも、いまだになんとなく顔が火照る。夕陽でおっさんにはわからんだろう。
「ばーか。誰が付き合えっつってんだよ。Hするのに付き合わなきゃならんのか」
「普通にHとか言うな。んー、変なこと言うけど、アタシさ、アイツと会いたいって思ったことない。会えば、きっと気持ちが悪くなって、吐く。近寄らないで欲しい。なんかさ、あたしの歯車ががたがたになりそうで」
 とたんにおっさんが吹き出した。この人相手にこんなアホなこと言うんじゃなかったという後悔先に立たず。
「ふはは。なに青くせーことくっちゃべってんだっつの。そんなセリフは、非処女になってからだボケ。そもそもHというものはだな、キスしてしまえば自然に胸に手が伸びて………」
 市街地まで、あともう少し。おっさんのエロトークが終わるまで、あとちょっと。
 ただあの奥さんとのHの話をこと細かくされると、あの清楚な人が……とちょっと興奮する。じゅるり。

 なんとなくアホな笑顔を貼り付けた店員が、
「何名様ですか?」
 なんとなく憮然とした顔のあたしが
「二人です」
 見えない空間にひびが入る。なぜか同年代の女の子と話すと、ギクシャクしてしまう。
「カウンター、ボックスどちらも空いておりますが……」
 その可愛らしい顔の造りにニヤニヤするおっさん。この人が一緒にいると、特にそうだ。べつに焼きもちだとかそんなんじゃないって言うことは、言うまでも無いけど。
「どこでもいいから座れるところで」
「あ、はい。か し こ ま り ま し た 。ではこちら、ボックス席にご案内いたします。ど う ぞ」
 あたしと店員は、目をそらしざま流し目で殺意を交し合う。そうとは気がつかないおっさんは、あたしから目をそらした店員の営業スマイルにニコニコしながら「きみ、可愛いね。なに、バイト?」などとさっそくこみゅにけーしょん。その足にさりげなくローキックを入れ、ボックス席へと急かした。
 観光客はもとより地元客にも非常な人気のあるこの回転寿司なのだけれど、前回来たときの記憶ははっきりしていない。というくらい昔の話だ。たしかオープンセールの終盤だったから、4年か5年前。それ以来寿司なんてスーパーで売れ残った「レジにて50%OFF」のパックを何度か食ったくらいだ。
 カウンターに取り付けられたボタンを押して、緑茶の粉が入った湯飲みにお湯を入れる。ごぼごぼと微妙な音を立てて出来上がった緑茶をおっさんに出し、お互い一口飲んだ後「「とりあえずイカ」」とハモった。
 握りをやってるニイチャンが苦笑いをする。この辺が貧乏性のなせる技だ。今日の予算なら、アワビを食べたっていいのに。しかも「とりあえず」とはイカに失礼じゃないだろうか。
 ニイチャンがへいっ! と威勢のいい声をかけてちゃっちゃと握ってくれたイカを二人でぱくつき、久しぶりに口の中に広がるネタとシャリとワサビとしょう油の味のハーモニーに、思わず頬が緩んだ。濃い。日頃の貧乏で味噌汁さえ少しお湯で水増しして飲んでいる食生活のあたしにとって、すぐそこの海で獲れ今朝のセリで落とされた新鮮なイカの寿司は、あまりに味が濃かった。熱いお茶を飲み干し、また湯飲みに緑茶の粉を入れてカウンターのボタンを押しお湯を入れる。
 新鮮さで言えば仕事柄今食べたイカなんかよりもっと新鮮な(というかまだ生きている)イカは何度も食ったことはあるけれど、やはり寿司は一味違う。炊き立てのご飯にしょうがとしょう油を控えめにつけたイカ、という朝ごはんも言いもだけれど、職人の作るシャリとネタの絶妙な感は、一般人というかあたしには作れない。
「そういやお前、あのラッパなんだけどよ」と、イカを食べて皿を重ねたおっさんが、唐突に話し出した。
「ラッパって言わないで。ホルン」ま、似たようなもんだけどさ。
「知るか、ラッパはラッパだろ。あれ、ずいぶん古いんじゃねぇのか?」
「まぁ、そうだけど。まだあたしが小学生の頃にもらったから、10年くらいは使ってるんじゃない? 手入れもなおざりだったし、最近レバーが一つ動かなくなるんだよね。オイルじゃぶじゃぶ注してもダメなときもあるし。あ、すいません。えと、はまち二つ」
「俺はほっきを三つ。あと、あれだ。アワビ二つ。おぉ、声が震えるねぇ、アワビなんて。ウチんところじゃウニは採れてもアワビはいないからな。で、だ。瑠衣子、お前さ、新しいラッパを買う気はねぇのかよ」
「別に、ないけど。修理したらまだ使えるし、モノ自体は結構いいから」アレキサンダーだから、といっても、わかる人にしかわからない。
「それに、お前の親父さんの、形見だからか?」
「さぁ、どうだろ。そのへんは、わからないかな」
「お、アワビ。何年ぶりだべ。ほい、一皿」
「ん、ありがと」
 それこそ何年ぶりかにアワビを見た。
 シャリの上に乗った、茶色い肉片を落とさないように、そっとしょう油をつける。ふわりと、アワビの香りが立ち上った。
 そして、ゆっくりと口に入れる。いやらしいほどしつこく、咀嚼。咀嚼。咀嚼。味を噛みしめる。向かいのおっさんも、同じようにコリコリやたらと口を動かしている。
 二人とも、ほとんど同じタイミングで、アワビを飲み干すと、無言で茶碗に手を伸ばし、熱いお茶を口に含んだ。
 おっさんの表情は、どういうわけか冴えない。というより、だんだんとしかめっ面になってきている。たぶん、あたしも同じだ。
 さっきから握りを続けながらあたしとおっさんの会話を聞いていて、満を持して差し出したアワビの結果が、このしかめっ面たぁどいうこったと緊迫感すら感じる表情でこちらを見つめている。ネタとシャリを持っている手は、止まっていた。
 もうここからはシンクロ競技だった。
 あたしもおっさんも黙ったままもう一つのアワビに手早くしょう油をつけて放り込むように口にアワビをつっこみ、さっきとは大違いの2,3回の咀嚼でネタを飲み干す。そしてもう一度お茶を口に含み
「「イカ二つ」」
 と何か大事なものをうしなったような声で、握りのニイチャンに注文をした。
 要するに
「やっぱり俺たちに「アワビ」なんて高級食材は味わえねぇ。これ高ぇんだよなぁアワビなんだよなぁとか、そういう雑念が入る。値段が先行して、味が二の次だ。旨かったのかすら、イマイチわからん。そんなアワビを食うよりもだ。安いが旨いことがわかってるイカを食ったほうが、はるかにコストパフォーマンスはいい。結局、貧乏人とは、そういうことだな。フランス革命だって、一応の成功はあったとしてもその後の政治はサイテイだった。ビスマルクが出るまでな。そういうもんだ。瑠衣子、そういうことなんだ」
 ということ。
 アワビを食ってブルジョアな気分だけでも出そうとしたのか、結局は根っからの情けないプロレタリアートだということをインテリゲンヂアに説明したつもりなんだろうけど、ナポレオンをビスマルクと間違えてる時点で全学連以下だ。所詮、おっさんは筋肉と征服欲と性欲で出来ている。
 アホだこいつらと拍子抜けした表情のニイチャンにさらに甘エビを追加注文し、アワビの呪縛から逃れたおっさんは、今度はただ純粋に寿司を食っていることに嬉しそうにしながらあたしのイカを略奪し、東南アジアだか中東だか、どこか遠い異国の話をし始めるだろう。これはもう、おっさんの癖と言ってもいい。ちょっとお酒が入ったときとか、気分がいいときなんか、すぐにこうして自分の冒険話を聞かせたがる。
 あれ、そういえばおっさん、ビール飲んでたはず。飲酒、運転じゃないの。たしか酒を飲んでいるのを知っていながら同乗した人間も逮捕されるんだっけ。
「そうだ。お前にはこの話をしていなかった。たしか俺が、まだ二十歳になったばっかりのころだったな」
 ほら、はじまった。
「とりあえず家を出て内地のアパート借りて、取り壊し専門の業者でバイトして、そのひぐらしやっていたのよ。これの突き上げって仕事がまた辛いんだがよ。ま、それはいい。そこで東南アジア系の、俺と同じ年くらいのやつも働いていたんだ。名前は、アジだ。アジ。事務所近くの食堂で、金に余裕があるときにアジの開き定食をうれしそうに注文してたから、アジ。もしかしたらアジア系だからアジだったのかもしれん。
 とにかく、だれも本当の名前なんてしりゃしないし、聞きもしなかった。使う側の人間としちゃ黙って仕事をしてくれてりゃそれでいいし、こっちも金さえくれりゃ文句は無い、ワケアリの人間ばっかりだったしな。働いてる人間の3割は前科もちで、4割は借金持ち、残りの3割が俺みたいな目的も将来もねぇ体力だけが取り柄の人間だ。
 よく俺とアジは、ペアを組んで仕事をしてた。突き上げっていうやたらきっつい作業だ。アジはだれよりも真面目だったぜ。国許の親に、毎月ちゃんと送金してたし、タバコも酒も、ギャンブルもしねぇ。たしか寝るところがなくて、事務所の物置で寝泊りしてたっけな。 そういう感じで半年くらいアジと一緒に仕事をしてたら、急にアジが国に帰ることになった。ビザだかなんだかよくわからねぇけど、そんな感じで帰ることになったわけだ。あ、ほっき一つ」
「あたしも、えんがわを」
 へい、とニイチャンが答えて、握りだす。
 今日は珍しく、どこかへ行ったときの話じゃないらしい。
「それで、アジの送別会を開くことになった。とりあえずみんなで金を出し合って、行きつけの食堂で飲んで食ってな。解散した後、ちょうど酔い覚ましに俺とアジで現場のほうまで来たんだよ。そこで、アジはなんていったと思う? 現場に止めてあった重機を指差して、最後の記念に、アレの動かし方を教えてくれって。そのころはまだ管理も粗かったし、現場に入り込もう何て奴もいなかったから重機に鍵はつけっぱなし。俺も酔った勢いで一通り教えてやったさ。免許なんて持ってなかったがな、あんなのちょっとやればすぐに動かせる。でもって俺が帰って寝た後、次の日近所のおばはんに叩きおこされて相当びびったね。現場の近くの、ヤクザが経営してたパチンコ屋に集団強盗が入って、重機で金庫をぶち破って金を盗んだ後、姿をくらましたって。もちろん重機はウチの重機で、社長もみんなそろって泡食ってよ。警察が来る前になんとかしろってんで事務所のドアをバールでぶっ壊してあたかも重機の鍵が盗まれましたーみたいな様にして、そのあとどうなったかはしらねぇ」
「アジさんは?」
「アジは、逃げた。金をもったその足で空港に向かって、無事逃げおおせた。次の年にタイに行ったときに、偶然見かけたんだよ、アジを。娼婦を雇って日本人観光客向けにフーゾク経営をして、そこそこ成功してたらしい。その手の日本人には、有名だったな、アジの店は。アジが逃げたすぐ後に社長が話してくれたんだけど、やっこさんの母親が病気で、妹が17でガキ二人産んでる。父親は死んでた。ま、そういうこだよな。思い返せば、アジは、顔こそ抜けたマヌケ面だったがな、目はキラキラしてた。周りの人間ときたら、俺を含めて、働いて食って寝ての繰り返しで、半分死んでるみてぇなもんだ。必要とされてる人間は、こうも違ったのか。重機で金庫をぶち破ることも出来るのかっておもったら、いてもたってもいられなくなって、そこから俺の世界の旅が始まるわけよ」
 えんがわがきたので、あたしはだまってパクパクと食べた。ちょっと、脂がくどい。
 それにしても、なんとも微妙な話を聞かされた。犯罪の片棒を担いでいるようなものだし、いてもたってもいられなくて親孝行をするでもなく、むしろ親不孝な世界の旅をはじめてしまうおっさんにあきれつつもなんとなく納得してしまった。
 そういえばあたしはまだ、おっさんの両親にあったことが無い。
 別に深い意味はないけど。


 7時ちょっと前に回転すし屋を出て、家に着いた時間が7時18分だった。
 普段なら短くて30分、普通は45分はかかる道を、18分で走りきっている。警察に捕まれば問答無用で一発免停のスピード。リミッターが作動しっぱなしだった。
 普段は出して60キロ、5速に入れることなんてほとんど無かった軽トラのエンジンが、果たして明日以降ちゃんと動いてくれるか心配だ。シュウシュウと音を立てていたところをみると、明日は整備工場の世話になるかもしれない。

 寿司でおなかを一杯にするという生まれて始めての「愚行」を犯したあたしとおっさんは、家の玄関でお互いの顔を3秒見つめあった。
 おっさんの表情は嫌に晴れやかで一仕事を終えさてこれからどうしてやろうかという風。
 逆に、玄関に置いてある鏡に写ったあたしの顔は、げっそりとやつれて頬は引きつり、おまけに目が死んでいる。「サイテー」という安っぽい言葉がよく似合う。
 そんなあたしの肩におっさんが気安く手を乗せてバシバシ叩いた。
「瑠衣子、5万8千円儲けたと思って素直によろこべってんだよおめぇはよ。くよくよする暇があるならなぁ、明日のことを考えろ明日のことを。連中が見せの外に出てきた頃には俺たちゃもう華麗なギアシフトで車道で80キロは出ていたはずだ。日本くらい道路がしっかりしていて、みんながちゃんと規則を守って車道を走っていればなんてこたぁないぜ。軽トラなめんな。こちとらタイの通りのど真ん中を警察からぶっちぎって逃げた男だっつーの」
「なんでケーサツから逃げるはめに?」と、なんとなく話をあわせてしまうのは、私の悪いくせかもしれない。
「あぁ、密輸がばれたんだよ。仲間が土壇場で買収されて、港で待ち伏せされたわけよ」
 運んでいたものは何かを聞く気も無いし、いまここで重要なのはおっさんの武勇伝よりも、明日明後日のあたしたちの身柄の安全だ。
「っていうかさ、どういうつもりで……まぁ、いっか。あたしたち、ホントに大丈夫なんだよね」
「おうよ。あのマヌケどもにナンバープレートをメモられているくらいなら、俺は今頃東南アジアの土になっている。しかもだな、あのくらい繁盛してる店なら5万8千円程度で被害届なんて面倒がってださねえよ」
「最初からああいうつもりだったのか、それとも単なる偶然だったのか、それだけは教えてよ」
「ん、それは偶然だ。サイフを持ってきていないことに気がついたのは、勘定が見た感じで2万くらいのときだ」
 後は聞かずともわかる。あたしが「もうおなか一杯だけど」というのも尻目に野獣の速度ですしを食いまくったおっさんの行動にも、確信が持てる。
「それで、どうせ食い逃げするならたらふく食ったほうが良いだろうと思ってな。お前に言えば多分「走れメロス」、あれ、エロスか? まぁ、アレの状態になるだろうと踏んだから、言わんかった。すまんな」
 おっさんの言うとおり、もし財布がないことをあたしが知ったら、おっさんを人質に残して財布を取りに行っただろう。
「閉店時間までに戻ってこなかったら、この男を殺す」という暴虐の店主。
「おっさん、あたし、必ず戻るから。信じてまっていて」と車のキーを片手に店を飛び出すあたし。
 その後ろ姿を見送る「何故黙って食い逃げをせなんだ」という目をして、イスに縛り付けられたおっさん。「ガソリン代だってかかるじゃねぇかっ! バカ瑠衣子!」
 そしてあたしは家に戻り、例のレストランからの振込みがまだだという事実に愕然とし、「ま、おっさんだったら別にいいか、放っておいても」と思うだろう。そして昼寝までしちゃう。
 けれど、ふと目がさめた瞬間、なぜか精悍なおっさんが脳の辺りをチラチラし始めて、結局あたしは自分の預金通帳からお金を引き出し、軽トラのアクセルをベタ踏みしてすし屋に向かう。
 きっと信号に引っかかるだろう。横転事故を起こしたトラックが、あたしの前を塞いでいるかもしれない。お約束のようにタイヤはパンクし、腕時計は閉店時間までの残り時間を正確に刻む。
 どうしようもない。
 あぁ天よ、御照覧アレ!
 あんなおっさんのためにあたしってば自分の預金を下ろして、赤信号も無視し、制止する警官をふっ飛ばし、あともう少しでつくというところだったのです。
 瑠衣子は努力しました。なのに、あぁっ、タイヤがパンクしてしまうなんて!
 全ての手段を失ったあたしは、海岸のテトラポットに腰掛け、こんなことを考える。
 まぁ、でも、相手はおっさんだもんなぁ。
 悪魔のささやきだ。
 あの人を放っておいても、多分自分で逃げ出してくるんだろうしなぁ。きっと今頃事務所であのバイトの女の子とこみゅにけーしょんをとってるに違いないし、イスに縛り付けられた状態で
「ほら、壁に手をついて、そう、お尻を突き出してごらん。そう、ゆっくりでいいから」
「い、いやぁおじ様、舐めないでっ……そこ汚いからっ」
「汚くなんか無い、むしろそのほうが嬉しいね。ほーら※※※※※※※※※※※……ッ!」
「ああんっ、ぁ、あ、あぁぁぁあぁぁあっ! お、おじ様っ! ユリ、イっちゃいそう!」
「なんだなんだユリちゃん、もうこんなにぐしょぐしょじゃないか。太ももまで滴っている。スケベな子だなぁ、ユリちゃんは」
「だ、だっておじ様、こんなの、初めて……」
「よーしユリちゃん、ゆっくりとボク(!)の上に乗っかってみるんだ。そう、ゆっくりゆっくり。おおぅっ! 凄い締め付けじゃないか」
「あぁんおじ様っ! ユリ、イクッ!」

 急に殺意が沸いた。
 瑠衣子は走った。
 おっさんの上であんあんと嬌声を上げるバイトの女を蹴り飛ばし、薄ら禿の店長に6枚の一万円札を叩きつけ、拘束されているおっさんに凶悪な鞭と灼熱の真っ赤な蝋燭をくれてやるために、瑠衣子は走った。

 たぶんこんなシナリオ。

「おい瑠衣子、なに惚けた顔で赤くなってんだおめー」
 あたしは今しがたしたアホな妄想を頭を振って追い出し、「なんでもない」と答える。
 しかしておっさんの言うとおり、十中八九、警察が来ることは無いだろう。
 特にこの地域の警察は、自分たちが上手い汁をすえる事件じゃなきゃ、腰を動かさない。
 今時無銭飲食なんてだれも相手にしないし、警察は警察らしくパチンコと競馬・競輪をしていれば良い。婦女暴行の被害にあった女性が美人なら微に入り細に入り「ツッコん」で犯行の「検証」をしていればいいし、アホどもから巻き上げた粉状の証拠物件を、味の素と詰め替えていればいい。
 一抹の不安はあったけれど、おっさんの顔を見ているとどうとでもなりそうだった。
 生まれて初めて無銭飲食という犯罪を犯したのに、もはやそんなこと動でもよくなっているあたり、あたしはおっさんに感化されているんだろうか。
「ね、おっさん。もう寝る? お風呂もう一回沸かそうか。なんとなく、冷えちゃったし」
「いらねぇよ、別に。瑠衣子が入りたきゃ入ればいい。それより、今日は我慢して明日温泉に行く手もある」
 そういいながらおっさんは、もう温泉の回数券をコルクボードからはがしていた。
 あたしはシチューのルーを台所の戸棚にしまいこみ、その隣からカレーのルーを取り出す。
「明日は金曜日で、カレーだから」
「おぉう! そうか、カレーか。よし、朝飯前にフロに行って、それからカレーだ。いいな」
 相変わらず勝手なことを言う。
 どうせお風呂から帰ったらすぐに「作るのが遅いんだよてめーは」と文句を言うに違いない。
 ま、いいけど。
 二人で身体をぶつけ合うようにして洗面所で歯を磨いた後、時計はまだ10時なのに、お互い寝ることにした。
「瑠衣子、もし明日警察が来てもな、瑠衣子だけにはなんともならねぇようにしてやるから、まぁ、黙ってカレー作ってろよ」というおっさんに、あたしは鼻で、笑いを返した。

 おっさんに、誰かを安心して眠らせてあげようなんていう心遣いは、似合わない。



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