「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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「無題」第22章~第26章
夏真っ盛りの良い日、女御は出産のために予定より早めの里帰りをした。東宮も、女御が心配で数日右大臣家にお世話になる。そして院の北の方の出産予定日が近づいているので、そちらの方も気になって宮中を出てきたという理由もある。いつ生まれてもいいように、前もって、皇后の古参女房の橘が、院のいる嵯峨野に行かせており、春宮坊の役人として働いている晃を院の元につかせている。そして皇后から出産準備の品が贈られた。内大臣は実家の邸で産むように勧めたが、どうしても院の側で生みたいと言い張ったようで、内大臣家からも北の方の母君と数人女房が行っている。ついでにお見舞いに行こうとしたが、この母君が大の苦手であり、ついつい行きそびれてしまっている。
数日が経った朝方、嵯峨野から早馬で晃が右大臣邸にやってきた。
「開門!私は春宮坊役人橘晃と申す!至急東宮にお伝えしたい件がある。」
そういうと、馬を下り、開いた門から東宮のいる対の屋に向かって走る。この騒ぎに東宮は目を覚まし、上着を羽織って待つ。すると庭に晃が走ってやってくる。
「東宮に申し上げます。」
「晃か、どうかしたか。」
「は、ただいま、院のお方様に内親王ご誕生でございます。母子共に無事だと播磨が申しておりました!」
「わかった、あちらが落ち着かれたら見舞いに行くと伝えてくれ。ご苦労!」
「御前失礼いたします。」
そういうと、晃は院の元に戻っていった。東宮は内心内親王でほっとした。もし親王であれば、何かと周りが騒がしくなるからである。とりあえず日が昇ってから、見舞いに行くことにした。女御は見舞いに行く準備をしている東宮の元に、包みを持ってくる。
「常康様、これを院のお方様に・・・。内親王だって聞いたから、縫っておいた産着と衣なの・・・。気に入っていただけるかわかりませんが、私からのお祝いとして渡してください。」
「ありがとう、渡しておくよ。姫ももうすぐだからゆっくりしてね。元気な御子を産んでください。」
女御は顔を赤くして、東宮の袖をつかんだ。東宮は微笑んで、姫を抱きしめた。
「出来るだけ早く帰ってくるから、安心してください。では行ってきます。」
女御は顔を真っ赤ににしながら手を振って見送った。
女御は実家に帰ってきても、いろいろ生まれてくる御子のために、縫い物をしている。そして元気よくお腹をける御子に幸せを感じながら、懐かしい庭を見つめる。
(そういやこの部屋でいろいろあったのよね・・・。少将だった頃の常康様と再会したのもここ・・・。お父様に反対されて・・・・。あとこの子が授かったのもここなんだもの・・・・。)
いろいろ思いにふけながら、東宮の帰りを待っている。
その頃嵯峨野では、東宮はまず院の部屋を訪れ、お祝いの言葉を伝える。院はとてもうれしそうに、東宮と話をする。すると女房がやってきて、北の方の母君がやってくるという。
するとこそっと院が東宮に言う。
「聞いたよ。前お見舞いに来てくれた日に内大臣家でいろいろあったらしいね。妻の母君は
例の四の姫の母君だから嫌味を言われたよ・・・。今日もいろいろ嫌味言われるかもしれないね・・・。」
「元々元服前からいろいろ言われていたので苦手な人だよ。内大臣殿の正妻の子は僕だけだとなっていたしね・・・。叔母上もいろいろ言われて困っていたらしいし・・・。来た来た。」
二人は話をやめると同時に、母君が入ってきた。
「まあまあ・・・わざわざ東宮様が来られるなんて・・・。丁度女御様の里帰りと一緒に右大臣家の滞在とか・・・。とても寵愛されていますのね、まあ!うらやましい!」
(また嫌味が始まった・・・・。姉上はとてもいい方なのに・・・。)
「先程は内親王のために女御様よりとても心のこもった物をいただきまして。ありがとうございました。とても器用な方ですのね。縫殿寮にでも作らせたのではと思いましたわ。」
東宮はむっとしてやんわり言い返す。
「うちの摂津に教わりながら、産着やおくるみ、おしめに至るまですべてひと針ひと針縫っております。皇后も今時珍しい出来た姫だと申しておりました。お裁縫さえ出来ない姫の親の顔を見てみたいとも。私も裁縫ぐらい出来ない姫は妻に迎えられませんよ。」
母君はムッとした様子で、退室していった。院は笑いをこらえられない様子で、退出していったのを確認すると、急に笑い出した。
「結構東宮の言葉にはとげが合ったよ。ついつい笑ってしまった。」
「女御のことの嫌味を言われて、黙っていられず・・・。」
「私もすっきりしたよ。母君が来られてから、毎日のように小言を言われる。病気でなければ言い返すことも出来るのだけれど。この体じゃあね。」
久しぶりに院の笑う顔を見た東宮は、このまま院は元気になるような気がした。
「まあ!お久しぶりでございます。東宮様!」
東宮が振り向くと、橘が立っている。橘は女房としてお務めしているが、実は東宮の乳母である。そして晃と近江の母でもある。皇后が東宮妃から皇后になられた時に宮中に女房として上がっていて、今回出産のためにこちらに行かせていた。
「本当に久しぶりだね。母上の女房として後宮に上がっていたのは知っていたが・・・。晃も母上に会えたと喜んでいたしね。姉上の様子はどうですか?」
「少し難産でしたが、今はもう落ち着かれて、母子共に元気ですのよ。内親王様も院の生まれた頃によく似ておられて、かわいらしいのです。先程女御様から頂いた、産着、とても重宝しております。私からもよろしくとお伝えください。そうそう、こちらは内親王の乳母の紀伊と申しまして、私の姪で、紀伊守の正室なのです。」
紀伊は会釈をすると、生まれたばかりの内親王を東宮にお見せする。東宮は怖々内親王を抱くと、院は東宮に言った。
「東宮、この内親王に名前を付けてくれないかな・・・。」
「兄上・・・兄上がつけるべきです。」
東宮は、院に内親王を渡すと、院は名前を考え出す。
「結子はどうかな・・・。この子のおかげで妻との仲もさらに深まったわけだし・・・。」
みなはうなずき、この姫の名は結子内親王と決まった。院は紀伊に内親王を預けると、微笑んでいう。
「次は東宮が父親になる番だね。親王かな・・・内親王かな・・・楽しみだな。」
「まあ東宮様、そのときはこの橘も摂津と一緒に出産に立ち会いますわ!女御様はとてもお綺麗な方だと聞いておりますから、きっとかわいいお子がお生まれになりますわ!」
「まだ二月もあとだよ・・・。摂津も近江もついていてくれると言うし、心配はいらないよ。」
「でも・・・。」
「本当に橘は心配性なのだから・・・・。」
東宮は微笑んで、帰り支度をし始める。
「東宮、もう帰るのかい?ゆっくりしていけばいいのに・・・。そうか女御がお待ちか・・・ご馳走様・・・。」
東宮は真っ赤になりながら会釈をすると、逃げるように院の部屋を退出して行った。
第22章 ある姫君
東宮には、幼馴染といわれる姫君がいる。どうして幼馴染なのかというと東宮のおばあさまとその姫のおばあさまが元々幼馴染で親友であったから、よく幼い東宮と、その姫はおばあさまに連れられてお互いの邸を行き来していた。おばあさま同士もお互いの孫を結ばせたいと思っていた。そうとは知らずか、東宮は覚えていないようだが二人はある約束をしていた。
15年ほど前のある夏の日、いつものようにおばあさまに連れられて、姫のお邸に遊びに来た。すると幼い姫は泣いていた。
「和姫どうしたの?」
「大好きなお母様がこの前死んじゃったの・・・和は寂しいの・・・夜もお母様がいないと寝られないの・・・・。」
「和姫、僕がいるよ。僕が一緒に遊んであげるから寂しくないでしょ?」
それでもまだ泣いているので、常康は姫の顔を覗き込むと、姫は常康に言った。
「常康君、ずっと和の側にいてくれる?大きくなっても、いてくれる?」
「うんいいよ!僕和姫大好きだもん。和姫がいると楽しいもん。」
「必ずよ。絶対和を北の方にしてね。和は常康君が大好きだもん。」
常康は北の方という意味を知らないで返事をする。このやり取りを見ていたおばあさま方も小さい子供達の微笑ましいやり取りとして本気にはしていなかった。二人が成長しても本気にしていたのは姫君の方。成人するまではよく文のやり取りをしていたが、常康が元服し、出仕してからというもの、ぱったり会うことも文もなくなっている。
出仕したての頃からもちろん少将として斎宮代の護衛で葵祭に参加している少将を一目見ようと、和姫は毎年のように祭り見物に来ている。そして少将の姿を見てこの人が自分の将来のお相手になるのだと感じながらの見物。年頃になって縁談が来ると右近少将ではないと結婚しないと、父上の中務卿宮にいって断り続けている。もちろん常康の初恋の姫は右大臣家の綾姫であることは知らない。常康が東宮になった今でも、姫の父君の中務卿宮はいまだ東宮であり正妻がいてお子様も御出来になると言えずじまいである。東宮が少将の身分であったのならば、姫と対面させて納得させるつもりであるが、そうもいかないと悩んでしまう。
(どうすればうちの和姫は納得してくれるのだろうか・・・。あれほど常康様の北の方ではないと嫌だ、出家するとまで・・・・。東宮の側室としてならば入内させてやれる身分でもない。当代一、二を誇る美人で聡明な姫と言われているのだから・・・。19になってしまった姫に対しての縁談がますます減ってきた・・・どうにかしなければ・・・。)
そう思うと夜も寝られない。
東宮は右大臣家に女御を残し、御所に戻ってきてひと月。すると、中務卿宮がどうしてもお会いしてお話がしたいとやってきたみたいである。東宮は、では会いましょうと言う事で、部屋に通す。
「東宮様、こうしてゆっくりとお話しするのは初めてですね・・・・。」
「そうですね、幼少の頃はよくお世話になりました。今日は何か?」
中務卿は少し黙っていたが、意を決した様子で言い始める。
「覚えておられますか?うちの一人娘和子のこと・・・。」
「ええ、よく幼い頃は遊びましたね。とてもお美しく成長されたと噂で聞いております。」
「それが・・・・その姫の入内を承諾していただきたいのです。和は常康様ではないと結婚しない、昔約束したのだと言い張って・・・・。東宮が女御様以外の姫を入内させることにいい顔をなされていないのは知っていますが・・・。」
「約束?覚えてはいませんが・・・。そうですか・・・。」
「一度姫に会っていただけないでしょうか?無理は承知の上です。決して他のものに口外はいたしません。」
「わかりました、何とか理由をつけてそちらにお邪魔いたしましょう。そういえば、おばあ様の遺言で、遺品を姫にと書いてありました。それを名目に行って話してみましょう。」
中務卿はうれしそうに退出していく。元々入内に関してはあまり乗り気ではない方なので、安心なのは安心なのですが、何を約束したのかわからないのが気になって承諾してしまったのである。早速、東宮は和姫の文を書く。
『お久しぶりです。何かと公務などで、おばあさまの遺品をあなたにお渡しするようにとのおばあさまの遺言を実行できずにいました。三回忌も終わり、そろそろお渡ししないといけないと思いますので、良き日を選んで私が直接おばあさまの遺品をお届けにあがろうと思っております。常康』
晃を呼び、この文を中務卿に渡させる。すると中務卿は丁寧に挨拶をして、お邸に戻られた。晃が戻ってくると今度は、関白邸に行って東宮のおばあさまの遺品である鏡を持ってくるように命令する。また陰陽寮に連絡して、良き日を占ってもらった。
『東宮様。明後日が外出なさる方角の良き日となります。これを逃すと、半月以上先となりますので、ご報告いたします。』
という占い結果を受取ると、早速中務卿の邸に日程報告の使いを出した。
当日、車に乗り込み中務卿宮家邸に着くと、まず中務卿が出迎えに来る。そして寝殿に案内をする。東宮はドキドキしながら、寝殿の中に入る。もちろんこの日の訪問は非公式のことではあるが、右大臣邸にいる女御の耳にも入っている。そしてこの訪問終了後、女御のもとにお見舞いに行くことしていた。
東宮は案内されるまま上座に座ると、中務卿は姫が来るまで話し相手をしていた。なかなか来ない姫に中務卿は苛立ち、姫付の女房を呼んだ。
「姫はどうした。お客人がたいそうお待ちだ。」
「はいそれが・・・・ああではないこうではないと衣装に時間を・・・間もなくこちらに・・・。」
東宮は少し微笑んで言う。
「相変わらずの姫ですね。小さい頃から衣装にはうるさい姫で・・・。気に入るまで私は庭に待たされたことがありましたよ。」
「大変申し訳ありません・・・昨日までに用意しろといったのですが・・・。」
すると几帳の後ろで気配がすると、女房の一人は姫が来ましたと告げる。姫は初恋の君の東宮(まだ東宮に就いていることは知らない)が目の前にいるのを確かめると、うれしさのあまり顔を真っ赤にして扇で顔を隠しながら几帳の後ろに座った。姫はそっと几帳をめくって、直衣姿の東宮に見とれた。
「本日はわざわざ和子のために来ていただき、和はとてもうれしいです。」
東宮は少し微笑んで、言う。
「本日はおばあさまの遺品の唐渡りの鏡を持参して参りました。前々から行かないといけないと思っていたのですが、いろいろ公務がありまして、おばあさまの三回忌を過ぎてしまいました・・・。讃岐、姫に例のものを渡して。」
そういうと、東宮付の女房の讃岐が朱塗りの箱に入れられた鏡を箱ごと姫に渡した。
「まあこれが常康様のおばあさまがいつも言われていた鏡ね。おばあさまが降嫁される時におばあさまのお母様にいただいたという鏡・・・。おうちに遊びに行ったときにいずれくださるってお約束だったのです。成人して、常康様のお嫁さんになったらくださるって・・・・。」
するとあわてて父君の中務卿は姫に進言する。
「何という約束をしたのですか!東宮いえ常康様はもう正妻はおられる上に御子様ももうお出来になるのだ!」
「え?うそよ・・・どうして東宮様なの?常康様、約束をお忘れですか?四つの頃、母を亡くした私と・・・。私を北の方にしてずっと一緒にいてくださるって!」
「私が四つの頃?よく覚えていませんが・・・。そういえば・・・そのような・・・。」
姫はショックを受けてしまったのか、泣き続ける。父君はなだめつつも現実を姫に話す。
「よく聞くのだよ、姫。こちらは東宮様。もちろんお前の幼馴染の常康様であるが、理由があり東宮として昨年末になられたのだ。東宮が変わったのは知っているね。年始めの皇后主催の歌会にも来られていたのだよ。そして女御であられる右大臣家の姫を見初められて、今その女御様は御懐妊中だ。もうすぐお生まれになる。これは本当の話なのだよ、姫。今日、形見分けの件は表向きで、姫に真実を知ってもらって東宮様との縁談をあきらめてもらおうと思ったのだ。お願いだ!これ以上この父にわがままを言わないでおくれ!もう正妻にはなれないのだから。」
そういうと涙を流されながら姫に土下座をする。姫はまだ納得できない様子で泣き続ける。今光景を見て東宮は一言姫に言う。
「和姫、あなたの初恋は私かもしれませんが、多分当時の私は幼馴染としてあなたのことが好きだったのかもしれません。私の初恋の姫である女御は元服前に宇治で出会った姫でやっと結ばれたのです。今のところ、女御以外は入内させるつもりはありません。申し訳ないのですが・・・。」
すると姫は几帳の陰から飛び出してきて、東宮に抱きついた。東宮は顔を真っ赤にしながら姫を引き離す。姫の顔は想像以上に美しく、少し心が揺らぎそうになったが心を鬼にして姫の顔を見ながら言う。
「あなたが今の状況でも望まれるのであれば、入内されてもかまいません。しかしながら、女御以外は愛せませんので、あなたが入内されても飾り物の側室になってしまわれます。姫を不幸にさせたくないのです。ですからあきらめて他の方と幸せになった方がよろしいかと思うのです。わかってくださいますか?」
姫はムッとした顔で泣きながら、
「常康様のうそつき!ずっと一緒にいてくれるっておっしゃっていたから、今までお迎えに来てくださるのを待っていたのです。お飾りでも構いません!常康様のお側にいたいのです!正室はだめでも・・・私も常康様以外は好きになれません!お父様!いいでしょ。最後の和子のわがまま聞いてください。常康様じゃないと嫌!」
東宮は何もいえないまま、ずっと座っていた。姫は女房に支えられ、泣きながら寝殿をあとにした。中務卿も申し訳なさそうに姫の後姿を見つめていた。中務卿は土下座をしながら東宮に申し上げた。
「私も一人娘の和子がかわいくてならないのです。お願いします。姫の願いを聞き入れていただけないでしょうか。」
「わかりました、前向きに考えて見ます。女御とも相談して・・・。」
さらに中務卿は土下座をして動かなかった。
「すみません、もう帰ります。これから女御の見舞いに行かないといけないので。これで・・・。またこの件は帝にも相談しないといけません。きっと入内が決まると他の人たちも騒がしくなるのでしょうね・・・。」
そういうと東宮は中務卿宮家邸を後にして、東三条邸にいる女御のもとに向かった。このことを女御に相談するべきか否か、車の中で相当悩む。女御はどう思うのだろうか?幼い頃とはいえ、なんともしてはならない約束をしてしまった自分を東宮は責めるのでした。
第23章和姫入内宣旨
東宮は帝に和姫のことをそれとなく相談する。
「父上、もう一人入内させたい姫がおりますが、この姫以降はもう入内させる必要はないとお思いください。もうすぐ女御に子が生まれることですし・・・・。先日も父上は女御以外に姫を入内させた方がよいとおっしゃったので、あと一人の姫なら入内させても良いと思ったのです。」
「どこの姫か?もちろん入内させてもおかしくはない姫であろうな。内大臣の姫か?それとも右近大将の姫か?それとも宮家筋の姫か?」
「それは・・・私の幼馴染の中務卿の和姫を・・・・。」
「おお!あの才色兼備といわれる姫君か?東宮と同じ年の!ほんとにお前は良い姫を選んでくる。安心した。すぐに入内の準備をさせよう。」
あれよあれよという間に、その日のうちに審議にかけられ、東宮の二人目のお妃として、中務卿宮の和姫の入内が決定し、さらに良き日を選んで、和姫の入内宣旨が下った。東宮は本当にこれでよいものかと、悩んだが女御も先日了解をしてくれたので、これでよいことと思うことにした。
もちろんもうこれ以上入内はないと宣言していた東宮が、宮家の姫君を入内させたいということに対して、今まで入内をさせたい気持ちを我慢していたものたちの不満が爆発した。度々東宮が帝の御前に現れるといろいろな方々が、東宮に対して自分の姫を薦めてくる始末で、困り果ててしまい、ほぼ毎日のように帝の御前に顔を出していた東宮は控えるようになったので、帝はどうしたものかとお悩みになられた。それでも着実に和姫の入内の準備は整いつつあるようである。
和姫という姫は、何に関しても一生懸命で努力家の右大臣家出身の女御綾姫と正反対で、才能にあふれ、何をやってもすらっとこなすことで有名な姫である。どちらも当代で三本の指に入るといわれるほどの美しい姫といわれている。もうひとつ共通点といえばやはり、幼い頃は結構おてんばであったことであろうか。和姫も幼い頃の東宮と共に走ったり木に登ったりおてんば三昧であって、父宮が将来を悲観していたほどであったが、和姫のおばあ様が亡くなり、そのことによって東宮がおばあ様と遊びに来なくなったことを境に、おとなしくなって姫らしい姫になり、何事に対してもすんなりと身につけ、父宮の自慢の姫に成長した。
和姫は入内宣旨があってからというもの、さらにお妃教育に精を出した。少しずつ入内の準備が整っていくのを見て、とてもうれしく思い楽しい毎日を送っているが、ただ正妻ではないと言う事だけがとても悲しい現実であった。東宮は先日言った「飾り物」という言葉に対して、きっと入内後に撤回させて見せると意気込んでもいる。そしてもうすぐ生まれてくる御子が内親王であれば良いと心の中で願うのでした。
第24章 女御の出産
女御が産み月に入り、徐々にお腹がはって痛いという知らせを聞いて、東宮は心配になり当分の間右大臣家にお世話になることにした。女御の側にいて、腰をさすってやったり、気が紛れる様に話をしてみたりする。周りの者達もいつでも産気づかれてもいいように準備をしている。やはり姫の出産は近く、だんだんお腹の痛みもひどくなってきているようなので、摂津や橘は東宮を別室にお連れして、その時を待つようにした。
何もすることはないが、心配でたまらない東宮は庭に出て晃と共に散歩をしてみる。安産祈願の読経が聞こえている。夜が更けて夜空を見上げると大きな満月が昇ってきているようだ。
「晃、今日は満月なのだね・・・。久しぶりにゆっくり見たよ。なんて時間が過ぎるのが遅い・・・。」
「東宮、少し冷えてきたようなのでもうお入りになられたほうが・・・。」
そういうと、右大臣家の女房に何か頼みごとをして、東宮を釣り殿にお連れし、池に移った満月を一緒に眺める。女御がいる対の屋とは少し離れているので、安産祈願の読経は聞こえてこない。程よくして右大臣家の女房が、東宮のために酒と肴を持ってくる。晃は杯を東宮に渡して、お酒を注いだ。
「ありがとう晃。本当にお前は気が利く。このような時は飲まないと落ち着いていられないね。そうだ、晃にはいい人がいないの?僕よりも五つも年上なのに・・・。」
「はあ・・・今のところは・・・東宮の身の回りのことで精一杯でした・・・。」
と晃は少し照れながら東宮に申し上げる。
「そうだ、女御のとこの萩なんてどうかな?萩はとても気が利くし、気立てもいい。」
「東宮!ご冗談はおやめください!」
というと晃は真っ赤になって下を向く。そんな反応を見て東宮は笑った。
朝方になって、東宮は脇息にもたれ掛かってうつらうつらとしている。ずっと晃は寝ずに東宮の側に仕えていた。夜が明けだした頃、邸中が慌しくなった。そして近江が釣り殿に走ってくるのがわかったのか、晃は東宮を起こした。
「東宮、何かあったようでございます!」
「ん?」
東宮が眼を覚ました丁度その頃、近江があわてて走りこんできた。
「東宮様申し上げます。」
急ぎすぎたのか、近江は息切れしてすぐに言葉が出てこないようでやきもきした晃は近江をせかした。
「晃、近江を落ち着かせなさい。それからでも遅くないんじゃないかな・・・・。」
「申し訳ありません。さあ近江もういいだろう申せ。」
すると近江は一息深呼吸して、東宮に申し上げる。
「おめでとうございます。元気な皇子さまご誕生にございます。女御様もお元気です。」
「そうかありがとう!晃今すぐ内裏の帝にご報告を。きっとお喜びになられる。そして帝から皇子に名前を賜るように、いいか。右大臣家に馬を借りて早く知らせに。」
晃は急いで馬を借り、東三条邸から内裏に向かって駆け出した。内裏に着くと門兵に東宮の代理できたと伝え、特別に清涼殿の庭先にとおされた。
「主上のお出ましである。さあ東宮からの言葉をお伝えしろ。」
「は、私は春宮坊侍従の橘晃と申します。ただいま東宮よりお伝えしたいことがあり参りました。先ごろ、東三条邸にて親王様ご誕生。母子共にお健やかにお過ごしとのこと。また、親王様の御名を主上から賜りたいとのこと。」
「橘殿、ご苦労であった。改めて祝いの品を送ると東宮に伝えよ。下がってよい。」
「は!御前失礼いたします。」
そういうと晃は急いで東三条邸に戻り、東宮に帝の言葉をそのまま伝える。晃が帰ってきた頃にはすっかり太陽が昇り、朝日がまぶしかった。
「さあて、そろそろ行ってくるか・・・。落ち着いた頃だろうし・・・。」
東宮は近江を呼ぶと、立ち上がって女御の部屋に向かった。
女御は疲れて眠っている。親王は乳母に預けられ、健やかに眠っている。女房達も、疲れきっているのか、東宮が部屋に来ているのさえ気がつかなかった。近江は他の女房達を起こそうとしたが、東宮は止める。
「近江、みんな疲れているのだし、そっとしておあげ。先に右大臣へ挨拶をしてくるから。」
そういうと右大臣の部屋へ行く。東宮は上座にとおされると、急いで右大臣が入ってくる。
東宮は少し笑いをこらえながら扇で顔を隠す。
「東宮、この度は親王様のご誕生おめでとうございます。」
「ありがとうございます。右大臣殿こそ・・・・。これから皇子の養育をこちらでお任せすることになりますので、よろしくお願いします。」
「いえ、きっと立派な跡継ぎになられるよう養育させていただきます。度々一緒に参内もしようと思います。もう対面はお済ですか?」
「いえ、実はまだなのです。部屋に行ったら皆は疲れた様子でしたので、まずこちらへと・・・。」
右大臣はあわてた様子で、女房を呼び、女御の部屋に行かせる。そのあわてようを見て、東宮は微笑む。
「右大臣殿、ゆっくりさせてあげては?私は構いませんから・・・・。」
「そうそう朝餉は?まだですよね・・・。おい!東宮に朝餉を!」
少し遅い朝餉をとりながら、いろいろ考え出す。女御にどのような声をかけようか、どんな顔をしたらいいのかなど・・・・。朝餉を済ますと、何気ない話を右大臣とするうちに、昼ごろになってしまった。
東宮は近江を呼び、女御の様子を聞くと立ち上がって部屋に向かった。丁度若宮も起きているようでかわいらしい泣き声が聞こえる。そっと部屋をのぞきこむと、女御も座って乳母にあやされている若宮の方を見ていた。皆が東宮に気がつくと、お祝いの言葉を述べながら、頭を深々と下げる。東宮はまず女御の元に行き、女御の手をとり、話しかける。
「おめでとう。お疲れ様。何といったらいいかわかりませんが・・・。」
と照れながらいうのを見て女御は微笑んで言う。
「相変わらず照れ屋なのですね。今日から若宮のお父様なのですよ。丁度起きているようなので・・・。飛鳥、若宮を東宮にお見せして。」
すると飛鳥という乳母が、東宮に若宮を渡し下がる。生まれたばかりのいうのに、すっきりとした顔の若宮は、色白で鼻が高く、とてもかわいらしい顔をしていた。
「東宮様と女御様のよいところばかりにておられて・・・。」
と摂津と橘がうれしそうにここが似ているそこが似ていると言い合う。東宮は微笑んで、女御に若宮を渡す。すると、晃がやってきて東宮に申し上げる。
「東宮、帝より使いの命婦が来ておりますが・・・。」
「わかった。こちらにお通ししろ。摂津、橘、お迎えの用意を・・・。」
摂津と橘は他の女房に指示をして、命婦を迎える用意をする。右大臣もあわてて部屋にやってきて、さらに指示をする。
命婦がやってきて上座に東宮が案内すると、一同が命婦に対して会釈をする。
「本日は東宮様の皇子様がお生まれとのことで、帝よりお祝いの品をお預かりしてまいりました。」
そういうと、他の使いの女官達が女御のいる御簾の前に、様々のお祝いの品を並べた。そして、最後に東宮に文を渡す。
「命婦殿、ご苦労であった。父上に改めて御礼に伺うと、伝えてください。ありがとうございました。」
「東宮様、皇后様もお喜びです。女御様、姉君様の桐壺の女御様も大変お喜びでございます。」
桐壺の女御様とは、綾姫の腹違いで10歳以上年上の姉君、右大臣家の一の姫である。帝に入内されたものの、子宝に恵まれずにいた。
命婦が帰ると、東宮は帝からの文を開くと、女御にも見せた。
「父上に若宮の名前を賜った。雅孝、何といい名前だろう。」
「いい名前を賜りました。雅孝親王ですわね。」
そういうと若宮の頬を触って和まれる。右大臣も女房達も帝から賜った名前をたいそう喜んだ。
東宮は御七夜のお祝いまで一緒に過ごし、御所に帰っていった。女御は年明けまで若宮と共にご実家でお過ごしになる。
第25章 和姫の入内
師走の良き日、和姫の入内が行われる。右大臣家の女御には負けないようなお道具などを用意され、入内のための行列も相当なものであった。まだ右大臣家の女御はご実家にて静養中で、御所にいらっしゃらないことをいいことに、和姫の女房達は和姫が正式な東宮妃であるような振る舞いをする。入内の挨拶をするために和姫は東宮の前にやってくる。少し東宮は機嫌が悪いようで、和姫の一言に返事はない。一通り挨拶が終わると、東宮は一言だけ言う。
「ご苦労でした。下がっていいよ。」
和姫は東宮の反応に少し戸惑いを感じたが、自分の部屋に戻っていった。すると橘が東宮に対して、申し上げる。
「東宮、あのような態度は和姫に失礼ですわ。せっかく来て頂いたのに・・・。」
すると東宮はムッとして言う。
「和姫がどうのこうのではないのです。女房達の態度が気に入らないのだ。綾姫がいないのをいいことに・・・。」
「まあその件に関しては私も気にかかりましたが・・・。東宮、そういえば綾姫様から文が来ていましたわ。」
その文の中には雅孝親王のことが書かれていた。
『東宮様、若宮は寝返りができるようになりました。最近良く笑うようになられ、ますます東宮様に似てきたのよ。御所に戻る時には必ず若宮を連れて戻ります。ところで、中務卿宮家の姫が入内とのこと。よろしいですわね。どのような姫かまたゆっくりお聞きしますわ。綾子』
東宮は橘の文を見せると、橘は少し笑うと、申し上げる。
「年明けのお二方の対面が楽しみですわ。綾姫様は身分も上の方ですし、若宮様もおられるのでいいのですが・・・・。和姫様って宮家出身の方ですので、蔑にも出来ず。御綺麗な方ですけど、見た感じ結構わがままな方かもしれませんね。東宮様は大変ですわ・・・。そうそう若宮様はとても成長が早いようですわね。先が楽しみですわ。」
橘はそう東宮に申し上げると、少し笑いながら退出する。
数日が経ち、婚儀のため和姫のところに東宮のお渡りがある。三日も通わないといけないので、東宮は億劫と感じながら、橘に送り出される。和姫の部屋に来ると、女房達が出迎え、奥で和姫が待っている。部屋中に良い香りの香がたかれている。女房達が下がっていくと、とりあえず姫のいるところへ入っていった。和姫は顔を赤らめながら待っていた。東宮は和姫に背を向けながら座ると、一言言う。
「和姫、言っておくけど・・・この結婚は形だけ・・・。あと、綾姫が帰ってきたら君の女房達にわきまえるように言ってほしい。綾姫は若宮の生母だし。君とは身分が違うのだから、今のような女房達の振る舞いはよくないと思う。お願いだから、綾姫と仲良くしてほしい。」
すると和姫は泣き出す。東宮はあたふたして、姫のほうを見る。
「申し訳ない、きつく言い過ぎたかな。」
和姫は東宮に抱きついてさらに泣き出す。東宮は和姫を抱きしめる。
「申し訳ありません。でも綾姫以外は愛せない。本当に。」
東宮は突然立ち、衣を羽織り、扉を開けると橘を呼びつける。
「橘、何か胸騒ぎがするのだけれど・・・・。変わったことはないかな。」
「今のところは・・・・。」
「そう・・・気のせいか・・・。」
中に戻ろうとした時、晃が急いで走ってきた。
「晃、どうした。」
「申し上げます。先程嵯峨野の別荘から早馬が参りまして、院、病状急変で危篤との報告が!」
「わかった。帝には報告が行ったのか?」
「はい!」
「晃、馬を用意せよ、今から院の元に急ぐ!橘、狩衣の用意を!晃、政人を呼んで供に。」
東宮は部屋に入ると和姫に言う。和姫は東宮の見たことのない表情に固まっている。
「和姫、いろいろ考えていただく時間が出来ましたね。当分会えませんのでこれからのこと良くお考えください。」
そういうと、急いで部屋に戻り狩衣に着替えると、晃と政人を連れて馬を走らせた。
(間に合ってくれよ!兄上!)
第26章 兄宮の崩御
真っ暗な道のりを政人や晃の持つ松明の明かりで懸命に馬を走らせながら、嵯峨野に向かっていく。太秦のあたりで、早馬とすれ違う。晃はその早馬を止める。
「待て、そなたは嵯峨野の院の縁のものか?私は春宮坊のものだが。」
「はい!内裏への早馬です。」
すると東宮はその者に聞く。
「私は東宮常康である。何かあったのか?申せ!」
すると早馬に乗った者は馬を下り、申し上げる。
「東宮様であられましたか。申し上げます、先程嵯峨野の院は崩御されました。」
「わかった。ご苦労。早く帝に伝えよ。急げ!」
早馬を見送ると、東宮も馬を走らせる。間に合わなかった悔しさと悲しさで東宮は涙を浮かべ、走り続ける。到着し、院の部屋にいくと、周りの者は泣き崩れている。特にひどく泣いているのは院のお妃様で、側には内親王がちょこんと座っている。
「姉上・・・。間に合わなかった・・・・。」
「東宮様・・・。来て下さったのですね・・・。きっと院もお喜びですわ。」
東宮は院の側に座り込み、大粒の涙で泣き出す。
「胸騒ぎがして表にでると危篤との報告があり、急いで馬で・・・。太秦あたりで早馬に会い、崩御を聞きました。もう少し早く気がついて出てくれば・・・・。」
「東宮様、自分をお責めにならないで。院は眠るように崩御されたのです。この内親王を抱きながら・・・・。幸せそうなお顔でしょ。」
本当に眠るような顔で崩御されているのを見て、東宮は少し安心した。東宮は小さな内親王を抱き上げひざに置くと、内親王に言う。
「結姫、よく父上の顔を覚えておくのですよ。姫の父上にあなたの行く末を託されたのです。」
内親王はわかっているはずもなく、東宮の顔を触って笑い出す。その無邪気な光景を見て、周りの者はこの小さな内親王の行く末を案じてさらに泣き出した。すると急いで、内大臣がやってきた。東宮と内大臣は別室に移り、今後のことについて話し出す。
「東宮、今日は大事な日でしたのに・・・。」
「いいんだ。丁度抜け出したい気分だったから・・・。それはいいとして、姉上と内親王の今後のことについて、内大臣殿はどうお思いでしょう。」
内大臣は少し考えていう。
「前々から考えていたことなのですが、とりあえず春姫と内親王は内大臣家が責任を持って引き取ります。そしてこの私と二の姫の婿である参議と供に内親王の後見人としてお育てします。先のことはわかりませんが・・・。」
「そのほうがいいかもしれませんね。ところで姉上の行く末は?」
「春姫は出家すると言っております。院を弔うのだと・・・。」
「前々から姉上はそういっておられた・・・。内親王は臣籍に下って二の姫の養女とされてはどうかと思う。そのほうが、姉上もお寂しいであろうが、安心して出家できよう。このままでは片親のみの内親王では斎宮としてしか生きられまい。そうなってしまったら姉上はかわいそうだし、兄上もそうは望んでおられないであろう。」
「はいそのようにしていただけると、きっと内親王もお幸せになられると思います。」
「帝にそのように伝えておくことにします。」
この件のほかに、葬儀の事やら、様々なことを夜通し話し合った。朝になると、内裏から葬儀の準備に様々な者達がやってきた。東宮は馬に乗って、晃や政人と供に東宮御所に戻った。
東宮は着替えると、帝の御前に行き、内親王の行く末や、葬儀のことについて話した。
葬儀については専門のものに任せ、内親王については東宮と内大臣に任せると帝から命を受ける。再び御所に戻ると、橘に喪中のことを御所内に通達させ、東宮は喪中に入られる。
「東宮、結姫様はどうなるのですか?」
「橘も心配か?姫は皇籍を離れて内大臣家の二の姫の養女として育てられることとなった。育ての父が参議殿なら、将来も安泰だろう。このままでは今空いている伊勢の斎宮に任ぜられるのも目に見えている。」
「そうですわね・・・・。それが一番幸せかもしれませんね。ちょうど参議様にはお子様がおられませんし・・・。」
「葬儀が終わると姉上は出家される・・・。悲しいことだが、兄上も思ったより長生きされた。やはり内親王がいたおかげかな・・・・。」
そういうと、脇息にもたれ掛かって、ウトウトされる。橘は東宮に上着を掛け、そっと側に座った。
無事に葬儀が終わり、様々な儀礼が終わるともう年を越していた。喪中であるから宮中は最低限の新年の儀礼しかしなかった。いつもと違ってひっそりとした新年を迎え、落ち着くと同時に院の妃は出家し、大原の内大臣家縁の尼寺に入られた。そして内親王は皇籍を離れ、参議の養女として乳母とともに内大臣邸に入った。これでよかったのかと、東宮は思いに更ける。
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