なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

メッセンジャー 1



「はい。これでメールもネットも出来るからね。出会いがないなんて愚痴ってないで、これでもっといろんな人と話してみれば?」

 ヒカルは、綺麗に飾った爪を傷つけないように器用にパソコンの設定をこなして、その席をまるみに明け渡した。促されておずおずと席につくと、さっそく上目遣いに助けを求めるまるみ。やわらかな長い髪をかきあげて、ヒカルは諭すような素振りで言った。

「んもう。 自分でやってみなきゃだめ! じゃ、明日学校でね」
「ああん、ヒカルぅ~」

 慌てて呼び止めたが、ヒカルはさっさと帰ってしまった。まるみはただおろおろするばかりだ。

 帰り道、ヒカルはふといたずら心を起して、長く伸ばした爪で忙しそうに携帯のボタンを押した。

「そうそう。はじめてで恐がってるから、メールの楽しさを教えてあげたいのよ。今頃本を読み返してる頃だから、励ましのメール送ってあげてね」

 さっきから何人目かの電話を切ると、ヒカルは満足げに帰って行った。


「はあ。こんなの私にできるわけないよ。本を読んでもちんぷんかんぷんなんだも~ん」

 まるみは分厚い説明書を頭の上に載せて、大きなため息をついていた。
だいたいヒカルに相談したのがいけなかったのだ、なかなか彼氏ができないからって、自分と正反対の性格のヒカルに相談するなんて。まるみは何も映らないモニターを覗いて、化粧気もなく情けない顔をした自分が映っているのにげんなりした。

「やっぱり、ヒカルに電話してみよう! 最初の所ぐらい教えてくれるかも」

 なかなかいい思いつきだと思ったまるみだったが、希望はあっさり絶たれた。ヒカルの携帯は電源が入っていなくてつながらないのだ。

「もう!ヒカルったら、いじわるなんだから。いいわよ。他の友達に聞くもん!」

 まるみは学校の仲間に次々電話するが皆圏外か留守電になっていた。どんどん情けない気持が膨れあがってくる。世界中で自分だけがとりのこされたような気分だ。

「いいわよ、いいわよ。もうコンピュータなんて壊れたっていいもん! めちゃくちゃ押してやる」

 パソコンがまるみの言う事をきかないのには理由があった。彼女は、電源を入れていなかったのだ。自棄になってあちこち触っていると、電源が入った。パソコンは機械である。正直にパソコンを立ち上げ、晴れやかな画面を映し出した。

「あっ! 動いた……」

 まるみは驚きと感動とどうしていいかわからないもどかしさで目を潤ませていた。そうなると次はメールだ。ファイルを開いてカーソルをヒカルのところにもっていく。アドレスにはすでに仲間達の名前が入っていた。ヒカルが気を利かせてやっておいてくれたものだった。クリックすると文字が反転してメッセージを書き込むページが出てきた。まるみの心臓が大きく打ち鳴らされている中、パソコンはかたかたと動き続けている。

― 拝啓 ―

 まるみは、なやみに悩んだ末、件名にそう記した。そして今日の礼を綴ると、送信ボタンをクリックした。マウスを持つ手が震えて、うまくクリックできない。それでも送信はあっけなく終わった。そして、まるみが予期していなかった事態がおこった。
 送信は終わったはずなのに、いつまでも何かが終わらない。戸惑いながらもじっとパソコンが静まるのを待つ。送受信終了の穏やかな音が響いて、まるみは接続を切った。
送信者欄に、まるみのよく見知った名前が並んでいた。

「ああーっ。ヒカルったら、皆に教えてくれたんだぁー」

 まるみは嬉しくなってそれぞれのメールを開封してゆく。どれも励ましの言葉でいっぱいだった。まるみは唇をかみ締めた。熱いものがこみ上げてくる。離れていても声が聞えなくても皆の気持が伝わってきた。まるみは仲間の存在をすぐそばに感じられるメールをいたく気に入ったのだった。


 彼らが通う専門学校を出て50mほど駅にむかったところに、ガラス張りのカフェレストラン・ウイングスがあった。ボックス席がいくつかと、あとは突き出た厨房を取り囲む様になっているカウンターがあるだけのその店は、学生達の溜まり場だ。もちろんヒカルやまるみ達も選択している講義がない時間は、ほとんどそこにたむろしていた。

「それにしても、まるみは最近明るくなったよね」
「うん。お化粧もするようになったし、服だってずっとよくなったよね。それに、メル友が出来たとか言ってたよ。どこで見つけてきたんだろ」
「ええ? メル友? まるみにしちゃ、上出来じゃない。でも、ヒカルが紹介したんじゃないとしたら、誰に紹介してもらったんだろう。いいなぁ。あっ、平井君だ」

 ヒカルと美咲がガラス越しに手を振ると、平井はちょっと片手を上げて店に入ってきた。

「よお!あれ、今日は一人足りないんじゃないか? あ、マスター。俺、コーヒーね」
「ああ、まるみなら図書室行くって。何か調べモノがあるみたいよ」

 美咲が答えると、平井は二人の席の隣に座り込んだ。

「ふーん。ところでさあ、今度港区にアミューズメントパークが出来るの知ってるか?」
「ああ、ネットニュースでしてた奴ね。最新のアトラクションが入るんだって?」
「おお! さすがはヒカル。最新情報には抜かり無しだな。今度みんなで行ってみないか?」

 美咲が目を見開いて叫んだ。

「行く! 絶対行く! だからお願い! 田島君も呼んでよね」

 マスターがコーヒーを運んできた。それを受け取りながら平井は苦笑した。

「へいへい。一応声はかけておくよ。だけど、来るかどうかはあいつ次第だぜ。あいつ、今資格試験受けるって、燃えてるからなぁ」
「平井君は受けないの?」

 マスターのさりげない一言に、平井はコーヒーを吹き出しそうになった。

「マスター、やめてよー。そういうの俺のキャラじゃねぇーよ」

 マスターは笑いながら奥に入っていった。店内には女の子達の笑い声がこぼれた。

「さて、んじゃ俺、行くわ」

 さっさとコーヒーを飲み干すと、平井は席を立った。

「あれ? 次の講義取ってたっけ?」
「いや、ちょっと本屋に寄ってくるよ。じゃあな」
「ねえ! 田島君の事、頼んだよ!」

 苦笑するヒカルを押しのけて、美咲は平井の後姿に叫んだ。店を出てガラス越しに頷く平井を見て、美咲はゆっくりとため息をついていた。

「さっさと告白しちゃいなさいよ! あいつあれでも結構女の子に人気あるみたいじゃない。横取りされちゃうよ」

 ヒカルは美咲の様子を見ながら右の眉毛をぴくりと上げて見せた。とたんに美咲の顔から笑顔が消えてしまった。なにかがあったらしい。ヒカルはだまって美咲の話を待った。

「先週の話なんだけど…。後輩の女の子に田島くんの電話番号教えてくれって言われちゃった」

 ヒカルは目を見開いて驚いた。

「で、どうしたの?」
「本人に聞けば?って、言ったの」

 下を向いてしょげ返っている美咲を見ながら、ヒカルはふうっとため息をついた。ヒカルの目には田島と美咲は付き合っているようにすら見えていると言うのに、まったくじれったい二人である。

「そうだね。自分がほしいものは自分の手で捕まえなくちゃだめだよね」
「いつもながら端的な答えね。耳が痛いよ」


 図書室は、そこだけ違う時間が流れているような独特の雰囲気を保っていた。まるみは適当にパソコンに関する本を取り出すと、がらんとした部屋の隅に座った。

まるみには、本など読むつもりは最初からない。目的は他にあったのだ。手元にある内の1冊を広げながら、まるみは回りに気付かれないように小さく息をはいた。開いた本の向こうには、肩まで伸ばしたさらさらの髪を掻き上げるようにしながら真剣な顔で本を読んでいる桜井がいた。
 桜井は、まるみ達と同じ学年で、受講する講義もよく重なっていた。人当たりがやわらかく女の子の取り巻きが多い桜井が、一人になる時間。それはこの図書室だけといってもいいくらいだろう。ときおりノートにペンを走らせる。白く長いゆびが、優雅にノートの上を踊っていた。

「きれいな手…」

 自分でも気付かないくらい、自然に言葉が口をついて出た。そんなまるみに誰かがすっと近づいた。

「どうかした?」
「えっ?」

 まるみは心臓が飛び出そうなほど驚いた。今、目の前で微笑んでいるのは、間違いなく桜井なのだ。

「なんだか思い詰めた顔してたから、気になっちゃって」
「あっ…いえ。あの、すみません。ぼんやりしてました」

 顔が熱かった。耳も脈打っている。頭はぼうっとして今にも気を失いそうだった。しかし、まるみが落ちつきを取り戻す前に桜井は追い討ちをかけてきた。

「ちょうど調べモノが終わったところなんだ。よかったら、外でお茶でも飲まない? それとも、忙しいかい?」

 桜井の誘いは憎いほどさりげなかった。まるみは興奮で息ができなくなりそうなのを必死で隠し、うなずくのが精一杯だった。

『うそぉー。夢見たい。桜井さんの方から誘ってくれるなんて。天使の羽根さんに感謝しなくちゃ。でも、どうして天使の羽根さんは昼下がりの図書室に行くと、桜井さんがいること知ってたんだろう。ひょっとして、天使の羽根さんって、同じ学校の人なのかな』

 まるみの脳裏をそんな事が浮かんでは消えた。しかし、今は隣に憧れの桜井が並んでいるのだ。桜井が微笑みかけた途端、そんな考えは吹き飛んでしまった。

「こっちなんだ。ごめんよ。随分路地に入っていくけど、こうでもしないとすぐにうるさい連中に見つかるんだ。じゃまされたくないしね」

 まるみは桜井の言葉に思わず下を向いてしまった。

「あそこの店なんだ。高校時代の先輩がやってるんだよ」

 桜井が指差した先には間口の狭いジャズ喫茶があった。

 ささやかな店の上には「安樹」という看板がかかっていた。そして古ぼけた木製のドアを開けると、洪水のような音が道路にまで溢れ出してくる。
店内は薄暗く、かすかに洋酒の匂いが漂っていた。躊躇するまるみに桜井は手を差し延べた。

「大丈夫、すぐに慣れるよ。奥の席に座ろう」

 言われるままに腰を下ろすと、思いのほかシートが沈む。まるみはちょっと驚いて、それでもなるべく平気な振りで桜井の隣に落ちついた。
その間も、店内に流れる大音響はまるみの全細胞をも打ち振るわせる。そろりと店内を見まわすと、奥のカウンターには洋酒がぎっしりと並べられていた。

「ああ、あれ? 夜にはショットバーになるんだ。今は違うけどね。コーヒーでいい?」

 まるみが頷くと、桜井は店長に合図を送っていた。

「君、まるみちゃんっていうんだろ。こういうところ、来た事ないの?」

 音楽に負けじと大声を出すが、まるみには聞えない。桜井は一層まるみに近づいて、耳元で声をかけた。桜井の長い髪がまるみの頬をくすぐる。それだけでまるみは夢心地だった。


「はじめてです。桜井さんって、なんだか大人みたい」

 なんとか返事を返したが、やはり桜井には聞えづらかったようだ。

「え? 何?」

 聞き返す桜井にまるみは身体をひねって桜井の耳元に近づいた。その瞬間、桜井はまるみのほそい顎を軽く持ち上げ口付けた。

「え?! あ、あの。どうして……」

 驚きと戸惑いで、気が遠くなりそうなまるみの腕を掴むと、桜井がすっくと立ち上がった。

「行こう! やっぱりこんなうるさい所じゃ、話も出来やしない」

 桜井は驚くまるみを促して店を飛び出した。おろおろしているまるみの手を引いたままさっき通った狭い路地を戻る。桜井は一言もしゃべらずどんどん進んだ。その先の道路を渡るとネオンがまたたくホテル街だ。それに気付いたまるみは慌てて桜井の手をふりほどいた。

「どうして。どうしてあんなことしたんですか?」

 まるみは息を整えながら、桜井を見た。桜井は照れたように街路樹のポプラに目をやると、ぼそっとつぶやいた。

「なんとなくさ、可愛い子がいるなって思ってたんだ。だけど、話しかけるきっかけが掴めなくて。あの店の先輩に相談したら、店に連れてくればいいって。その、音がうるさくて自然に寄り添えるから……。後は、なんとかなるもんだって言われて。その……、怒ってる?」

 桜井はちらっとまるみを振り返って驚いた。まるみはさっさと元来た道を戻っていたのだ。

「怒ってるに決まってます! いきなりあんな事するなんて、信じられない! さよなら」
「えっ、ちょっと待ってよ!そんなに怒らなくてもいいじゃん。冗談だよ」

 まるみは振り向かないまま駅に向かって走り出した。自分で自分の気持ちが分からなくなっていた。
一気に駅まで走りきると、そっと振りかえった。桜井は追いかけてこなかった。まるみは安堵とも悲哀ともとれるため息をひとつだけついて、ゆっくりと駅の階段を上がって行った。階段を上がる足がやけに重かった。


「よう、平井。やっとやる気になったのか?」

 駅前の本屋は、いつもの事ながら混雑していた。そんな中で突然後頭部を突付かれて、平井は慌てて振り向いた。

「あー、びっくりした。まあな。お前が試験受けるって聞いたときは、ピンと来なかったんだが、何にもとりえがないってのも考えモノだしな。いっちょやってみるかって思ったんだ」

 突付かれた後頭部を撫でながら答える平井に田島は首を傾げた。

「後2ヶ月か。やり始めるには微妙な時期だな。だけど、試験は今回だけじゃないしね。がんばりなよ」
「なんだよ、田島。まるで俺が落ちるみたいじゃねぇーか。んなもん、時の運だよ。それより、今度港区に出来るアミューズメントパーク、行かないか。いつものメンバーでさぁ」

 調子に乗る平井の声は店内に響いた。これには田島の方が紅潮してしまった。

「しーーー!ここは本屋だよ。大きな声出さないでよ。その話はウイングスにでも寄ってからにしよう」
「ああ、わかった」

 田島にたしなめられて、平井もおずおずと従った。


 ウイングスにつくと、結構な盛況ブリだった。ほとんどが学生で、みんな仲間内で楽しげに盛りあがっていた。

「マスター。コーヒー2つね」

 窓際に空席を見つけた二人はどかっと座り込んだ。
平井はさっそくアミューズメントパークのパンフレットを引っ張り出そうとして後からやってきた学生にぶつかられて水をこぼしそうになった。

「うわっ、あぶねぇなぁ」

 驚く平井の言葉など耳に入らぬようすで、その学生はよたよたと向きを変えると、厨房へと飛び込んで行った。

「何だよ、今の。失礼だなぁ」
「なんだか最近多いよね。ああいうタイプ。大きな声では言えないけど、どうもここの店にバイトに来てる連中は、悪名高き少林寺調理師学校の連中らしいよ」

 憤慨する平井をなだめる様に田島が小声で言った。

「少林寺? って、あのヤクにまで手を出してる連中がいるって噂の? おお~、やべぇ」

 平井は首をすぼめて恐れて見せた。そして、さっさとパンフレットを広げ出すと、次の話題に没頭して行った。

「で、いつにする? 僕、ここんとこ忙しくてさぁ」

 田島は上着のポケットを探って、手帳が無いのに気が付いた。

「しまった。手帳、図書室に忘れてきた。ちょっと取りにいってくるよ。君、どこ回ったらあの子達が喜ぶか考えといてくれよ」
「え?」

 田島はそう言うと、見送る平井を残してそそくさと席を立ち、学校に向かった。

 夜間部のはじまった校舎は、昼間とはちょっと違った風情だった。見知ったはずの校舎を見ず知らずの生徒達が行き来する。独特の雰囲気だった。

「先生、頼むよ。先生が持ってるんだろ? 金はちゃんと用意するからさぁ」

 誰も居ないはずの準備室から、泣きそうな学生の声が聞えてきた。

「私はそういうものは管理していない。やめたまえ、どんなに頼まれても私にはなにもしてやれんのだ」

 その声は田島の良く知る坂井教授のものだった。坂井教授といえば学長の娘と結婚した人だ、裏金で試験問題か何かをもらおうとしているんだろうが相手が悪い。田島は気付かない振りを決め込んでさっさと廊下を駆け抜けて行った。

 田島はすぐさま図書室に向かい、自分の手帳を見つけた。そして帰りがけ、まるみの筆箱が落ちているのに気付いた。

「まるみのヤツ、落ちついてるようでそそっかしいんだよな」

 田島はふとどこかのんびりしたところのあるまるみを思い出して笑った。そして、ほんの何時間か前にみた光景を思い出した。


「なあ、どう思う? あの桜井がまるみちゃんをお茶に誘ったんだよ」

ウイングスに戻ってくるなり、田島は平井に質問をぶつけた。

「なんだよ、突然。手帳はあったのか?」
「ああ、あった。おまけにおっちょこちょいの筆箱もみつけたよ」

 田島がまるみの筆箱を持ち上げて見せると、平井も吹き出して笑った。

「じゃあ、ホントに桜井が誘ったのか……」
「ああ、目の前で見てたからね。まるみちゃんはてんで気付いてなかったが。さて、いつにする? 来週の日曜なら空いてるよ」
「え? あ、ああ。そうだな。じゃあ、俺はヒカルとまるみに連絡するよ。お前、美咲に連絡してくれ」
「…… わかった」

 平井は田島の返事に微妙な間が合ったのを聞き逃さなかった。にやけた顔で田島を観察する。

「な、なんだよ。分かったって言っただろ」
「よろしく頼むぜ」

 平井は眉山を動かして、意味ありげに笑った。

「だけど、君こそいいのか? 桜井っていえば手当たり次第に女を落とすって、最近噂になってる奴だ」
「なんだよ。あんなおこちゃま、何とも思ってないさ。言うなれば俺の弟子ってとこかな。まぁ弟子のプライベートにまで口出すわけにもいかんしなぁ」
「何の弟子だよ。何の!」

 店内のからくり時計が鳴り出し、平井は慌てて立ち上がった。

「やべっ。俺これからバイトなんだ。んじゃ、明日な」
「あっ! ここは割り勘だからね! マスター、お金取ってよー」

 田島の叫びをものともせず、平井はマスターに手を振って店を出ようとした。

「平井君、つけといてやるよ。ただし利息は1日10%だ。わかったね」

 のんびりとつぶやくマスターを、店の客全員が刺すように見たのはいうまでもない。

「田島ー。ごちそうさん」

 ガラス越しにそういって笑って去って行く平井を、田島は握りこぶしを作って見送った。


 田島が店を後にして2時間ばかり過ぎたころ、品のいいスーツに身を包んだ40半ばの男がウイングスの扉を開けた。

「いらっしゃ…。ほほう、坂井教授がお見えになるということは、今日は木曜日ってことですね」

 マスターはいやらしげな笑顔でその男の注文を聞きに来た。坂井と呼ばれたその男は、そんなマスターを疎ましげに見やった後、コーヒーを注文して大きめの茶封筒を渡した。

「営業成績がさがっていますね。がんばらないとこの店も看板が変わる事になりますよ」

 マスターは愛想笑いをすっと消して、心配には及ばないとだけ返した。マスターが厨房に戻るのと同時にヒカルがやってきた。深夜に近いこの時間には、この店の客層も随分と変わってくる。近くの会社帰りの大人たちの中から坂井が座っているのを見つけると、ヒカルは昼間とは違う潤んだ瞳で軽く会釈して、向かい側にすわった。かすかだがヒカルの頬が紅潮している。そんなヒカルを銀縁の奥の瞳が舐める様にみつめていた。


 まるみは家に帰ると、すぐにパソコンを立ち上げた。そして、混乱する心の内をメール友達の天使の羽根に吐き出した。

-天使の羽根さん。聞いてほしいの。あなたに教えてもらった通り、午後、図書室に行ってみたわ。そうしたら、憧れの人はやっぱりそこに居たの。その事については、とっても感謝しています。本当にありがとう。読みもしない本のすきまから、そっと眺めていられれば、それでよかった。
 だけど、今日はとんでもない事が起こったの。憧れのSさんが、私をお茶に誘ってきたの。あまりに突然で、うまく話しも出来なかった。でも、なんとかSさんとお茶を飲むところまで行けたんだけど… Sさんが、突然キスしてきたの。びっくりした。大好きな人だから嬉しいはずなのに、私、なんだかとっても恐かった。悲しかった。だから、一人で帰ってきちゃった。
 ねえ、どうしたらいいと思う? 私はSさんに嫌われちゃったのかな-

 画面の文字を読み返し、まるみはため息をつくと送信ボタンをクリックしてメールを送信した。送信と同時に新たなメールを受信、送信元が天使の羽根である事を確認すると、まるみは思わず笑みを浮かべた。

-新たな事実を発見。まるみ君の好きなSさんは3階の休憩室の窓辺にある植木鉢がすきなんだって。よく手入れしているって聞いたよ。だけどお水を切らしてるのか最近元気がないんだ。お水あげてみたらどう?
 そうそう。近いうちに、楽しいお誘いがあるかもよ。これには参加した方がいいよ。きっと楽しめる。  天使の予感(笑)-

 素直にその気になれない自分をまるみは自覚していた。今まで思い描いていた桜井は本物の桜井とは違うのだ。それでもまるみは桜井の近くから離れられないような気がしていた。植木に水を与える事ぐらい雑作も無い事だ。まるみはベッドの脇の目覚し時計のタイマーを30分早めた。

 夕食を買い込んで自分の部屋に戻ってくると、電話がなりだした。

「まるみー。今度の日曜開いてるかぁー?」

 平井だった。

「うん、あいてるよ」
「よーし! それでこそ俺の弟子だ。今度の日曜に港区に出来たアミューズメントパークに行こうって話になってるんだ。ヒカルと田島からはOKでてるから、多分美咲も来るはずだぜ。あとはお前だけだったんだ。じゃあ、決まりだな。10時にウイングス集合。分かったな? じゃあな」
「う、うん。あ、あの、平井君」
「えっ? なに?」
「…… いえ、何でも無いの。じゃあ」

 受話器を置いても、まるみは電話を見つめ続けていた。一瞬でも平井に相談しようと考えた事が自分でも意外だったのだ。混乱する頭をひきずったまま、まるみはベッドにもぐりこんだ。

「うわあああ。何で俺はあんな冷たい言い方しか出来ないんだぁ」

 平井は自分のベッドの上でのた打ち回っていた。まるみは明らかに自分に何かを相談したそうにしていたのだ。それなのに、せっかくのチャンスを自分から潰してしまった事が悔しくてならないのだった。

『まさか、あんな事になるなんて……』

 平井は深いため息をついた。たとえまるみに相談されたところで、まともなアドバイスなど出来ないと気付いたのだった。


 翌朝から、まるみはいつもより早く家を出て、3階休憩室にある植木鉢にいそいそと水をやる日が続いた。その間、桜井と顔を合わせることは無かった。それがかえってまるみの気持ちを落ちつかせてくれていた。水を与えられた植物はどれも素直に葉を広げ元気になっていく。まるみにとって水遣りは、もう桜井とは関係のない楽しみになっていったのだ。

 学校の帰りには図書館によって植物の種類と習性を調べ、肥料を買い、地道に世話を続けていた。

「まめだね、まるみ。これからウイングスに行こうと思うんだけど、一緒にどう?」

 ヒカルが声をかけてきた。

「あ、うん。じゃあ、鉢を変えたら行くね」
「じゃあ、あとで」

 まるみは新しく買ってきた大き目の鉢に培養土を入れると、植木を抜きにかかっていた。


 ヒカルがウイングスに入っていくと、奥から美咲が手を振っていた。

「何やってるの、美咲?」
「へへぇ。翻訳の宿題。すっかり忘れてたのよ。でももう終わる所よ」
「お疲れ様」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「ねえ。ヒカルは好きな人とかいないの?」
「なによ、急に。いないわけじゃないけど……」

 ヒカルは少し大人びた表情で微妙に微笑んだ。その顔が美咲にはとても遠い存在のように感じられて不安になった。

「なんか…、訳あり? そういう話になると、いつもヒカルって黙って笑ってるだけなんだもん。ねぇ、悩みごととかあったら相談に乗るよ」
「いいわよぉ。自分のことだもの、自分でちゃんと責任とるわ。それより美咲はどうなのよぉ。 明日、告白するの?」

 ヒカルのひやかしに、美咲は耳まで真っ赤になってしまった。

「もう、ヒカルったら!からかわないでよ。それより、まるみ、どうしてるんだろ?」

 まだ顔を赤らめたままで、美咲は話をそらせたが、美咲にはヒカルのそんな遠くを見るような寂しげな表情が気がかりでたまらなかった。

「なんだか植木の鉢を変えるんだとか言ってたけど…。あ、ほら。噂をすれば、だね」
「おーい。まるみ。明日どこで待ち合わせしようか?」
「え? あ、そうか。明日がアミューズメントパークに行く日だったっけ。うっかりするところだったわ」

 どこか上の空のまるみが力なく言った。

「何言ってるの。しっかりしてよ。え、どうしたの? 具合悪いの?」

 美咲はからかいながら、まるみの顔色がよくないことに気がついた。

「どうしたの?顔がまっさおよ」

 ヒカルも心配そうに言った。

「なんだか、気持ち悪いの。今日は帰るわ。待ち合わせ場所決まったら連絡ちょうだいね。じゃ、お先」

 まるみは立ちあがりながらふらっとテーブルに寄りかかり、震えたため息をついて店を出ていった。


「あれ? まるみちゃん、どうしたの? 今来たばっかりなのに」

 マスターが驚いたように声をかけた。

「なんだか、気分が悪いらしいのよ」

 ヒカルがガラスごしにまるみを見やりながら言った。

「とりあえず、待ち合わせ場所を決めてしまおうよ」

 美咲に急かされて、ヒカルが手帳を取り出した。

「なんだよ、水臭い。待ち合わせ場所はここに決まってるだろ。なあ、ヒカルちゃん」

 おどけたようにマスターが口を挟む。ヒカルは一瞬マスターに鋭い視線を投げつけた。しかし、美咲は気付く事無く納得しているようだった。
マスターはしばらくにやにやとカウンターからヒカルを見詰めていたが、顔色の悪い学生がふらふらと店内にやってきたので学生の世話をしながら厨房に入って行った。
ヒカルは人知れず胸を撫で下ろしていた。結局待ち合わせ場所をウイングスにして、美咲とヒカルは帰って行った。

 その日の夜、学校関係者の間に大きな衝撃が走った。学校の中庭で坂井教授が頭から血を流して倒れていたのだ。発見したのは夜間部の生徒だった。坂井教授はすぐに救急車で運ばれたが、病院に着くのを待つ事無く死亡が確認された。

 バイトを終えてウイングスに立ち寄ろうとした平井と本屋の戸口でばったり会った田島は、道中で救急車とすれ違った。まだまだ学生達の往来の多いこの通学路はなにも知らない学生達で溢れている。楽しげにはしゃぐグループや、救急車に交通事故かと話し合うカップルがそこここにいた。しかし、校内に妙なスポットライトがついているのを発見した二人は、事件の匂いを嗅ぎつけ、すぐに鑑識が動き回っている隙をついて中庭の隅までやってきていた。


「どう思う? 事故か、事件か」
「そりゃ事故だろ。どう見たって中庭に出た途端、足を滑らせて植木鉢で頭を打ったって感じだろう」

 田島は深いため息をついた。

「甘いなぁ。平井君、君は推理小説が好きだって言ってなかったっけ?」
「ああ、言った」

 田島はその答えに再びため息をついてゆっくりと首を横に振った。

「なんだよ。勿体つけるなよ」
「頭、打っただけであんなに木っ端微塵になると思うかい?」

 田島はそういって校舎を顎で示した。田島の示した先を目で追うと、3階の窓辺に並んでいる3つの植木鉢のうち、真中にあった鉢だけがなくなっていた。

「あっ、あれか」
「多分ね」

 呆けたように眺める平井に、田島は軽く答えていた。
刑事らしき人物が、携帯でやり取りしながら手帳にメモを取っていた。「○曜サスペンス」さながらな様子に、平井は目をサラのようにして辺りを確かめていた。

「ん、坂井。。。ここの教授か。で、死因は頭部打撲による頭蓋内出血か…」

 田島はじっと息を凝らして電話の内容を聞き取っていた。すると、急に平井が首を伸ばして何かを見極めようとした。

「おい、あれみろよ。鑑識が白っぽい袋を見つけたみたいだぞ。あれって……」

 平井に突付かれて、田島も身を乗り出した。

「お前達そこでなにしてるんだ?」

 威圧的な声とともに彼らの後ろから不自然な足音が近づいてきた。事務局長の本村だ。本村は学生時代有望な陸上選手だったそうだが、事故で足を悪くして以来、気難しい性格になったのだとは、学校でのおおかたの認識だった。
場面が場面だけに2人は硬直した。先に振り向いたのは田島だった。


「ああ、本村さん。いや、あの。僕、ショックだったんです。坂井先生には今度の資格試験のことでも相談に乗ってもらっていたから…」

 田島は言葉を濁しながらうつむき、平井に合図を送った。

「いやあ、ホントにいい先生だったのにね」

 平井も慌てて田島の言葉に続いた。

「そうか、田島。今度の事は、我々もショックを受けているよ。もうすぐ奥さんが海外の仕事を終えて帰って来るって坂井先生も楽しみにしていたのに…。だが、お前は試験前の大事な身だ。こんな所をうろついているよりも、勉強して試験に合格する事が、坂井先生への供養になるんじゃないか。平井、お前が言うとうそっぽく聞えるぞ。田島の勉強のじゃまはするなよ」
「ええ!?俺は別に邪魔なんか…」
「わかりました。とても残念で、見届けたいと思っていただけです。失礼します。おい、平井」

 田島はまだ文句を言いたりない様子の平井を無理やり引っ張って、その場を離れた。

 ウイングズまでやってくると、二人は頭をつき合わせて話し出した。

「あれって、絶対覚醒剤か何かだよ。しかし、どこから出てきたんだろう」
「土の中じゃねぇの?」
「土の中ぁ?」

 平井はちょっと得意げに答えた。

「お前の角度からは見えなかっただろうけど、鑑識の人が袋の土をはらってるのが見えたんだ。しかしおかしいよなぁ。本村のおっさん、なんでお前と俺で扱いがああも違うんだ?」

 田島は思わず噴出した。

「そりゃ、しょうがないさ。君と僕とじゃ学校での評判が違いすぎる。だけど、あんな所に事務局の本村さんがいること自体は不自然だよね」
「待てよ…。3階の植木鉢って言ったら休憩室の…」

 平井はいやな予感を覚えずにはいられなかった。田島がそんな平井に気付かない訳がなかった。 

「えっ、まさかそれって、まるみちゃんに絡んでるってことなの?」
「いや。桜井が植木をいじっているところを何度も目撃してたもんだから…。まるみがややこしいことに関わってなきゃいいんだけど」

 田島は、思い悩む平井にメールする事を勧めた。平井がメールを打ち始めると、やっとマスターがコーヒーを運んできた。夜になっても店内は客であふれていたのだ。

「ねえ、学校で何かあったの?」

 マスターはいつになく小声でするどく尋ねた。

「まだ、はっきりとしていないんだけど、とにかく坂井教授が亡くなったんだ」
「えっ! 坂井さん、殺されたの?」
「さあね。中庭に出たところで転んだ拍子に頭を打ったって聞いてるけどね」

 田島はさりげなくいいながら、冷静にマスターを観察していた。マスターの反応はあまりにも不自然だった。田島はさっそく携帯を取り出した。そして、平井がようやくメールを送信した時には、田島は済ました顔で携帯をポケットにしまっていた。

「あ、あれ? メールだ」

 平井はちょっと驚いた様子で入れ違いに入ったメールを読むと、すぐさま納得した様子で携帯をカバンにしまった。そしておもむろにアミューズメントパークのパンフレットを広げると、どこをまわるか思案をはじめた。そのパンフレット越しに田島が厨房を覗っていた。

「やっぱりどこかに連絡を取ってるみたいだな。なんだか焦ってる様子だぜ」

 田島は何気ない表情のまま、平井につぶやいた。

「何かあったってだけで、殺されたの?なんてセリフは出ないよな、普通は」

 平井もパンフレットに目をやったまま答えた。

「坂井教授とマスターと麻薬。何かの繋がりがあるような気がするよな」
「あ…。そういえば。このまえ僕が手帳を取りに学校に戻った時、学生が坂井教授に必死で頼み事をしてたんだ。お金をだすとかなんとか言ってたからてっきり試験問題を教えろっていってるんだと思ってたけど、その辺も関係あるのかもしれないなぁ」

 田島はパンフレットの裏側まで隈なく目を通しながらつぶやいた。

「でも、まさかこんな身近にそんな事件が起こるなんてなぁ」

 平井はパンフレットから顔を上げると片手をこめかみにあてて言った。

「考え込んでも仕方がないさ。平井、君が考え込むと頭痛持ちにみえるよ。さて、帰るとしよう。明日はまたここに集合だったよね」

 田島は努めて明るくこういうと、席を立った。平井もふてくされながら従った。マスターは、二人を普段通りに明るく送り出したが、ガラス越しに彼らが帰って行くのを見つめる視線はするどかった。


 駅までの道で、田島は美咲からのメールを受け取った。先に帰った美咲達は、まだ坂井教授の事を知らず、ただまるみの様子がおかしかったので心配だという事が書かれているだけだった。

「平井…まるみちゃん、大丈夫なのか? ほんとに何かみたのかも知れないよ」
「ん……」

 思い悩む平井を田島はそっと後押しした。

「ま、あとは君次第だけどね。あのおっちょこちょいがこんな危ない事件に関わったらどんな事になるか、君でもわかってるだろ。力になってやりなよ。じゃあね」

 平井はさっさと行ってしまった田島の後姿に軽く手を振ると、いつもとは違うプラットフォームにかけ上がって行った。電車を待つ間も、平井は何度もポケットの携帯を出しては確かめていた。しかし、まるみからの返事は来てはいなかった。

「あいつ、家に帰ってないんだろうか…」

 先月、携帯電話を持ちたいと店先で悩んでいるまるみを見かけて、おまえには携帯なんて似合わないぞとからかった自分を、いまさらながら憎らしく思った。

 電車に乗って3駅。まるみの住むマンションはこの駅から歩いて10分ぐらいだと聞いている。もう駅の人影もまばらだ。改札前の時計が11時を指していた。いつもなら、バイトの疲れでへこたれている頃だが、今日は異様な緊張感が平井を奮い立たせていた。

『まるみ……』

 それから1時間ばかり駅の周辺を歩き回って、平井はとうとう疲れ果ててしまった。重い足を引きずって、そこだけ浮き上がった様に見えるコンビニに入っていった。肉まんと缶コーヒーを買い込み、コンビニの向かいにあった公園へ入っていった。さっきからお腹がなりっぱなしだったのだ。

「まいったなぁ。電話にもでないし、メールも来ないし…」

 公園のベンチに腰かけて、肉まんにかぶりついた時、ギギッと後で微かな音がした。平井は驚いて飛びあがるように振りかえった。

「あれ? まるみ?」

 そこにはしょぼくれた姿でブランコに座り込んでいるまるみがいた。平井の声にぼんやりと顔を上げたまるみは、すでに涙でぐしょぐしょの顔になっていた。

「平井君? どうしてこんなとこにいるの?」
「いいだろ、そんなこと。それよりびっくりさせんなよな。幽霊かと思ったぜ」

 威勢よく返した平井だったが、近づいてまるみの顔を見ると、急に勢いをそがれてしまった。

「なんだよ。おまえ、泣いてたのか? 何かあったのか?」

 平井は、とりあえず隣のブランコに座り込むと、足でゆらゆらブランコを揺らせながら聞いてみた。しかし、まるみはただ下を向いただけで、黙ってしまった。

「あのさ。今日、学校で大変なことがあったんだ。坂井先生が、中庭で足を滑らせて植木鉢に頭を強くぶつけて亡くなったんだ」

 平井は、さりげなく聞かせてみた。まるみは明らかに身を固くしているのがわかった。

『やっぱり、何か知ってるんだ』

「俺さ。見ちゃったんだ。こなごなになった植木鉢のなかになにか変な物があった」

 まるみは懇願するような目で、平井を見つめていた。

「おまえ、最近植え木の世話をしてたよな。何か、見たんだろ。だから、悩んでるんだ。違うか?」

 まるみの瞳に、動揺が色濃く現れた。平井はまるみの涙でぐしょぐしょの顔にハンカチを投げつけて言った。

「俺はお前の師匠だぞ。なんでもお見通しなんだよ。誰を責めようって言うんじゃないんだ。ただ、真実を確かめたいだけなんだ。本当の事をちゃんと理解した方が、おまえだって安心だろ」

 半分妬けになっている自分を自覚しながら、平井はまるみの返事を待った。


「私…、ある人から私の好きな人があの植木を大事にしてるって教えてもらって、それで世話をする様になったの。でも、いくらお水をあげても肥料をあげても元気にならない木があって、根が回ってるんじゃないかと思って大き目の鉢に植え替えようと思いついたの。そしたら……」

 それまでぽつりぽつりと話していたまるみが、困惑したように口篭もってしまった。なんとも声を掛けられない平井は、じっとまるみの気持ちが落ち着くのを待っているしかなかった。
遠くで電車の音が走りぬけて行った。気がつけば、さっきまで出入りのあったコンビニすら、人通りがぱったりと途絶えてしまっていた。
 手持ち無沙汰な気分で、握り締めていた缶コーヒーを飲み干そうとして、平井は思わず声を上げた。

「うわっ! 冷たい! 冷え込んでると思ったら…」

 さっきまで暖かだったコーヒーもあっという間に冷たくなっていたのだ。そんな平井を見て笑顔を取り戻したまるみは、何かを振りきるように立ちあがった。

「ねえ。うちに寄ってく? すぐそこなの。あったかいコーヒーぐらいなら、ご馳走できるよ」
「お、おい。いいのか? こんな時間に…」
「いいよ。それより、乗りかかった船だから、最後まで相談に乗ってよね」

 まるみは、不安な気持ちを無理に押し殺して、笑顔で答えた。


 まるみの住むアパートは公園からふた筋目の角を曲がった所だった。手馴れた様子でカギを開けるまるみのうしろ姿をぼんやりと見つめる平井には、まるみの肩が妙に華奢に思えて仕方がなかった。

「すぐに暖かくなるから、その辺に座って待っててね」

 部屋に入って電器をつけると、まるみはストーブに火をつけて奥へと入っていった。

 女の子らしい淡い色合いで統一された部屋は、まるみのイメージそのままだった。なんとなく照れくさいような気分と、さっきまるみが見せた苦しげな表情とが入り混じって、平井はどんどん気難しい顔になっていった。

「インスタントだけど、いいかな」
「ああ。サンキュ」

 平井にカップを手渡しながら、まるみはちいさく笑った。

「な、なんだよ。にやけちゃって」

 訝る平井に謝りながら、まるみはホッとしたように言った。

「平井君が来てくれてよかったよ。今日はもう、何がなんだかわかんなくなってたから。一人でいたら、何もかも悪いようにしか考えられなくて。 あ、そうだ。私ね。最近謎のメール友達ができたんだぁ。 ねえ、見る?」

 まるみは、さっきまでの顔が別人のように明るく言うと、部屋の隅においてあったパソコンを立ち上げた。

「お、おい。そんなもん、人に見せるもんじゃねーだろ!」
「あ、あれ? どうしたんだろう。いつもはこの時間にはなにかメールを送ってくれてるのに……」

 戸惑うまるみに、平井は苦笑いするしかなかった。

「謎のメール友達ねぇ。変なのに引っかかるなよ」
「ひどい! 天使の羽根さんは変な人じゃないもん! すごく、優しい人なんだから!」

 まるみはムキになってつっかかってきた。

「ああ、わかったわかった。まったく、物好きな奴もいるもんだなぁ。それより、さっきの続き、結局どうだったんだよ」

 まだまだ文句を言いたりない様子のまるみをおちつかせるため、平井は慌てて話題を引き戻した。

「鉢から白い粉の入った袋が出てきたんだろ」
「えっ……!」

 小さな驚きの声と共に、二人の間を困惑と不安が過って行った。平井の冷静な眼差しを受けながらも、まるみは動揺を押さえる事ができなかった。

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