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2009年10月17日
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 きっかけは、神子が出かける支度をしている僅かな時間だった。
 神子を待つ時間を退屈そうにしている翡翠に、紫姫が声をかけたのだ。

「伊予の話など……京の姫君にお聞かせするようなことはありませんよ。」
「でも、私、外の世界など見たくても見られませんもの。聞きとうございますわ。」

 神子には話しているのだ。海がどれほど広く、どれほど美しいか。頭上にどこまで広がる星空、たゆとう波の心地よさ。紫姫は、翡翠の口から直に聞きたいと思った。実際に見た目で感じたことを。

「まったく、海賊の話に興味を示されるとは、四条の姫君はとんだやんちゃ姫とみえる。」

 それではと語る翡翠の話に、紫姫はうっとりと聴き入った。準備のできた神子が戻ってくればそこで中断するのだが、翡翠が来るたびに、紫姫は続きをせがんだ。
 せがまれれば、翡翠の方も悪い気はしない。神子を待つ時間では短いと、いつか、神子を送り届けた後になり、神子が翡翠を供に選ばなかった日はそのまま屋敷に留まって紫姫と一日過ごすような、そんな風になっていった。長く時を過ごせば情も移る。始めは紫姫を正面に見て話していたものが、いつの間にか紫姫を横に置き、横に置けば小さなその体をそっと膝に置きたくもなる。翡翠と紫姫の間に親密な時間が流れ始めるのに、時間はかからなかった。

(ふふ、私ともあろうものが、こんな小さな姫君に気を取られるとはね。)


 傍らで見ていた幸鷹が苦い顔をした。

「……神子殿とご一緒の時くらい、真面目に働いていただきたいものです。」
「おや、別当殿。私が真面目でないとでも?」
「何に惚けておいでになるのか。あなたらしくありません。」
「ふふ……そうかもしれないね。君の勇敢さに見とれていたとでも言っておこうか。」
「な……っ」

 そんな会話もあったと、翡翠は一人小さく笑った。膝に置いた紫姫が不審そうな目を向けるのへ、小さな口づけを落とし黙らせた。嬉しそうに体を捩らせるのが愛おしい。翡翠は紫姫の体をしっかりと抱え直した。この掌中の珠は自分だけの物だと言わんばかりに。
 語り尽くしたと思うほどにも、海の話を聞かせてやった。海に映り込む月の美しさ、広がる星空、その星が落ちたかのように海一杯に広がる夜光虫。凪いだ海も、荒れた海も、海賊の日常まで。

「人が思うほど、日々船を襲っているわけではないのですよ。狭い海峡を通り抜けるに必要な知識を売ったり、必要なら案内したりね。」
「そうですの?」
「ふふ、毎日襲撃などしていたらこの身がいくつあっても足りません。依頼を受けて護衛していたのがたまたま襲われたとかね。まあ、たまにはこちらから仕掛けることもありますが……」



「安心していなさい。君を置いて、私はいなくなったりしないから。」

 紫姫は嬉しそうに微笑んだ。
 月が中天にかかるのを見て、翡翠は紫姫を抱き上げたまま立ち上がった。紫姫は嫌々をするように身じろぎをしたが、翡翠は少しも意に介さず、紫姫を御帳台に運び、茵に横たえて帳を閉めた。

「お休み、姫君。また明日来ますよ。」

 愛しいとは思っても、それ以上踏み込むつもりなど翡翠にはなかった。まだ年端もいかぬいたいけな乙女に何をしようというのか。ただ相手のせがむままに、その小さな体を温め、優しい言葉を囁きかけ、それで紫姫が満足しているのだから、それでよかった。

 神子が去ってからも、まだこうして京に留まり、紫姫を膝にかき抱く、そういう生活が続くとは思わなかった。去る神子を追って流す紫姫の涙が翡翠を京に止めた。星の一族は神子あってのもの、神子が不在の時はただひたすらに龍の宝玉を守り、次の神子が訪れるのを待つのだと聞いた。先の神子が訪れたのは100年の昔。次の神子が訪れるのは、いったいいつのことか。
 このまま、この姫が朽ちていくのかと思うと、翡翠はいたたまれない思いだった。幸せにしてやりたい、ただそのことだけが思われた。そんなに人に執着するなどらしくないとどれほどうち消しても、その思いは後から後から湧きだし、翡翠の心にあふれかえるようだった。
 膝に残る残り香が、小さな重みの記憶が、そうさせるのだとわかっていた。しかし、一度知った物を知らない昔に返すことができないことも同じほどにわかっていた。

(乗りかかった船、ね……)

 こうなったら漕ぎ出すよりないのだろう。行方も知れぬ……恋の船旅へ。

(恋……? この想いを恋と呼ぶか。あの小さな姫君に、ね。)

 翡翠は苦笑した。まさか自分にこんな恋が訪れるとは思わなかった。いったい、あの幼い姫のどこが自分をこんなに惹きつけるのか。





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最終更新日  2009年10月17日 22時39分50秒
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