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鹿児島の神社を訪ねる二泊三日の旅も二日目を終え、二日目の宿のある鹿児島市照国町までやってきました。今日はこれでのんびり・・・・・ではなく、チェックインを済ませ、城山の頂にあるこのホテルから、歩いて山を下り麓の『照國神社』に参拝します。部屋の窓から雄大な桜島の姿を悠長に見入っている場合ではない。なぜ急ぐ?かみさんの念願だった島津家の家紋入り御朱印帖を手に入れたい、「照国神社」授与所は夕方5時まであと30分だ、なので絶対遅れる訳にはいかない。ホテルから麓に降りる近道とされる狭い階段を駆け下り神社を目指す。途中道を間違え、「照國神社」の鳥居に辿り着いたのが10分前。周囲は夕陽に染まり、本当にこの時期は日没が早くとても損した気分になる。鳥居の写真を撮って振り返るとかみさんの姿がない、授与所に直行したようだ。山の頂にホテルが良く見える。近くて遠い結構ハードな下りだった。正面の綺麗に剪定されたイヌマキ。斎鶴と呼ばれ、翼を広げて飛び立つ鶴のように見える。照國神社全景、右手に手水舎。手水鉢には色とりどりの花が水面に浮かべらていて、手のみならず一緒に眼まで清められる。こうして花を浮かべた手水鉢、最近稀に見かけるけれど、しゃれた演出でいいものだ。照国神社社殿全景。神社創建時の社殿は権現造りだったそうですが、1877年(明治10)の西南の役で焼失し、1882年(明治15)に流造で再建され、1904年(明治37)に改築を受けます。それも1945年(昭和20)の戦災により焼失、その後1953年に本殿、1958年に拝殿、1967年神門が再建され、1994年(平成6)幣殿を拡張し現在の姿を保っているようです。境内をー段あがると手水舎の後方に古めかしい石塔。左に社務所があります、巫女さんが戻ってくるという事は授与所閉まったのか?神門1967年に再建されたばかりで趣には欠けるけれど優雅な佇まいをしている。神門から拝殿。至るところ丸に十字の島津家の家紋が目に入ってくる。ここで漸くかみさんと合流、念願の御朱印帖はギリ〃手に入れる事が出来た様だ。先に記載したように拝殿含め全てが昭和に入ってから再建され、以前の木造のシックな趣はない。神社建立に先立ち、島津久光と息子の島津忠義によって1862年(文久2)社地を選定、翌年の1863年(文久3)に小社を設けたのが始まりと云う。祭神は照國大明神(島津家28代当主11代藩主 島津齊彬)をお祀りする。島津齊彬と神社創建について案内では以下のように書かれています。「島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、同3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治6(1873)県社に、同15年(1882)別格官幣社に列格し、同34年(1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されています。」拝殿左の廻廊から更に参道が続きます。最初に現れるのか赤い鳥居を構えた照國神社の末社「保食神社(照國稲荷)」食物や穀物の神さま倉稲魂神を祀る、もともとは後方の城山の中腹に祀られていたが、台風で被災したのを機会に1954年に境内に遷座した。「保食神社」から参道は更に奥へ続きます。右手に流造で五本の鰹木と外削ぎの千木が施された本殿を間近に見ることが出来ます。本殿後方の水宮に向かう参道脇、木の根元に悲壮感を漂わせて座り込む石像があります。邪鬼なんだろうか、両手は目に見えぬ何かを必死の形相で支えている。何の重圧から耐えているのだろう。その表情があまりにも印象的だったので撮ったものの詳細はよく分からない。参道は左の「水宮」に続く。時間のせいもあるけれど、鳥居から先は薄暗くそれまでとは違う異質の空気が漂う。緩やかなカーブを描く参道、左には複数の苔むした石標が並ぶ。それらには山神、水神、地神と刻まれ、正面の苔むした山肌にも水神と彫られた石標が祀られています。これらの石標は「内神様」と呼ばれ自然への畏敬の念を込め祀られたものだという。御幣が供えられた山肌は清水が湧き出ている。こうした場所は開発も進み湧き出る清水も少なくなる、神様を祀るほど以前は量も多かったのだろう。蛇口を捻れば好きなだけ飲め、植物に水もやれる、そんな時代に生きているものにすれば、自然の水に感謝し尊ぶ気持ちは薄れてしまったのかもしれない。参拝を済ませ神門を通り手水舎の謎の石塔まで戻り、そこから隣の探勝園に向かいます。灯が灯された境内、神門の上には月も顔を見せています。探勝園照國神社の右に隣接し、島津家第25代当主重豪公が建立した庭園。ここには祭神の島津斎彬の像や島津久光公・忠義公父子の銅像があります。左手には『照國神社』の社殿全体を見渡すことができる。「集成館」42歳で藩主となり50歳で亡くなるまで、薩摩藩の富国強兵を推し進め、洋式造船技術育成、反射炉建設・溶鉱炉建設の他にも地雷や水雷、ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を立ち上げるなど技術革新を進め、西郷隆盛や大久保利通などの人材を輩出するなど、近代日本の礎となる数々の功績を残した。国旗、日の丸を発案したのも齊彬で、江戸末期の黒船の来航以降、幕府は鎖国から開国に向け転換せざるを得なくなります。それにより、海上を航行する船舶の日本船と外国船の識別が必要となって行きます。齊彬はこれを解決するため、「白帆に朱の丸」の旗を掲げるように幕府に提案。それを取り入れた幕府は日本の船印を「日の丸」に定めたとされます。一国の藩としてだけでなく、世界の中の日本のあるべき姿を見据えて策を練り形にする、そうした将来を見る力量を持った人だったようだ。藩主となり亡くなるまでの8年は長いようでとても短い、それを知っていたかのように濃密な時を過ごしたようだ。今はここ城山の麓から鹿児島の移り行く姿を見守っている。「戊辰之役戦士顕彰碑」探勝園にはこの他に「太平洋戦争戦士の墓」「原爆犠牲者慰霊平和記念碑」等がある、幸運にも平穏な時代に生かされている幸せに感謝しかない。「鹿児島縣護国神社頓宮」名の通り祖国の為に亡くなられた方々を祀る神社で1868年(明治元年)、島津忠義は鹿児島市山ノ口馬場に靖献社として建立、1879年(明治2)に移転したもの。そろそろ日没も迫っている、斎鶴の先の鳥居と街並みが夕陽に照らされ赤く染まっている。この鳥居は強運を持っているようで、空襲により社殿は焼失しましたが、この鳥居だけは被害を免れたそうだ。照國神社創建 / 1863年(文久3)祭神 / 照國大明神(島津家28代当主11代藩主 島津齊彬) 境内社 / 保食神社、水宮 住所 / 鹿児島県鹿児島市照国町19-35
2021.01.31
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西尾市吉良町 蛭子社息苦しい街の空間、そんな毎日の繰り返しが続いている。時には外の空気を腹いっぱい吸いに名古屋から下道を走って二時間ほど、かみさんと二人で久しぶりに郊外に出かけてみた。ポンコツナビとかみさんの指示に導かれ吉良町までやってきた。久しぶりの海、久しぶりの吉良海岸、若かりし頃に慰安旅行で訪れて以来かもしれない。当時は温泉街もそれなりに活気があった、今は当時の活気に満ちた温泉街の印象とは程遠い。写真は吉良海岸の恵比寿海水浴場の眺め。砂浜の先に弧を描くように堰堤が続く。季節外れの砂浜に釣り人の姿がポツンと見える程度、この空間に密など存在しない。潮の香りと静かに打ち寄せる波の音。気が許せない普段の生活から解き放たれリラックスできる。恵比寿海水浴場の西外れ、というか堰堤の付け根に松の生い茂る馬の背のような小高い高みがあります。海側に高みに続く石段があり、その先に神明鳥居があります。ここは恵比寿海水浴場にある『蛭子社』。石段を上ると馬の背沿いに赤い幟が立ち並び、参道は奥の小さな社へ続いています。松並木の参道にはえびす社と書かれた赤い幟が海風にたなびいています。参道右側にいかにも海らしく錨とスクリューが飾られています。そこの案内板によれば、「昭和34年(1959)、9月21日に超大型の台風15号がこの辺りを通過。それは甚大な被害をもたらした伊勢湾台風と名づけられ、当時の新聞の記録には15号台風で吉良町宮崎海岸に座礁した松岡汽船の松隆丸は座礁したまま救援を待っていたが、松隆丸の船内にある野菜・肉類など乗組員の三ヶ月分の食料を被災した地元被害者のために放出し、地元の人々から感謝されたという。」この錨やスクリューは恰も松隆丸の物のように見えますが、よく見ればこの逸話とは無関係な船のものでした。参道の突き当りの入母屋瓦葺の拝殿、後方には平入で切妻瓦葺の本殿を収めた覆殿が一体となっています。シンプルな懸魚と大きめの鬼瓦、そこには鯛を抱えてにこやかに笑う姿がある。祭神は事代主神、迦具土命、須佐之男命創建は1585年(永禄8)と見た目以上に長い歴史をもっている。社伝によると1580年(永禄3)に今川義元が巡遊の際、当地は耕地が少なく、漁業で生活するもの多いことから、漁業の祖神西宮大明神を祀るようにと云われ、1585年(永禄8)に蛭子神が祀られたされる。1913年(大正2)に近隣の秋葉社と津島神社を合祀したという。永禄3年は桶狭間の合戦で今川義元は信長に討たれた年、その年に義元はこの地へ巡遊していたという。余裕たっぷりの義元、よもや、よもやの結果が待っていようとは。拝殿から鳥居の眺め、正面も右手も海だ。海に向け突き出るように伸びる高みは恵比寿(蛭子)岬の由縁かもしれない。堰堤が築かれる以前はこの小さな岬が堰堤であり、風よけの役割を持っていたのだろう。参道から左に駐車場に続く小路があり、駐車場から見た社殿。小高い高みから海に向かい鎮座する「蛭子社」、海を生業にする者の守り神の姿が漂う。蛭子社の横はすぐに駐車場、今は静かに佇む神社の姿も海水浴シーズンの時はどうなんだろう。水着姿の若い参拝客で賑わうのだろうか?、いかん〃煩悩が目覚める。恵比寿岬から「吉良ワイキキビーチ」の眺め。この時期は夏場の賑わいとはかけ離れた静かな光景が見られる。「蛭子社」創建 / 1585年(永禄8)祭神 / 事代主神、迦具土命、須佐之男命住所 / 西尾市吉良町宮崎宮11名古屋から車でのアクセス / 国道23号線⇒西尾東IC県道383号線⇒高河原交差点左折県道310号線⇒善明交差点右折国道42号線⇒新木田交差点左折県道317号線⇒鳥羽橋交差点左折国道247号線⇒鳥羽交差点右折県道316号線⇒吉良観光ホテル手前を左折⇒恵比寿海水浴場方向、 所要時間1時間45分
2021.01.29
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岩倉市大市場町順喜1「縣明神社」訪れたのは昨年の大晦日。コロナが広まりを見せる名古屋に電車で帰省する息子、密な中心街を経由させたくない事もあり、車で県境まで迎えに行く途中に立ち寄ってみました。岩倉市は南北に長く、東西に短い県内の市では面積は一番小さい。上は1920年頃の当地、市内には岩倉(美濃路)街道が南北に続き、街道を中心に集落が点在し城址や寺社が集まる、五条川堤の桜やのんぼり洗いで知られところでもあります。岩倉は「磐座」から由来したとされ、田畑は宅地化され区画整備も進み、田園風景は薄れてきたものの、古い道筋が一部残り昔の面影を留めるいい街だ。各町内には氏神様が祀られ、それらは神社当番によりお世話をされている。大市場町を東西に走る県道166号線、その北側に鎮座する「縣明神社」南北に長い境内を持ち、参道は県道の交差点を越え更に南に続く、この町の氏神様だ。鳥居から境内の眺め。門松が飾られ、小さな蕃塀と鳥居の先に瓦葺の切妻拝殿が見える。右手に縣(あがた)明神社の社号標があります。幟や神社幕、提灯が吊るされ新年を迎えるばかりだ。平年ならば当番の方はこれから忙しい時を迎える。鳥居から先の境内。左に脇参道があり、街路樹の様な杜が社殿を囲んでいる。地元のかみさん曰く、この辺りは神社の名前で呼ばず、〇〇町の神社で呼ぶようだ。この神社の詳細はさっぱり分からない。この神社誰を祀っているか尋ねてみたが、「参拝はしてもそれが誰かは考えた事がない」という回答。確かにそうかもしれないな・・・・・残念。境内左の手水鉢、龍はいない。前面に文字が刻まれているが悲しいかな読めず。切妻で四方吹き抜けの拝殿。屋根は軒に向かい緩やかに曲線を描き、木造のシンプルな外観はいかにも馴染みやすい町の神社の佇まい。五三の桐が神紋のようです、拝殿から幣殿は間近に見通せます。拝殿左から幣殿、本殿の眺め、玉垣の先に灯籠と狛犬、どちらもいい感じで古びている。幣殿前の肉付きの良い狛犬、奉納年は不明。切妻で平入の幣殿、両脇に棟を下げた小さな建屋が一体となり、内部は一つの空間になっているようです。こうした構造の造りの呼称は知らないけれど、単純な平入の切妻より重厚な印象を受ける。幣殿右に境内末社が祀られています。幣殿から本殿は渡廊で繋がっているようで、本殿の全容は見えませんが屋根の形は流造の様です。神社は旧村落の大円寺地区の氏神で、安産・縁結にご利益があるとして信仰されたきた神社だという。ここから徒歩で20分程北西の所に、1505年(永正2)からの続く建雲山龍潭(りゅうたん)寺があります。そちらで1659年(万治2)から伝わる古文書に、この地に長谷大明神と記されているという。一枚目の地図では、ここに鳥居の印が描かれるのは大正から、社号標にも大正9年と刻まれています。規模や形態からそれ以前は記されていないとして、古文書のそれが縣明神社の始まりだとすると、古くからこの地の移り変わりを見続けてきた神社。祭神は大縣大神(大荒田命)を祀るようです。幣殿右の二社。何れも社名札がなく詳細は不明、境内はここから右に少し広がります。手前に霊神碑があり、参道は赤い稲荷鳥居に続いています。霊神碑の右隣に社があります、御嶽社か? こちらも分からない。社殿を取り囲む様に堀になっていて、恰も島の様に見える。雰囲気は・・・・・、社名札が欲しいところです、かみさんじゃないけれど取り敢えず参拝するのだ。この稲荷も詳細は分からない。さしずめ縣稲荷と勝手に言う事にしておこう・・・・・社名札が欲しい。稲荷鳥の先の本殿。見逃したか、狐の姿は見かけられなかった。いつも横目に眺めていた小さな町の神社、訪れて見れば見た目以上に大きいものだった。県道の先も参道のようで随分と先にも神社幟が見える。どなたに参拝したのか、もやもやは残るけれど、お陰様で一年無事に過ごせそうなことに感謝。予報通りに雪も降り始め、その勢いは増してきた、県境の駅に向かおう。体調に問題はないらしいが、それにしてもこのタイミングで名古屋に帰省するかな? 素直にその気持ちは嬉しい、土産のへしこも楽しみだ、それをつまみに一緒に酒を飲もう。縣明神社創建 / 不明祭神不明 / 不明住所 / 岩倉市大市場町順喜1
2021.01.27
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鹿児島県薩摩川内市『新田神社』うねりながら平野に流れ出た川内川、その平野の右岸に亀の形をした里山があります。平野の中にあって、その存在は恰も島のようにも見えなくもない。「新亀山」と云われる小高い里山の頂に薩摩国一ノ宮 新田神社は鎮座していました。土地勘もなく、不慣れなレンタカーでの運転、運転する者よりも高性能なナビゲーションを隣でそれを操作するかみさんの方が悪戦苦闘。その導きで辿り着いたのが県道44号線沿いのこの地。御親切に駐車場のある一ノ鳥居まで導いてくれるではないか。(それがニノ鳥居だと知ったのは帰り際でした。)ニノ鳥居と新亀山、こうして見ると亀の甲羅の様に見えなくもない。控え柱の付けられた朱塗りの明神鳥居、その先の石造りの太鼓橋を経て参道は石段となり杜に消えていきます。石段の左右には門守社もあるようです。鹿児島に来て門守社はよく見かけるものです。緩やかに弧を描く石造りの太鼓橋は「降来橋」と呼ばれるもので、この橋と擬宝珠は市の指定文化財に指定されていてるようです。現在こうして見る降来橋は1892年(明治25)に架け替えられたもの。全長は8㍍、幅5㍍と云うけれど、目の当たりに見る太鼓橋はひと回り大きく見える。こうして見ると一つの橋に見えますが、その先にもう一つの小さな石橋が架けられています。橋の袂に掲げられていた降来橋の解説。由来は古く「三國名勝図絵」には、1290年(正応3)新田八幡宮の降来橋で雅楽が催された記録が残るという。擬宝珠は1602年(慶長7)に島津義弘により神殿を修復した際、橋の欄干に刻銘入りの宝珠8個が付けられた。(実物は宝物殿に保管)右は新田神社の末社で豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)を祀る東門守神社。左が西門守神社、祭神は櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)を祀る。門守神社から城壁の様な石垣となり、その間に石段が続きます。石段の左に赤い社が三社並んで鎮座しています。石段を登りきると社殿が現れるかと思いきや、境内は広がりますが、その先から再び石段が続きます。左に見えていた三社は新田神社の末社。石段を踏みしめ参拝に訪れた者をここから見守るように佇んでいます。門守神社をコピペでもしたように造も大きさもほぼ同じ、社名札が無ければ参拝していても分からないかもしれない。右から高良神社 祭神は天鈿女命。中央が中央神社で祭神は大山祇命。左が早風神社で級長津彦命、級長津姫神の二柱を祀る。当社は、九州五所八幡宮(大分宮・千栗八幡宮・藤崎八幡宮・新田神社・鹿児島神宮)のうちのひとつとされ、江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていたという。石段の左で見かけた「がらっぱ大明神」。いざなぎ河童といざなみ河童とあるけれど、読んでいてもよく分からない。川内川にはがらっぱ(河童)が普通に生息しているらしい、しかも彼らは共和国まで築いているらしい。建国式の当日、お祭り広場に2体の「がらっぱ像」が見世物として飾られていたそうです。ガラッパ像はコンクリート造、制作者も担当者も知らぬ間に、用意されていた高台に入魂の儀まで終え鎮座していたのだとか。河童の不思議なパワーなんだろうかねェ。「がらっぱ様」の不思議なパワーは、参拝する者に開運、願望援受、魔除け、商売繁盛、災難逃れなどに御利益を授かる事ができる。ここは賽銭を奮発しておくべきところ。最初の石段を上り詰めた先に広がる境内、そこから先に再び石段が続きその先に社殿が小さく見えてきます。1173年(承安3)、新田神社は火災に見舞われ、新亀山中腹にあった社殿を焼失してしまったそうです。この広い空間は焼失以前、ここに社殿があった名残ということでしょう。それも朝廷や幕府の支援を受け1176年(安元2)、この石段の先の山頂に再興されたのが現在の『新田神社』。以後も薩摩国歴代藩主から厚く崇敬され、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿の原形が造られました。新たに建てられた社殿に向かう石段の登り口で守護を受け持つ狛犬。奉納年は見ていないけれど、鼻のあたりに愛嬌を感じるその容姿に隙はない。阿形、見開いた眼は無表情に見えなくもない、鋭い犬歯が印象的な狛犬。社殿に続く最後の石段、途中で足を止め一息入れる姿も見える、この石段甘く見てはいけない。ゴールは見えているけれど長く感じる。見あげる先に社殿と右手に注連縄が巻かれた大きな楠の樹が見えてきました、あと少し。見あげる様に聳え立つ「新田神社の大楠」根回りは13.3㍍、幹回りが9.9㍍と巨大なもので樹高は20㍍を越え、枝張りは約20㍍に及ぶ。樹齢は2000年を超えると伝わるそうですが、年輪から推定すると650~800年とされる。大楠の根元は空洞化し、更に「地上2mのところに大穴牟遅神の木造が彫刻されている」とありますが今一つよく分かりませんでした。大楠の右に社の屋根が見えたので寄り道、そこは駐車場で見えていたのは車祓所の社でした。新田神社「勅使殿」唐破風向拝が設けられ。細部に彫飾りと彩色が施された華麗な建物。棟札から1784年(天明4)の造替とされるもの。石段を上り詰めた両脇に独特の佇まいの狛犬がある。最初遠目に見た時はガマガエルの様に見えた。「子だき狛犬(安産狛犬)」と呼ぶそうだ。古くから安産に大変霊験のある狛犬で、安産を祈願する方はこの狛犬の頭を撫でるとよいというそうです。この子抱狛犬、案内にある様に子を抱いているけれど、頭部が妙に押し潰されたような形が印象に残る。こうして見る顔の表情は、かわいいようでどこか哀愁が漂ってくる。新田神社「勅使殿」「新田」という名の由来はその昔、瓊瓊杵尊はがらっぱの住むという川内川から水をひき、新たに水田を作ったことからその名が付いたといわれる。創建は725年(神亀2)と云われますが定かではありません。始まりは新亀山に瓊々杵尊のお墓を祀られたことに始まるようで、この山のほぼ全体が瓊々杵尊の陵墓とされ、可愛山陵(エノミササギ)と呼ばれるようです、新田神社はその陵墓に鎮座するものです。唐破風向拝の透かし彫りの鳳凰?から始まり、蟇股に木鼻の獅子や象など細かな手間と彩色が施され、ここだけでも見応え十分。祭神は瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天照大神(アマテラスオオカミ)、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)家内安全、事業繁栄、交通安全、商業繁栄、入試合格、漁業繁栄、心身健康などの御利益を授かる事が出来る。参拝すると良く見えるのですが、この勅使殿は外部の華やかさ同様、内部の装飾も見事なものがあります。梁の彫飾りに彩色、天井に至っては格子天井の一枚〃に草花の絵が描かれ、参拝後しばらく足が止まります。程よく色褪し嫌みのない上品な華やかさ。勅使殿から社務所方向の境内の眺め。コロナ再燃の兆しのなか鹿児島に出向いたけれど、そうした事も影響があるのか参拝者の姿は皆無。主務所側から勅使殿方向の境内の眺め。社殿に対し境内は意外に狭い印象を受け、もう少し引いて本殿を含めた全体を見たいところですが、手持ちのカメラでは無理があるようです。伽藍は勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が一直線に並び、本殿の両脇には摂社があり、それらは廻廊でつながっているという。薩摩国一ノ宮は先に掲載した枚聞神社と新田神社の二社がある。何れも島津家の厚い庇護を受けてきた歴史のある神社。社格を争うとこうなるのか、大人の事情なのか理由はよく分からないけれど、一ノ宮マップを塗り潰す事に燃えているかみさんには違和感はない様ですが、お供のおやじは「一つの國に二つの一ノ宮」や「社格」、もやもや感は今もすっきりしない。勅使殿から先の本殿方向は拝めないものか、漸く廻廊とその先の社殿の姿を捉えるがそれが何なのかは良く分かりません。因みに現在の本殿は1850年(嘉永3)に造営されたようです。二つ目の薩摩国一ノ宮『新田神社』の参拝を終え次の目的に向かう、長い下りの石段を下り、最初の石段までくると「降来橋」の先にニノ鳥居とその先には桜並木の真っすぐに伸びる参道が一望。一ノ鳥居からニノ鳥居に続く長い参道は「八丁馬場」と称し、参道の両脇に植えられた桜は花見の名所。嘗てこの長い参道には多くの寺院があり「新田神社一二坊」と称されたそうです。霞んで分かりにくいけれど遥か先に一ノ鳥居が見えています、その先が川内川の堤という事です。これが桜の時期であれば嘸かし見事なんだろう。あまりに長い参道、今更「あそこまで行ってくるわ」とは言えない。薩摩国一ノ宮 新田神社創建 / 725年(神亀2)祭神 / 瓊々杵尊、天照大神、天忍穂耳命境内社 / 東門守神社、西門守神社、高良神社、中央神社、早風神社等住所 / 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2関連記事 / 薩摩国一ノ宮 枚聞神社
2021.01.25
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静岡県浜松市天竜区春野町領家秋葉山本宮秋葉神社 下社の右に鎮座する『六所神社』それ程大きくはない下社の境内、手水舎の右に『六所神社』と下社境内を繋ぐ参道があります。参道を進むとすぐ左に『六所神社』の社殿が見えてきます。ここから右に参道が伸び、鳥居を経て県道に続いているようです。秋葉神社下社の末社の様に見えますが、全く別のようで、六所明神と神社が鎮座する領家地域の六社を祀る地域の氏神さま。六所明神はこの地域では犬居郷一宮と称えらる古社とされ、祭神は天照大神(伊勢神宮)、中筒男大神(住吉大社)、大山祇大神(大山祇神社)、誉田別命(八幡宮)、天児屋根大神(春日大社)、武甕槌大神(鹿島神宮)の六柱を祀る。社殿全景。切妻妻入りの拝殿には向拝が施され、本殿がおさまる鞘堂と一体となっています。社殿右に大きな砲弾が安置されています。江戸時代には石高一石三斗七升五合を拝領したという『六所神社』。独身の頃は毎日2合ほど、お茶碗で4杯分の米を消費していたけれど、ほぼ2年分に相当する、それ程歴代領主から崇敬されてきた神社。領家地域の六社とは、天王神社(素戔嗚命)、熊野神社(熊野大神)、八阪神社(素戔嗚命)、金山神社(金山彦神)、山野神社(野槌神)、若宮神社(天押雲根命)を指す様で、先の六柱と合わせるとこの小さな社に11柱が祀られる領家地域の守り神。この領家という地名はもともと京都の公家の荘園があったことからきていると云い、秋葉山本宮を目指す参拝客の旅籠などが建ち賑わったようです。領家地域と家康武田軍との戦で劣勢に追い込まれた家康は退却を余儀なくされた際、この地域の村人は退却する家康に手助けした事から、後の江戸幕府から領家地域は手厚く保護されたとされます。『六所神社』の創建は定かではありませんが、古くから鎮座する六所神社の隣に利便性などから秋葉神社下社を建立したのかもしれません。六所神社は神職の常駐しない無人の神社のようですが、「問い合わせは秋葉山本宮秋葉神社まで」とある事から現在はそちらで管理されているのかも知れません。参道右に木造の神明鳥居。下社から県道沿いの社頭に戻るのは諦め、県道が見えるところまで参道を下ってみました。静かな杉木立の中に伸びる参道、その先に周囲と同化するように佇む素朴な社殿、特別な空気が漂う。少し先に行くと視界の先に県道とその先に気田川が見えてくる、車を停めた駐車場は右手方向。鳥居はなく社頭を見過ごしていたようで、参道はこの石段から社殿まで真っすぐに続いていきます。『六所神社』創建 / 不明祭神 / 天照大神、中筒男大神、大山祇大神、誉田別命、天児屋根大神、武甕槌大神合祀六社 / 天王神社、熊野神社、八阪神社、金山神社、山野神社、若宮神社住所 / 静岡県浜松市天竜区春野町領家327 関連記事 / 秋葉山本宮秋葉神社 下社
2021.01.23
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一時帰休二日を含め、長かった連休も今日で終わり。本来はここの連休を利用し車中泊で真冬の日本海を放浪する計画だった。昨年の暮れからかみさんが練りに練っていた地方徘徊プランも全てボイド。ちっとも出さなかった「緊急事態宣言」も中途半端に発出されたが、その割には人の密集度は下がらない。自粛に慣れてしまい都合のいい理由を根拠に危機感が麻痺したままのようだ。やがて重篤な感染症は必ずこの国に訪れる、このマインドと危機感もスピード感もない政策では映画の世界が現実となるのは避けられないのかもしれない。反面、救急搬送や医療に従事する方々のマインドには感謝しかない、これ以上の負荷はかけたくはないものです。他人事のような今の感染症もジワリジワリと身近に迫ってきています。五輪、好感度で売っている我社も昨年末に感染事例が出ている、この休みの間にもこの地域の拠点で発症し、体調伺いの電話が鳴った。気の利いた組織はしっかりHPで事実を公表するものだ、名ばかりで今だに公表できない姿勢は恥ずかしい。入室人数制限、入社時のアルコール滅菌と精度の低い検温。それらの温い防止対策ですら、多くの人が集まる分母の中で、分子となる個人の意識や行動に委ねられられている、どれだけの同居人が実践してくれているだろう。人数制限は見えない、手滅菌はしない、目に見えて危機感がない。この実態は現在の経営職諸君も認識し、自身も心当たりがあるはず。過去に誰も経験した事もない状況の対応で苦慮しているのは理解できる、甘々で都合のいい形骸化したルールや運用、想定したように会社と云う家から家族の感染者は出た。今一度、原点に戻り手を洗い滅菌しよう、価値のない会議は即刻中止、共有PCや共有ディスクは滅菌しよう、マスクは鼻まで覆う、出社時間は時差。率先して意思のある個の行動を選択する、そんな変容の時代がきている。無事にこの会社から卒業したい身としては、この結果に対し具体性のある対策と個人の意識向上をどう図るのか、従う側としてその施策は他人事ではない。まずは公表する行動変容から始めよう。株価は下がり、身近に感染者が出るは、にじゅう苦。いや〃赤提灯や旅行にもいけない、三重苦、四重・・・・・苦だね。一時の苦をしのげば楽しい明日が訪れる、そう思うしかない。現在の酸素飽和度98%、会社に行けない理由にはならないな。関連記事 / 感染者数は右肩あがり、株価は右肩下がり【在庫わずか】パルスオキシメーター 血中酸素濃度計 測定器 脈拍計 パルス同期検出 酸素飽和度 PI灌流 心拍計 指脈拍 指先 酸素濃度計 高性能 FDA承認済み商品パルスオキシメータ バイオビート PLS-02P パールピンク NURSE ANGIE カスタム【管理医療機器】血中酸素濃度計
2021.01.21
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以前掲載した「外山神社」。そこから10分程北に「城嶋稲荷」が鎮座する。以前は田畑が広がっていた一帯も宅地化・区画整理が進み、今やそんな面影はなくなってきた。城嶋稲荷に辿り着くための大きな目標は「小牧市南部コミュニケーションセンター」を目標にするといいかもしれない。センター北側の通りから一本北筋の住宅街の一角に「城嶋稲荷」は鎮座します。この筋沿いを西に進むと右側に稲荷がありますが、社地は少し中にあるので赤い稲荷の鳥居を目標にしても見通しは利きません。道路沿いに防火水槽があり、その奥に赤い鳥居と幟の建つ小さな「城嶋稲荷」があります。右手のごみ収集ステーションの横から境内に向かいます。社地の前に「北外山城(砦)址」の解説板。そこには「北外山砦天正十二年(1584)の「小牧・長久手の合戦」で廃城となっていた織田興四郎の居城を利用して築かれた砦で本多忠勝、松平家忠らが守った。東西49㍍、南北36㍍の広さで、四方に高さ1.8㍍の土塁があったと伝わる。現在では「城島」「城前」というこの辺りの小字名が城跡の名残を留めている。ここにある「北外山城址」の碑は、ここから50㍍北側の民家敷地内から移設したものである。平成二十五年三月 小牧市教育委員会」 とある。境内に城址碑があるようです。織田興四郎岩倉城を本拠とした織田伊勢守家の一族とされ、清州城を拠点とした織田大和守家に威勢を示し、後に信長により伊勢守家は滅ぼされることになるようですが、織田興四郎の人物像はよく分からない。北外山城もそれに伴い廃城の道を辿っていったのでしょう、それも小牧・長久手の合戦で織田・徳川勢の本陣小牧城を中心とした戦略拠点として整備され、秀吉と対峙したようですが合戦以降再び荒廃していったようです。小牧城の南にあたるこの一帯には蟹清水砦や宇田津砦、城址など点在しますが多くは碑のみです。境内全景。左手に板宮造りの社、手前に石の社だろうか、その他複数の石碑があるけれど、どれが城址碑なのかはここからでは分かりません。雲はあるものの青い空を背景に鳥居と額の朱が映える。正面に城嶋稲荷の社と左は社ではなく観音様が彫られているようだ。鳥居前には「子孫繁栄祈願」「家内安全祈願」と書かれた奉納幟が立ち、地元のお稲荷さんの雰囲気が漂う。自然石の台座の上に祀られる社、その前には小さな狛狐も安置されている。左の観音像の石仏は右に神社仏閣、左に谷汲山と刻まれています。西国三十三所観音霊場の結願・満願の地、華厳寺に関連して祀られているのだろうか。左の石標が「北外山城址」碑のみ移設されてきたものなので、この場所で遺構や面影を見る事は出来ません。境内北側にも石碑があり、一つは小川芳次郎顕彰碑と稲荷移設記念碑があり、移設記念碑の裏には「平成24年12月」とある。城址碑同様こちらの城嶋稲荷も同じ時期に周辺から遷座されてきたようですが、残念ながら城嶋稲荷の由緒を伝えるものは見当たらず、元の鎮座地ははっきりしませんでした。周囲の環境変化を考えれば移転や集約も自然の流れでしょうが、こうして纏められた一画が邪魔もの扱いされないといいのだが。2021/1/19「城嶋稲荷と北外山砦址」城嶋稲荷祭神・創建 / 不明、2012年近隣から移設北外山城(砦)跡状況 / 近隣から碑のみ移設築城主 / 織田与四郎築城年・廃城年 / 不明住所 / 小牧市北外山1142関連記事 / 「外山神社」 南外山「天神社」
2021.01.21
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昨年末からDIYでやってきたトイレのイメチェン、仕上げに使うモールを買うために尾張旭市のホームセンターに行ってきました。かみさんの希望で出掛けたものの、単にそれだけではなかったようだ。道沿いのドーナツ屋にも魅かれていたようですが、聞くとすぐになくなるドーナツがあるらしい。その思いはかみさんだけではないようで店舗の前には行列。「モール見に行こう」、さすがにその列に参加するのは諦めたようだ。直ぐ近くのホームセンターの資材館はガラガラ、彼女が希望するモールが見つかり買い求める。店舗ガラガラなのでレジもスムーズ。これで帰途に着くのかなと思いきや「おにぎりを買いに行く」とのこと。ホームセンターのすぐ西にあるスーパーへ。スーパー「やまひこ尾張旭店」、ここは以前TVで見たぞ。10時開店の5分前なのに店舗入り口には数十人の列ができている。惣菜やらフルーツサンド、おにぎりなどが人気の様でこの列はそれを買い求めるための列。今日は「おにぎりの日」らしい。そもそもがこのお店、インスタグラムのみの告知でチラシは入れないようで、具沢山のおにぎりが今日の目玉だったようだ。30名ずつ一区切りで店内に入れる、入店調整をしているようです。ソーシャルディスタンスを保ち一列に並んで待っていたものが、店内に入ると一列だったものが2列、3列と一気に乱れる。おやじ的にはなぜ一列で流れないのか不思議に感じる。密になっている。陳列ケースの前を一列に制御してしまえばいいと思うのだが。普段買い物に行かない者から見ると、今のご時世「おにぎり買うのも覚悟が必要なのか」と思い知らされる。一人5個限定のおにぎりと食材を買い求めるが、毎日買い物に出かけているかみさん曰く「かわいいものよ」とのこと。今日の戦果、秋刀魚、鯖、カキとエリンギ、サーモンの298円の具沢山おにぎり。おにぎりの上に大きな具が乗せられて大葉のアクセントもあって美味しく頂いた。素材のおいしさ以上に、人波を気にしながら買い求めた、限定5個の満足感の方が上回っていた。「先着何名様限定」や行列が苦手なおやじ、・・・・・かみさんに感謝するしかない。「やまひこ尾張旭店」尾張旭市狩宿町4-59
2021.01.20
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静岡県浜松市春野町領家『秋葉山本宮秋葉神社 下社』赤石山脈の遠州平野に突出した南端に位置し、天竜川上流の秋葉山の南東麓に下社、山頂の上社からなる「秋葉山本宮秋葉神社」と呼び、普段良く見かける秋葉神社の総本山。国道362号線から県道286号線を経由、気田川右岸沿いにある秋葉神社前キャンプ場の入口に参拝者駐車場があります。社頭は駐車場の真向かいにある。県道を渡ると常夜灯と石段が杜に消えていく。秋葉山を崇める山岳信仰と修験の場が融合した秋葉権現の発祥の地。修験の場ということで下社とはいえ、さぞかし過酷な参道が続くのだろう。一般的に上社は素朴で下社は大きくて豪華、そんな印象をもって訪れています。大きくて豪華なイメージとは裏腹に参拝者駐車場はガラガラ。コロナの「影響かな」と勝手に思い込んでいた。そもそも訪れたのは12/24、街中はともかく、こんな日に好き好んで山には来ないか?社頭脇の解説。祭神 / 火之迦具土大神、伊弉諾、伊弉冉の子で火の主宰神創建 / 709年(和銅2)社号 / 上古は「岐陛保神ノ社」と称し、中世は「秋葉大権現」と称した。後の神仏分離により「秋葉神社」と改め、昭和に入り「秋葉山本宮秋葉神社」へと改称した。神徳 / 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除き、火防開運の神。 もともと江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が境内にある神仏混淆として成り立っていたようですが、1872年(明治5)の神仏分離により秋葉神社に改め祭神を火之迦具土大神として、三尺坊を仏教の秋葉寺に分離した。この秋葉神社下社は戦時中の1943年(昭和18)、麓から発生した火災の延焼により、現在の上社の本殿東側にある山門を除き全ての建物を焼失したようで、容易に再建ができなかったことから、祭祀を継続するため麓に作られたのが下社だといいます。参道に入ると赤い欄干の神橋があり、そこから先は石段に変ります。ここから過酷な石段の参道が続く?と思いきや伽藍らしき建物が見えている。参道の周囲は杉が生い茂り、角の取れた石が積まれた石段は、さほど急な勾配ではなく登りやすい。先に見える建物まではたいした距離はない。登り切れば境内が広がり大きな社殿が現れるか、更に石段が続くものなのか、初めて訪れるので先は見えない。視界は広がりここが秋葉神社下社の社殿の様だ、正式には遥斎殿と呼ぶそうだ。思い描いていた姿とはかけ離れ、静かで素朴な佇まいの小さな社殿。境内の右に手水舎、左手に社務所、その右手に周囲の樹々とは明らかに大きさの違う御神木が聳えています。境内の右、手前は休憩所と奥に高床式で切妻の建物、神楽殿だろうか?札所(右)と社務所。全国の秋葉神社の本社となる秋葉神社の下社とは思えないこぢんまりとしたもの。落ち着いた外観の社殿と静寂に包まれた空間は穏やかな気持ちにしてくれる。拝殿左の御神木の前に巨大なスコップと火箸が吊るされています。スコップは「十能」というそうで、技術向上、作業安全を祈願し戦時中から度々奉納されたようです。炭を運ぶ際に用いる道具だそうで、戦時中はそうしたものも悉く供出され、現在のものはその後に奉納されたもので、大きさは日本一だといいます。さて、下社参拝。切妻平入で素木の拝殿は、飾りも少ないシンプルなもの。神紋は「七葉もみじ」建立は1943年と一世紀を経ていないけれど、趣には年月以上の風格が漂う。社殿の飾りのなさは、戦時中の限られた資材や時間の中で建立された事もあるのだろう。個人的には煌びやかな社殿より、飾り気のない質素な姿の方が信者の復興に対する思いが伝わってきて好感が持てる。拝殿から幣殿・本殿方向の眺め。実際にはもう少し薄暗いけれど、拝所からは正面の鏡が鈍く輝いている。1943年(昭和18)の建立から上社が再建される1986年(昭和61)まで信者の崇敬を一心に担ってきた。上社が再建され、車でも容易に訪れることが出来る事から、地味な下社を訪れる参拝者は少ないのかもしれない。井伊の赤備発祥の地井伊家が今川家の支配下にあった時代、当主不在となった井伊家を継いだ娘の直虎は、後に直政を養子として迎え育てたのが井伊直政。後に徳川方となり徳川四天王の一人として活躍しますが、その背景には、滅亡した武田方の精鋭部隊を徳川方に取り込んだ直政の活躍があったとされます。直政は赤一色の精鋭を率い井伊の赤鬼として活躍したとされ、起請文を取り交わした場所が秋葉山山頂のようです。社殿全景。拝殿と幣殿が一体となり本殿まで繋がっているようです。本殿に近づいてみましたが流造の様に見えますが見通す事はできません。見慣れた上社と下社のイメージと秋葉神社下社の建立の経緯はあまりに違っていました。焼失した社殿再建まで、火伏の神の祭祀を継続するという役割は、ある意味終えたのかもしれませんが、混乱の時期に下社の建立に携わり、拠り所とされた方々から見れば、訪れる方の少ない下社は秋葉神社そのものかも知れない。参道から社頭の眺め、参拝者の姿は意外なほど少なかった。2020/12/24秋葉山本宮秋葉神社 下社祭神 / 火之迦具土大神創建 / 709年(和銅2)下社建立 / 1943年(昭和18)住所 / 静岡県浜松市天竜区春野町領家328ー1下社社殿の右に隣接するように六所神社が鎮座しますが、改めて掲載する事にします。
2021.01.18
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緊急事態宣言は発出されたものの、大きな数値の変化はないようだ。バレンタインデーも近づくと、かみさんの話題は「あそこ」の事ばかり、いかにも行きたそうだが、彼女なりに我慢しているのが見え見えだ。感染予防や防止などの個人の意識は様々です、人の密集する街に自ら好んで足を向ける気は更々ない。それでも家に籠ってばかりでは息も詰まるし体も訛る、密集しない場所をピックアップしてかみさんと外出してきました。血中酸素濃度は99%、体温良し、マスク良し、アルコールスプレー良し。かみさんが選んだのは西尾市の抹茶パフェと一色町の鰻を食べに行こうというもの。普段は大勢人が並ぶ店なんだけれど、この時期ならば人は少ないだろうという都合のいい読み、当然並んでいればパス。おやじは天井絵と流造の社が見たくて吉良町の神社参拝をリクエスト。上段左は西尾市上町上屋敷7の「茶房 AOI」お茶屋さんの二階にある抹茶好きにはたまらない抹茶スイーツパラダイス。かみさんはお目当てだった「大人ゼリー」とやらを堪能し満足したようです。写真はおやじオーダーの「抹茶フレンチトースト」抹茶風味漂う、溶けるような口当たり。入店システムは扉の前で呼び鈴をならし、扉を開けてもらい手の滅菌と検温。店内に2組ほど先客が見えましたが席はしっかりと離してくれたし、対面席は使用禁止としていました。また、使用したお手拭きは専用の袋に入れて退席し、スタッフが直接触れない対応をとっていた。いい対応だと思います。上段右は西尾市一色町坂田新田西江の「三水亭」鰻重や鰻丼「美味しそう」なんですが、気力と現実のギャップは随分分かってきた、二人にとって御飯の量は多すぎる。おやじは長蒲焼と御飯セット、かみさんは白蒲焼のセット。炭の香りがほんのり漂い、皮パリパリでふわっとした肉質の一色産の鰻、美味しい。ゴムのような大陸産との違いは明らか(格付けの様に出され違いを問われると果たしてどうなんだか)。入店システムは一般的、アルコール滅菌で入店、混んでいれば名前を書いて店の前にある広大な庭園で順番を待つ。コロナ禍の影響は深刻だ、広大な駐車場はガラガラ、店内は閑散として以前の賑わいとは程遠い。中段の龍の天井絵。西尾市平坂町熊野45に鎮座する「平坂熊野神社」2014年に150年ぶりに本殿遷座祭が執り行われ、新しい拝殿の天井中央に龍と熊野神社の使い八咫烏が隠し絵として描かれています。若い宮司さんはとても気さくな方で拝所から眺めていたのですが「中からしっかり見て下さい」と扉まで開けて頂けました。ありがとうございました。下段左は西尾市一色町一色東前新田の「一色まなびの館」に展示してある、「三河一色大提灯」のレプリカ。一色町諏訪神社で約450年の歴史を持つ祭礼の際に境内に吊るされる大提灯(5㍍×10㍍)。この巨大な提灯が12張吊るされる姿は壮観なものがある。年々大きさを競い合った結果「こんなになった」てしまったようだ。下段右は西尾市吉良町宮崎宮前の「幡頭神社」702年(大宝2)に創建され建稲種命を祀る神社。三河湾を一望する高台に鎮座する。三間流造の本殿や左右の熊野社、神明社を間近に見ることが出来る。参拝後「吉良ワイキキビーチ」や吉良温泉街を歩いてみるが、季節が季節だけに広いビーチには人影はなく、釣り人が数人、ホテル街も閑散としている。今は時代遅れとなった「慰安旅行」で訪れていたころの活気のある温泉街とはかけ離れた光景はここだけではないのかもしれない。久し振りに眺める海と潮の香り、たまには外にでて思いっきり深呼吸する事も必要だ。2021/1/15関連記事 / 蛭子社 、幡豆神社、諏訪神社
2021.01.17
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薩摩國一之宮 枚聞神社北に池田湖と南に薩摩の名山開聞岳を間近に望む開聞十町に鎮座。手前の池田湖から開聞岳の眺め。この池田湖は約5500年前の火山活動で陥没してできた、水深233㍍と非常に深い九州最大の湖です。それだけにここには不思議なこともあるようで、1978年怪しい生物が湖面を泳ぐ姿を多くの方が目撃し、以降「イッシー」と呼ばれる一帯は盛り上がったそうです。後方に優美な姿の開聞岳が迫る社頭の眺め。右の道路は県道28号線で指宿枕崎線の開聞駅方向に続きます。枚聞神社は開聞岳を御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には奥宮も鎮座するといいます。朱塗りの一ノ鳥居は明神鳥居、そこから境内の眺め、ニノ鳥居、社殿まで見通せます。鳥居には十六菊の門が入る。境内は広大で、左に小さな鳥居と手前は養生された土俵だろうか。11月も終わろうとしている時期だけど、南国ムード漂うブーゲンビリアの濃いピンクが境内に彩りを添えていました。小さな鳥居の先は「頌徳碑(シュウトク)」明治維新の戊辰戦争から太平洋戦争による戦没者や郷土の発展に大きく貢献された方々を祀るもの。国道沿いの駐車場には日清日ロ戦争で出征した兵士を迎えた「凱旋門」が保存されています。神社で出征祈願し国のため戦地に向かい、再びこの門を通り無事に戻れた事に感謝する。凱旋門、未来永劫増やしてはいけない。境内からニノ鳥居から社殿の眺め。朱塗りのニノ鳥居の両脇に御門神社(みかど)と左に手水舎があります。右手に聳える太い幹の楠木の巨木が一際目を引く。「枚聞神社のクスノキ」楠木の成長には目を見張るものがあります。ここの楠木は樹齢800年を超すとされ、解説によれば幹回り7.9~9.5㍍、樹高18.0~21.0㍍とある。広大な境内には千年を超す老木もあると云われ、こうした杜と開聞岳は神社の歴史そのものかもしれない。今は静かな開聞岳ですが貞観年間(859~877年)の噴火では、枚聞神社は指宿市の揖宿神社に一時避難を余儀なくされた様で、その後に開聞岳北麓の現在地に遷座されたといいます。御門神社と両部鳥居のニノ鳥居、勅使殿が良く見えてくる。参道右に「宝物殿」と四つ割菊の紋が入る神馬像。社殿は正面に唐破風向拝のついた勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。社伝によれば鎮座年代は遠く神代の創祀という。古来薩摩国一宮として代々朝廷の尊崇厚く、特に島津氏入国の後は厚く崇敬され、1200年(正治2)の社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等行われてきた。琉球とのつながりも深く、琉球王の名によって航海安全の神徳を奉謝して献納された額面が保存されているという。鎌倉時代以降は新田神社と薩摩国一宮の地位を競った、戦国時代に島津氏家臣の頴娃(エイヒ)氏の庇護下にあったが、1571年(元亀2)の頴娃家の争乱「証恩寺崩れ」の巻き添えとなり社殿を焼失したが、神社は島津氏の庇護を受けてすぐに再興されたという。島津氏は枚聞神社のクジにより様々な作戦を決めたとも云われ、現在の社殿は1610年(慶長15)に島津義弘が寄進、1787年(天明7)に島津重豪による改築を受けるなど島津氏の厚い崇敬を受けていた。本殿方向くと、本殿の屋根の上に御神体の開聞岳を眺める構造になっています。朱塗りを多用した社殿は、周囲の杜の中で強烈な存在感を魅せています。勅使殿拝殿はこの先にあり、こうした建物は勅使殿といい、勅使門が変じたもので鹿児島県独特のものだという。朱で塗られた社殿の中で勅使殿の唐破風向拝の木鼻や斗栱、蟇股など煌びやかな彩色とともに装飾は手が込んでいます。勅使殿天井に描かれた草花の絵も視線を引き付けます。勅使殿から拝殿の眺め。拝殿後方に本殿の千木が見えるものの、入母屋造妻入とされるその姿は見られません。本殿裏には玉垣で囲まれた「清所」と呼ばれている一角があり、中には地面に大小様々な大きさの石が敷き詰められているといいます。言い伝えでは豊玉姫の御陵だといわれているようです。主祭神は大日霎貴命、その他に天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命を合祀。航行の安全や漁業守護、交通安全の御神徳のみならず、この地を離れて暮らす親族の安泰を祈願するそうだ。勅使殿の左右に回り廻廊、長庁と呼ぶのだそうだ。右の長庁の先に小さな社があったが詳細は分からなかった。開聞岳を御神体として南麓に鎮座した山岳信仰から始まり、山の営みとともに北嶺の現在地に鎮座する枚聞神社。島津家の絶大な庇護のもと開聞岳を背に鎮座する姿は、薩摩國一之宮に相応しい佇まいを見せてくれます。2020/11/25薩摩國 一之宮 枚聞神社 祭神 / 天照大御神 配神 / 天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命 創建 / 不明、社記708年(和銅元年)住所 / 鹿児島県指宿市開聞十町1366関連記事 / 2泊3日で鹿児島県一之宮巡り day2
2021.01.16
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小牧市北外山1494 『外山神社』南外山『天神社』の東側の通りから北に徒歩5分程の犬山街道(稲置街道)沿いに鎮座します。延喜式神名帳春日部郡12座の一つに数えられる神社で「外山」は「トヤマノ」と読むようです。社頭は県道102号線から一本東に入った住宅地にあり、南北に長い境内。神門左側に若干数の参拝者駐車場があります。以前は田畑が広がっていた一帯も宅地化により緑も少なくなりましたが、境内の杜には樹齢を重ねた巨木が聳えています。参道は玉砂利が敷き詰められ、鳥居の先の拝殿に真っすぐに続きます。鳥居の左に手水舎、手水鉢。手水舎の先の建物が社務所ですが無人のようです。神明造平入の四方吹き抜けの拝殿。8本の鰹木に内削ぎの千木。あと数時間で新年を迎える準備は万端。拝殿前の狛犬は1923年(大正10)。100年の時を経て風格も増してきているようです。現地では気付かなかったけれど、今こうして吽形の前脚の出っ張り部分を見ていると、筋肉の盛り上がりかと思っていましたが、どうも子供の狛犬の顔が彫られているような気がしてならない。一般的に狛犬は向かって右側が阿形(アッ!)、左側が吽形(ン?)とされ、吽形が雌だとかあるようですが、左右が逆だったり、共にン?だったり、育メンもいたりと一概に形に決めきれないものがある。機会があれば再び確かめに行ってきます。外山神社の創建や創祀についての詳細はよく分からないけれど、延喜式神名帳に名が記されているので見た目以上の歴史があるようです。拝殿から幣殿、本殿方向は四方が吹き抜けという事もあり明るく、拝殿に掲げられた祭神も良く読み取れる。これは有難いもの。老いに至っていない世代にはきっと分からないだろう(突然訪れますから)。 祭神は天照大神で天児屋根命、誉田別命を合祀するようです。社殿全景。拝殿左から奥に続く参道、神明造の本殿の左に二社祀られています。小高く盛られた頂に板宮造りの社が二つ。尾張国府宮と御嶽山のようですが、どちらがどちらなのか。手前には霊神碑が立ち並んでいます、この辺りは御嶽開祖の一人、覚明行者の生誕地が近いこともあり御嶽神社が良く祀られています。上幣殿から拝殿方向下本殿から幣殿方向の眺め、本殿は鰹木は5本、周囲は塀で囲われ本殿域の様子は見て取れません。こうして見る社殿ですが、1959年(昭和34)の伊勢湾台風では甚大な被害を受けたそうです。現在の姿はその後に復興されたものです。自然に対する畏敬の念を忘れ、驕り高ぶる人を戒める様に、自然は一瞬で想定外のパワーを見せつけてきます。身近で長い歴史を持つ神社の復興を願う気持ちが形になるには時間はかかる、けれどこうして地道に復興する事が出来るものです。自然には勝てないけれど負けない意志がある限り人は捨てたもんじゃない。今のコロナ禍も同じかもしれない、個が出来る事を考え、実践する意志と行動が伴えば克服できる。受け身であったり、変わらない事を許容してはいけないのかも知れないね。拝殿右に脇参道があり鳥居もあるようです、この他に社務所の脇にも脇参道があります。社殿右の杜の中に複数の石碑が建っています。その内の一つ「袈裟襷文(ケサダスギモン)銅鐸発掘地」の碑。1915年(大正4)境内地の確定作業中に東側の畑から銅鐸が発見されたという。銅鐸が作られていた弥生時代は、豊作を祈り、収穫に感謝する祭礼に銅鐸は欠かせない役割を持ってたようです。青銅器の銅鐸は当時の社会的なステータスの一つであったとも云われ、元々は吊り下げて鳴らして使う祭器としての用途だったのではないかと云われる。やがて大型化、装飾化が進み置いてみる祭器に変遷していったと云います。用途の変貌に伴い吊り手の形も年代より形状が変わっていったようで、ここで見つかった高さ36㌢、底の直軽18㌢の銅鐸は吊り下げて鳴らす本来の機能を持つ古い形態とされ「外山の銅鐸」として知られていたようです。かなり使用され、全体は摩耗していますが、袈裟襷文という縦横に交差する帯を用いて身の部分を区画している文様が見られるそうです。愛知で出土した銅鐸の中では、最古のものとされ、小牧市内から出土した銅鐸はこの1点だけといいます。(市指定有形文化財)気紛れに訪れた無人の神社でありながら、氏子の方々の手入れも行き届き、とても気持ちよく参拝できました。「ン?」だけはとっても気になる、結果が分かればここに追記しよう。2020/12/31外山神社創建 / 不明祭神 / 天照大神、合祀 / 天児屋根命、誉田別命境内社 / 尾張国府宮、御嶽山住所 / 小牧市北外山1494関連記事 / 『南外山天神社』
2021.01.14
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国民に誤解を与えない表現の原稿作成に今頃追われていると思うけれどこの国のために尽力していると誤解をされている方々の言葉ではなくて、下々に補足や訂正の必要がない内容で、下を見る事無くはっきりした口調で説明責任を果たされることを切に願います。皆さんの言葉や文章はとても難しく、時に逃げ道の多いもので、下々にはとても分かりません。場当たり的、雑で、抜け道だらけ、スピード感のない牛歩のような施策、知恵を授ける取巻き方々が既に庶民感情から乖離がある。やはり党利党略、派閥や利権に左右されない人材への若返りとリストラが急務。今のつけは結局我々に戻ってくる、痛みを直に感じる必要があるのではくれぐれもタキシード着用をお忘れなく。一か月の辛抱です、選挙やオリンピック開催が今の唯一の楽しみかな。株価は上がれど、内閣や党の支持率が上がる要素はないだろう。我が社の株も快調に下がり続けている。まだ20時前だ少し散歩してくるか?
2021.01.13
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昨年掲載した「直會神社」、その時に澁川神社の末社と書きましたが、その本社である『澁川神社』を今だ掲載していなかったので前後してしまうけれど掲載します。名鉄瀬戸線「印場」駅で下車、5分程東に歩くと澁川神社です。社頭南側の眺め。神社南側の通りに社頭が接していますが、澁川神社の社地は意外なほど広い。西側に冠木門があり、その東に素木の明神鳥居が建ち、社殿はこの鳥居の先に鎮座しています。素木の鳥居の左にもう一つ石の神明鳥居と、この通りに3つの鳥居がある。玉垣は更に東へ続いています。社地東角からの眺め、こちら側にも複数の社殿が見て取れます。通り沿いに掲げられていた旧瀬戸街道の解説板、瀬戸街道から1本南に社頭があります。澁川神社由緒書と境内案内板、予想より規模の大きい神社。ますば素木の鳥居まで戻り参道を進みます。正面の社殿が異様に綺麗なのに驚きます、末社の「直會神社」の創建は676年(白鳳5)とされます。当然それと同等かそれ以前の古い歴史があり、重厚な社殿を想像していましたがこうして見る限り、近年建立されたか、建て替えられて間もないものかと思えてしまう。社務所から入母屋の拝殿と本殿方向の眺め。伽藍全体が新しい印象を受けます。拝殿前の狛犬は胸板が厚く、勇猛な趣なんですが、色白なとこに若干ひ弱さを感じさせる。足元の台座は雲をデザインしたもの。澁川神社創始は景行天皇の御代と伝わる。醍醐天皇の延喜式制定(905年)に伴い、取り纏め・完成(927年)した延喜式神名帳に式内社として記される(929年)神社。澁川神社は旧山田郡の総社で、古事記や日本書紀に登場する「高皇産霊神」を御祭神とする由緒ある神社で高皇産霊神」は高御産巣日神、高皇産霊神、高皇産霊尊、神魂命とも呼ばれるようですがどちらも同一神。戦国時代の織田信長により社殿改修、1688年(貞享5)には尾張藩藩主の徳川光友による社殿の再建など有力武将から厚く崇敬されていた。その後も100年ごとに社殿の修復や1791年(寛政3)と1898年(明治31)に大修理が行われてきた。しかし、1959年(昭和34)の伊勢湾台風では、樹齢300年以上のヒノキの大樹が数十本もなぎ倒されるなど甚大な被害を受けたようで、社殿が尾張旭市最古の建造物だったことから、文化財指定に向けて2002年(平成14)に調査予定だったが、調査の8日前に不審火により社殿を焼失。2009年(平成21)に現社殿が再建されるまで仮社殿での運営だったといいます。平成に入り再建された社殿は木造、なので職人の拘りが形になって現れるものですが、二段垂木や木鼻、懸魚にしても意匠をこらした飾りは少なく優等生の見本の様。拝殿を斜めから眺めた時の微妙な屋根の反り具合は美しいものがある。拝殿から祭文殿、本殿方向の眺め。澁川神社の創建はよく分かりません。1900年前、現在の鎮座地から500㍍ほど南の蘇父河(そぶかわ後に澁川)の地で、地元民の勧進により高皇産霊大神が創祀された事に由来すると云われ、665年(白鳳5)に現地に遷座したとされるようです。 本殿後方からの眺め。本殿は流造で祭神の高皇産霊神の他、大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代主大神の七柱が合祀。透き塀の菱格子の先に本殿脇の「西五社の宮」も「東五社の宮」は見えてはいますが写真に収めるのは難しいようです。「西五社の宮」は菊理姫命、天津彦根命、豊受毘売命、火之軻具土命、建御名方命、「東五社の宮」は伊邪那美大御神、建甕槌命、日本武尊、野見宿禰、菅原道真の二社が祀られています。本殿から拝殿方向の眺め、ぐるりとひと回りできます。下の写真は祭文殿、焼失から再建されたばかりの綺麗な社殿はこれから風格を増していく事でしょう。祭文殿左に東を向き鎮座する境内社は熊野社(手前)、八幡社。境内社も火災により焼失したのでしょう、台座を見て行くと大半の台座が真新しい。社務所の前に竣工記念碑と「忌明社」。祓戸の神(神直日神、大直日神)を祀り、参拝の順路は手水で清め、こちらの忌明社で祓いをして拝殿に詣でるのが本来の順路。下は「歯固め石」赤ちゃんに石のように丈夫な歯が生えることを願い、 お食い初めの儀式でお借りするもの、使用後は再びこの場所に戻さないとね。さて石の神明鳥居に向かいます、鳥居の先に社殿はありません。鳥居をくぐった右に手水舎があります。下は「黒石」と呼ばれ、名古屋城築城の際に天神川へ落としてしまった石だとされる。大正時代に境内に移されたもので「川底の暗い世界から境内の明るい世界に移され、人々から開運の石として崇められている」確かに上部が黒い石だけれど、これは火災の際の名残なんだろうか?鳥居の先の玉垣で囲われた一角には狛犬がいる。その傍らの解説によればここが火災で焼失した渋川神社の旧本殿跡。江戸時代に再建された本殿は三間流造だったようです。以前の写真なども残るので現社殿もその造りを踏襲していると思います。蘇父河から遷座した背景は天武天皇即位に伴う大嘗祭で、この地域に悠紀斎田が定められたのを機に、現在地に遷座したようです。以前掲載した「斎穂社」も斎田の新穀を精選し献上するための神社でした。旧本殿跡を守護する狛犬と玉垣で囲われた中は玉砂利が敷き詰められ、礎石らしき石が残されています。天武天皇悠紀斎田碑の後方の二社は「神明社」(左)、「八剣社」。斎田碑の後方には1㍍四方の小さな田と解説碑があります。そこにはこの斎田碑はそもそもここから南にあった鳥居塚と呼ばれる場所にたっていたそうだ、それも区画整理で居場所がなくなりここに移されたようです。悠紀斎田碑から東に「津島社」。元々は西中町、渋川町、天神町、新東・白鳳町の各町で祀られていたものが、区画整理などで行き場がなくなりここに遷座されたようですが、今も各町内で世話をされているそうです。津島社の右に鎮座する「渋川稲荷社」と「山神社」。山神社は「春に山から里へ降りて田の神となり、収穫を終えた秋には山に帰って山の神となる、各家々の先祖の神様でもあり、女神であることから出産時に母と子を守る産の神、良縁・夫婦和合・子宝・子育てなど家庭の幸にご利益がある」1878年(明治11)に伏見稲荷大社より分霊し、庄中南島(現渋川町)の地に渋川稲荷社として祀られていたが後に澁川神社境内に遷座されたようです。清流苑入口小規模な庭園の中から湧き出る水は「清流苑井水」と呼び、大祓神事で使われる清水のようです。高龗社。以前掲載した桜が丘町の高龗社から分祀されたもの。清流苑を守護する水神さま。連理木境内の東に聳える樫の枝と楠の木が結びついた神木。違う者同士一つになって大きく育つ姿から夫婦円満、離れていたものが一つに繋がる事に肖って遠距離恋愛やこの地を離れて暮らす家族を思う時にこの樹に願をかけると御利益があるという。こうした樹はいろんなところで見られます。接ぎ木は人の都合で作られたもので樹の意思は介在しない、こうした樹は自然の意思だけで形になっていきます、この姿を見て自然の不思議な力とそこに神を感じ崇めるのかも知れない。こうした樹々を見て思うのは、周りと同じことをすることで拠り所を求めようとする心理に対し、自分の信念に基づいて「ひとつになりたかったんだよ」と個の意志のようなものを感じます。境内の南の東角に石標が複数建っています。御嶽社かと思いきや、これらは直師夢想東軍流の棒の手が無形文化財に指定された記念の様です。社地東側の石垣、これも自然の力。長い歴史を持つ渋川神社、火災による焼失、その後の氏子の力添えによる再建、連理木など様々な力がみなぎっている。「渋川神社」創建 / 676年(白鳳5)主祭神 / 高皇産霊神合祀 / 大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代主大神境内社 / 東五社ノ宮、西五社ノ宮、神明社、熊野社、八幡社、忌明社、山神社、八劔社、稲荷社 津島社、高龗社住所 / 尾張旭市印場元町5-3-1公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線印場駅から徒歩5分関連記事 / 高龗社、直會神社、斎穂社
2021.01.13
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静岡県浜松市中区元城町 『元城 東照宮』静岡の東照宮と云うと久能山東照宮がすぐに思い浮かびますが、浜松市中心街に聳える浜松城を西に望む元城町の高台にも『元城 東照宮』が鎮座しています。無料の浜松城公園から国道を越え、目の前に聳える高台に「元城 東照宮」が鎮座しています。高台全体がこんもりとした杜に包まれているため、社殿は見えにくいかもしれません。西側から高台に続く坂を登ると左側に石の鳥居とその先に拝殿が見えます。東照宮と聞くと日光東照宮であったり久能山東照宮のような広大な境内をイメージしますが、全国各地に建立された中にはこうした規模のものは普通に存在するもの。鳥居の扁額は「元城 東照宮」とある。元城とあるように、この辺りはかっての曳馬城の跡地に建っているという。駐車場から望むこの高台はそうした城の名残が感じられます。今は社頭右の曳馬城址の石標が建つのみ、曳馬城の築城年や城主など不詳の様です。鎌倉時代の浜松の町は「ひきま(ひくま)」と呼ばれていたそうですが武士にとって曳馬は縁起が宜しくないものです。1570年(元亀元年)に徳川家康が引間(曳馬)城に入城、城域を西に広げ浜松城とし形作られていき、引間城は主役の座を明け渡しその後は米蔵として利用されていたそうです。 東照宮が鎮座する場所は引間城本丸にあたるようです。鳥居をくぐり境内に入って左に手水舎、手水鉢。ここに元城東照宮の由緒が掲げられています。祭神は徳川家康、事代主命、大国主命明治維新後浜松藩代井上延陵により1884年(明治17)に創建。その管理を大日本報徳社に委ねていたが、1936年(昭和11)大石力氏がその所有権を井上家より、大日本報徳社からは管理権を引き継ぎ元城町の氏神として奉斎。1945年(昭和20)戦災により焼失、1959年(昭和34)に社殿、手水舎、社務所等再建現在に至る。井上延陵は家康が城主を務めた引間城のあるこの地に、神となった家康を祀る東照宮を建立したかったのだろう。東照宮創建の立役者井上延陵、彼の大きな碑が手水舎の右に建てられている。ネッシー? 1959年に再建されたとは思えない龍口は貫禄十分。龍にばかり視線は行きますが、手水舎も見てやってください、気持ちよさげに転寝する猫などもいます。右に社務所、訪れた時は無人でした。一段高く積まれた境内に社殿が鎮座します。権現造りのコンクリート造りという事もあり、絢爛豪華な東照宮のイメージとは少し違い、飾りは控えめ、木鼻の龍は力強い。拝殿前狛犬。社殿をひと回り。本殿横から拝殿方向の眺め、高欄の赤が無ければ地味な社殿かもしれない。本殿の千木は外削ぎ。5本の鰹木が施されています。戦災で焼失後、昭和に入って再建された事もあり、火に強いコンクリート構造を選択したのもそうしたことがあるのかもしれない。拝殿西側からの眺め。訪れたのが、あと数日で新たな年を迎えようとする時期、境内の紅葉が東照宮に彩を添えていました。脇扉には滝に打たれる獅子の姿が飾られています。拝殿左に権現道の石標がある、上部の欠損は空襲の爪痕なのかな。空襲により神社は焼失しましたが、入口の石鳥居が唯一被災を免れたものといわれています。写真の石標が空襲を耐えたものであるとすると、ある意味「何かを持っている」。拝殿右に引間城と所縁のある家康と秀吉の銅像が並んでいます。農民だった秀吉はここから武家奉公の機会を掴み、若き家康は居城として共に天下人となりました。引間城はそうした二人の天下人を誕生させた舞台となった事から、出世神社として運気を授かりに訪れるそうです。2015年、拝殿右に彼らの銅像が建てられ、二人の天下人の間に立って写真を撮り、それをSNSに上げるとその人の運気があがるパワースポットとして整備したようです。引間城址に建つ二人の像と社殿。秀吉、家康の二人を天下人に導いた引間城、井上延陵の家康への思い。一見普通の神社に見えてしまう元城の東照宮ですが、焼け残った鳥居など、ここには何か持っているものがあるのかも知れない。2020/12/24『元城 東照宮』創建 / 1884年(明治17)祭神 / 徳川家康住所 / 静岡県浜松市中区元城町111-2車でのアクセス / 東名浜松ICより約20分
2021.01.10
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鹿児島空港からほど近く、日豊本線の隼人駅から北に約1㌔に鎮座する大隅國一之宮 鹿児島神宮この地に来て最初に訪れた神社。ニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め。付近には駐車余地もなく、この絵では分かりにくいけれど、笠木の上に瓦が葺かれた朱塗りの両部鳥居。境内までは長い参道が続きます。ニノ鳥居手前の「三之杜」以前は豊姫命 / 磯良命、武甕槌命 / 經津主命、火闌降命 / 大隅命を祀る三社があったようですが、訪れた時には手前の二社のみ、右奥には基礎だけが残った「ニノ社」となっていました。神明鳥居のニノ鳥居。参道の左右が駐車場、社殿から遠くなりますがこちらに駐車し参道を進みます。奉納木馬参道右側に昭和18年に奉納されたもので、先に掲載した照島神社の鈴掛馬に通じるもの。旧正月18日、神馬を先頭に複数の鈴掛馬が人馬一体となり踊りながら参拝する初午祭が奉納される。大隅國一之宮 鹿児島神宮案内鎮座地 / 鹿児島県霧島市隼人町御祭神 / 天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)、豊玉比売命相殿神 / 帯中比子尊(仲哀天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、品陀和気尊(応神天皇)、中比売尊(仲姫命)宮内原用水路に架かる神橋緩やかに続く石段の手前に御門神社が祀られている。左か櫛磐窓命、右に豊磐窓命を祀る。この左に馬名「清嵐」と呼ばれる白馬がいる神馬舎があるが、生憎姿を見る事は出来なかった。この石段から楠木の巨木などが聳える杜が迫る。一つ目の石段を登ると右に一際大きな楠木の御神木が聳え、手前に社がある。朱塗りで流造の「雨の杜」祭神は豊玉比古命を祀る。この楠木の御神木は建久年間に植樹されたもので樹齢は800年以上という。二つ目の石段の先に社殿が見えてきます。境内の眺め。参道左が手水舎で右手に社殿が広がります。手水舎全景。朱が塗られた切妻の手水舎で、柱は黒漆で縁取られ欄間や蟇股にも彩色が施され手が込んだ造り。手水鉢の龍口も特徴があるもの。covid19対策でしょう、現在はセンサーが人を感知すると複数のノズルから清水が自動で流れるものになっています。これが定番の世になるのか、龍本来の仕事ができる日が訪れるのか、しばらくはお休みです。大隅国一之宮 国分正八幡 鹿児島神宮由緒概要以下は一部抜粋由緒概要 / 創祀は皇孫神武天皇の御代なりと伝えらる。農耕畜産漁猟のみちを指導し民生安定の基礎を創り給うた。俗に大隅正八幡とも称し全国正八幡の本宮でもある。延喜の制(901年)には大社に列し、大隅一ノ宮として朝野の祟敬篤く建久年間(1198年)には社領2500余町歩に及べり。明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格す。昭和天皇陛下の行幸勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。現社殿は宝暦六年(1756年)島津重幸公(24代)の造営なり。御陵 / 高屋山稜と称し当宮より西北へ約十三粁 空港に近い本殿域以外にも稲荷社、卑弥子神社など鎮座し懐が広く、すべて参拝したいところですが時間に余裕がないと回り切れないのかもしれない。手前の勅使殿、拝殿、本殿が南向きに一列に連なる伽藍。勅使殿右の石段から拝殿に出ることが出来ます。「龍宮の亀石」勅使殿の右にあり、亀の甲羅に似た自然石。参拝前にこの石を撫でると願いも叶いやすいという。勅使殿右の県指定有形文化財の解説鹿児島神宮本殿・拝殿・勅使殿・鹿児島神宮本殿は、宝暦六年(西暦一七五六年)島津重豪によって再建されたとされ、県内最大の木造建造物として文化財的価値が高いため、鹿児島県より有形文化財(建造物)として指定される。・本殿の構造は柱間が正面七間、側面四間の入母屋造りで、正面に前室を設けてあります。本殿の壁画は薩摩藩の画家、木村探元の筆になると伝えられています。・本殿につながる拝殿は縦長で、天井の格子には、花や野菜等が色彩豊かに描かれています。勅使殿は神殿社殿の入口に位置し、天皇から幣帛を託された勅使をお迎えする所として作られています。唐破風向拝の施された勅使殿全景。勅使殿扁額。社殿は朱塗りで柱には手水舎同様に黒漆で縁取られ、蟇股も彩色が施されるなど、落ち着いた外見に対し華やかな一面もあります。拝殿の格子天井には緻密に描かれた植物が描かれています。拝殿両脇の柱には龍の彫りが施され、こちらも鮮やかに彩色されています。千鳥破風の付く拝殿から本殿の眺め、本殿は檜皮葺の入母屋造。拝殿内部から想像できない程外観は落ち着いた佇まいをしている。拝殿右に銅板葺で朱塗りの流造の社が「四所神社」、屋根には外削ぎの千木と3本の鰹木が施されている。祭神は大雀命、石姫命、荒田郎女、根鳥命。木鼻、斗栱などこちらも手間をかけた彫や彩色が施されています。「四所神社」の斜め向かいに拝殿方向を向いて二社が鎮座しています。左が「式内神社」で祭神は武内宿禰を祀ります。その右が「隼風神社」一連の社と同様の作りでひと回り小ぶりな一間流造の社。御祭神は日本武尊。左は四所神社後方から本殿後方の眺め。本殿後方に末社の稲荷神社に続く参道が杜の奥へ続いているようで、神社案内ではここからでも結構あるようなので参拝は見送りました。振り返って四所神社と式内神社方向を眺める。この下側にも駐車場があり、石段を避け一気にここまで来れるようです。楽ちんではあるけれど、それもどんなもんだかね。一ノ宮を参拝し御朱印を頂くことに注力するかみさんからすれば、本音はここまで車で来たかったのではないだろうか。鹿児島初日、最初の神社から既に計画から遅れを生じさせてしまったようです。このうえ一ノ鳥居まで行ってくるとはなかなか言えまい。大隅國一之宮 鹿児島神宮 創建 / 不明 祭神 / 彦火火出見尊、豊玉比売命 相殿神 / 仲哀天皇、仲哀天皇、応神天皇、応神天皇皇后住所 / 鹿児島県霧島市隼人町見次内 24961
2021.01.08
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ガースーの発表があるようですこれまで時間はありながら、シュミレーションとそれに応じた対応が出来ていないのには毎度毎度呆れるばかり。あれから一年とは早いものです。施策検討、実施のスピードよりも、生き残りをかけたウイルス変異の方が一枚上手の様です。毎日の感染者のグラフは右肩上がり、不思議に株価も上がる中、我社の株価は下降をたどっている。現役引退した者からすれば「現役諸君頑張って下さい」としか言葉はない。将来のシュミレーションを怠って、過去の栄光の路線から外れる変容が生まれない限り、株価も上がらないだろう。組織は大きくなっても年々利益は減っていく。今年はオリンピックも開催される?ようなので少しは回復を期待し、そこで行動変容するしかない。自社株は塵も積もって結局塵で終わりそうだ。売りそびれたこの株の下落は、シュミレーションを怠って対応しなかった結果そのもの。国の舵取りと同じだね。コロナの様に化ける事はないだろう。こんなことは個人の責任。やがて発表される親方さまの記者会見でコロナの影響をもろに受けて生活する我々国民にどこまで響くものか、あてにはしていないけれど期待はしてみよう。 年末年始予定していた計画は全てボツ安心して外に出られる環境が欲しいものだ。我々は過去の過ちから学び情報に惑わされず、買いあさりは絶対にやめたいものです。昨年からの傾向ではパルスオキシメーターが注目されているようです。我家でも昨年の早い時期に購入し、日々の血液中の酸素飽和度を測定しています。不安を解消するためのPCR検査は医療機関に負担を強いる。個人として心の安心を得るにはいいものです。昨年に比べ供給体制も充実、価格も安くなり手軽に手に入る様になったみたいで、千円もしないものなど目に付きます。安いとはいえ医療機器認証があるものがなんとなく安心。測定方法もクリップのような機器に指を挟んでボタン押せばモニターに酸素飽和度が表示されます。正常値は96~100%とされるようで、90%以下となると呼吸不全などの自覚症状を感じるそうだ。標高の高い山に登ると感じるアレです。ところが感染すると低酸素血症なんだが症状を自覚する呼吸困難が起こりにくいらしい。そうした事象の発見が遅れることが無いようにモニタリングするにはお手軽なツールかも知れない。今は不安解消で安易に医者に行かないようしないとね。心の安心が全ての始まり、体温計と一緒で一家に一台必要な時代に突入したのかもしれません。パルスオキシメーター 医療機器認証商品心拍計 脈拍 医療用 看護 介護 家庭用 在宅医療 登山 波形 小児 足 センサー 数値 血中酸素濃度計 spo2 dretec(ドリテック) 送料無料新年も始まり、久し振りに出勤すればいきなりの一時帰休。
2021.01.07
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知多郡南知多町夏には海水浴で賑わう内海海水浴場、その西外れの辺りの砂浜を西浜ビーチと呼ぶそうだ。かれこれ40年ほど前、この辺りに泳ぎに行こうと向かったけれど、交通事情が悪かった事もあり、えらい渋滞につかまって以来夏にこちらを訪れる事はなかった。久し振りに訪れて見ると、当時にはなかったお洒落な店や旅館などあり随分変わっていることに驚きました。今回の目的地は、この西浜ビーチの高台にある『秋葉神社』訪れたのが2020/10/26、この時季にしては暑いと感じるほどの陽気。西浜ビーチから今まさに出航する舟、ではなくてこれ浜辺に設けられたWC。南国情緒が漂うビーチ沿いに一方通行で駐車禁止の道路が伸びる。写真は内海新港のある西方向の眺め。そんな光景の中に社号標が建っています。ビーチから見る秋葉神社社頭。ここから参道が後方の山の頂に向け続いているようです。右に社号標、その先に常夜灯と石の鳥居、狛犬も見えています。参道脇の手水鉢。これ程ビーチに近いとあらぬ使い方をされるのでは?そう感じてしまうのはおやじだけか。鳥居の先を守護する狛犬。胸板が厚く凛々しい姿をしています。コンクリートの参道脇は玉砂利ではなく、ビーチの砂そのものです。昼も過ぎていただろうか、参道に大注連縄が影を落としていました。参道は鳥居から二手に別れます。真っすぐ進むと秋葉神社に続く石段、右に行くと吹越御嶽山に続く石段、どっちにしても石段を登る事になります。まずは正面の石段を登り秋葉神社に向かいます。石段中ほどから鳥居方向の眺め、この先には海が望めます。石段は左に折れるとその先が頂。境内はその頂にあり、ニノ鳥居の先に社殿が見えてきます。社殿全景。左の建物が社務所なのか、拝殿なのか、それとも幣殿にあたるのかよく分かりません。本殿の左右に境内社が複数祀られているようです。本殿右に二社。左が津島社、右の社は社名札の文字が飛んでしまい思い出せません。木花咲耶姫命が祀られていたような。本殿右の覆屋には御嶽社。その左が秋葉社。この秋葉社の創建に繋がる由緒書きは整備されていないようで、知多郡史下巻に以下の記録が記されていました。そこには「秋葉社 東座頭畑 火加具津知命 元禄2年創立」とある。東座頭畑の住所から見ると、記されているのはここを指していると思われます。正にここ秋葉神社がそれだとするならば、1689年創建と意外に長い歴史を持つ神社。内海にはもう少し北側の山中に秋葉社があるけれど、現在の住所から見るとそちらではないと思われます。本殿左の社は金刀比羅社。参道は更に左の奥に伸び、丘の西側に続いています。この参道は狛犬がいた分岐の吹越御嶽山への参道に続くようです。樹々の隙間から海を眺め、細い下りの石段を下りていきます、その脇に摩利支天(左)、日本武大神が祀られています。細くて急な石段を下り切ると視界が広がり、左に社とその先に瓦葺の建物が現れます。写真の社は九頭龍社。お穴屋と呼ばれ。ここから少し下ったところに鎮座する御嶽神社創建と同時期、御嶽山を更に広める目的で山の岩盤に金槌とのみで掘られた小さな洞窟。解説によれば内部にはここを掘った行者の納骨塔や、覚明霊神碑、不動明王などが安置されていると云う。お穴は代々行者の修行場とされたようです。お穴屋から少し下ると御嶽神社。吹越御嶽山「創始は明治3年清海行者(林善四郎)により創建。妹の病を治さんとして御嶽山ニノ池で行を行い、明治23年礼拝所お穴屋を建築。吹越、岡部村初め須佐方面からも多くの信者が訪れたようです。頂上に摩利支天を祀り、八海山、日本武大神、猿田彦大神、戸隠九頭社が祀られている。」随分と見落としてものがありそうです。更に下っていきます。振り返って下ってきた石段を眺める。登る事を思えば秋葉神社から下ってきて正解かな。この石段脇にも御嶽神社らしく多くの霊神碑が建っています。この山自体が小さな御嶽そのものです。ここまで来ると社頭も目の前。小さな神社かと思っていましたが、この山全体が神域のようです。鬱蒼とした杜の中から視界は広がり、青い海と明るい空が広がります。秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火加具津知命吹越御嶽山創建 / 1870年(明治3)住所 / 知多郡南知多町内海東座頭畑10公共交通機関アクセス / 名鉄知多新線「内海」駅から徒歩25分程
2021.01.06
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以前掲載した「綿神社」神社を再建した平手政秀。天文22年(1553)信長の奇行に対し自らの死をもって諫めようとした政秀。政秀の戒名は政秀寺殿功菴宗忠大居士政秀。政秀の領地だった小木山に信長は彼を弔うため寺を創建したという。瑞雲山・政秀寺と称した寺はその後の1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで焼き払われ、その翌年に信長は政秀寺を清須に再興させますが、後の清須越しに伴い寺と政秀の墓所は現在の名古屋市中区に移設される事になります。現在、政秀の墓標は平和公園西側の政秀寺墓地の高みに移されています。平和公園西側の案内図、政秀寺墓苑は赤丸部分。平和公園の西にあたり、高みからは政秀が再建した「綿神社」や「末森城」のある西方向が見渡すことが出来ます。高みにはピラミッドの如く墓標が建てられ、極楽地蔵尊が安置されています。極楽地蔵尊の後方に六地蔵尊が西を向いて安置されています。極楽地蔵尊のある高みの一番東側、樹の右が政秀の墓標。平手政秀墓標。当時の墓標とするならば既に5世紀を経ようとしている、墓標の中ほどのひびが時代の流れを感じさせる。墓標後方には政秀が自刀した天文22年(1553)が刻まれています。2021/1/4平手政秀墓標住所 / 名古屋市千種区平和公園2丁目関連記事 / 綿神社
2021.01.05
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聞いていて何も進展がない食事、まずは国会に携わる者が率先して見本となる行動を見せてほしいものだ会食で集まる、人数の問題だろうか、議事堂に集まる? お国がそもそもアナログ。議員さん、なにしているか見えないけれど、どこにいても物事の対応が取れる時代、こんな温い会見や具体策も期限も示せない会見は空しいばかり。人を集め会見開くなら何時から、何を、どうする それくらいは持って開こう。心地よいフレーズばかり発していてもタイミングは遅れる一方、五輪は遠のいていくばかり。議員定年制、議員定数削減、報酬は成果報酬、特権、利権を見直し削減し長老が牛耳る舵取りから転換が必要な時期に来ていると常々感じる。行動変容は国政を受け持つ者から見せてほしい。心に響かない言葉と行動、この結果は我々に問題があるのかな
2021.01.04
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金山総合駅の南口を東へ向かい、大津通を右に進むと沢上の交差点に出会います。交差点を左に進むと東海道本線と名鉄名古屋本線の線路をパスする高架僑があり、橋沿いに道路が続いています。八白龍神社はその道の左側に鎮座しています。駐車場の先に左右を民家、後方に♡ホテルが聳える環境に神社はある。写真の通りは神社巡りとしては抵抗なく歩ける、道路一本中に入ると煩悩が目覚める妙な空間になる。駐車場から見る八白龍神社全景。右に社号標があり木の鳥居の先に社殿が見えている。鰻の寝床の様に細長い境内、その先にニノ鳥居を構えている。社号標は1923年(大正12)と刻まれているように見える。社号標に刻まれた年代に近い地図を遡っても神社の形跡は記されていない。創建が社号標の年号あたりだとすると、住居の集まりは熱田台地を中心に広がりを見せ、低地にはまだ田畑が見て取れます。龍神を祀る動機は十分にあったのかもしれない。八白龍なのか八つの白龍なのか、この神社の詳細は掴めませんでした。境内のニノ鳥居前の建物は倉庫なのか、社務所なのかよく分からなかった、住所はとても分かりやすい。境内の手水鉢。ニノ鳥居から拝所、社殿方向の眺め。神殿域は中央に神明造りの社が二社と左に八白龍神と刻まれた石標。拝所脇には狛犬もしっかりと守護しています。神殿域。左右に民家が迫り後方にはホテルの壁が聳える、なんとなく薄暗く、風が通り抜ける感覚があまりないようです。中央の小ぶりな社と右の大きな社に社名札はなく社名は分かりませんが、小ぶりの社に龍神が祀られていると思われます。八白龍か八つの白龍かそれすら分からないけれど、鬼門として八白(北東)のこの地に神社を造ったとすると、南西のなにを守ろうとしてのだろう。神社仏閣、それとも城か?、八つの白龍も聞いたことがない、五龍なら悩みもしないが、地元の方に教えを乞うのが一番早いのかもしれない。左に八白龍神の紀年碑、この碑の裏側に創建に繋がるヒントが刻まれているのかもしれない。謎だらけの八白龍神社です。2020/12/22八白龍神社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市熱田区金山町2丁目6公共交通機関アクセス / 金山総合駅南口から徒歩約10分
2021.01.03
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名古屋市北区元志賀町「綿神社」市営地下鉄名城線「黒川」駅で下車し、国道41号線沿いに10分程北上した西側に鎮座する神社。東隣に曹洞宗「霊源寺」が隣接しています。右は社頭から眺める境内、社号標が右に建ち、参道を少し入り一ノ鳥居がある。間口は広いものではない。社頭左には名古屋市教育委員会の解説板がある。・延喜式に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式ある神社。・譽田別命、玉依比売命、神功皇后を祀る。・社名の由来は祭神の玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来する。・戦国時代の武将平手政秀がこの地に屋敷を構え、荒廃した社殿を再興した。・鏡と手彫りの狛犬を奉納し主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を祈願した。平手政秀は織田信秀、信長と二代にわたり重臣として支えたが、信長の奇行を憂い自らの死をもって諫めたとされる。政秀の屋敷はここから西の志賀公園内に碑が残っている。麒麟に登場した平手政秀は上杉祥三さんが演じていた。社頭左に綿神社由緒。・主祭神 玉依比売命、応神天皇(譽田別命)・創建は弥生前期に九州からこの地に定住した「安曇部族」により九州「志賀」の祖神、海神「玉依比売命」を祀り「海神社」と称した。・延喜式にも「尾張山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同列の社と記されている。・本国帳にも従三位綿天神、綿は海の仮字で昔はこの辺りまで入海だった。・志賀村領主平手政秀は信長の奇行に心痛ませ天文21年(1552)綿神社を再建、「願主政秀」と刻んだ鏡と手彫りの狛犬を奉納、その祈願も空しく翌年に諫死した。・政秀の死後信長は態度を一変、天下平定の基を開いたのは政秀の忠誠によるもので、政秀なくば郷土三英傑の出現は疑問。・綿神社は尾張藩主の崇敬も厚く「別社児子宮」もあり、祭礼の際に子供を連れ参拝する様は尾張名所図絵」にも描かれている。・慶長以降再建は数度あり、現社殿は太平洋戦火で焼失、昭和45年に完工されたもの。古くから伝わる神社であり、当時この辺りまで海が迫っていた気付きもあるけれど、今は平手政秀の印象の方が強い神社かもしれない。一ノ鳥居。コンクリートの壁で区切られた参道は遥か先のニノ鳥居まで続いています。二ノ鳥居。境内はここから左右に広がり、左から手水舎、社務所、拝殿、境内社が祀られています。社頭からは想像できない程境内は広い。1950年(昭和45)に再建された拝殿。入母屋瓦葺で妻入りのコンクリート造り、築後間もない事もあり古びた印象はない。社務所前の手水舎。拝殿前の狛犬、阿形の表情はどことなくユーモラスなもの。大きな向拝を持つ拝殿の左に参道が続いています。拝殿右に瑞玉稲荷大明神と四十八祖神が祀られる。拝殿に掲げられた扁額も社殿同様新しいものです。拝殿内から本殿方向、内部も綺麗なもの、まずは参拝。このご時世なのか鈴や鈴緒などは吊るされていなかった。本殿もコンクリート造りのようです。本殿域にも社があるようですが詳細は分かりませんでした。千木は外削ぎだ。拝殿左から奥に続く参道の先には大きな御神木が聳え、そこには2社が祀られています。鳥居のある右の社は「龍神社」とあるが社には「白龍社」と記されている。今でこそ高速の高架が聳え、住宅が広がる地域だけど、少し前の一面田畑が広がる頃を思うと、龍神さまはつきもの。左は「御嶽神社」。いかにも御嶽神社の姿です。石で小高く組まれた頂に社が祀られ、麓にかけ霊神碑と不動明王に仕える三十六童子や八大童子の像が安置されています。拝殿右の二社が瑞玉稲荷大明神(左)と四十八祖神(右)が祀られる。右側の「四十八祖社」綿神社を再建した平手政秀の息子久秀は、信長の怒りにふれ放免を願った政秀の願いは聞き入られず政秀は自刀。政秀を追うように47人の家臣も自刃、それを伝えようと馬を走らせていた家臣は、その道すがら信長の使者と遭い放免の知らせを聞き悔しがったという。その家臣も47名の後を追うように自刀したと云う。この神社は亡くなった48名の霊を鎮めるために四十八祖社として祀られたとされます。信長の怒りの発端は一説に信長が久秀に「久秀の馬を献上しろ」、「できない」という事が発端だったとされます、馬は刀同様に武士にとってなくてはならないもの、頑なに拒んだことは頷けなくもない。これを機に創建されたという事であれば創建は1553年頃という事だろう。さあ今の世の中、ここまで上司に意志を貫き、忠誠を誓う者たちがいるだろうか?本殿域には二社が祀られ、右が四十八祖社、左が富士本宮浅間大社と秋葉山本宮秋葉神社の合祀社。瑞玉稲荷大明神。こちらについては伏見稲荷から勧請されたもの思いますが、年代等の詳細は分かりませんでした。拝殿の軒先に元気よさげな飾り瓦、これは犬ではなく獅子だろうか?獅子、犬、狼、どちらにしても今一つ自信をもって識別できないところがもどかしい。拝殿から社頭の眺め。訪れたのは2020/12/17、こちらの紅葉スポットは意外に少ないようです。「綿神社」創建 / 不明祭神 / 玉依比売命、応神天皇境内社 / 四十八祖社、瑞玉稲荷大明神、龍神社、御嶽神社住所 / 名古屋市北区元志賀町2-53 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「黒川」駅から北に徒歩10分程
2021.01.02
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鹿児島県いちき串木野市「照島神社」昔から海の守り神として崇拝されている神社だといいます。神社は「照島」という小さな島の頂に鎮座しています。港に朱塗りの鳥居があり、そこから島へ参道が続きます。右手に美味しい海鮮丼を提供する「照島海の駅食堂」があり、待ち時間を利用し参拝する事も出来る。鳥居をくぐるとすぐ左に神社由緒書きがあり、赤い欄干が島へと導いてくれる。島へはこの朱塗りの「照島橋」がつないでいます。島の波打ち際にシックな鳥居が建っていて、舟からここに上陸するのが本来の姿なのかもしれません。橋を渡ると正面に「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」がある。秀吉の朝鮮出兵に出陣した島津義弘、忠恒親子は、文禄、慶長の役の後に、朝鮮の陶工を連れてこの地に凱旋したとされる、その中でここから鹿児島に行くことを拒んだ一部の陶工は照島へ上陸、ここで焼いたのが薩摩焼の発祥とされるようです。鳥居前の海岸はこうした岩盤が続いています。鳥居から境内はこの石段を上っていきます。鳥居には菊紋が入った神額が掲げられています。不思議なのは貫の上に乗る複数の小石、どうやってこれを乗せたもんかね。鬱蒼とした杜の中に続く石段、ここからは漂う空気が少し変わる気がします。参道中ほどの狛犬。年代は分からないけれど、風化が進むその姿はこの神社の歴史を語っているようでもある。石段を上り切ると視界が広がり、陽光が差し込み明るい雰囲気に一変する。参道突き当りに石の祠。常夜灯と右手に馬頭観音の石標が建っています。薄暗い祠の内部には見慣れた観音像の姿はなく、なんだろう?馬の姿そのものが安置されているように見える。馬頭観音の右手に庚申塔。参道は右手に続き、三ノ鳥居から先の境内は広くはないけれど、杜の中にポッカリと陽光が差し込む境内に右手に社務所、正面に社殿が鎮座しています。境内右に照島神社参拝のしおりが掲げられています。それによれば祭神は大己貴命、少彦名命、大山津見命を祀ります。創建年代は不明なれど、古来からの言い伝えによれば常陸國鎮座の大洗磯上神社(大己貴命、少彦名命)と伊予國鎮座の大山津見神社(大山津見命)とを勧請し創建されたと伝わるそうです。1790年(寛政2)島津家第26代斉宣公が市来温泉に湯治の折、この地を訪れた。境内の海岸にある雄淵と雌淵の奇岩を見て「まさにこれ、玉を抱いてうずくまる龍の姿」として侍臣の川村宗広に命じて雄淵の奇岩に驪龍巌(りりょうがん)と刻ませたそうで、この岩は今も現存するそうだ。しおりの傍らに伊勢神宮遥拝所、この方向に伊勢神宮があるということです。社殿全景は見通しが利きませんでした、社殿右に手水舎。拝殿内の眺め、中には額が掲げられています。右手の馬の飾りは鈴掛馬と呼ばれ、しおりに書かれている春祭では、本物の馬に飾りをつけ境内を引馬され、最後にこの「鈴掛馬」を奉納するようです。この境内で引き馬が奉納されるようです。人気の少ないこの光景から想像できないけれど、祭の際は地元の方で境内を埋め尽くす程の賑わいを見せるようです。参拝を終え石段から社頭方向の眺め。鹿児島神宮の改築の際に島津貴久の枕元にあらわれたという馬頭観音、この神社のリアルな馬頭観音、そしてこの辺りで行われる浜競馬など馬と人の関りは身近なようです。2020/11/25照島神社 創建 / 不明 祭神 / 大己貴命、少彦名命、大山津見命 住所 / 鹿児島県いちき串木野市西島平町410関連記事 / 2泊3日で鹿児島県一之宮巡り day2
2021.01.01
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