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だけど、と美海は視線を落とす。7年前のあの事故のことを話しても、綾部は気持ちを変えずにいてくれるのだろうか。それを考えると目の前がゆらゆらと波打ってくる。シーツの端で涙を拭うと、綾部の肩にそっとタオルケットをかけた。朝方、綾部はぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。頭を上げようとして、ひどい頭痛に呻いた。しまった。昨日は元町部長に随分と飲まされてしまったのだ。あれからどうなったんだろう。カーテンの感じからすると部屋まで運んでもらったのだろうか。ゆっくりと寝返りを打ってその手に何かが当たって驚いた。ズキズキする頭をゆっくりと起こして見るとどうやら誰かが隣で寝ているようだ。元町部長かと目を凝らすと、それが女性だわかって愕然とする。よくよく見ると、何処かで見た覚えがある。そこで綾部は息を呑んだ。隣に眠っているのは間違いなく夢に出てくる彼女なのだ。やっと美海に集中しようと決心したのに、どうしてこういうときに現れるんだ。綾部は頭を抱え込んだ。どういう理由でどうなって同じベッドに眠っているのか、さっぱり分からない。まさかと身なりを整えるが、余計なことはしていないようだ。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、女性がかすかに目を覚ましかけている。綾部は女性が目を覚まさないようにそっとベッドから抜け出して洗面所に向かった。鏡に映った男は、二日酔いでひどく疲れた顔をしていた。無精ひげが伸び、どうにもみっともない。冷たい水で何度も顔を洗ってみたが、どうやら夢ではないらしいことがわかっただけだった。そのまま窓辺においてあるカバンを取りに行こうとして違和感を覚える。昨日の夜置いておいたはずのカバンが見当たらない。改めて室内を見渡すと、そこが自分の部屋ではないことがわかった。カーテンを少しだけ開いて外の景色を確かめると、どうやら自分の部屋からそんなに遠くないようだ。ベッドに戻ってもう一度彼女の顔を確かめる。あどけなさの残るその寝顔は毎晩のように夢にでてくる彼女に違いないと確信する。顔にかかった髪をそっと後ろに流してやると、魔法が解けたように目を覚ました。「ん…。 チーフ?」「え? 吉野さん?!」 綾部はひっくり返りそうになって驚いた。やっぱりこれは悪夢か?夢に出てくる彼女だと思っていたのにいつの間にかそれが現実の生身の女性にすり替わっていたのだ。「すみません。チーフの部屋までお連れすることができなくて。」 美海はそういいながらベッドに座り込んで目をこすったかと思うとあくびをかみ殺している。「二日酔い、してないですか? 昨日は随分飲まされてましたね」「こちらこそ、ごめん。昨日は元町部長にいろいろ説教されて、その後どうなったのか、その…、正直覚えていないんです。」「ええ!? 覚えてないんですか!?」 そんなぁ…。 こっちはすっかりその気になっちゃったのに。 美海は泣きたい気分だった。「もしかして、何か迷惑なことしちゃったでしょうか」 ベッドの脇に座り込んで探るような上目遣いの二日酔い男にムッとする。そこで美海は取引を考えついた。「迷惑な事、されました。」「えっ!!」「だけど、私も謝らないといけないことがあります。だから…」「謝らないといけないこと?」 さっきまで青くなっていた綾部が不思議そうに聞き入っている。「そうなんです。だから、今から話すことと相殺してください。」「わ、わかりました。伺いましょう、その話」 綾部は意を決したようにイスをベッドの傍まで引き寄せて座った。美海は少し深呼吸して一気に7年前の事故について話した。「これが私が謝らなければならない話です。すみません。ひどいですよね。付き添いもせず謝りにもいかないで…。」 とりあえず言い終わったものの、美海は正座した膝の上に重ねた自分の手のひらから視線を上げる事ができなかった。 どんなに罵倒されてもしかたないかもしれない。 しかし綾部の反応はまったく逆だった。不意に両肩をがっしりとつかまれて、驚いて思わず顔を上げた。目の前には満面の笑顔の綾部がいる。「ありがとう。この話は謝ってもらうことなんかじゃありませんよ。ずっと気になっていたあの夏のことが、ようやくわかったんですから。それに、夢の女性の事も!」 そういうと再びイスに座り込んで感慨深げにつぶやいた。「そうか、その頃から僕は…。 あ、じゃあ。僕がやってしまった迷惑な事ってなんだったんでしょう」 美海は一瞬真っ赤になって言葉を失った。その様子をみて今度は綾部が青くなる。「あの、言いにくいとは思いますが、お願いします。」 綾部はイスから降りて床に座り込んだ。そして、どんなバツでも受けますとばかりに地面に手をついて土下座した。「昨日の夜。元町部長と塩屋さんが泥酔状態のチーフを連れてきたんです。それで…」「それで?」 綾部が顔をあげる。眉が八の字になっていた。「介抱してやってくれと言われて、とりあえずソファに座ってもらおうと思ったんですが、足が絡まってベッドに倒れこんじゃって…」「ベッドに、ですか」 八の字の眉はそのままに頬がどんどん赤くなる。「下敷きになって苦しくてもがいていると、チーフが顔を上げて、そのままその、キスを…」「えーーっ!!」 頭の中が真っ白になっているのが美海にもわかった。「だけど、私が怒っているのはそのことではないのです。」「な、何をしでかしたのでしょうか」 綾部はすっかり涙目になっている。美海はベッドからするりと降りて、自分も綾部の座り込んでいる床にぺたんと座った。「覚えていないって言いましたよね。そのことを怒っているんです!」 理解できずにぼーっと美海の顔を見ている綾部にぐいっと顔を近づける。興奮しているのか鼻の頭が赤くなり、目は涙目になっていた。「人をその気にさせておいて、覚えていませんとはどういうことですか!」 涙がゆるゆると揺れていた。それがぽたりと一滴床に落ちたとき、綾部はやっと我に返った。「い、今、思い出しました!」 綾部はしっかりと美海を抱きしめて、ゆっくりとかみ締めるように言った。「僕は、僕はただ、君に会いたいがために今まで生きてきたのかもしれない。だから事故のことは覚えていなくても君の事はずっと忘れなかったんだ。」 美海はそっと自分の腕を綾部の背中に回した。意外にしっかりとした体格に、今さらながらどぎまぎする。 二人がもう一度見つめあったとき、美海の携帯電話が鳴り出した。「美海かぁ? おはよう。仕事は終わったか?」「父さん!! ん、イベントは昨日終わったけど…。」「なんだ、後片付けがあるのか? もし、早く終わりそうならこっちに合流しないか。ここの角煮は最高なんだよ。来られるようならごちそうしてやろう」「父さん…。私だって何回もその宿には泊まっているもん。角煮がおいしいのは知ってるよ。でも、まだ予定が立たないから、また連絡するね。」 電話を切ると、綾部が意を決したような顔で言った。「お父さんからの呼び出しですか?」「ええ。まだその先の温泉にいるから合流しないかと…」「行きましょう! 千鳥山温泉はすぐ目の前じゃないですか。お父さん、さみしかったんですよ、きっと」 綾部はすっかりその気になって、返事も待たずに慌てて自分の部屋に戻ってチェックアウトの準備を進めた。 荷物をフロントに預けて、ホテル内で綾部と朝食をとる。今日もまぶしい日差しが降り注いでいる。ブッフェスタイルの朝食をそれぞれ皿に盛って席につくと、ほとんどが同じ料理でおかしくなる。 料理を食べているときも、パンをほお張るときも、綾部の目はずっと美海から離れなかった。美海以外なにも見えないかのようだ。「チーフ、お願いですから普通に食べてください。そ、そんなに見られていると、はずかしくて食べられないです。」「えっ?! あ、ごめん…」 このまま綾部は自分と一緒に温泉地まで行く気なのだろうか。そうなるとして、自分は両親になんと紹介すればいいのだろう。 美海はじわじわと迫ってくる状況に戸惑っていた。 今朝、ステディになったばかりの綾部を恋人と紹介するべきなのか、それとも上司であると言うに留めればいいのか…。 もちろん、綾部にも何か考えがあるのだろう。今は夢見心地なこの若い上司が、自分の両親の前にでてなんと自分を紹介するのか想像できなかった。 食事を終えると、コーヒーが飲みたくなる。これはいつもの癖だ。コーヒーメーカーのあるコーナーに行くと、自然とカップを2つ取り出してコーヒーを運んでいた。「どうぞ」 綾部がテーブルの横に立つ美海を見上げて、ぱっと顔を赤らめた。「どうかしましたか?」「あ、いや。あの、もしも結婚したら、朝ごはんはこんな風に二人で食べるんだろうなぁって、そんなことを想像していたものだから。想像と現実がごっちゃになってどぎまぎしました。」 今度は美海が赤くなる番だ。「だけど、ほんとにそうなればいいのにと思います。吉野さんはどうですか?」 まっすぐな眼差しが日の光のように美海を包み込む。心の中で何かが揺るぎないものへと変わっていった。「チーフ、両親に会っていただけますか?」「はい。」 美海はすぐさま携帯電話を取り出し、父親に連絡をとった。「父さん、今からそちらに向かうわ。」「そうかそうか。芳雄のヤツ、荷物だけ運んだらさっさと何処かに出かけたんだ。せっかくうまいもんを食べさせてやろうと思っていたのに…」電話の向こうで父をたしなめる母の声がしている。年頃なんだからとかなんだとか…。「それで…。彼と一緒でもいいかな」 電話の向こうで大騒ぎしている声が聞こえてくる。美海は思わず笑顔になった。 ホテルを出て温泉地へと向かう。タクシーは山の上へとのんびり上っていった。膝に置いた手に、大きな温かい手が重ねられ、冷房の利いた車内にいる美海の頬を紅潮させた。 しばらくすると綾部の携帯電話が鳴り出した。真面目な様子で聞き入っていた綾部はゆっくりと笑顔になった。「わかりました。では休暇を頂いた後、すぐさま打ち合わせをしましょう。がんばってください!」 電話を切ると、美海に向かってにっこりと微笑んだ。「大矢さんが、次期室長に決定したそうです。これからもどうぞよろしくって。」「そうなんですか。よかった」 美海は迷子のそばで励ましていた大矢を思い出してうれしくなった。「もうすぐ千鳥山温泉街に入りますが」 運転手に目的の宿の名前を告げる美海の横で、綾部の顔がぐっと引き締まった。 おしまい
April 30, 2010
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それからの日々はあわただしく残務整理に追われた。気がつけば夏季休暇前日。同僚たちが楽しげに帰って行った企画室に、ぽつんと綾部と美海が残った。美海は綾部から渡された書類を見て唇をかみ締める。出張先の千鳥公園美術館は千鳥山のふもとにあり、両親が向かう千鳥山温泉に向かうには必ず通る場所だ。「どうかしましたか?」「あ、いえ。実は、うちの両親は毎年夏になるとこの千鳥公園のすぐ近くの温泉地に行くんです。子どもの頃は私や弟もずっと付き合わされていたんですよねぇ。」「へぇ。家族で毎年温泉に行くなんて仲がいいんですねぇ。素敵なご両親だなぁ。」 でも毎年同じ古い旅館ですよ、と心の中で毒づく。 ある程度打ち合わせが進んだところで、西宮が顔を出した。「ごめんなさい。そろそろ戸締りしたいんだけど、いいかしら。出張に持っていく書類、忘れないでね。」「じゃあ、続きはご飯でも食べながらにしましょう」 綾部はそういいながらさっさと書類を片付けた。美海もそれに従って慌てて企画室を出る。「じゃ、いい夏休みを」「ありがとう。お二人には申し訳ないわねぇ。休み明けに代替の休暇を申請してね」 西宮はそういうと足早に帰っていった。足取りが軽やかなのは、何か計画があるからだろう。 食事をしながらの打ち合わせは簡単なものだった。「イベントの日程は4日ですが、準備がありますので前泊してもらいます。あと1日だけ予備日があります。スムーズにいけばイベントが終了しているはずなのですが、アクシデントがあったときのためにとってあります。」「つまり、ちょうど夏季休暇の日程とぴったり一致しているわけですね。」「もちろん、その間に土日が入りますので、その分の代休は夏季休暇とは別に取っていただいて結構です。」 申し訳なさそうに答える。しょうがない、がんばるか。休んだとしてもこの会場のすぐ上で温泉に入るだけであとは死にそうに暇な時間をやりすごさねばならなかったのだから。 部屋に帰るとスーツケースに荷物を詰め込んだ。これが恋人との夏の旅行だったらどれだけ良かっただろう。ふとそんな思いがよぎる。しかしそれも仕事ではしょうがない。おしゃれの必要もない出張だ。荷造りはあっさりと終わった。 朝になると美海はせっせと洗濯した。かんかん照りのお天気ならどんなに干してもお昼までには乾いてしまうだろう。柔軟剤の香りがふと心を和ませる。空を見上げると大きな入道雲がそびえたっていた。 午後になって洗濯物を全部片付けてしまうと、真っ白のTシャツとジーンズといういでたちに着替えた。今日は到着早々、会場での荷物運びなどの労働が待っているという。美海はスーツケースを抱えてまぶしい光の中に飛び出した。「あら、旅行?いいわねぇ、OLさんは。」 階下の主婦が笑顔で声をかけてきた。「いえ、仕事なんです。4,5日留守にします。じゃあ」 あら、と少し驚いた顔をした主婦だったが、それでもにこやかに手を振った。駅前では魚政の政義に声をかけられた。魚政も翌日から3日間は休暇になるという。「息子にせがまれちゃしょうがないや。ミッキーマウスと一緒に写真を撮るんだとさ」 歳の割りに深く刻まれた額のしわをより深くして、語る表情は迷惑そうでもあり、嬉しそうでもあった。 政義がミッキーマウスと並んでいる姿を想像して、美海はクスッと笑ってしまった。「親孝行してきなよ」 手を振って歩き始めた美海の後ろからそんな言葉が投げかけられた。そうか、誰が見ても実家への帰郷と思うんだなと納得する。 電車に乗って主要駅まで来ると、綾部がホームの向こうで手を振っているのが見えた。思わず手を振り返してから周りの視線に気がついた。こんな時期にこんな年頃の男女がそれぞれスーツケースを持って別々に現れたら、どういう関係だと思うだろう。 改めて綾部を見ると、今日はジーンズとチェックのシャツ姿だ。準備があるというので、汚れてもいい格好をと指定していただけのことはある。自分もジーンズにTシャツ姿なのだから、仕事には見えない。 階段を上がってホームまで行くと、書類に目を通していた綾部がふと顔をあげてどぎまぎと視線を泳がせた。 電車が入ってくると、ざわざわと行楽客が吸い込まれていく。それに混じって綾部と美海も電車に乗り込んだ。綾部が先に進み、それに美海が続く。指定席に収まると二人の荷物を綾部が荷台にあげた。前のシートでも男女が座り、男が荷物を荷台に上げていた。「ここからだと2時間はかかりますね。」「ゆっくり休んでてくださいね。向こうに到着したら最終打ち合わせに参加して、そのまま大道具の運び込みを手伝う事になりそうなのです。吉野さんは備品の準備をお願いします。リストはこれです。」 渡されたリストに目を通していると、前のシートからは楽しげな笑い声が聞こえてきた。合間には昼間の公の場にはふさわしくない声も混じる。こちらは仕事だというのにいい気なものだ、と顔を上げると隣では書類で顔を隠しながらも耳が真っ赤になっている綾部がいた。 しばらく走ると電車はトンネルに入った。ガラス窓に映る自分の姿をみて、ふと昨日の電話を思い出す。「あら、仕事なの?せっかく一緒に旅行に行こうと思ったのに。」「ごめん。でも仕事だもん、しょうがないでしょ?」「あ~あ、まさかアンタからそんなセリフを聞くとは思わなかったわ。」 諦めたようなあっけらかんとした口調で母親は笑っていた。「なにそれ?」「母さんのお父さんはね、仕事人間だったのよ。だから、父親と一緒に出かけた記憶なんて殆どなかった。母さん、それが寂しくてねぇ。結婚するときはちゃんとカレンダー通りに休みをもらえる人にしようって決めてたのよ。それなのに、まさか娘から言われるとはねぇ。」「ごめん…」 もっと捲くし立てられると思っていた美海は肩透かしを食らった気分だった。「しょうがないわね、仕事だもの。だけど父さんはきっと寂しがるわよ。アンタもそろそろお年頃だから、あと何回一緒に旅行に出かけられるだろうなぁって、昨日もそんなこと話していたのよ」 何事もないようにそのまま電話は切れてしまったけれど、心に何かが引っかかったまま、美海は仕事に出かけていた。 会場に到着すると、荷物を解く暇もなくすぐさま打ち合わせに参加した。出迎えたのは顧客である美術館の広報部長の元町だ。彼は日本人らしからぬ鼻の高さと鋭い眼差しが特徴で、担当者に全て任せてあると言いつつ細部まで口を挟む気難しい男だということは本山から確認済みだ。本山が手配した業者の人間やスポンサーも立会い、結構な人数が集まって最終打ち合わせが行われた。それが終わると、綾部は業者に混じってイベントの大道具の準備にかかり、美海は元町の秘書だという姫路という女性の手伝いに駆りだされた。やるべきことが与えられると時間はあっという間にすぎた。準備が終り、部屋に帰ったのは夜9時を過ぎた頃だった。ベッドに寝ころがって一息ついていると、小さなノックが聞こえた。「吉野さん、もう晩御飯食べましたか?」 綾部の疲れた声がしていた。そういえば忙しさに紛れて忘れていた。美海は慌てて身なりを整えて綾部に合流した。 ホテルのレストランはそれぞれのテーブルの真ん中に小さなキャンドルをともし、街のレストランとはちょっと雰囲気の違う時間を提供していた。しかし、なれない力仕事をした綾部にはそれを楽しむ余裕もないようだ。食事が終わった綾部に、念のために持参していたドリンク剤を手渡し、「あと4日!がんばりましょう!」と励ます美海だった。 それから4日間は時間が飛ぶように過ぎていった。そろそろこの作業にも慣れてきたと美海が思い始めた頃、イベントは無事終了した。 予想以上の来客数に元町の頬はゆるみっぱなしだ。「皆さん、ご苦労さまでした。今日は館長からお許しが出ているので、打ち上げパーティーを開催いたします。隣のホテルの広間に集まってください。」 みながその言葉に従って大広間に行くと、すでにしっかりと宴会の準備がなされており、館長の乾杯の音頭とともに打ち上げパーティーは始まった。「本当は夏休みだったんでしょ?申し訳なかったですねぇ」 すっかり打ち解けた姫路が美海に声をかけてきた。休暇を返上しているのは姫路も同じであろうと美海が健闘を称えあう。居合わせた人々と達成感を味わいながら、美海はこの仕事を引き受けてよかったと思った。 夜も更けて、それぞれが引き上げていく。美海も姫路が席を立つのにあわせて退散した。部屋に帰るとどっと疲れが押し寄せる。部屋の窓から見下ろす景色はぽつりぽつりと灯りが見えるだけで簡素なものだ。そんな中で等間隔に光っているのはロープウェイのライト。その上にあるささやかな光の集まりは、千鳥山温泉の集落だろう。 今頃両親ものんびりしているだろうか。私が仕事だと聞いて残念そうにしている父の顔が浮かんで胸が痛んだ。 シャワーを浴びてジャージに着替えているとにぎやかな声が聞こえてきた。声の感じからそれが元町部長と大道具の担当だった塩屋だと分かる。これから綾部の部屋で飲みなおそうとでも言うのだろうか。 すると、急にドアがノックされ「吉野さーん!」とご機嫌な合唱が響き渡った。美海は恥ずかしさでパニックに陥った。 慌ててドアを開けると、真っ赤に茹で上がった中年男が二人、べろべろに正体をなくした綾部を担いで立っている。「すまんねぇ。コイツ、思ったより弱くて歩けないんだよ。ちょっと見てやってくれないか」 そういうと驚いて絶句している美海にそれとばかりに綾部を投げ渡した。そして、二人は楽しげに、「綾部くん、がんばれー!」「ファイトだー!」などと叫びながらエレベータホールへと消えていった。 美海は驚きのあまりどうすることもできないまま二人を見送った。酒の匂いがぷんぷんしている綾部は完全に泥酔状態で、ともすればバランスを崩して倒れてしまいそうになる。とにかく、ソファに座らせて水でも飲ませなくちゃ。美海は引きずるようにして部屋の奥へと酔っ払いを運んだ。「チーフ!しっかりしてください。」「ああ、吉野さん。僕は悔しいんですよ。元町部長に意気地がないなんて言われてたまるかー! 僕だって、言うときはちゃんと言えるんですから。よ、吉野さん。僕はねぇ。僕は…」「チーフ、しっかりしてください。ほら、そこのソファに座って…。きゃっ!」 ふらふらした綾部の足が美海の足と絡まって、二人は折り重なるようにベッドに倒れこんだ。「吉野さ~ん。酔っ払ってしまいましたぁ。せっかくかっこよく告白しようと思ったのに、残念でありまぁ~す。」「チーフ…。く、苦しい」 綾部は緩みきった顔をゆっくりと上げ、美海がすぐ下にいるのに気づいた。「吉野さん…。」「えっ?!」 美海が驚いている間に綾部が唇を押し付けてきた。暑苦しい息が顔面にかかる。うっ!お酒臭い!それなのに、体の奥から温かな感情が沸き起こってくるのはどうしてだろう。 再び顔を上げた綾部は、そのまま隣に倒れこんで静かな寝息を立て始めた。体を起こして、美海は自分の唇にそっと手を当ててみた。心臓がバクバクと音を立てている。夢なのか?いや、夢ではないだろう。気持ち良さそうな寝顔がすぐとなりにある。なんとか頭を冷やしたくて、アイスボックスを持って部屋を出た。ガラガラと氷を詰め込んで部屋に帰るが、綾部はさきほどの格好のまま寝入ってしまったようだ。棚にセットされたグラスに氷とミネラルウォーターを入れて一口飲んでみる。冷たい感覚がするするとのど元を通り過ぎ、胸の奥までもきゅんと締め付けた。エアコンの効いた部屋は寝るには肌寒い。どうにも起きそうにない困った酔っ払いの隣にそっと横たわり、美海は綾部の寝顔を見つめた。酔っていたとはいえ、綾部のキスは美海の心を大きく揺さぶったようだ。
April 28, 2010
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「チーフ!」 街灯に浮かび上がった人物はぼんやりと顔を上げ、相手が美海だと気付くとすぐさま駆け寄ってきた。「吉野さん!大丈夫なんですか? 昨日怪我したばかりなのに、どこに行ってたんです?」 綾部の言葉にはっとした。そうだった。自分は怪我をしたので仕事を休んでいたのだ。まずいところで綾部にあってしまったと後悔するが後の祭りだ。「すみません。尼崎さんと一緒に晩御飯食べることになって」「やっぱりあの時見かけたのは吉野さんだったんですね。これ、落としたでしょ?」 綾部は上着のポケットから携帯電話を取り出した。まさかとカバンを確かめるが美海の携帯は見つからなかった。「慌てて声をかけたんだけど、すぐさまタクシーに乗っちゃったから」 ああ、なんてドジ。さっきまでの高揚した気持ちがあっという間にしぼんでゆく。「どうも。」 携帯を渡されても、なんとなく素直に謝れない。自分が悪いのは分かっているのに。どうしてこう自分はいつも素直じゃないんだろう。情けなさが鼻の辺りまで溢れて、ツーンとなる。 大きなため息が聞こえてきた。やっぱり呆れられたんだ。昨日は昨日でチーフの話も聞かないで自分のことばっかり聞いてもらおうとしていたし、その上怪我して病院に運んでもらってたのに今日はちゃっかり出歩いて。ああ、しかもこんな時間。 美海が腕時計をみると、すでに10時を回っていた。走り回った割には本山を助ける事も出来なかった自分に嫌悪感すら覚える。恥ずかしい、消えてなくなりたい。こんなところでは泣きたくなかったが、じわじわと涙が溢れそうになってきた。「吉野さん。あんまり無理しないでくださいよ」「チーフ…。勝手ばかりして、すみません」 やっとの思いで言葉を搾り出した。綾部の手がふいに額に触れて、胸がきゅんと音を立てる。「傷口、落ち着いているようですね。なんでもなければそれでいいです。僕は、僕はただ…」 躊躇いがちに紡がれる言葉を、遮るように携帯電話が鳴り出した。一瞬困ったような顔をして、携帯を取り出すと、美海にちょっと手を上げて申し訳なさそうに電話に出た。 電話の相手とはなにか真剣な話をしているようで、綾部は終始真剣な表情をしている。そして電話が切れると、再び美海に向き直った。「吉野さん。今日は大変な働きだったんですね。今尼崎さんから電話を頂きました。本山さん、大変だったんですね。僕は、恥ずかしいです。同じ男として彼の異変にもっと早く気付くべきでした。」「私、少しは役に立ったのでしょうか。」「もちろんです。だけど、やっぱり無理はしないで下さい。」 ほんの一瞬だったが切なさを覚えるような瞳の色を見て、どきりとしてしまう。しかし綾部は何事もなかったように屈託なく笑う。美海はそんな笑顔に癒されるのを感じた。「室長には僕から伝えておきます。もしかしたら出張の予定を繰り上げてもらうことになるかもしれません。」「須磨さんの生い立ちと何か関係があるのでしょうか」「どうでしょうね。でも、それは僕達が考えるべき事ではないでしょう。とりあえず、今日は早く休んで、明日に備えてください」 逆らえないような優しさとゆるぎない何かを感じ、美海は素直に帰ることにした。じゃあとその場を離れてアパートに向かって歩き出す。振り向くとさっきの場所で綾部が見守っている。 なんだろう。この心地よさ。 気持ちがどんどん穏かになっていく。美海はぺこりとお辞儀をして、部屋に帰った。 翌朝、いつものように出社してお湯を沸かしベランダの花の手入れをした。みなの机を拭いていると、事務所のドアが開いた。「おはようございます」 振り向きながら声をかけた美海は意外なその顔に驚いた。三宮室長だったのだ。「おはよう。やっぱり早いね、吉野くんは」 三宮は少し疲れたような影を秘めながらも笑顔でベランダに向かった。そこで1つ深呼吸すると、美海に向き直って深々と頭を下げた。「すまん。出張中の事とはいえ、君たちにまた迷惑をかけてしまった。私もうすうす気付いてはいたんだが、そこまでひどい状況だったとは思いも寄らなかった。淳也は、いや、須磨くんには昨日付けで退職してもらったよ。本山くんから被害届は出されていないが、軽視するわけにはいかない。しばらくカウンセリングを受けることになるだろう。」 深く刻まれたしわが一層際立って見えた。三宮は手近なイスに腰掛けて、両手で顔をこするようにした。「そうですか」 手に持っている雑巾を手持ち無沙汰に握り締めて、美海はソフトクリームを差し出してくれたときの須磨の顔を思い出していた。「私もこの夏で退職だ。今までいろいろとありがとう。」「室長!どうして室長まで辞めちゃうんですか?」 美海は少なからずショックを受けた。しかし三宮は笑って答える。 「いやなに。どうせ定年退職まで1年足らずだったんだ。ほんのちょっと早くなっただけなんだ。淳也が言ってたよ。君と話をしているうちに、もしかしたら自分がやっていることは間違っているんじゃないだろうかって思うことがあったと。 今まで一度も自分を振り返ることなどしなかったのに。」 三宮はふと優しい表情をして何度も何度も小さく頷いていた。「すまないね、忙しいときに。ただ、吉野くんには先にお礼を言っておきたかったんだ。詳しいことはまた朝礼のときに話すことになるだろう。じゃあ。」 三宮はゆっくりと立ち上がると、室長室へと消えていった。 朝礼が終わってそれぞれが仕事を始めると企画室内は噂話でざわめいたが、須磨と本山、二人の席が空いたチームAは口を閉ざしていた。「いい加減にしないか! 須磨君は迷惑をかけていたことに違いないが、病んでいたというのだから仕方がないだろう。責任を取ってやめたのだから、それ以上笑いものにする必要はない」 企画室内がしんと静まった。声を上げた本人は、言うだけ言うとそっと席に戻って表の色塗りに集中した。その時、ノックが聞こえ、西宮が入ってきた。「ごめんなさい。大矢さん、室長室までおいでください」 のっそりと立ち上がった大矢が素直に西宮に従った。背中を丸めた後姿が消えると、美海は一抹の不安を覚えた。室長が退職する前に、大矢の進退について何らかの結論が出されたのかもしれない。大矢は普段は表の色塗りばかりしているが、それは本当の姿ではないはず。それは以前須磨が伝説の営業マンだと話していたことからも想像がついた。 それに…。 美海は故郷からの帰りに駅で見かけた大矢の意外な一面を思い出す。迷子の子どもを保護していたときだ。 午後になっても大矢は席に戻らず、時間だけが過ぎていった。3時になってコーヒーを淹れていると、今度は綾部が室長室に入っていくのが見えた。何かが変ろうとしているのかもしれない。三宮の今朝の表情から考えて、悪いようにはならないだろうと予測はついたが、誤解されやすい大矢の進退だけが気がかりだ。 企画室に戻ってコーヒーを配り始めると、大矢がのんびりと帰ってきた。いつものように背中を丸めていたが、その手は机の上の書類をかき集めて片付けている。 何があったんだろう。 美海はそっと大矢の机にもコーヒーカップを置いた。「いつも、ありがとう」「えっ?」 驚く美海を不慣れな笑顔が包んだ。「私もまたがんばるよ」 そういうと、慌てて席を立ち今までの営業ファイルを何冊も引っ張り出して読み始めた。美海はなぜか心が浮き立ってくるのを感じていた。きっとこれが大矢の本来の姿なのだろう。 その日を境に大矢が室長室に入り浸るようになってきた。日に日に顔つきも明るくなってくる。時には室長室から笑い声が漏れることさえあった。 本来大矢が在籍していたチームBは、猫背の中年男を戦力と見なしていなかったので、仕事に支障が出ることもなく、不思議なぐらい平穏な毎日が続いている。しかし、その進退がどうなるかという噂は一向に流れては来なかった。 アパートに帰ると電話が鳴っていた。慌てて靴を脱ぎ捨てて受話器を掴み取る。「もしもし」「あ~んた! なにやってるのよ。もうすぐお盆休みでしょうに、なんで連絡してこないの? 父さんがアンタの予定を聞けってうるさいのよ。」「ごめん。いろいろと忙しかったのよ。そうねぇ、休みは12日からだから11日の夜から帰れるかな。でも、あてにしないで。一昨年みたいに急に仕事が入ることもあるから。」 会社のことばかり考えていたらいつのまにか夏季休暇が目の前まで迫っていた。父が予定を聞くということは、旅行にでもいくつもりなのだろうか。 美海は一昨年急に入った仕事で夏季休暇が9月になるまでもらえなかったことを思い出していた。父は普通のサラリーマンなので、休みもきちんともらえるようだが、近所のお土産物屋でパートタイムの仕事をしている母や顧客からの依頼でどうしても動かざるを得ない状況が生じやすい自分はそうもいかない。 母はできるだけ夫の意向を汲もうとしているようだが、そればっかりは付き合うこともままならない。「もう、アンタはノリが悪いねぇ。芳雄なんて二つ返事で旅行に行こうって言ってたのに。」「芳雄がぁ?」 大学生にもなって親と旅行に行きたいなんて、あやしい。「あの子は片道だけよ。向こうでどうしても調べ物がしたいんだって。勉強熱心なことよねぇ。あははは」「やっぱり…。何の勉強してるんだか。」「片道だけでも荷物持ちしてやるよって言うんだもの。親孝行だよ」 まったくおだて上手なやつ。 美海は旅の行き先とすでに予約された日程をメモして電話を切った。「はぁ、尼崎さんはフィジーで本山さんはハワイ。塩見さんは御主人のご実家がある北海道に行くって言ってたのになぁ。なんで私だけ千鳥山温泉なのよ。オマケにお宿はまるきち旅館。毎年おんなじ場所じゃない。」 千鳥山温泉は熱海のような隆盛を誇った時代はないが、同じぐらい歴史の古い温泉地で、わびさびを求める大人が好んでいく温泉だ。レストランや喫茶店は70年代の雰囲気を色濃く残し、美海らのような若者には退屈な場所でもある。 毎年の事ながら、実家からこの類の電話が入ると、美海はブルーな気分で出社することになる。こんなことならいっそのこと仕事が入ったほうがずっと気が紛れるというものだ。 その日も黙々と掃除を済ませ机を拭いていると、綾部が出社してきた。険しい表情からなにかトラブルがあったらしいと美海も身構えた。「吉野さん、お盆休みの予定は決まりましたか?」 突然の話に美海は思わず首を振った。「申し訳ないのですが、先日のうちの企画にちょっとした問題が生じてしまって、どうやらうちのチームからも誰か現地に行かなければならないようなんです。僕は当然行くとして、もう一人連絡係をお願いしたいのですが、頼んでもいいでしょうか?」「その企画って、本山さんが先日ぼやいていた…」 綾部は肩を落としてため息をついた。「そうなんです。顧客のやり方が強引だったので心配していたのですが、やはり想像通りの結果になりました。ただ、本山さんは旅行の予約が入ってしまったということですし、元々の担当は須磨さんでしたから、困り果てていて…」「わかりました。承ります。」 美海は半分やけっぱちで了解した。千鳥山温泉より仕事の方が気が紛れる。綾部はほっとした表情になって礼を言った。その表情に随分と救われた気分になる。 午後になって、本山が美海の元にやってきた。「吉野さん、ごめんね。お盆休みの予定はよかったの?」 申し訳なさそうな本山だったが、美海には好都合だった。「気にしないで下さい。たいした予定もなかったし。」「ありがとう。綾部チーフは貴方に譲るわ。」 楽しげに笑っているが、無理をしているのがわかる。頬の腫れは引いたが、心の傷は残っているのだ。それでも美海にはその心意気が嬉しかった。
April 25, 2010
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激しい怒りは沸いてくるが、本山にはそれを奪う体力も気力もなかった。男がさっさと部屋を抜け出しても、女の視線はそれを追おうともしない。鏡張りのその部屋の壁には、屍のような目をした女が一人、肢体を隠そうともせずにベッドに倒れこんでいる姿が映っているだけだった。 それからどのくらい経っただろう。本山は部屋に散らばったワンピースのボタンを床にはいつくばって探し始めた。8個あるはずのボタンは4つしか見つからない。それでも、手の震えを抑えながら縫いつけ、髪をとかしつけて化粧をした。 ボタンの足りない部分はカバンを胸元で抱えるようにして隠したが、どんなにつくろっても派手に腫れた頬と傷は隠せなかった。 帰らなくては、どんなことがあってもとりあえず家に帰らなければ…。蹴り飛ばされていたサンダルを履くと、ヒールがかかとからポロリと外れてしまった。 美海と尼崎は途方にくれていた。勢いづいて尾行してきたものの、先の二人があっさりとホテルに入っていってしまうと、その後のことはどうすることも出来なかったのだ。「どうしましょう」「彼女が嫌がっていたら止められたんだけど、まさかあんなにあっさりと入っちゃうなんてねぇ」 尼崎は呆れたように首を振っていた。「でも、もし脅されていたら? 怖くて抵抗できなかったら?」「吉野さん、何か知っているのね?」「はい。あそこで待ちませんか?」 美海はホテルの玄関が見える手近な喫茶店を指差した。同意して喫茶店の前まで来た尼崎だったが、ふと立ち止まってやめようと言い出した。「ここは、やめましょう。あの道向かいのカフェにしましょうよ」 美海にはその意図がわからなかったが黙って尼崎に従った。不思議な事に、道路を渡ってしまうと普通のビジネス街に戻ったような感覚を覚える。そして振り向いたとき、愕然とした。 さっきまでいたエリアはホテルが乱立していたのだ。二人を追うのに夢中でそんなところに来ていたとは気付きもしなかった。道路に面したビルはさすがにビジネスホテルのように繕ってはあるが、一筋脇に入ればギラギラとしたネオンが建ち並んでいた。 カフェはビルの2階にあり、うまい具合にホテルの入り口が見下ろせる。窓際に座ると美海はふうっと大きなため息をついた。「ふふふ。吉野さんって、もしかしてああいうところに行ったことないの?」「ええっ! 尼崎さんはあるんですか?」 尼崎は一瞬驚いたような顔をして、その後楽しそうに笑った。「そうね。少なくとも、私は吉野さんより少し年上だから、その分の経験はあるわよ。」「そういうもんなんですか。」 そうは言ったものの、眉が八の字になったままでまたしても尼崎を楽しませてしまった。「ところで、本山さんのことだけど。話してくれる?」「はい。実は…」 二人はサンドウィッチをつまみながら事実確認を進めた。「バカねぇ。相談してくれれば私だって協力したのに。本山さん、大丈夫かしら」 尼崎は改めてホテルの入り口を見つめ、悔しがった。「尼崎さん、申し訳ありませんでした。私がもっと早くに相談するべきでした。」「吉野さん。これは私の勘なんだけど、もしかしたら須磨くんはある種の人格障害かもしれないわ」「人格障害? ですか?」 尼崎はホテルの入り口から目を離さないまま続けた。「そう。私は須磨くんとほぼ同じ時期に入社したの。だから今までからかすかに違和感を覚える事はあったんだけど、お金持ちの一人息子だからなのかなと思っていたの。でも、本山さんや吉野さんにしたこと、ちょっと常識からずれていると思わない?」「確かに…。」 美海は素直に納得できなかった。自分が須磨にしてもらったことはあまりにも他の女性達とはかけ離れているように思える。しかし気丈にしながらも須磨の謹慎が解けたことに不安を覚えていた本山の顔を思い出すと、認めざるを得ない。「暴走していなきゃいいんだけど…。」「暴走、ですか?」「ええ。 あっ! あれ、須磨君じゃない?」 尼崎の声に美海も思わず身を乗り出した。確かにホテルから背の高い須磨が出てくるのが見えた。しかし、本山は出てこない。 美海は尼崎の腕にしがみついて頼んだ。「尼崎さん! すぐに行きませんか?」「そうね。」 すぐさま席を立った二人は、道路を渡ってきた須磨と出くわした。「須磨君。どうしたのこんなところで?」「やあ、尼崎さん! これからご飯でもどう? あれ、吉野さんも一緒なの?」「そうよ。ところで、本山さんを探しているんだけど、知らない?」 いつもの笑顔のままではあるが、尼崎の目に力が篭る。須磨もその気迫に気付いたらしく観念したように脱力した。「本山さんなら、そこにいるよ。いやだなぁ。僕らのプライベートにヘンな口挟まないでよ。大人のお付き合いなんだからさ」「部屋はどこ?」「一番上の階の一番奥の部屋だよ。僕は1番上しか使わないんだ。」「吉野さん、行くわよ!」「ちょっと、僕の話も聞いてよ。今日はいろいろあったんだ。彼女の事はそっとしておいてよ…」 尼崎は須磨の言葉を無視するようにすり抜けて走り出した。美海もそれに続く。後ろで須磨が騒いでいたが、もう二人の耳には入らなかった。 建物の中に入ると、フロントらしいカウンターがあったが人は誰もいなかった。そのまま尼崎に続いて通り過ぎ、エレベーターで最上階まで上がる。ドアが開くと目の前に重厚な扉が見えた。「あの部屋だわ」エレベーターを降りると手前のドアが開いて初老の男と若い女性が出てきた。美海は思わず尼崎にしがみつく。「気にしないの。人は人でしょ。それより本山さんよ!」「はい!」 二人は廊下の奥にある部屋の前まで来ると、深呼吸してノックした。室内からは返事がない。 どうしよう。そっと見上げると、尼崎がぎゅっと唇をかみ締めていた。最悪の場合も覚悟しなければならない。「本山さん!」 尼崎の声にかすかに驚いたような息遣いが聞こえた。生きている!尼崎と美海は顔を見合わせて頷きあった。「大丈夫ですか? 私達、心配になって…。怪我してるんじゃないかと」 いざ声をかけようとすると、美海にはなんと言っていいのかわからない。今は、本山の返事を待つより他なかった。「本山さん、開けてもらえないかしら。」「ダメっ!!」 怯えたような声が飛んだ。尼崎はしばらく考えて、そして穏かに声をかける。「分かったわ。でも、私達、貴方を助けたくて来たの。私達で力になれることはない?」 しばらく返事がなかった。静かに流れる音楽の合間に快楽をむさぼる声がもれ聞こえて美海は耳を塞ぎたくなる。しかし尼崎は、小さな声も漏らさず聞き取ろうとじっと目を閉じて聞いていた。そしてついに本山の返事を聞いた尼崎の目には涙が溢れだした。「もしも、聞いてもらえるなら、あの。。。洋服と靴を。。。」 尼崎の後ろに控えている美海には聞き取れなかった。ただその後姿を見つめる事しかできない。「わかったわ。20分だけ待って。」 尼崎に従ってホテルを後にした美海は何も聞けずにいた。勝気で明るい尼崎のまつげに光るものが見える。 二人はまっすぐに道路を渡ってファッションビルに駆け込んだ。尼崎はさっさととある店に向かい、何の迷いもなくワンピースと靴を買った。それと、大き目のマスクも。 再びホテルに向かう後姿を追いながら、美海は尼崎を先輩に持ったことを誇りに思った。あのワンピースは間違いなく本山に似合うだろう。そして、彼女の傷ついた心を刺激しない優しいデザインになっている。 再びドアはノックされた。今度は覚悟を決めていたのか、すぐさま返事が帰ってきた。カチンと鍵の開く音が聞こえ、ほんの少しだけドアが開いた。「サイズはそれでいいかしら」「ええ、ありがと…う。」 最後は嗚咽とともに聞こえてきた。尼崎はあえていつものような調子で声をかける。「じゃあ、もう行くわ。須磨くんならさっき下で出会ったから、今頃自分ちにでも逃げ帰ってるでしょう。私達もうしばらく道路の向かいのレストランにいるから、もしよかったら顔見せてよ。」「わかった。気が向いたら、ね」 その後、長い間レストランにいた二人だったが、結局本山は現れなかった。駅で尼崎と別れたまま、美海は自宅にもどることにした。本山を待っている間に、美海は尼崎の昔話を聞いた。それは美海の想像を絶するような壮絶なものだった。人はどうして自分の大切な人までも傷つけてしまうのか。尼崎は母親の人格障害に振り回され、虐待された少女時代を送っていた。しかし今の彼女からはそんな過去は見えてこない。「早めに一人暮らしを始めたのには、そういうわけがあったの。でもね。自分で生きていく力をつけるのには一人暮らしが最適よ。辛いときもあるだろうけど、吉野さんもがんばってね。悲しい事や辛い事をたくさん知っている方が、人の優しさには敏感になれるものだから」 母のような、姉のような暖かな眼差しが思い出される。私も、あんなふうに暖かい表情が出来る人になりたい。美海は素直にそう思えた。 アパートの近くまで帰ってくると、向こうから男性が一人、とぼとぼと歩いてくるのが見えた。 以前の嫌な思い出が甦って美海は身構えた。少しずつ近づいてくるその影をぱっと街灯の明かりが浮かび上がらせた。
April 24, 2010
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そこではっきりと目が覚めたらしく、はっとした表情をすると慌てて自分の手を離してあたふたと謝った。「あ…、ごめん。 あの、怪我は大丈夫?」「ええ、少し頭が重いような感じですが、大丈夫みたいです。それより、ここまで運んでくださったんですか?ありがとうございます」 綾部は照れくさそうに笑うばかりだったが、ふと何かを考え込むような表情をしたかと思うと、独り言のようにいつも見る夢の話を始めた。「バカバカしいと思うでしょう? 夢で見た女性を想い続けているなんて。名前もわからないし、顔もはっきりしないというのに。だけど、夢で見ている間は、本当にすぐそばにいるようで、気配もするし息遣いも感じるです。 僕はただ、ただ彼女に会いたくて。だけど夢で会えたときでも、彼女の顔ははっきりしないんですよ」「綾部チーフ…」「いや、ヘンな話しになっちゃいましたね。なんだか吉野さんといるとほっとするっていうか、なんでも話してしまいたくなるんですよ。おかしいですよね」 敗北宣言でもするかのように、綾部は肩を落としてみせた。「そんなことないです。素敵だと思います。ずっと夢に見てもらえるなんて、その人はきっとすごく素敵な人なんでしょうね。」「本当にいるかどうかもわからないんですけどね」 しんみりとした空気にノックが割って入った。「お見舞いのお時間が終わります。お見舞いの方はご退室ください」 看護師はそっとそれだけ言うと、すぐさま引き上げていった。「じゃあ。 明日、もう一度診察があるそうです。それでなんでもなかったら帰れるそうです。会社には僕から伝えておきますので、明日はちょっとゆっくりしてください」 急に会社の顔になってそれだけ言うと、そのまま綾部は病院を出た。円を描くエントランスの車道のふちを歩きながら、振り向いた病院の窓には美海の寝ている病室の窓に明かりが灯っている。それを眺めながら、ふとそんな灯りの元にただいまと帰っていく自分を想像して慌ててしまう。 自分が本当に大切にしたいのはどっちなんだろう。思い切って誘い出したのに、またしても何も伝えられなかった自分に落胆すら覚えてしまう。 しかし、美海がそばにいるとどうしても夢の女性を思い出してしまい、打ち払って一本化することができない。綾部にはまだ結論が出せなかった。 自分の部屋に戻ってきた綾部は、シャワーもそこそこにベッドに潜り込んだ。突然の謹慎でチーム内の戦力を失い、連日残業続きだった。須磨が復帰してからも引継ぎがあったり、取引先の担当者が故郷に帰るとかで打ち合わせをやり直したりとゆっくりする暇がない。 美海の言うように須磨の復帰にはちょっとした違和感を覚えるが、今は考える余裕すらなかった。 綾部は横になったとたん、眠りに落ちた。 もやのかかった道を綾部はのんびりと歩いている。隣にはいつもの女性がいて、多くを話さなくとも気持ちが満たされるのを感じることが出来た。「あのね。お金が貯まったら時計を買うの。ずーっと欲しかった物だから、アルバイトもがんばれるんだぁ」 そんな言葉が聞こえてくる。よし、こっそりお金をためてプレゼントしてやろう。綾部は自分の思いつきに満足して、思わず笑みを漏らした。「大丈夫? 綾部チーフ。」 急に女性が心配そうに自分の顔を覗き込んでくる。「え? どうして僕がチーフになったことを知っているの?」 問いかけたとたん、綾部は目を覚ました。夢だった。 カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでいる。深いため息をついて、綾部は諦めたようにベッドを抜け出した。 会社に着くと事務所の鍵が閉まっている。そっか。今日は彼女が休んでいるんだ。 綾部は今まで美海にまかせっきりになっていた雑用に着手した。お湯を沸かし、ベランダの花に水をやり、みんなの机を拭く。簡単なようで意外にも力の使う仕事だったのだと、今頃気がついた自分を恥じる。 それが終わると昨日遣り残した仕事が待っていた。いつまでもしんっと静まった事務所は、綾部に無言の圧迫感を与える。 ふと、昨日のことが頭をよぎる。エレベータから降りたときに見た嬉しそうな顔、話しを聞いて欲しいと言う真剣な顔、眠り込んだ自分を心配そうに覗きこむ顔。 綾部は慌てて両手で頬を叩いて気合を入れなおした。「おはよう!あら? 今日は吉野さん、まだなんですか?」 尼崎がやってきた。「昨日、ちょっと怪我をされたので今日はお休みです」「怪我? どうしちゃったのかしら。チーフ、何か聞かれました?」 綾部は昨日の出来事を当たり障りなく話した。「おはようございます。」「おはよう。あら、本山さんにしては早いんじゃない?」 尼崎にちゃかされても上の空で、本山は何かを探す素振りだ。「吉野さん? 怪我しちゃってお休みなんだって。」「ええ! そうだったんですか」 本山の表情が沈んだのを尼崎は見逃さなかった。そっと肩を寄せると「なんかあったの?」と声をひそめる。「今日、一緒にお見舞いに行きませんか」 本山の提案にちょっと右の眉を上げた尼崎だったが、「そうしましょう」と受け入れた。 その日、美海は午前中に受診を終え、自分の部屋に帰ってきた。額の生え際辺りの傷は出血は多く感じたものの、深いものではなかったという。前髪を下ろしてしまえばわからない程度のものだった。 シャワーを浴びて汗を流すと生き返った気分だ。洗濯をして、ベランダに干す。階下から小さい子のはしゃぐ声が聞こえてきた。どうやらベランダで水遊びをしているらしい。日差しはきつく空は真っ青だ。思わぬ休日に気持ちがなごむ。 美海は空に向かって大きく伸びをした。 冷蔵庫からイオン飲料を取り出し、エアコンも掛けずに窓を開いて空を眺めた。故郷の町はそろそろかき入れ時か…。 のどを潤すと、夏の日が甦ったような錯覚に陥る。あの日も暑かった。綾部があの少年であることは間違いなさそうだが。たとえ夢の中の人とはいえ、誰かを好きになっていてくれたことにほんの少しだけ安堵を覚えた。 自分が断ってあんな事故になってしまって、もしもそのまま先に進めなくなっていたらどうしようなどとあつかましい心配をしていた自分がおかしかった。 しかし、須磨の一件はそのままになってしまったし、考えてみれば綾部の話とやらも聞きそびれてしまった。 お昼休みの時間を見計らって、美海は会社に連絡を入れた。電話口では尼崎が心配そうにしていて驚かされる。「傷口が浅かったのが幸いでした。ご心配かけましたが、明日から出社できますので」「よかったわぁ。今日、本山さんとお見舞いに行こうかって話になっていたのよ。 もし大丈夫そうだったら、こっちまで出てこない?本山さんも誘って3人でご飯でもどう?」 話はとんとん拍子に決まったが、美海の元気そうな様子にすっかり気をよくした尼崎はさっさと電話を切ってしまった。 まさかチーフに代わってくれとは言えないか…。 美海は自分が思いのほか落胆している事に動揺した。 日が傾いてきた。美海は会社の入っているビルの向かいにある喫茶店で尼崎達が出てくるのを待っていた。店のカラクリ時計がにぎやかに動き出す。5時だ。5分もすればビルの玄関ホールは帰宅する人々でどっとにぎやかになった。 その中に尼崎の姿を見つけ、美海は軽く手を振った。尼崎は不可思議は表情をして左右を確かめると、小走りに道路を渡ってやってきた。「ごめんね。せっかくの休みなのに呼び出しちゃって。だけど、なんだか変なのよ。本山さん、急に今日は来られないって言い出したの」「急用でもできたんでしょうか」「そんなはずないわ。だって、お見舞いに行こうって誘ってくれたのは彼女の方なのよ」 なおも首をかしげる尼崎はそっと店の窓から家路に向かうサラリーマンやOLたちの中にいるはずの本山を探していた。 その横で、尼崎に本山の話を伝えるべきか迷っている美海がいた。「ねえ!ちょっとあそこ!」 小さいが鋭い声が飛んだ。「あれって、本山さんですよねぇ」「隣にいるの、須磨くんじゃない!?」 道路を挟んだ向かい側を男女が肩を寄せ合い歩いていた。男の腕は女の肩をしっかりと抱きとめているが、女の表情は曇っていた。「噂は聞いてたけど、まさか本山さんにまで手を出すなんて。」「でも、彼女怯えているように見えませんでしたか?」「ねえ、吉野さん。今日はせっかく来てもらったのに申し訳ないんだけど…。」 尼崎の目は本山と須磨をしっかりと捉えている。美海は腹をくくった。「尼崎さん。いきましょう。まだ話していないこともあるし、もしかしたら人手がいるかもしれないですから」「吉野さん…。 ええ、そうね。いきましょう」 二人は本山達を見失わないようにすぐさま行動を起こした。そんな二人が歩き出したすぐ後を、退社してきた綾部が見送った。「あれ? 今の吉野さん?」 本山は震える体を無理に起こして、身なりを整えた。覚悟を決めた告発だったが、こんなひどい仕打ちがやってくるとは思いもしていなかった。 ワンピースを羽織って愕然とする。前開きの服のボタンは、見事に全部引きちぎられていた。ボタンがはじけとんだだけでなく、場所によっては生地に穴が開いてしまった部分もあった。「狂ってる…。」 本山はついさっきまで繰り広げられていた惨劇を思い出し、身震いする。 いやな予感は須磨が出社し始めた朝から感じていた。確かに須磨のやっていることは間違っているし、そのままでは同僚達もおもちゃにされてしまうとも思っていた。だからこそ、思い切って告発したのだ。しかし、自分の身の安全は誰にも守ってもらう事はできず、頼れそうな吉野は今日に限って欠勤だった。 尼崎にも、告白するべきだったんだ。妙な意地を張って、彼女の手を借りずに解決しようとしたのがまずかった。 本山は唇をかみ締める。殴られた頬は腫れ、耳の前あたりに指輪か何かが当たったらしい切り傷もあった。 午後、出先から帰ってきた本山は、玄関ホールで須磨に行く手を阻まれた。そして、今日は自分と一緒に来いと言われる。本山の予定など、聞く気はまったくなかった。「今までにも写真はいっぱい撮らせてもらったし、僕の体験談をみなさんにお話してもいいんだよ。本山さんは、どんなことされるのが好きかとか、どんな声を出すのかとか、ね」「や、やめて…」 今まで見たこともないような表情の須磨は、じっくりと獲物を追い詰める野獣のようだ。身の危険は感じるものの、どうにも逆らう事はできなかった。 見慣れたホテルの看板が、こんなに禍々しいと思ったことはなかった。肩をつかまれたまま部屋に連れて行かれる。このままではまずい。 尼崎が不思議そうな顔をしたのを思い出した。美海の見舞いを断ったときだ。本山は心から後悔した。 尼崎さん、どうか気付いて。助けに来て! 本山は、無理と知りながらも祈らずにはいられなかった。しかし、部屋の鍵がかけられたとたん、須磨は豹変した。ゆっくりと頬を撫でていた優しい手は凶器へと変貌し、躊躇いなく本山の頬を打った。ショックで声も出ない本山を、なおも執拗な暴力は続く。 突然、携帯電話が鳴り出したが、須磨があっさりと電源を切ってしまった。 服は剥ぎ取られ髪をわしづかみにされて振り回された。反抗には容赦のない平手打ち。抵抗する気力を失った本山に待っていたのはプライドを粉々にされるような行為だった。 須磨はまるで王のように振る舞い、奴隷と化した本山に欲望の限りをぶつけた。そして、一人さっさとシャワーを浴びると、すっかり今までの顔に戻って微笑んだ。「今日は楽しかったよ。また遊ぼうね。」 そう言ってサイドテーブルの上にあったレコーダーからDVDを取り出してにやりと笑った。
April 22, 2010
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「おはよう、本山さん。これからは真面目にがんばるから、よろしくね」「ど、どうも。あ、やだ!塩見さんに借りてた本、返そうと思ってたのに忘れちゃったぁ」「いえ、明日でいいですって。急ぎませんから」 気のせいだろうか。ほんの一瞬だったが、本山の顔がこわばったように見える。美海はそれ以上本山を見ているのがいけないことのように思われて、仕事にもどった。 5時を回ると、美海はいつものようにカップを集めて片づけをはじめた。女性達は個々に化粧を直し、アフターファイブの準備に余念がない。 須磨はよほど謹慎がこたえたのか、今は真面目に仕事に集中している。綾部との会話も多くなったせいか、チーム全体が仕事に打ち込む雰囲気が盛り上がってきてくる。「ねえ、吉野さん。今日の帰り、ちょっとお茶しない?」「本山さん? 珍しいですね。今日はデートじゃないんですか?」 悪気のない美海の言葉に、本山は苦笑した。「私、そんなにデートばっかりしていると思われてたの?」「あ、そういうわけでは…。なにも予定がないので、おつきあいしますよ」「そう、じゃあ、玄関ホールで待ってるわね」 できる女という印象の尼崎と違って、いつも甘え上手で世渡りがうまそうな本山の背中が、ほんの少し頼りなげに見えた気がして、美海は戸惑いを覚えた。 急いで片づけを済ませると、美海は玄関ホールに駆け出した。ぎこちなさを覚えながらも、二人はビルを出て、ショッピングモールへと向かう。「ここ、来た事ある? パフェが最高においしいの!」 パフェと聞いて、永らく口にしていないと気付いた。運ばれてくる華やかで愛らしいパフェを見て、本山のようだと思う。「ごめんね。急に声を掛けたりして。吉野さんと二人でお茶するなんて初めてね。今日は特別におごっちゃうわ」「ええ?いいんですか?」「ん、気にしないで! その代わり、ちょっとだけ話を聞いて欲しいのよ」 本山は、柄の長いスプーンでパフェの一番上に乗っているさくらんぼを引っ掛けたり転がしたりしている。片手で頬杖をついて少し甘えたようなすねたようなそんな表情は、会社では見せない顔だ。 こういう表情で、ボーイフレンドを翻弄するんだろうかと、美海の思考は勝手に一人歩きをはじめる。「須磨さんのこと、どう思う?」「どうって言われても…」「噂によると、散々女の子を食い物にしたっていうじゃない?どれだけ反省したのか知らないけど、なんだか危険なイメージがあって、抵抗を感じるのよね。」「でも、反省したって認めてもらえたから、謹慎が解けたんじゃないんですか?」「ん~、もう! 吉野さんったら、人が良すぎよぉ! じゃあ、もしも室長秘書の西宮さんを手に掛けて、自分の都合のいいように進言させてたらどうするの?」 美海は物静かで大人な雰囲気の西宮を思い起こす。「まさかって、思ってるんでしょ? でも、分からないわよ。」「でも、まさか!」「だって、一番そういうことから縁が遠そうな貴方だって…」「本山さん…? それ、誰から聞かれたんですか?」 本山の白い耳がぱっと赤くなったのを美海は見逃さなかった。「確かに、私はほんのひと時だけ須磨さんとお付き合いしていました。だけど、須磨さんは皆が言うような遊び人ではなかったですよ。おしゃれにも遊びにもうとい私に、丁寧にいろんなことを教えてくださいました。 ただ、私には須磨さんのそばにいることが辛かったんです。どんなに背伸びしても、迷惑をかけるだけで疲れ果ててしまって…。でも、もしも噂になっているように須磨さんが女性をもてあそんでいるんだとしたら、被害が多くなる前に止めてあげるほうがいいに決まっていますよね。 本山さんだったんですね。室長に連絡を入れてくださったの。違いますか?」 本山はおいしいと勧めていたパフェには手を出さず、じっとグラスの中の層の様子を見つめていた。「まさかぁ!私にはそんな趣味はないわ。いやあねぇ。」 本山はケラケラと笑ってみせたが、美海は痛々しいその姿に話を合わせることしか出来なかった。 そっとパフェを口に運んでみる。見た目の華やかさからはちょっとかけ離れた甘酸っぱさに驚く。「須磨さん、何がきっかけで謹慎が解けたんでしょうねぇ。考えてみれば、室長も出張中だし、不自然といえば不自然ですが…」「室長が帰ってくるのは1週間後。それまで何もなければいいんだけど」 本山の表情は沈んでいた。自分の知らない須磨が、どこかで暗躍しているのだろうか。美海にはにわかに信じられない話だった。 本山と別れて自宅にもどると、ゆっくりと考えをめぐらせる。何か、引っかかるものがあったはず。本山は笑っていたが、彼女が須磨の被害にあったのは間違いなさそうだ。先日、室長室に同席していたのは室長と西宮と綾部と自分だ。室長が出張中である以上、今日仮に須磨が勝手に出社しているとしても、そんなことなど知る由もないだろう。西宮も今日は企画室には顔を出していない。綾部は。。。 朗らかに笑う綾部の顔を思い浮かべる。須磨とはまったくタイプの違う綾部だが、若くしてチーフになったには理由があるはずだ。美海は一人、頷いていた。 翌日も、須磨は何食わぬ顔で出社し、ごく普通に仕事をこなしていた。時計が5時を指し、女性達が席を立つと、覚悟を決めて立ち上がった。「あの、チーフ…」「あ、吉野さん。悪いんだけどコーヒー入れてもらえるかな」「須磨さん。まだカップに残ってますよ」「いや、悪いんだけど冷めちゃってさぁ」 肩を落として須磨のカップを受け取る。一大決心をした美海は、出鼻をくじかれた気分だ。 その後も、なぜか綾部に声を掛けるたびに、何かと用事を言いつけられる。湯飲みを片付けながら、美海は焦り始めていた。「吉野さん。」「え? あ!チーフ」「何か用事があったんじゃないんですか?さっきから、声を掛けてもらっているようですが」 洗い物をしている背後から声を掛けられて、美海は驚いてしまった。「あ、いえ。あの。なんでも…」 いいながらすぐさま後悔した。「今日、時間取れますか? よかったら、晩御飯一緒にどうです?」 美海が言うはずのせりふは、綾部の口から出てきた。「はい!じゃあ、玄関ホールで」 二人はなんとなく須磨の妨害に感づいて、小さないたずらを実行する子どものようにこっそりと頷きあった。 事務所にもどると、淡々と湯飲みを片付け、美海はさっさと事務所を出た。そのまま1階に下りると、スタスタとビルを出てすぐにビルの脇にしゃがみこんだ。 気分はかくれんぼだ。 しばらくすると、ツカツカと早足な足音が近づいてくる。美海は慌てて携帯電話を天気予報に合わせて耳に当てた。 すぐに長身の須磨が通り過ぎるのが見えた。前の通りできょろきょろと見渡し、駅に向かって走り出す。 かくれんぼ、成功! 大人になるとかくれんぼがこんなにドキドキするものだとは知らなかった。 美海はそっと冷たいホールに引き返す。ぞっとするほどの静けさの後、フォーンと穏かな音が響く。エレベータが開いて綾部が下りてきた。「須磨さんは?」「駅のほうに走って行きました。」「そっかぁ。とりあえず、この前の店にいきますか?」 綾部はさりげなくビルの周辺を気にしながら、すたすたと歩きだした。美海もそれに続く。歩きながら思う。綾部は須磨の様子になにか感じているのかもしれないと。 レストランは混雑し始めたばかりだ。数組の客が長いすに座って待っていた。綾部は店員に声を掛けると、なにやら話をしている。そしてしばらくすると、用意が出来たと声を掛けられて美海たちは先に客席へと通された。「ここ、個室があったんですね。」「うん、前に取引先の人を連れてきた事があったんですよ。須磨さんのことも気になるし、ここの方が落ち着くでしょうしね。」 個室の中央にはやや大きめのテーブルがあり、その下は掘りごたつ式になっていた。ドアがしまると客席からは見えないし、窓には障子が入っていて、外から見られる心配もなかった。「今日は、急に呼び立てたりしてすみません。どうしても話しておきたいことがあって…」「私…、私もそうなんです! 須磨さんが急に出社されたのがどうも腑に落ちなくて」「えっ? 須磨さん、ですか?」「はい、須磨さんのことです。どうして出社許可が下りたのかなって、女の子の間で噂になっていて…」噂になってはいなかったが、綾部に協力してもらうには大げさぐらいでちょうどいい。「須磨さんが始めて出社されたとき、綾部チーフもご一緒でしたよねぇ。」「ああ、あれは須磨さんから連絡が入ったからなんですよ。室長が出張の準備で忙しくて、連絡できないからとかいうことだったのですが。以前と違って随分丁寧に話すようになったし、少しは反省したんじゃないのかなぁ。仕事には真面目に打ち込んでいるでしょ?」「確かに、お仕事には熱心になられたと思いますが…」 言いよどんでいると、綾部がまずは食べましょうと陽気に声を掛けた。 結局、せっかく須磨のことを確かめるチャンスだったのに、何も聞けないままになってしまった。 店を出ても美海はなんとかその話をしようと話しを振るが、どうも今日の綾部は乗ってこない。上の空といった感じだ。話しを聞いているというより、じっと見つめている感じなのだ。「綾部チーフ、ちゃんと話を聞いてください!」「危ない!」「あっ!!」 小さな路地から車が飛び出してきた。とっさにつかまれた腕は思いのほか強い力で引っ張られ、美海はバランスを崩して倒れてしまった。 車はそんなことなど気付かないのかさっさと大きな通りを走り去ってしまう。「吉野さん!大丈夫ですか? あっ!血が。。」 美海が意識を取り戻したとき、辺りはしんと静まり返っていた。遠くでスタスタと歩く足音が響いている。何かの機械の音がかすかに聞こえてくる。 ゆっくりと目を開けると、どうやらそこが病院だと気付いた。頭の奥に鈍い痛みがある。そうか、あの時倒れた拍子に頭を打ってしまったんだ。ふうっと深いため息がでる。そっと周りを確かめると、ベッドの横に綾部が座っているのが見えた。どうやら自分は意識を失って綾部に病院まで運んでもらったようだ。綾部は仕事の疲れが出たのか、パイプイスに座ったまま転寝している。こっくりこっくりと頭が揺れているのをぼんやりと見ていると、グラッと大きくゆれて美海の布団の上に倒れこんできた。美海はそっと上体を起こす。「チーフ。綾部チーフ! 大丈夫ですか? 風邪引きますよ。」うっすらと目を開けたかと思うと、綾部は急に起き上がって美海の両肩を握り締めた。「君は!! あの時の!!」
April 21, 2010
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翌朝、美海は意を決して出社していった。ベランダの花に水をやっていても、どこか顔がこわばってしまう。しかしそれは自分の責任なのだ。安易に好意を受け止めてしまった自分が悪いのだと言い聞かせて、須磨の出社を待ち構えた。 次々に仲間が出社してくるが、いつまでたっても須磨は出社してこない。昼休みも終盤になって、尼崎が美海に声を掛けてきた。「ねえ、須磨くんどうして来ないのかしら。何か聞いてる?」「いえ、何も…」「おかしいわよね。いくら遊び人の須磨くんでも、無断欠勤なんてめずらしいわ。」 誰に聞いても須磨からの連絡を受け取ったものはいなかった。みんなが首をかしげる中、一日が終わろうとしていた。 湯飲みを集めて洗い始めていると、西宮がやってくる。「ご苦労様。いつも一人でやってくれてるのね。他の子たちにも回していいのよ。」「いえ、もう慣れましたし。」「そう? あ、そうそう。それが終わったら、ちょっと室長室まで来てくれる?」「あ、はい。わかりました。」湯のみを片付けに事務所内にもどると、事務所はがらんとしていた。みんな帰ってしまったようだ。いそいで室長室に向かう。ここに入るのは入社試験以来はじめてだ。ドアの前に立つと、内側からドアが開けられた。西宮が奥へと促す。「やあ、仕事が終わっているのに呼びつけて悪かったね。今日はちょっとプライベートな事で来てもらったんだ。」 三宮が大きなディスクの向こう側のイスから立ち上がって来客用のソファへと美海を勧めた。戸惑っていると、今度は綾部がやってくる。「お呼びでしょうか?」 室長は綾部にもソファを勧め、二人が座るのを見計らって自分も向かい側に落ち着いた。西宮は室長室の隣のディスクで、まだなにか書類を作成している。普段、この室長室に入ってしまう西宮なので、その仕事ぶりを見ることが稀な美海は思わずその手元の優雅さに目を奪われてしまった。「実は、須磨くんには自宅謹慎してもらっているんだ。まずは順序だてて説明しなくてはならないね。」 慌てて視線を戻す美海が見たものは、いつものどっしりと構えている室長ではなく、肩を落とした初老の男の姿だった。「須磨は…、淳也は、私の息子なんだ。別れた妻に引き取られたので、須磨と名乗っているんだよ。妻の実家は大変な資産家でね。淳也は好き放題にさせてもらっていたようだ。 学校を卒業するに当たって、あまりの横暴ぶりをとめることが出来なかった妻は、私に泣きついてきた。ここで雇って社会人としての常識を叩き込んでほしいとね。 いろいろ話し合いもしたし、資格も取ってがんばって仕事はするようになっていたが、だらしない生活だけは直らなくてね。」 深いため息をついて、三宮はタバコを取り出した。「失礼。普段はやめているんだがね、アイツの話になるとどうも吸いたくなるんだよ。」 上着のポケットから小さなライターを取り出して火をつけると、大きく吸い込んではぁっと吐き出す。「実は昨日の午後、ある女性から電話がかかってきたんだ。おたくの会社の須磨という人物がどれだけひどいことをしているかご存知か?っとね。 無理やりではないにしても、女性をそそのかしては関係を持っていたらしい。そうして、それを自分の趣味だと笑い飛ばしたというのだ。父親として情けない話だが、否定できなかった。 女性は、自分も愛人になっていると打ち明けたうえで、吉野くん、君に毒牙がかかろうとしていると心配していたよ。」 唐突に自分の名前が出て、美海はたじろいだ。室内にいる3人の視線が一斉に自分に注がれているのが分かる。美海は体中の血液が逆流するような緊張を覚えた。しかし、言葉がうまく出てこない。「確かに、最近の須磨さんは随分吉野さんが気になるようでしたね。」 それまで黙って聞いていた綾部が納得したようにつぶやいた。「昨日の夜のうちに、本人に問い詰めたら、全て白状したよ。随分とひどいことをしていたようだ。だが、今までの女性たちについては、相手も了解の上の大人のお遊びだと本人が主張するので、とりあえず、君にだけは謝らなくてはと思ってね。 本人も吉野君にだけは、悪いことをしたと謝っていたよ。強引なことをして申し訳なかったと」「私…。ほんとは今日、私の方が須磨さんに謝ろうと思って覚悟を決めていたのです。それが須磨さんの遊びだったのかもしれません。でも、優しい言葉をかけてもらって、きれいな服やアクセサリーを買ってもらったり、おしゃれな洋服の着方や、ヘアスタイルの合わせ方なんかもいっぱい教えてもらったんです。私、なにも奪われたりしていない…」 そういいながら、前日の悲しいキスを思い出した。あれだけは、奪われたというべきか。しかし、と美海は思った。「優しくしてもらってすっかり有頂天になっていたけれど、やっぱり私は須磨さんとは合わないってわかったんです。だから、私、今日は須磨さんにお付き合いを解消してもらおうと思っていたんです。それだけなんです。」 三宮は深く頷いてほっとした表情になったが、綾部は目を伏せた。「綾部くん、君にも気分の悪い思いをさせたね。どうも吉野君のことでは張り合っていたらしい。」「いや、僕は別に…。 須磨さんは仕事に関しては真面目でしたし、時々は先走る事もありましたが、気になるほどではありません。」 無理して笑っているのが、美海にも分かる。一時の突っかかり方はひどいものであったし、致し方ないのかもしれない。 三宮に頭を下げられて恐縮したまま、二人は室長室を出た。そのまま玄関ホールまで出ると、急に綾部が声を上げた。「あ~あ、緊張していたせいかお腹がへりましたね。ねえ、吉野さん。一緒にご飯食べに行きません?」 美海が返事する前に、タイミングよくお腹がぐ~っと返事をした。思い悩んでも空腹には勝てない。素直に綾部に従ってレストランに向かった。 ともすれば沈みがちな美海を励まそうと、綾部はあれこれ楽しげな話をする。空腹が満たされ、綾部に励まされて、肩に入っていた力がすっとぬけていくような感覚を覚える。美海はこれまで須磨がしてくれたこと、自分が感じたことをあれこれ告白した。綾部に打ち明けるうちに、自分の中で整理がついてくるのがわかった。「でも、須磨さんに急にキスされて。私、びっくりしました。」「えっ…!」 美海が我に返ると、綾部が水をひっくり返してあたふたしていた。「ご、ごめん。手が滑ったんだ。」「大丈夫ですか? あ、すみません。私こそ、自分の話しに夢中になっちゃって。でも、恋ってもっと幸せなものだと思っていました。気後れしたり、申し訳なく思えてきたり、悲しくなってくるなんて、思いもしなくて」 ハンカチでスラックスを拭いていた綾部が手を止めてつぶやくように言った。「吉野さん。恋って、そんなに慌ててしなくてもいいんじゃないのかなぁ。自分の気持ちが盛り上がってこなかったら、無理に相手に合わせることはないと思うんだ。 例えば僕には初恋の人がいて、その人の名前も顔さえも思い出せないけど、それでも他の人からどんな風に告白されても、その人より好きだなって思わない限り付き合わないと思うんですよ」「綾部チーフ、そんな人がいたんですか?」 綾部は手の中にあるハンカチをじっと見つめながら話していた。「ん。はっきり分からないんだけど、もう何度も夢に出てきているんですよ。その夢の中ではなんだかとても打ち解けていて、気さくに話をして。で、なぜか最後に大丈夫?って顔を覗き込んで来て、そこで夢が覚める。だけどどうしても顔がわからないんですよねぇ。」 そういいながら綾部が顔を上げると、真っ赤になった美海がそこにいた。「どうかしましたか?気分でも悪い?」「あ、いえ。なんでもないです」 ああ、どうして言えないんだろう。せっかくのチャンスだったのに。きちんと確かめて謝りたかったのに。 美海は自分の不甲斐なさに肩を落とした。「さて、そろそろ帰りましょうか。須磨さんが来ないとなると、みんなの負担が少しずつ重くなりますね。明日からもしっかりお願いしますよ。」「はい。がんばります!」 綾部と美海はそのまま駅まで歩くと、手を振って別れていった。 須磨の謹慎の噂はすぐに企画室内に広がった。しかし仕事が忙しくなってきたせいか、いつまでもその話をする者もなくすぐにいつもどおりの平穏な毎日がもどってきた。 女子社員たちが夏休みの旅行の話題で盛り上がり始めたある朝、美海はいつもどおりたっぷりと植木に水を与え、鉢を日陰に移した。日差しはそれほどに厳しくなっていた。 給湯室でお湯を沸かしていると、誰かが企画室に入っていく気配があった。ポットにお湯を詰めて事務所にもどると、綾部があれこれ書類を出して、須磨に説明しているところだった。 一瞬の沈黙の後、美海は元気に声を上げた。「おはようございます」「ああ、おはよう!」「須磨さんも、おはようございます」「吉野くん…。怒ってないの?」「怒るなんて…。いろいろ教えてくださったのに、ごめんなさい… あ、コーヒー。入れてきますね!」 美海が元気に席を立った。その隙に須磨はすばやく言った。「綾部チーフ。吉野君は本当にいい子だよ。でも、うぶで危なっかしい。しっかり守ってやってくれよ。」 綾部は急に言われて手に持っていた書類を落して慌てていた。しかし須磨は至極当然のように続ける。「会社では上司だけど、会社を出たらただの一人の男なんだからさ。無理することはないんじゃないの。もっとも僕みたいに悪いことしちゃいけないけどね。本気なんだろ?」「い、いや。僕はそんな…。」 しゃがみこんで書類を集める耳の赤い綾部に、須磨はただ分かった分かったと頷くだけだった。そして、自分の復帰を快く受け入れる綾部に礼を言う。「当たり前のことをしたまでです。須磨さんはうちのチームの要ですからね。これからもがんばっていきましょう!」朝日が差し込む事務所に、深い香りを伴って美海がやってきた。コーヒーを受け取った須磨は、「ありがとう」っと小さく言って、穏かな表情を見せた。「おはよう! あら、須磨くん!出社許可が下りたのね!」 尼崎があっけらかんと言う。一緒に出社してきた塩見も笑っていた。「助かりました。これで仕事の分担が少しは軽減されますぅ」「そういうこと♪ 須磨くん、仕事は山積みよ。しっかりね!」 尼崎が楽しげに言うと綾部も引き継いで声を掛けた。「じゃあ、さっき説明した分は引き続きと言う事で、あと、尼崎さんが兼任してくれている佐々木プロダクツの仕事、引き継いでもらえますか?たしか担当はヤマダさんとタカダさんでしたね」「あ、タカダさんはお二人いらっしゃるから、タカダヒロトさんの方ね」 言いながらファイルを数冊集めると、はいっと須磨に手渡して尼崎が笑った。須磨は書類の束を揃えて、静かに笑った。「がんばりますよ。実は、謹慎中って、遊べないことが不満でしょうがなくなるんだと思っていたけど、実際には仕事が中断した事が気になって気になって…。もしかして、僕って真面目?なんて思いましたよ」 事務所内がわっと明るい笑いに沸いた。「おはようございまー…」 遅刻ギリギリに駆け込んできた本山が、須磨の存在にほんの一瞬たじろいだ。
April 21, 2010
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「ジブンハ ドウシテ イツモイツモ ニゲダシテバカリナンダロウ」 自己嫌悪で頭がくらくらする。そのまま駅に向かうと、無意識のうちに美海は故郷に向かう電車に乗っていた。「ちぇ。逃げられたか。」 海岸を見渡せる公園のベンチに座り込んで、男は携帯電話を取り出してせわしなくメールを打ち出した。『やっとキスまでたどり着いたよ。まったく、手間のかかる女だね。だけど、信じられるか?24にもなってキスだけでガチガチに緊張してたんだぜ。しまいには泣き出すしさ。昔のお前を思い出しちゃったよ。まったくかわいい女だよなぁ。ヒマになったから、今から出て来いよ』 送信されてほどなく、男の携帯が鳴り出した。「アンタって、かわいそうな人ね。悪いけど、今日は会えないわ。じゃあ」 電話は一方的に切れてしまった。「困った女だね」 男はのんびりとタバコをふかした。 故郷の町まで帰ってきた美海は、あてもなく海沿いの道を歩く。同じ海ではあるが、その色も潮風の感じも全く違うと思う。 懐かしさを覚えながらのんびりと歩いているとコンビニの前に行き当たった。とたんに空腹を覚える。美海はコンビニで昼食を買い求める事にした。「やぁ! 元気でやってるかい?」 驚いて顔を上げると、高校時代のアルバイト先の店長が目の前で笑っていた。ぼんやりと歩いていて気付かなかったが、その店は美海のバイト先の店だったのだ。 時計を見るともう2時を回っている。この時間帯は客も少なく、バイトをしているときはいつも休憩タイムをもらっていた時間だ。 店長も休憩中だったのか、店内の見える事務所の机に飲みかけのコーヒーが置いてあった。「なんだ?お前さんがこんなところに来るってことは、何か悩み事でも抱えてるのか?」「え?」 美海が戸惑っていると、店長はコーヒーを飲み干してちょっと声を潜めた。「ちょうどよかったよ。お前さんには言っておかないといけないなぁっと思っていたことがあったんだ。覚えてるだろ?7年前のあの事故のことなんだ」 事故と聞いただけで、美海の体は緊張した。はやり町の人々にも知れ渡っていたのか。しかし、続く言葉にもっと驚かされる。「あの時のバイク野郎、実はうちの甥っ子だったんだ。あの日以来、どうも様子がおかしくてね。親にも何も言わないらしくてしばらく様子をみていたんだが、とうとう辛くなったらしくて、俺んところに相談に来たんだよ。」 店長は、今相談に乗ったばかりのように眉間にしわを寄せてタバコに火をつけた。 店長の話によると、慣れないバイクに乗って走っていた店長の甥っ子は、海の方でかもめが騒いでいるのが気になってちょっと余所見をしてしまったんだそうだ。事故はその直後に起こったらしい。気付いたときには目の前に少女の怯えた顔があり、それをとっさにかばった少年と衝突してしまったというのだ。「じゃあ、私が飛び出したせいで事故が起こったわけじゃなかったんですか?」「ああ、違うよ。甥っ子はじきに警察に出頭して大目玉を食らったよ。仲間に乗ってみろと勧められて、半ば強引に乗りなれない他人のバイクに乗せられてしまったんだそうだ。免許取立てだっていうのに。ばかだよ。相手の親御さんの方にも謝りに行ったそうだが、その親御さんてのがいい人でね。誠意を込めて謝っていたら、示談にしてくださったんだそうだよ」 しみじみと店長は語っていた。その相手の人というのは綾部だったのだろうか。聞き出したい気持ちをぐっと抑えて、店長の次の言葉を待った。「それがね。2年ぐらい前だったかに、実はあの場所に吉野君がいたって言い出したもんだから驚いたよ。しかし、考えてみたら次の年はアルバイトには来てもらえなかったし、あの年も、後半はちょっと元気がなかったよな。年頃の娘なんだし、怖い思いをしてたんじゃないだろうか、自分のせいだと自責の念にかられてるんじゃないだろうかってね。気になってたんだ。相手の男の子は救急車で運ばれていったきりだったしな」 店長はそういいながら店の奥から缶コーヒーを1つ持ってきて、美海に差し出した。「とりあえず、元気そうでよかったよ。おかえり。よく帰ってきたね」「私…。ちょっと落ち込んでて、知らないうちにこの町に帰ってきてたんです。でも、今日店長さんに会えてほんとに良かった。」 美海はその缶コーヒーを大事そうに受け取ると、横の棚にあるサンドウィッチを取ってお金を払った。事故のことについては、あえて何も言わなかった。今はまだ驚きすぎて混乱している。「また気が向いたら帰っておいでよ。」「店長さん、ありがとうございました」 自分には、まだ居場所があった。 美海はほっこりとした気持ちで店を後にした。 故郷の海はいいな。ほっとする。たまごサンドをぱくっとほおばって海からの暖かな風を胸いっぱいに吸い込むと、体の中にまで太陽の輝きが入ってくるような気持ちになる。 夏が近いから海辺には子供連れやカップルの姿もある。だけど、疎ましさなど感じることはなかった。笑い声が潮騒に混じって浜辺をはじけ回っている。それがここの海なのだから。 遠くで小さな叫び声が聞こえた。目を向けると、高校生ぐらいのカップルがしゃがみこんで砂浜に落ちた缶ジュースか何かを眺めている。女の子の嘆く声、軽快に笑う男の子の声。二人はそのまま立ち上がって、美海の前を通り過ぎていった。「もう、サイテー! せっかく買ったのに」「しょうがないじゃないか。わざと落としたわけじゃないんだし。また買えばいいよ」「そういう問題じゃないでしょ! せっかく買ってあげたのに」「なんだよ。せっかく海まで来たのに、怒るなよ」 二人の押し問答は美海の前を通り過ぎても続いていた。美海は関係ないといった様子でサンドウィッチの最後のひと片を口に入れると店長にもらった缶コーヒーでのどを潤した。冷たいコーヒーがのどから胸へと広がっていく。「そういう問題だったんだ。ジュースはまた買えばいいし、怪我は治っていくものだった。」 店長の話が甦ってくる。「甥っ子は大学進学を諦めてすぐに就職したよ。示談金を親に返すんだって、がんばってる。相手さんにもお中元やお歳暮なんかを送っていたらしいよ。あいつなりのけじめなんだろうな。けど、それもしなくてよくなった。」「え? どうして?」「相手のおふくろさんが甥っ子に手紙をよこしてくれたんだ。息子も就職して元気にがんばってるから、いつまでも過去のことを気にしていないであなたも前を向いて歩いてくださいってね」 美海は水平線の向こうにあの日の自分達を見ていた。あそこからここまで、7年もあったんだ。「あれ?姉ちゃん!?」 振り向くと弟の芳雄が立っていた。美海が言い訳を思いつく前に、弟はすばやく口撃を仕掛けてくる。「うわ、なんか変! とうとう都会の毒がまわったな。そんな派手な服、この町には似合わんし、姉ちゃんらしくないぞ!」 そういう弟はさっぱりとしたTシャツとジーンズ姿。よく見るとブランド物を身につけているのだが、なにより弟らしかった。美海はふとおかしくなって、ケタケタと笑い出した。「なんだよ、それ。」 呆れながら、芳雄も一緒に笑い出した。「ん、確かに派手だよね。さて、そろそろ帰るか」「寄っていかないの?」 弟の言葉に残念そうなニュアンスが含まれていて、美海はちょっと嬉しくなった。「うん、気まぐれに来ただけだからね。」「企業戦士の休日ってやつ?」「まあね」 二人はまた屈託なく笑った。 弟と別れて駅に向かう。いつもの街までの切符を買って電車に乗り込んだ。ドア際にもたれて外の景色をぼんやり眺めていた。ほんの少し陽が傾いて、海の色が変り始めている。 電車が動き出す。すぐにコンビニが見えた。続いて事故現場も。あっという間に通り過ぎ、遠くへ遠くへ押し流されていく。 いつもの街の主要駅に降り立ったときには、休日の外出帰りの人々で大変な混雑になっていた。乗り換えの通路を歩いていると、売店の近くで小さな子どもの泣き声が聞こえた。「ママー! ママー!どこなの?」 迷子かな。 人が多いからはぐれたんだろうか。 美海が子どもの方に行こうとすると、先に駆け寄る大人の姿があった。「大矢、さん?」 ぞろぞろと通路を行き交う人々の流れの向こう岸で、4歳ぐらいの女の子の前にしゃがみこんで話しかけるその姿は大矢に違いなかった。あっけに取られる美海の存在など知らない様子できょろきょろと母親らしき人物を探す大矢。通りがかった駅員に少女のことを話したあとも、しばらくそばにつきそっていた。 ほどなく母親がやってきて、しっかりと女の子を抱きとめると、大矢に何度も頭を下げて、どこかのホームに去っていった。 大矢さん、やるなぁ。。 美海はなんとなく声を掛けそびれたまま、人々の流れの中に飲まれて行った大矢を見送った。山田漁港の駅は小さな駅ではあったが駅前商店街は活気に満ちている。美海は夕ご飯のおかずを買い込むと、足早にアパートへと向かう。洗濯物を取り込む、食事をすませる、入浴して洗濯をはじめる。地味だが、それが美海の生活の基本なんだと実感する。窓を開けて日の暮れる様子をぼんやりと眺めていると、ふぅっとため息がこぼれた。「今日はなんていう日だったんだろ。 須磨さんには、きちんと謝らないとだめだろうなぁ。 だけど…」 もっとさかのぼって言うならば、あの時の少年にも助けないで逃げ出したことを謝らなければならないと、美海は感じていた。
April 20, 2010
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「かわいいじゃないかぁ。」 須磨は上機嫌で美海を眺めた。美海が支払ったと聞いて須磨は今度は美容室に連れて行くと言い出した。 美容室では須磨があれこれ注文をつけて、あっというまにファッション雑誌に出ているような可憐な少女が仕立てあがった。 須磨がエスコートして街を歩くと、すれ違う人々が二人を眺める。「ほら、もっと自信を持って!」 恥ずかしがる美海に須磨が耳打ちしてきた。ショーウインドウに二人の影が映る。それはまるで、映画の1シーンのような二人だった。「ねえ、これから映画でも見に行く?」 カフェテリアの片隅に座って、何気ない風に須磨が誘った。回りの視線、ガラスに映る見たこともないようなおしゃれな自分。美海は舞い上がりそうになったが、そんな熱っぽさを先ほどの店長の言葉が冷ましてくれた。「ごめんなさい。今日はもう帰ります。明日の仕事に差し支えると困るので。」「やめてくれよ、こんなところで仕事の話は。」「あ、そういえば…。須磨さん、今日チーフのお客さんのところに勝手に連絡入れませんでした?チーフが一生懸命謝ってましたよ。」「え…?」 須磨の動きがほんの少し止まった。美海は申し訳なさそうにしながらもそっと席を立った。「今日はどうもありがとうございました。」「もう帰っちゃうの?夜はこれからだよ」 大げさに驚いてみせる須磨だったが、美海はにっこりと微笑んで答えた。「須磨さん、明日、遅刻しないでくださいね」「参ったなぁ。。。じゃあ、駅まで送るよ」 須磨があっさりしていたので、美海は内心ほっと胸をなでおろしていた。 いつもの駅に降り立つと、急に自分の格好が派手がましく浮いて見えた美海は、駅のトイレで慌てていつもの服に着替えて商店街を歩き出した。「よお!今帰りかい?」 魚政の政義が声を掛けてきた。「ええ、今日は美容室に連れて行ってもらったの」「へぇ。今時の頭はよくわからないねぇ。いつもの馬の尻尾みたいなヤツ、あれでいいじゃねぇか。充分かわいいんだから。それともアレか?ボーイフレンドにこんな頭にしろって言われたのかい?」 あははと笑い飛ばしながら、美海は気恥ずかしくなって慌てて大きなウエーブの髪を束ねた。 部屋に戻ると大きなため息が出た。やっぱり遊びなれた須磨を相手にするなど無謀だったのだろうか。それでもワンピースに着替えてきたときの嬉しそうな顔を思い出すと、ふっと優しい気持ちになってくる。これが恋なのだろうか。 恋など自分には遠いことのように思っていた。あれ以来ずっと。だけど、あんなふうに真剣に見つめられたり優しい笑顔に包まれると、自分はもしかしたら他人に愛されてもいい存在なのかもしれないという気持ちになれる。 新しいワンピースをハンガーにかけて、美海の表情もほんの少し穏かになっていた。 須磨との付き合いが始まって10日ばかり過ぎた頃、美海は階下の主婦に苦情を訴えられていた。「あのね。貴方はまだ若くておしゃれしたり夜遊びに出たりとお忙しいお年頃かもしれませんが、うちは子どもが小さいのよ。せっかく寝付いたと思ったらお宅の洗濯機の音でしょ? 子どもには怖いみたいなんですよ、あの音。 今まであんな時間に洗濯なんてなさってなかったのに、どうして?なんだか服装も派手になっちゃって。お帰りも遅いし、余計なお世話かもしれませんけど、生活が乱れてるんじゃないですか?」 主婦の目には敵意すら感じられ、美海をたじろがせた。「ごめんなさい。最近帰りが遅くなってしまって。これからは気をつけます」 素直に頭を下げられ、主婦は怒りの矛先を失って自分の部屋へ引き返して行った。確かに毎日のように須磨の誘いがあり、美海はすっかり自分のペースを見失っていた。恋をして幸せなはずなのに、気持ちが安らぐことがない毎日。次の日、美海は初めて寝坊してしまった。「ねえ、どうしちゃったの?恋やつれ? 最近随分きれいになったと思ってたら、なんだかお疲れ気味なのねぇ」 尼崎が心配げに声を掛けてきた。「尼崎さん、恋と生活の両立って、どうすればいいんですか?」「なにそれ? 吉野さんって、ほんとに真面目なのねぇ。」 尼崎は楽しそうに笑うと、しばらく落ち込んだ様子の美海を見つめ、そして思い立ったように言った。「私はね。吉野さんと同じ一人暮らしだから、洗濯や掃除や食品の買出しをする日は予定を入れないって決めてるの。どうしてもって時は午前中だけデートするとかにしているわ。気をつけてね。恋をすると夢中になるけど、自分の生活を犠牲にするような恋なんてありえないんだから」 美海ははっとした。自分より一人暮らしの長い尼崎の言葉は説得力があったのだ。二人の会話を知ってか知らずか、綾部が声を掛けてきた。「吉野さん、体調でも崩しましたか? 今まで遅刻なんてしたことなかったのに。気をつけてくださいよ。一人暮らしするものにとって、病気は天敵ですからね」「ふふ、そういえばこの前の出張以来、チーフもひどい目に合われたようですもんね」 尼崎は楽しげに笑っていたが、美海には意味がわからなかった。「あら?吉野さんにも回覧回ってたでしょ? チーフが風邪で熱を出されたから、有志でお見舞いに行ったのよ。確か、あの日は吉野さん都合悪いって聞いたけど。」「あれ、そうだったんですか? 私、見落としてたのかなぁ。」「それがね、私達がレトルトのおかゆを持っていってなかったら、チーフったらもうちょっとで餓死しちゃうところだったんですって。」 尼崎の楽しげな話は続いていたが、美海は回覧が故意に止められたことに気付いて居心地の悪さを覚えた。 「今日はどうしたの?随分お久しぶりね。」「ちょっとね。だけどもう限界だ。ほら、さっさと脱げよ」 男は気ぜわしく女の服を剥ぎ取ってベッドに押し倒した。女はそっぽを向いたまま体を預けている。「吉野さん、最近随分きれいになったわね。」「なんだよ、ヤキモチか?」「まさか、もう?」 女は胸をまさぐる男の腕をつかんだが、そのセリフの続きは男の唇にふさがれた。「心配しなくても、お前は充分に魅力的だよ」 男は女の赤くなった耳元で囁くと、そのまま首筋に口づけながらじわじわと体をずらせてゆく。熱っぽいため息が女の口元から零れ落ち、二人は夢中になって己の欲望を満たしていった。「まだ何もしてないよ」 タバコに火をつけて一息つくと、男は何事もなかったように言った。 けだるいまどろみの中にいた女は、ふっと冷静な表情になる。「結構ガードが固いんだ。そのくせ気ばっかり使って。こんなに手こずったのは初めてだよ。だけどその分楽しみだね。いつか絶対、あいつの口から僕が欲しいって言わせてやるよ」「可哀想だと思わないの? あの子、きっと初めてよ」「じゃあなおさら、相手は上手な男のほうがいいんじゃないの?」 男は自信ありげににやにやと笑っている。「私、そろそろ帰るわ」 冷たい一瞥を投げかけ立ち上がる女を男の腕がしっかりと引き止めた。「ダメだよ。もう一回。 がっついてる姿は見せられないからね。それに、お前の体は最高だよ。10日間もがまんするのは大変だったんだ」「あん!悪いおと・こ…」 言葉はいつの間にかあえぎ声に変わっていった。 その頃、美海は洗濯物を所狭しと干していた。部屋干しの洗濯物は柔軟剤のやさしい香りで部屋中を満たしている。エアコンをドライにして窓を閉めようとすると、階下から小さい子の笑い声が聞こえてきた。「よかった」 心がほっと温かくなった。今まで通り早めに洗濯も終えられたし、尼崎に教えてもらってゴム製の台を敷いたので、洗濯機の音も少しは静かになった。 ご飯を炊く。魚政で買ったさわらを焼いて青菜を添え、味噌汁と冷奴を準備する。小さな声で頂きますと言うと、やっと自分らしい食事ができるんだという安心感が満ちてくる。 食事の片づけをしていると、母親から電話がかかってきた。「どうしてる?風邪ひいてないかい」「うん、大丈夫だよ。あ、母さん。私…」「どうしたの? まさかあんたまで彼氏ができたとか言うのかい?」 言い当てられて言葉がみつからない。「あはは。まさかねぇ。あんたは昔から臆病だったから、恋愛は無理なのかもしれないね。 そうそう、雅美おばちゃんが久しぶりにあんたに会いたいって言ってたわよ。もしかしてお見合いの話じゃないかしら。あの人顔が広いから。」 母親は楽しげに話し続けていたが、美海の心は沈んでいくばかりだった。なんとか電話を切ると、小さなテーブルに突っ伏して考える。 どうして自分は母親に須磨とのことを話せなかったんだろう。何度か重ねたデートでは、須磨はいつも優しくて、見栄えのする須磨と腕を組んで街を歩くとすれ違う女性達の視線を感じた。服装やメイクのことも須磨はたくさんのことを教えてくれた。それなのに…。 答えが見つからないまま、美海は平日をやり過ごした。須磨からの誘いは体調が悪いと断り続けていた。しかし、それにも限界がある。週末は須磨と会う約束になっていた。 週末がきて、美海は久しぶりに須磨と海岸沿いの公園を歩いていた。夏が近いせいか、日差しが強くなっている。しかし、いつもは笑顔を絶やさない須磨が、その日はどうも様子が違う。平日のデートを断ったのがいけなかったのだろう。覚悟はしていたが、不安な気持ちが広がっていく。 須磨はまっすぐに前を見つめて歩いていたが、急に立ち止まって振り向いた。小走りに後ろを歩いていた美海はよろけ、須磨に抱きとめられる。ごめんなさいと言いかけた美海だったが、抱きしめる腕の強さに戸惑った。「じらせ過ぎだよ」 須磨はそう言うと、不意に美海のあごを引き上げてあっという間にその唇を奪ってしまった。 初めてのキス。もっと甘くて切ないものだと思っていたのに。美海はどうしようもなく悲しくなって、あふれ出る涙を止められなかった。「キスぐらいで泣くなんて、24の女のすることじゃないよ」「ごめんなさい。」 たしなめるように微笑んだ須磨に、美海はただ謝ることしかできなかった。 違う。何かが違うのだ。説明のつかない違和感が美海を襲っていた。自分はここに居るべきではない。心の中で何かが叫んでいる。 じわじわと体が後ずさっていく。早く何処かに逃げ出したい気分だった。「どうしたの?」「ごめんなさい…」「ちょっと!」「ごめんなさい…」 気がつくと、海岸沿いの公園を通り抜け、ショッピングモールの中までたどり着いていた。ふりむいても須磨の姿はなく、どうやらパニックになって振り切ってしまったようだ。後悔はするが、どうしようもない何かを感じていた。
April 19, 2010
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ひとしきり泣くと気持ちが落ち着いてくる。我に返るとたくましい腕の中にいた。しっかりと自分を包み込んでくれる温かな胸。かすかなムスクの香り。顔を上げると、スーツに涙の後が残っていた。「あ、ごめんなさい。」 はずかしさで須磨の顔をまともに見上げる事ができない。「大丈夫だよ。スーツは他にもある。それより家まで送ろう」 須磨に促される形で、美海は自分のアパートへと歩き出した。アパートの前までくると、美海は迷いながらも声をかけた。「ここなんです。上がっていきますか?」「いや、今日は遠慮しておくよ。念のため部屋に入るまで見送るね。部屋に入ったらしっかり戸締りするんだよ。じゃあ、ゆっくりおやすみ」 美海はほっとした様子を悟られないようにあいまいな笑顔になると、礼を言って部屋に帰って行った。 部屋に戻って鍵を掛けると、疲れが一気に押し寄せてきた。着替えもしないでベッドに寝転がって、そのまま眠ってしまった。 翌朝、いつものように事務所内の掃除をして、ベランダの花に水をやる。広い事務所に一人きりのこの時間は、美海の憩いの時間でもあった。 昨日の事をすっかり吹っ切ってしまうことはできないが、それでも気持ちを切り替えるにはちょうどいい。ベランダで大きく伸びをしていると誰かが事務所の扉を開けた。「おはよう! 吉野くんって、朝早いんだね」「あ、おはようございます! あの、昨日はどうも…」 言いかけて言葉を濁してしまった。このまま口に出すと昨日の夜の悪夢が甦りそうでこわかったのだ。「いいよ。気にしないで。大丈夫そうで安心したよ。さて、今日も仕事仕事!」「はい!」 須磨のおどけた仕草に救われる思いだった。給湯室に向かうと、入れ違いに次々仲間が出社してくる。にぎやかな気配があふれ出した。 みな、口々に、めずらしく早く出社してきた須磨をからかうが、ただの気まぐれだとかわす須磨の笑い声が響いている。「心配してくれていたのかな」 やかんから立ち上る湯気を見つめながら、美海はぽつりとつぶやいた。 お湯を入れたポットを運ぼうと振り向いたら、目の前に須磨が立っていた。「今日、車で来てるんだけど、送らせてくれる?」「えっ、でも。申し訳ありませんし」 躊躇う美海を静かに見つめながら、スーツの襟元を整える。美海の知らない最近のブランド物だ。かすかな劣等感に気付かない様子で、穏かな言葉が彼女を包む。「昨日の今日だから、心配なんだよ。アパートの前まで送ったら、さっさと退散するよ」 自分の猜疑心のせいで須磨が勢いを削がれているのか。美海は迷いはじめていた。「じゃあ、後で。」 須磨は美海に返事の暇も与えず、席に戻っていった。「あら、チーフは今日、出張だから出社しないわよ」 尼崎に声を掛けられて改めて予定表を眺めると、確かに綾部らしい四角い文字で出張と書かれていた。なんだ、来ないのか。せっかくお茶を淹れたのに。美海は心の中で小さく舌打ちした。 綾部の湯のみを下げて洗いなおしながら、もしも昨日助けに来たのが綾部だったらどうしただろうと妄想を膨らませては慌ててかき消した。 少し陽が傾くと、もう時計は5時を指していた。夏が近づいて日が長くなってきたようだ。女性達は今日もせっせと化粧を直し、それぞれの楽しみへと飛び出していく。 そんな様子を笑顔で見送って湯飲みを片付ける美海を蹴散らすように、大矢もまた引き上げていった。「あぶないなぁ」 驚く美海の後ろから、憎らしげな声が聞こえた。「大矢さんって、どうしていつもあんなに急いでいるんでしょうねぇ」「さあねぇ。昼間はほとんど転寝しているだけだし、何しに会社に来ているんだか。あれが伝説の営業マンだったなんて、想像を絶するよ」「伝説の営業マン、ですか?」「ああ、室長が前にちらっとそんなことを言ってたんだよね。昔の業績があるから今はそっとしておいてやれとかなんとかね」 須磨は興味なさそうに言うと、すっくと向き直って笑顔になった。「さ、早く片付けて。約束どおり送っていくよ」「あ、いや。やっぱり一人で帰ります。申し訳ないし…」「こらこら。男が送っていくって言ってるんだから、恥をかかすなよ」 結局、須磨に強引に押し切られる形で美海は須磨のベンツに乗り込んだ。革張りのシートが美海を包みこむと、それだけで気後れする。「今日は天気がいいからちょっと遠回りするよ。」 美海の返事を聞く様子もなく、須磨はビジネス街をするりと抜け出した。少し走ると目の前に海が広がる。長らく見ることのなかった海に美海の表情が自然にほころんだ。 しばらく行くと、道路沿いにアイスクリームスタンドの旗が翻っていた。須磨はすかさず車を止めて、ソフトクリームを2つ買い込んできた。「ちょっと外に出ない?海からの風が気持ちいいよ」 誘われるまま、美海は車を降りた。そこがビジネス街からそう遠くない場所だとは思えないほど、穏かな海が広がっていた。「はい、ソフトクリーム。」「ありがとうございます」 須磨はそのまま海を見つめながら車によりかかってソフトクリームを一口食べると、ふふっと笑い出した。 その様子を見ていた美海にごめんと謝りながらも、しばらく笑った後で白状した。「昔ね。僕には夢があったんだよ。まだ中学生の頃だけど。いつか大人になったら、ベンツに彼女を乗せて海に連れて行ってあげて、彼女と二人車に寄りかかりながらソフトクリームを食べたいなぁってね。ベンツとソフトクリームじゃ、ちぐはぐなんだけど、その当時の僕にはそれが最高のスチュエーションのように思っててさ。おかしいよね。」困ったように笑う須磨を見ていると、美海はふっと心が和むのを覚えた。「だけど、もし吉野くんが今、この前の返事をYESと返してくれたなら、今日僕はあの頃の夢を叶えられることになるんだよね。」 照れくさそうな表情にふっと笑顔が誘い出される。恋ってこんな風に始まることもあるのかな。美海の中にわずかに残る戸惑いは、須磨のまっすぐな視線にかき消されてしまった。「須磨さん、本当に私なんかでいいんですか?」 その言葉が魔法の呪文か何かのように須磨の頬を赤く染める。そしてその次の瞬間、美海は再びムスクの香りに包み込まれていた。 翌日、仕事を終えて玄関ホールをぬけると、目の前に須磨が立っていた。「今日は何か用事でも?」 急に尋ねられて戸惑っている美海に須磨が一緒に来てほしいと頼んできた。「僕の知り合いにブティックの経営をしている人がいてね。吉野さんに似合いそうな服がいっぱい置いてあるんだ。彼女が出来たら連れておいでって言われているんだけど、少し付き合ってもらえるかな」 遠慮がちな言い方だが、返事を待つ様子はなかった。慌てて背の高い後姿についていく。地下鉄に乗って2駅ほど行くと、そのまま派手な地下街を小走りに進んだ。「須磨くん!久し振りね」 こじゃれた装いの女性が馴れ馴れしく須磨に近づく。美海は迷子になるまいとしがみつこうとした自分の腕を慌てて引っ込めた。「あら、お仕事の続き?」「あはは。今はプライベートなんだ。ごめんね、ちょっと用事があるから」 須磨はさらりと女性をかわして美海を手招きした。「ほら、あそこのブティックなんだ」 洗練された雰囲気のそのブティックには、確かに美海が好みそうな洋服が並んでいた。美海はそのうちの1つを手にとってそっと値札を覗いてみた。「あ…」「大丈夫だよ。今日は僕からプレゼントするから。店長、お久し振りです。」 店長と呼ばれたのは年配の品のよさそうな女性だった。「あら、今日もお客様を連れてきてくださったの?」 店長は穏かに微笑みながらもちらりと美海を一瞥すると、口角のあたりで小さく笑った。「じゃあ、私が彼女の洋服をお見立てするわね。お嬢さん、こちらにいらして」 店長は美海を店の奥へと案内した。おびただしい数の洋服が所狭しとディスプレイされている。美海は初めて遊園地に来た子どものようにおどおどと周りを見渡した。「ブティックでお買い物はなさらないの?」「すみません。私、一人暮らしなものであまり洋服にお金を掛けてないもので。」「そのようね。」 店長はあっさりとそう言うと、何点か洋服を選んで美海の前に翳して見せた。「かわいい顔立ちだけど、地味だから少しお洋服は派手にした方が合うわね」「でも、そんなにお金を持ってきていませんので…」「あら、須磨さんがプレゼントなさるっておっしゃってましたよ。それにそのままの格好じゃ…」 須磨と釣り合いがとれない。それは美海にも分かっていた。しかし恋人と言うには付き合いの浅い須磨にここまで高価なプレゼントをもらうのには気がひける。「あの。じゃあ、このワンピースを頂きます。でも、自分でお支払いさせてください」 店長はちょっとあっけに取られた表情を見せたが、すぐさまわかりましたと頷いて商品をレジにもって行った。レジの方からは須磨の声が聞こえている。「これを選んだの?へぇ、かわいいのを選んだね。もしよかったら、このまま着替えて見せて欲しいな」 しばらくして店長が再び奥の部屋に戻ってきた。「お客様。須磨さんが着替えてほしいとおっしゃってますよ」「あの、すみません。私、ほんとうにこのワンピースを着て似合ってますか?須磨さんに恥をかかせてしまってないですか?」 店長は、一瞬返答に困った素振りを見せたが、小さなため息をついて穏かに頷いた。「大丈夫です。とてもお似合いですし素敵ですよ。」 美海はほっとして、試着室に入った。服を着替えて出てくると、店長が真剣な顔でそっと美海を試着室の奥に連れ戻した。「今まで須磨さんには何度もお客様をご紹介いただいています。だから、こんなことを言うのは申し訳ないのですが、もしも貴方に迷いがあるのなら、自分の気持ちをしっかり見つめて行動してください。 貴方は今まで須磨さんが連れてこられたお客様とは違う。浅ましさやズルさなど微塵もお持ちではないのでしょう。もしかしたら貴方は須磨さんの悪い癖を治せる女性なのかもしれません。だけど、少しでも迷いがあるなら、よく考えて。今はそれしか言えません。どうか、お気をつけてね」 戸惑う背中をそっと後押しして、店長は美海を連れて須磨のもとににこやかに現れた。
April 19, 2010
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さっきまでのイライラした雰囲気はなくなり、須磨はまっすぐに美海を見つめていた。とまどう美海はどうしたものかと周りを見渡したが、チームのメンバーはさきほど見送ったばかりだった。大矢もいつのまにか退社している。 須磨のすぐ後ろに綾部が書類を書いているのが見えていた。須磨の言葉が聞こえていないのか、気付かない振りをしているのか、黙々と仕事をこなしている。「あの、私…」「今日はどこかに行く予定だった? それとも誰かとデートでも?」 須磨が「デート」という言葉を使ったところだけ、なぜか力が篭っているような気がして前夜の公園でのやり取りが思い出された。 この人は、何を言っているんだろう。私にどうしろと言うんだろう。頭の中でそんな質問がぐるぐると駆けめぐっていた。「何もないなら、今日は是非僕に付き合ってほしいんだ。きちんと話をしたいこともあるしね。」「え、ええ。」 美海にとっては半ば強引に押し切られたような気分だった。頭の中の答えはNOだったはずなのに、須磨の普段見せない真剣な眼差しがそれをゆるさなかった。「ありがとう。やりかけの仕事があるんだ。急いで片付けるよ。10分だけ待ってくれる?」 須磨はほっとしたように表情を緩め、穏かにそれだけ言うと、端末に集中した。 広い事務所内に書類を書く綾部と端末に集中している須磨、そして手持ち無沙汰にそんな須磨を待つ美海だけがいた。さっきとそれほど時間は変らないはずなのに、空の青さにオレンジのフィルターがかかり、たそがれが迫っていた。 須磨が連れて行った先はビルの地下にあるショットバーだった。穏かに照明を落とした店内は大人の香りが漂っている。戸惑う美海をそっと奥の席にエスコートし、自分も向かい側に腰を落ち着けた。 いつの間にかやってきたのはネームプレートに店長の肩書きがついた落ち着いた感じの熟年の男性だ。「ご注文は?」「僕はジントニックを。吉野くん、君は?」 急に声を掛けられて美海は戸惑った。こんなところに来た事などなかったし、お酒の名前といえばごくたまに仲間と行く居酒屋の酎ハイの種類ぐらいしか知らなかった。「えっと…」「ブルームーンなんて、どう?」「カシスソーダあたりはいかがですか?」 迷う美海に須磨と店長の声が重なった。一呼吸おいて店長が微笑んだ。「いや、失礼しました。こちらのお客様はあまりお酒になれてらっしゃらないご様子だったので、度数の低いものがよろしいかと。」「分かりました。じゃあ、カシスソーダをお願いします」「かしこまりました」 店長は静かに席をはずした。居心地の悪そうな須磨は大きくため息をついた。ほどなくカクテルを持って現れた店長はそっと須磨に耳打ちした。「先ほどは、失礼いたしました」「いえ、店長さんのおっしゃるとおりですね。僕は、少し焦っていたのかもしれません。こういうの、慣れていなくて」 自嘲するように笑う須磨に店長は穏かに微笑みかけた。 店長が厨房に帰っていくと、須磨はそっとカクテルをひとなめして小さく深呼吸し、改まった様子で美海に対峙する。 カクテルのきれいな赤に見とれていた美海は、口にもつけられずに慌ててグラスをテーブルに戻した。「吉野君。僕はどうやら君のことをずっと見ていたらしい。自分でも不思議だよ。尼崎さんや他の部署の女の子たちが楽しげに話していても、そこにはあまり加わらないで真面目に仕事をこなしている君のこと、初めは、変ってるって思っていたのに。だけど、君が綾部チーフと一緒に帰っていくのを見かけたとたん、たまらなく気になって…。」 須磨は再びカクテルを手にし、今度はビールを飲むように一気に飲み干してしまった。「嫌なやつだと思うかもしれないけど、後をつけたんだ。どうして君のことをこんなに気にするのか、自分でも分からなかった。だけど、君が大丈夫だと言えば言うほどよけい心配になってしまう。 今朝、室長に呼ばれて言われたんだ。いつまでも拗ねたような態度を取っていないで、男としてするべきことが何か。それを考えろとね。それで決心が付いたんだ。素直に認めるよ。僕は吉野さんが好きだ。今まで付き合った女の子たちとはまったく違う気持ちでいる。もっと真面目な付き合い方がしたいんだ。」 須磨は一気に言うとカウンターでグラスを磨いていた店長にグラスをあげて見せた。店長は軽く会釈をして、お代わりを作り始めた。 美海は呆然としたまま動く事すらできないでいた。そもそも須磨という男は美海など相手にしない人間なんだと思っていた。近隣の支店の美女を次々とデートに誘い、花の上を舞う蝶のように浮名を流している須磨だ。自分のように着飾る事もしない華のない人間には目もくれないのだと安心していたのだ。。「吉野くん、君は綾部チーフと付き合っているの?それとも、他に彼氏がいるのかい?」 追い討ちを掛けるように須磨が尋ねてくる。恋人などいるはずもない。仕事が終わるとまっすぐにアパートに帰るだけの自分だ。しかしここで恋人がいないというと、それはそのまま須磨と付き合うことが可能だということを意味するのではないのか。美海は戸惑った。「私…、付き合っている人なんていません。だけど…」「だけど、何? 僕とは付き合えないっていうの?」 須磨が意識していなくても、美海にはその感覚の違いに大きな壁を感じていた。それに、あと一歩前に進む気持ちになれない何かがあることも。胸が苦しい。いつの間にか冷たい汗が額をぬらしている。 必死に耐える美海に救いの手を差し伸べたのは再び現れた店長の時任だった。「ジントニックをお持ちしました」「ああ、ありがとう」 そのまま立ち去ろうとしない時任を見上げた須磨ははっとしたような表情になった。時任が心配そうに美海を覗き込んでいたからだ。「どうかなさったのですか? お連れ様、ご気分が優れないようですね」「え?あ!吉野くん、大丈夫?」 美海は額の汗を拭いながら無理に笑って見せた。「ごめんなさい。ちょっと動悸がしてしまって…」「今日は早めにお休みになった方がいいですよ。お客様、タクシーでも呼びましょうか?」 店長は須磨に向き直ってすばやく提案した。須磨が頷くのと同時に店長はバーテンダーの一人に目配せした。 その後はあっという間だった。店長はすばやく水を持ってきて美海に飲ませ、そのままウエィティングルームまで連れて行き、須磨に一緒に近くまで付き添うように声を掛けた。すぐにタクシーがやってきて、二人を乗せて最寄駅まで送り届ける。「須磨さん、今日はごめんなさい。私、昔に一度だけ同じように告白されて、怖くなって逃げ出したことがあるんです。それ以来、どうもこういう状況になるとダメみたいで。」「ふう。困った性質だね。今日は心配だから最寄り駅まで送るよ」 美海は大きく深呼吸した。夜風が心地よく、胸の中にできた苦しい塊をゆるゆると解いていくのがわかる。「ありがとうございます。でももう大丈夫。涼しい空気を吸い込んだら、だいぶ楽になりました。」「ほんとに大丈夫? じゃあ、ここで見送るよ。今日の答えはまた後日だね。」 諦めたように力なく微笑んだ須磨を残して、美海は駅の階段を駆け上がった。 いつもの駅に降り立っても、美海の気持ちは落ち着く事はなかった。今まで自分が持っていた須磨の印象と、今日の須磨はあまりにも違っていた。 あの店でまっすぐに自分を見つめる視線には、なんの翳りも感じられない。「あの人は、どうしてあんなにまっすぐに私を見られたんだろう。」 駅を出て、シャッターの下りた寂しい駅前商店街をとぼとぼと歩く。少しずつ春めいてきているせいか、夜風に当たっても寒くはなかった。 後ろからのんびりとした足音が近づいて、美海のすぐ後ろまでやってきた。「すみません。コンビニを探しているんですが、このあたりにご存知ないですか?」 振り向くと学生のような風貌の男が立っていた。鼻の横あたりに傷の痕がある。帽子を目深にかぶっているのはそれを隠すためか。かすかな同情をいだきながら美海はコンビニの場所を教えた。「ああ、コンビニならそこの公園のちょうど反対側にありますよ」「えっと…、どの辺り?」 男は何気に美海の腕をつかんで、魚屋のすぐ脇の路地へと引っ張っていく。「えっと、よくわからなくて…。この先ですか?」「え、ええ。このまままっすぐ行けば分かりますよ」 美海は戸惑いながらもそう答えると、商店街の方へと戻ろうときびすを返した。すると、男の腕が再び美海の腕を引き寄せる。さっきとは段違いの力だ。もう、道を尋ねるためのものではない。明らかに獲物を確保しようとする力だ。「痛い!!」「黙れ!」 あっという間に口を塞がれてしまう。公園の奥にあるつつじの植え込みに押し倒され、起き上がろうとするそばから平手が美海の頬を打った。痛さと恐ろしさで声が出ない。 そんなときに商店街の方からバタバタと足音がして、急にのしかかられていた足が軽くなった。「何やってんだ!」「やべっ!」 男は脱兎のごとく逃げて行った。「大丈夫?」 声を掛けられても、しばらくは体を動かす事すらできない。体中が震えている。歯を食いしばる事すらできなかった。「ごめんね。」 ふいに目の前で声がして顔を上げると、須磨が困ったような顔をしてしゃがみこんでいた。「これじゃあ、さっきの痴漢と変らないね。いくら心配だからって、見送る振りしてついてくるなんて。。。だけど、今回だけはしつこくついてきてよかったよ。大丈夫かい?怖かっただろう?」 さっきまで懸命に耐えていた何かがぷつんっと音を立てて途切れてしまった気分だった。涙が一度に溢れ出し、美海はわっと須磨の腕の中に飛び込んだ。そして子どものようにただ号泣した。
April 19, 2010
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歓迎会から一月が経とうとしていた。綾部が美海の知っているあの少年かどうかもはっきりしないまま、仕事はじわじわと忙しくなってきていた。 そして、尼崎と本山の関係も少しずつ微妙なものになってきた。もともと仕事ではメインとして働いている二人には、お茶を淹れる時間などない。それなのに昼食後のお茶や、3時ごろに配られるコーヒーをめぐって火花を散らすことが増えてきた。 早くに結婚した塩見は落ち着いたものだが、そんな二人の鞘当に美海まで引き込まれる事もしばしばだ。混乱している最中、大きな問題が起こってしまった。美海が顧客からの依頼を聞き間違え、納品の期日を守れなくなってしまったのだ。美海にとってははじめての失態である。電話で謝っていても埒が明かないと判断した綾部は、すぐさま美海を連れて顧客の事務所まで謝罪に出向く。 まさか事務所までやってくるとは思わなかった顧客は、面食らったような表情だったが、綾部は勢いを緩めなかった。きっちりとした謝罪や相手方を思いやった物言いは相手に通じたらしく、最後にはもういいよという言葉をもらうことができた。 これが早々にチーフになれた実力なんだ。ただアイドルみたいに持ち上げられてチーフになってるわけじゃないんだ。。。 帰りの電車に揺られながら、美海はそっと綾部の横顔をのぞき見て納得していた。 この若い上司に対して自分はなんという情けなさだろう。綾部が過去に出会った少年であるかどうかを心配するより、きちんと確認して誠実に謝るべきではなかったのか。それなのに自分と言う人間は、1度ならずも2度までも。。。 鼻の中がツーンとなった。「大丈夫ですか? 相手方も許してくださったんだし、そんなに落ち込まなくてもいいですよ」 何も知らない綾部が、またしても少年のような笑顔を向ける。言わなくちゃっと思いながらも、逃げ出したい気持ちが頭をもたげる。「そうだ。今日は残業の予定もないし、よかったら晩御飯でも一緒にどうですか?たまにはおいしいもの食べて、元気出しましょうよ」 一人暮らしをしていると、たまにはだれかと会話を楽しみながら食事したくなるんですよと、白い歯を覗かせて笑う。確かに。一人暮らしには慣れたけれど、尼崎のように明るく社交的になれない美海は会社の行事以外で外食することなどなかったし、夕食を一緒にと誘い合うほどの友達もいなかった。 事務所に帰りついたときは6時を回っていた。ほとんどの社員が帰宅し、須磨が一人で書類を作っているだけだった。「あの、尼崎さんたちはもう帰られたんですか?」「ああ、あいつらは王子がいないとおもしろくないんだろ。5時にはさっさと帰ったよ」 須磨は呆れたように言い放つと、自分もさっさと書類を片付け始めた。がらんとした事務所は夕日が差し込んでオレンジ色に染まっている。その中に湯のみ茶碗だけがぽつんぽつんとそれぞれの影を伸ばしていた。 美海は湯のみを集めて給湯室に向かい、綾部は残りの書類を整理しはじめる。営業課から流れ出るにぎやかな気配が、企画室の静寂を一層引き立たせた。 湯のみを片付けて席に戻ってくると綾部が声を掛けた。もう少しで終わるので玄関ホールで待って欲しいという。美海は上着を着込みながら、ふと鏡にうつる自分の顔を見直した。化粧直しもしていない顔、昼休みに髪を梳いたりもしていない。美海はそっとカバンからブラシをだして髪を梳かし、口紅を塗りなおしてみた。ファンデーションの取れかけた顔に口紅のピンクがアンバランスに見える。「私、何をしてるんだろう」 美海はティッシュで唇を押さえると、さっさと玄関ホールに向かった。 玄関ホールは広めにとってあって、今はがらんと静まり返っている。時々遅くまで営業に回っていた者が戻ってきては、早足でエレベータに駆け込んで行った。 このまま帰ってしまうことは選べなかったんだろうか。自分はどうしてここに大人しく留まっているんだろう。昔のことを思い出したといわれるかもしれないし、今回の失態について、とがめられるかもしれないというのに。そんなことをぼんやり考えているうちに、綾部がやってきた。「いやあ、遅くなりました。さて、何が食べたいですか?何でもよかったら、僕のお気に入りのお店に招待しますよ」 仕事が終わった開放感からか、綾部はすっかりリラックスしている様子だ。誘われるままレストランに入る。ご飯時で満席状態だったが、すぐに席に案内された。「ここのハンバーグ、最高なんですよ! 来た事ありますか?」 失態を追及されるのかとも思っていたが、美海の心配は杞憂に終わった。そのまま綾部の会社での失敗談に流れ込み、一人暮らしは厳しいという話に共感し、最近のテレビ番組の話ではいつのまにか大笑いするほどに気持ちがほぐれていく。 綾部という人は不思議な人だ。美海は改めてこの若い上司を尊敬した。 店を出て肩を並べて夜の街を歩いていても、なにも起こらない。上司といえども若い男だからと身構えていた自分、あの日のことを問い詰められるかもしれないと焦っていた自分が滑稽に思える。「遅くなってすみません。最寄り駅からは気をつけて帰ってくださいね。」いつもの駅まで送ると、綾部はあっさりと帰って行った。美海はただ、ありがとうございましたを繰り返し、地下鉄の階段を降りていった。「ちっ!チャンスだったのに…。バカか!アイツは」 道路を挟んだ向こう側で、男が一人タバコをくゆらせながらつぶやいていた。 これからは一生懸命仕事をしよう。もちろん今までも一生懸命がんばってきたつもりだけれど、もっと上を目指そう。地下鉄の車内はほどよく空いていた。シートに座る自分の姿が反対側の窓に映っている。その顔がいつもより明るい表情に見えて元気が出てくるのを感じていた。 いつもより2つ手前の大きな駅で降り、美海は駅ビルにある本屋に向かった。役立ちそうな専門書を買い込み、店を出る。とたんに目の前に立ちふさがる男がいた。「須磨さん!どうしてここに?」 美海の問に答える事もなく、須磨は突然美海の腕をつかんで向かい側の公園に連れて行った。 街灯の少ない公園は、自動販売機だけがやけにまぶしい。そんな販売機の前にあるベンチにどかっと座り、美海にも座るように促した。「あの、須磨さん。どうしたんですか?」 販売機を後ろにして座っている須磨の顔は影になってよく見えなかった。いつもより帰りが遅くなっている。美海は時間が気になっていた。「どうして…」 公園の時計に目をやっていると、須磨が小さな声で尋ねてきた。「え? 何がですか?」「どうして綾部とデートなんかするんだよ」 顔を上げたとたん、光りに当てられて須磨の表情が露わになった。怒っているとも嘆いているともつかないその表情に、どんな風に答えていいのかわからない。 「いや、デートなんかじゃないですよ。私が仕事でドジふんで落ち込んでいたから、だから、チーフが元気つけてやろうって、ご飯をご馳走してくださっただけです」 困った顔の美海に、須磨は大きなため息をついた。「分からないのか? アイツだって若い男なんだぞ。何されるかわかったもんじゃないんだ。それをのこのことくっついて行っちゃって…。吉野君はそんな風に簡単に男についていくタイプの人間じゃないだろ?」「須磨さん。。。 ご心配いただいているのはありがたいんですが、ほんとに大丈夫ですから」 須磨は何かを訴えるように美海を見つめるが、美海にはそれの意味がわからなかった。須磨はふっと視線を落として、いつもの表情に戻って言った。「ごめん。もう遅くなったね。送っていこうか?」「いえ、大丈夫です。なんだかよくわからなくて、ごめんなさいです。元々は私がドジ踏んだのが悪いんです。ホントにすみません。これからは気をつけますね。じゃあ、私はこれで。須磨さんも気をつけて帰ってくださいね。」 美海は訳がわからないまま、帰って行った。振り返りながら走り去る後姿を見送ると、須磨は再びベンチに座り頭を抱え込んだ。「あーー!何をやってんだ、俺はー!!」 夜風に当たりながら、須磨はゆっくりとタバコを燻らせていた。若いOLが二人、須磨の前を通り過ぎた。すらっとした長身、整った顔立ちの須磨は、そこにいるだけで注目されてしまう。ただ、ちらちらと探るような視線が送られても今の須磨に届く事はなかった。 翌日、須磨はなんでもなかったように仕事をしていた。綾部に対してとげとげしい以外は。本山や尼崎がやんわりと間に入るが、須磨の苛立ちは治まる様子を見せない。「須磨さん、僕はなにか気に障るような事をしたんでしょうか?」 たまりかねて問いただす綾部に、須磨は「別に」っとぶっきらぼうに答えるのみだ。しかし、ぴりぴりとした苛立ちが企画室に充満していく。「じゃあ、いい加減に大人気ない態度を取るのはやめてください!みんなが仕事に集中できないでいるのがわからないのですか?」「随分偉そうな口を利くんだな! ちょっと女子社員にちやほやされてるからって、調子に乗ってるんじゃないか!?」「僕は調子になって乗っていません!言いたいことがあるなら、はっきり言ってください!」 綾部も負けてはいなかった。にらみ合う須磨と綾部。黙り込む女子社員たち。そんな中で大矢だけがせわしなく表に色を塗り続けていた。「おめえら、ばかじゃねぇのか? 会社は女を取り合う場所じゃないぞ」 背中を丸めたまま、大矢は鼻で笑いながらつぶやいた。「そうね。それに、お絵かきをする場所でもないですよ!」 尼崎の冷たい言葉が突き刺さった。「須磨くん、三宮室長がお呼びよ。室長室にいらっしゃい。」 こう着した雰囲気を打ち破ったのは西宮だった。一瞬こわばった顔をした須磨だったが、素直に席を立った。「ねえ。須磨君、どうしちゃったんだろうね」「室長に呼ばれるってことは、進退を問われるような問題なんじゃない?」「じゃあ、クビってこと? なにかやらかしたの?」 本山と尼崎は、こういうところでは意気投合する。気まずい雰囲気を払拭しようと美海はお茶を淹れに立ち上がった。「ちょっと吉野さん! あなた何か知らない? 今日の須磨君、ぜったいおかしかったじゃない?」「いえ、私は別に。。。」「ん~、まぁそうよね。須磨くんと吉野さんじゃ接点がないものね。ごめんごめん。お茶、よろしくね」 尼崎がケラケラと楽しげに笑った。美海は困ったように笑うと、そっと給湯室に向かった。それをじっと見ていた綾部が、バタバタと仕事の指示を出し、チームAの雰囲気を引き締めにかかった。 女子社員たちが一斉に化粧直しに席を立ったころ、美海はいつものように湯飲みの片づけを始めていた。5時前になっても外の景色が昼間のように明るい。青い空を眺めると、つい大きなため息が出てしまう。どんなに空が青くとも、自分には関係のない世界のような気がする美海だった。 湯飲みを洗い終え美海が片付けに戻ってくると、入れ違いに女子社員たちがあわただしく退社する。今日は駅前に新たにオープンしたショッピングモールに行くのだという。浮き足だつ彼女達を見送りながら、自分の不器用さが嫌になる。 湯飲みを片付け終わって席に戻ると、目の前に須磨が立っていた。「吉野さん。今日、何か予定は入ってる?」
April 18, 2010
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席に戻ると、さっそく本山が声を掛けてきた。「ねえ、さっき私が応接室出た後にチーフが来たでしょ? 何の話?」 なにげなさを装っているが、その語尾の強さで妬いているのがわかる。「えっと、仕事の詳細を報告してほしいって。それだけです。」「え?それだけ? あ、そうだったわ。私、まだチーフに質問があったのよ。じゃ。」 本山はすっかり機嫌を直すと、手元にあった書類を一枚持ってそそくさとチーフの席に向かった。その下心を知ってか知らずか綾部は真面目に説明をしているようだ。別段自分の方に何かを言いたげな様子もないことに、美海は内心ほっとしていた。 定時になると女子社員たちは一斉に姿を消した。書類作成に集中していた美海は、須磨から声を掛けられるまで自分が一人残されている事に気付きもしていなかった。「吉野君、悪いけどコーヒー淹れてくれないか」「はい。わかりました。。。」 呼ばれて顔を上げ、やっと事務所内の状況に驚いていた。 美海からコーヒーを受け取ると、須磨はすかさず褒めちぎる。「ん~、吉野君は素直でいいねぇ。他の女性陣はどうしたんだ?まさか若い男に色めき立って今頃トイレで化けてるんじゃないだろうねぇ。」 言葉の端々に棘がある。美海はこのきざな男がどうしても好きになれない。本心がどこにあるかもわからない。さりげなく違う話題に持って行きたかった。「お仕事お忙しいでしょうが、今日は5時半で企画室は締め切りになるそうですよ。」 壁の時計をチラッとみた須磨は仰々しくため息をついた。須磨や窓際でグラフにいろ塗りをしている中年の大矢にとってはおもしろくないのだろう。企画室では、室長の芦屋以外の男性は彼らだけだったのだ。チームの違う大矢はともかく、同じチームの須磨にとってはやりにくいヤツがやってきたというわけだ。 早々にコーヒーを飲み干すと、美海に声を掛けた。「ごめんよ。このカップ、洗っといてもらえるかな」「はい、わかりました。」 美海が顔を上げると、ほんの少し優しげな表情になった須磨が笑いかけていた。美海はなぜかそこに気弱さや寂しさが漂っているような気がして、それが少しひっかかった。 しかし、そんなことはあっという間に覆されてしまう。尼崎が化粧直しを終えて席に戻ってくると、須磨はとたんに尼崎の美貌をたたえた言葉をばら撒き始めた。 結局はこんなものよねと美海は思う。どんなに真面目にしていても、男たちはぱっと美しいものに群がるものだ。書類作成が一段落したので、チーム内の湯のみをかき集め、準備万端整えて会場に出発するのを待つだけになったきらびやかな同僚達をすりぬけ、流しに片付けにむかった。「ああ、吉野さん。そのまま置いて行ってもいいんじゃない?」「放っておいてあげれば? 彼女のやり方があるんだろうし。あら、須磨さんのそのネクタイこの前の東京コレクションで出てた新作じゃない? さすがねぇ」「ああ、これ? ちょっとね、アパレル関係の友達にもらったんだぁ」「ええ、ほんとに友達? 何番目かの彼女なんじゃないのぉ?」 本山は若いチーフの歓迎会ということもあってか、すっかり気分が盛り上がっているようだ。適当に相槌をうちながらちらっと流しの方に目をやる須磨を、尼崎はしずかに観察していた。 広いフロアの給湯室は、企画室と営業課の共用になっている。営業課には派遣会社から来ている女性が5時まで働いているが、それを過ぎるとそこに姿を現わす者などいなかった。企画室からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。それを自分とは違う世界のことのように感じながら、美海は洗い物を続けた。「吉野さ~ん、そろそろ出発するわよぉ」 尼崎が声を掛けてきた。美海は急いでロッカールームに駆け込み、自分の上着とカバンを手に取るとすぐさま皆と合流した。 少し広めの会場に、営業課と企画室の社員が揃った。今期移動になってこの支社に加わったのは、綾部のほかに2人。営業には新人男性が、企画室チームBには他の支社から企画志望がかなってやってきた少し大人びた女性がそれぞれ移動してきた。 営業課長や企画室の室長の話が終わると、会場は一気に華やいだ雰囲気になった。本山と尼崎は、さっそく綾部の元に駆けつけてあれこれ質問攻めにあわせて新しいチーフを困らせている。美海はというと、そんな同僚達を少しはなれたところから眺めているだけだ。 こういう場所は苦手だ。早く終わって欲しい。目の前にあった料理を食べつくすと、所在無く会場のベランダに出てみた。会場内の活気で火照った頬を、夜風が撫でて心地いい。『だけど』 美海はまた視線を落とす。綾部があの時の少年に間違いない。無事に生きていたのだという安堵と自分に降りかかる罪の意識がない交ぜになって美海を沈ませた。「どうしたの?こんなところにいちゃ楽しめないよ」 驚く美海の肩にそっと腕を回して、須磨が笑っていた。「え?あ、あの。。」「こらこら、須磨君。私が大切に育ててる子に、ヘンなちょっかい出さないでちょうだい。吉野さんはうぶなんだから、怖がってるでしょ?」 困り果てる美海を助けたのはチーフ代理の西宮だ。30代後半の西宮は子どもがいないせいか、いつも年齢を感じさせない若々しさを保っている大人の女性だ。美海はひそかに彼女にあこがれている。「はーい。西宮先輩はイケメン坊やのところには行かないんですか?」「須磨君。すねちゃってるなんて君らしくないわね。ほら、二人とも中に入って。本山さんたちがゲームするから集合して欲しいんだって。」 西宮に促される形で、須磨に続いて美海は素直に会場に戻った。「吉野さん!こっち、こっち。」 会場に戻ると、すぐさま同じチームAの塩見が声をかけてきた。本山たちはいろいろと趣向を凝らして会場を沸かせてゆく。綾部は今日の主役とばかりに、なにかと引っ張り出されては質問攻めにあい、おろおろしていた。『なんだ、そんな軽い感じの人じゃなかったんだ。じゃあ、どうして私はあの時、逃げ出したりしたんだろう』 人のいい綾部の性格に、いつの間にか須磨まで加わって和気藹々とした雰囲気が出来上がっている。その穏かさが美海の心に一層影を落とした。 歓迎会が終り、美海はいつもの駅に降り立った。今日はおそくなってしまったので、商店街も街灯がついているだけで静かだ。足早にアパートまで帰ると、さっさと戸締りを済ませた。 夜風で湿ってしまった洗濯物を取り込み、お風呂にお湯を張る。ゆったりと湯船につかって緊張した心と体を解きほぐして行く。『あの。僕、明日には家に帰っちゃうんだ。だから、思い切って言うよ。僕と付き合ってください!』 突然記憶が甦り、湯船の縁に頭を乗せていた美海はとっさに顔を上げた。そのセリフは7年前の夏休み、美海が近所のコンビニでアルバイトしているときに言われたものだ。 その頃まだ高校1年生だった美海は、なれないアルバイトに四苦八苦しながらもどうしても手に入れたいブランド物の時計のためにお金を溜めようとがんばっていた。 実家はリゾート地のすぐそばにあり、コンビニのすぐ近くには短期間で免許取得ができると評判の自動車教習所があった。そのせいかコンビニには若い客が多く、皆1週間ばかりで来なくなってしまう。 そんなコンビニに、教習所の授業がある時間帯にちょくちょく顔を出していた客がいた。 店長が気軽に声を掛ける。「いらっしゃい。君は良く来てくれるけど、免許を取りに来たわけじゃないの?」「はい。兄貴が免許を取るっていうから一緒に行ってそこで勉強して来いって、親に言われたんです。」「あはは。そりゃあ厳しいねぇ。」 少年は高校3年生。受験生だった。親の言うとおりにこんなところまで来て勉強してるなんて、真面目な人だなぁっと美海は思った。 何度目かの来店の際、店長がバイト明けで帰る支度をしている美海に声を掛けてきた。靴屋さんを探しているらしいから、帰り道に道案内をしてやってくれという。少年は申し訳なさそうに美海に頭を下げた。 靴屋まで付き合って以降、少年は少しずつ美海と親しくなっていった。年頃も近く話しやすかったのだろうとそんなに気にも留めなかった美海に、突然投げられた言葉が、それだった。 うそでしょ? 今までどんなに親しく声を掛けてきても、1週間で帰っちゃうものだと思ってたし、深く考えたこともなかったのに。 頭の中が真っ白になった。どうしていいのか分からず居たたまれなくなって、海岸に向かって飛び出す。するとそこに突然、バイクのエンジン音がすぐそばに迫ってきた。「あっ!!」 突き飛ばされた衝撃、すぐ後ろで聞こえたバイクの倒れる派手な音。道路に浮いた砂利が口の中にまで入り込んでいた。 痛みは感じなかった。怖さで体がうまく動かない。そっと起き上がってみると、美海は道路の端に倒れていたようだ。振り返るとバイクに乗っていた男が慌てて車体を起こしている。その男がちらちら見ている先には、さっきの少年が身動きもせず倒れている。 美海はやっと、自分が助けられたことに気がついた。「大丈夫? しっかりして!」 美海が声を掛けると少年はうっすらと目を開けたが、そのまま眠るように目を閉じてしまう。混乱しながらも美海は救急車を呼んだ。しかしそうしている間に、バイクの男は何処かに逃げてしまったようだ。 その後も何度か声を掛けてはみたが、少年はまったく動かない。死んだ?!美海は急に怖くなって、サイレンの音が聞こえ始めた現場から逃げ出してしまった。どうして逃げ出したりしてしまったのだろう。自分の部屋に戻っても、どうにも気持ちが落ち着かない。この街で交通事故が起こったら、きっと運ばれていく病院は決まっている。だけどそこが急患で忙しかったら? 他をあたっても引き受けてもらえなかったら?美海は頭をかかえてしまった。すぐそばで再び救急車の音が響く。「もうやだ!」 美海は慌てて布団の中に潜り込んでしまった。 後になって、家のそばでの救急車の音は、隣の老人が転んで頭を打ったからだと知らされた。「ねえ、お母さん。お隣のじいちゃん、どこの病院?」「医療センターよ。このあたりで怪我したら、あそこぐらいしかないじゃない?」「じゃあ、まだベッドに空きがあったってことよね。」「なに?アンタが入院しようっての? おかしな事言ってないで、さっさとお風呂に入っちゃいなさい」 母の口調だと、病院の受け入れ態勢は充分に整っていたようだった。それを聞いて美海はそっと胸をなでおろした。 それから7年。高校を出て、就職を決めてこの街に一人暮らしをはじめるようになって、少しずつ過去の息苦しい記憶も薄らいできていた矢先だったのに。 綾部には関係ないことだということは分かっていながら、少し恨めしいような、恐ろしいようなそんな思いに囚われていた。「だけど。。。」美海は湯船に頬を乗せて考え込んだ。綾部は過去のことがなかったかのような対応だ。もしかしたら綾部は、似ているだけの他人の空似かもしれない。そんな風に想像をめぐらしながらも、それは違うと何処かで理解っていた。「吉野さん。もしかして、どこかでお会いしたことありませんでしたか?」「ええっ?!」「いや、なんとなくなんですが、どこかでお会いした事があったような。。。」 歓迎会の最中、綾部からそんな風に声を掛けられたのだ。そのときは尼崎が割って入ったのでそのままになっていたが、どうやら向こうも思い出し始めているようだ。これは覚悟を決めなくてはならない。 考え込みながらいつの間にかうとうとしていたらしい。美海は慌てて風呂から上がった。
April 16, 2010
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I just … 「ボクハ タダ…」 …霞んだ視界に、ぼんやりと彼女の姿が見える。それは優しくも切ない眼差しで、僕をしっかりと見据えていた。だけど、そのまま僕の意識は消えてしまった。… 浅い眠りの中で、彼は夢をみていた。もう、何度か経験した夢。それは、ある少女が当たり前に自分の隣に座って微笑みかけている夢。 それが経験の再現なのか、希望する未来なのか、それとも偶発的に現れた夢なのか、彼には分からなかった。しかし少女への想いだけは、少しずつ深まってゆく。それがなんとももどかしく切なかった。*********** ビジネス街のはずれにある雑居ビルの12階、ここが吉野美海の職場である。朝8時には出勤し、企画室のあらかたの掃除を済ませてお湯を沸かしておく。それが終わるとベランダに出て、ひと休みするのがいつもの日課だ。「ううーん、いいお天気!」 誰も見ていないのをいいことに、ぐーんと大きく伸びをしてつぶやく。15階建てのこのビルは、上から10階まではフロアごとにベランダを大きく設けてある。12階のこのベランダも、例外なく春の日差しを浴びていた。 そっと手すりに持たれて遠くを見渡した。ビジネス街の汚れた空気の中でも、見渡せる爽快感は変らない。「さて、がんばらなくっちゃ」 ベランダのプランターに手際よく水を与えると、さっさと仕事に取り掛かった。昨日、遣り残した仕事があったのだ。残業はできるだけしたくない。田舎から都会にやってきて一人暮らしをしている彼女にとって、夜遅く帰ることはできるだけ避けたいことなのだ。だからこうして早朝にやってきて、遣り残した仕事を済ませてしまう。同僚の尼崎や本山は、残業をうまく取り入れて残業手当もしっかり計算に入れているようだったが、性格的に美海にはできなかった。「おはよう!」「あ、おはようございます。今朝は早いですね」 美海が驚くのも当然だった。出勤してきたのは、いつもは遅刻ギリギリにならないとやてこない尼崎だったのだ。 高校を卒業してすぐにこの会社に就職した美海と違い、尼崎は4年生大学を出ているせいか、入社当初からどこか知的で垢抜けた雰囲気だった。持ち物や服装にもこだわりがあり、美海の知らないブランドがお気に入りなのだと話していた。 美海の田舎は海沿いのリゾート地で、みやげ物屋やコンビニはあったが衣類などは車で15分ばかり走ったところにある大型スーパーで買うのが関の山だ。常識のある暮らし、常識のある服装。母親から教えられていた常識はこの街には適用されない。 その尼崎がにやにやしながら美海に近づいてきて耳打ちした。「ねえ吉野さん。来週、本社から新しいチーフが配属されるんだって。よかったねぇ。これで貴方の掃除当番も半分は免除よ」「半分ですか?」「そりゃあそうよ。一応向こうはチーフって肩書きもらってくるんだもん。全部は押し付けられないんじゃないの? それに、どうやら男性らしいわよ。ふふふ。 ああ、仕事の邪魔しちゃってごめんね。私、これからちょっと歓迎会の会場探さなくちゃならないのよ。貴方も行くでしょ、歓迎会? じゃあね」 尼崎は鼻歌交じりで自分の端末のスイッチを入れた。美海はあっけに取られたように、そんな尼崎を見送ると、再び自分の仕事に没頭していった。 社員達はぞくぞくと出勤してくる。彼らのいる企画室は総勢14人、そのうち男性はプレーボーイを気取っている須磨と、会社には時間つぶしに来ているだけと噂されている中年の大矢のみ。尼崎が浮き足立つのも無理はない。女性の多い職場において、若い男性社員はアイドル的存在だった。 その週、尼崎と本山は嬉々として歓迎会の準備を進め、会社帰りには新しい服を物色するのだと張り切っていた。そんな二人を見送って美海はまっすぐに自分の部屋に戻る毎日だった。 この街にも随分慣れては来たが、それでもまだ夜に一人出歩くようなことはない。「帰ったら、久しぶりに母さんに電話してみようかな。芳雄の様子も気になるし」 美海には両親といっしょに田舎で暮らす弟がいた。その弟がこの春大学に進学したのだ。 各駅停車しか止まらない「山田漁港」という小さな駅に降り立つ。駅前の商店街は買い物帰りの主婦や塾に向かう子供達でにぎやかだ。いつものように商店街を通り抜けようとした美海に、魚屋の政義が声をかけた。「お帰り!今日は寄ってかないの?」 政義は魚政の跡取りで30半ばの威勢のいい男だ。海のそばで育った美海にとって、こういうタイプの男達は小気味よく打ち解け安かった。「じゃあ、白身のお魚、もらって帰るわ」「ありがとう! じゃあ、ワカメもつけといてやるよ。」考え事をしていて晩御飯のおかずのことなどすっかり忘れていた美海だったが、思わぬ助け舟に救われた。小さなアパートに帰りついて、魚を冷蔵庫に入れる。服を着替えて実家に電話を入れてみた。「どうしてる?風邪ひいてないかい?」 母親の声には美海をほっとさせる要素が含まれているようだ。気付かないうちにささくれた気持ちがふうっと潤う。「芳雄がね、最近随分おしゃれになって。彼女が出来たとか言うんだよ。今時の子はどうしてこんなに考えが浅いのかねぇ。。」 美海は苦笑しながら当たり障りなく答えていた。そうか、あの芳雄に彼女ができたのか。おしゃれにもなったのか。自分がちょっとファッション雑誌の真似事をしたら随分目くじらたてて怒っていた母が、弟のおしゃれをあっさり受け入れていることに時代の流れを感じた。 ご飯を炊く。洗濯物を取り入れる。美海の日常は母親の常識にどっぷりとはまっている。しかし、美海はそれでいいと思い始めていた。自分は尼崎のようにはなれない。あんな風に世の中をうまく渡り歩くことなど、到底出来そうにないと思った。『それに…』 鏡に映る女は、長い髪を低いところで括り、野暮ったいセーターにプリーツスカートで視線を落とす。 高校生のころは、それでも親に反発して都会の若者達の真似事をしていたものだった。頭のてっぺんでポニーテールに括り、明るくて活発な彼女はそこにいるだけで店内がぱっと明るくなるとバイト先の店長にも可愛がられていた。「もう、子どもじゃないんだもん」 何かを断ち切るように美海は立ち上がった。 月曜になって、新しいチーフの赴任日が来た。いつものように企画室の朝礼を済ませた後、室長が若い男性を連れてきて自己紹介するように薦めた。「おはようございます。綾部祐二と申します。このたび企画室チームAのチーフという役職を頂き…」 新たにチーフに加わる綾部という若者は、美海よる少し年上なだけでまだまだ若々しい雰囲気を持っていた。その若さでこの企画室を2分するチームAのチーフになるのだからそれなりの業績を上げてきたのであろうが、そんなそぶりは感じられなかった。決して派手ではないが、きちんとしたスーツ姿、襟足をきれいに整えている髪形は上司の受けもよかった。 企画室の女性達は、みなどこか華やいだ表情でそんな若きチーフを見つめる。数少ない男達は少し面白くなさそうだ。 そんな中、美海だけはこわばった表情を隠す事もできず、そっと下を向いてしまった。『あの人だ。 どうしてここに?』 美海は混乱し、いつの間にか倒れてしまった。気がついたときは、美海は応接室のソファに寝かされていた。「あら、気がついた? 吉野さん、大丈夫? 急に倒れるんだもん。びっくりしたわ」 本山が指に巻き髪を絡ませながら、美海の顔を覗き込む。「たぶん、貧血だと思うわ。顔色、すごく悪かったし」「すみません。ご迷惑おかけしました。」「ああ、気にしないで。それより、お礼は綾部チーフに言ってね。あなたのこと、ここまで抱えてきてくれたのよ。いいわねぇ。企画室の女子を敵に回しちゃったかもよぉ。あはは」「ええ!」 戸惑う美海をからかって、「うそよ。」っと笑いながら本山は応接室を出て行った。美海は身なりを整えて、早々に仕事に戻ろうとしていた。その時、ドアがノックされて綾部がやってきた。「大丈夫ですか、吉野さん?」 美海は全身から冷や汗が出るのが分かるほどに驚いた。「あの、先ほどはすみませんでした。」「ああ、いえ。気にしないで下さい。それより、吉野さんがここにいる間に簡単な現状説明をしていただいたんですが、吉野さんの担当のところも、詳細教えていただきたいので、お手すきの時に声を掛けてください。じゃあ。」 綾部はあっさりと部屋を出ようとした。「あの…」 自分の声に一番驚いたのは美海自身だった。どうして声を掛けてしまったのか、自分でもさっぱり分からなかった。「ん?どうかしましたか?」「あ、いえ。何でもありません。」「そうですか。じゃあ。今夜の歓迎会、楽しみにしています。」 にっこりと笑顔の綾部はまるで少年のようだった。その顔はあの日のまま。美海は訳が分からないまま、不安に押しつぶさそうになっていた。
April 14, 2010
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