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深見郷 富士浅間神社から国道419号線を藤岡小原方面に進み、飯野地内の信号で右折、100㍍程直進した左側に飯野 秋葉神社の社頭に着きます深見郷 富士浅間神社からだと、車の場合は移動時間5分程、距離にして1.5㎞ほどの飯野町坂口に鎮座します飯野 秋葉神社社頭鳥居の先には農村舞台があり、舞台の先に社殿が見えます鳥居から舞台と秋葉神社社殿の眺め石段右に大正7年(1918)に寄進された秋葉神社社標が立てられています秋葉神社解説「十二等級 秋葉神社 旧指定村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字飯野字坂口887番地祭神 迦具土命、大名持命、少彦名命由緒 社伝に、享保6年(1721)遠州秋葉山より勧請し、火防の神として氏子の崇敬あつく、また豪者 義民飯野八兵衛深く信仰するとあります明治6年(1873)、無挌社として据置公許となる同44年(1911)、字仲ノ下、無挌社御嶽神社を本社に合祀した大正10年(1921)、村社に列挌同11年10月24日供進指定社となった 藤岡町観光協会」この由緒に追記できそうな情報は以下愛知県神社庁 「氏子域藤岡飯野町、例祭日10月第3日曜日3」西加茂郡誌に飯野 秋葉神社は記載されていたが創建は未詳とされていました舞台斜景深見 農村舞台同様の造りで、入母屋平入で、屋根は瓦葺で入母屋屋根に裳階が付く舞台鳥居側から見る間口は四間、これまで見てきた舞台の中では広い間口で社殿も一望できる舞台斜景舞台は明治28年(1895)に建立され、現在までに幾度か補修されていますが、全体としてはしっかりとした構造を保っています一本の長い梁が瓦葺の屋根を支えています舞台屋根裏の眺め、もとは茅葺だったと思われます境内から社頭の眺め例祭時には飯野棒の手保存会による見当流棒の手、献馬、神輿、祇園山車、餅投げなどの奉納が行われ、この広い境内も人で溢れるのだろう境内全景左に手水舎、社務所があり、中央に祭文殿、本殿域で、右側に境内社が纏められています祭文殿と本殿域祭文殿正面からの眺め祭文殿前を守護する狛犬梁間一間、桁行二間の切妻造で四方吹き抜けのもの本殿域全景正面の神門は透塀と一体となり、側面と後方は築地塀が本殿域を囲んでいます現在の社殿の状態について、具体的な修復時期は不明ですが、全体としては傷みも少なく、美しい印象を与えるものとなっています神門の羽団扇格子扉から見る本殿その構造は詳しくは分からないが、本殿前の陶製と思われる小さな狛犬がこちらを見つめている透塀から本殿の眺め棟持柱も良く見える神明造りで一間向拝が付く大きな本殿で、6本の鰹木と外削ぎの千木が付く豪者 飯野八兵衛が崇敬したとされる迦具土命、大名持命(大国主)、少彦名命の三柱を祀る本殿右の境内社左の二社は左から蚕霊社と御嶽社その右に石の社が祀られていますが社名は分からなかった右手の覆屋の下に左から砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社の四社が祀られています社務所左の手水舎境内西側から舞台の眺めここから左の社地西外れに飯野八兵衛碑が立てられています飯野八兵衛碑右手の解説の内容は以下「義人追慕飯野八兵衛は、享保11年(1728)三州飯野村で生まれた母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わったその頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だったけれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1.241人の中より305人を引き連れ、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった江戸に於ける彼の活動は凄まじかった恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げ、その上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れたかくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についたこの時27才、まさに巨星落ちるの感があった犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである」当時は地方の実情を伝えるためには、死を覚悟しなければならない時代でしたそう思うと、今は容易にSNSなどで声を伝えることができる時代は変わり、地方の声を伝えに向かわせた代表は、志を忘れ私利私欲に走る愚策や愚行に対して庶民が声を上げ続ける事は必要な事だ飯野 秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社所在地 / 豊田市藤岡飯野町坂口887深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 国道419号線を、移動時間約4分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂・深見郷 富士浅間神社
2024.04.30
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2024年4月23日から25日までの二泊三日、ディズニーリゾートと東京都内の観光地を訪れました初日は曇り空が広がっていました以前は出張で新幹線に乗るたびに、窓から見える富士山に目もくれずにいましたしかし、観光目的で新幹線に乗るようになってからは、その壮大な姿を見ることを楽しみにしていますが、今回も、残念ながらその機会はありませんでしたただ、雨に降られずにディズニーランドに入場できたので、それだけで満足しました東京駅の出勤時間の人波をすり抜け、9:45にディズニーランドに到着初日はディズニーランドで一日中、アトラクションの列に並びました普段は1時間以上待つことはありませんが、ここではそれが当たり前のようですこの日は最大で2時間待ちましたが、待つ間も退屈することはありませんでしたかみさんによると、これはまだ少ない方だとのことですそんなわけで、パレードや妻が楽しみにしていた「美女と野獣の魔法の物語」のアトラクションなど、メインのアトラクションは概ね体験することができました夢の国を訪れ、待ち時間を回避するためにはプレミアムチケットを購入すれば、多くのアトラクションを楽しむことはできるのでしょうがしかし、その一方で、飛ぶようにお金は消え、現実に引き戻されます主要通貨に対する円安の影響を受け、今では海外からの観光客、特に元気なアジア圏の観光客の声が飛び交っています反面、飛ぶように札が飛んでいくので現実の世界に戻ってしまう主要通貨に対し価値が低下した円安の追い風を受けて、今は海外からの観光客、特に元気なアジア圏の言語が飛び交っています夜のディズニーランドが一層鮮やかに輝くエレクトリックパレード暗闇から現れる数々のディズニーキャラクターたちが乗るLEDライトの鮮やかな色合いで光り輝くフロートのパレードが始まるその光景はまさに夢の世界そのもの音楽と光のショーが同時に進行し、観客全員がその世界に引き込まれていきます何よりも心に残ったのは、子供たちの喜びに満ちた声彼らの目はキラキラと輝き、その笑顔はまさに無邪気そのもの大の大人ですら現実を忘れ子供の頃に戻ったような一時を与えてくれます鮨酒肴 杉玉新木場店TDLから二駅先のりんかい線新木場駅の一階にありスシローの新業態店で鮨と酒と肴が楽しめる居酒屋新木場駅の南に宿をとった事もあり、手近なここで晩御飯をとることにしましたスシローの居酒屋版で、味気ない器で提供されるものとは違い一クラス上のもの寿司に関してはバルサミコ酢入りのシャリを使うなど差別化を図っていますメニューの謳い文句や写真と現実は多少ギャップがあるのはスシロー譲りか居酒屋だけに酒の選択肢は広い、鯵の骨せんべいがお勧めで、これを肴に酒は進むもし名古屋にも店舗が出来れば、散歩がてらに立ち寄ってみたい所在地 / 東京都江東区新木場1-6-1メトロセンターC棟1FJR東日本ホテルメッツ東京ベイ新木場で迎えた二日目、今日は終日TDSで楽しむ新木場駅まで徒歩数分と近いのでTDLを訪れるには便利なビジネスホテルここもまた、海外からの観光客が多く、宿泊額に制限のあるサラリーマンはつらい時代になった晴れ間は見えてますがいつ降り出してもおかしくない天気TDSに到着したころには雨も降りだすこの日もアトラクションの待ち時間は比較的少ない様で、かみさんが乗りたかったファンタスティックフライトや一度は経験しておきたかったタワー・オブ・テラーなど楽しめた夜の「ビリーヴ!~シー・オブ・ドリームス」を楽しみにしていましたが、雨も強くなり、開催が危ぶまれるようになったため、結論を待たずに18時にTDSを後にしました三日目は都内の神社と観光スポットを巡りました上は中央線の御茶ノ水駅前にある神田川に架かる聖橋からの眺めこの場所はアニメ「すずめの戸締まり」にも登場し、鉄道愛好家にとっての聖地として知られています橋の上からは、東京メトロ丸の内線、JR中央快速線、JR中央総武線の3路線が交差する景観を眺めることができます運が良ければ、同時に走る電車の姿を写真に収めることができる絶好のスポットです所在地 / 東京都千代田区神田駿河台4次に、ここから湯島聖堂に向かいます湯島聖堂 (孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡)聖橋から北方向に進んだすぐ右側の森の中に位置しています江戸時代の元禄3年(1690)に、江戸幕府5代将軍徳川綱吉により湯島聖堂として創建されましたここでは、孔子を祀る大成殿や学舎が建てられ、自ら論語の講釈を行うなど、学問が奨励されていました写真上は杏壇門から入徳門の眺め下は屋根の流れ棟の先端に飾られている鬼龍子と呼ばれる聖獣寛政9年(1797)には、孔子が生まれた地名を取って昌平坂学問所が開かれ、明治維新まで文京センターの役割を果たしていました維新後は文部省が置かれたり、国立博物館、師範学校(筑波大学)や女子師範学校(お茶の水女子大学)が置かれるなど近代教育の発祥の地となった現在の主な建物は昭和10年(1935)に再建されたコンクリート造りで、入徳門は宝永元年(1704)に建立された当時のものがそのまま残っています下の写真は特徴のある鯱の姿鯱の頭から鯨のように水を噴き上げ、建物を火災から守っています同様の鯱は大成殿の棟にも飾られ、湯島聖堂のシンボル的な存在といえる余談ですが荷物になる一眼を持ってきながら、アクセストラブルで肝心の時に撮影できずお荷物でしかなかった湯島聖堂所在地 / 東京都文京区湯島1-4-25次に、湯島聖堂から徒歩約3分の場所に鎮座する神田神社に向かいました写真は神田神社随神門朱も鮮やかな総檜・入母屋造の随神門で、現在の門は昭和50年(1975)に建立されたものキンピカの木鼻飾りや彩色された彫飾りが印象的です上は神社拝殿の全景ここはTVドラマのロケ地になった場所で、左手のイチョウの御神木の下がドラマに出て出来た小さな祠があった場所という、撮影用の為当然今はなにも残っていません下は境内北側の末廣稲荷社訪れた時は藤の花が綺麗に咲き誇っていました神田神社所在地 / 東京都千代田区外神田2-16-2さて次は神田神社から更に10分程北に鎮座する湯島神社に向かいました上は湯島神社社頭の眺め下は拝殿全景湯島神社は雄略天皇2年(485)に創建され、江戸時代の天神信仰の中心地とされています主祭神は天之手力雄命、菅原道真を祀る学問の神として知られているため、修学旅行の生徒たちが多く訪れます意外に高い建物がなく、空が開けており、都会的な圧迫感のある東京の印象は少し変わった湯島神社所在地 / 東京都文京区湯島3-30-1湯島神社を後にし、不忍池の西側を北上して次の目的地である根津神社へ向かいましたつい最近までピンクの桜の花で溢れていた上野公園も新緑の淡い緑に包まれていました写真の左側にある八角形の建物は不忍池辯天堂で、右方向には今回の最終目的地である東京スカイツリーが聳え立っています雨に降られて肌寒かった昨日とは対照的に、この日は歩いているだけでも暑さを感じるほどの陽気でした木陰で一息つき、上着を脱ぎ捨ててTシャツ一枚で歩き始めました真島稲荷神社根津神社付近の蕎麦屋で昼食を予定していましたが、炎天下の下長蛇の列ができており諦めて、谷中の蕎麦屋に向かいましたそちらは列は出来ていましたが日陰もあり列に加わりました待時間に近くの真島稲荷神社まで歩いてきました谷中の住宅街の狭い路地の突き当りに鎮座する小さなお稲荷さんです下町情緒が漂う谷中の町のお稲荷さん、詳細が分かれば改めて記載する事にします真島稲荷神社所在地 / 東京都台東区谷中2-1-5根津 鷹匠入口は間口が狭く、目立つ看板もないので穴場的なお店店内に入ると右側にガラス張りのそば打ち部屋があり、白い土壁と木を多用した落ち着いた店内です無垢材の長いテーブル席が三つと、入口にカウンター席があります上は酒の肴でオーダーした熱々の焼味噌と下は二色蕎麦味わいの異なるせいろと田舎蕎麦の二種盛りで、特に田舎蕎麦は美味しかった以外に塩で美味しく頂ける蕎麦で、薬味のからし大根で頂くとピリッとした辛さと冷たい蕎麦がこの日の暑さにはピッタリでした良く冷えた四季桜と焼味噌がまた絶妙、美味しいお店でした根津 鷹匠所在地 / 東京都文京区根津2-32-8さて、ここから徒歩5分の根津神社に向かう事にします上の写真は根津神社社頭3月30日から4月30日の間、境内ではつつじ祭りが開かれており、多くの参拝客で賑わっています戦災で被災した社殿の修復後、荒れていた丘に花期の違う3000株のつつじが植えられ、色とりどりに咲き移ると云うツツジもこれだけ纏まると圧巻の美しさがある上は根津神社社殿全景由緒は古く、日本武尊が東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したと伝わり、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています祭神は須佐之男命、大山咋神、誉田別命、大国主命、菅原道真公をお祀りする下は乙女稲荷神社で倉稲魂命をお祀りするつつじ祭りと重なっており、境内は今回訪れた神社の中では一番混雑していました根津神社所在地 / 東京都文京区根津1-28-9谷中銀座根津神社から北に徒歩15分程の場所にある昭和レトロな雰囲気の漂う商店街夕陽に染まる谷中銀座の風情はドラマのロケ地としても取り上げられているさて、夕やけだんだん坂を上り、日暮里駅から最終目的地の東京スカイツリーに向かいます夕やけだんだん坂所在地 / 東京都荒川区西日暮里3-14東京スカイツリーの南を流れる北十間川、そこに架かるおしなり橋から川面の眺め色鮮やかな1500匹の鯉のぼりが見られます見上げるスカイツリー東京スカイツリータウンで開催されている台湾祭で、台湾夜市の雰囲気と味覚を味わいながら、この旅の終わりを迎えます牡蠣オムレツや巨大なイカの唐揚げなど、普段はなかなか味わうことのできない台湾屋台の味を堪能することができましたここで帰りの新幹線の時間を調整しましたそして、東京駅醸造所で桃どぶろくを購入し、お土産としましたどぶろくと見間違えて購入しましたが、桃風味のどろっとしたお酒で、女性でも飲みやすい一品でしたコロナ禍で閑散していた時以来の東京でしたが、人並みで溢れる慌ただしい東京に戻って来たなと実感するとともに、円安を背景に海外から訪れた観光客の多さに、なんとも複雑な思いを実感する3日間でした
2024.04.29
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深見 磯崎神社から国道419号線深見細田交差点に戻り、信号を左折して200㍍程先の左側に深見郷 富士浅間神社の社頭があります深見町広表地内の西外れに位置し、国道西側の山の尾根に社殿を構えています国道から見る社頭歩道から尾根に続く参道があり、入口右側に平成20年に寄進された「深見郷 富士浅間神社」の社標があります歩道から鳥居の姿が見えており、その奥に社殿が建てられています参道から見る社地石段脇は草木が迫り鬱蒼とした社地を想像するかもしれないしかし上まで登ると意外に開けた明るい社地が広がっています木造明神鳥居小高い山の尾根を整地し、綺麗に手入れされた明るい境内に木造明神鳥居と覆屋が建てられています鳥居から覆屋の間に二対の常夜灯があり手前の常夜灯は昭和17年(1942)寄進、奥のものは平成17年(2005)に寄進されたもの参道右側の手水鉢覆屋全景切妻妻入りの奥に長い覆屋で、入側に「深見郷 富士浅間神社」の白い幟が立てられています覆屋の下の本殿と左脇の境内社の眺め本殿両脇にも一対の常夜灯があり、合計で三対の常夜灯がある覆い屋の左には境内社を祀った覆屋があります社名から推測すると富士山本宮浅間大社から勧請され、祭神は木花之佐久夜毘売命ではないかと思われます本殿はコンクリート製の流造創建時期を推測できるものとして、社標をはじめとした寄進物の寄進年度に昭和以前のものが見られなかったこと、覆屋の棟札に「平成15年10月吉日拝殿建設」とありました神社に由緒がなく、大正時代に出版された三河郡誌の「郡内神社一覧」や愛知県神社庁にも目を通すが社名や創建・由緒等の詳細は分からなかった左の覆屋に天神様と不明社、その左に石の社が祀られています広表の西外れの高台から、東方の広表集落を見守るように富士浅間神社が鎮座しています深見郷 富士浅間神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 天神様、不明社2社所在地 / 豊田市深見町広表深見 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を左折、深見細田交差点を過ぎた200㍍左側、移動時間約4分程 (社頭左に駐車余地がありました)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂
2024.04.26
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迫町にある磯崎神社から猿投山東麗の国道419号線を南下し、深見町大屋に鎮座する深見磯崎神社へ向かいます迫磯崎神社から国道419号線を南下します。深見細田交差点に到着したら右折し、そこから約1キロメートル直進します。その後、右手に神社の社頭が見えてきます。移動距離は約3キロメートルで、車を利用すれば10分程度で到着できるでしょう社頭の眺めほぼ南を向いて社頭を構え、右に大正12年寄進の「磯崎神社」社標が立てられています境内は南側は大きな杉が聳えたっており、鳥居から先の社殿は見えずらいかも知れません駐車場はこの社頭の左側に小道が伸びており、その先に駐車余地があります写真は駐車場から社頭方向の眺め中央の建物が迫 磯崎神社で教えて頂いた深見 農村舞台になりますここから境内に向かえますが、まずは鳥居に向かいます社頭全景右に社標と一対の常夜灯、明神鳥居からはじまる杉並木の先に社殿が見えます鳥居扁額は「磯崎神社」迫地区からほんの少し離れた深見地区にも同名の神社が鎮座するので困惑するかもしれません参道を進んだ左の手水舎右手に見えている建物は深見農村舞台となります参拝当日は手水鉢に清水は張られておらず、龍も手持無沙汰な様子でした舞台から社殿の眺め舞台と社殿の間には広々とした境内があります舞台側面に令和5年度の深見農村舞台のプログラムが貼られていました昨年は10月7日に開催され、鑑賞には入場チケットが必要なようです舞台斜景入母屋平入で舞台正面には一本の柱もない深見農村舞台の建立は棟札から明治34年(1901)とされます岩倉神社の舞台同様、床面に直径約5.5㍍の回り舞台を備えたもので、昭和62年(1987)に屋根を主とした修復工事が行われたものが現在の姿舞台は茅葺屋根で庇が瓦葺のもので、その屋根を太い梁が支えている今も現役の回り舞台舞台正面の眺め10月にはこの広い境内に観客が集い、神さまと共に農村歌舞伎を楽しむ自分自身農村歌舞伎を見た事がないので一度は訪れて鑑賞したいものです農村舞台から境内全景を眺める広い境内奥の高みの特等席に社殿が築かれ、中央に磯崎神社社殿、右側に薬師堂が建てられており、先に訪れた迫の磯崎神社と深見磯崎神社は配置は異なりますが共通するものがあるまず、深見磯崎神社参拝の前に、原点とも言える社殿の右側にある薬師堂から始めます元亀元年(1570年)に建立されたとされる棟札が残っており、慈覚大師作の薬師瑠璃光如来像が祀られていますこの像は東方薬師如来と呼ばれ、猿投神社東ノ宮の薬師領に安置されていたものが移祠されました磯崎神社が建立されるまでは、産土神や医薬延命の守護として崇められ、昭和初期までは住職も在住していました現在は地区が清掃と月祀りを受け継ぎ、旧暦の10月8日には薬師祭が営まれています堂の扉は普段は閉じられていますが、堂内の須弥壇には本尊、脇侍の日光・月光菩薩、十二神将像、西側の祭壇には本尊の阿弥陀如来像、脇侍の善導大師、法前上人が祀られているそうですやはりこの辺りにあって、御神体の猿投山と猿投神社には所縁があり、深見 磯崎神社が猿投神社東峯の東ノ宮の薬師如来を祀る東方薬師と云う事だと、西峯の西ノ宮の観世音菩薩を遷した社寺もあると云う事だろうかこれまで低山トレッキングの通過点として猿投神社や猿投山を訪れてきましたが、最終的には参拝目的で御神体の猿投山と猿投神社を訪れることになりますそれは猿投山をぐるっと一周廻り終えてからのことになるだろう拝殿正面全景石段手前には一対の狛犬と解説が立てられています「十四等級 磯崎神社 旧村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字深見字大屋38番地祭神 大己貴命、少彦名命由緒 この地深見郷は武田王の後裔武田氏の居住した所 社家武田氏社僧、神宮寺あり 元亀元年(1570)名僧慈覚大師作の薬師如来の像を祀る 江戸時代には里山産土神と崇め奉る医薬延命守護として信仰を集めた 明治の制度改めにより薬師如来を廃し、明治6年祭神を改め、同8年11月社殿建立し磯崎神社となる 同年村社に列格例祭日 10月第1日曜日社殿 本殿13坪、拝殿21.33坪、小宮2.08坪、舞台30坪境内坪数 1090坪 藤岡町観光協会」解説の他に西加茂郡誌、愛知県神社庁から得られたものを下に追記します 大正15年出版の西加茂郡誌 「氏子数56戸、例祭 献馬・棒の手」愛知県神社庁では「例祭 10月第2日曜日、氏子地域 深見町」の記載があった深見自治区地域誌の深見磯崎神社紹介から抜粋した内容は以下「明治6年(1873)の改号に際し茨城県大洗磯前神社より勧請 境内社 洲原社、伊勢社、岩津社、山之神社、市杵島社、鎮守社、琴平社む、蚕霊社、秋葉社、 天王社、常夜灯社」が祀られている祭神大己貴命 (大国主命) 国土開発、殖産、医療などの知識・文化を授け、縁結び、子授け、夫婦和合、五穀豊穣、養蚕守護 医療、病気平癒、産業開発 交通・航海守護、商売繁盛など御利益がある少彦名命(本医薬の祖神) 医療の知識や農耕の技術を広め、温泉を発見し、酒の作り方を伝え、国家安泰、病気平癒、健康祈願 農業技術、商売繁盛、旅行・交通安全など御利益がある境内社洲原社 豊作、厄除け、夫婦和合、子授け伊勢社 神宮より天照大御神を勧請岩津社 学問、病気平癒、厄除け、縁結び、安産山之神社 入退山時の無事、山の恵み市杵島社(通称弁財天)金財運、知恵、長寿、芸能鎮守社 氏神琴平社 金運、縁結び、商売繁盛、健康蚕霊社 養蚕守護天王社 除疫常夜燈社 村中の安全・秋葉社の付属的なもの秋葉社 防火社殿は明治8年(1875)建立、平成6年(1994)現在の社殿を造営」と記載されていました拝殿前の石段入口を守護する狛犬石段から拝殿の眺め拝殿額は「磯崎神社」、神門は左三つ巴だろうか拝殿左の境内社正面の覆屋には6社、覆屋左に1社祀られています左から常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社 天王社拝殿右の二社左が山之神社、岩津社これで境内社全て参拝したはずですが、地域誌にある境内社の洲原社、伊勢社が見当たらないどこかで見落としているのかもしれません境内左の社務所側から社殿全景切妻妻入りの拝殿と切妻平入の鞘殿が一体となったもの訪れた時はピンクの八重桜が見頃を迎えていました深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社、天王社、山之神社、岩津社所在地 / 豊田市深見町大屋38津島神社・二十三夜塔から車アクセス / 国道419号線を南下深見細田交差点右折、直進1km先の右側、移動時間約5分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)
2024.04.25
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迫 磯崎神社から引き返し迫八反田交差点を右折、国道を150㍍程進んだ緩い上り坂の右側に雑木林の中に今回の目的地「津島神社・二十三夜塔」が鎮座します所在地では豊田市迫町石田となります写真は国道から迫八反田交差点方向の眺め、目的地は左側の斜面を登り切った先になります国道沿いには駐車余地がありません私は迫 磯崎神社に車を置き、田んぼの中を10分程歩いて訪れました歩道から見る津島神社に続く小路鳥居や社標がないのでこの小路を目印にするしかない歩道から少し上れば樹々が伐採された小高い丘になり、左奥に神社が鎮座します津島神社・二十三夜塔鎮座地全景左が津島神社の覆屋で少し離れた右側に二十三夜塔が立てられています迫町石田の津島神社には創建や由緒を記した掲示物はありません愛知県神社庁にもその詳細は存在せず、過去の地図にもここに鳥居の印を見付けることはできませんしたがって、具体的な事柄は何一つ分からない状況ですただし、過去に遡ることができる唯一の手がかりは、覆屋の前に立てられている平成15年(2003)に奉納された幟立てぐらいで、これが創建時期とは言えないだろう次を担う土地の子が好奇心から訪れる事もあるだろうそうした世代が見て、神社が祀られた経緯や歴史が分かるようになっていると、肝試し的な対象ではなく、身近な存在として感じられるのだろう社殿全景、今も人が訪れているようです祭神は素戔嗚尊だと思われます覆屋の軒下に「津島神社」と記された素木の額が掛けられている左が二十三夜塔月待ち講は特定の月齢の日に信者が集まり、飲食や会話を交えながらお経を唱え、悪疫退散を願う自然崇拝の一種で、旧暦の二十三夜塔以外にも十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などあり、講を通じてお互いのコミュニケーションを深める役割も果たしている昭和の時代でも地域住民のコミュニケーションを図る助け合い「隣組」などあり、冠婚葬祭時には地域で支え合う習慣が存在していましたしかし、それらも近隣との付き合いが希薄となった都市部では、ほぼ姿を消してしまったのではないだろうかこうしたコミュニティは地方や田舎では今も存在している場所もあります右の石碑は文字が刻まれているが読み取れなかった小高い丘にひっそり佇む津島神社・二十三夜塔を眺める神社に続くなだらかな尾根適度に雑木が伐採されているので、社地には陽光も差し込み歩きやすい歩道から上り切った先から国道419号線方向の眺め樹々が芽吹いたとしても歩道からこの参道は分かりやすいかもしれない津島神社・二十三夜塔創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 豊田市迫町石田692迫 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を右折し150㍍ほど先の右側、移動時間約2分程 (駐車余地なし)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社
2024.04.24
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迫町 磯崎神社猿投山東麗の豊田市迫町下切に位置し、古くは高橋荘深見郷(西中山、上渡合、深見、田茂平、迫、飯野、北一色、石飛、折平、北曽木、西市野々)に属していた古くからの集落、迫(さこ)に鎮座する神社金剛寺からだと、県道350号線を南下し飯野町の交差点で右折、迫八反田交差点を右折、道なりに直進した右側に社頭が現れます写真は車道から見た社頭車は鳥居の先を右に入った境内に駐車できます磯崎神社社頭全景一対の常夜灯と鳥居、右側の赤い屋根の建物が迫の農村舞台車道から境内の眺め石段右に社標と農村舞台、正面の石段を上った先が社殿石段右の解説「十四等級 磯崎神社 旧村社 鎮座地 豊田市迫町下切237番地 祭神 大己貴命、少彦名命 由緒 社伝に、元亀元年(1570)、猿投大明神 東宮の本地仏薬師如来を祀るとあります 年の変遷により産土神と崇め奉られました 明治の制度改めにより廃却となり、社殿を造営し常陸国大洗磯前 酒列磯前神社にならい、磯崎神社と改号 明治8年(1875)11月、村社に列格 例祭日 10月第2日曜日 社殿 本殿 折屋根造 0.22坪、覆殿 2.25坪、拝殿 4坪、舞殿 17.5坪 特殊神事 (神賑行事)飾献馬、棒の手、火縄銃、御輿、餅投、お囃 境内坪数 233坪 藤岡観光協会」因みに大正15年発行の西加茂郡誌に迫磯崎神社として記述が残っていたが解説程の内容ではなかった併せて愛知県神社庁を見てみたが祭神・例祭しか記されていなかった鳥居から社叢の眺め鳥居扁額は「磯崎神社」酒列磯前神社は茨城県ひたちなか市に鎮座する古社ですそこから遠く離れた猿投山の麓の迫地区とすぐ隣の深見地区に同じ磯崎神社が祀られたのか興味深い豊作祈願や神事の余興として農村歌舞伎などが演じられ、楽しみの少ない村々の住民とって、唯一の娯楽の場として造られた現在藤岡地内に残る農村舞台は9棟ほどに減少し、農村歌舞伎の後継者難などから農村舞台は姿を消しつつあるこの迫地区の農村舞台も農村歌舞伎の継承が途切れてしまい、現在は舞台だけが残る藤岡地区の案内によれば、この舞台は明治24年(1891)に建築されたもののようです外観は入母屋造で平側6間、妻側4間の茅葺屋根を鋼板で覆ったもの正面から見る舞台は、隅柱に1本の長い梁を渡し、間に柱を入れる事無く屋根を支え、広い間口が造られています一本ものの無垢の太い梁が大きな屋根を支えている隅柱から舞台の眺め久しく使われていないのを裏付けるように床板は光沢を失っています小屋組縦横に組まれた竹と露わになった萱は、造形美の美しさすら感じられますしかし、現代では萱の調達や葺き替えも難しくなり、こうした光景も見る機会がなくなってきました境内左に棒の手顕彰碑地元の方から声掛けを頂き、少しお話を聞いたなかで、現在は「歌舞伎は行われておらず、祭礼の日に棒の手と火縄銃の空打ちの披露」が行われていると云う事「ここから少し南の深見地区に鎮座する磯崎神社の農村舞台は、回り舞台もあり今も現役」と教えて頂いたかつては住民が集い農村歌舞伎を楽しんだこの境内、今では広々とした空間として感じられます深見地区の農村舞台は田畑の先に見える森の南側、車で5分程の深見 磯崎神社境内にあります石段の前から社殿全景の眺め、石段左の石碑は殉国戦士之碑石段で守護する一対の狛犬と拝殿迫 磯崎神社の狛犬(寄進年未確認)拝殿と本殿覆屋の眺め、覆屋後方に見える建物は薬師堂瓦葺の四方吹き抜けの妻入り拝殿で、拝殿内に「大洗磯前神社」の額が掛けられています拝殿から本殿の眺めよく見れば拝殿奥の隅柱に祭神名が記されていました左が「迫大磯神社相殿 秋葉大神」、右の隅柱には「「迫大磯神社相殿 津島大神」とある覆屋の柱にも由緒が書かれた板が張られていましたが、最初の書き出しから先は板の表面が剥落して内容が分からなくなっていました本殿は折屋根造解説から祭神は大己貴命、少彦名命拝殿左の境内社6社を収める覆屋右から神明社 祭神 天照大御神 日本の守護神御鍬社 祭神 豊宇気毘売神 衣食住の守護神稲荷神 祭神 宇賀之御魂神 稲作物、食料、商売の守護神右から天神社 祭神 管原道真公 学問の神金毘羅社 祭神 大物主命 福徳円満、航海安全洲原社 祭神 白山姫命 暮らし、各種円満迫 磯崎神社社殿全景大棟には鯱、軒先の飾り瓦に獅子と牡丹?が飾られていますなんだか神仏習合の名残が漂う光景です後方の薬師堂と迫 磯崎神社社殿全景無理に神仏分離した様にも見えず、薬師堂と神社が自然に鎮座しています薬師堂と書いていますが、現地にそれを示す掲示物はありません詳細は不明、鬼瓦に薬師の文字が入っているため薬師堂としています入母屋瓦葺の妻入りの堂は向拝や手挟に細かな彫が施されています薬師堂のシックな妻壁と向拝の装飾向拝の装飾宝珠を掴んだ龍の姿と鰐口の前の梁には錫杖のような彫が施されています額には「醫王閣」とある、醫王は薬師如来の異称、薬師如来を祀る建物ということだろう手挟の彫飾りと木鼻の獏と獅子機械加工が発達した現在、手挟に施されたような彫や更に緻密に彫られた透彫りなど、今も職人の手仕事しか作れないもの…と思いたい3Dスキャンでボタン一押しで出来てしまうなら、技術の継承ではなく操作の習得でしかないそうしてできたものは妙に味気なく思えてならない、そんな日もやがて訪れるのだろう拝殿から舞台の残る境内の眺めさて、転がり落ちないように降りるとするか境内から深見 磯崎神社方向の眺め本来はここから右を進んだ先の神社にも行きたかったが、ここから先は幅員も狭くなり小回りの利かない車では厄介なので、日を改めて軽で訪れる事にして、もう一つの磯崎神社に向かいます磯崎神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 神明社、稲荷社、御鍬社、天神社、金毘羅社、洲原社薬師堂創建 / 元亀元年(1570)本尊 / 薬師如来所在地 / 豊田市迫町下切237氏子地域 / 迫町例祭日 / 10月14日金剛寺から迫磯崎神社まで車アクセス / 県道350号線を南下、飯野町の交差点を右折、迫八反田交差点を右折し道なりに直進、移動時間5分程参拝日 / 2024/04/06関連記事・金剛寺枝垂れ桜 出遅れてしまった
2024.04.23
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豊田市北一色町川原鎮座金剛寺3月にカタクリの花を見に行ったさい、豊田市の金剛寺に立ち寄りそこで見た枝垂れ桜が忘れられず、あれから既に一か月名古屋のソメイヨシノも見頃を迎え、さすがに「葉桜になっているから」と自分に言い聞かせる毎日が続いていたそれでも花を付けた枝垂れ桜の姿が諦めきれず、周辺の神社も廻り切っていない事を口実に、4月6日再び金剛寺を訪れてきました途中通りかかった雲興寺の桜は満開を迎え、駐車場には多くの車が止められていましたやはり枝垂れ桜は葉桜かぁ金剛寺境内から眺める藤岡神社社叢、社頭脇のソメイヨシノは見頃を迎え、このタイミングでは金剛寺境内周辺の桜は既に終わりを迎えていました駐車場から築地塀越しに見る枝垂れ桜わかってはいたが薄紅色に染まった枝垂れた桜の姿は遅かった境内左から樹齢300年と云われるエドヒガン桜の全景既に散った花弁が境内を薄紅色に染めていた例年満開を迎える時期がいつ頃なのか、自分の記録がなく想像もつかないので致し方ない前回訪れてから1ヶ月を経て、それでも頑張って咲いている方だろう上の写真は3月7日に訪れた時の枝垂れ桜、本堂が見通すことができる状態で蕾も堅かったがさすがに一か月後は無理がある、タイヤがバーストした3月28日に寄ってみるべきだったか金剛寺のエドヒガン桜こちらは五条川のソメイヨシノ華やかなソメイヨシノの花とエドヒガン桜を比較すると、エドヒガン桜は枝垂れた枝全体に小さな細い花弁を付け、その繊細さが女性的な美しさを感じさせます前回は閉じていた本堂の引き戸がこの日は開けられ堂内を見る事が出来た4月8日はお釈迦さまの誕生日花まつりまで桜の花が付いていればいいんだろうがねぇ来年こそは少し早く訪れ、猿投山を背景にして朝日に照らされた里山の枝垂れ桜と金剛寺を撮ってみたい金剛寺宗派 / 曹洞宗山号 / 菩提山開山 / 大永元年(1521)本尊 / 不明参拝日 / 2024/04/06所在地 / 豊田市北一色町川原278-3関連記事・金剛寺
2024.04.20
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前回掲載した折平町八柱神社を後にして、今回は北曽木町に鎮座する八柱神社を掲載します折平町から県道353号線を北上し、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停を過ぎた左側の高みに北曽木町の八柱神社は鎮座します折平町の北に隣接する北曽木地区のほぼ中央の折平山東麗に位置し、農地を取り囲む様に集落が点在しています集落と農地を見守るような高台に北曽木 八柱神社は社頭を構えています南東向きに社頭は、左の社務所脇から石段が上に続き、右手に常夜灯が立てられています社頭前の道路は幅員の狭い生活道路なので路上駐車は出来ません社頭前に火の見櫓が立っており、その脇に小型車2台ほどの駐車余地がありそちらに駐車させてもらいました石段右に社標と由緒が立てられており、由緒の内容は以下「十五等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市北曽木町片平232番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命由緒 創建は明らかではない社蔵の棟札に奉修理 八王子遷宮 武田金右エ門経定享保18年丑年(1733)11月吉日とある北曽木の氏神として村民の崇敬あつい明治5年(1872)10月村社に列格境内社の創建津島社は安政4年(1857)太神宮は慶応4年(1868)9月山神社は文政2年(1819)2月例祭日 10月第一土曜日社殿 本殿 流造、0.25坪 覆殿 2.25坪 幣殿 2.25坪 拝殿 12.5坪 社務所 12坪 参集所 8.75坪境内坪数 174坪 藤岡観光協会 」と記されている以前も書きましたが、この辺りの神社は概ねこうした由緒が整備され初めて訪れた者にはとてもありがたい西加茂郡誌に目を通しましたが、上の内容以上の記述は見られなかった社頭左の社務所・参集所をはじめとし、近年再建され綺麗な社殿に生まれ変わっています鳥居全景昭和2年(1927)寄進の明神鳥居昭和2年寄進の明神鳥居ここから緩やかな石段が境内に続いています鳥居扁額は「八柱神社」この辺りは各地区ごとに八柱神社が祀られているのか実に多い、これを全て廻るのも面白い石段の左の石の社文字が刻まれていましたが読み取れなかった社頭を振り返る正面に見えている道路が県道なので火の見櫓と鳥居が目印になるかな境内の全景折平町の八柱神社を思わせるような高い石垣と白壁が眩しい社殿社殿両脇には境内社が祀られているこの光景も折平町の八柱神社を思わせる拝所全景再建が何年前か定かではないが、今でも木の香りが漂ってくるようだ掲げられている額も新調されたものだろう斜めから見る社殿全景長い庇の下が拝所で社殿そのものが鞘殿・幣殿を兼ねたモダンな外観内部には流造の本殿が祀られており、脇障子の前にはここまで見かけなかった狛犬の姿がある小型の陶製狛犬で頭には角も生えているようだ鞘殿左の境内社左が秋葉神社、右が安政4年(1857)創建の津島社鞘殿右の境内社左の覆屋には左が文政2年(1819)創建の山神社、右が天照皇大神宮とあるが慶応4年(1868)創建の太神宮と思われます右は稲荷社こちらは近隣から遷座されたものか、創建などは不明拝所から眺めた境内境内は社殿を除いても広い面積があり、特に右手方向が広く、農村舞台でも建っていたのではと勘繰りたくなる脱線しますが先日、迫町下切町の立派な農村舞台が残る磯崎神社を訪れ、地元の方から農村舞台についてお話を伺う機会があったその中で「農村歌舞伎を継ぐ後継者がなく、立派な舞台が建つ広い敷地では10月に棒の手と火縄銃の空打ちが行われ、歌舞伎は途絶えてしまった」と伺った今でもしっかりした木材で造られた舞台も維持に手が回らず、役割を終えやがて朽ち果て姿を消す事になる八柱神社の境内の広さはそうした名残なのかと思いたくなる受け継がれてきたものが途絶えると云うのは寂しい限り、しかしそれも時代の流れなんだろうねぇ境内東側からモダンな社殿の眺め境内右から樹々に包まれた白いモダンな社殿の眺め、別荘的な雰囲気が漂う社殿の外観ですこの道は社頭まで続いていますが、恐らく祭礼時の資材搬入用で農道のフェラーリ専用道参拝目的で乗り入れるのはやめた方が無難だろうこのまま社頭まで下りていく社頭から北曽木町の眺め常夜灯は明治22年(1889)の先人達が寄進したもの今回、猿投神社が鎮座する猿投山の東麗を走り飯盛山のカタクリを目指しました道すがらの集落には古くから護られてきた農村舞台や社寺などあり、興味深い土地柄でした北曽木 八柱神社創建 / 享保18年(1733)八王子遷宮の棟札祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 秋葉神社、津島神社、天照皇大神宮、山神社、稲荷社所在地 / 豊田市北曽木町片平232氏子地域 / 北曽木町例祭日 / 10月第1土曜日八柱神社(折平町)から八柱神社(北曽木町)まで車アクセス / 県道353号線北上直進、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停の先を左折 車移動時間約5分・1.5㌔参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社(折平町)・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.19
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前回掲載した上渡合町に鎮座する八柱神社から、車で県道33号線を北上、折平町地内で県道353号線へ右手の田んぼの中のこんもりとした杜が今回の目的地折平町の八柱神社になります移動時間は5分もかからないでしょう県道33号線から県道353号線に入りそこから東方向の上渡合の八柱神社方向を眺める飯野川沿いに開けた傾斜地に田んぼが広がり、ここから西側は折平山が迫っている八柱神社(折平町)の社地全景を東から眺める農地の中心に神社が鎮座し、古くからの集落は山側に集まっている社頭は南東向きに鳥居を構え、社殿はお椀を伏せた様な杜に包まれています杜は数本の杉の巨木と広葉樹で形作られ、桜の樹も見られます社地の盛り上がり具合は古墳をイメージさせるものがあります社頭の眺め一対の常夜灯と右にある村社八柱神社の社号標は大正9年(1920)寄進されたものでした石の明神鳥居から境内に入ると左に舞台らしき建物があり、社殿は城壁を思わせる高い石垣の上に建てられています社頭右にこの辺りではお馴染みの由緒書きが立てられています「十ニ等級 八柱神社 旧指定村社鎮座地 豊田市折平町姓敷329番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 元亀年中(1570-1573)の勧請には安政5午年(1858)、棟札に創建は貞享3丙寅年(1886)と記されている 古来は若宮八王子社と称した 明治5年(1872)9月村社に列する 昭和15年(1940)7月7日、社殿改修、社務所新築 同16年10月6日指定社となる 境内社の山神社は天福元巳年(1233)2月7日、琴平社は天保10巳亥年(1839)3月10日と棟札に記されている」西加茂郡誌に目を通す、折平八柱神社の記載はあったが祭神以外は記されていなかった鳥居の寄進年も大正9年(1920)寄進されたもの鳥居額は八柱神社社殿正面全景見上げるばかりの石垣と社殿に続く石段、上り口に一対の狛犬と手水鉢が置かれています手水鉢には配管から手水が注がれるようですが生憎と注がれていなかった石段前の狛犬は標準的なもの(年代未確認)入口から見上げる神門と拝殿神門と拝殿に架けられている額はどちらも八柱神社とあり、劣化もないことから近年改修を受けたのかもしれない社殿全景切妻妻入りで向拝を持つ拝殿と切妻平入の鞘殿がひとつに繋がったもので、鞘殿には千木と鰹木が付く拝殿の鬼には八柱の社名が入る大きな拝殿額拝殿や鞘殿は虚飾を廃したシンブルな外観ですガラス越しに見た本殿、造までは分からなかった祭神は天照大神と須佐之男命の誓約により生まれた五男三女神です鞘殿左の境内社由緒にあった琴平社や山神社はここに祀られている左から津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社の七社相殿琴平社はともかく、山神社が二社祀られてる、どちらが由緒にあるものだろうか相殿の左に一社だけ離れて祀られている石の社文字が刻まれているのだが全く読めない、これが由緒にある天福元巳年(1233)の山神社だろうかもともとこれらは神社合祀令にともない、集落に点在していたものが八柱神社に纏められたものと思われます神門から見下ろす境内右手の建物の用途が良く分からなかった農村舞台が多いこの辺り、これも農村舞台?と思いたくなるまるで城壁ここから西側の県道を越えた、折平山の東麓から続く尾根の高みには戦国時代に築かれた折平城址があるというその一帯の地名が折平町中屋敷、地名から嘗てこの辺りを収めていた豪族の居館があったことが偲ばれる三河志の折平城の項目には城主不明の記述だけで、築城年・築城主は不明社地西側に集会所のある広場と隣接しており、社地の斜面に殉国の碑が立てられています殉国の碑の先でどっしり聳える樹齢200年を越えるツブラジイの巨木太い幹は途中から二つに分かれ、そこから更に大きく枝を広げている樹高は目測15㍍以上あり、幹回りは約3.6㍍と見事な樹で、豊田市の名木に指定されている八柱神社創建 / 貞享3年(1886) 棟札の記録祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社、不明社所在地 / 豊田市折平町姓敷329氏子地域 / 豊田市折平町例祭日 / 10月第4日曜日上渡合八柱神社から折平八柱神社まで車アクセス / 県道33号線北上し県道353号線に入り右側5分以内参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.18
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前回掲載した金剛寺や藤岡神社の鎮座する北一色地区から、車で北東に5分程の上渡合地区に鎮座する八柱神社を取り上げます鎮座地は県道33号線と県道352号線の分岐となる上渡合町大畑交差点から50㍍程南下した、飯野川左岸の標高232㍍程の山の中腹に鎮座していますこの地域は江戸時代には「加茂郡渡り合村」、天保期には「加茂郡渡合村」と呼ばれていた地域後に加茂郡は西加茂郡と東加茂郡に分けられた際、上渡合村は加茂郡から西加茂郡に編入され、豊田市編入により現在の豊田市上渡合町に至るようです上は県道33号線沿いから東方向の飯野川左岸の鎮座地で、社殿はこの山の高みに鎮座します飯野川右岸に社頭を構え、赤い橋を渡るとその先から急な石段が続きます社頭には一対の常夜灯とその先の右に社号標はありますが鳥居はありません常夜灯は大正13年(1924)7月寄進のもの常夜灯の少し先の左側に石柱が1本立っています上を見れば楔が打ち込まれ、貫の木鼻だけが残る明神鳥居の柱のようです右側の社号標は社名は八柱神社、大正9年に建てられたものその先に途中からポッキリ折れた柱と周辺には折れてしまった島木や笠木、貫が纏められていました何が起因してこうなったのか分かりませんが、柱の断面が綺麗な状態なので最近の出来事のようです橋を渡ると目の前に乱積された岩で作られた急な石段が上に向かって続き、その険しさに石段の前で立ち止まる手摺はないのでポケットに手なんか入れて登ろうものならただでは済まない石段の前の一対の狛犬は「ご安全に!」と呼び掛けているようだ右手に解説板と左手に石碑が建てられています石段付近の全景こうしてみれば石段の傾斜も分かりやすいのでは石段の上り口を守護する狛犬阿形は毬、吽形は…子持ちだろうか寄進年は未確認の狛犬の台座には井筒紋、下は橘の紋が刻まれている左側には辨財天が祀られていました由緒書きの内容は以下「十四等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市上渡合町井ノ脇105番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 創建は明らかではありませんが、社蔵の棟札に奉建立 若宮一宇 貞享三丙寅年(1686)3月15日とあり、再建とも考えられている往古は若宮八王子社と称し産土神として崇敬されている明治6年村社に列し、同12年八柱神社に改称例祭日 10月社殿 本殿折屋造り 0.3坪 幣殿 3.4坪 拝殿 4.5坪 社務所 5坪境内坪数 675坪」とありました余談になりますがこの辺りの比較的狭い範囲の集落には八柱神社が点在しています山間で古くから人が住む小さな集落が点在しているのは分かりますが、理由は分からないが八王子を祀る神社が多いことに気付くはずです、藤岡神社も大正以前は八柱神社でした講釈ばかりで、これ登らなきゃ話は進まない足元を確かめながら一段〃行ってみようか角が取れた石が多いので踏み外しに要注意この社叢には桧が多いようですね夜間も参道脇の街路灯が足元を照らしてくれて…というか夜ここを登るのは勇気がいるだろう拝殿が見えてきた長い距離の石段ではないものの、傾斜があって手摺がない不規則な石段は気が抜けない無事に到着目の前の建物は拝殿でいいと思います拝殿から本殿の覆殿の眺め切妻瓦葺の四方吹き抜けの平入の建物で、覆殿と祭文殿も兼ね備えた建物になっています本殿域の玉垣は昭和3年手前の常夜灯の竿には明治の元号と、更に社名も刻まれていますが、八柱でも八王子とも読み取れない社名が刻まれているようです覆殿前から社殿の眺め正面が八柱を祀る本殿と左右の覆屋の中に其々2社が祀られていますが、社名札は掛けられていない様でした本殿は板宮造りの一間の向拝と階段が付くもので解説には折屋造りとある右の二社、社名は不明左の二社、こちらも社名札がパッと目見当たらなかったこうして写真を纏めている際中に覆屋の棟の先に社名の書かれた木札がある事に気付くその目線で他の写真を見返して見るが木札はこの一枚だけのようです拡大しても何が書かれているのか読み取れなかった恐らく全ての社はこうした位置に社名札が掛けられていたのかもしれませんこれを書いている段階で由緒書きの内容に満足してしまったため、地史まで調べなかったが、ひょとすると境内社が記されているかもしれません今の時点では不明社として、何か分かれば追記する事にします参拝を終え覆殿右手から全体を眺める境内はここから右に下りの参道があるようです 下から見た際にこの参道口は見当たらなかったが、あの石段を上らずに境内に通じているようです参道左側の斜面に手水鉢が置かれ、清水は絶え間なく注がれているようです鉢には寄進年が見当たらなかったが、注がれる水は配管で上の方から引かれているようです鉢の脇から上に続く道があり配管を追いかけて見ました少し先の山肌に小さな湧き水が溜まる場所があり、配管の先はここに繋がっていました周辺はシダが生い茂っており、木漏れ日に透かされて鮮やかな緑を魅せていますさて、ここからどの参道から下に降りるか下りの石段は怖いけれど、ここは確実に戻れるこの道を戻る事にしよう真っすぐ下向きに降りるのは避けたい、上り以上に要注意だ飯野川の流れも春めいて見える八柱神社創建 / 貞享3年(1686)再建祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 辨財天、他不明社4社所在地 / 豊田市上渡合町井ノ脇105氏子地域 / 豊田市上渡合町例祭日 / 10月第2日曜日藤岡神社から八柱神社まで車アクセス / 県道350号線を南下北一色町内で左折し県道33号線を北上5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.17
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前回は北一色町川原地内に鎮座する金剛寺を紹介しました今回は同じく北一色町山洞地区に鎮座する藤岡神社を掲載します鎮座地までは車で移動する必要もなく金剛寺の前を横切る県道350号線を東に越えて、田んぼの中の農道を歩いて行けば社頭に至ります県道から東を見ると鳥居の姿も見えるはずですあの鳥居まで徒歩5分もあれば辿り着ける距離にあります社殿は鳥居の先に見えている緑豊かな杜の中腹に鎮座します杜の手前に靖国鳥居が建てられ、鳥居をくぐり飯野川に架かる神橋を進むと藤岡神社の社地になります社頭から境内の眺め鳥居右には「村社藤岡神社」社号標が立てられています現在の藤岡神社は、かつて別の名前で呼ばれていた可能性があります寄進年を確認するために社号標の表と裏を見る上の写真は大正時代に寄進された社号標の「藤岡神社」と刻まれた表側下の写真は社号標の裏側で社名は「八柱神社」と刻まれ社名が異なっています新橋を渡ると杜の中に石段が現れ、その先に拝殿らしき姿が見えてきます石段の左手に解説板らしき姿が見えます解説板の内容は以下「九等級 藤岡神社 旧指定村社鎮座地 藤岡町大字北一色字山洞40番地祭神 天照大神と素戔嗚尊が天の誓約を為した時に生じた八柱の神 即ち、日本書紀に拠れば、正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、 天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命(以上天照大神の御子) 田心姫、湍津姫命、市杵島姫命(以上素戔嗚尊の御子)の八柱を祀る由緒 明徳4年(1393)、猿投「東の宮」の摂社「御子の宮」をこの地に遷す 「東の宮」の神主 武田恒家供奉して「八王子の宮」と称し、猿投山東方の総鎮守「小猿投」とも呼ばれた 明治五年八柱神社と改め村社となる 明治45年(1907)指定社となる 大正12年(1923)藤岡神社と改称 昭和63年(1988)に神撰所、平成12年(2000)に社務所新築社殿 藤岡地区最古の神社本殿は二間社・流造・檜皮葺で希少性を誇っている社殿等面積 64.77坪、境内坪数 1306坪例大祭 毎年10月神賑行事 飾献馬、棒の手演武、火縄銃奉納射撃、巫女舞氏子数 208戸」とあるなるほど、社号標の社名の違いが腑に落ちたそれにしてもこの辺りの神社にはこうして詳細に書かれた由緒が多く、モヤモヤを晴らすのに調べる必要がなく個人的にありがたいスッキリした所でこの石段を上る事にします石段脇の常夜灯の寄進年は大正10年(1921)石段を上り詰めると蕃塀のように拝殿が迫り、その先に社殿が見えています拝殿右から境内に回り込むと棒の手顕彰碑が建てられています碑文から一部抜粋した内容・一色の棒の手は織田家臣の本田游無が創始した流派「見当流」・天文年間中根城築城時に地元民に祝意を表すために棒術を披露し、地元に広めた・「見当流」は名古屋市内を中心に広まり、熱田神宮へも奉納、品野をはじめ尾張三河にも広まっていった・豊田市八草・猿投町・足助町・藤岡町一帯で「見当流」が栄えている・北一色の棒の手は明治4年生田芳蔵他3名にはじまり、氏神様の藤岡神社の大祭では献馬と共に奉納されている顕彰碑から社殿の眺め拝殿正面から見通した境内は広さを感じなかったが、こうして見るとかなり広い境内を持つ神社です社殿は左に社務所、正面の一段高く積まれた本殿域に神門・四方殿・祭文殿・本殿と連なり、社殿右の斜面には境内社が祀られています境内左の手水鉢、本殿後方の裏山から湧き出る御神水が注がれている境内左から拝殿から顕彰碑方向の眺め拝殿と書いてはみたものの、この佇まいから岩倉神社の農村舞台にも似ている拝殿内にも由緒が掛けられていますが、内容は石段脇のものと同じ内容のものでした拝殿の築年代は分かりませんが、小屋組みは一本物の無垢材がふんだんに使われています境内から神門・四方殿の眺め神門前の狛犬(寄進年未確認)格子戸が閉ざされた神門の前で参拝となります神門の前に建てられた四方殿の全体は見通せませんが、神楽殿や拝殿のような建物に見えます境内右の境内社手前の六社は左から金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社が祀られていますその後方の斜面には朱の社と石の社、石標が幾つか立てられています上は殉国之碑、下は覚明霊神更に斜面を登ると上の写真の大己貴大神、少彦名大神と、石の祠がある下は社名札がなく分からないが、この辺りは御嶽講の神域なんだろうここまで登ると本殿域を望めます左が神門の先に建っているのが四方殿で、その先が祭文殿・本殿何れも新しいもので近年補修されているようです四方殿は入母屋瓦葺の四方吹き抜けで、床板や縁板、屋根を支える柱と梁にも真新しい肘木が付けられています藤岡神社の四方殿・祭文殿・本殿は令和4年(2022)に大改修が行われたようですその際に棟札が見つかり、寛文11年(1671)頃の熱田の大工で猿投神社の社殿も手掛けた藤原朝臣中尾勘右衛門が、当神社の四方殿・本殿を建てたと記されていますまた、祭文殿(赤い屋根)から明治43年(1910)の棟札など見つかったようです豊田市内に鎮座する神社本殿としては、室町時代中期の足助八幡宮本殿を除くと、寛文6年(1666)の熊野神社本殿(月原町)、元禄15年(1702)の川原宮謁磐神社本殿(御蔵町)に次ぐ古いものとなるようです本殿は中央に柱のある二間社流造で、令和4年の修復時に檜皮葺から銅葺屋根に変えられたようです詳細は見えませんが脇障子が付くようで、その前に白い狐の姿が見られます山間の神社にありながら、八王子を祀るに相応しい立派な本殿です接続する祭文殿は四方吹き抜けで入口側に格子戸が付いているようですここから拝殿と境内の眺め鬱蒼とした杜に包まれていながら、陽射しが降り注ぐ明るい境内ですそれにしても拝殿の趣は農村舞台のように見えてなりません調べて見ると豊田市には約31カ所の農村舞台が現存するようですしかしその中に当神社の名は見られない事から、やはり農村舞台ではないようです参拝を済ませ石段の降り口から鳥居方向を見下ろす鳥居の先には田んぼが広がり、前方に金剛寺も良く見える藤岡神社創建 / 明徳4年(1393)祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社等所在地 / 豊田市北一色町山洞40金剛寺から徒歩アクセス / 県道350号線を越え田圃の農道を北上徒歩5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.14
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豊田市北一色町向谷下の春埜山神社から、県道350号線を2分程北上した北一色町川原地区山間に田圃が広がる長閑な田舎の風景が広がります今回は町内を南北に続く県道脇の高台に鎮座する菩提山金剛寺を掲載します写真は県道東側の田圃から金剛寺と後方の猿投山を望む小高い丘に鎮座する金剛寺、こうしてみると戦国時代の平山城か館の様な趣です斜面には多くの樹々が植えられ、その多くが桜のようです3月7日に訪れた時点では彩りはありませんでしたが、今頃はピンク一色に染まっているのではないでしょうか県道から金剛寺門前を眺めるウグイスのさえずりを聞きながら参道に向かう菩提山金剛寺寺号標石段の先にはフラットな参道が本堂へと続きます境内の桜は枝垂れ桜が多いようです左手の森の斜面に祠を見付けたのでそちらに向かって見ます杜の斜面に作られた石祠祠の両脇と天井は一枚岩、後方は小振りの石が積まれた壁になっていてまるで横穴式の古墳のようにもみえてくる祠の中には一体の石像が安置されていました岩座に座り左手に巻物を持つこの姿は役行者なんだろうか金剛寺伽藍石垣が積まれその上に築地塀が築かれ境内を囲む境内左に金剛寺を象徴する見事な枝振りの枝垂れ桜が聳えていますこの桜が満開を迎えた時、金剛寺はさぞかし艶やかな姿になるのだろう菩薩山金剛寺について大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌を調べたところ以下内容でした「菩薩山 金剛寺 創建大永元年(1521) 境内反別四反三畝二七歩」曹洞宗の寺院で本尊は分かりませんが釈迦牟尼仏だと思われますまたWIKIには天保期(1831-1845)から明治初期まで、金剛寺において寺子屋が開かれていたとも伝わるようで、享保19年(1734)に雲興寺の霊源陽沢和尚により開山とも云われ、雲興寺の末寺でもあるようです境内のシダレザクラ霊源陽沢和尚手植えによるものとされる樹齢300年の枝垂れ桜です太い幹の大きなコブから伸びる枝は支柱なしでは姿を保てないほど四方に広がっています満開の桜、一度見たいものです例年は3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えるそうです、まだ間に合うかなぁ豊田市指定文化財(天然記念物)昭和49年2月に指定された樹高は10㍍のエドヒガン桜の一種という本堂伽藍は寄棟瓦葺の平入で右手の庫裏と繋がり、左に毘沙門天、本堂左の薬師堂が主な伽藍本堂の金剛寺の額地蔵堂と毘沙門天堂、奥に見えているのが薬師堂になります左から聖観世音菩薩、如意輪観音、庚申塔、当山鎮守毘沙門天薬師堂西加茂新四国八十八ケ所霊場の七十番札所になるようです本堂の鬼には丸に立葵の紋が入っています参道左側の車道から眺める金剛寺この道の先は参拝者駐車場に至ります満開のソメイヨシノが連なる光景は綺麗ですこうした山間の一本の桜が魅せる美しさも引けをとらないものがあるカタクリの開花に合わせて訪れたので桜はまだまだでしたが、来年はこの桜の開花に合わせて訪れてみよう金剛寺宗派 / 曹洞宗山号 / 菩提山開山 / 大永元年(1521)本尊 / 不明参拝日 / 2024/03/07所在地 / 豊田市北一色町川原278-3春埜山神社から金剛寺、車アクセス / 県道350号線を北上約2分関連記事 / ・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.13
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春埜山(はるのさん)神社鎮座地は、猿投山の東麗の矢作川支流飯野川の右岸の山間に伸びる県道350号線沿いに位置します江戸時代には三河吉田藩の藩領で加茂郡一色村と呼ばれ、明治には北一色村に改称その後、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割された際、当地は西加茂郡に編入されますその後も西加茂郡藤河村、藤岡村を経て現在の豊田市北一色町向谷下(むこうやげ)となります個人的に豊田市へ編入以降、矢作川周辺の住所だけ聞いても場所のイメージがつかなくなってしまったしかし住所は変われど長閑な環境やランドマークは今も変わらない神社は県道から西側に少し奥に入った先に社頭を構えています車で走っていると気付かずに通り過ぎるかもしれない社頭への幅員は狭く、社標右手の駐車場に入るには普通車だと厄介かもしれませんエンジンを切ると、春めき始めた木立からウグイスの声が聞こえてきます今年初めて聞いたウグイスのさえずりはここ春埜山(はるのさん)神社だった社頭全景右手に社標、神明鳥居の先に拝殿とこぢんまりとした神社です春埜山(はるのさん)神社社標は昭和60年(1985)健之のもの右奥に見えているのが参拝者駐車場春埜山(はるのさん)神社境内に由緒は見られず、情報として書くべきものが見当たりませんなので写真をもとに境内の紹介だけになります境内から鳥居の眺め鳥居の寄進年不明、拝殿右に一つの石仏が安置されていました青面金剛だろうか製作年代は未確認ですが、昨日今日寄進されたものではないようです切妻造の木造平入拝殿左側の社務所兼住居と思われる建物と廊下で繋がっているようです拝殿額「春埜山神社」春埜山と聞くと静岡県の秋葉神社下社から東に小一時間ほど走り、天竜川左岸の山深い場所に鎮座する神仏習合の名残をとどめた大光寺を思い出しますその昔、山道を求め四駆で訪れたことがあり、興味深い寺だった事を記憶しています行基が開いた古刹で、春埜山は秋葉山、光明山と並び、遠州三山と称され、大光寺のある春埜山と秋葉神社本宮のある秋葉山は対をなすものと云う今ほど気軽に写真に残せる環境でもなかったので、改めて訪れて見たい所です果してこの神社が春埜山大光寺と関りがあるのか根拠はなく、まったくの個人の妄想でしかない拝殿から本殿域の眺め祭神は分かりませんがこちらで参拝させて頂きます拝殿右側から本殿域を眺める本殿は5本の鰹木、内削ぎの千木がつく神明造で、本殿の両脇に摂社が祀られています本殿域右手に小さな池があり、本殿域周辺は石が組まれ、庭園の様に手入れされていました神社についてなにも分かりませんが、昭和中期から後期の航空写真を見る限り、神社の姿は見られません現在の社殿が建てられたのは、社標に刻まれていた昭和60年(1985)くらいのことかもしれません春埜山(はるのさん)神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市北一色町向谷下851-3参拝日 / 2024/03/07香嵐渓臨時駐車場から春埜山神社まで車アクセス / 香嵐渓臨時駐車場から西へ力石交差点で右折、県道350号線を北上約25分関連記事・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.12
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神宮山十王寺から国道420号線の足助八幡宮前信号を足助大橋方向へ橋の手前に巴川左岸沿いに続く道があるので足助警察署方向に進みます名古屋方向からだと足助大橋を渡ってすぐ右折です今回掲載する「石清水八幡神社」は国道240号線南側の足助町宮平地区に鎮座します因みにグーグルマップの石清水八幡神社の位置・所在地情報は間違っています石清水八幡神社社頭全景参拝者駐車場はなく、警察署も近いので路駐は避けるが得策社地右側に宮町駐車場の立駐があるのでここに駐車して歩くのが賢明でしょう神社は三叉路交差点付近に西向きに社頭を構えています社地は杉の杜に包まれているのでこの時期は厄介か脱線します還暦を過ぎて人並みに花粉症になったみたい相手の正体は分からないがどうかするとおかしくなる長く続いたマスク生活で柄にもなくデリートな体質になったんだろうか宮町駐車場と側道の間の三角形の社地に玉垣で囲った境内を持つ石清水八幡神社鳥居や狛犬といったものはなく、一基の石灯籠と本殿、左側に石の祠が祀られ、社標は少し離れた西側に建てられています苔生した境内全景本殿は一間社流造で社名札もしっかりと架けられています神社の創建・由緒・祭神について神社庁、地史どちらも情報は得られなかった足助八幡宮も近い事もあり、境外社なんだろうかと妄想を膨らせたくなる八幡神社と付くのだから祭神は恐らく……応神天皇石清水八幡神社となると県内に石清水八幡神社は少なく、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡神社宮から勧請されたものなんだろう境内右の石灯籠玉垣、燈籠・社標などの寄進物は昭和のもので創建時期は意外と新しいのかも本殿左奥の杉の根元に祀られている石の祠文字が刻まれていますが読み取れず巴川側道の社標の背面には昭和10年(1935)と刻まれている足助トンネルができる以前、渋滞する国道を避けるため巴川沿いのこの道を利用したものですかつてはこの側道沿いに大きな入浴施設(足助温泉だったナ)があり、スキーやキャンプの帰りに時間調整も出来ました今はそんな時一休みしていく施設がないのが少し残念です石清水八幡神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市足助町宮平56-1参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.11
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4/7週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、予報は外れ暑いくらいの好天となったならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔日本らしい春の光景が広がっていましたここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れますこの北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年に茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭鳥居から本殿の眺め財力を示すかのような個人所有の神社鞘殿全景豊彦稲荷社由緒「祭神 宇迦御魂神御神体 白狐祭日 初午祭(4月上旬)由緒京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されましたそれを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています御神徳五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所)信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうかまた、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め豊彦稲荷社創建 / 寛延2年(1749)祭神 / 白狐白雲橋と三賞亭(有形文化財)稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません天井に描かれている女性の横顔携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます白雲橋と豊彦稲荷社庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません揚輝荘北園訪問日 / 2024/04/07所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から北へ10分以内それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか関連記事 ・泉龍山桃厳寺・城山八幡宮
2024.04.08
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紅葉の時期に足助町を通りかかると道路は渋滞グリーロード入口の力石ICまでの道程の長いことついつい足助町内を避けてしまいがちです、宿場町城下町でもある足助には、宿場の名残を留めた町並みや古くからの寺社など見所は多いまた紅葉やカタクリ、清流巴川が町内を流れ自然豊かな町でもあり、そうした中を歩く東海自然歩道も整備されています今回掲載する十王寺は、先に掲載した足助八幡宮の両部鳥居の向かいに鎮座しています神宮山十王寺は愛知県豊田市足助町に鎮座する真宗大谷派の寺院寺標の側面に「寛永8年石平道人正三和尚開基」とある本堂は木造切妻瓦葺の平入で一間の向拝を持ったこぢんまりとした佇まい国道沿いに境内入口はありますが、周囲が有料駐車場ばかりのなか、参拝駐車して良いものか定かではありません因みに自分はずっと下流の無料駐車場から散策がてら歩いて訪れました境内左の十王寺解説は以下のようなものでした十王寺は寛永年間(1624~1645)、鈴木正三和尚により創建された正三和尚は、天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として大坂夏の陣に戦功をあげた武将42歳の時、家督を弟に譲り自らは出家風飡無宿の禅僧となり宗教自由人として庶民に仏教の裾野を広げるため、仮名草子本(二人比丘尼、因菓物語)を書き、近世文学の基となったことでも評価の高い人物である本堂に安置される木造阿弥陀如来立像(室町時代前半から中頃の制作)は別名「またたき如来」と呼ばれ、土地には伝説も伝わるまた、足助八幡宮境内にあった神宮寺の本尊、木造薬師如来座像は高さ90㌢と小さいが鎌倉期の優れた作品とされ、他に江戸時代初期のものとされる木造十王像を所蔵し何れも文化財の指定を受けている因みに「またたき如来」の伝説とは以下のようなものらしい「その昔、不届き者により如来像が盗難にあったある晩信者の夢枕に如来像が現れ、「京都にいるから迎えに来てくれ、来てくれたらまたたいて合図する」とのお告げがあったそうです信者が京都に迎えに行ったところ、如来像がまたたいて合図され無事に足助にもどった」と云うもの当日は本堂の扉が閉じられ、人の気配もなく「またたき如来」の姿は見られなかった運が良ければ拝むことができるのかも境内左には解説板、右には古い石塔や石仏が並び小さな社が祀られています遠目から霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社かなと思っていました、しかし山丸三の紋も見当たらずどうやら御嶽神社ではなさそうですどの石塔も年月が経っているようで、確認できたもので「三界万霊」と刻まれた塔に寛文2年(1662)の元号が見られました先の解説から創建が寛永年間(1624~1645)とあるので、創建後ほどなく造られた「三界万霊塔」です煩悩にまみれ、戦に明け暮れた戦国の武将から、風飡無宿の僧となった鈴木正三和尚彼は欲界・色界・無色界の有情無情の精霊を供養するために、三界万霊塔を建てたものかもしれません神宮山 十王寺宗派 / 真宗大谷派本尊 / 木造阿弥陀如来立像創建 / 寛永8年開基 / 石平道人正三和尚所在地 / 豊田市足助町宮平41参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.07
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4月4日週末の天気を見据え少し早めに岩倉桜まつり(3月29日~4月7日)が行われている五条川を訪れてきました岩倉駅から徒歩5分程の豊国橋から長瀬橋の間桜を見て廻るコロナ以前は五条川沿いに屋台が軒を連ね、漫ろ歩きもままならない状況でしたが5年振りとなる今年は、お祭り広場や東町休憩所・八剱憩いの広場等に屋台が集められた事から、五条川沿いは歩きやすくなっていました豊国橋から五条川上流の眺め満開時は枝垂れた桜が五条川の上をピンク一色に染めますが、まだ七分咲きくらいでしょうか今は堤沿いの菜の花が鮮やかな時期を迎えています当日はのんぼり洗いも行われていました陽当たりの良い所で7分咲きくらいでしょうかまだ〃満開には少し早い様です大寒のころや岩倉桜まつり期間中、豊国橋袂の川面では鯉のぼりや神社幟などの糊落としを行う「のんぼり洗い」の光景も見られます桜まつり期間中はライトアップも実施されていますこの土日、雨さえ降らなければ花見しがてら食べ歩くにはいいですね桜のピークは恐らく桜まつりが終わった後ではないでしょうか土日は車両の交通規制もあり、公共交通機関で訪れるのがお勧めですまた岩倉から二駅先の「布袋」駅で降車し、東に向かった堀尾趾公園の五条川の桜と裁断橋も風情があってお勧めです五条川桜まつり期間 / 3月29日~4月7日イベント内容 / 岩倉市令和6年岩倉桜まつり名鉄名古屋駅から名鉄犬山線乗車岩倉駅下車 / 豊国橋へは北東へ徒歩5分訪問日 / 2024/04/04関連記事 / 裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.04.06
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前回掲載した足助神社に続く今回は、西隣に鎮座する「足助八幡宮」を取り上げます写真は国道420号線から東方向の足助八幡宮と足助神社の杜の眺め足助八幡宮社頭全景国道沿いに社頭を構え、木造両部鳥居のすぐ先に蕃塀と社殿がある社頭右に「足助八幡宮」の社標と鳥居の前に個性的なフォルムの狛犬が見えますその狛犬台座に梅丸講と刻まれた狛犬寄進年代は見ていませんが、素朴で愛嬌のある顔つきで、頭の上には丸みのある宝珠に近い角を持っています鳥居の額は「八幡宮」三つ巴が社紋と見えます鳥居をくぐった左のこの建物は神仏習合時の名残「八幡宮の鐘楼」解説は以下「この足助八幡宮は、明治初年まで境内に神宮寺があったこの鐘楼は神宮寺のあった名残りである明治維新の神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている豊田市教育委員会」とある神仏分離により多くの社寺がこうした道を辿りましたしかし、今も鳥居のある寺や多宝塔のある神社など、神仏習合の形態を残すものが存在しますその分かれ道が何だったのか、時々考えることがあります足助八幡宮社殿全景手前が拝殿、奥が社務所、社務所で隠れていますがその奥には境内社があります境内社はこの他に拝殿右側にも祀られています控柱を備えた石の番塀平成14年(2002)愛子様誕生記念として寄進されたもの番塀横の境内社4本の鰹木と外削ぎの置き千木がのる一間社流造の社社名札がなく社名は不明左手の杉の巨木足助八幡宮のスギ樹齢500年とも云われ、樹高45.5㍍の巨木で市指定文化財(天然記念物)に指定されている境内にはこの他にもイチョウの巨木などが聳え、神社の歴史の長さを物語っている境内に入った左に手水舎と神馬像、境内社が祀られている御足宮「当宮に伝わる縁起には足腰の病や様々な霊験が記されている足助は信州への中継地として栄えた宿場町行き来する人々は、この先の険しい街道を前に旅の安全を祈願、また安全にここまでこれたことにたことに感謝を捧げた足・交通・健康など御神徳顕著な神社として崇敬されている」草鞋の上に足神の石標が立てられている手水鉢の龍と蛙足助八幡宮概説「天武天皇の白鳳2年(673)創建と伝える古い神社神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している<八幡神社本殿>文正元年(1466)十一月の再建で、桧皮葺三間社流造である妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいで珍しいとされるこの地方では規模も大きく、稀に見る神社である<扁額 鉄砲的打図板額>慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか現存しないものである」…ここでは祭神や境内社についての具体的な解説は省略されています拝殿正面全景切妻平入で平側の三間の向拝に唐破風が付く、拝殿と左の社務所、右の建物は渡廊で繋がっています唐破風の下に梵天と竹竿の先端に藁で作られた斧のようなものが飾られている呼称は分からないがこれも梵天なんだろうか拝殿脇に祭神、創建の概要が記された案内板がありその内容は以下「足助八幡宮御創建 天武天皇白鳳2年(673)御祭神 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱本殿 文正元年(1466)再建・重文」 とあった上拝殿前の石灯籠から社務所方向の眺め、燈籠の寄進年は読み取れなかった下拝殿軒下に金的を射抜いた多数の猛者の名が記された額が掛けられている拝殿右の境内社手間から津島社、御鍬社、稲荷社津島社から足助神社拝殿左方向を進むと足助八幡宮本殿側面を良く見渡せる場所がありますそこに下の解説が立てられています足助八幡宮本殿「足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳2年(673)と伝わる現在の本殿は文正元年(1466)11月に再建されたもの屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びる神社の建築様式)の本殿で、室町時代の特色をよく示している愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなもの」とある檜皮葺や茅葺の苔むした屋根は趣があって個人的に好きですが、こうして見るとそろそろ葺き替えの時期が迫っているような手水舎の脇にあった概説の「妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示し、向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異」と記されていたが、ここからその特徴を見る事は出来ません上拝殿全景下社務所から右の境内社全景左の入母屋妻入りで一間向拝が付くこの鞘殿は金毘羅社中の社は見通せなかったその右に祀られる三社左から流造の塩窯社、中央の6本の鰹木、内削ぎの千木が付く神明造の社が秋葉社その右の流造の社は天満宮、いずれも創建時期は不明境内南側に県指定文化財「足助の棒の手」の記念碑足助の棒の手は近岡町、富岡町の二つの地区が江戸時代、明治時代に継承された五反田地区の三つがあるようで、流派は其々違うようですが、いずれも10月の足助祭りで足助八幡宮に奉納されるようですこの祭りでは山車や火縄銃の空砲撃ちなど見られるようです足助八幡宮創建 / 白鳳2年(673)祭神 / 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱境内社 / 不明社、御足宮、津島社、御鍬社、稲荷社、金毘羅社、塩窯社、秋葉社、天満宮例祭 / 10月第2日曜氏子地域 / 足助町所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.05
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足助神社は香嵐渓で知られる足助町の巴川左岸沿いに鎮座しますこの区間は以前国道153号線と国道420号線の重複区間で、足助バイパス完成後は香嵐渓の入口とも云える足助大橋を渡ると国道420号線となります以前は混雑する区間でしたが、バイパスの完成によりスムーズに町内を通り抜けられるようになった写真は巴橋から西方向の眺めで、国道右に続く玉垣と社叢は足助神社、足助八幡宮の鎮座地になります一つの社地に足助神社、足助八幡宮が横並びに鎮座し、国道沿いにそれぞれの社頭を構えていますが、境内に入れば二社を隔てるものはありません右手は豊田市役所足助支所の有料車駐車場駐車場前の足助周辺観光マップ周辺には紅葉以外にも香積寺や足助宿の趣が残る町並みはじめ、飯盛城や足助城など複数の城跡が残る歴史の町紅葉やカタクリの群生が見られる飯盛山には、鎌倉末期の武将足助次郎重範の本城もあった(写真は2024/3/7のもので見頃となったのは3/24でした)国道から足助神社社頭の眺め右に足助神社社標があり正面の神明鳥居の先が足助神社社殿境内に入ってすぐ右側に雁塚と呼ばれる一つの石と石塚の由来が解説されています「牛吉さんが、置き忘れた弓で矢を放ったところ、的を外れて田圃にいた雁の雄を殺してしまったその翌日から田圃には雌の雁が訪れ、雄がいない悲しさから鳴き続けたという夜には殺された雁が枕元に現れるようになり、雁の呪いから逃れるため僧となり、庵を結んで雁の菩提を弔う日々を送った雁を射殺してから23年を経た9月23日、辞世の句「先だちし雁や浄土の道しるべ」残し急死したという奇しくもその日は牛吉さんが雁を射殺した日だったという」雁は一度つがいになると一生添い遂げ、一方が死んでも新たに相手を迎える事はないという足助神社境内全景石造神明鳥居と一対の狛犬、常夜灯があり、右側に手水舎があります足助神社の創建は新しく明治35年(1902)で祭神は足助次郎重範を祀る神社カタクリの群落や紅葉で知られる飯盛山には、足助七城のひとつ飯盛山城があった鎌倉時代、足助重秀が築城した城で尾張・三河・信濃を結ぶ交通の要衝に建てられた足助氏の本城で、七代足助重範の死後は足助氏の勢力は衰退し全国に散っていったという後に尾張・三河を目指した甲斐の信玄もこの道筋も選択肢に入っていただろう事実、この道を進んだ根羽村の少し先には信玄坂や信玄塚などが残る足助神社建立の発端は明治24年(1891)に明治天皇から正四位を贈られたことにあるようです明治26年(1893)に熱田神宮が神明造に建て替えられた際に摂社の一つを譲り受けた明治35年(1902)に東加茂郡の郡社として神社が創建された昭和8年(1933)に従三位を追贈され、顕彰運動も活発化し、縣社、別格官幣社に昇格させる計画もあったという昭和18年(1943)には新たな社殿の造営も行なわれたが、敗戦に伴い造営は中断し運動も立ち消え、元の場所に遷座したという鳥居の手前左で足助八幡宮と繋がっています拝殿を守護する狛犬猫足の台座には昭和9年(1934)の寄進年が刻まれていました境内は年輪を重ねた大杉や大楠が聳え、背後には巴川が流れています手水舎と懸命に働く龍の姿足助神社「元弘の変(元弘元年-1331)に後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将となった足助次郎重範公を祀っている重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀られるようになった 豊田市教育委員会」社殿全景切妻妻入り拝殿に翼殿が付いたもので翼殿から透塀が本殿を囲むもの棟の鬼の紋は遠目に桐や葵の様に見えるが三河蔦と思われます意匠を控え、白壁と木の色合いだけの落ち着きのあるシックな佇まい足助神社拝殿額拝殿から本殿域の眺め拝殿の先は屋根の付きの土間が本殿に続く、土間と云うより幣殿と呼んでもいいだろう本殿は神明造とされるが、棟持ち柱が見られないので後に建て替えられていそうです拝殿左側から忠臣足助氏の碑と本殿の眺め本殿は一間社流造のようで、外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載せられています大棟には三河蔦の紋が入れられています足助重範が鎮まる本殿全景拝殿同様装飾を控えた落ち着いた外観の本殿拝殿から社頭の眺め鳥居は大正4年(1915)寄進のもの足助神社創建 / 明治35年(1902)祭神 / 足助重範境内社 / 例祭 / 4月第2日曜氏子地域 / 所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.04
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3月7日香嵐渓にカタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載しますまず上の地図をご覧いただきます左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道の脇街道として尾張や三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されていますそれらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれていますこの路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない その終着駅がここ西中金駅香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです国道から見た駅舎全景現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました登録有形文化財名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップかつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありましたプラットホーム線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはないここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけますプラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め線路の上を西に進み参道に向かいます国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう境内全景右から手水舎、社殿、忠魂碑木造四つ脚切妻屋根の手水舎手水鉢の龍三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている拝殿正面全景一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの拝殿左から社殿全景拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある拝殿前の狛犬(近年未確認)拝殿妻壁の額は「岩倉神社」人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません拝殿から中門の眺め中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め祭文殿から本殿の眺め本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社、豊川稲荷一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます最上段の岩倉神社本殿一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです本殿左の忠魂碑社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われていますこの舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかりこの長い桁を1本の無垢材が支えているその中央に「農村舞台」の額この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです舞台内部長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスターこのあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです境内から社頭の国道の眺め結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れますまもなく終点西中金駅になります名鉄三河線旧西中金駅駅舎所在地 / 豊田市中金町前田岩倉神社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷、秋葉社、蚕霊社例祭 / 10月第2日曜日氏子地域 / 豊田市中金町所在地 / 豊田市中金町平古782岩倉神社農村舞台建立 / 文化5年(1808)所在地 / 岩倉神社境内参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事 / ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.01
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