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チャーリーに見つかったあと、俺はしばらく気を失っていた。気がついたときには小さなゲージに入れられていたんだ。地下室のどこかの部屋だった。悪夢のような出来事だった。「実験はモルモットでやるつもりだったが、ちょうどいい。このネコで試してみよう」 薄目を開けて確かめると、白衣を着た男が小さなチップのようなものを用意していた。「一応麻酔を打った方がいいでしょうねぇ」 そばにいた男が白衣の男に確かめていた。どうやら麻酔を打って何かの手術が始めるらしい。実験はモルモットではなくネコで…! このままでは危ない。俺はとっさにゲージの端に飛びついてゲージごと机から転がり落ちた。うまい具合にゲージが壊れたので、隙間から抜け出す事に成功。ドアノブに飛びついてドアを開けると、闇雲に逃げ出したのだ。男たちが大声で仲間を呼び追いかけてきた。そして、地下の一番奥の行き止まりにまで行き着いてしまったのだ。男たちは俺を捕まえ、再び実験に取り掛かろうとしたが、俺は自分の毛を引きちぎられても逃げおおせる覚悟だった。つかまれるたび毛をむしられながら逃げ回った。そうこうしている間に、地上が騒々しくなってきた。上でなにかあったのだ。男たちは慌てて何処かに走り去って行ったが、さっきの白衣の男だけは、俺を許さなかった。「ちくしょう! もうちょっとでリモコン猫が試せたのに…。もうお前なんぞに用はない!」そう言うと同時に、何か長いものを振り下ろした。ガシッといやな音が頭の中で響いた。男はそのまま仲間の去った方角に逃げていった。俺は目がかすみながらも、どこか地上への出口がないかさがしまわった。そして、ちいさな小部屋をみつけたのだ。小部屋の横には小さなボタンがついていた。ボタンを押すと、ドアが開いて、床が上がっていくのが分かった。ところが、地上の1階の床が開かないまま迫ったきた。俺は慌ててなにかボタンがないか見回したが、どうしても見つけられなかった。体を横にして小さくなって、運命を天に任せたのだ。だが、どうやらまだ俺は生きている事を許されたらしい。上昇する床の縁にある30cmあまりの囲いが俺を救ってくれた。床の上昇は囲いの高さで止まり、俺はぺちゃんこになることを免れたのだ。 俺はできるだけ小さくなって助けが来るのを待っていた。外での物音はさっきよりよく聞こえていた。救急車の音、パトカーのサイレン。そして、サムの叫び声も! しかし俺にはどうすることもできなかったのだ。狭い空間では肺を広げる事すら出来なかった。浅い息をしながら、じっと耐え忍んでいたのだ。 俺は再びベッドに横になり、しばらく眠っていたようだ。気がつくとマージーが戻ってきていた。「目が覚めた?サムは仕事を残してきているから帰ったわ。随分心配してた。さてと、買い物はしてきたわ。着替えと洗面具とタオル。それから、タディが去年サムに預けた荷物も持ってきておいたわ。」「ありがとう。助かるよ」「お帰りなさい。高井忠信さん」 マージーは改まったように手を差し伸べてきた。「ただいま…」 その手にしっかりと握手で答える事ができた。サムたちは、グレンのためにきちんとした葬儀を執り行ってくれた。俺も退院と同時に駆けつけ、そこに参列する事ができた。そのままサムと一緒に家に戻ると、クレアが笑顔で迎えてくれた。「高井さま、ようこそいらっしゃいました」 言葉は改まっているが、決してかしこまらない雰囲気だ。それから1週間は人間としての仕事に忙殺された。 仕事が一段落ついて、日本に帰る日が近づいてきた。最後の休日は、はやりあの公園に出かけることにした。 木々のざわめきも噴水のすがすがしさもすべてが懐かしい気分だった。 にゃぁ~っと足元にきれいなシャムネコがやってきた。ケイトだ。俺は、携帯用のノートパソコンを開いて、ケイトに打たせてみた。初めのうちは冷たい視線を投げかけていたが、諦めたようにキーボードを打ち始めた。「人間に戻れたのね。おめでとう。。」「やあ、ちょっとした犯罪に巻き込まれてね、頭を殴られたんだ。ただそれだけなんだが。お前さんへの助言にはなりそうにないな。でも、気を落とさずに。きっと戻れるさ」ケイトは大きなため息をついた。「あきれた。自分が人間に戻ったとたん、大きな口を叩くのね。さっさとお帰りなさい」「もし、君が人間にもどったら、是非そこの通りを左に二度まがったところにあるサムってやつの事務所に顔をだしてくれ。俺に連絡をとってくれるだろう。」「うぬぼれないで!あなたに会いに、この私が行くとでも思ってるの? ばかばかしいわ」ケイトはさっさと自宅へ帰って行った。入れ違いにチェックがやってきたが、ただにゃぁ~んと猫の鳴き声でえさをせがむばかりで、すっかり隔たりができてしまっていた。サムの家にかえると、クレアが相変わらず暖かな笑顔で迎えてくれた。「おかえりなさい。。 いよいよ明日ですね。 さみしくなるわ。」「本当に、お世話になりました」 俺はグレンの気持ちのまま、深々と頭を下げた。「ほほほ。今回はほんとに大変な赴任でしたね。でも、ホットミルクやカフェオレを入れるのも、悪くなかったですわ。もうその必要もないのかと思うと、ちょっと寂しいぐらいでしたの。さて、おいしいコーヒーをお淹れするわ」俺は言葉がでないほど驚いた。クレアは気づいていたのだ。「本物の猫好きには、敵いませんね」俺が言うと、クレアは楽しそうに大笑いした。―おわり―
July 9, 2010
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フローリングにはわずかだが切れ目が入っているのが分かる。これはそこだけはずして、床下収納やワイン倉庫のような空間へと繋がれる仕組みなのかもしれない。ケイトがそこまで調べたとき、2人の足音が聞こえてきた。「お嬢さん、こちらです」「パパの書斎?…」 一人は部屋に入ることを躊躇しているようだった。「床下に何か倉庫でもあるのでしょうか。それとも、先日のブラウンさんのお部屋のように地下室でもあるのでしょうか。。」「分からないわ。でも、入ってみるしかなさそうね」 つかつかとまっすぐに入ってきた足音を、ケイトは再び机の下で確認した。床下からの物音はさっきより弱くなっていたが、それでもとんとんとなり続けている。―このまま見つかってくれればいいんだけど- ケイトは心の中でそう願っていた。しかし、さっきの呼びかけに返事がなかったことや、物音の大きさから考えて、グレンでない可能性も否定できなかった。―人間かもしれない―「あら?この切れ目は何かしら。」 リサがフローリングの切れ目に気づいたようだった。「サムさんを呼びましょう。私たちだけじゃ、手の施しようがないわ」 リサはすぐさまケータイでサムを呼び出した。ケイトはそのまま息を殺して様子を伺っていた。 しばらくすると、サムがどかどかとやってきた。「リサ、どうした?」「床下から物音がするのよ。でも、どうしたらいいのか分からなくて…」「床下から?!」 サムが興奮したのは、机の下にいるケイトにも分かった。サムはしゃがみこんでコンコンと小さな音を立てている床に耳を当てた。そして、そのまま回りの切れ込みを確かめて、ブラウン氏の部屋の要領でボタンを探し始めた。「ここだっ!」 サムは飾り棚の裏手にある小さなボタンを見つけると、そっとボタンを押してみた。しかし何一つ変化がなかった。「おかしいなぁ。。。ここの電源はどうなっているんだ?」「このエリアは事件のあと、警察の方が電源を落としていかれたようです。別に他にここを使う人もいないので、そのままになっていたんです。あの、今電源を入れてきます」 アンはバタバタと廊下を駆けていった。そして、遠くから入れましたっと叫ぶ声が聞こえてきた。 サムは再びボタンを押してみた。すると、目の前にあった床がすーっとスライドし、床から一段下がったところに、小さく丸まった裸の男がいた。「きゃあっ!」 リサは慌てて目を背けた。そこに戻ってきたアンが、心配してリサに駆け寄った。サムは驚きのあまり声も出なかった。 男は相当に苦しかったらしく、床が開いたというのに立ち上がることもままならなかった。「なにか…なにか着る物を…」 その声を聞いてサムは余計に驚いた。「タディ!! タディじゃないか!!」 サムは自分のジャケットを脱ぐのももどかしくすぐさま男に掛けてやった。そして、抱えるように男を救い出すと、すぐさま救急車を要請した。 ずきずきとうずくように頭が痛む。俺はいったいどうなってしまったんだ。朦朧とする意識の中にいても、そばに人の気配がしているのがわかった。「ここは…?」「タディ!気がついたのか!」 ぼんやりと目を開けると、やたらまぶしい。ゆっくりと焦点があってくると、サムとマージーがそばに座っているのがわかった。どうやらまっしろな部屋のベッドで寝かされているようだ。まぶしかったのは、この部屋の白さのせいか。それにしても、こんな風に背中を伸ばして眠るのは久しぶりのような気がした。サムに声を掛けようとパソコンを探しながら、ふと、サムがタディと俺を呼んだことに気がついた。 そうか、俺は人間に戻ったんだ。視線を下げると人間の鼻が見える。手も足も人間のものだ、あの肉球の感触はどの指にも感じることはなかった。「サム。俺はどうなってしまったんだ?」「タディ…無事でよかったよ。どうしてあんなところに閉じ込められていたんだ?」「あんなところ? すまん。今は何も思い出せないんだ」 さっきからの頭痛も手伝って、深いため息がでた。俺は人間に戻れたのだ。うれしいはずなのに、なぜか寂しく切なさすら感じられた。「タディ。すまん…。 僕は、どうしても謝らなくちゃならないことがあるんだ。…グレンのことだ」「グレ・ン…?」 どうしたものか。俺はサムになんと言ってやればいいのだろう。どんなに考えても言葉がみつからなかった。しかしサムは、まったく別のことを考えていたようだった。「タディ、思い出したのか? やっぱりグレンは、グレンはもう…」 サムはグレンの綿毛が落ちていたことやそれ以来グレンの姿が発見されていない事を説明してくれた。サムは誠実だった。俺の、グレンの行方が分からなくなったこと、もしかしたら、もうこの世にはいないかもしれないことの責任は自分にあると、頭を下げてくれた。 マージーが困った表情で俺に視線を送ってきたが、俺自身が戸惑っているのを見て取ると、少し考えて、この問題に結論を下した。「ねえ、皆でグレンのお葬式をしてあげましょう。きちんと正式なやり方で。それがなによりの供養になるはずよ。そうでしょ、サム?」「そうだな。そうしてあげよう。」 突然ノックが聞こえて、エリックがやってきた。「やぁ、気がつかれたようですね…。ん?」 歩み寄りながら、エリックはじっと俺の顔を見つめた。「どうかしましたか?」「いや、すみません。どこかで見かけたような気がして…人違いでしょうね。では、少し検査をします。今日明日の2日検査して、異常がなければ退院できますよ」 エリックは、そういいながら脈を取り始めた。マージーは必要なものを買いに行ってくると言って、サムを連れて病室を出て行った。一通りの検査を済ませると、あとはのんびりと過ごす事が出来た。ふいにしっぽを振ってみたくなって、しっぽがないことに寂しさを覚えたり、顔を洗おうとして、長い指に違和感を覚えたりした。ふと思い立って洗面台に向かった。鏡には無精ひげの伸びた冴えない男が立っている。やっと戻れたんだ。長い日々だった。しかし、決して辛いばかりの時間ではなかった。あの出来事はいったいなんだったんだろう。
July 8, 2010
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しばらくそこにうずくまるようにしていたサムは、ふいに重い体を起こして地上のブラウン氏の部屋に戻った。 裏庭では、メアリーがやってきたところだった。メアリーはサムを見つけると駆け寄ってきた。「サムさん。アイスマン氏のこと、残念でした。でも、リサお嬢さんがもう一度雇ってくれるというので、がんばってみようと思います」 サムは、そんな興奮したメアリーの気持ちにこたえることなどできなかった。まともに返事もせず、裏庭へと進んだ。そして、グレンのノートパソコンを手にとると、枯れ草を払ってやった。「サムさん? どうなさったのですか」「グレンが、グレンがいなくなったんですよ。地下に綿毛になったグレンの毛が…」「しっかりしてよ、サムさん!あの子が、あんなしっかりした子が、そんなに簡単にやられたりしないわ」 大きな肩を落としているサムに、メアリーとリサが声をかけた。「ありがとう。とりあえず、自宅に帰ってみるよ。ここにいても、今の僕では何の役にもたちそうもない」 サムはうつろな瞳でそういうと、とぼとぼと車に戻っていった。 一夜明けて、警察からはショーンやロゼッタもブラウン氏の傘下にいたことを突き止め逮捕したとの連絡があった。ブラウン氏は企業乗っ取りをしながら、巨大な裏組織の資金調達係として一目置かれる存在になっていたようだ。 パトリックは興奮冷めやらぬ様子で、電話をかけてきた。このまま捜査が進めば、経済界や政界にまで影響の及ぶ出来事になりそうな予感だったのだ。 しかし、サムにはどうでもいいことだった。どんなに大きな事件を解決する事ができたとしても、グレンは帰ってこない。 クレアもまた、肩を落としていた。そっと斜め向かいの窓辺にすわるネコを眺めては、寂しげな眼差しで微笑みかけていたのだ。 ケイトは、そんなクレアの眼差しがたまらなかった。初めこそ、気高く知らぬ振りを続けていたが、この不思議な境遇になった同じ立場の人間が、忽然と消えうせるのは気持ちのいいものではなかったのだ。 翌日、ケイトは公園に出かけた。老ネコチェックから、グレンの情報を仕入れるつもりなのだ。お昼前まで粘ると、のろのろとチェックがやってくるのが見えた。「ねぇ、あなたグレンの知り合いでしょ?」「ああ、あんたかい。グレンなら、最近みないけど、どうかしたのか」「どうやらグレンは行方不明になったらしいのよ。で、貴方なら、心当たりがあるんじゃないかと。。」 チェックはふぅっと興味なさそうにため息をついて見せたが、ケイトのまっすぐな瞳に睨まれたら知らん振りをきめるこむこともできない。「あいつは風来坊だからなぁ。長い事公園に出てこないこともあるさ。でも、もし何処かに行くとしたら…。そうだなぁ。アンのところにネコスナックでももらいに行ったんじゃないか?わしも行きたいが、こんな老体じゃあ、あそこまで行くのは辛い。」「どこなの?」「ええっと、たしかコーヒー店のキューンとかって言うアメリカンショートヘアの家の近くらしい。アイスマンとか言う屋敷で働いているって言ってたなぁ」「ありがと」 ケイトは、すぐさまアイスマン家に向かった。アメリカンショートヘアのキューンなら、コンテストで同席したことがあったので、知っていたのだ。ネコにとっては近い距離ではなかったが、ケイトにも、今のグレンが決して普通の状態ではないと分かっていたのだ。店の近くまで行けば、どこかに地図もあるはず…。ケイトは先を急いだ。 コーヒー専門店の近くまで来ると、ケイトは見たことのある女性を見つけた。アンだった。そのままさりげなくアンの後をつけ、ケイトはまんまとアイスマン家を見つけ出した。 隙だらけのアンは、ちょうどいい道案内になった。ケイトはそのまま屋敷に侵入し、家の周りを捜索した。 ブラウン氏やチャーリーが居ないアイスマン家には、何も怖いものなどいなかった。庭の噴水で喉を潤すと、ケイトは石畳の玄関から堂々と屋敷内に入り込んだ。そっと耳を澄ましていると、コンコンと何かを規則的に叩く音が聞こえてきた。 グレンかもしれない。 ケイトは本能的にそう思うと、すぐさま音のする方に走っていった。半開きのドアには黄色いテープが張られて、人間が自由に入れないことを示している。しかし、その部屋ではなさそうだ。ケイトはその隣の部屋のドアに飛びついてドアをあけた。そのまま部屋に入ってみると、乱雑な書類の束が大きな机の上に積み上げられてあった。 机の上には初老の男性と若い女性の写真が飾られていた。「サイテー!趣味が悪いわね」 ケイトはつぶやいた。男性はアイスマンに間違いなかった。テレビのニュースで顔写真が出されていたので、ケイトにもすぐわかった。そして、その机の向こうにあるソファの下からかすかな物音がしていたのだ。 ケイトは周りを見回し、机の上にあがって先ほど見つけた写真立てを後ろ足で蹴り落としてみた。すると先ほどのコンコンという音がドドドっと激しい音に変った。「グレン!そこにいるのね」 ケイトが呼びかけても、返事がない。ケイトは迷った挙句、アイスマンの部屋を飛び出して、アンの姿を探した。 アンはお茶の支度をして、リサの部屋に届けるところできれいなシャムネコが廊下を横切るのを目撃した。「あ、ネコが!」 アンはすぐさまカートを廊下の隅に置き、ネコが駆け抜けていく後を追いかけていった。ケイトはそんなアンの姿を確認しながら、グレンの方へと誘導していった。「これ!どこに行くの? そこは旦那様のお部屋なのに…!」 それでもアンは、ネコを見逃す事もできず、アイスマンの部屋に入った。そして、ドドドっという物音に遭遇した。アンは驚きのあまりネコを追いかけていた事も忘れて駆け寄った。フローリングの下から、何者かが床を叩いてその存在を知らしめようとしているのが分かった。「どうしましょう」 アンはおろおろしていたが、リサに報告に行く事を思いつき、転がるようにしてリサの部屋に向かった。その様子を机の下から見つめていたケイトはアンが出て行くのを見届けると、そっと机から抜けだし辺りを探り出した。
July 6, 2010
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「ほっといてよ!」「ほっとけないよ。 まだ退院許可は出ていないだろう? 足は大丈夫なのかい?」「なによ!昨日は夕方にはお見舞いに来るって言ってたのに。」「ごめん。悪かったよ。だけど今ちょっと大変な事がわかったんだ。とりあえず、車に乗って。ここじゃ、人目につきすぎる。」 サムは半ば強引にリサを車に乗せ、アイスマン家の前を通り過ぎると、近くの公園の脇に車を止めて、グレンからのメールのことを話した。「お父さんが?!」 リサは唇をかみ締めて黙り込んだ。しかしサムにはじっとそれを待っているだけの気持ちの余裕はなかった。「リサ、悪いが僕はこれからアイスマン家に乗り込もうかと思うんだ。君さえよかったら、協力してほしい。どこか抜け道はないだろうか」「わかった。教えてあげる。でも、おじさん通れるかしら」 リサが案内してくれたのは、アイスマン家の裏手、納屋の真裏にあたる塀の足元にある小さな穴だった。ポプラやその脇にある庭木に隠れて、屋敷からは死角になっているようだった。リサは周りに人の気配がないのを確認すると、しゃがみこんでするりと通り抜けた。そして後に続いて寝そべって穴を抜けようとしているサムの手をひっぱった。 アイスマン家には一度入っているサムだったが、裏庭に来るのは初めてだ。まずは納屋の裏から偵察を始めた。熱心に周りを調べるサムをヒマそうに見ていたリサが、何かに躓いた。「あ、これノートパソコン?」「それは!グレンのものじゃないか! そうか、あいつはここにパソコンを隠しておいて内偵をしていたんだな。」「じゃあ、あのコはホントに探偵だったの?」 リサは驚いた様子でパソコンを眺めた。しかしここにパソコンが置いたままになっているということは、グレンはこの屋敷から出ていないということになる。サムの胸中に最悪のシナリオが浮かんでは消えた。「そうだ!焼却炉を調べなくては。」 サムはリサをその場に留まらせて、辺りに人がいないのを確認すると、そっと焼却炉のフタを開けてみた。耐えられないほどのいやな臭いにサムは急いでフタを閉めると、足元の溶けたカフスボタンを持って、再びリサの元に戻った。「リサ。君のお父さんは、本当は、きっと君が入院したと聞いていたら、一番に飛んでいって君の安否を確かめたかっただろうと思うよ…」「どうしたのよ、急に。実際には来なかったじゃない」 ふてくされた顔のリサを、サムは容赦なくぎゅっとその胸に抱き寄せてそっと頭をなでてやった。「出来なかったんだよ。今、君のお父さんはあの焼却炉の中にいる。でも、見ないほうがいいだろう。僕は警察を呼ぶよ。」 そう言って溶けたカフスボタンを手渡し、ケータイを取り出した。 リサは受け取ったカフスボタンに見覚えがあったのか、はっと息を飲み込んで、大事そうにそれを握り締めたまま、泣き崩れていった。 サムはリサの気持ちが落ち着くまでじっとそばにいることにした。手には白いコーヒー豆を握り締め、心の中で叫び続けた。「タディ!出てきてくれ! グレンがピンチなんだ!」 数分後、何台かのパトカーがアイスマン家を取り囲んだ。パトリックの上司、ディレクが、ブラウン氏の抗議を受けながらも一斉に捜査した。騒動に気づいたアンは、おろおろと玄関ホールにやってきたが、裏庭にリサがいることに気づき、転げそうになりながら駆け寄ってきた。「リサお嬢さん!! お帰りなさいませ。」 アンは嬉しさのあまり大泣きしていた。リサは良家の子女らしく姿勢を正し、気丈に振舞っていた。先ほどまで泣き崩れていたのがウソのようだった。「それにしても、いったいこれはどういう騒ぎなんでしょうか」 戸惑うアンにサムが声をかけた。「大丈夫だよ。ブラウン氏はどうやら裏の世界の人間だったらしい。本当のことはこれから分かってくるだろうけど、アイスマン家が危機に瀕していたことだけは確かだ。 だけど、今は大丈夫。リサさんが戻ってきてくれたからね。すべてが落ち着いたらメアリーやジョンソンと連絡を取り合うといい。」「メアリーたちは、私を許してくれるのかしら。」 リサは不安げにつぶやいた。「大丈夫だよ。メアリーは君の事をとても心配していたんだ。素直に謝れば、すぐに元の関係に戻れるさ。」 話している矢先に、パトリックが焼却炉にやってきた。「うわっ! 担架を持ってきてくれ! それから鑑識も呼んで!」 どうやらアイスマン氏の遺体が見つけらたようだ。「パトリック、ブラウン氏の部屋の地下室は確認できたか?」「ああ、ものすごいことになっていたよ。地下室なんてものじゃない。会社が1つ丸々入ったような状態だったよ。パソコン、空気調整完備。ブラウン氏は企業乗っ取りのプロだな。」「で、ネコは見なかったかい」「ネコ? 見ないねぇ」 サムはじっとしていられなくなって、屋敷の中に駆け込んでいった。「グレン、無事でいてくれよ」 ブラウン氏の部屋に入ろうとするサムをパトリックの同僚が制止した。「ここはまだ立ち入り禁止です!」「通してくれ!僕の相棒が捕まってるんだ。きっとこの中に監禁されているはずなんだよ!」「監禁?!」 警察官たちは色めき立った。その現場を指揮している警官が、何人かを引き連れて地下室になだれ込んでいったが、サムはその場から進む事を許されなかった。「グレンー!」 地下室にサムの悲痛な声が響いたが、警官たちは逮捕者以外には人も動物も、見つけることはできなかった。 裏庭ではアイスマン氏の遺体が発見されていた。泣き崩れるリサを慰めながら、アンはメアリーに助けを求めるべく連絡をとった。指示を仰ぐべきブラウン氏は早々に逮捕されてしまったし、頼りのチャーリーまでも、遺体遺棄で逮捕されてしまった。 警察が去っていった後にぽつんと残されたサムは、それでもまだ納得ができないでいた。閉じてしまったエレベーター式の床をじっと睨みつけていたが、おもむろに立ち上がり、まだ立ち入り禁止のテープの張られたままのエリアにそっと忍び込んでボタンを押した。消音効果があるのか、静かに床が下がり、ほどよい高さで静止した。サムは地下のエレベータールームのドアを開け、その地下室へと歩き出した。愕然とするほどに、地下内の設備は整っていた。「ここでいったい何人の人間が活動していたのだろう。パトリックの話では、警察が踏み込んだ時点でも8人は働いていたというが。」 サムは最新の設備におののきながらも奥へと進んでいった。PCルーム、会議室、それぞれの個室らしき部屋。 しかし、グレンの痕跡はどこにも見当たらなかった。 とうとうサムは地下室の一番奥にたどり着いた。そこは、さっきまでのきれいな事務所とは違い、コンクリートがむき出しになった一角で、掃除道具のようなものが無造作に置かれていた。 その一番隅に、見たことのあるグレンの毛が綿毛のようにふんわりとまとまって留まっていた。「グレン!」 サムは体中から力が抜けていくのがわかった。こんな風に毛をむしられてしまうということは、普通の状態ではないだろうと推測したのだろう。 サムの頭の中を、グレンと一緒に探偵業に励んだ日々が浮かんでは消える。安っぽいドラマみたいだと、サムは自嘲した。
July 5, 2010
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しばらくすると、キールが動き出した。あれだけ大量のコーヒーを飲んだのだ。トイレにも行きたくなるだろう。 「ありがとよ。分かりやすくて助かったぜ」 サムは道具箱に向かった。案の定、ロイドは手足を縛られ口には粘着テープが巻かれた状態で発見されたが、命に別状はなかった。 ふと思い出したようにケータイを取り出すと、時折情報を送ったりしている警官のパトリックにメールを入れた。「ロイド、悪いがもうすぐ警官のパトリックがやってくる、それまで待ってくれないか?刑事事件になれば、この会社の幹部連中もキールたちを放ってはおけないだろ?」 ロイドはちょっと肩を落として、頷いた。サムはそのままそっと道具入れの扉を閉めた。 まもなく、パトリックはめでたくロイドを救出することに成功した。サラはロイドを連れてそのまま会議室に飛び込み、事件の詳細を説明することにした。 一時は騒然となった会議室も、事の次第が分かると会議の内容を変更し、キールの処分も決定した。 「サム、ありがとう! 貴方のお陰でやっとキールたちの悪巧みが明るみに出たわ」 サラは嬉しさのあまり上ずった声で受話器に叫んでいた。しかしサムはもう車の中にいた。「そりゃあよかった。とりあえず、役に立てて嬉しいよ。」「今日はこれから祝賀会をするの。是非サムにも来ていただきたいわ」「悪いね。こっちはもう次の約束が入っちゃってるんだ。また今度ね」 サムは軽い口調でそういうと、電話を切ってハンドルを握った。すぐにでもアイスマン家のある街にかけつけたかった。グレンからの連絡は、途絶えたままだったのだ。焦るサムの元に電話がなった。サムは大急ぎでケータイを取り出したが、かけた相手はグレンではなかった。「サム、大変だ!」「なんだ、エリックか。どうした?」「お前さんが連れてきたリサって子がいなくなったんだ!」「リサが…? 分かった。心当たりを探すよ」 サムはそのまま電話を切って、車を走らせた。ふっと助手席の上着の下にグレンがいるような気がした。「おい、どこにいるんだよ。早く連絡をしてくれよ」 サムの独り言に、グレンが答える事はなかったが、サムには何かが聞こえた気がした。-急がば回れだよ。-「そっか。日本じゃそんなことわざがあったよな。それじゃあ、思い切って一軒回ってからにするか」 サムはアイスマン家を通り過ぎて、以前訪れた事のあるコーヒー専門店にやってきた。 サムが席に着く前に、喫茶コーナーには初老の男性がのんびりとコーヒーを楽しんでいた。店主も知り合いらしく、親しげに談笑しているところだった。「それにしても驚いたね。隣は何か急用が出来たんだと思っていたんだが、戻ってきたと思ったら見知らぬ連中だったしね。おまけにどうもこの町にはそぐわん連中だったんだよ」「しかしお手柄でしたねぇ。まさか屋敷ごと乗っ取ろうなんてこと考えていたなんて信じられませんなぁ」「まったくだ。隣人とは親しくしておくもんだね。私も、もし隣との交流がなかったなら、不信感も抱いていなかったかもしれん。」 初老の男性はしみじみと語っていた。店主は何度も頷きながら、サムに注文をとりにやってきた。「何かあったんですか?」「いやぁね。こちらのご主人のお隣が、悪い奴らに屋敷ごと乗っ取られそうになったらしいんですよ。ところが、こちらのご主人、一昨日は一緒にパーティーをするはずだったらしくてね。帰ってこない隣人を心配しているところに、見知らぬ連中が何食わぬ顔で住み始めたもんだから、すぐさま機転を利かせて警察に連絡されたんです。お陰で犯人はすぐに検挙できたし、街の治安も守られた。たいしたもんですよ。」「それはすばらしい。よく気がつかれましたねぇ」 サムは話に乗りながらも気が気ではなかった。屋敷ごと乗っ取るだなんて、アイスマン家にも充分に起こり得る話だったのだ。 サムに褒めらてすっかり気をよくした初老の男性は、高級なコーヒー豆をたっぷり買い込んで帰って行った。サムはその後姿を見送りながら、店主に尋ねた。「この前こちらに来ていたアンという子はまだがんばっているんですか?」「ああ、アイスマン家に働きに来ている子ですか? それがねぇ、ちょっと元気がないようなんです。お嬢さんの世話係という話だったらしいが、お嬢さんがまだ家には帰っていないらしい。まったくどうなっているんでしょうねぇ。あ、それに、買いに来る豆もすっかり変ってしまったんですよ。何があったんでしょう。さっきの話じゃないが、乗っ取られそうになってるなんてことじゃないといいんですけどね。アイスマン氏はあまりご近所と交流されていない様子でしたから」 店主は哀れむように首を振って厨房に戻りかけて振り向いた。「ところで、この前連れてきていた猫君はどうしたんです?」「それが、いつの間にかいなくなってしまったんです」 サムは苦し紛れにそうつぶやいた。それが店主には痛々しい姿に見えたらしい。厨房に行って、なにやらごそごそと探していたかと思うと、サムにそっと握りこぶしを差し出した。「これを。これは幸運のコーヒー豆なんです。なかなか手に入らないが、ちょっと前に2つも袋に入っていたんでね。大事に取っておいたんですよ。どうしても叶えたい願いがあるとき、これを握り締めて強く願うと叶うんだそうですよ」 サムは店主から小さな豆を受け取って驚いた。真っ白な豆だったのだ。そして、店主に礼を言うと、今度こそアイスマン家に向かって車を走らせた。 アイスマン家のすぐ横まで来ると、サムは路肩に車を止め、ケータイで先ほどのパトリックを呼び出した。「まだ、はっきりとしたことは分からないんだが、もしかしたらアイスマン家に事件が起こっているかもしれないんだ。アイスマン氏は先日からどうやら行方不明らしい。しかしそれを執事たちが隠している素振りなんだ。これから内偵調査に入るが、なにか見つかり次第連絡する。援護を頼みたい。」パトリックから快諾されたサムは、先ほどのコーヒー店の店主にもらった豆を握り締めた。そして再びハンドルをにぎろうとすると、門のすぐそばに座り込んでいる少女を見つけた。「リサ!どうしたんだい?」 サムはすぐさま車を止め、逃げ出そうとするリサを捕まえた。
July 2, 2010
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がっかりした俺は、屋敷の中に目を向けてみた。せっかくここまで来たのに、これっぽっちの収穫じゃあ、納得できない。一通り見回したが、客室のような部屋ばかりだった。今度は表の植木に登り、1階の様子を伺った。向かって中央やや右手側にアイスマン氏の書斎があり、その続きにある右端の部屋がブラウン氏の部屋となっている。ガラス越しに見えるブラウン氏はなにやら書類に目を通しているようだったが、興味なさ気にデスクに投げると本棚に歩み寄りそのまま姿を消した。初めはしゃがんだのかと思ったが、どうもそうではないらしい。ぷっつりと姿を消してしまったのだ。そのまましばらく眺めていると、アイスマン氏の部屋に人影が動いた。ブラウン氏だ。どういうわけだ? ブラウン氏が部屋を出ていないのは、この目でしっかり確かめていたのに。これはどうやら屋敷内に進入しないと分からない事があるようだな。 とりあえず納屋の裏手までもどり、サム宛にメールを送っておいた。カフスボタンのこと、紋章のこと、そして溶けたカフスボタンのことなどだ。ブラウン氏の部屋のことも少しは書いておいたが、詳細は確かめてからでもいいだろう。もし、このまま食事時になってもアイスマン氏が現れないようなら、最悪の事態も考えておかねばなるまい。 サムのメールは届いていなかった。あちらはあちらで忙しいのだろう。しかし、今のブラウン氏の様子では、キールが動き出しているとしてもブラウン氏やショーンは関わっていないのかもしれない。前回、ロイドを陥れられなかったことで、キールも他人を雇うことをやめたのかもしれない。 厨房の見える枝を物色する。もしもブラウン氏が犯罪組織に所属しているとしたら、どういう地位にいるのか、どうしてアイスマン家に居座っているのかも知っておく必要があるだろう。それにはまず、この家にどのくらいの人間がいるのか調べる必要がある。 裏庭の納屋と反対の方角にダイニングから突き出たような形の厨房がある。この2階はチャーリーやアンが住み込んでいる宿舎になっている。樫の木が生い茂って、その厨房を観察するにはお誂え向きだった。 人間の目をすり抜けて裏庭に回ると、樫の木の手ごろな枝に座り込んだ。さっきまで裏庭で作業していたチャーリーが、もう厨房で食事の支度をしていた。時間的に考えて、さっきの作業は放ってきたのだろう。タマネギを剥いたり、ジャガイモを洗ったり、バタバタと忙しそうにしているのが見えた。 今、アイスマン家にいるのは、アイスマン氏とブラウン氏、それにアンとチャーリーだけか。朝のうち掃除をしにきていた中年女性は、昼前に帰って行った。大きな家にたったそれだけの人数とは寂しいかぎりだろう。 チャーリーがタマネギを剥き続けている。いったい何を作るのだろう。さすがに料理人だけあって、手際がいい。あっという間に大なべたっぷりのビーフシチューが出来上がった。 配膳机には3人分の食器が用意され、サラダやパンと一緒にトレイに移されていった。そして残りの大なべはさっさとふたをして、サラダの大きなボウルと一緒にコンテナに移した。その上段には一食分のトレイが置かれ、チャーリーはそのまま正面玄関を抜けて食事を運んでいった。 おかしい。まかないの料理しか作っていないとはどういうことなんだ。アイスマン氏には別メニューを出すのだろうか。しかし、使用人が先に食事をとるなんて聞いた事がない。 それにあの大なべはどういうことだ。ブラウン氏はどちらかと言えば細身な方だ。とても大食漢とは思えない。 俺は大急ぎで表の木によじ登り、チャーリーが到着するより先に部屋の観察を始めた。ドアがノックされ、ブラウン氏が不意に姿を表した。そしてそのままチャーリーを部屋に入れた。 チャーリーはブラウン氏のテーブルに食事の用意をすると、そのままコンテナを押して本棚の前まで進んだ。 俺は大急ぎで枝をよじ登った。もうちょっと高い位置からなら、本棚の前の部分がどうなっているのか見えるはずだ。 少しばかり頼りない枝ではあったが、そっと足を伸ばして本棚の前の部分が見える場所までやってきて気がついた。本棚のすぐ前には四角く区切られた場所があった。はっきりとは分からないが、地下から灯りがもれてきているようだ。 チャーリーはそこにコンテナの中の大なべや大きなボウルを運び入れると、どこかを操作した。チャーリーの乗った床はすっと滑らかに下降し、すぐさまチャーリーだけを乗せて上がってきた。そして、チャーリーは何食わぬ顔でコンテナを押しながらブラウン氏の部屋を出て行ったのだ。 あの大なべからして、それなりの人数があの地下室にいるのは間違いなさそうだ。上下する床はチャーリーが移動して数秒後には自動的に床と同じフローリングのシートで覆われた。もしかしたらあの簡易エレベーターのようなものには、入り口が分かりにくくする細工がほどこされているのかもしれない。 そっと枝を退いて、俺は納屋に急いだ。サムの方はうまくやっているだろうか。気になるが、今はサムを信じるしかなさそうだ。焼却炉のカフスボタンの件、チャーリーの食事のこと、それからブラウン氏の秘密の地下室の件をメールにまとめて送った。 急がなくては、できればあの扉の開き方を教えてもらわなくてはならない。 再び表の木の枝によじ登って、辛抱強く待ち続けた。やがてブラウン氏が本棚の前まで歩いていくと、本棚の下から3段目の辺りに右手を差し入れるのが分かった。 あそこだったのか。と思ったとたん、足元にビシっといやな音がして、俺は足場をなくしてしまった。ネコの癖に、着地に失敗してしまった。左足に激痛が走っている。早く逃げなくては。焦る気持ちを暗闇が覆い始める。遠くから足音が駆け寄ってくるのが分かった。あの靴は、チャーリーか…。俺はそのまま気を失ってしまったらしい。 一方サムは、ロイドの勤務する会社内に留まって、今朝からのロイドの行動範囲を調べ上げていた。マリアに聞いた話によると、ロイドは今朝もいつもどおり自分の車で出社したという。実際ロイドの車は駐車場に残ったままだった。 サムが調べ物をしているそばから、彼らの部署には上司からすぐにロイドを会議室に連れてくるよう連絡があった。トニーは焦り、ロイドの立ち寄りそうな場所は片っ端から連絡をつけたが、ロイドの行方はわからなかった。隣ではサラが警察に連絡を取っていた。しかし事件性がないという理由で、警察が動く事はなかった。 どういうことだ。サムはじっと考え込んでいた。もし、社外に出ていないのであれば、どこかに監禁されているのかもしれない。サムは大きな賭けに出ることにした。残業組が帰り始めた頃、トニーは取引先から荷物を預かったと言って、警備員室の前を通り過ぎた。もちろんダンボールの中にはサムが隠れていた。 すぐさま作業着を着込んで、作業員のフリをして順番に道具入れや配電室など、人気のなさそうな場所を調べ始めた。 しばらく作業を進めていると突然キールがサムの前に現れた。「お前は何者だ!」「サム・エンジニアリングの者です。今日は点検日でして、お邪魔しております」 愛想のいい笑顔に、キールはちょっと口ごもった。サムは素知らぬふりで作業を続けていたが、キールがどうしても一箇所の道具箱だけは開けさせようとしなかった。「すみません。全部見ないと上司に叱られるんですよ」「いいよ、ここは。俺が変りに見ておくから、次の部署の方に行ってくれ」「後で仕事していなかったなんて、言わないでくださいよ」 情けなさそうな顔でキールに言うと、そそくさと次の部署に移動していった。しばらく経ってその場を通り過ぎると、まだキールが座り込んでいた。サムは軽く会釈をするとそのまま通り過ぎて行った。キールはなかなかしぶとかった。大型の道具箱の上に寝転がってこのまま夜を明かそうというつもりらしい。持久戦になることを覚悟して大型の缶コーヒーを買うと、キールの元に向かった。「あ、やっぱりまだがんばってるんですね。お仕事大変ですねぇ。これ、よかったらどうぞ。いや、僕もね。こんな遅い時間に仕事するのは初めてで、なんだか怖いもんですね。誰も居ない会社ってものは。あはは。じゃあ、また」 サムはそういいながらキールに大型の缶コーヒーを手渡し、その場を去った。そして、そこから一番近いトイレがある方向の反対側に身を潜めた。 すっかり夜が更けていた。ガラス張りの壁の向こうに研ぎ澄まされたような三日月が輝いていた。そっと内ポケットのパソコンを覗く。グレンからのメールは夕方以来届いてはいなかった。
June 23, 2010
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「どうしていいかわからないまま、学校に向かおうとしたとき、ロゼッタが私を連れ去ったのよ。もう充分でしょう。ずるがしこい大人たちに復習してやりましょうって。ロゼッタは私の味方みたいに話しかけてきたわ。おろかな私はすっかり騙されて、あたり屋の仕事を引き受けることになったの。 指定された車にバスケットボールを当てておいて、すぐそばに老婆のフリをして寝転んでいれば、すぐにロゼッタが助けだしてくれる手はずだったわ。最初にやったときは、簡単に成功したの。その場で示談が成立して、お金もすぐに手に入ったわ。2回目のときはちょっと失敗。スカーフを現場に落としてきてしまったの。あの時は大嫌いなショーンも仲間に入っていていやだったけど、気が動転してなにも思い出せないバカな大人を見ているのはおもしろいと思ってた。 だけど、ロゼッタたちに依頼をしてきたお客が、思い通りにことが運ばなかったと言ってお金を払ってくれなかったのよ。お客と揉めているうちに、ショーンが失敗は私のせいだと言い出して、走っている車から、突然突き落とされたの。あちこちぶつけて体中痺れていたけど必死で走った。とにかく逃げなくちゃと思ったの。だけど行く宛てもなくて、あっという間にロゼッタに見つかったわ。 あんたをやらないと私がやられる、だから悪く思わないでねって言って、彼女、私の背中を突然押したの。そこにやってきたのがサムさんだった。 だけど、あたり屋のことを誰かにばらすと家を放火するって言われたの。」「大丈夫だよ。僕たちは絶対に他言しない」 サムはしっかりとリサの目をみつめて力強く答えた。 はぁ。リサは大きな深呼吸をして、ほんの少しだけ笑顔を取り戻した。「私、助かったのかな。助かっても、しょうがないんだけどね。家に帰っても、もういる場所なんてなさそうだし」「寂しい事いうなよ。どうしても居場所が無いんだったら、うちにでもくればいい。当面の生活ぐらいなら、面倒みてやれるよ。ただし、うちにはかみさんと娘もいるから、仲良くする事。」 俺がサムのヒザに爪を立てると、驚いたように付け加えた。「ああ、すまん。 うちにはグレンも住んでいる。僕の親友のペットなんだ」 リサは今までみたこともないほど情けない顔になって、ぼろぼろと涙をこぼした。そして、ひとしきり泣いた後で、真っ赤な鼻を隠そうともしないで笑った。「ありがとう。私、まだ生きてていいんだよね。居場所をもらえるのよね」 サムが大きな手のひらでリサの頭をそっとなでてやった。リサは思いのほか素直にされるがままになっていた。 それにしても、娘がこんな状況なのに、父親が病院にも来ないというのはおかしい。サムもどうやら同じことを考えているようだった。「ところで、アイスマン氏はどうしてここに来ないんだろう。連絡はしてみたのかい?」「運ばれてきたときは、病院の人が連絡してくれたそうだけど、ブラウンさんが来ただけだって言ってたわ。私、ちょっと電話してみる」 アイスマン氏に裏切られたという思いはあるだろうが、連絡が取れないというのはおかしいと思ったのだろう。リサはサムに勧められて連絡を入れることにした。 しかし、リサの電話に応対したのはブラウン氏だった。何度かアイスマン氏を出すようリサは迫っていたが、どうしても電話口にアイスマン氏を出そうとはしない。 厭味の一言も言われたのだろう。リサは相当に頭にきた様子だったが、俺たちがみても少し不自然だ。もしかしたら、アイスマン氏は家にいないのではないだろうか。 リサは電話を切ると、すぐさまメールを打ち始めた。ブラウン氏によると、アイスマン氏は今食事中だという。それならば、食後にメールを読むことぐらいできるだろうというわけだ。 しかし、それからしばらくリサのそばについていたが、アイスマン氏から連絡はなかったようだ。 サムもどうやらその事が気になっているらしく、ちらちらとリサのケータイに視線をやっていた。「さて、そろそろ僕たちは失礼するよ。いろいろと調べなくちゃならんこともあるんでね。夕方にまた顔を出せると思うんだ。退屈だろうけど、ちょっとゆっくり休んだ方がいいよ。じゃあね」 サムの軽口にリサはつくろった笑顔で答えた。 サムの車に乗り込むと、俺は先日サムが仕掛けておいた盗聴器をONにしてみた。するといきなり遠くでがさがさと何かが崩れ落ちるような物音が聞こえてきた。 ブラウン氏の部屋の中ではないようだが、ブラウン氏の罵声が聞こえてきた。「まったく!どこにあるというのだ! おかしい…」 サムが運転しながらつぶやいた。「ブラウン氏は何を探しているんだろう」「きっとアイスマン氏のケータイなんじゃないか? リサがあんなに連絡を取りたがっているとなると、ケータイを押さえておく必要があるだろう?」「どういう意味だよ」 サムはどうやら、本当にわかっていないらしい。俺はすべてを説明するのが邪魔くさくなった。キーボードに打ち込み始めたとき、サムのケータイが鳴った。 サムは車を路肩に止めて、顔を曇らせた。「どういうことなんだ?」 電話の内容はかなり深刻なもののようだ。じっと様子を伺っていると、電話を切ったサムが俺に問いかけてきた。「なあ、グレン。お前ならどう思う? せっかく新ブランドの辞令がおりたっていうのに、ロイドが無断欠勤で行方不明になっているっていうんだ。」 ロイドが無断欠勤?まず考えられるのはキールたちの仕業か、やつらに雇われた連中の仕業だろう。俺がそのことを打ち込むと、サムはすぐさま納得して、ロイドが勤務する会社に潜入すると言い出した。 この状況だ、ロイドの身に危険が迫っているとも考えられるだろう。だがアイスマン氏の方も置いていけない。俺はサムに二手に分かれることを提案して、アイスマン氏の屋敷のそばで車を下ろしてもらうことにした。 アイスマン家の門をするりと潜り抜けると、正面に古城のような塔が見える。この前来たときに気付かなかったのは、庭木が伸びていたからだろう。その頂にはめ込まれた時計の文字盤に描かれているのは、湖に浮かぶ白鳥。おそらく紋章だろう。 以前この屋敷にやってきたとき、ブラウン氏の部屋で見つけたカフスボタンと同じ模様だ。はやりあのカフスボタンはアイスマン氏のものだったのだろう。 ブラウン氏の部屋にアイスマン氏のカフスボタンがあるというのは納得できない。カフスボタンをはずす理由が見つからないのだ。 俺は、アイスマン家の屋敷に入る前に、辺りをゆっくりと捜索した。古城のような屋敷の周りには花壇や噴水もあった。裏庭には納屋があり、そのすぐそばには大きなポプラが茂っていた。納屋の裏手に携帯用のパソコンを置いて身軽になると、納屋のすぐ脇にある焼却炉に近づいてみた。さっきから、いやな感じのにおいがくすぶったままになっているのだ。 焼却炉の窓は開いたままで生木が突っ込まれたままになっている。燃やしている途中で火が消えてしまったのだろう。 人の気配がしたので、慌てて納屋の裏に逃げこもうとした俺は、変な形のものを踏んで肉球に痛みが走った。振り向くと金色の中に青としろがとけた物体があった。これは、紋章と同じ配色。カフスボタンの片方だ。こんなところに落ちているとはどういうことだ。 俺は気にかけながらもとりあえず納屋のすぐそばのポプラの木によじ登り、様子を伺った。 さっきの気配はチャーリーだった。チャーリーはガーデニング用の大きなスコップをかかえて花壇までやってくると、こんもりといっぱいに花を咲かせている草花たちを乱暴に抜き始めた。一通り抜き終わると、焼却炉の様子を見て舌打ちをし、窓に突っ込まれた生木を少しだして火をつけなおしているようだった。まだ乾燥もしていない生木を突っ込むとは、随分乱暴なことをする。 焼却炉の火は再び燃え、煙がモクモクと空に昇っていく。辺りに広がるいやな匂いに頭がくらくらした。 チャーリーはそのまま花壇にもどり、大きな穴を掘り始めた。そして植木の苗を数本納屋の中から取り出して穴のそばに置いた。なんだ、庭木を植えるだけだったのか。
June 21, 2010
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「まあまあ、そんなに焦るなよ。ここは取引だ。どうする?僕の質問に答えてくれるなら、君のしていたことをここの医者や警察には言わないであげるよ」「信用できない」 サムの言葉が終わるより早く、リサはするどく答えた。どうやら、いろいろ学習してきたようだ。サムはどうしたものかと考えをめぐらせていたが、ふっと何かを思いついて自分のノートパソコンを引っ張り出してきた。「いいかい。これから僕の相棒のとっておきの芸を見せてやろう。それと引き換えでどうだ?その代わり、これは他の連中には絶対に言わないでほしいんだ」 サムはそういうと、俺を内ポケットから引っ張り出してパソコンの前に座らせた。「何それ? くだらない。ネコがパソコンでもやるっていうの? もしそのネコが、言葉を打ち込んだりできるっていうんだったら、信用してあげるけど?」 バカバカしいといわんばかりだ。サムが俺に目配せしている。しょうがない。ここはひと肌脱いでやるか。『はじめまして。ボクはグレンといいます。』 リサは唖然として俺を見つめていた。「だ、だけど。こんなことぐらい躾けたらできるかもしれないじゃない。ねえ、私を見て、どう思うか書いてみなさいよ!」 リサはそれでも信用できない様子で、違う要求を突きつけてきた。『君は、なんだか寂しそうだね。友達はいないの?』 リサはぐっと言葉を飲み込んだ。そして、ぷいと窓の方を向いたまま、しばらく考え込んでいる様子だった。 サムは俺にどうしたものかと合図を送ってきたが、ここはそっと待つしかないだろう。 開けたままの窓から、涼しい風が流れ込んでくる。それが心地よいと感じるのだから、夏は近いのだろう。 サラサラとカーテンを揺らしていた風がゆるりと止まったとき、リサは居心地悪そうに体をこちらに向けなおして、観念したように話し出した。「分かったわ。あんたたちが約束守ってくれるんなら、話してあげる。」「そう来なくちゃ!」 サムが俺にウインクをしてよこした。「もうだいぶ前のことだけど、私、学校のホームワークで親の仕事について調べてレポートを書くように言われてたの。それで、パパの部屋に行こうとしたんだけど鍵が掛かってて入れなかったのよね。提出期限は5日後だったから急がなくてもよかったんだけど、パパったら仕事の事はなにも教えてくれないし、留守の間に少しでも調べておきたかったのよね。」 遠くを見つめる様にして話す横顔は、まだ幼い。その口から意外なことが言い放たれた。「今でも不思議なんだけど、ある日、私の部屋の前に鍵が落ちていて、家のカギって、どの部屋も同じデザインで作られてるから、家の中の何処かだろうとは思っていたんだけど、面白半分でパパの部屋の鍵穴に差し込んだら、開いちゃったのよ。」 サムはチラッとこちらに視線を送ってきた。確かに出来すぎているが、ここは聞き流すしかないだろう。「パパの部屋は前よりちらかっていて、あちらこちらに書類がいっぱいあったわ。いろいろ見たけど、やっぱりパパに説明してもらわないとだめだってわかったの。それで、諦めてちょっと休憩しようとパパの書斎のイスに座って机に向かってみたら、真正面に小さな写真立てがあって、そこに…。」 幼い瞳は明らかに動揺し、その日のショックを思い出していた。俺は、キーボードに向かって言葉を打ち込んだ。「何か、見たくないようなものでもあったの?」 文章をちらっと見ると、深いため息とともに悲しげにうなずいた。「そうよ。そこに、パパと知らない女の人の写真があったの。ショックだったわ。まだママが亡くなってからそんなに何年も経っていないのに。それで、ちょっと引き出しも開けてみたの。そうしたら、写真立てにあった女の人のヌード写真まで出てきて、私、ショックでパパの部屋を飛び出してきちゃったわ。」「ひどい話だなぁ。おふくろさんが亡くなって、頼りにしている父親だっていうのに」サムは自分の娘キャシーとリサをダブらせているのかもしれない。アイスマン氏に対する怒りは相当なものだ。「それからは、何もかもがウソに見えて、誰のことも信用できなかった。それで学校をサボって、街をうろうろしているとき、ショーンっていう男の人に声をかけられたの。 今から思えば、ショーンは札付きの悪だったわ。初めから私を仲間に引き入れるつもりだったのよ。初めは私の身の上話を真剣に聞いてくれて、帰りたくないと言えば食事や宿泊の手配もしてくれて、なんていい人なんだろうって思ってた。」「ところが、そうじゃなかったってわけか。」 サムが割って入った。「そう。今度はお前が俺を助ける番だとか言われて、窃盗や恐喝もやらされたわ。このままじゃ危ないと思って家に帰ってた時期もあったんだけど。」「メアリーには相談しなかったの?」 俺がキーボードに打ち込むと、リサは悲しげにうなずいて続けた。「メアリーに相談しようと彼女の部屋まで行ったとき、私、見てしまったのよ。ジョンソンさんとメアリーが抱き合っているところを。 私がこんなに困っているのに、自分たちはまるで関係ないみたいだった。私のことを心配してくれていると思っていたのに、とんだ勘違いだったわ。もう、誰も信用できなくて、部屋に駆け戻ったの。 メアリーは私の足音に気づいたらしくて、すぐに声をかけに来てくれたけど、もう、顔も見たくなかった。」「だから、いきなり解雇したってワケか」 サムが呆れたように口を挟んだが、リサは続けた。「それまでから、ブラウンさんにはいろいろ言われてたの。メアリーとジョンソンさんがこの家を乗っ取ろうとしているんじゃないだろうかとか。お嬢さんもあまり出歩かないで、気をつけてくださいとか言われていたわ。 それが解雇の一因でもあるけど、お母さんが亡くなって、お父さんが我が家のことを振り向いてくれなくなった今となっては、怪しい人を解雇するしか私には方法がわからなかったんだもの」 リサは孤独なまま、それでもアイスマン家を守ろうとしていたのか。しかしそれをするにはあまりにもリサは無知だ。
June 19, 2010
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「実は、ブラウンさんのことなんですが。。。 ブラウンさんがアイスマン家に来るまで、ジョンソンさんはアイスマン家の執事として仕事をしていました。ご主人様の信頼も厚く、間柄は安定していました。一方ブラウンさんは、元々はご主人様のお仕事の関連会社の副社長だったと聞いています。出張先でばったり会って、その時何かのトラブルに巻き込まれたところをブラウンさんが助けてくれたのだと聞いています。ご主人様がこちらにお帰りになった時、ブラウンさんも一緒にお屋敷に来られたのです。初めは、仕事仲間としておいででしたので、来客としてもてなしていたのですが、ご主人様が、ブラウン氏も執事として働いてもらうとおっしゃって…それ以来、ブラウンさんは事あるごとに、ジョンソンさんのやり方が古臭いと難癖をつけて、ゴタゴタしていました。 ブラウンさんは個人的にご主人様と親しいのをいいことに、物事がうまく運ばないときは、いつもジョンソンさんのミスだとご主人様に忠告していたらしくて、ご主人様も、ジョンソンさんに対して少しずつ距離を置かれるようになってしまいました。 リサお嬢さんも、なんとなくいつも苛立ち気味で、誰にも心を許さないと言った感じでした。そして、ブラウンさんがリサお嬢さんのお世話係をもう少し若い人にやってもらってはどうかと提案してきたのです。ご主人様は家のことなどすっかりブラウンさんに任せきりだったので、ことは簡単に決まりました。そして、アンという少女が雇われたのです。 アンはごく普通の少女で、勉強はあまり得意そうではありませんでしたが、気立てのいい子だったので、内心ほっとしていたのです。ところが、その日の夜、リサお嬢さんが大変な剣幕でお屋敷に戻られたかと思うと、突然、私に解雇命令を出されたのです。 そして、憤懣やるかたない様子で階段を駆け上がられたのですが、階段の上でお嬢さんが通り過ぎるのを待っていたジョンソンさんを振り払うようにお部屋に入られたんです。お嬢さんには悪気は無かったと思いますが、運悪く、頭を下げていたジョンソンさんはバランスを崩して階段を頭から転げ落ちてしまいました。 それ以来、私たちはあのお屋敷には足を踏み入れてはおりません。リサお嬢さんやアンのことは今でも心配ですが…」 サムは手帳にメモを取っていたが、なるほどと納得したようにうなずいた。ホントにわかったのだろうか。怪しいもんだ。 しかし、反抗期が来た年頃という事を差し引いても、リサの変貌ぶりは気になる。アイスマンの部屋で何があったんだろう。それと、さっきから何かがひっかかっている。以前に誰かから聞いた話と、食い違っていると思った瞬間があったんだが…。「とりあえず、私にお話できる事はこの程度です。また、何か思い出したらご連絡します。」 サムはメアリーに礼を言って席を立った。そして、思い出したように念押しした。「あ、そうそう。くれぐれも、アイスマン家の方々にはボクが探偵だということはご内密にお願いします。」「ええ、わかりました。その代わり、リサお嬢さんやご主人様の力になってあげてください」 帰りの車の中でずっと考え込んでいた。リサになにがあったんだろう。どうやらサムも同じことを考えているらしい、今日は随分と無口だ。辺りはすっかり暗くなってしまった。 俺は突然のブレーキにサムの上着ごとシートから転げ落ちた。なんとか上着を掻き分けてシートに戻ると、サムが車から飛び出していくところだった。「大丈夫かい? 急に飛び出しちゃ、危ないじゃないか。もうちょっとではねてしまうところだった」 サムの言葉にやっと事態が飲み込めた俺は車のすぐ前に倒れこんでいる少女を見て驚いた。リサだったのだ。どうやらサムの車には接触せずに済んだようだが、リサは意識をうしなっていた。サムが病院に運ぼうとリサを抱き上げていると、ビルの隙間からカツカツと走り去る足音がした。ビルの向こう側にでたその人物の髪に街灯があたると、ぱっと目を引く赤茶けた色が目に入った。 サムはリサを後部座席に乗せると、知り合いの外科医に連絡をとって、すぐさま病院に向かった。「今日は随分と収穫の多い日になりそうだな」「ふん。しょうがないだろう乗りかかった船だ。ロイドの件もアイスマン家の紛争も、みんなまとめて片付けてやろうじゃないか」 まったくサムの人のよさにはついていけない。俺は大あくびで返してやった。 しかし、助手席の背もたれのすきまからみえるリサの顔は、まだまだ幼い少女のような寝顔だ。ときどき苦しそうに顔をしかめるのは、どこか具合が悪いからなのだろうか。それとも良心の呵責からだろうか。 病院に着くと、すぐさま診察がなされた。リサは足を骨折していた。頭も強く打っているらしい。体のあちらこちらに擦り傷もあるらしい。サムの知り合いだという医者は、エリックというが、交通事故かなにかのような怪我だと話していた。「サム、私は医者だから手術をするにしても保護者の承諾が必要なんだ。彼女の自宅に連絡を入れるが、君の名前を出さない方がいいのかい?」 さすがにエリックはサムの友人だけある。その辺りは心得ているってことか。エリックの配慮で、サムは名乗らないで帰った親切な男性とということになり、手術が必要なので保護者に来院を依頼した。 しかし電話の向こうでは揉め事が起こっているのか、すぐには行くといわないらしい。「あなたは? ご両親か血縁関係の方は? 執事をなさっているだけでは駄目なのです」電話の向こうでブラウン氏が歯軋りをしているのが目に浮かんだ。 思わぬ出来事だが、これで直接アイスマン氏に会えるかもしれない。サムと俺はしばらく病院の受付の前で待機していた。だがやってきたのはブラウン氏だった。 サムと俺はとっさに新聞で顔を隠してその場をやり過ごし、ブラウン氏とエリックとのやりとりを伺った。アンの話では、アイスマンはもう自宅に戻ってきているはずなのに、どうしてブラウン氏がやってくるんだろう。アイスマンは娘が可愛くないのだろうか。 ついさっきメアリーが話していたアイスマンの人格と、大きなずれを感じていた。「とにかく、怪我をしている人間を放っておくことはできない。ブラウン氏には、どんな責任も取るとサインしてもらったし、手術をするよ。 サム、一旦家に戻って休むといい。もう夜も遅いしね。明日の朝には麻酔も切れて意識も戻るだろう」 カンカンに怒ったブラウン氏が病院から帰っていくのを見送ると、エリックは不敵な笑みを浮かべながらサムに声をかけ、看護師に指示を出していた。 翌朝、俺とサムはさっそくリサと面会するべく、病院に向かった。しかし相手は病院。俺は例によってサムの上着のポケットに押し込まれた。 サムはエリックと一言二言話をすると、すぐにリサの病室に案内された。「やあ、気分はどうだい?」「あんた、誰?」 子どもらしいが、とても疲れた声だった。サムがリサを助けたいきさつを簡単に話してやると、ふ~んと気のない返事を返してくるだけだ。「随分ひどい怪我をしているようだが、いったい何があったんだい?僕でよかったら、話してくれないか?」「うるさいなあ。見ず知らずの人に、何を話せっていうのさ。それとも謝礼でもほしいわけ?」 随分とすさんでいるようだ。とてもお金持ちの一人娘とは思えない。これは手こずりそうだと思っていると、サムが声色を変えてきた。「そう怒るなよ。こう見えても、僕は探偵なんだよ。君がどんなことをして怪我をしたかなんて、お見通しさ。」「警察に連れてくの?!」 リサはやっと本当の声で話したようだ。
June 17, 2010
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いつものようにしばらくはぶつぶつと自分の不運を嘆いていたアンだったが、遠くから近づいてきた雨雲に追い立てられるように、早めに引き上げて行った。 チェックは、まだちょっと物足りなそうな顔をしながら、のろのろと家に帰っていった。オヤジ、家でもちゃんと食べてるんだろ? 老いてから太るとろくなことがないぜ。 家に戻ると、珍しくクレアより先にサムが出迎えてくれた。何かつかんだのか、サムはにやけて俺に早く2階に来いと合図をよこした。「グレン、驚くなよ。 とうとうメアリーとコンタクトが取れたんだ。例のコーヒー専門店に、メアリー自身も客として登録していたらしい、頼み込んで教えてもらったんだ。」 サムははしゃぎすぎて口角に泡が出ている。気持ちは分かるよ。メアリーから直接詳細を聞き出せたら、こんなに楽なことはないのだから。 夜になって、サムと一緒にメアリーの自宅に招かれた。小ぶりではあるが、きれいに整った家は、和やかな空気に包まれていた。「初めまして、サムと申します。実はリサさんのことで、教えていただきたくて…」 メアリーは前もってサムから用件を聞いていたのか、快く俺たちを迎え入れ、リサの変貌振りについて丁寧に話した。「紅茶でもどうぞ。私の知る限りのことをお話しましょう。あ、貴方がグレンね。ミルクはいかが? リサお嬢さんは、とても素直でお優しいお子さんでした。ご主人のアイスマン氏はとても頑固なところがあって怖そうに見えるのですが、実際は仕事熱心なだけなんだと思っています。奥様もお優しい方でしたし、リサお嬢さんは充分に愛情を受け取って幸せに暮らしてらしたのです」 サムは持ち上げたカップをもう一度テーブルに戻して不思議そうに尋ねた。「あの、無理やりやめさせられたってうかがったんですが、恨んでらっしゃらないんですか」「うらむだなんて…。確かに突然の解雇には納得がいきませんが、私にはわかるんです。リサお嬢さんが突然解雇を言い渡されたのにはきっと理由があるんじゃないかって…」 メアリーは解雇そのものより、それを言わしめた原因に注目しているようだった。「そうだわ!貴方は探偵さんだったんですよね。じゃあ、それを是非調べていただきたいわ。 リサお嬢さんのためにも、ジョンソンさんのためにも」「わかりました。では、解雇の日の出来事を教えていただきますか」 メアリーはその日を思い出しているのか、じっと目を閉じて考えた。そして、おもむろに目を開けて、話し出した。「私は、元々奥様のメイドとして、ご実家でお世話になっていたのです。まだ駆け出しのメイドで失敗も多く、奥様に助けていただく事も多かったです。その奥様がアイスマン家に嫁がれるということになって、私もご一緒することになりました。 その頃は、まだご主人様のお仕事も、そんなにお忙しいというほどでもなく、ご家庭は円満でした。 やがて、リサお嬢さまがお生まれになって、私はリサお嬢さんのお世話をするようになったのです。お嬢さんはとても愛らしいお子さんで、素直でやさしい女の子に育ってくださいました。 ところが、奥様が急にお体を悪くなさって、リサお嬢さんも随分心配していらしたのです。あれはいつごろだったかしら。チャーリーさんがあのお屋敷に働きにきた後だったと思うんだけど。。 そう、前の料理人のリーさんご夫妻はとてもいい方々だったのですが、ご不幸にもご自宅が火事に見舞われて、母国にお帰りになったのです。それでチャーリーさんがこちらに来られたんだったわ。あれは、3年ぐらい前かしら。 奥様が床に伏せていらっしゃる間、リサお嬢さんは少し塞ぎこんだご様子でした。それがあまりにも哀れで、私たち…、あのジョンソンさんと私で相談して、小旅行にお連れしたこともあったんです。」「お二人で、お嬢さんを?」 サムは遠慮のない質問をぶつけていた。 メアリーは、はっとして顔を赤らめてつぶやいた。「その頃、私とジョンソンさんはささやかながらお付き合いを始めておりました。いずれ結婚しようと約束していたのです。こんな形で実現するとは思いませんでしたが」 理解できずにいる俺たちに、メアリーはそっと隣のドアをノックした。しばらくすると、きゅっとタイヤのような音がして、車椅子に乗ったジョンソン氏がやってきた。「あの日のケガで、彼は下半身の麻痺と言葉の障害を負ってしまいました。でも、彼もお嬢さんのことをうらんではいないそうです」 サムは慌てて立ち上がり、ジョンソン氏と握手した。横で見ていても、彼がしっかりと意識を取り戻しているのがわかる。 ジョンソン氏は、画用紙にすらすらと何かを書き始めた。みんなはその作業が終わるのをじっと待ち、そしてうなずいた。『ようこそ。私はリサお嬢さんの背後にいる何かを突き止めていただきたい。あのお嬢さんは操られているとしか思えない。ブラウン氏が来て以来、アイスマン家は雰囲気が変わってしまった。』 突然、ジョンソン氏は頭を抱えた。メアリーは急いでジョンソン氏を隣の部屋に連れて行った。サムが手を貸して、ジョンソン氏は隣の部屋にあるベッドに移され、落ち着きを取り戻したようだ。「ジョンソンさん、私でよければお手伝いさせていただきます。今は無理をしないで、安静にしていてください。」 サムの言葉にジョンソン氏は深くうなずいた。再びもとの部屋に戻って新しい紅茶を入れると、メアリーは話を続けた。「とにかく、私たちはお嬢さんが元気を取り戻してくれる方法はないかと、よくそんな相談をしていました。そんなある日、お嬢さんが学校の宿題で親御さんのお仕事をレポートすることになったとおっしゃいました。私たちはもちろん、ご主人様がお帰りになるまでお待ちいただくように止めていたのです。ご主人様はその頃、お仕事で他国に買い付けにおいででした。3日後にはお戻りになると分かっておりましたし、ご主人の許可なしに、勝手にお部屋にお入りいただくことはできませんでした。ご主人様は貿易のお仕事をなさっておいでで、もちろん、やりとりの殆どはご主人様の会社の方で全部やってしまわれるようでしたが、取引上のお付き合いなどで夜昼構わずお仕事なさっているので、ご主人様のお部屋には大切な資料なども置いてあると伺っておりました。」そこまで一気に話すと、紅茶を一口飲み下して続けた。「ご主人様のカギは、ブラウンさんとジョンソンさんが持っていたのですが、どういうわけか、リサさんは別にもうひとつカギをお持ちだったようです。ご主人様のお部屋を出られたリサお嬢さんと、ちょうど廊下で鉢合わせになったんですが、とてもお顔の色が優れなくて驚きました。声をおかけしたのですが、そのままご自分のお部屋に駆け込んでしまわれたのです。」メアリーは、そのときのことを思い出したのか、深い溜息をついた。サムは、そんなことなどお構いなしで質問に入った。「他に、その時気づいたこととかないですかねぇ。」 メアリーはじっと考えをめぐらしていたが、意を決したように顔を上げた。
June 15, 2010
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静かだが、圧倒的な威厳をもった声だった。アンが申し訳ありませんと事情を説明したが、ブラウン氏の機嫌は簡単には直らない。「いや、本当に申し訳ありませんでした。しかし、ブラウンさんの身になにかあったのではと、心配していたのです。どうかお許しを」 サムが間に入って言うと、改めてじっとサムを凝視したブラウン氏が尋ねた。「あなたは?」 サムは一通りの自己紹介をしたが、ブラウン氏は子どものけんかに親が口を挟むなんてと呆れたようにつぶやくと、そのままきびすを返した。「あ、言い忘れていたんですが。ブラウンさん、変わったカフスボタンが落ちていましたよ。デスクに置いておきました」 サムはさりげなくそう言いながらブラウン氏の後姿を見送る。ブラウン氏はカフスボタンのことを聞いたほんの一瞬、顔をこわばらせた。「では、私はこれで。親御さんがいらっしゃらないのであれば、ご相談のしようもありませんのでね。しかし、リサさんは寂しいでしょうねぇ。娘にはその辺りの事情を話して、そっとしておくように話しておきます」 誰に言うともなくサムはそう言うと、さっさと屋敷を出た。申し訳なさそうに後からついて来ようとするアンを、ブラウン氏が呼びとめ自分の部屋に入るように言ったが、サムはまるで気づかない振りで自分の車に乗り込むと、さきのコーヒー専門店の傍まで来て車を止めた。 どうやら盗聴器を仕掛けてきたようだ。サムは慌てて機械を操作し、音声がきれいに受信できるように調整した。「すみませんっ!!」「すみませんで済む問題ではないぞ!リサお嬢様の事を心配するのはいいが、赤の他人を屋敷に入れるとはどういうことだ!私はアイスマン家の執事なんだぞ。この部屋にはご主人様のビジネスに関する書類もたくさんあるのだ。外部に漏れるようなことがあれば、ご主人様に迷惑が掛かるやもしれんのだ!」 小さな嗚咽が聞こえていた。アンが叱られて泣いているのがわかった。「可哀想に…」 サムは心配そうに聞きながら、車を出した。とにかくこの地域から出てしまわなくては怪しまれる。「申し訳ありません。でも、リサお嬢様のことが心配で。メアリーさんもいなくなってしまったし、リサお嬢様もあの日以来こちらにお戻りではないようですし」「あー、うるさい。リサお嬢様もお年頃なんだ。自由に活動したい年頃なんだろう。その内飽きられてご自宅に戻ってこられるに決まっているのだ。メアリーはリサお嬢様には厳しすぎたのだろう。亡くなった奥様でさえ、メアリーの厳しさには眉をひそめておいでだったのだ。とにかく、お前はリサお嬢様がお帰りになった時、不自由なく過ごせるように万事抜かりないよう整えておくのだ。いいな」「はい。わかりました。では、失礼します」 ドアを開ける気配がした。アンが部屋を出るのだろう。「ああ、アン。私はこれから急ぎの仕事があるので、用事は夕方から受け付ける。それまでは邪魔をしないでくれたまえ」「はい。分かりました。では失礼します」 バタンッとドアが閉まって、ブラウン氏の深いため息が聞こえた。「あぁ。なんだかアンに悪い事しちまったなぁ」 サムが堪らなくなって言ったが、俺にはその先のことが気になった。「ニャーオ!」 サムの腕に手を掛けると同時に、ブラウン氏のディスクの電話が鳴った。「どうした。こちらには電話するなと言ってあっただろう」 サムと俺は一瞬言葉を失った。さっきまでのブラウン氏とはまるで別人のような口調なのだ。「そうか、それはご苦労。ん、1万ドルぐらいになればいいだろう。欲を出すな。その辺りで手を打て。わかったな。…小娘?おい、ショーン!その小娘の名前は? ん~、分かった」 俺とサムは大きく頷きあった。やっぱりショーンたちには糸を引いている人間がいたのだ。しかしまさかそれがリサの家の執事だったとは。「帰ったらすぐ、ブラウン氏の過去も洗い出す必要がありそうだな」 サムはハンドルを強く握りながらつぶやいた。だが、そんなに簡単にわかるだろうか。アイスマンとて、そう簡単に執事を雇ったりはしないだろう。それなりに調べ上げたはずだ。ブラウンという名前だって偽名の可能性もある。 その後は、書類のこすれる音やキーボードを叩く音がしているだけだった。その日の夜、思いがけない連絡が来た。ロイドの展示会が大成功して、新ブランドを担当する事に決定したという。マージーは自分のことのように興奮していて、電話口にいない俺でさえ、電話の内容が手に取るように分かった。しかし、ロイドの方が落ち着いているという事は、キールとかいうインナー部門の連中は面白くないはずだ。キールとショーンがもし繋がっているとしたら、何も仕掛けてこないとも限らない。ここは警戒が必要だろう。 俺はすかさずキーボードに打ち込み、サムに代弁してもらった。マージーは納得した様子で、マリアやロイドにはよく話してみると答えていた。 次の週、俺は再び公園のベンチに居た。アンからの情報を得るためだった。しばらくすると、手芸屋のチェックがやってきた。「なんだ、今日はグレンもネコスナック狙いか?」「いやいや、そういうわけじゃないよ。もうすぐ来客かい?」 ベンチに上がってきたチェックは片目をつぶってにやりと笑った。俺はそんなチェックに場所を譲ってベンチを降りた。「お前もご馳走になればいいじゃないか」 チェックが気を使ってくれたが、俺が欲しいのはネコスナックではない。「気にしないでくれ。今日はのんびりできればいいんだ」 そんな話をしていると、道路の方からアンが歩いてくるのが見え、さっさとベンチの後ろに退いた。アンは先日と同じく元気の無い様子で、バスケットと水筒を抱えてやってきた。「こんにちわ、ネコ君。今日も付き合ってね」 アンはそういうと、先週と同じくベンチに腰掛けてバスケットからネコスナックを取り出してチェックに与えた。そして、またつらつらと、ささやかなグチをこぼしてみたり、チェックを抱き上げて遊んでみたりして過ごした。「ねえ、ネコ君。私ね、ちょっと気になる事があるのよ。実はこの前ね、お嬢様のお友達のお父様がお見えになって、ブラウンさんのお部屋に入ったんだけど、ブラウンさんのお部屋の背の高い本棚が、ちょっと変だったの。 詳しくは分からないんだけど、動かしたような傷が床についていたのよねぇ。でもあんな背の高い本棚、簡単に運ぶことはできないし、おかしいわよねぇ。もしかして、お隣のご主人のお部屋への秘密の通路だったりして! あは。そんなことはないか」 アンはちょっとおどけたように笑ってみたが、心の底からの笑顔ではなかった。アンには辛い状況だが仕方ない。しかし、本棚には気づかなかったなぁ。あの時、俺はソファのカフスに気をとられて本棚のそばまで足を踏み入れてはいなかったのか。 チャンスがあれば、もう一度調べてみたい場所だな。「それにしても、リサお嬢さんはどこでどうしていらっしゃるんだろう。。。」 すっきりと晴れたきれいな青空を仰いで、アンは大きなため息をついた。確かにリサの居所も気になるが、俺としては、なぜこんなに頼りなげなアンが採用されたのかも不思議だった。
June 15, 2010
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「おかえりなさい、グレン」 クレアが笑顔で迎えてくれたので、俺の気分もすっかりリセットされた。サムの部屋に戻ると、待ちかねたようにサムが迎えてくれた。「なあ、グレン。これからちょっと出掛けたいんだが、付き合わないか」 俺はパソコンに手を掛けたまま、首をかしげた。サムもすっかり心得たもので、すぐさま答えて来た。「アイスマンの屋敷だよ。ヤツの会社は健康食品の輸出入をやっている。だから世界中飛び回っている。さっきアンから連絡があって、今朝からアイスマンは海外に出掛けたらしいぜ。こういうときこそ、情報収集のチャンスじゃないか」 俺はすぐさまパソコンをリュックに入れると、サムの上着に飛びついた。 途中でちょっとしたケーキを手土産に用意して、豪邸の建ち並ぶ街中に入った。 サムが呼び鈴を押すとアンがやってきて、すぐに俺たちを屋敷の隣にある宿舎に案内してくれた。「ここでお待ちいただけますか。今は料理人のチャーリーさんと執事のブラウンさんしかいませんが、ブラウンさんはご主人がお留守の間、ご主人の隣の部屋でお仕事をなさっているのでお約束のないお客様は通さないようにと言われています。私より、チャーリーさんの方がお嬢様のことをよく知っていると思うので呼んで来ます」 そう言って、ぺこりと頭を下げると、アンはすぐさま厨房があるらしい屋敷の中に入っていった。そして、ほどなく年配の気弱な印象の男性を連れてきた。「はじめまして。私は、サムと申します。娘とこちらのお嬢さんが少し揉めているようで、心配しているのですが、なにかご協力いただけると嬉しいのですが」 サムは先に自己紹介を済ませて、右手を差し出した。「私はチャーリーと申します。こちらでは、もう長いこと厨房を任せてもらっています」 チャーリーは穏かな笑顔でサムの右手に答えた。「それにしても、リサお嬢さんはどうなってしまわれたのだろうねぇ。ご友人と揉めるようなことなど、今まで無かったのだが」 チャーリーは顔を曇らせた。「私がこちらに仕えるようになったのは、奥様が嫁いで来られる少し前でした。そのころは、私も見習いでよくご主人さまに叱られたものでしたが、奥様がなだめてくださることも多くて、なんとかここまで勤め上げることが出来ているのです。リサお嬢さんも、幼い頃は本当に子どもらしい愛らしいお子さんで、ご両親が仕事で海外に行かれるときは、いつも厨房に遊びにおいででした。それが、どういうわけか1年ぐらい前からでしょうか。お嬢様の様子がおかしくなってきたのです。補導されることもしばしばで、マスコミに見つからないように、ご主人様は相当な額を使って口止めされていると聞きました」「それなら、私、メアリーさんから聞いたことがあります」 アンが急に思い出したように立ち上がったので、テーブルの紅茶がぐらっと揺れて、危うくやけどをしそうになった。「ご主人様のお仕事に対して、リサ様は納得できなかったんだろうって。メアリーさんもそのことには心底心を痛めていました。 なんでも、学校で世の中の仕事についてレポートを書いていらっしゃるとき、お父様のお仕事も取材したいって、ご主人様のお留守にお部屋に入られたのだとか」 横で聞いていたチャーリーが首をかしげた。「おい、ちょっと待ってくれ。じゃあ、うちのご主人様のお仕事に何か問題があったってことかい」 その質問に、アンは答えることができなかった。「わかりません。でも、その日を境にリサ様の様子は少しずつ変わっていったとメアリーさんから聞いています」「アン。ご主人様に失礼なことを言うもんじゃない。メアリーはご主人様のお仕事のことなど知らないんだ。」 そう言いながらちらっとサムを値踏みしているのがわかった。「とにかく、このことがブラウンさんの耳に入ったらどんな罰を受けることになるかわかったもんじゃない。くれぐれもブラウンさんの部屋に近寄るなよ」 これはどうやらご主人様の書斎を調べる必要がありそうだ。俺はサムに目配せして、チャーリーには適当に礼を言って部屋をでた。中庭まで見送ってくれたアンが急に声をかけた。「やっぱり、一度ブラウンさんにお尋ねしてきます。ブラウンさんなら、ご主人様とも親しくなさっていましたので」 どうやらアンにはチャーリーの言う事が伝わっていないらしい。いや、これぐらいの神経でないとこのお屋敷では勤まらないだろう。慌てて屋敷の中に入って行ったアンだったが、ほどなく首をかしげながら戻ってきた。「あの、さっきブラウンさんにご都合を伺おうと思ったのですが、何度ノックしてもお返事がなくて…。お車もありますし、お出かけの様子はないのですが」どういうことだ。外出していないのに、ノックに反応がないって? サムがちらっと内ポケットの俺を見た。「もしかして、中で具合が悪くなってらっしゃるんじゃないでしょうねぇ。とりあえず、ブラウンさんのお部屋まで案内してもらえますか」 サムはそう言ってアンに道案内を頼んだ。天井の高い廊下をコツコツと靴音が響く。随分古い作りだが、がっちりと重厚な感じの建物だ。こういった建物には、古くから隠し扉や一般には公表していない地下室なんかがあるもんだが、ここはどうだろう。「ブラウンさんのお部屋はこちらです」 アンはそういうと、すぐさまドアをノックした。しかし、やはりブラウン氏の返答はなかった。「ブラウンさんはお若い方ですか?それとも、ご年配で?」 サムが心配そうに囁くと、アンは急に不安になったのか、思い切ってドアを押し開けようとしたが、中から鍵がかかっているらしく、ドアはびくともしなかった。「ブラウンさん、大丈夫かしら・・・。あっ、そうだわ」 アンは突然何かを思い出し、今来た廊下を駆けていった。そして、なにやらカギの束を持って戻ってきた。後からチャーリーも追いかけてきた。「ブラウンさんの様子がおかしいんだって?」 チャーリーは心配そうにこちらに質問を投げかけたが、サムと俺は逆に面食らってしまった。「返事がないんです。でも中から鍵が掛かっていて…。と、とにかくあけてみますね」 アンはそういいながらすでにカギを差し込んでドアを開いていた。 ブラウン氏を助けようとチャーリーが一目散に駆け込んだ。続いてアンが奥へと駆け込んだが、部屋の中には誰も居なかった。 サムが遠慮気味に部屋に踏み込むと、俺も床に降りてそそくさとその後に続いた。古い建物だが、重厚な家具がとてもしっくりと馴染んでいた。ドアを入って正面にメインディスクがあり、右手にはソファ、左手には背の高い本棚があった。品のいいレースのカーテンの向こうには華やかな春の草花が咲き乱れているのが見える。 チャーリーが室内を一回りして確かめたが、変わった様子もなかったので、とりあえずそこにいたみんなは外に出ようとしていた。 サムの後に続いて廊下に向かっていた俺は、ソファの下に何かが光っているのが見えた。カフスボタンだった。 前足を使ってじゃれるように転がしてサムに声をかけた。「なんだ、グレン? こんなのが落ちていたのか?」 サムはしゃがみこんでカフスボタンを拾い上げると、デスクの端に置きなおした。「さ、みんな外に出よう。ブラウンさんはきっと、他の用事に出かけているんだろう。勝手に部屋に入ってしまって、申し訳なかったね」 サムの言葉にアンが何か申し訳なさそうに言い訳しようとしたとき、その後ろで気配がした。ブラウン氏だった。「君たち、どういうつもりで他人の部屋に入っているんだ!」
June 12, 2010
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「おいおい、勝手に決めつけないでくれ。あいつはうちの斜め向かいに引っ越してきた新入りだよ。今始めて挨拶されたばかりさ」 チェックはその答えがさも不満そうに首を横にふった。「だめじゃねえか。時は春。正に恋ののシーズンなんだぜ」 すっかり年老いたチェックには縁のない話のようだが、それは俺にとっても大問題だった。なんとか気持ちをそらすようにしないと、どうも意識がそっちの方に向いてしまうのだ。あと2,3日もすれば忘れてしまえるのに。「ははは。確かにそうだが、俺はこれでも理想が高いんでね。相手はじっくり選ばせてもらうよ」 俺は、まるで気にしていないような素振りでそう言うと、かるくしっぽを振って見せた。だが、長年ネコ人生を歩んできたチェックにはやせ我慢に映ったのだろう。軽く首を横に振って哀れむように笑った。「そうそう。お前さんが来ない間に、この公園におもしろい常連ができたんだぜ。まあ、ネコじゃないんだがね。興味があるなら明日の昼過ぎにここに来るといい。人間の世界にもいろんな奴がいるんだな」 チェックは思い出したのか、口角を上げてかすれた声で笑いだした。明日の午後か、念のため親父に付き合ってみよう。 翌日、チェックの言うとおり公園に出てきた俺は、意外な人物に遭遇した。アイスマン家のメイドをしているアンがやってきたのだ。 アンは日の当たるベンチを見つけると、ゆっくりとため息をつきながら近づき、どさっと座り込んだ。自分の横に持参してきたバスケットを置き、中から水筒を探し出すと、ゆるゆるとカップに茶色の液体を入れる。公園中央の噴水の縁にいた俺にも、それがコーヒーだとすぐに分かった。隣に座っていたチェックが、ちらっと目配せすると、さっさとアンに近づいて甘えた声を出した。アンも知っているネコを扱う様子で、チェックをすんなりと抱き上げてベンチの自分の横に座らせると、バスケットの中から小さなネコスナックを出してチェックに振舞った。なにが面白い人間だ。結局ネコスナックにたかっているだけじゃないかと、俺が後悔し始めたとき、ブツブツとアンがつぶやいているのが聞こえた。「はぁ。私はどうなるのかしら。アイスマン家はお金持ちだからいいお仕事だって聞かされて応募したのに、とんでもない家だわ。頼りにしていたメアリーさんはクビになっちゃうし、お嬢様はちっとも家には戻ってこられないし。ねぇ、あなたどう思う?アイスマンさんって、どっかの一流企業の理事をしているらしいんだけど、すごく変な人なのよ。仕事から戻られたら、すぐさま自分のお部屋に入ってしまって、殆ど出てこないの。それに、メアリーさんには最初に言われたの。ご主人が自宅にいらっしゃるときは静かに歩くようにですって。あと、ご主人のお部屋には近づかないようにっとも言われたわ。おかしいでしょう? もしかして、あのご主人って幽霊か何かなのかもしれないわ」 チェックは次のネコスナックほしさににゃあと鳴いていた。まったく、いい親父がよくやるよ。俺はそっと公園の脇に進み、そこから遠回りでアンの座っているベンチまで回りこんで、そっとベンチの下に寝そべった。うまいコーヒーの香りが漂って、俺にはそれだけで充分に心地よかった。「それにね。時々だけど、ピーピーって、機械みたいな音がしていることもあるの。ご主人がいないときでもよ。なにやっているのかしらねぇ。料理人のチャーリーから聞いたんだけど、あのアイスマンって人は過去には相当悪いこともしていたらしいわ。チャーリーのお父さんのお友達がアイスマンって人の部下だったらしいけど、あんまりひどいことするからって、会社を辞めたんだって。よその会社にスパイを送り込んだり、情報を幹部に売りつけたりしたらしいわ。それに当たり屋まで使ってよその会社の人を陥れたりしていたらしいわよ。そんなことしていてお金持ちになったってだめよね。案の定、奥様は病気で亡くなったし、お嬢様は家出されてお戻りにならないし、結局あの広い屋敷に一人ぼっちよ。哀れだわ」 アンはブツブツとチェックに話して聞かせながら、次々とネコスナックをチェックの口に入れ、自分はサンドウィッチやバナナを食べると、もう一度カップにコーヒーを注いだ。「あら、もうネコスナックが無くなったわ。ごめんね、ネコ君。また今度の休みにも愚痴聞いてちょうだいね」 アンのその言葉を合図に、チェックはすっとその場を離れて歩きだした。公園の脇まで来たとき、チラッと振り返って俺にだけわかるようにじゃあなと挨拶して去っていった。「はぁ。それにしても私はどうしてあげればいいのかしら」 アンは最後のコーヒーを飲み干したのかカップを水筒にセットして、バスケットの中身を整えるとまたとぼとぼと歩き出した。アンにはアイスマンの家は合わないな。しかし今回だけはがんばって手伝ってもらわないといけない。よろしく頼むとしよう。 チェックの言うおもしろい常連も確認できたので、俺はサムの家に戻る事にした。 サムの家を目前にして、昨日出会ったケイトが表れた。「貴方、いつもここの住人と何か仕事でもやっているの?」「ああ、探偵業さ。今までの仕事も続けている。パソコンとデータがあれば、なんとかやりくりできる仕事なんでね。ここでは一応俺は飼い猫ってことで通ってる。俺は猫になって2年だが、人間とはパソコンで会話しているんだ。もちろん、限られた人間とだけだがな」 ケイトは呆れたように眉をひそめた。「猫になってまで、ワークホリックってわけ?」「なんとでも言えばいいさ。俺は自分を必要としてくれる仕事仲間がいる限り、仕事は続けるつもりさ。君はすっかり猫の生活に馴染んでいるってわけかい?」 俺は、どうもこのケイトという人物が気に食わなかった。初めてみたときから、こちらを見下げているというか、小ばかにしているような印象を受けてしまう。「しょうがないでしょ。飼い主が大変な猫好きなのよ。健康管理や美容にも時間とお金を使ってくれているわ。私は猫のコンクールで優勝したこともあるの。自分の動きが常に視線を集めているってことを意識しながら生きてきたわ。まあ、その辺りは人間の頃と同じだけど。おかげでいろんな国を回ったわ。」ケイトは晴れ渡った空を見上げてつぶやく。「だけど…だけど、どうしても人間に戻るヒントを見つけることが出来ないのよ。調べ物をしたくても、そうそう自由な時間もないのよね。貴方はそのままで良いと思っているわけ?」 ケイトはやや神経質に眉間に皺を寄せて早口で捲くし立てた。それは、人間に戻れないことへの焦りの表れだろう。俺だって、諦めてしまったわけではない。だけど、どうすることもできないんだ。こういうときは、チャンスが訪れるのを我慢強く待つしかない。「思っているわけないさ。だけど、今は自分に出来ることをやるしかないじゃないか。いつか人間に戻るヒントが見つかったら、ケイトにも知らせてやるよ。じゃあ、俺は仕事があるんで、失礼するよ」 まったく、ケイトというヤツはどんな人間だったんだ。高飛車で傲慢で、ろくな女じゃないな。俺はさっさとケイトの横をすり抜けて、サムの家に入って行った。
June 10, 2010
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「ああ、いつもの奴ですね。あなたはアイスマン家のメイドさん? 最近お見かけしませんが、ジョンソンさんやメアリーさんはお元気ですか?」「あ、あの。私は昨日から勤め始めたメイドのアンです。メアリーさんは、昨日お嬢様に解雇されてしまわれました。ジョンソンさんはその事で揉め事に巻き込まれてお怪我をなさって、今は自宅療養中だとうかがっています。はぁ。初日から大変な事件が起こって、私はもうどうしていいのか分からなくなっているのです。あのお宅は以前からあんな風なのですか?」 アンは今にも泣き出しそうな表情で店の主人に尋ねた。「何があったのか分かりませんが、普段は落ち着いた静かなお屋敷ですよ。こちらの店はよく使っていただいていますが、家の中で揉め事など、聞いたことはなかったんですが。それに、お嬢さんは愛らしくて子供らしい方だったのですがねぇ。やはりお母様がお亡くなりになって、変わってしまわれたのでしょうかねぇ。メアリーさんはリサ様の家庭教師として来られたそうですが、生活面でのお作法もきちんとご指導なさっていて、奥様がお元気な頃は、よくメアリーさんのことを褒めていらしたものです」 店の主人の話を聞いて、一層アンは落ち込んだ。それをみた店の主人は急いでそんなアンを励ました。「まあまあ、そんなにしょげないで。お嬢様はきっと反抗期に入られたのでしょう。だけど、お嬢さんはほんとは気持ちのお優しい方なんです。そばにいて寂しさを少しでも拭ってあげられたら、お嬢様もきっと元のような明るいお嬢様に戻っていかれるでしょう」「ありがとうございます。お嬢様に信頼してもらえるようにがんばってみます」 アンはコーヒー豆を受け取ると、とぼとぼとアイスマン家に向かって歩きだした。サムはゆっくりと立ち上がると、店の主人に礼を言ってさっそうと店を後にした。店の前の道路を少し行って曲がったところでアンに追いついた。サムはすぐさまアンのすぐ横に車を着けると、自ら車を降りてアンの前に立って頭を下げた。「アイスマン家にお仕えの方ですか? リサさんのことで少しお話をお聞かせいただきたいのですが」 アンはすぐさま周りを確かめ、誰にも見られていないと分かると急いでサムの勧める車に飛び乗った。「うちの娘がリサさんと揉め事を起こしているらしくて、どうやって二人の仲を修復させようかと困っているのです。少し協力してくださいませんか」 アンはさっきのコーヒー専門店の主人に励まされたばかりで、リサを元に戻すためならと快く承諾した。「まったくサムには驚かされるよ。まさかあんなところでアンを買収するとはね」 サムの自室に戻って、俺はどうどうとキーボードを打てる環境を得ると、すぐさま言いたかった一言を打ち込んだ。「はっはっは。なかなかやるだろ? うまい具合に店長が励ましてくれたもんだからね。これはいいって思ったんだよ」 サムがご機嫌で話していると、部屋のドアがノックされた。「ご主人様、コーヒーをお持ちしました。このコーヒー、随分と上等なんでしょうねぇ。コーヒーを入れているだけでうっとりしてしまいましたわ。ほほほ。はい、グレンにはこちらね」 クレアが笑いながら俺のトレイにホットミルクを流しいれた。しかし俺はそれだけでは満足しない。さっきサムと約束したのだから。すばやくテーブルに上がると、コーヒーポットに前足を掛けて甘えるようにニャアと鳴いて見せた。「まあ、グレンにもこのコーヒーのおいしさがわかるの?ほんとに賢い子ねぇ」「さっきコーヒー専門店でカフェオレをごちそうになって、すっかりコーヒー好きになったらしいんだ。次回からはカフェオレにしてやってくれるかい?」 サムが楽しそうに言うと、クレアも快諾してくれた。よしっ!これでうまいコーヒーが飲める!喜んでいると、ふと視線を感じて窓を見上げた、斜め向かいのシャムネコだ。ふん、またしても俺を小ばかにするつもりか。お前になど興味がないことをしっかり分からせてやる。俺はすぐに視線をはずし、自分の毛並みを整えた。窓辺におかれた小さなミラーから俺の背後にいるシャムネコの様子がみてとれた。俺がしらんぷりを決め込んだのを確認すると、ぷいとそっぽを向き、どこかに行ってしまった。 翌日はサムも本業に出掛け、俺は遅い朝食の後、いつもの公園に向かった。手芸屋のネコ、チェックは公園の入り口に近いベンチにいたが、すでにぐっすりと眠り込んでいたので声をかけずに通り過ぎた。今日は新緑が美しい花壇のそばに陣取るとするか。俺は日の当たるベンチを見つけると、そこにゆっくりと体を横たえた。土曜日の朝ということもあって少しは人気もあるが、それでも静かなものだ。見上げると春霞の空に新緑がまぶしい。今週は本業と探偵稼業で忙殺されたのでここに来るのは久しぶりだ。いつきても穏かな気持ちにさせてくれるこの公園は、俺の憩いの場所だ。「ねえ。貴方、人間でしょ?」 俺はうとうとし始めていた頭を覚醒させるのに手間取って、その言葉が天から降ってきたように感じた。「どこ見てるのよ。私は目の前にいるわよ」 やっと目が覚めて、目の前のシャムネコに気がついた。足音も気配もすっかり消していたのだろう。いつ近づいてきたのか俺にはまったくわからなかった。「君は?」「私はケイト。人間よ。二年前のハロウィンの夜、見たこともない小さな死神が突然訪ねて来て、気がついたらこんな姿になっていたわ」 ケイトはいつのまにか俺の隣に座って、まっすぐに公園中央になる噴水を見つめたまま語った。二年前のハロウィンか。俺と同じ境遇の人間が他にもいたとは驚いた。俺は突然現れたシャムネコの次の言葉を待った。「よぉ!グレンじゃねぇか! 久しぶりだなぁ」 さっき熟睡していたチェックが目を覚ましてやってきた。「へぇ。お前さん、ちょっと見ないと思ったら、ちゃっかりこんな彼女を作ってたのかい。うらやましいねぇ、若い奴は」 チェックはさっそくケイトを品定めした。ケイトは汚らわしいものでも見るように一瞥をくれてやると、さっさと公園から出て行ってしまった。「待てよ、姉ちゃん。邪魔するつもりはないよ」 チェックはケイトの後姿に叫んだが、ケイトは振り向くこともなく公園の出口まで行くと、ちらりと俺に視線を送って自宅のほうに向かって行った。
June 9, 2010
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「ほら、グレン。今日はおいしいおやつがあるわよ。斜めお向かいに先週越してこられたご家族もネコを飼ってらっしゃるんですって。仲良くしてあげてね」 カリカリのネコスナックをトレイに入れながら、クレアはまるで母親のように俺に諭した。俺はさっそくそのネコスナックを楽しむと、さっさと窓辺に陣取った。春の日差しがぽかぽかと俺の背中を暖めてくれる。この窓辺は、最近の俺のお気に入りの場所だ。 斜め向かいのネコか。どんなやつだろう。気が合う奴だったらいいのだが、ネコというやつはそれぞれ個性的でなかなか犬のように馴染もうとはしないのがやっかいだ。ちらりと見上げると、斜め向かいの2階の窓辺に手入れの行き届いたきれいなシャムネコが座っていた。俺の視線に気づいたのか、小首をかしげて俺の方を見下ろしている。パッと見た瞬間に、俺は2年前に失踪した大物女優のエリザベス・クリスを思い出した。優雅で、気品に満ちた感じが良く似ていた。俺は、ネコ流の挨拶でゆるくしっぽをふり、声を出さずににゃあと口をあけた。だがそのシャムネコは、ふっと視線を下ろしただけでけだるそうに横を向いてあくびをすると、さっさとその場を立ち去った。 なんだ、随分愛想のないネコだな。新入りなら新入りらしくもうちょっと可愛い素振りでも見せればいいものを。そんな気分のまま自分もサムの下に戻った。ロイドが帰るところだった。「ありがとうございました。お蔭様で、やっと自分を取り戻すことができそうです」 照れくさそうに頭を下げながら言うと、ロイドは帰っていった。きっと展示会に力を入れなおすために会社に戻ったのだろう。「グレン、やっぱりお前の見込んだとおりだったな。ロイドはこのまましばらくはおとなしくしておいてくれるそうだ。俺たちが動かぬ証拠をつかむまではね。その後のことは奥さんと相談して決めるそうだ。まあ、仕事はこのまま続けるだろうけどね」 自室にもどったサムが、俺を抱き上げて報告してくれた。「では、どこから始める? ショーンはプロだからなかなか尻尾をつかませてはくれないだろうから、あのリサって子から探ってみるかい?」 俺が画面に打ちこんでいる横からサムは頷いていた。 「うん、やっぱりそれしかなさそうだな。まずは家庭訪問と行きますか」 サムはすぐさま上着を取り出して車庫に向かった。俺も携帯バッグにパソコンを入れると、すぐに追いかけた。 リサ・アイスマンの家は高級住宅地の中にあった。サムはひゅーっとおどけて口笛をふいた。「飛んでもない豪邸が並んでいるな。 家の主に会える確立は5パーセントもなさそうだ」「だけど、使用人のほうが口は軽いじゃないか。これはラッキーと取るべきだ」 サムは俺の打ち出した言葉を眺めると、しげしげと俺を見つめてつぶやいた。「お前ってネコらしくないネコだな。タディとしゃべっているみたいだ。まあ、長いこと飼われていたのなら、そういうものなのかもしれんな。おっと! ここだ!」 軽口をたたいて危うくアイスマンの家を通り過ぎるところだった。 わざと正面の門を通り過ぎ、長い塀をすぎてから一筋曲がって車を止めると、サムはわざわざ地図をひっぱりだして広げだした。「さて、どうする? 随分とごりっぱなお宅だが、突然現れた見知らぬ客にあれこれぺらぺらとおしゃべりするほど、この家の使用人は低俗ではなさそうだが」 サムはときどき地図を指差しながら、下を向いてつぶやいた。ここまでくると、当然防犯用のカメラがあることは意識しておかないといけない。俺は助手席に放り投げられたサムの上着の下に隠れてキーボードを叩いた。「ここの使用人が買い物に出るのを待とう。この家から離れたら、少しは警戒心も薄れるだろう。リサのクラスメートの親という設定が無難じゃないか? 少し口げんかしたようなので、とでも言って同情をかえばこっちのものだ」「まったく、お前ってやつは…」 サムは呆れて言う。そして、しばらく地図をみていて納得した様子でまた地図をたたみ、運転を再開してつぶやくように言った。「この先に自家焙煎のコーヒー専門店がある。隣には紅茶の専門店もあるからそっちにでも行ってみるか」 賢明だろう。ついでだからそちらでうまいコーヒーでも飲んでいきたいぐらいだ。「なあ。ついでだからちょっとうまいコーヒーでも飲んでいくか? ゲージに入れよ。ホットミルクぐらいごちそうするよ」 サムも同じことを考えていたようだ。俺はおとなしくゲージの中に納まると、薫り高いコーヒーの館に移動した。 ラッキーなことに店の主人は大変なネコ好きで、ゲージを持って入ってきたサムを快く窓際の席に通してくれた。そして、サムの注文と一緒に俺用のホットミルクとネコスナックまで用意してくれた。「ネコ君、もしよかったらうちのコーヒーを入れてあげようか?」 店の主人はコーヒーがたっぷり入ったガラスの器を見せて声をかけてきた。もちろん俺はご機嫌でニャーと鳴いてみせた。店の主人はとても楽しげに笑うと、ホットミルクにほんの少し極上のキリマンジャロを入れてくれた。「うちのネコもコーヒー好きでね。飼い主に似るらしいですよ」 サムは納得した様子で、答えていた。「なるほどね。こいつの本当の飼い主も大変なコーヒー通なんですよ。明日からはクレアにカフェオレを作ってもらおうな」 後半をゲージに向かって言ったので、俺はご機嫌でのどを鳴らした。 カランっと明るい音がなって、店の客が入ってきた。二十歳前の華奢な女性で、こぎれいなメイド服を着ていたが、どうも最近メイド勤めを始めたばかりなのか、弱りきった様子で店の主人に声をかけた。「あのぉ。アイスマン家のご主人様からキリマンジャロとブラジルとハワイコナを生豆で分けていただくように言われたのですが」 店の主人はアイスマンと聞いて眉をひそめた。
June 8, 2010
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サムの家に帰る前に、ロイドの車の状態を確認しに行った。穏かなロイヤルブルーの車の側面、低い位置にかすかなへこみとこすれた後があった。ひき逃げでもやったのかと思っていたのだが、それは違うようだ。このへこみ方なら、駐車中になにかがぶつかったぐらいだろう。 サムの家に着くと、クレアがあたたかいミルクを差し出してくれた。「おかえりなさい。グレン。 温かいミルクをどうぞ。あら、なんだか浮かない顔ねぇ。どうかしたの?」 クレアはそっと俺の頭をなでながら言った。まったくクレアの勘のよさには頭がさがる。サムの部屋に戻って犯罪者リストを検索した。サムが警備関係の仕事をしているお陰で警察からの情報提供が受けられたのだ。黙々とチェックしていると、さっき漆黒の高級車に乗っていた男をみつけることができた。ショーン・シモン、当たり屋のコーディネイターだ。そうか、やっぱり車がらみだったか。画面を進めていると、突然犯罪者リストには不似合いな顔が現れた。まだ幼さの残る顔は今日レストランで見たあの少女のものに間違いない。リサ・アイスマン、16歳。スリ、恐喝、売春補助、数えたらきりがない。いやな奴に目を付けられたもんだ。この少女もロイドのこととかかわっているのだろうか。 サムが部屋に戻ってくると、すぐさまショーンとリサのことを話した。リサについてはあまり乗り気ではなかったが、ショーンに関しては身を乗り出してきた。「旦那様、お客様がお見えですが」 クレアがちょっと戸惑った様子で声をかけてきた。サムと一緒に階下に下りてみると、そこには鼻息を荒くしたロイド本人が立っていた。「なにをかぎまわっているんだ! 僕のことを調べているのはどうしてなんだ!」 サムの姿を見つけると、ロイドはすぐさますたすたとサムに歩み寄り、その胸倉をつかんで叫んだ。「おいおい、そんなこと急に言われても困るよ。まずは落ち着いて事情を話してくれないか」 サムは胸倉をつかまれたまま穏かに言うと、奥のソファへロイドを誘った。 ロイドは少し落ち着きを取り戻し、悪かったといって勧められたソファに腰掛けた。すかさずクレアが薫り高いコーヒーを持ってやってきた。もちろん俺へのミルクも忘れない。「すまない。ある人物から君たちが僕のことを調べて回っていると忠告されたもので…」 ロイドはバツが悪い様子でうなだれたままそう言った。「いや、気にしないでください。俺たちが調べ物をしていたのは事実だし、それがロイドさんの近くで起こっていることについてであることも事実です。申し訳ないが、それ以上のことを話すかどうかは依頼人の許可をもらってからになりますが」 サムは襟元を整えてなんでもないように言った。「これは依頼と関係のない私の意見なのですが、ロイドさんが今関わっている連中は癖が悪いですよ。どういういきさつで付き合っているのかは知りませんが、早く手を切ることをお勧めします」 ロイドは大きくため息をつくと、辛そうに言った。「連中って、どういうことですか? まぁ、確かに、できることならすぐにでも縁を切りたい人物はいます。だけど、どうすることもできないのです」「もしよかったら、私たちにお話ください。力になりますよ。私たちが知りたいのは奴らの最近の動向なんです。こちらにとっても情報が得られるわけですから、とても助かります」 サムはちらりとこちらをみて目配せすると、さも心配そうにそういった。 ロイドは戸惑った表情でしばらく考えてから、決心したようにサムに向きなおした。「やっぱり聞いてください。実は…」 ロイドの話は俺のいやな予感を的中させるものだった。いや、少しは外れているものもあったが、大筋で的中だ。何日か前に展示会場の視察に出掛けた帰り、道路を横断しようとした老婆に接触してしまったという。そして、一緒に居合わせたその老婆の息子夫婦から脅迫されているというのだ。「普段から安全運転には自信があったんですが、あの日はうちの部にとって大きなステップアップになる展示会の下見だったので、気持ちが高揚していてまったくおばあさんの存在には気づいていませんでした。息子さんがおばあさんをかかりつけの病院に運んでくれましたが、おばあさんの命を助けることはできませんでした。何度もそのおばあさんのご自宅に謝りに行きました。しかし、慰謝料は受け取ってくださったものの、息子さん夫婦やそこのお嬢さんにまで恨まれてしまって…。おばあちゃんの命を奪っておきながら、平然と仕事をしているなんて許せない。勤め先にこの事故のことを言いふらしてやると脅されて、もうどうしていいか分からなくなっているのです」 俺はサムのズボンのすそを引っ張ってするどく鳴いた。これはサムとの合図で、話があるからこっちにこいという俺の意思を伝えるものだ。「なんだよ、ミルクのお変わりかい? ロイドさん、ちょっと待っててくださいね」 サムはそういうと俺を抱き上げて部屋を出た。俺はすぐさまキーボードを叩いた。「サム、ロイドにショーンやリサの顔を見てもらって確認してくれ。それから、ロイドが接触したのが本当におばあさんだったのかどうかもな」 サムは了解したと短く答え、すぐにパソコンを抱えてロイドの前に戻ってきた。「ちょっとこれを見てもらえますか?」 サムが画面にショーンとリサの顔写真を映し出すと、ロイドはひどく驚いたように画面にしがみついた。「どうしてこの人たちの写真を持っているのですか。こちらがその息子さんで、そのとなりにいるのがお孫さんなんです」「彼らは犯罪者リストに載っている人物ですよ。ロイドさん、1つ質問なんですが、あなたが接触したのは本当におばあさんだったのですか?」 ロイドは質問の意味を理解するのに少し時間を要した。「そういわれてみれば、おばあさんが倒れたとき息子さんがすぐさま助け起こして自分の車に乗せてしまったので、おばあさんだったのかどうか、どれほどの怪我をなさったのかを確かめる暇はありませんでした。ただ、息子さんの奥さんが、おばあさんが死にそうだとひどく混乱した様子で泣き叫んでいたので、こちらもパニックに陥ってしまって…」「息子さんの奥さんはどんな人でした?」「そうですねぇ。車の窓越しだったのでよく見えませんでしたが、すこしぼさぼさした巻き毛の赤毛の女性でした」「そちらも調べてみましょう」 サムは画面を動かしてそれらしい人物を探し始めると、ロイドが叫んだ。「この人です! この人に間違いありません。今思い出したんですが、目の下にひどいクマがあったのと、頬骨が浮き出ているのとで、彼らの生活状況が気になっていたのです」「ロゼッタ・マイヤー。やっぱり犯罪者リストに載っていましたね。詐欺の前歴があります」 ロイドは体の力が抜け落ちたようにソファに座ると、天井を見上げてああっとため息をついた。やっと嵌められていたことに気がついたのだ。「お聞きしてもいいですか? ロイドさん、あなたはその事故の時、なにか落し物を拾いませんでしたか?」「落し物? ええ、その事故のときおばあさんが落とされたものらしいスカーフがありましたので、それは拾いました。今は家のクローゼットに置いたままです。後で謝りにいくとき渡そうと思っていたのですが、いつも門前払いで部屋には入れてもらったことがなくて。そうか、彼らが詐欺師だったなら、家に入れてもらえないのも頷ける」 サムは納得顔で俺を振り向くと、今後のことについてロイドと相談し始めた。俺は興味なさそうな態度でキッチンに向かうと、クレアにミルクのお変わりをねだることにした。
June 6, 2010
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ハロウィン キャッツ 2 俺の名前は高井忠信。本来は人間だ。二年前のハロウィンの夜、出張先のコンドミニアムで小さな死神と出会い、ネコの姿に変えられてしまった。 最初のうちは驚きと戸惑いに満ちた日々を送っていた俺も、今ではすっかりネコ業が板についてきた。飼い主として名乗りを上げてくれたサムは良い奴だし、仕事仲間のマージーも申し分ない。それに、マージーは俺がネコの姿になってグレンという名前で存在していることを知る、唯一の人間なのだ。サムは、本来は俺やマージーが勤務する会社の警備を担当する外注スタッフなのだが、半年ぐらい前から探偵業を副業にするようになった。もちろん、俺がその一翼を担うことを計算に入れているようだが。S&U社の社長に就任したマージーも、前の会社乗っ取り未遂事件でのサムの働きを知っているので協力的で、時々は仕事を取り次いで来てくれたりするのだ。 社内で開発された新商品の発売が開始されて一段落したある日、マージーから探偵業の依頼を受けた。マージーのプライベートな親友、マリアの夫に異変が起こったというのだ。マリアは学生時代からの恋愛を成就させて結婚。幸せな家庭を大切にしながら仕事をしている女性で、独身のマージーはマリアのことを、女性としての幸せを実像にしたような女性と羨んでいたほどだ。その夫が、最近落ち着かないという。サムはさっそくオフィスにマリアを招き、その詳細を聞き出した。 実直でおだやかなロイドは最高のパートナーなのだと、ソファに座るなりマリアはきっぱりと言い放った。お互いを干渉しすぎず、高めあい、尊敬し合っていると胸を張って言える間柄だったそうだ。ところが、最近ロイドは何をするにも上の空で、マリアの顔を正面からみることすらしなくなったという。それにかかってくる電話のことばかり気にしているとも。 他にマリアが気づいたことといえば、ロイドにはめずらしく車のボディーをどこかで少しこすっていたということと、見慣れないスカーフをクローゼットに仕舞い込んでいることぐらいだった。 サムはすっかり浮気だと決め込んで、俺に向かって肩を上げてみせていたが、俺はどうも釈然としない。とりあえず数日間張り込んで、ロイドの様子を伺うことになった。「グレン。マリアさんには悪いが、これは浮気だな。お前たちネコの世界にもそういう問題はあるのか?」 冗談じゃない。俺は元々人間だったんだ。そんなネコの世界なんて知りたくも無かった。しかしサムは、マリアが帰ってしまったのをいいことにいやらしい視線を送ってきて俺をげんなりさせた。「実直なロイドが浮気するだろうか? それより車の傷が気にならないか?」 俺が肉球でキーボードを叩き終わる前に、サムは軽く笑い飛ばした。「そこからなにか大きな事件が起こってるとでもいうのか? そんなドラマみたいなことがそう度々起こるわけがないよ。浮気だよ。見慣れないスカーフが決定的な証拠さ。マリアさんは今まで夫婦仲がよかったから、この事実を受け入れられないんだよ」 大きな手のひらで俺の頭をがしゃがしゃっと撫でると、サムは笑いながら言い放った。「いや、ここは慎重に行こう」 俺がそうパソコンに打ち出しても、もうそこにサムの姿はなかった。う~ん、こういうとき、言葉がしゃべれないというのは不便だ。俺はすぐさま電源を切って、自分のコーナーにある携帯用のリュックを運び出した。これはサムが特別に注文して作らせた俺専用の小型ノートパソコンの携帯リュックだ。背中に乗せてベルトの輪をくぐれば、後は紐を引いて体に密着させるようになっている。階下でサムの声がした。急がなくては。 サムの車が到着したのはランチタイムでにぎわうビジネス街のレストランの駐車場。ロイドはいつもこのレストランで昼食を摂っている。車の中で待機していると、うまい具合にロイドが仕事仲間となにやら話し合いながらやってきた。いよいよかと思っていると、急に隣に駐車していた漆黒の高級車が動き出した。「ん? ロイドの隣に車が留まったぞ。え、車に乗るのか?」 サムが驚いている間に、ロイドは黒い車に乗ると、どこかに行ってしまった。さっきまでの熱心なディスカッションとは明らかに違う苦しげな表情を浮かべて、それでも抵抗することなくすんなりと車に乗り込んだロイド。どこに向かったのだろう。 俺はすぐさまサムに尾行するよう促した。 車はビジネス街の環状線をぐるぐると何周も回り、1時前になってロイドが勤務する会社の前に停車した。当然ロイドはそこで車を降り、無表情はままビルの中に入っていった。 サムはそのままさっきのレストランに向かい、車を止めるとレストランの中に入っていった。もちろん俺はネコなのでレストランには基本的に入ることはできない。サムの上着のうちポケットに納まり様子を伺うことにした。 店内には、さっきロイドと一緒に会社を出てきた連中が、まだ食後のコーヒーを飲みながらあれこれと書類を見比べている。その隣の席に座り込んで、サムはコーヒーを注文し、おもむろに俺の背中からノートパソコンを引っ張り出した。「じゃあ、私が先に会場に行って商品を受け取る準備をしておくから、エリックとトニーが展示用のサンプルを運んできてよ。ロイドが当日展示会場にいけないんなら、それしか方法はないじゃない?」 長い髪をキリッと1つにまとめた理知的な顔立ちの女性がそう言った。連れの男たちはそれぞれ納得した様子で頷いている。「でも、どうしてロイドは急に来られなくなったんだろう。今度の展示会に参加しようって言い出したのはあいつなのに」「エリック、そんな風に悪く言わないであげてよ。なんだか困った事情が起きたみたいよ。さっき声をかけた人たちも、言葉遣いこそ丁寧だったけど、なんだか危険な感じの人たちだったじゃない?」 横で聞いていたトニーも会話に加わった。「サラの言うとおりだよ。僕、このまえちょっと小耳に挟んだんだけど、今度の展示会での評判がよければロイドには新しいブランドのチーフプロデューサーのイスが待っているけど、インナー部門の連中もその新しいブランドを狙ってるらしいって言ううわさなんだ」 その話にエリックは身を乗り出した。「おい、ちょっと待ってよ。インナー部門っていえばキールが仕切ってる部門じゃないか。あいつが絡んでるってことは、正々堂々ってことはありえないんじゃないのか?ロイドは大丈夫なんだろうか」 三人はしばらく押し黙っていたが、ふいにトニーが立ち上がった。「考え込んでても仕方がないよ。ロイドが会場にいなくても、あいつの作品の方向性は僕らが一番知っているんだし、しっかりとそれを補ってやればいいじゃないか。サラ、君も一人だけで会場に入るのは危険かもしれないよ。大変だけど、三人で荷物を運んで一緒にディスプレイしよう」「そうね。考えてみればロイドが出て来られなくても私たちにだってできるわ。充分気をつけてがんばりましょう」 三人はそのまま書類を抱えて会社に帰っていった。 サムは彼らを見送ったあと、席を立ち車に戻ってきた。「なあ、どう思う? 随分うさんくさい話になっているようだなぁ」 浮気現場を押さえようとひそかに楽しみにしていたサムは、少なからず戸惑っていた。「だから言っただろ。サム、早くここを出よう。なんだかいやな感じがするんだ」 俺はサムを急かして車を出してもらった。どこからかいやな視線を感じていたのだ。車がレストランの駐車場を出る瞬間、レストランの角の席から出窓に身を乗り出してこちらをみつめている少女と目が合った。まっすぐなブロンズを胸の当たりまでたらし愛らしい清楚なワンピースに身を包んだその少女は明らかにこの車を見つめている。いや、俺を見ていた、氷のような冷たい視線で。
June 4, 2010
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警備員室を抜け出すと、一つの決意を胸にもと来た道を戻った。たぶんマクレガーは、俺たちが何もしなくても奈落の底に落ちていくだろう。だけど、それでは俺の気が治まらない。 サムの家にたどり着くと、マージーが病院を脱出して来ていた。サムは俺を見るなりすぐに抱き上げて叫んだ。「グレン、マージーにお前のことを話してもいいか? 修理工場では確実な裏が取れている。マージーの持っているメールも証拠になるだろう。このままでじっとしているわけにはいかないんだよ」「にゃー」 俺の意思を汲み取ったように、サムは自室にパソコンを取りに行った。マージーはあっけにとられた様子で俺を見つめている。そこに俺の帰宅に気づいたクレアがあたたかいミルクを持ってきてくれた。ん、このミルクの甘い香りもまたいいものだ。穏やかな香りを楽しんで、おれはさっさとミルクを飲み干した。 パソコンを片手にサムが戻ると、マージーは困ったように笑った。「何が始まるの? かわいい猫だけど、この子に言葉が通じるとは思えないわ」「まあ見てなって」 サムはちょっと得意げに笑うと、パソコンを俺に向けて開いてくれた。俺はとりあえず、自分の名前とタディとの関係をサムに伝えた時と同じようにキーボードを使って伝えた。マージーは感嘆の声をあげ、俺を抱き上げた。「タディにこんなにかしこいアシスタントがいたなんて、知らなかったわ!なんて素敵なんでしょう!」 マージーに喜んでもらえたのはうれしいが、そんなに喜んでばかりもいられない。俺はなんとかマージーの頬擦りをかわしてキーボードの前に下りると、さっきMM社で聞いてきた事を克明に打ち出した。そして、今度の件を俺たちS&U社流に筋をとおして処理させてもらおうと提案した。 大筋の部分はサムと俺がつかんでいたので打ち出し、マージーが補足と証拠物件を添付して、メールは送信された。もちろん、ジーンやケインにもある程度の情報は届けた。彼らがどんな身の振り方をするかは自身で考えればいい。彼らにプライドがあるなら、とる道は決まっているが。 静かにうなずくマージーとサムを見ると、俺はこの会社の社員であることを誇りに思った。 マージーが帰ってしばらくすると、サムが買い物に行った。俺は午前にできなかった昼寝の続きがしたくなって、公園まで足を伸ばした。 秋の深まりが夕日の色にも反映されて公園を染めていた。2日後にはすべてが落ち着きを取り戻すだろう。澄みあがった空を渡り鳥が飛んでいった。冬はもうすぐそこまで来ているのだろう。こんな風に陽だまりで昼寝をできるのもあと数日のことになりそうだ。 その日の遅く、サムはジーンから電話を受け取っていた。どうやら誤解が解けて、明日から出社することになりそうだ。後でサムから聞いた話だが、ジーンは細君の入院費を稼ぐため会社に内緒で別の仕事をしていたらしい。会社の公金横領などでなかったことに心底ほっとした。ジーンはそれについてウイリアムの指示を仰ぎ、明日から謹慎するそうだ。ケインについては街で馬鹿騒ぎしていただけのことだったらしく、問題にはならなかった。サムは明日からまだがんばるんだと、いつも以上にご機嫌だ。これで一件落着というところだ。 翌日、サムを見送っていつもの公園でうつらうつらしていると、背後から枯葉を踏みしめる足音が近づいてきた。振り向いてみると、そこには出社しているはずのマージーがいた。「ここがあなたのお気に入りの場所なのね。ホント、クレアはあなたのことをよく理解しているわ」 マージーは俺のいるベンチに腰掛けながら当たり前のように話しかけた。「驚いた? その体じゃ返事も質問もできないものね。 でも、私にはちゃんとわかったわ。あなたはグレンじゃなくて、タディ。そうでしょ? こんな都会の真ん中で、いきなり人間が猫になるなんてありえないとは思うけど。情報収集の早さや推理力、事後処理能力をみればあなたがタディだってことはすぐに分かるわ。それに、コーヒーを飲むときの癖。ふふ。猫なのに、ちゃんと出るのね」 俺はただ驚いて返事もできず、いや、もちろん驚いていなくても自分の意思を伝えるすべがないのだが、じっとマージーを見つめていた。マージーは腰を下ろしたばかりなのに、すぐに立ち上がって俺の前にまっすぐに立ち、深々と頭を下げた。「タダノブ・タカイ、今回はS&U社の危機をすばらしい機転で助けてくれて、本当にありがとう。社長ウイリアムに代わって、お礼申し上げます」 マージー…。俺は心臓が張り裂けそうだった。あのハロウィンの夜以来、俺は自分が人間であるということを忘れたくないがために必死で仕事をこなしてきたんだ。もちろん、S&U社に対する愛社精神がなかったわけではないけれど、ただただ孤独を紛らわせるために。それなのに、マージーは俺の仕事振りをそんな風にしっかりと評価していてくれたのか。頭を上げたマージーはふっと肩の力を抜いて照れくさそうに言った。「今朝、ウイリアム社長から辞令が下りたの。ウイリアム社長は次期理事長、つまり、事実上のトップになることが決定されているそうよ。そして、私への辞令は社長就任命令。部下の人事については、そのすべてを一任されたわ」 すごいじゃないか、マージー! 俺はマージーにおめでとうが言えない自分の身の上が歯がゆかった。「それでね、タディには是非私の右腕としてサポートしてもらいたいの。もちろん、猫のままの姿でいいわ。出社も自由にする!どう?」 マージーは腰をかがめて俺の目の前に顔を近づけた。俺はあまりのうれしさにどうしていいのかわからなくなってしまった。「タディ? 副社長じゃいや? それとも、ホントにただの猫になってしまったの?」 マージーは静かに俺の前に手を差し伸べてきた。俺は、その大きな手のひらに肉球のついたちっぽけな前足を乗せることで意思を伝えた。「ありがとう。がんばりましょうね。サムが帰ってきたら彼の家で祝杯をあげましょう」 マージーの握力は思いのほか強かった。俺は振り回されるままにその握手に答えた。こんな小さな前足でも役に立つというならやってやろうじゃないか。いつか人間に戻れるまで、お気楽な猫として過ごすのも悪くないなっと、俺はやっと自分を受け入れることを決意した。― end ―
May 31, 2010
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たどり着いた修理工場は、想像通り忙しそうだった。初老の親父が若い工員にどなりつけている。「それは後からでも間に合うって言ってるだろう! 先にこっちの車に取り掛かれよ」 怒鳴りつけている後ろで電話が鳴り出した。「はい。ああ、今塗装をしているところです。はいはい、しかしお客さん、今日中にこれを完成させるのはちょっと無理がありますよ。いくら積まれたってできることとできないことがあるでしょう。はいはいはい。分かってますよ。努力してるんですから…」 おやじはげんなりした顔で電話の相手に相槌を打っていた。よほど急ぎの仕事らしい。工員たちもうんざりした様子でばらしたドアを運んでいる。陽の光を浴びてエメラルドグリーンに輝くラメの入った高級車のようだ。それをいきなり削り落とすと、マットは赤の塗装をほどこしてゆく。随分ひどい扱いだ。「どういう趣味してるんだろうなぁ。俺だったら絶対エメラルドグリーンの方が高値で売れると思うけどな」「やばい仕事なんじゃねぇの? おやっさんもうんざりしてるじゃねぇか。いきなり事故車を持ち込んで、修理だ色を変えろだ、しまいには2日以内に仕上げろだ。無茶ばっかり言ってるじゃねぇか。不景気でもなけりゃ、おやっさんだって請けない仕事だろうよ」「事故車って、人殺しでもしたのかな。フロントはぐちゃぐちゃだぜ」「ばーか。これは追突だよ。ほら、よく見ろよ。フロントバンパーに赤い塗料やブレーキランプの破片が残ってるだろ? それにしても、随分と派手にぶつかったもんだな。やっこさん、余所見でしてたのかな」「わざとぶつけたんだよ。相手を殺すつもりでさぁ。この赤い塗料とブレーキランプ、ちょっと証拠物件としてとっといた方がいいんじゃねぇの?」 工場のドラム缶の影で聞いていると、すぐ隣にチェックがやってきた。「どうだい?収穫はあったかい?」「ああ、爺さんのおかげでいい情報が入ったぜ」 チェックはふふっと含み笑いをして、もう一つ情報を提供してくれた。「さっきシルバーに聞いたんだが、昨日赤ら顔の図体のでかい客が来て、急ぎの仕事だと言って大金を置いていったらしいぜ。そいつの仕事が随分急ぎらしくて、飼い主は猫におまんまを与える暇もないんだとさ」「ひでぇ話だな。チェックのリボンをつけられてる方がマシって事だな。なぁ、爺さん」 チェックはまったくだと言って笑いながら、公園へ帰っていった。 勢い込む若者に年配の工員はちょっと肩をあげてみせただけで仕事に集中していった。若い工員にはどうも胡散臭さが残っているようで、車の窓から中の様子をうかがったりしていたが、すぐに見つかるようなあやしいものを発見することはできなかったようだ。赤い塗料か…。 マージーのカマロも赤だったっけ。赤ら顔の客に赤い車、そんな都合のいい話はないだろうが、その急がせぶりはどうもひっかかる。 俺はサムの家まで全速力で戻ると、すぐにマクレガーの住所を確認した。マクレガーはサムの家とは会社をはさんで反対側にある郊外の住宅地に住んでいたが、猫の足で行くには遠すぎる。俺は早速サムを呼びつけてマクレガーの自宅に行ってみようと誘った。「なんだよ、朝勝手に出かけてしまったと思ったら。なにか見つけてきたのか? 事情は途中で教えてもらおう。すぐに出発だ」 サムは上着を片手にすぐに車に向かってくれた。マクレガーの車がエメラルドグリーンでしかもそれが昨日から自宅に帰っていないとすれば、事態はほぼ決定的となるだろう。 マクレガーの自宅はすぐに見つかった。瀟洒な住宅街の中でもひときわ派手さを伴ったヨーロピアンスタイルの庭とバラのアーチが目を引いたのだ。車庫は残念ながらガレージが閉じられたままで、中を確認することはできない。サムは適当なところで車を止めると、俺を手元に抱いて、人待ち顔で車に寄りかかった。しばらくすると、犬の散歩をする婦人に出会った。「やぁ。こんにちは。賢そうなワンちゃんですねぇ」「こんにちは。あら、お宅の猫ちゃんも上品そうで素敵ですわね。」 婦人はペットをほめられて、すぐに笑顔になった。「ところで、マクレガーさんのお宅はこの辺りですかねぇ。 今度庭をつくり変えようと思ってね、マクレガーさんがヨーロピアンスタイルを薦めてくれるもんで、見せてもらおうと思ってるんですよ」 なにがヨーロピアンスタイルだ。よく言うよ、まったく。俺はちらっとすかしたサムの顔をにらみつけた。「ああ、マクレガーさんちなら、そこの門を曲がったところよ。お宅もお庭を?素敵じゃない。あ、そうそう。バラのアーチになさるなら、四季咲きのバラがよくってよ。うちもそうしているんだけど、小ぶりの花が上品でいいわ」「上品といえば、マクレガーさんちは車も随分上品な色になさってますよねぇ。たしかエメラルドグリーンだったかなぁ」 サムは白々しく続けている。しかし婦人はちょっと怪訝な顔になった。「あら、マクレガーさんちの車は漆黒のマーキュリーじゃなくて?」「あれ? じゃあ、僕の勘違いだったのかな? あっいや。失礼しました。さて、それでは私はこの辺で失礼いたします。そこの門を曲がるんですね。どうもありがとうございました。ではごきげんよう」 サムは優雅に会釈すると、すぐに車に乗りこんだ。そして門を曲がったまま一目散にその場を後にした。「おかしいじゃないか!マクレガーの車じゃないらしいぜ」 サムは歯軋りするような顔つきでハンドルを握っている。確かにこれは大誤算だ。しかし奴がマージーの事件に絡んでいるような気がしてならない。俺は一度サムの自宅に戻ると、サムに例の修理工場への聞き込みを頼んで、MM社の近くに張り込むことにした。今から行けば、ちょうどランチタイムに間に合うかもしれない。なにか情報が聞き出せればいいんだが。 MM社の警備員室は、ラッキーなことに初老の警備員のみになっていた。「おお、こないだの猫だな。ちょうどいい、今日は俺が昼間の当番なんだ。一人でランチを食べてもうまくもないし、お前も付き合えよ」 初老の警備員は俺を救い上げるように抱えると、狭い警備員室に連れ込んだ。中には暖房がたかれていて、思いのほか暖かい。警備員がミルクとフライドポテトをくれたので、予定外に昼食にまでありつけた。「よお、ジャック! 今日はお前さんが昼当番だと聞いて遊びに来てやったよ。俺もここで飯にしていいかい? おや、先客がいるのかい?」「ああ、さっき無理行ってきてもらったんだ。イスならまだあるから、一緒にどうだいスタンリー」 暖房の前でのんびりしていた俺は、おもわず顔を上げた。スタンリーだ!これはラッキーかもしれないぞ。「最近随分疲れた顔しているな。どうしたんだよ、お前らしくもない」「ああ、どうも最近のうちの社のやり方は納得が行かないんだよなぁ。ライバルの会社と競い合うのはしょうがないが、なにもスパイを送り込んで内乱を起こすなんて事しなくてもいいだろうに。MM社にはMM社の誇りがあるはずじゃないか」「マクレガーのことかい。奴なら上司に止められていてもやっているさ。だけど世の中そんなに甘いもんじゃないはずだよ。そのうち痛い目にあって戻ってくるだろうけど、その頃には奴の居場所はなくなっているだろうな」 スタンリーはまゆをひそめて言葉の主を見た。警備員はちょっと肩をあげて言った。「奴は何も知らないで調子に乗っているようだけど…。ちょっと前の夕方だったか、奴がいきなりやってきて車を一台回せと行ってきた。周りにいた連中が止めるのも聞かずに何を興奮したのか手前に止めてあった高級車に飛び乗って、さっさと行っちまいやがったんだよ。それ以来やつからは何の連絡もないが、あの車、ジョンソン社長の客人の車だったんだ。普通、幹部の車は地下の駐車場に直行するんだが、その日は客人がお急ぎだからと正門前に止めたままにしてあったのさ。このところ、マクレガーの暴走はひどいもんだったからね。いつかこんなことをしでかすんじゃないかと思っていたんだが」 淡々と話すと、ゆっくりとアメリカンコーヒーを入れてスタンリーにも勧めた。「じゃあ、ジョンソン社長はまだマクレガーの動きをご存じないってことなのか?」「ああ、あれはマクレガーを疎ましく思っていた上司のアイスマンの策略さ。どっちもどっちってことだよ。あっと、お前さんにとってもアイスマンは上司になるんだな。すまんすまん」 警備員は言い過ぎたことを謝ったが、スタンリーの表情は意外に明るかった。「有意義な昼休みになったよ。これで私の身の振り方も決まった。もう迷いはない。長いこと、世話になったな。来月、息子が建築中の小さなリゾートマンションが完成するんだ。息子がそっちの管理人になってほしいと俺に頼んできたもんでね。そろそろこの業界にも飽きてきた。余生はそちらでゆっくりするよ。あんたも良かったら骨休めに来るといい。悪いようにはしないよ。じゃあな」 年老いた企業戦士はコーヒーカップを洗うと、俺の頭をちょんとつついて警備員室を後にした。スタンリー、あんたは本当にまっすぐな人だよ。俺はその後姿に敬礼したい気分だった。
May 28, 2010
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俺たちは早速サムの車に乗り込み、マージーの入院する病院へと急いだ。面会時間は7時までとなっている。あまり時間はなかった。 俺を上着の内側に隠したサムが面会を求めて受付に行くと、受付嬢は上っ面だけ申し訳なさそうに面会謝絶だと断った。「おかしいなぁ。単純な追突事故で軽い打撲だって聞いたんだが…」「失礼ですが、患者さんとはどういうご関係ですか?」 戸惑っているサムに受付嬢は追い討ちをかけるように問いただした。「いやぁ、ただの仕事仲間だよ。しかしそれじゃあだいぶ重症だな。また来るよ。あ、そうそう。ちょっとトイレ借りていい?」「トイレなら、そちらの階段を上がられて左側です」 サムは軽く手を上げて礼を言うと、そそくさと階段を上がった。そして回りに人がいないのを確かめて独り言のようにつぶやいた。「よう、やっこさん。どう思う? 今のお嬢ちゃんの対応振りはちょっとうそ臭かったと思わなかったか?ここはひとつ外科病棟の捜索と行きたいんだが」「同感だね。単純に俺たちとの接触を遮断するためだけならいいが…」「おい、それどういう意味なんだよ!」「さっきの店でマクレガーが話していたんだ。奴には警察にも仲間がいるらしい。人事部のジーンとケインはそれぞれの弱みを握られてぐうの音もでなかったよ。事故が起こってけが人が出れば、警察や救急車が来るだろう?どこそこの病院に連れて行けなんて、簡単に操作できるかもしれないじゃないか。ここまで用意周到なんだ、奴はなにかとんでもないことを企んでいるとしか思えない。社長のウイリアムは高齢だし、次に有力な人物が狙われてもおかしくはないだろう?」 画面の文字を読み終えたサムの顔色が変わった。俺の想像していることがやっと飲み込めたらしい。早々に外科病棟を探し当てると病室の名札をチェックした。「マージー・J・ヒューストン、ここだな」 サムの合図でちょっと顔を出すと、目の前はごくありふれた個室だった。サムは静かにドアに耳を当て、誰も来ていないのを確かめると静かにノックした。「はい」 中から割りとしっかりした聞きなれたマージーの声がした。サムがそっとドアを開けると、マージーは柔和な笑顔で迎えてくれた。そうか、いつもアップにしている髪を落として肩の辺りでゆるく束ねていたのか。道理で雰囲気が柔らかいはずだ。「随分ひどい目にあったんだな。大丈夫かい?」「助かったわ。よくここまで来れたわね。どうもこの病院変なのよ」 マージーは現れたのがサムだと分かると待ってましたとばかりに機関銃のごとく言葉を発した。どうやら今までだれも面会に来ていないらしい。 マージーの話によると、彼女は昨日、帰宅の際にスーパーに買い物に寄って事故に巻き込まれたという。事故と言っても単純な追突事故で、相手の車はすぐに逃走してしまった。「ぶつかって焦るのはわかるけど、わざわざライトを上向きに切り替えてこちらが相手の車を認識出来ないようにするなんて、なんだか胡散臭いじゃない? うらまれるようなことはした覚えがないんだけど、どうも変なのよねぇ。おまけにここの病院は…」 マージーは声を低くしてサムと額を寄せ合うような形でしゃべり続けている。どうも彼女の中でこの病室に何かが仕込まれているような疑いを持っているようだ。彼女の話では、軽い打撲だと言うのに痛み止め以外の効能の分からない薬をやたら飲ませようとするというのだ。確かに彼女のろれつはいつものはっきりしたマージーと比べると随分すっきりしない。そのことに気づいたのが今日の朝のことだったというから、彼女の判断はすばやい方だろう。昼食時以降の薬を控え、ぼんやりとして見せながら病院の窓から周りの状況を探っていた。彼女は近々この病院を脱出するつもりだと言った。「私、看護婦同士が話しているのを聞いてしまったのよ。いつも薬を運んでくる看護婦あてに、マクレガーって名前の男性から電話がかかってるって話しているのを。 マクレガーなんてどこにでもある名前なんだけど、どうもひっかかってしょうがないのよね。これって被害妄想かしら」 マージーはちょっと悲しげに笑って見せた。被害妄想のはずがない、マージーはどんな薬を飲まされても、頭脳明晰な才女だと俺は確信した。 サムはマージーの肩を軽くたたいて笑って見せた。「もうちょっとの辛抱だ。もしも助けが必要になったら、とりあえず俺のところに連絡してくれよ!探偵チームサム&グレンがすぐに力になってやるよ」 俺はサムの上着の中で体中の毛を逆立てていた。なにが探偵チームサム&グレンだ!調子に乗りやがって!俺は前足のつめを少しだけ立てて、サムをつついてやった。「おおっとそうだった。その事故のときとか、病院に運ばれてくるときなんかに、なにかに気がつかなかったか?」 サムは何を勘違いしたのか俺につつかれて気の利いた質問をした。「何、それ?ホントに探偵でも始めたの? そうねぇ。私が寄ったスーパーからだとこのマクサイバーホスピタルよりジョンソンクリニックの方がはるかに近いはずだわ。それには救急隊員もちょっと戸惑っている様子だったわ。どこから指示があったのかはしらないけどね。なにかお役に立ったかしら?」 サムは大きくうなずくと、すぐに立ち上がった。「ありがとう。よく分かったよ。マージーも脱出するときはくれぐれも気をつけてな」「あ、ねぇ! もしももう一度忍び込めるなら、女性用の外出着を持ってきてくれないかしら。あとサングラスとね」 マージーはすっかり元気を取り戻したようだった。「サム! そういえば、もう一つ思い出したわ。この前のウイルス騒ぎの件だけど、あれはマクレガーの仕業よ。前の会議では随分でしゃばったまねをしたなって、自分で白状するようなメールを送ってきたの。もちろんしっかり保管してあるわ。ボスが帰ってきたらすぐにでも提出する予定よ」 マージーはそれだけ言うとウインクを送って手を振った。さすがは才女、すでに証拠物件も手に入れているとは、恐れ入る。 サムの自宅に帰ると、クレア女子が心配そうに出迎えてくれた。なんでも外出中に人事部のジーンから何度か電話が入っていたらしい。俺は早速ジーン宛にメールを送った。もちろん、サムが着替えに行っている間にタディと名乗ってのことだ。ジーンがそんなに簡単に悪事に手を染める人間とも思えないが、細君の6ヶ月にも及ぶ入院に疲れ果てているのも事実だ。こんなことでくじけてほしくはなかった。あとはマージーに怪我を負わせた相手が分かればいいのだが、車の修理工場なんぞ、この街にはうんざりするほどある。気持ちばかりが焦るが、どこからも連絡がはいらないまま夜は明けた。 俺はいつもどおり公園に出向き、ゆっくりと思考をめぐらせた。ウイリアムが帰ってくるのは2日後だ。このままマクレガーが一気に事を進めるのは間違いないだろう。「どうしたんだ。今日はやけに怖い顔してるじゃないか」 気がつくと、チェックが隣に座っていた。「ん? ああ、あの猫かい? あれはシルバーって言ってね、ここから二筋南に行ったところにある修理工場の猫だよ。だけど珍しいねぇ。あいつは午前中はめったに公園に出てこないのに、公園のゴミ箱漁るなんてどうしちまったんだろう」 どうやらチェックは俺が考え事をしていると思わずに、公園の向こう側にあるゴミ箱をにらみつけていると思ったらしい。気がつくと、公園の向こう側のゴミ箱でシルバーのトラ猫が残飯を見つけて引き釣り出していた。「あいつはあれでも血統書付のアメリカンショートヘアとかで、随分飼い主にもかわいがられているって聞いてたんだけどねぇ。 悲しいねぇ。人間のわがままに振り回されるのはいつも猫だ」 チェックはため息混じりに言うと、昨日飼い主がやっている手芸店にやってきた猫嫌いの客の話を延々と始めた。俺は適当に相槌を打つと、ゆっくり伸びをして立ち上がった。「おっさん、悪いな。今日はちょっと用事を思い出したんだ。続きは明日聞かせてもらうよ」 俺がそういってチェックの話をさえぎると、チェックもすぐに意図するところがわかったのかにやりと笑って付け足した。「わしの話はどうでもいいが、お前さん、なにか楽しそうなことでも企んでいるのか? シルバーの家なら二筋南に行ってガソリンスタンドを左の曲がった3軒目だよ。どうせ暇にしているんだ。なにか手伝えることがあったら言ってくれ。これでもわしはここの最古参なんだ。情報収集には役に立つかもしれんぞ」 チェックはいたずらっぽくウインクを投げて俺を見送った。
May 26, 2010
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いつもの公園通りを横断していると、猛スピードで車が南向きに駆け抜けていった。もうちょっと気づくのが遅かったら巻き込まれていたかもしれない。まったく油断もすきもないものだ。あっという間に小さくなって、タイヤをきしませながら左折していくエメラルドグリーンの車体をにらみつける。 MM社は俺たちが働くS&U社のライバル会社で、いつも商品開発において凌ぎを削っている間柄だ。そんなところからのこのこ転職してくること自体、わが社内では良からぬうわさの元になっていたのだ。マクレガーはウイリアムの親族にうまく取り入って引き抜かれたようなことを言っているらしいが、ここはきちんと調べた方がよさそうだ。MM社はうちの本社より5Km遠くなるが、そんなことを言っている場合ではない。ビルとビルの隙間をひた走り、MM社の通りまで出るのに1時間はかかった。日は傾き、そろそろ気の早いOLたちが化粧直しに取り掛かる時間だ。俺はMM社の裏口に回り、業者の出入り口に陣取って様子を伺った。5時を回り商品の入出庫のトラックが一段落したのか、警備の人間ものんびりコーヒーなど飲んでいた。「お、珍しいなぁ。こんなところに猫が迷い込んできたぞ」 初老の警備員が俺を見つけて仲間に声をかけていた。「かまうなよ。野良猫なんぞに住み着かれちゃかなわない」 どうやらもう一人の方は猫が嫌いらしい。ここはいったん引き上げてMMビルの周りを視察させてもらうとするか。俺は何食わぬ顔でビルの周りを走りぬけ、正面玄関へとまわった。ビルの陰で様子を見ていると見知った顔がビルを出てきた。同じ業界にいるとどうしても顔見知りが増えるものだ。厳しい顔つきで出てきた男はマクレガーと同じ部署にいたスタンリーだ。業界全体での見本市などでは必ず顔を合わす好感のもてる人物だ。そのスタンリーが随分悩んでいる様子だった。俺は静かに彼の後を追ってみた。「先輩、元気出してくださいよ。しょうがないじゃないですか。マクレガーさんにはマクレガーさんのやり方があるんだし、僕たちには僕たちのやり方があるんですから。それに、この計画はもう2年も前から動き始めてしまっているんですよ。僕たちに止めることは不可能だ。ボスも承知の上でやっているんでしょ? それよりどうです?これから一杯気晴らしに飲みにいきましょうよ」 後ろからやってきたスタンリーの後輩らしき若者が彼を励ましながらタクシーを止めて、落ち込むスタンリーを押し込めて自分も飛び乗っていった。2年前から始まっている計画? 2年前と言えばマクレガーが転職してきた時期と一致する。いったい何を企んでいるんだろう。 俺はスタンリーを追うのをあきらめて、再び警備員室を訪れた。ちょうどさっきの初老の警備員が一人になっているところだった。「よう、また来たのかい?」 初老の警備員は明るく声をかけてきた。俺はにゃーと愛想よく返事するとさっさと切り上げてサムの家に帰ることにした。しばらくはここに通うことになりそうだ。 サムの家に帰ると、家の中はなんだかどんよりと暗くなっていた。家政婦のクレアが困ったような顔つきで俺を出迎えてくれたが、なんとなく様子がおかしい。俺は急いでサムの部屋に向かった。室内は真っ暗だったがサムはベッドに寝転んでいるようだった。「にゃー」 サムに声をかけると、サムはがばっとおきだして俺を捕まえるなり早口でまくし立てた。「グレン、大変なんだ!誰かがタディをウイルスばら撒き犯に仕立て上げようとしているんだ。あれは絶対にマクレガーの仕業に決まっているんだ。前から信用できない奴だと思っていたけど、ウイリアムがいない間にいったい何をしでかす気なんだろう。今日は俺までマクレガーに攻め立てられて、会社のコンピュータのデータを盗もうとしただろうってえらい剣幕で捲くし立ててきた。人事部の連中はそんなこと鵜呑みにしているわけじゃないが、事が事だけにしばらく様子を見たいとさ。おかげでしばらくは自宅謹慎だ。冗談じゃないぜ。早くタディにメールで伝えてくれよ。ウイリアムは週末までオーストラリアに出張中だし、マージーはこんなときに限って交通事故に巻き込まれて入院することになっちまうし」 正直言って、やつの動きの早さには驚いた。いや、なにもかも計画通りなのかもしれない。下手をしたら今頃人事部にも手を回しているかもしれない。マージーは大丈夫なんだろうか。俺はいそいでパソコンを立ち上げた。そしてサムにマージーの事故状況や病院を教えてもらった。俺はもどかしい気持ちを抑えて俺宛のメールを打ち、そしてサムにマクレガーの行きそうなクラブへ連れて行ってくれと頼み込んだ。「なんだよ、いきなり。お前さんが探偵にでもなるつもりか?」 もちろんだよっと、笑って見せたつもりだったが、サムに通じたかどうかは分からなかった。だが、しばらく俺の目を見ていたサムは、よしっと立ち上がった。「じゃあ、俺がそのパソコンを持っていこう。グレンは俺の上着の内側にでも隠れてろよ」 サムはすぐに出かける準備をし、俺を上着の中に押し込めて夜の街へと車を走らせた。 MM社の近くの飲み屋をしらみつぶしに探した。夜の匂いが俺の毛並みを湿らせるが、こういうのも悪くないと思った。 何軒目かのクラブで、マクレガーと2人の男たちが飲んでいるのに出くわすことができた。一人は人事部長のジーン、もう一人はその部下のケインだ。「どうする?店内に入ってみるか?」 サムの質問に、俺はパソコンで答えた。「サムはこのままこの近くで待機していてくれ。僕はほかの客にまぎれてやつらの足元まで行ってみる」「おい! 大丈夫なのか?」 後ろでサムの声が聞こえていたが俺はその上着から飛び出していった。店の前で毛づくろいをして皮の首輪を整えると、客が流れ込んでいるところにまぎれてそそくさと店内に入った。店に入るとこそこそするのはうまくない。ドロボウ猫と思われてはつまみ出されてしまうのだ。俺は堂々とした態度で尻尾をピンと立て、うまくマクレガーの足元まで潜入することに成功した。「珍しいね。君が私たちを誘ってくるなんて」 ジーンがマクレガーに水を向けているところだった。「いえね、僕はご存知のとおり競合相手のMM社から転職してきたわけだし、どうしても変なうわさを立てられてしまいますけど…、そう、誤解を解いておきたかったのです。僕はこれでもウイリアムさんの強い要請でこの会社に引き抜かれたのですよ。それに社長のお嬢さんとは同じ大学で学んだ仲間なんだ。S&U社に損害を与えるようなことをするわけがない。それどころか今まで培ってきたノウハウをこの会社でも存分に発揮して盛り立てていこうと思っているんですよ。」まったく、言いたい放題だ。そんなことを鵜呑みにするほど人事部の人間はバカじゃない。「ところが、どうもそれをおもしろくないと思う連中がいるようだ。この前のプレゼンではこちらの情報がどう盗まれたのかしらんが、まるっきり横取りされたんだ。その次はウイルス騒ぎじゃないか。この会社はいったいどういう管理をしているんです。これじゃ安心して仕事が出来ない。週末にはウイリアムさんも帰社されるし、それまでにそういう不穏な動きをきちんと始末しておきたいのです。」「随分な言い方ですね、マクレガーさん。まるでわが社にスパイでもいるかのような言い方だ」 ケインがむっとしたように発言した。ジーンはそれを抑えてマクレガーの意図を探ろうとしている。「何が言いたいんだ」「さすが、話が早いですね。もうスパイの目星はついているんです。その連中を会社から遠ざけてほしいのです。もちろんただとは言いません。こちらもそれなりの報酬を考えています」 マクレガーは口元をにやりとゆがませた。「報酬だって? われわれは君からそんなものを受け取る覚えはない。スパイがいるかどうか、そしてそれが誰なのか、それは私たちが調べて決断をくだす。君が指図することじゃないだろう」「ほう、随分強気ですねジーンさん。でも、僕だってなにもなしに言っているわけじゃないんですよ。ジーンさんの奥さんはもう長いこと病院にいらっしゃるそうですね。入院費だってばかにならないでしょう。そんなお金、どうしてらっしゃるんです? ケイン君、君は先週西海岸までドライブに行ったんだってね。随分派手に遊んだようだね。僕の友人にそちらで警官をやってるのがいてね、いろいろ教えてくれたよ。若いからって無茶してはいけないよ。会社に傷がついてしまう。お二人ともよく考えていただいた方がよさそうですね。まぁ、お答えは今度で結構です。では」 マクレガーはしたり顔で席を立つと、さっさとクラブを後にした。ジーンとケインは蒼白な顔でうなだれた。マクレガーのやつ、ますます侮れない。何もかも手配済みのご様子だ。ここはひとつ、グレン探偵の出動と行かねばなるまい。私は、他の客の足元にまとわりついてゆったりとした足取りで店を出ると、すぐさまサムの胸元に飛び込んだ。「今日はとりあえず家に帰ろう。明日は謹慎で出社しないんだろ?悪いけどこれから言うとおりにうまく動いてほしいんだ。マクレガーはとんでもない奴だよ。俺たちで奴の化けの皮をはいでやろうぜ」「さすがはタディの猫だ。いい乗りしてるぜ、まったく!」 サムはうれしそうにウインクして見せた。「その前に、ちょっとマージーを見舞いたいんだ。どうも今回のウイルス騒ぎとマージーの事故がどこかでつながっているような気がしてしょうがない。サムからうまく事故の時の状況を聞きだしてくれないか?」「いいねぇ。俺もマージーのことは気になってたんだ。今からならギリギリ間に合うだろう。行ってみよう!」
May 22, 2010
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サムの家は快適だった。猫が来たというのでサムの娘、キャシーには随分猫かわいがりされたが。幸いにも会議はマージ-女史の采配でうまく事が運んだようだ。俺の準備しておいたプレゼン用の資料は彼女の聡明な判断でアレンジされ、喝采を浴びたらしい。 先日、彼女がサムの家に寄った時、その栄光をタディ自身に浴びてほしかったと彼女には珍しく興奮した様子で語って行った。俺を膝に抱いて、頭を撫でながらだ。俺の失踪について何度か話題にも上がったが、誰もそれを解き明かすことはできなかった。ただ、本社内では、ハロウィンに猫と書類を残して姿をくらました、不思議な東洋人の噂だけがささやかれているようだった。なかには、事故で顔を大やけどしたに違いないなどとまことしやかな噂を流すやつもいたようだ。それでもメールのやりとりが出来ているので、仕事がなくなる事はなかった。日本支社の幹部連中はしばらく問題視していたようだったが、電話や会議に出ない代わり仕事はきちんとこなすヤツとして、今は様子見の状態のようだった。もちろん、それには今回の本社会議の大成功が大きく関わっているからだろう。 ある夜、サムが自分の部屋にある俺のためのコーナーに歩み寄ってつぶやいた。「なあ、おまえ。タディはいったいどこにいるんだ? 今までの努力が実って、やっと本社のヤツらもタディを評価しているっていうのに、いま奴が本社に顔を出してくれたら、どんなにかうれしいのに」 残念そうなサムの表情から、俺の扱いを巡って本社でもいろいろ話題に上っているのがわかった。今のところ、何の通達もないところをみると、マージー女史がうまく取り繕っていてくれるのだろう。だがそれも限界がある。そろそろこちらも動き出さないといけないだろう。俺はノートパソコンを開き、ワードで文章を打ち出した。「忠信はどうしても顔を出せない事情をかかえている。でも、メールのやり取りは可能だ。彼になにか提言してもらえるなら、ありがたいよ」「驚いたなぁ。タディからお前が話せることは聞いていたが、まさか英語がしゃべれるとは知らなかったぜ。じゃあ、1つ頼みがあるんだ。俺はパソコンには弱いんだ。ヤツに元気でいるのかと伝えてくれないか。この平べったいパソコンで送れるんだろう?」「sure」 サムはホッとしたように肩の力を抜いた。それを横目で見ながら、おれはノートのoutlookを開いた。肉球でカタカタキーボードを叩くと、サムが興味深げに眺めていた。 俺は、サムにも分かるように英語を使って俺自身宛てのメールを打ち込んだ。そして、最後に署名として、グレンと記した。送信ボタンを押して振り向くと、サムはひゅーっとかるく口笛を吹いた。「やるじゃねえか。お前、グレンっていうのか。よろしくな、グレン」 サムは俺のちいさな右前足を掴んで、握手するようにかるくもてあそんだ。 サムの家に居候して2週間が経とうとしていた。一時期は人間に戻るすべはないかと随分いろいろ調べてみたが、こんな突拍子もないことに巻き込まれた人間なんて、そうはいない。これといった資料も見つからないまま時間だけが過ぎていった。それに、もう猫の生活にも随分なれた。決まった時間に出社しなくていい分、精神的には随分楽になったのかもしれない。生まれ変われるなら猫になりたいという人がいるが、あながち間違いではないような気がした。今はただ、いつか人間に戻れると信じて、高井忠信である自分を見失わないようにすることだけが、俺にできることだ。 朝、7時にサムが朝食を摂る頃を見計らって台所に出向き、キャットフードとミルクを頂く。「うっ、今朝のミルクは熱すぎだ!」クリスティーのくれるミルクはいつもながら要注意だな。サムを見送ると、しばらく朝寝を決め込む。この時間にうろつくと、キャシーに見つかってひげをいじられたり、前足を握り締めてダンスを踊らされたりと大変な目に合うのだ。サムのワイフ、クリスティーがキャシーを学校に送りだし仕事に出かけると、家の中は無人になる。それからが俺の自由な時間だ。 この2週間の間にサムが作ってくれた俺専用の小さな扉を押し上げて、外に抜け出す。この辺りは本社から車で20分ほどの所になるはずだが、信じられないくらいのどかで自然に満ちたところだ。 サムの家の前を右に曲がって少し歩くとこの街のメインストリートに出くわす。それを再び右に曲がるとすぐに大きな樹木の生い茂った広い公園の敷地がある。綺麗な落ち葉を踏み越えてお気に入りのベンチの上に飛び乗ると、そこだけ日溜りになっていてぽかぽかとあたたかさに溢れている。ゆったりと座って見晴らしのいい公園を眺めていると、すぐに睡魔が被いかぶさってくるのだ。 仕事のメールはいつも午後からしか送られてこないから、午前中はしっかりと睡眠をとるのだ。11月半ばだというのに、今年は随分暖かい日が続いている。猫にとっては最高の気候だ。 遠くで時計台の鐘の音が聞えて来ると12時だ。まだまだ眠いがそろそろ仕事にかからないといけない。俺はまだ眠りから覚めきっていない身体を起こしてベンチから降り立った。「よう! 今日もご出勤かい」 声をかけてきたのは公園の反対側にある手芸屋の猫、チェックだ。ここに来て最初に知り合った猫だが、チンチラの長い毛が優雅に見えるが、奴は人間でいうところの70すぎのじいさんだ。きれいなチェックのリボンが笑いを誘うほど、奴はオヤジくさい性格をしていた。「今日もチェックのリボンをつけられたようだな」 俺が水を向けてやると、大層なため息が帰ってきた。「まったく、ばばぁの趣味にも困ったもんだ。年寄りのワシにリボンなんぞ似合わないのに。人間ってやつは、猫が年をとらないとでも思っているんだろうかのぅ。おまえさんも気を付けな。最初が肝心だからな。うっかりご機嫌とりなんぞしようもんなら、次々余計なものをつけたがるからな」 俺は、気をつけるよと頷いてチェックにベンチを譲ると、サムの家に引き返した。猫の世界もいろいろあるもんだ。 サムの家にもどると、クレアが出勤して来たところだった。クレアは50代の温和な女性で、サムの家の家事やキャシーの下校後の世話をしてくれる家政婦だ。そして本当の猫好きでもある。やたらと抱きついたりせず、ちゃんとこちらの意志を見ぬいてくれる。大した女性だ。「あら、グレン。おかえりなさい。お仕事前に、ミルクはいかが?」 クレアは時々ドキッとするようなことを言う。俺はにゃあと鳴きながら、クレアの足にまとわりついてみせた。クレアはそれがとても嬉しいのか、満面の笑みでトレイにミルクと崩したビスケットを入れてくれる。熱いブラックコーヒーをいただきたいところだが、猫にコーヒーを飲ませる家は少ないだろう。人肌に温められたミルクは俺の好みにぴったりだ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。コーヒーを飲むように俺はいつもクレアの入れてくれたホットミルクを香りから楽しむようにしている。これは人間の時からのくせだ。 ビスケットとミルクをさっさと平らげると、俺はサムの部屋へと戻って行った。案の定、仕事のメールが届いている。会議のために、自分のもっていた重要なデータは全部CDに焼きつけて持って来ていた。お陰で人目さえしのべれば、ちゃんと仕事も出来るというものだ。 仕事が一段落した頃、変なメールが届いた。内容は空白でタイトルも「HELLO」のみだ。すぐにウイルスチェックが稼動し、幸い大事には至らなかったが、危ない所だ。日本にいた頃からこういった類のメールはあったが、このアドレスはとても特殊なもので、会社関係者以外にはもらしていない。俺はすぐ、送信者を調べてみた。 見覚えのあるアドレスではなかったが、念の為検索してみた。今までに名刺交換しているか、なにかで交流のある人物ならすぐに割り出せるはずだ。 やはりあった。J.ウイリアムの部下でK.マクレガーだ。彼は2年ほど前に他社から転職してきた人物で、大柄で目つきの鋭い赤ら顔がいかにも野心家といううわさに似合っていた。まして、先日の会議でのマージ-の活躍に対して出しぬかれたと回りの人間にもらしていたとも聞いていたところだ。何事もおこらなければいいのだが。いやな予感がする。俺は早速マージーにウイルス警報を打診したが、やつのことだ、きっと同時にマージーや俺たちの仲間に一気にウイルスをばら撒いているに違いない。 しばらくして、マージーから返信が届いた。案の定、ウイルスはばら撒かれていたが、ワクチンのおかげでダメージはほとんどないとのことだった。しかし、今度はそのウイルスがマクレガー自身を陥れるために俺がやったのだとマクレガーが言い出したというのだ。本人が現れないのをいいことに、随分やりたい放題やってくれるじゃないか。転職以来、おとなしくウイリアムに従ってきたやつだったが、そろそろ本性を発揮してきたというわけか。俺はパソコンを閉めると、マクレガーが以前働いていたMM社近くまで足を運ぶことにした。
May 20, 2010
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ハロウィン キャッツ それはハロウィンの夜に訪れた悲劇だった。俺は大規模なプレゼンテイションに臨むべく異国の地に赴き、本社に程近いコンドミニアムに滞在していた。ビジネス街からすぐの場所にあるというのに、大きな森林公園が隣接しているこの宿は、まるで別世界を思わせる景色に包まれていて、十分に俺を楽しませてくれた。 本番のプレゼンは翌日だ。書類も資料もすべて整っている。俺は日本から持ってきた器具を使ってじっくりと濃いコーヒーを淹れて、仲間と成功を誓い合った楽しい酒の酔いを醒まそうとしていた。美しい満月が暗い森の上に佇んでいる。そんな月を眺めながら深いコクを楽しんでいると、俺の部屋のドアが小さくノックされた。 突然やってきた見覚えのない死神は、小さな身体からは想像もできないほどの低く厳かな声で「トリック、オア、トリート」と告げたのだ。「そうか、今夜はハロウィンだったか。」だが仕事で出向いた異国でのことだ。ハロウィンのお菓子など用意しているはずもない。俺は仕方なくミントの入った小さなケースを手渡した。だが口臭予防のミントなど子どもの口に合うはずがなく、小さな死神は手にしていた大鎌を振り上げた。「何をするんだ! あぶないじゃないか!」 反射的に身体を庇おうと腕を翳したが、なんの手応えもない。緊張したままそっと腕を下ろした時、すでに小さな死神の姿はなかった。部屋の扉が開ききったままで、森からあふれ出る冷たい夜風が入り込んで来るばかりだ。忽然と消えた、そんな感じだった。 その瞬間から、自分の身体の変調に気づくまで、そんなに時間はかからなかった。まず、ドアを閉めようとして、それがいかにも巨大なドアになっていることに驚いた。いままですごしていた部屋とは到底考えられない。奴はいったい何をしたのだ。作り付けのソファが、クローゼットが、自分のスーツケースが、みな巨大になってしまっていたのだ。 俺は混乱し、それを直前に飲んだアルコールのせいだと思い込むことにして、早々にベッドに向かう。翌日にはこの仕事のメインイベントである重要な会議が開催される。自分の資料にはさっき目を通しておいたし、あとはきちんと睡眠をとることだろう。俺は自分にそう言い聞かせてベッドにもぐりこんだ。 翌朝目が覚めると、俺はいつものようにシャワーを浴びようとバスルームに向かった。巨大になってしまった部屋の中は目覚めても変わりなかったが、外に出てしまえばなんという事もないだろうとタカを括っていたのだ。だがそれはままならなかった。蛇口をひねる事すら、俺にはできなかったのだから。 蛇口の届く所まで行くと、そっと手を伸ばす。銀色によく磨かれた蛇口の取手に手を掛けるが回らない。いや、回せないのだ。なんだかいつもと違う。指が動かないのだ。ゴムのような丸いものがはりついている。蛇口に手を乗せると、自然に爪が置くからにゅっと伸びる。爪が、だ! 俺は驚いて自分の手の平を観察した。丸い肉球にするどい爪。なんなんだこれは!俺はしばらくその丸い肉球を眺めていたが、無性に顔を洗いたい衝動に駆られ、無意識に耳から額、まぶたへと円を書くようにその肉球でマッサージした。それが事のほか心地いい。自然にノドがゴロゴロなった。 ノドがゴロゴロだって? 俺はすぐさま洗面台の鏡のまえに飛び移った。そして自分の今現在の姿を目の当たりにすることになったのだ。グレイがかった縞模様のはいったごく普通の猫がそこにはいた。しばらくは自分のような気がせず、ぼんやりと眺めた。しかし、すぐにゆっくりとしっぽがゆれ始める。参った、ちょっと気を抜くとすぐに猫の習性に負けてしまうらしい。 これは大変な事だ。ホテルのロビーに連絡して、病院にでも連れて行ってもらおうか、いや、会社にも連絡しなければ。まさか猫のままで会議には出られまい。部屋の電話に跳びついて、受話器を上げボタンを押す。ほどなくフロントが答えてくれた。「もしもし、にわかに信じてもらえないだろうが、突然身体がおかしくなってしまって……」 俺は自分に思いつく限りの言葉で説明したが、フロントの声は冷たかった。「もしもし? 困りますねぇ。室内に猫を連れ込まないで下さい。すぐにそちらに向かいますので、猫を捕まえておいてください。なんなら、ペットホテルを紹介して差し上げます」 俺はショックを隠せなかった。電話で俺の姿が見えるわけでもないだろうにと。「どうしてわかったんだ? いや、そんなことはどうだっていい、頼むからどこか病院を紹介してくれ」 言いながらどこかでさっきからねこが鳴き続いているのに気が付いた。いや、どこかではない、ここだ。さっきから聞えていたのは自分の声だったのだ。どうりでフロントがあっさり猫だなんて言ったはずだ。俺はなるほどと疑問点がとけたことで胸を撫で下ろした。しかし今は感心している場合ではない。フロントの人間が来る前に、なんとかここに部屋を借りている俺、つまり高井忠信がこの猫を隣町にオフィスを構える仕事仲間のサムのところに届けて欲しがっていることを伝えなければならないのだ。 俺は造り付けのデスクの下に回り込み、引き出しを下からジャンプして押し広げた。幸いにも引き出しは簡単に開き、ペンも昨夜使ったまま置かれていたのを使うことが出来た。ペンのふたがなかなか開かない。両足の肉球を使い、なんとかふたをもぎとった。今度は文字を書かなければならない。なんとか後足でペンを杖替わりにして立ちあがると、震える文字で送り状と記入した。それから大急ぎで持参していたノートパソコンを開き、サムにメールを送った。「サム、急な頼みがあるんだ。セントラルホテルから猫と書類の束を送るから、書類は今朝の内に本社のJ.ウイリアムの秘書、マージ―女史に渡してくれないか。それから…」 猫について記述するのになんだか抵抗があったが、あまり時間がなかった。かすかな躊躇いをのりこえ、続きを打ち込む。肉球はキーボードを打つのに案外適しているのかもしれない。「それから、猫の方は俺の大切なペットで、君にだけは打ち明けるが、人間の言葉がわかるんだ。彼にはいつもノートパソコンを使えるようにしてやってくれ。それで俺の仕事を仲介してくれることになっている。俺自身がそこに行ければ問題なかったんだが、ちょっとした事故に巻き込まれてしまって動けないんだ。頼む!どうか俺の頼みを聞き入れてほしい」 サムはいつも陽気な男だ。この本社では警備の仕事を担当している。本社の中には彼らのような仕事をする者をばかにする奴もいるが、俺は本社に出向く時はいつだって、サムに挨拶をかかさなかった。なにがどうということはなかったが、なにか全てを心得てるというか、器の大きいところが俺を惹き付けた。 メールを送信し荷物を片付けていると、ホテルの従業員がやってきた。「失礼いたします… あ、この猫か。ん?送り状?」 よしっ、どうやら気付いてくれたようだ。俺はやっと気持ちを落ちつけて、その従業員の腕に抱きとめられ、従業員の持ってきたゲージの中に大人しく収まった。
May 19, 2010
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