なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

CF 彼女についての考察


シーズン  1   -彼女についての考察-

 僕が始めて彼女を見たのは、地下のショッピングモールの中心地にあるクリスタルファウンテン(つまり東西と南北に伸びたショッピングモールのクロスした部分にある広場の中心に設えられたクリスタル製の噴水で、クリスタルの下に施された電飾がいろんな色に輝く仕掛けになっている)に面したカフェで読書をしているときだった。

もともとビジネス街として発達したこの街では、地上にショッピングモールを作る場所もないほどビルが乱立しているし道路はいつも渋滞しているので空気が悪い。だから地下といいつつも空調がなされ、天井にはCGによる自然な空が映し出されたショッピングモールにテーブルやイスを張り出し、道行く人々をなんとなく眺められるこのカフェはそれなりに繁盛しているようだ。

僕は大学の帰り道にこのカフェで一休みして読書をするのが日課になっていた。彼女はそんな僕の日常の中にとても自然な感じでカフェの客として現れた。僕の後ろの席に座った彼女は飲み物を注文するとすぐに携帯電話をチェックしていた。いや、もちろんじろじろ観察していたわけではないが、かすかな携帯の電子音でそれとわかる。
すでにコーヒーを飲み終えていた僕を後ろからふんわりと包み込むような甘いフローラルの香りは、図書館の古い書籍とコーヒーの匂いにどっぷり浸かった生活をしている僕には充分に刺激的だった。

しばらくすると彼女の携帯が鳴り出した。着メロはカノン。清楚な印象のヴァージョンで彼女のイメージにぴったりだ。
一人でほくそ笑んでいた僕の後ろで彼女の小さなため息が聞こえた。そのまますぐに席を立つと、彼女はまだ湯気の漂うコーヒーを残して店を出た。きれいなウエーブが栗色の髪に良く似合っている。ジョーゼットのスカートも彼女の可憐さを一層引き立てていた。

また会えるだろうか。

僕はその日から、知らず知らずのうちにあの甘いフローラルの香りを探すようになってしまった。


その日以来、僕はあのカフェに留まる時間が長くなった。同じ授業を取っている伊藤がからかって言う。

「佐伯! 最近図書館にいないと思ったら、こんなところで本を読んでたのか?ここは図書館じゃないぜ。」
「どこで本を読もうと僕の勝手だろ」
「ばかだなぁ。ここはこのでかい街の遊びの中心地なんだぜ。彼女がほしい哀れな男がかわい子ちゃんを物色するのに最適な場所なんだよ」

 伊藤という男は本当に要領のいい男だ。こんなに遊んでいる風なのにどうしてあの大学に入れたのか。僕はいまだに疑問だ。で、遊び人伊藤に寄ればここはナンパをする場所だということらしい。

「いや、ここは遊びの中心地なんかじゃない。ショッピングモールの中心点だ。あの噴水を見てよ。クリスタルで作られたあの噴水は知性と上質の象徴だと僕は思うよ。つまり、地上で働いているエグゼクティブの象徴なんだ。」
「まったく、お前は固いなぁ。女の子は光りものが大好きなんだよ。だから、おしゃれでかっこよくてちょっとリッチなあの噴水に吸い寄せられるようにやってくるんだ。」

 思わずため息が出た。どうやら同じ大学に通っていても生息地は全く違うようだ。

「ところで、そんなナンパ男の伊藤くんが僕に何の用さ」
「いやあ、忘れるところだった。今日、ちょっと野暮用があってさぁ。授業に出られなかったんだ。ノートのコピーもらっていい?」
「?!」
「怒るなよ!代返ぐらいめずらしいことじゃないだろ。」

 こういうことをやり続けていると最後にはしっぺ返しが来るものだと昔話などでは聞かされているが、どうやら今の世の中は別のようだ。伊藤は僕のファイルを神からの賜り物のように掲げて受け取ると、にやっと笑って店を飛び出していった。


 僕は最近ノートパソコンを使うようになった。意外なことにいつものカフェは、レポートを作成するのに最適な場所なのだ。思考が煮え詰まってきたとき、ふと顔を上げるとそこに街の風景がある。
 その日、僕は課題の資料をテーブルに山積みにして夢中になってレポートを仕上げていた。店のマスターがコーヒーのお替りを持ってきてくれた。

「がんばってますねぇ」
「いつもすみません。」
「いえいえ、気にしないで。君がいてくれるとね、結構店にとってもメリットあるんだよ」

 言葉の意味がわからなくて店長の方を向き直ると、渋みのあるヒゲを擦りながらちらっと店内に目をやる仕草が見えた。
 店内には数人の女性客が楽しげに話しに花を咲かせている。そして、ちらっとこちらを見るときゃあと歓声をあげていた。

「ま、気にしなくていいよ。彼女達、あそこから眺めてるだけで嬉しいらしいから。じゃあ、ごゆっくり」

 僕は驚きのあまり言葉が出てこなかった。178cm65kg、コンタクトが苦手で眼鏡をかけているがブランドものでもないし、同じような体形でも伊藤のように複雑怪奇なワックス三昧のヘアスタイルでもない。上質なものは好むが流行にはとんと興味のない自分のような大学生がアイドルのように観賞されているなんて。

 悪いウイルスにやられたのか、それとも不慣れなアイドル業に疲れたからか、その日の夜から僕は熱を出してしまった。


 3日が経った。風邪はすっかり治ったようだ。いつものように大学の帰りにカフェによると再び僕はレポート作成に夢中になる。今回は雑多な資料が多くて困る。
 あまりに集中しすぎたのか肩が痛くなった。うーんと思い切り腕を上に差しだして伸びをすると、手の先がなにかやわらかいものに触れて驚いた。

「す、すみません!」

 慌てて振り向くと、そこには笑顔を称えたあの彼女が立っていた。

 彼女はそのまますたすたと僕のテーブルの横まで歩み寄ると、すっとしゃがみこんでテーブルの下に落ちていた資料の小冊子を拾い上げてくれた。

「勉強熱心なんですね。」
「いえ、そういうわけじゃ。。。」

 あたふたとみっともない自分をさらけ出しながらも彼女のオーラに包まれて夢心地になってしまう。僕もただのオスだったってことか。

 その日は自分の部屋に帰ってもなかなかレポートに着手できなかった。気が付くといつも彼女の笑顔が頭を支配しているんだ。
机に向かってノートパソコンを開く。レポートの続きを打ち込みかけては手が止まってしまう。こんなことではいけないのに。顔をあげると達筆な行書でかかれた『精神一到何事か成らざらん』の文字が目に入る。

「先生。。。」

 この書は高校時代の先生からもらったものだ。難関だった高校に入学して、周りは難関大学を目指すライバルばかりの中で3年間を過ごした。それが当たり前だと思っていた僕に卒業式の準備に追われていた岡田先生から渡された。

「大学というところは、いろんな連中が集まってくる。ここのように真面目で勉強熱心な人間ばかりじゃない。自分の夢を実現するためには、邪念は捨てることだ。目指す資格を手に入れてからでも、人生を楽しむ時間は山のようにあるはずなんだからな」

 なんだか想像もつかない言葉だった。しかし、それから3ヶ月もしないうちに先生の言葉の意味を理解することになった。いろんな連中。そう、例えば伊藤だ。
 そして今日、またしてもそんな人種の一人が現れた。困った事にその人物はこちらに何か仕掛けてくるような類のものではない。邪念に揺れているのは自分ばかりだ。
しっかりしろ、佐伯修司! 彼女はただカフェですれ違った客に過ぎないのだ。美しくて品が良くて、魅力的で優しく微笑む。。。ああ、まずい!

自分の手のひらで両頬をバシッと叩き、気合を入れてレポートに集中した。しかしそうしながらも何とかしなければという思いが芽生え始めていた。


それからの5日間、僕はカフェに行く事を自分に禁じた。自分の成すべき仕事に集中するためだ。時々はカフェに向かいそうになる自分に翻弄されたが、無事、期日を守って提出物をクリアできた。
これでカフェに行ける。ショッピングモールを歩きながら、僕の決意は固まりつつあった。

「やあ、久しぶりだね」

店長はいつもどおりの屈託のない笑顔で迎えてくれた。軽く会釈をしていつもの場所に座る。天井のCGもどこかたそがれた色味に変っている。季節の移ろいすら人工的に作られているのか。
深呼吸すると、どことなく懐かしい秋の気配を感じる。胸が急に締め付けられる感覚に戸惑った。


平常心を取り戻したい。僕はすぐさまいつもの席に座り読書を楽しもうと試みた。しかしそれは徒労に終わる。心に秘めているものが読書することすら許さないのだ。

かすかな甘い香りが漂い、彼女が店を訪れたのがわかる。妙な胸騒ぎがして顔を上げると、彼女の向かいに40代半ばの男が座っていた。
マスターがコーヒーを運んで下がっていくと、すぐさま体を乗り出して聞こえよがしな小声で彼女を責めた。

「何考えてるんだ。あんな時間に電話なんか掛けられたら迷惑だろ」
「だって。困ったときにはいつでも相談に乗るよって言ってたじゃない」
「はぁ?それは言葉のアヤってもんだろ。君には充分な報酬を支払っているはずだが?」

 まるで彼女の言う事など聞く耳を持たないらしい。

「報酬? ひどいわ。私、そんなつもりじゃ。。。」
「そんなつもりもこんなつもりも、ないよ。潮時だな。これで終りにしよう。言っておくが、こうなったのは君の電話のせいなんだ。文句はお門違いだよ」
「あっ!」

 彼女が驚いている間に、男はさっさと席を立った。どういう関係だったか分かりたくもないが、彼女を一人店に残して、代金も払わずに出て行くとは随分ひどい男だ。
 二人が座っていた席が僕の席から丸見えになる位置だったことが辛かった。

 僕に背を向けてぽつんと座っている彼女は身じろぎもしない。泣いているのかもしれない。声をかけるべきか、それともそっとしておいてあげた方がいいのだろうか。僕は本の真ん中をじっと睨みながらしばらく考えていた。
 そのうち、すすり泣くような声が聞こえてきた。やっぱり泣いているんだ。

 僕の中の決意は波打ち際の砂の城のようにあっさりと崩れ落ちた。本を閉じて立ち上がり、彼女のテーブルの横を通り過ぎるとき、そっとハンカチを置いた。
 彼女の泣き顔は見たくなかったが、そんな姿さえ美しいと感じてしまう。

「ありがとう」

 彼女が力ない声で言う。こういうとき、どんな言葉が適切なんだろうか。言葉が出ないまま、僕は小さく頷いてその場を離れた。

 それから10日ばかり彼女の姿を見ることはなかった。よほど悲しかったのだろう。もしかしたら僕のやったことは余計なことだったのだろうか。
 学校帰りのカフェでふと顔を上げると、目の前に彼女が座っていたイスがぽつんとそこにある。あの日、僕が胸に秘めていた決意は、あの場面には到底そぐわないものだった。
 言わぬが華ということか。


「佐伯!ここだよ!」

 いつものカフェに行くと、なぜか伊藤が待っていた。まるで約束していたような口ぶりに鼻白む。

「ここに来れば会えると思ってたよ。再びなんだが。。。その」
「ノートか?」
「悪いねぇ。恩に着るよ。」
「どうしてそんなに抜け出してばかりなんだよ?」
「しょうがないじゃないか。彼女がどうしても会いたいってうるさいんだよなぁ」

 わざとらしく髪を掻きあげるのは、どこかのタレントの受け売りか?

「まったく、いい気なもんだな」
「そう言うなよ。今度埋め合わせしてやるからさ。じゃあ」

 ノートを受け取ると、さっさと立ち上がった。

「あの、こんにちは」
「あ、あなたは…」

 突然の事でうまく言葉が出ない。伊藤は突然やってきた彼女を後方からにやにやと眺めると僕に向かって眉毛をあげて見せ、さっさと店を出て行った。
 舌打ちしたい気分だったが、彼女の前ではそれもはばかれる。

「この前は、ありがとう。かっこわるいとこ見られてしまって。。」
「ああ、いや。そんな。。。」

 ああ、こういうとき伊藤だったらどんな風に返すんだろう。
 オタオタしていると、彼女がハンカチを差し出した。それは、前に僕が彼女に手渡したハンカチだった。受け取るとかすかなフローラルの香りがした。きちんとアイロンがけもされている。彼女の人柄が出ている気がした。

「あの、よかったらどうぞ」

 言った本人が一番驚いた。まさか自分の口からこんな気の利いたセリフが飛び出すとは思わなかった。そして、彼女は嬉しそうに微笑むと、「じゃあ、お言葉に甘えて」と僕の隣に腰を下ろした。

 彼女の名前は本能寺美優というそうだ。3人兄妹の末っ子で、今は家を出て一人暮らしをしているという。話をしていくうちに、僕との共通点もいくつか見つかった。両親が共稼ぎだという点、一人暮らしをしている点。そしてこのカフェの常連である点もだ。

 一人暮らししているというが、彼女には世間ズレしたところもないし生活感も感じない。なんというか、あまりにも無防備な印象が残るのだ。放置できない何かをいつもその瞳に宿している。ただ、良家のお嬢さんだろうことは、身につけているものでなんとなく判断がついた。靴もカバンも、流行のブランドではないが老舗の上質なものを選んでいる。
 まるきり自分の価値観と似ていることに、僕は気持ちが高ぶるのを自覚した。

 翌日も、その翌日も、カフェに行くと彼女に会うことができた。少しずつ意思の疎通がなめらかになっていく。いつのまにか彼女に会うことが当たり前のことのように感じていた。
 そんなある日。僕は見覚えのある女の子に呼び止められた。


「彼女にこれ以上近づかない方がいいですよ」
「どういう意味かな。」

 僕はその女の子のことを思い出そう頭をめぐらせながら答える。女の子はちょっと怒ったような不機嫌な雰囲気を漂わせたまま、一旦顔を背けた。

「君は本能寺さんのお知り合い?」

 しょうがないのでこちらから声をかけた。女の子はキッと僕を睨む。余計なことを聞くなと言う事か。

「とにかく、伝えましたから!」

 それだけいうと、あっという間に立ち去った。その後姿を見てふと思い出した。そうだ、あのカフェでいつも楽しそうにおしゃべりしている女性陣、マスターが僕が店に来るとメリットがあると言っていたあの時のグループの一人だ。

 だけどどうしてそんな人が本能寺さんのことを知っているんだろう。ただの嫉妬か?それとも何か本当に知っているのだろうか。僕の脳裏に40代の男の姿が浮かんだのは言うまでもない。思い出したくない彼女の過去の片鱗は、僕の心の奥に小さなひっかかりを作っていた。

 その次の日、僕は思い切って彼女を食事に誘った。これが一晩考えた結果だ。僕が求めているものは彼女の過去でも評判でもない。
 彼女はとても優雅に食事をする。ちょっと困ったのはタバコを吸うことだった。だけど、それもこちらの要望を聞き入れて、僕の前では吸わないでいてくれる。これは結構無理なお願いだと思っていたので、僕は随分と浮かれてしまった。

 それからも、僕は彼女にいくつかのアドバイスをした。そのたび、彼女は真面目に聞いてくれたし、時に議論に発展することもあったけど、お互いの譲歩で合意点を見つけ出すことが出来た。

 僕はいつの間にか彼女のことを美優と呼ぶようになり、彼女はシュージと答えるようになっていた。

 街中にクリスマスソングが流れるようになった頃、カフェの3軒手前の店から伊藤が飛び出してきた。

「佐伯! ちょっと待って。」
「なんだよ。僕に用があるならカフェで待っててくれればよかったのに」

 伊藤はちょっと息を整えてから僕の肩をわしづかみにして言った。

「悪いけど、カフェにはいけないんだ。ちょっとここの店に寄ってくれないか」

 事態が理解できないまま、伊藤の腕に引っ張られる形で手前の喫茶店に連れ込まれた。店内にはすでに飲みかけのコーヒーと本がおいたままになっていて、伊藤がさっきまでここで僕が来るのを待っていたのが分かった。

「佐伯、あれから彼女と付き合い始めてるのか?」
「彼女?」
「そうだよ。ちょっと前にあのカフェでハンカチかなにかをお前に返していたあの彼女だ」

 伊藤、お前もか。それが僕の気持ちだった。しかし伊藤の話はちょっと違っていた。


「本能寺美優っていうんだろ? 実は俺の彼女と同じ大学なんだ。なんでも裕福な家のお嬢様だそうだけど、親がいそがしくて子どもの面倒を見ていないらしいぜ。」
「子どもの面倒って言っても、彼女はもう20歳だよ」
「まあ、そう焦るな。そう、今は確かに20歳かもしれないが、彼女にだって子どもの頃があった。そしてその頃もやっぱり親は忙しくて彼女に構っちゃくれなかったとしたらどうだ?」

 伊藤と言う男はこんなに回りくどいことをいう男ではなかったと思っていたが、何が言いたいのだ?

「はっきり言えって顔だな。俺の彼女によるとだ。本能寺美優と同じ高校出身の人物からの話では、彼女は高校時代から随分と派手で乱れた生活をしていたっていうんだよ。」
「本当に彼女のことなのか? 僕にはそうは見えないが」
「そう、そこなんだ。本能寺美優は派手で乱れた生活を送っていたのに、ここ1月ほどの間に随分と大人しくなってきたって言うんだ。ケバケバしい服装もしなくなったし、タバコも吸わなくなった。それに、真面目に勉強する姿も見られるようになったんだそうだ。」
「で、それが僕と付き合い始めたからだってわけか?」

 バカバカしいにもほどがある。彼女はいつも清楚な装いで清潔な雰囲気を醸し出している。ケバケバしい服装など見たこともない。

 僕は頭の中で伊藤の言う美優の虚像を1つ1つ打ち消していった。しかしどうにも何かがひっかかる。
 そうだ。あの40代の男との関係だ。あれだけは、消したくても消す事ができない。

「どうやら思い当たる点が見つかったようだな。14、5歳の中坊相手の話じゃないからこれ以上は言わない。だけど、よく考えろよ。女の子の噂はとかく尾ひれがついてくるが、自分の目で見たもの、感じたものはごまかせないだろ」

 悔しいが否定する事ができなかった。彼女をさりげなくリードしているつもりだった僕は、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 思い上がりだった。危なっかしくふわふわとした印象の彼女を優しく安全な場所に誘導しているつもりだったのだ。危なっかしく世間知らずだったのは僕の方なのに。

 伊藤は僕の肩を軽く二度ばかり叩くと、静かに店を出て行った。目の前には飲みかけのコーヒーカップ。まだ穏かな湯気が上がっている。しかしそれを口に持っていく気力は、今の僕には残っていなかった。ましてや、カフェに足を伸ばす事など出来るはずもなかった。

 その店から、どこをどうやって帰ったのか、自分でも覚えていない。とにかく、気が付くと僕は自分の部屋に戻って机に向かっていて、目の前には何冊かの本が並んでいた。

 こんな時でも勉強なのか、佐伯修司よ。

 自嘲しながらも僕は勉強に集中しようと試みた。進学校で叩き込まれた学習の習慣のおかげか、僕はあっさり勉強に没頭し始めた。1月には資格試験がある。僕のレベルではまだ無理かもしれないが、受験は申し込み済みだ。

 ふと我に返ると、深夜になっていた。考えてみれば夕食も摂っていない。しょうがない、コンビニにでも行ってみるか。
 僕は重い腰を上げた。

 深夜の冷え込みは厳しい。ダッフルコートの上からぐるぐるとマフラーを巻いて鼻まで防寒すると、僕は部屋を出た。
 ドアの鍵をかけて外を見ると、まるで見慣れない風景と今まで嗅いだ事のない深夜の匂いがたち込めていた。そのまま小走りにコンビニまで行く。遅い時間なのに、随分とコンビニは混み合っていた。

 食料を買い込んでレジに並ぶ。2台のレジはフル稼働だというのに、客の列は店の後方にまで伸びていた。客はいろいろで酔っ払い男性やごく普通の大学生、僕もその一人になるのだろうけど、あと妙に派手な服装の女の子達とその取り巻き風の男たち。今から仕事に行くような感じの人もいた。
 やっぱり世間知らずなんだな、僕は。こんな時間に外にいる人のことなど想像すらしたことがなかった。


 僕の後ろに並んだカップルが抱き合うような格好でいちゃついているのが店のウインドウに映っている。美優はどうしているだろう。いつものようにあのカフェで僕を待っていてくれたのだろうか。
 店の時計を見上げると、12時を回っていた。カフェはもうとっくに閉まっている。どんな思いで席を立ったのだろうかと想像しただけで胸が痛んだ。

「ねえ、最近ミユが付き合ってる男って知ってる?」
「ミユ?ああ、うまいこと金づるを見つけたって言ってたよなぁ」
「ああ、そんなの古い古い!今は美形の眼鏡君なんだってよ。あの子ったら、彼にあわせて真面目に勉強してるんだってぇ。」

 斜め前に陣取っていた派手な女の子たちがはしゃいでいる。

「健気だねぇ。ちょっと前のあの子からは考えられないね」
「でも、いつまで続くのかしらね。プラトニックラブなんだってよぉ」
「ひゅう~♪ 泣けるねぇ。俺がなぐさめてやりたいよ」

 男達も一緒になって盛り上がっていた。ミユ…。眼鏡君?金づるか。やっぱりそういう人だったのか。僕の視線は手元にある売れ残りの弁当から動けなくなってしまった。

 レジを済ませて部屋に帰ると、大きなため息が漏れた。しばらくは考えたくない。頭が冷えるまではそっとしておいてほしかった。
 コンビニの弁当を温めて食べる。野菜がほとんどなくて、どうにも味気ない。明日からはまた、きちんと自炊しよう。

 それからしばらく僕はカフェには行かず、図書館に通い詰めて資格試験に向けての勉強に精を出していた。そう、僕は勉強するために大学に来ているんだ。決して遊ぶためでも彼女を作るためでもない。

 あっという間に年が明け、試験が終わった。彼女のことを放り出したまま、こんなにも日が立ってしまっていることに愕然とする。
 僕は、あまりのショックに逃げ出してしまったんだ。彼女に何の説明もせず、サヨナラも言わないで。

 授業が終わって大学の門を出ると、目の前を伊藤が歩いているのを見つけた。

「伊藤!」
「おっと、めずらしいねぇ。佐伯君の方から声を掛けてくれるとは」

 相変わらずの明るさに救われる。

「あのさ。頼みにくいお願いなんだけど。。。」
「本能寺美優のことか? 俺もちょっと気になってさ、昨日彼女に聞いたところなんだ。ちょっとのどが渇いたなぁ」
「分かった、コーラでいいか?」

 まったく伊藤ってヤツはちゃっかりしてる。だけど、その分いやらしさがなくて、僕はそんな伊藤がなんとなく気に入っている。

「サンキュウ! 彼女の答えなんだが、どうも本能寺美優は落ち込んで暗くなっているらしい。誰ともしゃべらなくなって、ぼんやりと窓の外を眺めている事が多いんだそうだ。可哀想と思うかもしれんが、今までの派手な遊び方はすっかり有名になってるし、知らないでいたのはお前ぐらいのもんだったんだよ。」

 伊藤はコーラを一気に飲み干して、ぷはーっと声を上げた。

「あの子だって自分のことぐらいわかってるだろうから、覚悟は決めてたと思うよ。自業自得だからな。お前は常識から逸脱するぐらい生真面目だし。最初っから無理な組み合わせだったんだよ」
「そうか」
「気に病むなよ。女の子紹介してほしいなら、今度合コンに連れてってやるよ」
「ありがとう。でも、今はいいよ」

 伊藤はちょっと残念そうな顔をして、じゃあなと元気に街に飛び出して行った。今日もデートなんだそうだ。
 僕は自分の手元に残った缶コーヒーを飲みながら、門にもたれかかってぼんやりと考え込んだ。


 ぼんやりと窓の外を眺めている彼女の姿は容易に思い描ける。彼女にとって僕との出会いはほんのつまみ食い程度のものだったのだろうか。落ち込んでいるということだけど、学校にちゃんと顔を出しているってことはそんなに大きな出来事ではなかったんだろうか。
 自嘲的な笑いがこみ上げてくる。僕は、バカか。

 2月のある日。大学を出ようとしたところで、呼び止められた。前に声をかけてきた女の子だ。

「あの、これ! 受け取ってください!」
「え?これ、何?」
「あの、帰ってから開けてください。じゃあ!」

 女の子は顔を真っ赤にして逃げるように走り去った。渡された紙バッグの中にはリボンをつけたハート模様の包みがあった。そうか、今日はバレンタインディだったんだ。
 気を取り直して歩き出すと、駅の改札の前にカフェで見かけるいつもの女の子達がたっていた。

「ほら!やっぱりこの駅で間違いなかったじゃない!」
「わぁ、久しぶりねぇ」

 みな口々に、好きなように騒いでいる。僕は気付かないふりで通り過ぎようとしたが、やっぱり呼び止められてしまった。

「佐伯さん! これ、私達からのプレゼントです。」

 差し出された大きな包みを受け取る。さっき一人で来た女の子も一緒に笑っていた。そっか、さっきのは別なのか。

「ねえ、どうして最近カフェに来なくなったの?マスターも寂しがってますよ」

 グループの中の一人の女の子が問う。

「ん、資格試験を受けようと思って、ちょっとがんばってたんだ。やっと終わってほっとしているところだよ。」
「じゃあ、またカフェに寄ってくださいね」
「ん、まあ。そのうちね」

 女の子達は嬉しそうにそれぞれ手を振って帰って行った。あの様子だと彼女はカフェに顔を出していないらしい。
 僕はほんの少しほっとした気分になった。またもとの生活ができそうだと思ったからだ。

 明日からまた、カフェに寄って読書が出来そうだ。
学校の帰りにカフェに寄って、その後スーパーで買出しをして帰る。部屋に帰ると炊飯の準備をしてシャワーを浴びる。僕の一人暮らしの基本的生活が戻ってきたような気がした。

 夕刊を取りに行くと試験の合格通知が届いていた。嬉しいというよりも、本当にこれで1つ完結という印象だけが残った。

 春休みの間、僕はカフェでアルバイトをした。休みの日には実家にも帰ったが、弟はクラブが忙しく両親も仕事に追われているので、家にいても殆ど一人になる。それなら自分の部屋にいるのと同じだった。
 アルバイトをしたお陰で知り合いも増えた。新しい年度が始まっても、僕はもう後ろを振り向くことはなくなっていた。

 日差しはじりじりと強くなり、梅雨の始まりを感じる強い雨が振る日が何日が続いたある日。僕はいつものカフェである知らせに愕然となった。

 彼女が、美優が亡くなったというのだ。


「お前も一応知らない人じゃないわけだし、伝えておくよ。隠してもそのうち分かるだろうから言うけど、男と心中したんだってさ」
「まさか。。。」
「今年度になってから、あまり学校にも顔を出さなくなっていたそうだ。大学には親しい友人がいなくてなかなか分からなかったらしい。
5月の終り頃、避暑地に向かう路線で電車の脱線事故があったの、覚えてるか? あの時、線路に男女が横たわっていたって話があったんだが。」

 確かにそんな話をニュース番組で見た覚えがあった。列車事故の原因は線路への置石だったらしいが、そのすぐ先に若い男女が横たわっていたと。

「その女ってのが本能寺美優だったらしい。男の方はまだ身元が分かっていないんだそうだ。警察が俺の彼女や同じ学部の連中に聞きまわっていたそうだが、誰もあの子の交際相手については知らなかった。」
「まだ…」
「え?」
「まだ、あれから半年しか経っていないのに。どうして」

 僕は体中の血が逆流するような悪寒を覚えていた。視界の端に気の毒そうに佇む伊藤の姿が見えた。

「ごめん。とりあえず、教えてくれてありがとう」
「もう、終わってしまった事だ。忘れた方がいい。気を落とすなよ」
「ああ」

 伊藤は心配げに席を立ち、じゃあなっと店を出た。僕はそんな伊藤の後姿を静かに見送った。目を落とすと手元のカップにはまだコーヒーが残っている。僕はゆっくりとそれを楽しんで読みかけの本を読んだ。

 いや、正直に言うと、本を開いてそのページを見ていただけだった。何度同じところを読んでも意味が分からない。

「こんにちは」

 月守沙希絵が声をかけた。彼女はヴァレンタインデイに一人だけ先にチョコをくれた女の子だ。あの時ははにかんでいたが、実際の沙希絵はなかなかのしっかり者で、自立した印象に好感が持てる。恋人ではないが、親しいガールフレンドになりつつある。
 でも、今日の僕にとってはあまりあいたくない人物だ。

「やあ、今来たの?」
「ええ」
「じゃあ、入れ違いだね。僕はそろそろ帰らなくちゃならないんだ」

 僕はそういいながら手元の本をカバンに片付けた。

「待って! 本能寺さんのこと、聞いたんでしょ」

 図星だった。関係ないで通そうと思ったが、体が動かない。


「私、そのことで相談に乗ってほしいの。私が始めて佐伯君に声をかけたとき、何を言ったが覚えてる?」
「あ、ああ。彼女に近づくなって」
「覚えていてくれてありがとう。あの時、私ものすごく怒ってたんです」
「確かにそうだったね」

 覚えている。眉毛を釣り上げ、口を真一文字にして僕を睨むようにしていた。だけど、今はそんなことどうだっていい話だ。僕はそろそろと立ち上がり、カバンを肩にかけた。

「去年の春、私の兄は本能寺さんと付き合っていたの。大学に通いながら家庭教師やスイミングスクールのトレーナーのアルバイトをこなしてがんばっていたのに。
あの人に出会ってしまった兄はすっかり人が変わってしまったわ。バイト代は全部あの人につぎ込んでた。あの人、自分がお金持ちだから普通の人の経済感覚がわからないのよね。」

 去年の春? では美優はその後に40代の男と付き合っていたというのか? いや、それよりも、僕の知っている彼女はそんな風に金銭感覚のずれた様子は少しもなかったのに。。

「それが、突然彼女が会わないって言ってきてそれっきり。兄はショックが大きかったらしくて、掛け持ちしていたアルバイトも全部やめて、引きこもってしまったわ。ところが、私が大学の近くで見かけたって母に話しているところを聞いてしまった兄はすぐさま家を飛び出して、それっきり帰ってこなかったの。」

 沙希絵の話に僕は鳥肌が立っていた。僕も付き合いが長くなっていたら、そんな風に自分を見失っていたのかもしれない。それを認めざるを得ない要素は充分に持ち合わせている。

「で、お兄さんのその後の消息は?」
「それが、分からないままなの」

いつもハキハキとして意思の強そうな瞳をした彼女も、今日はその勢いを失っている。

「じゃあ、もしかしたら。。。」

 沙希絵はがばっと立ち上がると僕の両肩をがしっと握り締めた。

「ねえ、貴方もやっぱりそう思う?私、怖いのよ。もしもそれが兄だったらどうしよう」
「まだ消息が分からないままなら、警察に行くべきだと思うよ」
「お願い!一緒に来てよ。私、怖くて。。。」

 僕には荷が重い仕事だった。だけど、いつも気丈にしている沙希絵がこんなにも取り乱しているのに、放り出してはおけなかった。

 警察に出向くと窓口で事情を説明した。沙希絵の話を聞いた警官は、僕たちを別室に誘導してノートパソコンを持ってやってきた。

「画像の質は悪くないのですが、なにぶん列車事故なので、遺体の状態はあまりよくありません。覚悟をしてくださいね」
「はい」

 沙希絵は目を瞑って小さく深呼吸をすると、警官の差し出したモニターに目をやった。

「兄さん!! うそ…。うそでしょ? いやぁーーっ!!」
「しっかりするんだ!本当にお兄さんなのか?」

 錯乱する沙希絵の両肩を押さえ、何とか落ち着かせる。

「佐伯君、どうしよう。やっぱり兄さんだった。右の眉尻にほくろが二つ並んでるの。間違いないわ」
「わかりました。では、書類をお持ちします。少しお時間を頂きますので、ご家族に連絡してすぐにここに来てもらえるよう頼んでください」

 警官は冷静にそういうと、部屋を出て行った。僕はどうしていいのか分からないまま沙希絵の背中をさすっていた。


「ありがとう。ごめんね。」
「僕のことはいいから、お家の人に早く電話してあげたほうがいいんじゃない」
「そうね。だけど、なんて言おう」
「何もわからないままこの先何十年もお兄さんの帰りを待っているより、本当のことが分かって、キチンとお葬式してあげる方がいいんじゃないかな。」

 沙希絵は何度も頷いて震える指先で母親に電話を入れていた。

 今日という日はいったいなんて日なんだ。自分のことだけでもいっぱいいっぱいなのに、沙希絵の兄さんまでこんなことになってるなんて。

 ほどなく沙希絵の母親がやってきた。じき父親もやってくるということだった。僕は居づらくなって、母親に頭を下げて先に帰ることにした。

「待って。佐伯君ですよね。いつも沙希絵からお話は聞いています。今日はとんでもないことに付き合ってもらって、ごめんなさい。驚いたでしょ?」
「いえ。そんな」

 悲しみに濡れた瞳の中にも、母親の愛情が篭ってると思った。このお母さんに育てられたのならもっとしっかりと育っているはずだろうにと、僕は不謹慎にも沙希絵の兄さんを不甲斐なく思った。

「貴方は、どうか元気に過ごしてね。こんな親不孝、するもんじゃないわよ」

 一瞬、小さな肩が自分の母親とダブって、ぎゅっと抱きしめたくなった。なんともいえない気持ちで頭を下げて部屋を出る。僕には、出る幕もない。

 家に帰って、何をどうしていいのかわからず頭を抱えていた。しーんと静まっているのが辛くなってテレビをつけると、ワイドショーのようなものが流れていた。画面ではきれいに髪をセットしたタレントのような中年の夫人が号泣していた。

「娘は、娘はわたくしの宝物でした。どうしてこんなことに。。。娘を返して!」

 搾り出すようにそれだけの言葉を言って、関係者に導かれて車に乗り込む。この人も子どもを亡くしたのか。

「どうしてこういうことになったんでしょうねぇ。本能寺家といえば、高級ホテルやスキー場など多数経営される優雅なイメージですが、ねぇ。」
「そうですよねぇ。企業イメージもクリーンだし、お母様は子育て本の著者としても有名で、講演会もいつも満員だっていうじゃないですか。悪い男にでも騙されたんでしょうねぇ。見てくださいこのお嬢さん。天使のような無垢な微笑みじゃないですか」

 ばっと大写しになった写真を見て、僕は画面にしがみついた。「天使のような無垢な微笑」を浮かべていたのは、美優だったのだ。

「ばかだなぁ。目が笑ってないじゃないか。」

 僕は画面で微笑んでいる美優に向かってつぶやいた。


 その日の夜。僕は沙希絵からの電話でたたき起こされた。

「佐伯君、テレビ見た? 貴方も早くどこかに隠れた方がいいわよ。兄さんの身元が分かったというので、マスコミがバタバタしているわ。貴方の事も探りを入れてるって大学の事務局に勤めている先輩から連絡があったの。」

 なんのことだか理解するのに時間がかかった。

「私達、何も悪いことなんてしてないわ。だけど、このマスコミの動きは異様だって、警察の人が先回りして身を隠すことを勧めてくださったの。不本意だけど、しばらく消えるわ。貴方も気をつけて。」

 時計を見ると、夜中の2時だった。訳が分からないが、沙希絵の緊迫した声に推されて、僕は数日分の着替えをカバンに詰めて、とりあえず家を出た。繁華街までタクシーで移動して、ネットカフェで朝を待つ。
 こういうところには来たこともなかったが、意外に盛況なんだなとちょっと驚いた。

 朝になって実家に電話を入れると、母さんが怒鳴り声をあげた。

「アンタ!いったいどこをほっつき歩いてるの! 心配するでしょう!」
「母さん、僕、そっちに帰っても大丈夫かなぁ。」
「バカねぇ。当たり前でしょ。今日は母さんが休みを取ったから、家でゆっくりしていきなさい。春休みもゆっくりできなかったし、ちょうどいいじゃない」

 後半はいつもの母さんに戻っていた。やっぱり親って有難いもんだと思う。


 夜中のうちに家を出ておいて助かった。そのまま実家までは何事もなかったように帰りついた。ほっとしてテレビをつけると、重傷だった電車の運転手が自殺したと速報が流れていた。

「どうして?」
「アンタにはまだわからないかしらねぇ。本能寺グループの娘を殺しちゃったってことにされたのよ。そうでなくても本能寺の娘と男が線路に並んで寝転んでいたのを目撃した唯一の人間でしょ。精神的に追いやられているだろうのに、マスコミも容赦なく追い討ちをかけるだろうし、もしかしたら本能寺グループ関係の人間も何か交渉しに行ってたかもしれないわ。
 可哀想に。運が悪かったのね。」

 母さんは冷静にそう言って、何事もなかったように湯飲みを僕の前に置いた。僕はその湯のみから立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、『ドウシテ』という言葉を頭の中でグルグルとかき回していた。

「ところで、どうしてアンタがあんな金持ちのお嬢さんと付き合っていたわけ?」
「ええーっ!付き合うって言ってもカフェで一緒にお茶を飲んだり一緒にご飯食べに行ったぐらいだよ。彼女って何も知らないから、お米のとぎ方とかゴミの分別の仕方とか教えてあげたりして」
「はぁ? なにそれ?」

 母さんは口をあんぐりとあけて僕を見た。そして、急に噴出して大笑いし始めた。

「あはは。ばっかみたい!今朝方ね、聞いたことある名前のレポーターさんから電話をもらったのよ。お宅の息子さんは先日なくなった本能寺グループのご令嬢と深い仲だったらしいが、どんな付き合いをしていたのかってね」

 母さんはおかしくてたまらないという風にしゃべりながらも噴出していた。

「何が深い仲よねぇ。ウチの息子に限って、そういうことはないと思いますがって答えたんだけど。まったく最近の親は放りっぱなしなんだからとか言われてさぁ。あはは。
大きなお世話よ。手を離す前にはしこたま躾けておいたのに、何も知らない他人に口出しされることじゃないわよねぇ」
「ばっかじゃないの?」

 僕も一緒になって笑った。大笑いしながら美優のことを考えていた。彼女はきっと幼い頃から母親の愛情をもらえなかったに違いない。言いなりにしかならない乳母やメイドさんがそばにいても、子どもの心は満たされない。叱ってくれる人がいなかったんだ。

「あっ、そうだったのか」

 僕はやっと気が付いた。美優がどうして僕に従順にしていてくれたか。彼女は叱ってほしかったんだ。それで、がんばって僕の言うように生きようとしていたんだ。それまでは悪いことをしても、誰にも叱られなかったんだ。だから、どんどん流されていたんだ。

 僕があの時彼女から離れずにいたら、もしかしたら彼女は悲惨な最期を選ばずにいられたかもしれないのに。そうしたら、沙希絵の兄さんもあんなことにはならなかったかもしれないのに。


「どうしたの? 疲れた?」
「うん、ちょっと疲れた。二階で昼寝してもいい?」

 僕は自分の部屋に向かって歩き出した。

「いいわよ。部屋はそのまんまにしてあるから。修司、人とのめぐり合わせは誰か一人の行動で変ってしまうものだけど、他の誰かの手によっても、簡単に変ってしまうものなのよ。自分を責めないで。」
「ん、わかった。」

 自分の部屋に入ると今日一日のごたごたがウソのような静けさがあった。今まで当たり前に使っていた布団は急に帰った僕にはちょっとだけ埃っぽくて、そっけない感じがする。
 ゴロンと布団の上に横になって、ぼんやりと天井の模様を見た。

 この天井を見るのも久しぶりだ。ぼんやり見ているとじわじわと歪んで見えてくる。僕は、どうしてあの時。。。 後悔してもしようがないのだけれど、やっぱり悔やまれてならない。涙がどんどん溢れてくる。くっそー。めそめそするな! 

「どうして、どうしてたった一つの命を手放すんだよ!」

 頭から布団をかぶって、目いっぱい泣いた。そしてそのまま、僕は眠ってしまったらしい。時計を見ると7時だった。カーテンの隙間から明るい日差しが入っている。玄関先から弟のでかい声が聞こえてきた。

「そんなところでこそこそと!何の用だ!」
「えっと、君が佐伯修司くんかい?」
「なんだと?兄貴の顔も知らないで何だ。悪いがあいつはただの本の虫で人様に迷惑をかけるような度胸はないぞ。そんなことより、先月の俺の全国大会での活躍を取材しろよ。ほら、マイク貸してみ? カメラ!カメラはどこだ?」

 ざわざわと人々の逃げていく気配がしている。ぷっ、あいつめ、本の虫とはどういうことだ。僕は胸の奥からあったかいものがこみ上げてくるのを感じていた。あれでも弟は精一杯に僕をかばってくれているのだろう。

 翌日も、やっぱり数人のリポーターらしき人物が張り込んでいた。テレビでは美優の母親が一緒に心中した月守和馬、つまり沙希絵の兄さんのせいだと泣き叫ぶシーンが繰り返され、誰もいない月守家にたくさんのリポーターが押しかけ、反応のないインターフォンを何度も押すシーンが時折挟まれていた。

 沙希絵はどんな思いでこのテレビを見ているだろう。それとも、そんなものを見ることもできない状況になっているのだろうか。
 沙希絵の兄さんと美優が、どうやって再会し、どういういきさつで心中するに至ったのかなんて、あの家族にはまったくわからないことだ。それなのに、まるきり犯人扱いな報道の仕方に怒りすら覚える。

「ちょっと買い物に行ってくるわね。」

 玄関から母さんののん気な声が聞こえた。

「あ、お母さんですか?」
「何々? 私に取材? 悪いけど女優になる予定はなくってよぉ。お~っほっほっほ」

 たくましい母である。こんな家族に囲まれている僕は、本当に幸せなんだと思う。僕は、僕はやっぱり自分で立ち向かうべきだ!

 僕は、すぐさま服を着替えて玄関を飛び出した。


「すみません。ご近所の方にも迷惑なので、そういうことするの、やめてください。僕はここにいますから。」
「修司!」

 母さんが慌てて奥に引き入れようとするが僕は聞かなかった。

「本能寺さんと親しくしていたのは本当です。ほんの数ヶ月の間でした。彼女は、とても素直で穏かな人でした。だけど、彼女が過ごした忌まわしい過去に直面して、怖くなって逃げ出してしまったんです。亡くなったと聞いてすごくショックで、僕はどうしてあげるべきだったのだろうって、自問していました。
だけど、気が付いたんです。
 彼女は叱ってくれる人を求めていたんじゃないかって。なんでもいうことを聞いてくれるメイドさんではなくて、僕の父や母のように子どもに本気で向き合い、間違った事をしたときは真剣に叱り、がんばったときには自分のことのように一緒に喜んでくれる、そういう人が欲しかったんだと思います。」

 どこから出てきたのか、目の前にはわっとリポーターが集まった。僕は緊張でのどがからからだったが、今はそれどころではない。

「皆さんには、家族があるでしょう?お子さん、いらっしゃるんでしょう?自分の子どもが人の道を外れそうになった時、一生懸命叱ってやるのが親ってもんじゃないんですか?
僕と彼女は子ども時代から親が共働きで寂しい思いをした共通点を持っていました。だけど、僕が命を粗末にしないのは、どんなに忙しくしていても心の通う家族がいてくれるからなんだと思うんです。
彼女のお母さんは相手の人を責めているようですけど、彼女がそんなになるまでどうして手を差し伸べてあげなかったんですか。どうして、彼女の本当の気持ちをわかってあげようとしなかったんですか。僕は、僕は悔しいです!」

頭の中が真っ白になっていた。どんなに叫んでも、美優の両親には届きそうもないと思った。だけど、僕は叫ばなければいけないような気がしていた。

僕は言いたいだけ言うと頭を下げて家に戻ろうとした。すると、どこからともなく拍手が沸き起こり、騒ぎを聞きつけた近所の人たちやリポーターの人たちまでが拍手に加わって不思議な空気が生まれていた。

僕が発言した映像は、その日のうちにワイドショーで何度も流されたらしい。番組の流れも月守氏のバッシングから美優のお母さんへのバッシングへと変わっていった。そして、そんな騒ぎも2週間もすれば、大物タレントと女優の不倫によってあっという間に過去の話題に変えられてしまった。


僕はのんびりとカフェで本を読む。やっぱりここが一番の読書スポットだ。

「今日もいい天気だねぇ」

 沙希絵だ。2週間あまり姿を消していたが、無事に家に戻って来たのだという。

「しばらくサボってたからさぁ、勉強わかんなくて。。。ちょっと教えてくんない?」
「ノート貸そうか? まとめたのがあるから」

 僕がカバンからファイルを出そうとしているとどたどたと駆け込んでくるものがいた。

「ちょっと待った! そのノートは俺が先約だ!」
「ちょっと!何よアンタ!」
「俺は佐伯の親友の伊藤だが、お前こそなんだ」
「いつから親友になったんだ。。」

 二人はしばしにらみ合っていたが、沙希絵がふっと何かを思い出した。

「あー!アンタ、由紀のカレシじゃない?」
「えっ? そうだけど。。。」
「ふ~ん。もうちょっと真面目にした方がいいよ。由紀がこの前愚痴ってたわ。不真面目な男に振り回されるのはもう嫌だって」
「なんだとぉ!適当なこと言ってるだろう!!」

 最近伊藤はすっかり顔が広くなっているようだ。二人はバタバタと僕のテーブルの周りを走り回っている。
 もしも、美優がここにいたらどうしただろう。あの時、僕が手を離さなければ、ここで一緒に笑っていたのかもしれないのかな。

 ふわっと爽やかな風が吹いた。その中にあの甘い香りが含まれていたような気がして、僕はそっと振り返る。そこには誰もいないのだけれど。


おしまい   


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