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いつまでも変わらぬ事は、尊いものと思っています。しかし、いつまでもという様な大仰な物言いをしてみたところで、所詮は己の把握しうる程度な期間のことをいつまでもと称しているのであるのです。それで十分なんじゃないかと思うのです。生まれる前の事など正しく知りようもないし、それが出来立てホヤホヤだとするともとより興味を覚えることもなさそうです。死んだ後の事となるとそれこそ知ったことではないというものです。だからぼくの生きている限りにおいては、叶う事なら町も余りに変わらずいて欲しいし、そこに根付いた酒場もぼくを受け入れてくれると嬉しいと思うのです。その反面で余りにも変わらぬのも退屈です。だからぼくは通う町にはなるべく片手程度のお店を確保しておいて、代わりばんこに通っているのです。マンネリをマンネリと認知してしまうと、かつて抱いていたはずの愛着をいとも容易く引っくり返し思い出すのも嫌ということに変容させかねぬのであります。御茶ノ水の夜もそんなマンネリズムに陥りつつあります。かつては日を置かずに通ったあの酒場にかつての愛情を注げなくなるように感じたのは気のせいではないと思うのです。 いや、けして「銀座アスター お茶の水賓館」に通い詰めていたんじゃありません。何かしら事あるごとにここで会合が持たれ、好むと好まざるに関わりなく高い会費を払うということもありむしろ愛情とは縁遠いと言ったほうが相応しいかもしれない。というか、ここは些かもプライベートなお店などではなく、むしろオフィシャルに利用するのが適当なお店なのだから、ぼくの関心を引かぬのも無理からぬところなのです。だからこういう時には、早いうちにオフィシャルな振る舞いは済ませてしまって、後は徹底して眼前に並べられる普段よりワンランク程高価な料理と呑み放題に邁進するべきなのであります。この日は中華料理のメリットでありデメリットでもある大皿ではなく、個別に取り分けられているのも大変結構です。会費の内訳を知らぬ以上、面倒よりも金銭で厄介事を回避するのが、こうした場合には都合がよろしいのです。いちいち料理名を書き写すつもりもないし、そもそもメニューを後生大事に保存しておくだけのマメさとも無縁だから、結論としていつもより美味しい気がしたと書くことにしようかな。かつてはここの料理に対しては、日本ナイズされた中華料理と批判的な感想ばかり述べていたが、それは相応の金額を支払っていなかったからか、はてさてぼくの味覚があっさりを好むという高齢化の傾向にあるからかは定かではないが、とにかくこれまでに感じたことのない好感を覚えました。おっちゃんやおばちゃんがこのメジャーな高級中華料理店を好む理由が少しだけ分かった気がします。まだプライベートで来たのは一度きりだけれど、いつかまたプライベート利用する時があるのだろうか。 以前から「銀座アスター」で呑んだ後は、きまって「大衆酒場 徳兵衛」を訪れたものでした。この夜もいつもの流れに沿って迷うまでもなくここを目指したのでした。客たちの顔触れは一新されていて、当然かもしれぬけれど見知った顔などないのでありました。いや、半地下のフロアと決め込んでいるのでここにも自然と足が向かうのでありますが、見知った店の兄さんの姿は変わらず健在でした。店は大層賑わっていて、以前はたまには入れぬことがあっても大概は閑散としていた記憶があるけれど、この夜は盛況だったので、兄さんに混んでるねえと声を掛けるといやいやこんなもんでしょ、昔だってそうだったよとごく稀に姿を見せるようになった者と毎夜務める者とは印象がこうも違うのだなあ。この夜は当然だけれど少しも食欲がなかったのでひたすらにトリハイを呑みました。ここの強いトリハイ―に限らぬけれど―は旨いんだか不味いんだかなんとも言えぬけれど、とにかく手っ取り早く酔えることは間違いないのです。しかし、やはり年齢のせいなのか酔いが回るよりも先に胃のむかつきが到来したのです。ここの酒はぼくにはもう潮時なのかもしれぬ。かといってこの先どこへ行けばいいというのだ。やはり御茶ノ水ではこれからも同じ行動を繰り返すのしかないのかもしれません。
2019/02/28
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巣鴨の駅の付近は呑み屋とピンサロが入り乱れていて、ホルモン焼屋なんぞに入ろうものならその目的を誤解されそうであります。ぼくは良く知らぬけれど、その筋の遊び人たちには巣鴨は格安優良ピンサロで知られるようで、でもピンサロに向かう人はニンニク臭を振りまいたり、ひどく酔ってから行ったりすることはないのでしょう。ここまでの文脈が破たんしているのは、これからぼくがピンサロに行くつもりなどないことを言い訳しようとしてしどろもどろとなっているからということにしておきます。目指すは、センベロお姉さんの推奨するピンサロの並びにあるホルモン屋さんなのであります。 土曜日の昼下がり、遅めの昼食がてらに訪れました。センベロお姉さんお勧めのセンベロセットとちょっとしたご飯ものでも頼めばちょうどいい休日の贅沢であります。「ホルモン 二郎」というお店です。ここのセットは午後2時から5時までというウィークな時間帯限定であるようで、平日に利用するのはなかなか難しいのですが、ここのは土日もやってるみたいなので、これは一度は利用しないと勿体ないのであります。早速入口すぐのカウンター席に腰を下ろし、恥じらいを感じる前に素早く注文を済ませるのでありました。ドリンク3杯におつまみorホルモンで1,000円。やはりホルモンが気になります。独りでもちゃんと一つ七輪を用意してくれるのは立派であります。炭焼きだから旨いなんて見分けがつくわけではないけれど、何となく本格的な気がして気分がいいものです。入口付近は寒風が時折吹き込んで寒いから炭火の熱気は有り難い。奥の席のおぢさんもセットを頼んでいます。間違いなくセンベロネットを読んでの来店だな。ぼくのすぐ後のお兄さんも迷わずセットを頼んでいる。立て続けのセット注文を見たグループも追加オーダーしています。店内あちこちに貼紙してあるのに気付かぬとはどうかしている。お肉はレバーとシロコロでありました。レバーは嫌いじゃないけれど好んでは食べぬけど、たまに食べると美味しいものだなあ。シロコロは脂の強さが色んな意味で気になるけれど食感や味わいの深さはなかなかなのですね。しばらくして食事用のビビンバが届きました。鉄鍋でジュージュー焼くタイプでないのが残念だけれど、別にオコゲが好きってこともないから実は構いはしないのですね。明日も休みと気分も軽い土曜日のお昼過ぎ、お腹もいっぱいだし、ほんのりと酔いも感じています。一旦帰宅して昼寝でもして暗くなったら呑みに出ようかな。それとも休みの夜位は家呑みも悪くないなんて思えるのはサラリーマンの一番幸福な時間なのであります。
2019/02/27
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京成西船には何度も行ってるつもりだったのに、どうしてまたこんな素敵な酒場を見落としていたことやら。これで己の目が節穴でないとはとてもじゃないけれど言い張れなどしないのであります。「兵助」はJRの西船橋駅と京成本線の京成西船駅とを結ぶ通りに沿ってあり、ここで乗換えをしたならまず見逃すはずがない場所にあるのです。しかし、ぼくは見逃していたようです。それも何度もこの道は歩いているはずだから一度ならず二度、三度と不覚を取ったのです。これは不覚という言葉で片付けてよい過失ではない。重過失という言葉でも足りぬであろう。ここまで愚かしいチョンボを繰り返してきた以上は、この酒場自体がぼくの視界から身を隠しているとしか思えないのであります。まあ、そんなはずもないのだけれど、たまたまいつも休業で、そうなるとけして明るい道ではないから廃墟か何かと勘違いして素通りでもしていたと思うしか解釈のしようがないのであります。猛然と店に向かいました。向かったはいいけれど、非常に混んでいる。満席で入れぬのであれば待つしかないところだけれど、店の方の応対は非常に冷淡かつ取り付くシマもないのでありました。しからば出直すことにしよう。 ということで向かったのは踏切を渡った先にある「とんかつ 山道」なのでした。とんかつ屋で呑むのはいつだって勇気のある決断を突き付けられることになります。蕎麦屋でそばを食わぬのは不粋でありますが、もりそば程度ならそう無理なく食べきることも可能です。ラーメン屋だったり牛丼屋だったり専門化、細分化された店では、そのメインとなる品を食べぬのはやはり決まりが悪いものです。うなぎや天ぷらなんかもなかなか扱いが難しいけれど、これはまあ白御飯なしでも場合によっては許されるかもしれぬ。トンカツも似たようなものであるけれど、トンカツ屋で白御飯を食べぬ人はあまり見かけぬものです。小津安二郎の映画ならトンカツ屋を酒場として活用するシーンも見られますが、それには相当に旺盛な食い気と呑み気で見る者を圧倒する程度でなければ説得力がないのであります。だから独りではトンカツ屋ではなかなか呑む気になれぬのでありますが、この夜は同伴者がいました。この方はぼくなどよりもさらに食が細い方でありますが、それでも少なからずの援助は期待できそうです。しかしそんな杞憂は不要でありました。品数こそ多くはないけれど、酒の肴になる品がいい具合に揃っています。しかも落ち着いたムーディーと言えなくもない内装についつい長居してしまいそうになるのでした。無論、トンカツもいただきました。立派なサイズで普通に美味しい。絶品のトンカツもたまにはいいけれど、酒の肴にならちょっと硬い位のカツにたっぷりのソースがいいのです。 また、踏切を渡り「兵助」の戸を開くのですが状況は変わらずです。仕方がないから今度はトンカツ屋のお隣の「居酒屋 圭ちゃん」にお邪魔することにしました。やや雑然とした店内には4、5名のお客さんがおり、カウンターの向こうにママさんがいます。カラオケのありそうな雰囲気でありますが、幸いにも一度も歌を聞かされることなく済ますことができました。いかにもなことですが、やはりこちらに独りでフラリと呑みに現れる客は少ないらしく―そうそう、同伴者は所用で帰宅―、ママさんと常連がジャブにてぼくの正体を探りに掛かりますが、そうこうするうちに受入れていただけたようです。お通しは竹の子の煮付けであります。カウンター上の惣菜から選ぶスタイルですね。これが種類が豊富でどれも旨そうなのです。今のように腹いっぱいでなくてもこれ一品があればもう肴はいらんのじゃないか。お隣さんは同世代のご近所さんということでやけに話が盛り上がり、こっそりとママさんに内緒といってキープしたボトルから何度か焼酎を注いでくださいました。打ち解けた雰囲気のとてもフレンドリーな酒場なので、ここでまあいいかとも思わぬでもないのですが、次に西船橋に来るのはいつのことになるか分からぬと思い切って席を立ち、勘定を済ませて、三度「兵助」を目指すのですが、どうもタイミングが悪いようです。一向に席を立つお客さんはいないようです。仕方がないけど、悔しいなあ。
2019/02/26
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沼田―後閑を巡り、まだ旅を〆るには早い気もますがそろそろヘバッてきたので高崎をこの旅の締めくくりの町とすることにしました。高崎には事ある毎に立ち寄っているのにいつも短時間を寄り道するばかりでじっくり腰を据えて散策した事はない気がします。本当はここでもいかにも観光らしい予定を立てていたのですが、高崎が初めてという同行者の希望を取り入れる事にしました。かつてのぼくならエゴを剥き出しにして、どこまでもひたすらに己の希望を押し通したものだけれど、ずいぶんと他人との和を尊ぶようになったものであります。かつての旅は他人を伴うだけの個人旅行だったけれど、ようやくにして旅のさまざまな見聞を共有する事の歓びを知ったというところでしょうか。ともあれ、高崎の市街地をひと巡りしているうちに空も赤く染まってきました。ここらで旅の終わりの食事、いや一杯やって帰京することにしましょうかね。 高崎ではこれといって立ち寄りたい酒場もなかったので、同行者の意見を聞くとそれなら郷土料理の食べれる店が良いと仰る。どこに行っても似たような肴で呑んでるぼくではありますが、提案があればそれに従う程度には協調性を持ち合わせています。ところがネットで調べると群馬ってこれといった郷土料理などなさそうなんですね。駅に併設のショッピングビルに横川名物の峠の釜飯の販売元が出してるお店があって、それは高崎に到着した際に見掛けたけれど、そこは最後の選択肢にしたい。どうやら近くに絹市場なる飲食店を寄せ集めたエリアがあって、その一軒「絹市場 田舎料理 来来(らいらい)」というところで地元の料理を頂けるらしい。ここは絹市場オープンに併せて群馬県南西部の山間にあり、高齢化率日本一の自治体としても知られる南牧村から移転して来られたとある。ちなみに南牧村は「なんもくむら」と読むらしく、長野県にも南牧村がありますが、こちらは「みなみまきむら」と読むそうです。さて、そんな店だから店の情緒とかそういったものは少しも感じられず、高崎まで来てこれでいいのかと忸怩たるところもあるにはあるのだけれど、それも料理が良ければ良しとしよう。カウンター席には地元の方が肩を並べて呑んでおり、そこに東南アジア系の青年が入ってきました。漏れ聞こえるところによると彼は休みの日には県内の各地に出向いて良さそうな居酒屋で呑むのが楽しみだという。西洋の人が日本の居酒屋文化に理解を示してみせるなんて光景は時折見かけますが、アジア系の外国人にもこうした趣向を楽しむ方が出てきたのは果たして良い傾向なのかなあ。まあそれは置いておくとして、鉱泉湯豆腐、こんにゃく寿司、餃子などを頂きます。鉱泉湯豆腐は何とかいう温泉の鉱泉をニガリ代わりに固めた緩い豆腐鍋で、基本は温泉水の含有する塩分で頂くというもの。ありそうだけれど他にはあまり見掛けぬ料理でこれはこれでなきオツなものです。とまあ色々書きましたが、少なくとも近所にここぞという酒場がなければやっぱりぼくもここに通ってしまうんだろうか。「安兵衛」は、高崎では古参の酒場であるらしいことは帰京してからしったけれど、一瞥した限りはでかい赤提灯が目立ちはするけれど、そこらにどこでもありそうな普通の居酒屋に思えました。しかし、まず店に入ってその繁盛振りにただのお店ではなさそうだという印象を受けました。あまりの混みようにわれわれはしばらくの間、入り口付近で待機するを余儀なくされました。所在なく店内の様子を眺めることになりますが、こちらはどうやらおでんがメインのお店のようです。ぐるりと囲みのカウンター席が店の中心に据えられているのもいい感じです。しかしなんというかこの立派なカウンター席で独り呑むというのはかなりのプレッシャーを感じずにはおられない気もします。実際、独りの客は見受けられず、大体がカップルというのも敷居を高くします。やっと順番が回って来て、カウンター席の奥に通されました。これがまあ窮屈なんですね。おでんの季節はやはり冬ということになりますが、冬は外套などで何かと手荷物が多くなりがちなので、それが邪魔っ気で呑みに集中できないのは客の側の責任なのだろうか。目の前にはおでん鍋がふつふつ煮えているし、燗付け器も風情があるけれどどうにも落ち着けないのが至極残念なのであります。全般的に庶民的な価格と味ではあるけれど、高級おでんと立ち呑み店などの格安おでんとの中間の曖昧さが付きまとい、どうも身が入りません。どうやら高崎の酒場とはソリが合わないのかもしれないなあ。いやいや、これほどの規模の町なのだからきっとぼくの落ちこぼれた感性にも引っ掛かる酒場がきっとあるはずです。もっと腰を据えて高崎を散策する必要があるみたいです。
2019/02/25
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前夜であっても本当ならば土合駅まで行けなくはなかったのです。でも日も暮れていては絶景を眺め損ねてしまいます。ということで翌朝は上越線で土合駅に向かいます。土合駅は鉄道ファンなら知らぬ者もおらぬだろうから、鉄道ファン向けのブログではあらざるところのここで敢えて語るは不適切であろうと考えるのです。でもそれでも敢えて一言だけ語っておきたい。ここの風景を眺めるのは、観光の真髄たる驚きをきっともたらしてくれるものと信じて疑わぬのです。地の底から700段だか800段だかの緩やかな階段をひたすら上がります。その苦行を厭う余りにこれまで何度となく機会がありながらそれを放棄してきた自分に口惜しく思うとともに、この年になるまでこの楽しみを取っておいて良かったと心底思うのです。そして、できる事なら雪の降り積もる季節に訪れて頂きたい。これ程の景観を鉄道ファンに独占させるのはあんまりにもったいない。ここには観光の愉楽そのものがあります。 土合駅を出てその脇には「谷川岳ドライブイン お菓子の家」がありますが、ここはまだ営業前です。商品ケースを眺めますがなかなかの強気な価格設定です。また場所が場所だから仕方が無かろう。土合駅からは急げば上り列車で折り返すこともできますが、それも芸がない。調べると土合駅から水上駅に向かう関越交通の路線バスがちょうどよいタイミングで通りかかるようです。このプチ贅沢なアイデアはぼくではなかなか思い浮かばなかったかもしれません。なんてったって、せこいからね。これでうまい具合に上り列車への乗り継ぎができるのです。他に乗客もおらぬ車内からの眺めは列車からはうかがい知れぬ地域の生活も垣間見られ興味深いし何より楽しい。途中の鄙びた温泉街も風情があるなあ。 水上駅前には「喫茶 軽食 白樺」などの土産物店を兼ねた食事処や喫茶店がありますがまだ営業前です。店内を見ても格別な見どころはなさそうですが、それより何より実用に沿った使い方をしたかったなあ。水上駅前で多少の時間があるのは大概が朝方です。水上駅からは上越線にて沼田駅に向かいます。水上駅はJR東日本の東京近郊区間に含まれるので、途中下車ができるようにその一駅先の湯檜曽駅から東京都区内までの切符を購入しました。もっと効率のよい買い方もありそうですが、ぼくの鉄道知識ではこれが目いっぱい。 かつて新潟に住んでいた頃や実家に帰省する際などそれこそ飽きる位にこの列車に揺られたものですが沼田駅で途中下車した事は何故かありませんでした。新潟に向かうには、取り敢えずは水上までは到達しておきたいと思うのは時刻表を眺めて頂くまでもなく容易に推測できることでしょう。しかしまあそれもケチ臭く交通費を節約しないなら幾らも手の打ちようがあることをこの先知る事になります。 沼田には思い付きで立ち寄ったので具体的なプランは用意していません。駅前にはこんな時にお誂え向きに?無論お店の方もそれを当て込んではいるのでしょう?「喫茶 ハイマート」がありました。特に目立つところのないごく普通、いや外観だけならむしろ都内のコーヒーショップと変わらぬような構えですが、こういう地方都市ではあるだけで有り難いと感じてしまうのです。そしてじきにそれが大いに不遜な傲慢な考えであることを知るのです。それさておき店内は山間の町らしくウッディな質感を前面に打ち出しており、個性はないけれどとても使い易くこの先の行程を話し合うにもってこいの環境でした。 ここで主人に沼田城址に向かうには目の前のロータリーから出る路線バスが便利とお聞きしました。地図を眺める限りはそう遠くもなさそうですが、せっかくなので停留所に行くと一台のバスが出発までの待ち合わせをしています。運転手に聞くとこのバスが通るということなので言いつけに従いバスで沼田の市街地に向かうことにしました。あっという間もなく降車地点に到着。しかしそこまでは急峻な坂道が続いていたので随分時間を節約できました。 まだ「ティールーム 針葉樹」は、開店前なので城址公園をしばし散策。町を見下ろす展望地点に立つと駅は遥か下方に豆粒のように小さく見えました。見晴らしが良くて実に気分が良い。思ったより見どころが多くてゆっくりと散策できました。そろそろ公園前の喫茶店も開いただらうか。店の前には観音様だったかな、が置かれたりして西欧風のルックスに先鋭的なニュアンスを添えるそのセンスはとても好みでした。店内からも緑の木立ちが眺められ気持ちが良いのです。動植物に関してはまるで教養のないぼくですがその木々が針葉樹に見えぬのも想像力を掻き立てられます。内装はおとなし目で特に目立ったところはありませんが、散策の小休止にもってこいな素敵なお店でした。 あと、写真を撮り損ねましたが丸テーブルに木製チェアが素っ気なく配置され、これでもう少し広ければ西部劇に出てくる酒場みたいな雰囲気の「カフェ・ド・ロジェ(CAFE de Roge)」はありそで案外見掛けないタイプのお店でぼくは案外こういう店も好きだったのだと気付かされました。 他にも「喫茶 エスポワール」や「喫茶 ベルグ」などをお見掛けしたけれどこれらはお休みのようです。特筆すべきはこの町の散策がなかなかに楽しい事です。古い店舗や艶めかしい路地なども多く広くはないのでそんなに時間を費やすことなく充実の町巡りができるのです。 ちなみに帰宅後に町の地図を見て思い出したのがこの町には「スナック&喫茶 駅」というのがあってそのお隣の「かずのや食堂」ともどもぜひお邪魔したいとかねてから考えていたのでした。その時はすっかり失念していました。その見栄えについてはストリートビューから拝借。 沼田駅からは後閑駅に引き返すことにしましたが、これは後閑のお目当ての店が11時30分からの開店だからです。時間をうまくやり繰りするには多少の贅沢も必要ということか。沼田の市役所前から出ている関越交通の路線バス―実際にはそのちょっと手前の保健福祉センター前が起点で、乗車したのは隣の東倉内町というバス停でした―に乗車しました。おばさま二人がバスの発車時刻を確認して猛然と歩き出しので、懸念がわきますが、2停留所先の沼田局前という停留所で2人は立って、ぼくをにやにやと眺めています。やられたと思いますが、こうしたバス旅はセーフティが原則です。結局後閑駅までで50円の差額が生じましたがそれも仕方ないことです。このバスは後閑駅や上毛高原駅を通って、赤谷湖というダム湖のそばの猿ヶ京まで行く結構な距離を走る路線でした。
2019/02/24
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葛西とはとんと縁が浅いままにこれまで過ごしてきました。正確には東京メトロの東西線沿線には滅多な事で近寄ろうとしなかったのでした。いやまあ実際のところは大概の駅で下車してはいると思うし、駅周辺を散策してもいるのです。しかし、このところ船橋方面に出向く機会が増えたのでこの際だからと下調べしてみると、東西線沿線はなかなか面白そうな酒場が点在していることが判明しだしたのです。そう、喫茶店巡りの一環でこの界隈を歩いてはいるけれど、夜の酒場巡りの対象として認知していなかったのです。自宅からそう遠くはないけれど、平日にホイホイと足を運ぶには少しばかり遠く思えたのです。うわっ、どうでもいい事を書いているなあ。何を言いたいかというと東京メトロの東西線は東京ならざる千葉の西船橋まで通っているし、一日乗車券を駆使すれば休日のお遊びに丁度いい塩梅だから今年の前半は遊び倒す事にしようと思うに至ったのであり、この場でその意思を表明することで少し責任を追うことで自らの行動力を鼓舞しようなんていう姑息な魂胆を孕んでいるのであります。 などと長々書きましたが、今回訪れた葛西は職場の知人がここに住んでいてしかも自動車通勤をしているのだから、労せずとも送り届けて貰えるのでありました。ならばこれまでどうして送ってもらわなかったのかは大した理由もないから語らぬことにしますが、そんな先日酒場放浪記に葛西の酒場が登場したことがキッカケなのだから、件の番組にはこの点においては感謝せねばならぬかもしれません。お陰でそこに至る道中に「新鳥番」を見つけるに至ったのですから。駅からは少々距離があるけれど、途中で降車をせがめばいい事だから帰りさえ多少の面倒を持さねばさしたる苦はありません。車中から眺めただけでもくだけた雰囲気の地元に根付いた酒場であることが感じ取れました。気になるのが暖簾というのとは違うなあ、垂れ幕に新という文字を認めたことです。恐らくは先代が跡継ぎの不在で一旦は店を閉めたけれど、息子が後を継ぐとかいうことになり、ついでに改装などして再開したというんじゃないだろうか。いかにもありそうなことだけれどその真偽は未確認であります。そうしたエピソードは当事者にとっては特別な出来事に違いないけれど、部外者には案外退屈で凡庸なものなのです。しかしというかやはりなのか、店には部外者はほとんど認められず初老のご夫婦などの男女カップルが目に止まります。が独り客で黙ってはいてもその場にしっくりハマっているのでぼくのような一見ではないことが明らかです。皆さん、和気あいあいとしたムードを放っていて、ぼくだけは孤独です。孤独だからって悲壮な表情を浮かべるのはご法度です。薄っすらと笑みを浮かべて人々を眺めるともなしに眺めているといった程度の素振りを見せるのが良い加減に思えます。とまあ、これはぼくの想定した振る舞い方なのでありますが、ぼくの笑顔というのはニコニコのつもりでいるけれど、人にはどうもニヤニヤと受け取られる事が少なくないから思うようにはいかぬのです。さて、こちらの名物はやきとんでありまして、かなり強気のお値段設定です。その所以はサイズの大きさに求める事も可能なのですが、それにしたって少しばかり強気が過ぎる気がします。失礼な言いようではありますが味が良いのは正直言うと驚きでした。ここは安くはないけれどちゃんと納得し得る商品を出してくれるのです。だからなのかなあ、年長の方が目立つのは。と言っても彼らの食がぼくよりさらに落ちるという事を意味していません。何せ彼らは健啖かつ裕福だったりするものなのです。おっとそんなことを考えたらわざわざ作った笑顔が引きつってしまう。酒場で他人の財布の中身を気にするのはいかにも下劣だと肝に銘じねばなるまい。
2019/02/23
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ぼくには侘しい繁華街ではない場所で呑みたくなるという習性が染みついているようです。そうした侘しさに惹かれる衝動は、平日の夜だってお構いなしに訪れるのであります。とはいえ翌日もあるから町外れの飲食店については、いくつもの引き出しを手控えていて、その夜の気分に応じて制限付の気ままさで訪れてきました。それでもそうしたストックも底を尽きかけていたのですが、先晩西巣鴨に訪れた際に「むさし乃」なる蕎麦屋に遭遇。先晩はもっと歩きたい気分だったので誘惑を振り切ったのだけれど、知った以上は行かぬ限りはいつまで経っても気分はムズムズとうずくのであります。ということで早速その蕎麦屋に向かってとげぬき地蔵を通過、さらに豊島市場も通過したところでようやくその蕎麦屋は姿を現します。あれ、そろそろ店舗が見えるはずなのにどうしたものかまだ見えぬ。何のことはない、この日はお休みだったようです。がっかりするのも束の間。その路地のさらに奥に中華料理店らしき灯りが見えていました。ちっとも知らなかったなあ。 これは気が付かなくても不思議じゃないよなあ。暗い夜道に赤い看板が煌々と灯っているので写真を見る限りは見つけられても何も不思議はないとお思いでしょうが、店舗は奥まっておりしかもいつもだと手前の蕎麦屋がやっていて、そちらが結構明るく目立っているから、20~30mは通りの奥にあるここは気付きにくかったのだと己の不注意を弁明させてください。この夜、たまたま蕎麦屋がやっておらず一度は悔しがりつつも「中華料理 蘭蘭」との不意打ちによる遭遇が吉と出るか凶と出るかはやはり入るまでは分からぬのであります。町中ならそう意外には思わなかったのだろうけど、こういう奇を衒ったりする必要のなさそうな場所で中2階とは虚を突かれるようです。しかも中に入って分かったけれど、このお店の面白いのはその中2階という特殊な環境の武器ともなりうる景観を少しも活かすつもりがないのです。実際に表を見張らせたといっても何が見えるということもなかろうけれど、それはいかにも勿体ない。例えば東池袋に焼酎Barらしき店があって、その通りは何の面白味もないし、人通りもけして多くないから眺めが良くてもつまらなかろうけれど、少なくとも通りを歩いているとそこからの眺めを思い浮かべてしまうのです。ともかく、カウンターだけの密閉感のある造りは最初は蒸し暑く感じられるほどに濃密な空間でしたが、慣れると実に居心地がいいのだ。ほんのちょっぴりの煮物を肴に瓶ビールを呑みつつ悩みに悩んで注文してしまった醤油ラーメンと天津丼のセット:700円を待つのでありました。一品料理で軽く呑んでという想定でありますが、餃子が450円であることを思うとついけち臭い根性が顔を覗かせるのでした。味はまあどうこういうものではないけれど、妙にリアルっぽい夫婦像を演じてくれる店の方たちがちょっと愉快で、思い出したらまた来たくなるようなお店でした。 さて、次は何処に行くべきだろう。実のところ結構迷っていたのです。でも自分の知識なんぞは実地に一歩進むだけで思いがけぬ風景をもたらしてくれるらしいのです。呑むことによる時空の変調は実際にあるようです。「おふく」だって40年を超えてやっているらしいのだけれど、その存在すら知らずにいました。もはやこうした典型の居酒屋は後世に引き継ぐために有形文化財すべきではないか。それはともかくとして、寒いので熱燗を頼みました。アァいかにも熱燗たよねえ。お値打ち品というアサリバターを注文。ジャリジャリ多いけれどまあそんなものか。こんないい雰囲気にいさせてもらえるだけでまあそれなりに満足なのです。しかし、それにしてもジャリジャリし過ぎるなと思っていたら、これが旨いのだなんてことを呟いてみれば気が利いているのかもれしれぬけれどそんなことはないのでした。なんて書いているけれど実はこの居酒屋に興奮していたのです。何かこれがぼくの居酒屋の原点に近いと思ったからです。だからあさりバターのジャリジャリの酷さなど無視してもいいと思ったのだけれどそこは正直であるべきだ。最初は一組だっただけの閑散たる店内に徐々に客が入りだすのには驚かされました。だって表に人は通わぬのだから。だったらなおのこと、店を雰囲気だけに留まらせずにいてもらいものです。惜しいなあ。
2019/02/22
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勝手を知らぬ地縁の薄い町で、ちょっとした用事があったとする。そんな機会があったら当然、その夜は早々に用事を済まして、見知らぬ町を思う存分に散策してみたくもなるものです。だから事前にすでにして綿密なリサーチを嬉々として行っているのでした。しかし、どうもその町には芳しい酒場はなさそうということになろうとそう困ったり憤慨する必要はないのです。何しろ時間はたっぷりあるのだから、近隣の駅に移動すれば何とかなるだろう。実際にお隣の駅には気になる酒場もあるから散策が不首尾に終始するとなれば、慌てず焦らず目当てを近隣に切り替えれば済むだけの事なのです。しかし、早々に用事を済ますという大前提を忘失することがある。リサーチが加速してもう本来の目的はどこへやら、興味の向くままに調べを尽くす過程で、用事が長引くといういかにも生じうる予定変更が脳内から消し飛んでしまうのです。まさに日野で起こったのがこの事態であります。日野の駅前を散策してどうにもならなかった場合は豊田なりに移動すればよいだけの事と能天気にも考えていたのです。しかし、時間は10時も近く日野を散策する余裕もないし、移動などして時間をロスする訳にもいかぬということでやむなく普段なら見送るであろう一軒の居酒屋に入ることにしたのでした。 見送ろうと、そう思った所以は極めてはっきりしています。「居酒屋 夢路」はまずもって見栄えが立派でちょっと高級そう、居酒屋と呼ぶには貫禄が有りすぎるように思えるのです。立派ということはお値段が張るに違いない。財布の中身まで予定に併せるというのはやはり想像力というか危機管理意識の欠如を認めざるを得ないのであります。だからといって躊躇する暇はないのです。愚図愚図していて店仕舞いの時間となってしまっては、わざわざ日野まで来て全くの収穫なしということになりかねぬ。金銭面に不安が生じたら潔くしまったという風な演技にて最低限の出費で店を出ればいいだけの事である。と店内のカウンター席に着くまでの間に気持ちを確認し、品書きを開いたのでした。おう、案外庶民的な価格帯ではないか。生ビールもお手頃だから当然注文することにしようか。肴は、そうねえ時間も時間だしといつものように迷うこともなく魚介サラダを注文したのですが、これが正解でした。いや、随分前の話だから実のところほとんど覚えていないのだけれど、生臭いとかの理由ではなくその正反対に旨いのだけれど量が多くて持て余してしまうほどなのでした。野菜も取れると一緒に食べてカルパッチョ風味を味わうこともできる。なんて気取った感想はみっともないけれど、ぼくはここにまた来ることがあってもこれで肴は十分だなあ。なんてカウンターの隣席の男性はこれまでに散々食い散らかしていたにも関わらずさらに3品も注文していやがる。他人が何を注文しようと構いはせぬのだけれど、聞こえるか聞こえぬかで店の大将に向かって、どうやらぼくのことをちょいとおちょくったようだから書いておくことにしよう。酒も進まずに肴ばかりガツガツ食らうのは店の方はいいかもしれんが、余りかっちょよくないぞ。
2019/02/21
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西巣鴨は帰りは都電もあるし、都バスで帰ってもいいけれど、行きはできれば山手線の巣鴨駅から歩きたいのです。それは単純に定期券の範囲内でつまりは運賃が余計に掛かるのを極力排したいという庶民感覚の現れであるのです。とげぬき地蔵の参道を歩くと明るいし、多少は賑やかだけれど、少しでも早く近づきたいということになれば白山通りをひた歩くのがほんのわずかの差ではあるけれど近いはずであります。と改めて地図を眺めると、そう変わんないじゃん。豊島市場側の店を目指すなら白山通りを歩くのが良さそうだけれど、とげぬき地蔵側の酒場に行くならどっちも変わらんなあ。まあいずれどちらの通りも歩き飽きているのだから、ならば代わりばんこに歩くのがいいかもしれんな。などとつまらぬことばかり考えている。退屈ならその時間をもう少しくらい思索に費やしたらこの文章もいくらかましになるかもしれぬけれど。 地下鉄の出口のあるビルを駅ビルと呼ぶのが適当かわからぬけれど、板橋とか駒込にある焼鳥店の支店が西巣鴨に新たに店舗を出した事はかねてから耳にしていました。「焼鳥どん 西巣鴨店」は、西巣鴨駅から出てすぐのビルの二階にありましたが、ぼくにはここはなかなかに便が良くないので二の足を踏んでいたのです。何せ交通費をケチって巣鴨駅から歩くから夜道を15分近く歩く事になります。大した距離では無さそうだけれど、ちょくちょくここを歩いていると当然ながら飽きてしまうのです。まあ、それは自ら選んでのことだから仕方がない。まあ確かに巣鴨駅で都営線に乗り換えていては、お金ばかりでなくむしろ時間の無駄にもなりかねぬと思えば賢明な選択であると思うことにします。さて、カランと寒々しいビルの二階に上がりその奥に店はありました。分かりにくい場所なのにそれなりにお客さんが入っています、がそれでももう少し混むくらいでないと採算が合わぬのではなかろうかと心配になります。さて、ここのもつ焼は100円と安価な割りにデカくて味も良いから気に入っています。毎晩のようにもつ焼きばかり食べていても美味いのだから間違いはない。ツクネにたっぷりタルタルソースをぶっ掛けたメニューもあってこれは食べごたえが凄いことになってるなあ。カロリー神話を日頃否定しているクセにさすがにこれには怯んでしまったのです。無論間違いない美味さではあるけれど、少なからず胸焼けを覚えた事は書き残しておいても良いと思う。油酔いする方はご注意あれ。 って言いつつ次なるお店は「そば処 もりしょう」なのです。本当はここに立ち寄るつもりはなかったのだけれど、通りすがりに店内を覗いてみると確かに呑んでるお客がいる。しかもよくよく見るとチューハイが180円と破格の安値なのでした。ならば寄らぬわけにいかぬとなる訳で、店内で改めて品書きを眺めると板わさばかりでなくアレコレの肴があるではないか。無論蕎麦のトッピングの天ぷらやコロッケも揃っています。これは大当たりのお店を見つけてしまったなあ。他にはあとお一方おられるばかりで空いているのも有り難い事です。店のオヤジさんは物静かな丁寧な応対をなさる方でこの点も大いに好感の持てるところであります。何でこれまでこれ程の良店が見向きもされずにいたのか。新しくもないけれど古くもない、そゆな曖昧な立ち位置がそうさせたのだろうか。それはよく分からぬけれど、締め括りにカツカレーを貰うことにします。胃が重いとか言っておいてどうかと思うけれどここでは素晴らしい事にハーフサイズがあるのです。ハーフサイズのカツカレーの幸福たるや、食い気はあっても思ったようには食えぬお年頃のぼくには最高の献立であります。いやあ、幸せだなあ。 西巣鴨駅に向けて歩くのは決まってこの酒場を訪れるためでありました。最後に訪れたのはいつの事だったか。何度も空振りして無念な思いをしたものですが、当時この二軒があったなら多少なりとも通う機会は増えていたことを思うと非常に残念に感じるのです。そしたらあと5回、いや10回はお邪魔できていたのになあ。
2019/02/20
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この数カ月に亘って金町の酒場を巡ってきました。これまでも書いたことですが、金町に対するぼくの見解は明らかに消極的で一方的な決め付けと偏見にまみれていました。それがたった数百メートルの距離を歩いてみたことで、そして一軒の酒場と出会う事でその偏狭な視野が拡大し、これまで視界から排除してしまっていた様々な風景をもたらしてくれたのです。町は情報に踊らされることで確実にその豊かさを削がれているのではなかろうか。情報は人を駆り立てるための仕掛けとして有用な場合もあるけれど、それに頼る事で自らがその脚を駆使することにより己の視野を狭める結果も招くのであります。まさにぼくがその典型で、日頃自身の勘と経験を持ってとにかく動く事を推奨してみせてはいるけれど、現実には未だに情報に翻弄されたままです。だからといってそれを理解したところでどうにかできるものではない。いや、例えば路地を見たら必ず足を踏み入れるとかそうしたルールを己に課するとか手の打ちようは幾らもあるけれど、わずかしか与えられぬ自由な時間を義務に縛られるのは溜まったものではない。だから今回の金町における一見の酒場との遭遇、そしてそこを契機とした芋づる式の酒場の連鎖という幸運は、己の努力や探索力などではなく、単なる幸運でしかないのです。 さて、芋づる式とはいえそのつるに成る芋なり果実なりにも限度があります。そのつるに成る最後の一軒は、「居酒屋 又来家」というお店でした。この界隈の酒場の中ではかなり平凡な外観を晒しているため後回ししてしまいました。店名の捻り過ぎなところもどうも気勢を削ぐ効果のみ強調されるようです。そういう先入観でこれまでも優良酒場の多くを見過ごしてきたことも紛れもない事実としてあるのだけれど、酒場を日夜飽かずに訪れる理由の少なからぬ割合がそこにこそあるのだから、やはりそこは安易とは譲れぬところなのです。それはともかくとして、店に入ってみると周りの店にも負けず劣らずのなかなかに良い雰囲気ではありませんか。捻りや衒いのない実直などストライクの王道路線の内装です。ひと頃は世のムーブメントに流されるが如くにコの字のカウンターがどうのと祭り上げてしまいましたし、無論今でも好きだけれど、数多く見てくるとそれにも食傷気味になるのです。他とは違う際立った個性は楽しいけれど、今時の潮流に乗っかってみましたというような新しい酒場には、どこかの真似っこはせず己の理想の酒場の形を追い求めて貰いたいものです。所詮モノマネからスタートした店に愛着や執着の気持ちを切らさぬのは難儀な事のはずです。さてさて、一般論はいい加減にしておくこととして、コチラのお店、主人は年齢不詳ではあるけれど50代位であろうか、店の枯れたムードからすると2代目だったりするのか。その際に店名をいじったと推測してみたりするが、なかなかに自分の仕事に厳しいタイプのようでお聞きする暇はなさそうです。でも手が空くと常連さんにも硬いながら笑顔を見せ好みであります。変な意味ではなく。料理というか肴も手堅いなあ。手が込んでるとかいうモノではないのだけれど、摘んでいて飽きがこない。蒸し鶏など簡単な調理でできるのに何故か家で食べるよりずっと美味いのです。調味料を駆使して味変出来るのが独り酒の楽しみであります。それにしてももう少し駅から近ければたまに通いたくなるのになあ、いやちょっとだけ不便だから荒らされずに続けていられるのだろうなあ。またいつかお邪魔したいなあ。
2019/02/19
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富岡観光を終えて、向かったのは、水上であります。この日はこのブログでは稀有なる温泉宿が宿泊地となります。水上駅に到着すると駅前はもうすっかり夜の帳に包まれていて、黒い夜空を見上げるとちらほらと舞うものも見えています。足元に気を付けながら温泉街を目指します。かなりの距離を歩かされることを覚悟しましたが、思ったよりずっと簡単に温泉街に辿り着きました。途中、何軒かの居酒屋やらスナックらしきものもあり、事前にある程度は調べておいたとはいえ、ホッと胸を撫で下ろします。コンビニらしき店舗もないから下手をするとホテルの売店で食いつながざるを得ません。宿泊先である「せせらぎの宿 水上温泉 ホテル一葉亭」は、チェーン展開する閉業ホテル建屋を買い取ってのリノベーション系格安温泉ホテルのようで、食事はバイキング方式にして経費削減を徹底化し、低価格化を実現しているようです。部屋は改装前の純和風でたまにはこういうのもいいなあと思うのですが、結局くたびれ果てて、風呂に入らず、和室の夜も堪能せずに寝落ちしてしまったのでした。 駅からホテルに向かう道中に見掛けた酒場でもっとも怪しげなムードを放っていたのが「和風スナック だるま」です。スナックってのが幾分気にならぬでもないけれど、迷うほどに多くの酒場があるわけもなく、旅装を解くと早々とこちらに向かうことにしたのでした。それにしてもそれほど多くの温泉街を知っているわけではないけれど、宿に入るとホテルなり旅館なりにこもりっきりになってそれで満足するお客さんが多くなったのか、大概の温泉街は昼間こそ土産物店やスマートボール屋がやってる程度で、居酒屋など滅多にないものです。都内近郊の箱根や熱海にしたところでラーメン屋がある程度でほとんど居酒屋がないのでした。なのに、まあそこそこ知られてはいるけれど、日本の温泉地ベスト10などやってみたとしてもまず名を上げられぬであろうこの県境の小さな集落の温泉街にこれ程までに現役で営業している居酒屋があるというのは心強い限りであります。これから入ろうとしている「だるま」にしてみても、あからさまにスナックを連想させるような地下のお店でありますが、実際にそこに収まってみるとスナックっぽさは微塵も感じられず、見損なっただけかもしれぬけれどカラオケ機器もなかったような。カラオケがない代わりではないけれど他の客もおらず、演歌のようなシチュエーションにそれはそれで気分がいいのでした。日頃演歌を聞くことなどまずもって皆無に近いけれど、こうした余りにも日本らしい日本の酒場の中に身を置けばこれは独り黙りこくって時折突き出しのおでんを摘みつつ、ひたすら熱燗を胃の腑に流し込むなんてのが似合いそうなところで、その状況を脳裏に浮かべるだけで酔っちまいそうなのです。ところがこちら、それだけじゃないんですね。内陸の山間地であるというのに刺身がビックリするくらいにうまいのです。よもやこんな土地でこれ程に旨い魚介に巡り合うとは思ってもみなかった。実は少なからず感動しました。まあお値段はそれなりなので心してあれば満足して頂けるかと。 さて、でもまあ当然物足りぬ。もう一軒ばかりお邪魔しよう。ちょっと面白そうな店が何軒かあったので迷いましたが「お食事処 雪松(雪松食堂)」にお邪魔することにしました。店内は外観から想像するよりずっと広くて、昔風のお店というよりは、案外に落ち着いた居酒屋さんのようでした。で出すのは中華料理という事で何だかチグハグとしたところは人によっては面食らうところでしょうがゆっくり呑んだ後に麺食らうのは大いに歓迎します。でもそうは食えぬからワンタンと八宝菜を注文します。味はまあそこそこですが、量は多いくらいですっかり満腹になりました。他に客のいない店内には自分たちの声と食器の当たる音だけが響いて、こうした物悲しさにも旅情を感じるのです。
2019/02/18
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ぐんまワンデー世界遺産パスというのが発売されました。今年いっぱい群馬県内のJR線(埼玉県の深谷駅以北や栃木県の小山駅以西が乗車可、特急券を購入すれば新幹線にも乗れるのだ)、上信電鉄線、上毛電鉄線、東武鉄道線(栃木県内の駅も一部乗車可)、わたらせ渓谷鐡道線の普通・快速の自由席に乗車できて2,100円という大変お手頃な乗車券なのです。カッコ書きの注は複雑なので詳細はHPをご覧ください。今回の旅のきっかけは、このパスが発売されたことを知った時に遡ります。遡るといってもこのパスを使いたい、いや使わねばもったいないとおもっただけでありまして、お手頃な切符などの各種乗車券がきっかけに旅のプランを模索するということがぼくには良くあります。今回も特に群馬が好きだとか気になるだとかではなくて、たまたまお手頃かつお手軽に旅することができるという理由からスタートしたのでした。 机上のプランでは、JR宇都宮線の宇都宮行で小山駅に向かいこのパスを購入予定でした。しかし、購入するために与られた時間はわずか5分。両毛線のホームが無茶苦茶離れていることを忘れいて、指定席券の購入できる券売機ならこのパスが購入できるということで、事前に用意していたQRコードを握りしめており、これまた改札口に駆け付けられる降車場所に席を確保までしていたのでした。これだけ綿密に計画に盛り込んでいたにも関わらず、これを購入できる券売機はなく、やむなくみどりの窓口に駆け寄るが、前の客とのろのろとした応対をしていたため、断念してまたもや改札をSUICAで通り抜けることになったのでした。しかも先に書いた通り両毛線のホームは無茶遠いのです。結局桐生駅にてこのパスを購入。わたらせ渓谷鐵道に乗車、車内にてベレー姿の微妙な出で立ちの青年から沢入駅から通洞駅までの車内補充券を280円にて購入したのでした。同行者のたっての希望により、先般訪れたばかりの足尾銅山にまた行く羽目になったのでした。 そう言ったけれどけしていやいや行ったわけじゃありません。わたらせ渓谷鉄道からの景色にしてみても前回は真っ暗でほとんど表の様子が見えなかっので、それを眺めるだけでも満足なのです。神戸駅の「列車のレストラン 清龍」や神戸駅の駅舎と駅前の「旅館 食堂 みどり」などの見所もありました。 通洞駅に到着。足尾銅山へ向かいます。ちょうど点検中で入場料が半額なのは、先般ひと巡りしたばかりのぼくには有り難い。待合所のポスターに「ぼくは初めて歴史を見た。光がまぶしかった。」の文章の過剰で大胆な語り口に身震いしつつ微苦笑を浮かべてしまいました。 ここで桐生まで折り返す予定ですが、時間調整のために前回お休みで入れなかった「ラポール」に立ち寄ることにしました。やはり閉まっていましたが店内からは人の気配がひしひし伝わってきます。写真で見る限りは、扉が閉まっているとそんな気配など微塵も感じられぬのに不思議な事です。しばらく散歩するうちに待ちきれず店内に声を掛けると入って構わぬと仰る。ならば遠慮せずにお邪魔します。外観と同様にあまり目立ったところのないお店ですが、しばらく腰を落ち着けてゆっくりとコーヒーを口に運んでしみじみ眺めてみると、金というか黄土色というかベルベット生地のような壁面にアラビアの如何わしいお店にいるような気分に浸ってきました。こういう店は普段の喫茶趣味とは違っていて、写真で眺めても余り面白くなさそうだけれど、現場ではそれなりの情緒を感じられました。通りすがりに「喫茶 ふくしま」なる閉業喫茶もありましたね。見逃していました。 わたらせ渓谷鐵道で桐生に引き返し、本当であれば西桐生駅から上毛電気鉄道で中央前橋駅に向かいたいところをぐっと我慢。再び両毛線に乗り込み、高崎駅に向かいます。ここで上信電鉄に乗り継ぎ上州富岡駅を目指します。 ここからが本当の群馬の旅です。上州富岡駅と言えば富岡製糸場です。初めてなのできっちり観光してきました。結論だけ述べると人が多いには多いけれど、大分小康状態を取り戻して落ち着いて見物ができ、見るべきものも多く行っておいて良かったなあという感想でした。「軽飲食 喫茶 飯島屋」は閉業しているようだし、今回の最大のお目当てでありました「喫茶 富士屋」には貸店舗の張り紙。他にも事前調査しておいたお店のことごとくが閉店に追い込まれたのは、もしかすると世界遺産の負の効果だったりすると悲しいなあ。 でも「エクボ」はやってました。上品で可憐なパーラーといったところか。パーラーの定義や内装のルールなどあるかは知らぬけれど、とにかくそう感じたのであります。それというのも見た目には物静かな紳士といった風の主人が実はものすごいお喋りがお好きでいらして、その主人がサービスで群馬名月だったかなという高級で抜群においしいリンゴなどを盛り付けたデザートを御馳走してくれたのがパーラーと結びついたのかもしれません。富岡では、多くの喫茶店が閉業を余儀なくされているようですが、ここだけはまだまだ現役で続けていただきたいものです。 そばには「焼鳥ガーデン」と「珈琲パーラー ろまん」という閉業店舗があり、これも魅力的だったなあ。 独りならば、上信電鉄の終点である下仁田駅に向かったであろうけれどそうもいかないのであります。高崎駅に引き返し、上越線で水上駅に向かいます。もう少し先まで行けるのですが、それは翌日に譲ることにしたのも同行者への気遣いなのであります。
2019/02/17
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ぼくがその目と鼻と先に住んでいた頃には、みたけ通りなんていう立派な通りの名など持たぬ人がすれ違うのがやっとという程度の細い路地でした。何でみたけ通りかというと通りに面して池袋御嶽神社があるからで、ここには夏場は涼みに行ったり、夜は祭礼で騒がしくて寝てもいられなかったりとなにかと縁があったのですが、御嶽神社ってどういう神社なのかまったく知らずにこれまでの人生を生きてきたのでした。お馴染みのウィキペディアで調べてみると修験道の神である蔵王権現を祀る神社が御嶽神社であり総本山は奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)にあるということ。「蔵王権現は,日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊」なのですね。へえ、知らなかったなあ。しかも「『金剛蔵王』とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王」だとか。本尊が仏教寺院にありながら、各地に散らばった際には神社となったのにはそういう所以があるからなんですね。いやはや勉強になるなあ。しかし、そんなウンチクなどどこ吹く風、この神社の周辺にはスマホをいじくる老若男女が群れている。この集団はどうやらひと頃大ブームを巻き起こした例のスマホ向けゲームに躍起になっているらしいのだが、近所に住んでいたら目障りだっただろうなあ。 実は上記のようなことを書いたのには、御嶽神社と三業地には浅からぬ因縁があると考えたからです。その考えはどうやら的外れであったようですが、料亭などに紛れて古い神社のある風景はそれなりに風情があったのではないかと思うのです。場末の風俗街であった池袋の片隅は、かつては路地が入り組んでいて歩き慣れても知らぬ通りを歩くと思いがけぬ場所に抜け出たといったことがあったものです。今やその混沌とした町並みも姿を消しつつありますが、不思議と古い店が変わらず営業していたりもするのです。「やぶ富」はそんな一軒です。見た目にはどこの町にだってありそうなとても普遍性のある構えであります。平凡だけれどそこにこそ蕎麦屋建築の醍醐味がある気がします。奇天烈なお店に好んで通っているけれど、こと蕎麦屋に関してはオーソドックスな方がしっくりとくるのです。店内もまた渋くて落ち着きがあります。つい端っこの席を選びがちなぼくでありますが、ここ位にまったりとしたムードだとどこの席でもくつろげそうです。ご老体が一人、ウーロン割を呑んでいます。2度ほどお代わりを頼んでいましたから、5杯位召し上がっていたんじゃないでしょうか。ぼくなんかだと夜のことを考えると呑み過ぎないよう2、3杯に留めるように調整してしまいますが、彼にはもはや昼も夜もないのかもしれません。時間の事を気遣って呑むのは世知辛くて虚しさが付きまといますが、致し方ないことです。さて、燗酒のお供には松前漬を用意していただけました。なかなか気が利いておられる。もりそばとミニカレー丼のセットはボリュームもたっぷりで飛び抜けて旨いということもないが安定の美味しさであります。店の前の通りもそうだけれど、よくよく見れば少しづつ変化していることが確認できますが、全体のトーンは以前と少しも変わっておらず、この店内も時の経過を止めてしまっているかのようで、急に不安になりそわそわとお尻が落ち着かなくなるのを感じます。でも時の縛りも無視して生きられるようになった時にはここほど安心できる空間もそうはなさそうです。「珈琲 蕃」もそんな一軒。前々からその存在は認知していましたが、いかにもスナック風の外観を放つ夜間しか目にしたことがなく、いつの間にか本当にここをスナックと思い込んでしまっていましたが、この日、珍しく日中に営業しているのを見掛けたので、満腹だったこともあり、思い切って扉を開けるとそこは思ったよりずっとちゃんとした正統派の珈琲店だったのでした。先入観を持たずにいるとたまにはこういう素敵なご褒美がもらえるようです。
2019/02/16
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金町という町は有名酒場が点在して有りますが、それをひと通り巡ってしまうと、その時点で金町で呑むのはもう飽き飽きという事態に陥りがちなのであります。それというのも京成線の裏手の呑み屋街以外には目立った呑み屋通りもなく、酒場巡りを始めて間もない新参者にしてみると派手派手しさがもたらす感興という意味では都心の繁華街に比較するまでもなく、圧倒的に地味なのであります。繁華街というのは呑兵衛たちの幼児性を高揚させる、云わばオヤジの遊園地のような特別な場所なのであります。遊園地の祝祭感は無論楽しい。けれど毎夜毎夜にお祭り騒ぎというのは、若い衆には結構なことかもしれぬけれど、オッサンには荷が重いのであります。男の隠れ家なんてことを自ら声に出して語ってみせるほどの恥知らずでマッチョな態度とは無縁な控えめなぼくとしては、せいぜいが寄り道して息抜きできるような場所と語るに留めよう。そんな場所はけして目移りするほどに酒場が乱立していたりしてはならないのであります。住宅の灯りに紛れるように、それでも闇夜で赤い提灯を掲げるような酒場は呑兵衛の視線を捉えて離さぬのであります。これから訪れるのはそんな店ではけしてないのだけれど、飲食店というよりは八百屋などの商店が賑わうというほどでもないけれど、それなりに帰宅者が行き交うそんな通りにあるのでした。 なんだか無茶苦茶な前口上となってしまったけれど、それは酔っ払っていたからだと勘弁いただきたい。しょぼくれた商店街の只中に「風東」はあります。なかなか雅な店名であるけれど、東風ならばゴダールではないけれどなんとなく想像力が掻き立てられるけれど、それがひっくり返っただけでどうもイメージが鮮明な像を結んでくれない。何やら曰くのある言葉かとネットで検索してみるが表示されるのはこのお店に関するページばかりなのでありました。この通りは東金町昌明通り商店会とかいう御大層な名がつけられているようですが、ここが金町であることを知らなければ読解困難に思えるのは己の教養のなさか。ちなみにこちらは金町在住の知人に教わったお店であります。他に客はなし。ちょっとばかり不安になりますが、まあじきに混み合うに違いないと思い込むことにします。ホルモン焼でカウンター席なのって楽しいですね。そういや同じ金町の「大力」もカウンターがメインのお店ですね。独り焼肉がどうのってテレビの情報番組なんかでやってるけれど、大衆酒場系でははるかに以前から定番なのに、今になってことさらに騒ぐのはどうしたものか。実に人懐っこくて構い上手のおねえさんがもしや自分に気があるのではと誤解してしまいかねぬのです。それは必ず誤解であるのですが、この点がこの店のメリットでもありデメリットでもあります。もうお一方、常連以外には気を許さぬ女性従業員がいて、これがなかなかに困ったチャンで、酒を無心するのです。それに嬉々として御馳走することを生きがいにするオヤジたちも多いだろうなあ、とやはり後から来る客たちは聞かれる前から御馳走したりしている。これってどうなのかなあと思うのだ。己がケチだから行ってるわけでは消してないのである。客と店側は一定の距離感を置いて、節度を守るべきなのだ。必ずやトラブルや禍根を残すことになるぞ。肉は普通に美味しくて、他の肴も悪くない。しかし結局思ったよりもお金が掛かっているというそんなお店なのです。 もう一軒寄りたいところ。というわけでお向かいの「くらや」という表通りから店内丸見えの焼鳥店にお邪魔しました。内装などに喫茶店程の期待感があるわけじゃないけれど、余りに開けっぴろげなのはどうも楽しくない。屋台やビアガーデンなど、端から見ると実に楽しそうに思える場所であっても、その場に身を置いてみると端から眺めているより面白かったなどという経験は皆無なのであります。皆無というのは言い過ぎかもしれぬけれど、少なくとも今は思い付かぬのです。まあ、面倒でここにしたのだから今更文句を言っても仕方がない。店の主人は極めて愛想がない。一見のわれわれに対して愛想がないのではなく、どうやら常連らしき他の客たちに対しても等しく無愛想なのだ。それはそれで構わぬどころか場合によっては歓迎すべき態度なのであります。さて、銘柄種はそれなりの品揃えだった気もするが、そうあれこれ呑みたいという欲望もないから、チューハイと焼鳥があればもう沢山なのであります。安からず、必ずしも旨からずというごく普通のお店で、近所の方には重宝なのでしょうがもう少しなんか工夫がないと厳しいのではないかといらぬお節介を述べてしまうのです。
2019/02/15
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要町駅は、東京メトロ有楽町線の池袋駅から一駅先にあります。この界隈には近頃、折に触れて訪れています。以前、両駅の中間地点に住んでいた頃の思い出を辿ってという事ではありません。当時も要町駅方面には何軒かのお気に入りの酒場がありはしましたが、そこを再訪したいとかの里心が芽生えたという事でもありません。むしろ、当時は見過ごしていた居酒屋以外のお店に立ち寄るべき店がある事を今になって知るに至っての、ある意味では馴染みあると思っていた町の再発券のための訪問をしたいと思い始めたのでした。その事は昨年の秋以降のぼくの探索行動を振り返っていただければ何となくご理解頂けると思います。その過程で見掛けた大衆食堂や中華飯店には立ち寄ることが叶いましたが、まだ味のあるお店が残っています。それは蕎麦屋でありまして、この界隈にもまだ少なからずの良い店が続けられていると思いますが、取り敢えずはこの半年程で初めてその存在を認知し、早めにお邪魔しておきたいと思った2軒を訪ねたいと思うのです。どうしても食事がメインになるから2軒同時は難しいし、夜だとハシゴして呑むのはキツイからタイミングはとうしても土曜日の日中になります。 何やかや呟きましたが、ぼくにとってもっとも好きな時間はまさに土曜日の昼から夜に掛けての時間帯になります。その理由は押して図るべしという事で詳述は避けますが、まあぼくもまた極めて凡庸で脆弱な精神の持主であるという事です。池袋駅から要町駅を結ぶ大通りの名は何というのか知らぬけれど、とにかくその緩やかに下る坂を進み山手通りを越えた路地の裏手、椎名町方面に少し入り込んだ裏通りでありながら案外車通りの多い道沿いに「可祢井そば」はありました。立派な日本家屋然とした正統派も好きだけれど、大衆蕎麦屋はこうした質素にテントの看板を掲げた方が安心感があります。手打ちの本格派よりもこういう庶民派のお店の方が食べたい物を堂々と注文もできるというものです。良い具合に腹もかなり減ってきています。先客は若い男性が独りだけ。表に向かっての二人掛け席で店内には背を向けて熱心にスマホをチェックした後には店備え付けの漫画を読み耽っておりました。ぼくは奥の卓席に腰を下ろします。贅沢だけれどまあ構わないみたいです。相席になってもそれはそれで構いはしません。首をひねって品書を眺め大いに迷う事になりますがその思考の過程は、余りにも混沌として論理性が欠如しているのでご披露するには値しないと思い割愛します。清酒とカレーライスを頼むことにしたのですが、まあなんともいじましいというか、ぼくらしいというか。このカレーが何がすごいかよく分からんけど何だか癖になる旨さなのだね。そしたら似たよう趣向を持ち合わせる人というのがいるらしくて、というかこの方面では明らかにぼくの先を行ってる方がおられたのですね。もうその旨さの秘訣やらは語るのも面倒になるのです。でもこうした気持ちだけでも同士の方に出会えるという幸福はこのネット時代の賜物です。それがこうした個人店の消滅とリンクしているのは切なくはあるけれど、それでもこの連帯が少しでもぼくたちの愛する場所を留めることに寄与するならいくらだって身を捧げたいと思うのだ。
2019/02/14
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何も好き好んで大晦日に呑み歩きする事もなかろうに、年の暮れ位は家族とのんびりテレビなと眺めて過ごせばいいんじゃないの、そんな意見が聞かれそうです。ぼくもそうは思うし、家でだらしなく過ごすのもけして嫌いじゃないどころか大好きなのであります。大晦日と正月三が日位は家でこたつに当たりながらお節なんぞを肴に食っちゃ寝したいと切に願うことを語って憚らぬのであります。だけれど、己を取り巻く状況がそれを許さぬのであります。このブログを読んでくださる方ならイニシャルのみお馴染みのS氏と落ち合い、是非ともに解決しておかねばならぬ課題があるのでした。それはまあケチ臭い都合でありまして、S氏が余らしている青春18きっぷの残り一回分を購入するためです。互いにとって都合の良い町がたまたま久喜だったという事で、果たして電車賃を払ってしかも酒まで呑んでは元が取れるのだろうか。といった仔細なことは考えぬのが賢明です。随分久し振りの久喜だし、呑みに来た事はなかったはずだからそれで良いのです。とはいえ大晦日のおやつ時でやってる酒場などあるのだろうか。かなり時間を掛けてそれなりに良さそうな酒場を見つけたけれど、開店まではまだしばらく待たねばならぬようです。そういや東武線の改札の前に中華料理店らしき店への引き込み通路があったなあ。そこで時間を調整することにしよう。 向かったのは「中華 ファミリーレストラン 上海菜館 久喜駅東口店」であります。久喜駅東口店ということはチェーン店なのだろうし、あえて東口店ということは西口店もあるのかなあ。まあそんな事はどうでもいい、寒くなってきたし、何より呑みたくて仕方ない。店内は結構な広さだけれど時間も時間だし、何より大晦日のもうすぐ夕暮れ時を迎えようという時間に呑み歩く人もそう多くはないだろう、いや多くないと思いたいものです。でもまあしばらくして独りの若者が、さして孤独そうな表情を浮かべるでもなし、淡々と味噌ラーメンとチャーハンだかのセットを平らげていたから、案外今時の若者は年末年始なんてことにほとんと無頓着なのかもしれぬ。似たようなことをしているぼくには無論、近頃の若者はなどと人生の先輩振る資格もないのであります。でもさっきも書いたけれど、ぼくにはホントのところ年末年始をだらしなく過ごしたいという願望は残されているのであります。幼少の頃はコタツに潜り込み、日がな下らぬTV番組をだらしなく眺めるのは至福の時間に思えたし、その記憶は深くぼくの行動規範の根幹に巣食っているのです。ともあれ、こうした時期でもないと時間の自由が利かぬ以上、残された時間は有効に活用するしかないのです。しかしまあさすがに年末に餃子やポテトフライなどというジャンクフードの代表のような料理ともいえぬような料理を肴にチューハイなどを呑むのが有効な時間の過ごし方とは、よもや思いはしないのではあります。でも都心であれば平常時と何ら変わらぬ、いやむしろデパートなどは普段より賑わっている、そんな時期に郊外の何ら変哲のない中華料理店、しかもほとんど客のいない店で過ごすのも一興であると思うのです。久喜の中華料理店は、そんな年の暮れの物悲しさと安堵に包まれていたのです。 さて、ここ「酒処 和ちゃんのお店」も変わらず営業していました。駅前のそれなりに広いけれど商店も疎らな通りの路地に不意に現れるこのお店は、駅から手近で済ましたいと思う方にとっては通うには少し遠く思える微妙な距離感があります。さっきはまだ明かりも灯っていませんでしたが、大晦日も通常通りの営業という貼り紙を見て舞い戻ってきたのでした。ガラス戸からは赤っぽく照明が漏れており、どうやらぼちぼち開店となりそうです。まだ開店準備の真っ只中らしい様子ですが、そんな女将さん、瞬時のうちに我々の値定めをして通してくれました。カウンター席と小上りに2卓という狭いお店で、その窮屈なところがここの客達は、親密な距離感を余儀なくされるという印象を受けるのでした。おでん風の煮物のお通しとホッピー、いつもと何ら変わらない。店も初めてではありますが、今年一年を振り返ってもこういうお店で何度となく呑んだ気がします。壁には開店当時の写真が貼られており、それを眺める限りでは今と少しも変わらぬように見えます。店の前に立つ女将さんも今とはそう変わらぬようです。通りすがりに立ち寄るぼくらでは知り得ぬような、この店だけの歴史がきっと少なからずあるのでしょう。果たしてここが列車に揺られて訪れるべきか、再びわれわれがここに来る事があるかは分からぬけれど、なんだかまた迷い込んでしまいそうな予感があります。
2019/02/13
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竹ノ塚に来たのは半年程前のことだっただろうか。その時は夜道を延々と彷徨った挙げ句に訪れることを悲願とする一軒の大衆食堂に物の見事に空振りし、再びここにやってくる機会など当分訪れぬものと思っていました。その位に絶妙に駅からも遠いお店という事です。その食堂の周囲にこれといって目を引く店が他にはないことも躊躇する所以となるのでした。一度空振りした程度でめげていては、酒場巡りや喫茶巡りなどという酔狂は楽しめないことになるのだけれど、やはりさして面白くない町を歩かされるというのは嫌気がさすものです。これまで前もって電話で確認するのが賢明なのかもしれませんが、まずそうはしないのであります。予め差配するのを潔しとせぬなどと気取った理由ではないのだ、単純に電話でのやり取りが苦手であることと電話代がもったいないという世知辛い理由があるだけなのです。という訳で以前からやってる気配を見掛けたことのない「フロリダ」がやっぱり閉まっていてもいちいちがっかりしたりはしないのであります。目指すべき店はそこではないからです。 国道4号に面しているから、車を足代わりにしている方なら目にしたことがあるかもしれません。ぼくなどはもっぱら電車と己の足だけが頼りだから、国道4号が奥州街道、陸羽街道、日光街道、中央通り、江戸通り、昭和通り、東京街道なんて多くの通称があることをつい今しがた知ったばかりなのであります。「松永食堂」はだから駐車場完備のドライブイン的な味わいのお店であります。外観が青を基調にしているのも非常にハイセンスでかっちょいいのです。結構大きめな造りながら、席数は案外少なくて広々としています。写真にはありませんが、小上り席もあってそこでは赤ん坊連れの家族が昼下がりの遅いランチを楽しんでいました。目玉焼きやらウインナー炒めなど酒の肴も揃っているけれど、酒はビールだけのようであります。大人数を連れだって座敷で昼から盛り上がるなんてのもいいなあなんてことを思いますが、ビールだけじゃ厳しいなあ。ていうかここの主人らしき方が結構おっかない雰囲気だから、騒いだりしたら怒鳴られてしまうかもしれぬ。ここは大人しくして呑み過ぎも禁物と節度を持った振る舞いが正解のようです。ともあれ念願叶っての入店はやはり電話などせぬのが肝要であります。無論それを完全否定するものではなく、特に旅先では予約も必須となる場合があると、近日予約することを自己弁護するためあえて伏線を張っておくのでした。 国道を渡った先に「お好焼 食事 飲物」のお店と「ゲームコーナー ピットイン」なんてお店も並びであったりして、さすがに足立区は奥が深い。まだまだ探索の余地がありそうです。
2019/02/12
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やっとのことで飯田線を走破しました。走破ってったって自分の足で駆け抜けた訳でもないのにくたくたになりました。我がことながら堪え性がなくなったものです。中央本線に乗車すると別な乗り物に乗車しているかのような気分になるのは不思議だなあ。列車から見える車窓の風景もそう変わるはずでもないだろうに、心なしか別の地方のもののように感じられます。ここまで来たら都内まではもうすぐという気分になります。 韮崎駅のホーム上の車窓から前週にホームから眺めた観音さまと「アメリカや」、そして地に這いつくばる「居酒屋 小坊主」のシュールな眺めに心を癒してみても、甲府駅で乗り継ぐと、それが実は気のせいでまだまだだなあと先の気分が錯覚のもたらすものに過ぎぬと感じるのであります。甲府から上りの各駅では途中下車するための事前調査もしてあるし、ここまで来たら家に帰り着くことへの懸念も払拭され、どこでだって好きなように休息できるのであります。しかし、せっかくなのでがっつりと休みたいと考え、ひと踏ん張りして大月駅までなんとか我慢をしたのでした。 大月駅の周辺には、何軒かの古びた中華飯店を認めておりかねてから立ち寄る機会を探っていたのです。中でも「宝来軒」は、その店舗の古典的とも評せそうな抜群の見た目とそしてこれはネットで目にして以来、ぼくの食欲を激しく揺さぶったとある看板メニューがあって、今回は迷うことなくこの店に向かうことにしたのでした。店の構えに至る以前からこの店の演出は最高に素敵なのであります。商店街から外れた暗い路地の奥の奥に赤く白く煌めく様子に抗えるような精神力を生憎ぼくは持ち合わせていません。興奮を辛うじて抑え込み、ことさらに落ち着いた様子で戸を開きます。店内も土間の卓席や畳敷きの小上り、配膳用のカウンターなど見所は尽きぬ。早速ビールだったかサワーだったかを注文、とりあえずの肴として八宝菜を注文します。トロトロがたっぷりで紅ショウガがよいアクセントになっていますが、独りだと少し持て余しそうです。さて、もったいぶらずにこちらの名物を公表します。ってネットでいくらでも情報が公開されていますが、このブログで初めてのご覧の方のために少しばかり解説を。それは、芋揚げラーメン、肉揚げラーメンの2種のラーメンでありまして、これだけ書けばなんとなく想像はつくのでありますが、そのボリュームは想像と遥かに凌駕するのです。麺の上には結構な量のもやしで嵩増しされているけれど、これはその上に積み上げられている豚竜田揚げもしくはジャガイモ竜田揚の脂による胃の負担を軽減させるよう配慮されたものであろうかと思うのです。さっき2種のラーメンと書いたけれど、あともう1種類、ミックスラーメンというのがあってこれも予想通り両方を一挙に頂けるというシロモノなのです。さて、ルックスの迫力は満点だけれど肝心のお味の方はどうかというと、まあ見た目通りに普通に美味しいけれど、スープが淡泊すぎるせいか見た目ほどのインパクトは受けません。とはいえ量は非常に多いので2人で分けて酒の肴にするのが正解のようです。でもこの中華飯店に来たら一度は食べておきたい品であることは間違いありません。とにかくここで呑み食いできることで存分に幸福感を得ることができました。 駅を出てすぐに飲食店の立ち並ぶ通りがあります。立ち並ぶというのが何軒程度であれば適当なのか判断は各人に委ねられるところでありますが、軒数だけでなくその密集度や散らばり加減の見た目で見解は大いに別れることになりそうです。少なくともここの通りはぼくには飲食店通りと呼んでも差し支えはないものと考えいます。そんな一軒に「いけかわ」がありました。店内は雑然としておりはっきり散らかっているといってもいい。肴は枝豆など軽めの品を頼んだけれど、写真は残っておらずどうも記憶が曖昧です。しかし、女将さんから嬉しいお申し出があります。けっこう大きめの丼にたっぷりの巨峰らしき葡萄を振る舞ってくれたのです。葡萄なんていくらでも貰えるから好きなだけ摘んでとは、なんとも贅沢な話です。客は他に3名いや4名程いただろうか。もう自分の家のようにだらしなく寛ぎ切って、テレビを眺めたりして好き勝手にお喋りしています。ここはまるで彼らの溜り場のようで、それは少しばかり羨ましくも思えます。さて、変わっているのはお手洗いです。なんと暗い地下に下って利用することになるのです。変わっているというよりびっくりしたのは、地下になんと大きな宴会場らしき空間が広がっていたのです。かつてはここで宴席が催されたんだと思うのです。思うのです。思うのです。現状を鑑みるにとてもそんな過去があったことなどとは思いも及ばぬのです。さて、唐突ですが、ここがいいとか悪いとかそうした意見はぼくがどうこう述べてみたところで仕方のないことです。しかし、言えることがあるとすればこの場が非常に好きで、ここで夜を過ごすのが嬉しくって仕方ない方がいる以上はやはりここは大人の社交場であり続けるべきなのです。
2019/02/11
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覚えていないことを書くのはなかなか辛いことです。だから飯田線の岡谷行列車はほとんどモーローとした状態で列車に揺られることになりました。でも、以前はまんじりともせず車窓からの風景を何事も見逃すまいという気迫で臨んだものです。まあ臨みはするけれど結局うつらうつらしてしまうのですが、問題なのはその気迫にこそあるのです。しかし、今では軽く酒の入った状態での眠気に一切抗うこともなく、寝たいように寝るのが気持ち良くてこれがまた堪えられないのです。何事につけ無理のし過ぎはてきめんに疲弊に直結するような年頃になったということか。老いを語るには早すぎると叱られるかもしれぬけれど、待望した上での老いならば非難に当たらぬのではないだろうか。しかし、それは拘りというには余りにも小さな拘りに過ぎぬのですが、列車に揺られている最中に読書をしたり、スマホをいじったり、それこそブログなど書く時間に充てれば時間の有効活用ということで合理的なことは分かっているのだけれど、列車で移動する最中にそうすることはしたくないという矜持めいたものがぼくにはあるのです。矜持というと立派なことのように聞こえるが、言い換えれば単に旅の最中には、ただただボーっとしていたいというだけの事なのです。ともかくこの旅の終焉も迫っています。肝心の飯田線がゴールまでまだ結構な時間を要するというのにすでにして旅の締め括りを予感するとは、飯田線の余りにも長く果ての見えぬ行程に嫌気が指して来ていたのかもしれません。 それでも最初から最後まで寝てばかりいたわけではありません。小町屋駅で停車時には「Coffee プランタン」の存在を認めて瞬間、本気で再訪を誓ったものだし、車窓から見えた駒ヶ根駅からの緩やかな坂のある風景が素晴らしかったので、それこそ帰京後に旅のプランを温めもしたものです。このプランの実行はまだなし得ていないけれどぜひ近日中に実現したいものです。それこそぼくと似たような趣味趣向の持ち主がいたとしたら、ぼくの企画力に大いに賛同していただけるものと自負しているものです。実際には、ぼくのプランは大いに机上の乱暴極まりない無理の多いもので、近頃要所要所における滞在時間を最低でも5割増しで想定すべきと感じてはいるので、最高の余地はあります。 そして、飯田線のもう一か所の下車駅は、伊那市駅に決めていました。前回訪れた際に通りすがりに見掛けた「スナック喫茶 ポッケ」がどうにも気掛かりで、この正体を確認せずには済まされなかったからです。ぼくには過ぎ去った過去に拘泥するという悪い性癖があります。忘れっぽい癖に取り零しや置き忘れにはねちっこくしがみつくのです。例えば、その気になる対象がネット情報などにより晴らされさえすればそれなりの満足を得て、すぐさまに忘れ去ってしまえばそれでいいのでありますが、気になるもののほとんどがネットなんかでも情報が発信されぬようなものだから始末が悪いのです。というわけでこのモヤモヤした気分を晴らすために「ポッケ」に再び訪れました。前回は時間切れでみすみす逃してしまったけれど、実は柔軟に予定を変更さえできていればこうしてまた再訪する必要もなかったのです。そして今回、拘泥を払拭できたのはいいけれど、店内は期待通りということにはいきませんでした。いやまあ古びた懐かしさすら漂う雰囲気は悪くないのだけれど、これはわざわざ訪れるというよりは、前回通りがかって見掛けたから入ってみましたというようなシチュエーションに立ち寄るのが適当なまあごく普通のお店なのでした。 駅前の路地裏にある「和風喫茶&スナック つつみ」は、今回もまた閉まっています。ここは今でも現役がどうか知れぬままでしたし、情報も流布されていません。ここを目当てに再訪するということもないだろうと思うのです。伊那市には余りにも肩入れしすぎて飽きが来たのかもしれません。また、この町の風景を忘れた頃に訪れるのが良いのだろうと思います。締まらないことで恐縮ですが、この旅の喫茶報告はこれまでとなります。
2019/02/10
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今でも青井を初めて訪れた時のことは記憶に鮮明です。特に記憶力に関してはままならぬという自負にもならぬ断言をして憚ることのないぼくではありますが、それだけ初めて青井の町に辿り着き、そしてその荒涼たる光景に目を奪われつつ熱を浮かされるようにして彷徨ったことを思い出すのです。やがて目が慣れてくるとそこらに点在する酒場に立て続けに足を踏み入れることになるのでした。好き嫌いはあるけれどそれは些細な問題に思えたのです。とにかく都内ではそうやすやすとは遭遇の叶わぬまさに辺境の酒場の姿を認める事ができたのです。ちなみにこの辺境酒場という呼び方は、とある漫画家とライターの合作による著作からパクっている事は以前も書きました。辺境という言葉には、多分に揶揄とか嘲笑を内包するかのように思われるのでしょうが、少なくともぼくにはそうした含みはないと自己弁護しておきます。何と言ってもここ青井は日本最大の都市である東京都の都区内にあるのだし、今ではつくばエクスプレスに乗り込めばまたたく間に到達し得るのです。そんな利便性も悪くない町なのに辺境とはいかなる言い様か。それでもぼくはここに辺境という呼び名を充てることをすんなりと受け入れるてしまうのです。それは辺境という単語が少なからずロマンチシズムとユーモアを孕んでいるからだと思うのです。 切がないから早速一軒目に入る事にします。同行したA氏のリクエストに応じてまずは「五月」にお邪魔します。青井では酒場などどこだって構わぬのです。というもこれまで界隈の酒場は10軒程にお邪魔したと思いますが、どの酒場にもその店ならではの魅力と多少の瑕疵が認められるのです。しかし、そこには曰く説明し難い青井らしさが通底しているのです。A氏は酒場放浪記で知っているからここを希望したのでありますが、番組でもあえてこちらを選択する必然性などなかったと思うのです。ともかく開店を待っていそいそと店の暖簾を潜るのでした。近くには古いけれど立派な銭湯もあり、銭湯帰りの客が湯上りの一杯と洒落込んでいるかというとそんなこともなく店は静まり返っていました。品書きの短冊を見るとどこも値段のところには真新しい紙で新たな値が付けられています。値上げについてとやかくいうのもどうかと思うけれど、こうことごとくが値上げされていると少なからず辟易とさせられます。段階というものがあるだろうに。それか全て変更するなら短冊ごと取り替えてしまったほうが心象が穏やかなはずです。無論、そうできぬ事情も推測されるし、値上げの理由もかなりの程度で推察しうるけれど、それは敢えて語らぬに留めたいのです。青井の酒場はTV番組―もしかするとこのブログもほんの僅かであるとは思うけれど―などで余所者が踏み荒らしてはならなかったのかもしれません。青井から辺境らしさが消え去る日はそう遠くないかもしれません。 どこも通じるところがあると書いたばかりだけれど、商店街から少し外れにある「もつ焼き みやま」 だけは、今でも特別な酒場の一軒であります。店主夫婦は今でも至って健常であられるようにお見受けするけれど、最近になってとんは辞めたよとぼくが焦がれ続けたカシラはもうやっていないと仰るのでした。焼鳥の串打ちだけで目一杯ということなのでしょう。とてもそれは残念な事ではあるけれど、致し方のない事であることを受け止める程度の嗜みはあります。その代わりではないけれど、コチラでは初の生モノを頂きました。カツオ刺が400円だったかしら。写真では分かりにくいかと思うのだけれどその切り身の厚みと枚数をカウントされたし、その圧倒的なサービス振りに卒倒するはずです。でもこのお二人は特別な事をしているつもりなどさらさら無いんだろうなあ。きっと彼らの普通がこれなんだと思うのです。客達もそんな夫婦のもてなしをことさらに大袈裟に受け止めたりしていないようで、その自然な交流が見ていて好ましく思えるのです。そして客達はこの酒場を当たり前と感じるだけの健啖家揃いなのです。ここの焼鳥が5本の縛りがある事など当然承知の上で一気に何種も注文し、凄えなあと感嘆の声を上げる前にすでに次なるオーダーを発するのです。ここに通い続けたら、食の細くなったぼくでも幾らかは回復するんだろうか。そして全く以前と変わらぬ内観の素晴らしさたるや、人を引き合いに出すのは卑怯な語り口であるけれど、A氏もすっかりとこの空間の虜となったようです。いつもなら近所にあればいいのになあの決まり文句で終えるところでありますが、ここは辺境の青井のそのまた外れにあってこその酒場であると思います。その気になれば今晩にでも行ける近くて遠い青井に、この酒場がある限りは通い続ける事になりそうです。
2019/02/09
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千石駅には何度となく映画を見に通ったものです。今は既に閉館した三百人劇場はレアなフィルムをどこからか調達して来て大体的な映画祭を幾度となく催したものです。巣鴨駅からの道中をせっせと歩いて、いつも遠いなあと溜息ついたものです。それが今では酒場を探訪して歩くのだから、当時のぼくが現在のぼくを見たらどう思っただろうか。この夜は以前千石の住宅街深く、もう少し行くと小石川後楽園に至る辺りなあった実に良い雰囲気の中華飯店の向かいにあった焼鳥店のことを不意に思い出して訪れるに至ったのでありますが、散々歩き回ったけれどどないしたことか一向に見当たらぬのであります。ドツボにハマらぬうちにこの状況からは抜け出さねばならぬと目抜き通りに出るのですがここらは劇場はなくなってもそれ以外はあまり変わらぬままであります。 ということでもう呑みたい気分は最高潮な達していたので、マンションのテナントのような無機質で味気のない印象のお店ですが入る事にしたのです。ここはきっとぼくなら選ばぬであろうというのが根拠というのはお店の方には失礼な言い様であります。しかし、これは後になって知る事でありますが、実は以前お邪魔していたようなのです。今となってはどうしてお邪魔したかは推測の域をでぬのでありますが、きっと今回と同じ理由だったのだろうと愚考するのです。「味道」はそんな印象の薄いお店だから、逆説的に覚えていても不思議ではなかろうと思うのですが、もっと存在感の希薄な店だって幾らもあるからいちいち覚えてはいられぬのです。こういう店ですがメインに扱うのは中華料理です。店内が脂っこいのも悩ましいものですが、余りにも清潔なのもお客さんがいるのかと不安になるものです。いたのは高齢のご夫婦のみ。彼らも今しも帰らんとしている風に見えるのです。しかし、それでもなかなか帰らぬのが老人というもの。迷った挙げ句に残りを土産にしたいと店の方に頼んでいます。翌朝のおかずにするのかなあ。こういうの食中毒がどうのと厳しい事を言う風潮もありますが、それ位は自己責任という事で認めても構わぬのではないか。ぼくは餃子とヨダレ鶏で良かったかな、前者は普通だけど後者は味もボリュームも申し分ない。申し分ないってぼくでもこの位なら再現は可能でありますが、この頃に高値だったキュウリもそれなりに贅沢に使っているのは天晴なのです。しかし、独りになると途端に店の空気が重くなります。やがていたたまれなくり席を立つに至ったのであります。 さて、いかにも呑み足りぬから「はち八 千石店」に立ち寄ることにしました。見た目はどうでもない居酒屋であります。屋号に見覚えがあるからきっと何回かどこかしらで呑んでいるはずです。と手元にメモがないことをいいことに適当に誤魔化そうと思ったけれど、それじゃ余りにも誠意にもとる。というわけでわざわざネットで再確認こそせぬけれど、メモがある店舗を列挙します。大塚本店、駒込店、巣鴨店、川崎モアーズ店にここ千石店の計5店舗があるようです。前の2軒にはすでにお邪魔しているようです。巣鴨店もあったんですね。そっちの方が便利だから今度行ってみようかな。さて、カウンター席に腰を落ち着けお手頃なハイボールを頂くことにしました。おでんなどたこ焼以外の肴もなかなかの品揃えで気になるところですが、やはりここではたこ焼は外せないでしょう。ここのたこ焼は熟し過ぎた柿のようなぐちょぐちょタイプで、これは好みというのがかなり分かれるところでありましょうが、ぼくは大いに好みとするところです。でろんとだらしなく流れ出るどろどろを箸でなめていればそれで肴になるのです。さっくりとしたのはどうも駄菓子っぽく思えてあんまり好まぬところです。お通しに粉吹き芋とキャベツの塩昆布をまぶしたものも手軽だけど美味しいし、この日はたこの唐揚げもあってこれもいい。やはりこうした店だからか保護者付の子供たちのグループなんてのもいたりして、奴らのコメントがいちいち小憎らしくて微笑ましいのです。店の主人も物静かでいいなあ。どうにも行き場に迷う町にこういう酒場があるのはホントに助かります。
2019/02/08
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北習志野駅には、何度も来ていて何度かは呑んでもいます。なのに習志野駅では下車したこともないし、当たり前だけれど呑んだ事もないのです。親しくする知人も住んでいるし行く機会を設けようと思えばできなくもなかったのだけれど、何故かそうしなかったのは、その知人が習志野には呑むとこなどないと散々聞かされたいたからかもしれません。一方で、ある時、車に乗せてもらって習志野を通過した時に、乗せてくれた人から自衛隊のそばに彼らが入り浸る酒場があるとの情報も得ていたことは忘れていませんでした。たまたま仕事の用件でコチラに来る機会があったので、同行した同僚と行ってみようかということになったのでした。 自衛隊に入り込める仕事ではないので振り出しは北習志野駅です。駅前は見知った町並みとさほど変化はなさそうです。駅前の団地と並行して延びる商店街は、各店舗はチェーンも多く余り面白味はないけれど、以前から知ってはいた喫茶店、「COFFEE AND CAKE かりん」に寄り道する事にしました。アーケードのある歩道から見上げてみても積極的に立ち寄る理由はなさそうに思えたのです。だけど、近頃のぼくはこういうどうって事の無い普通の店が好きだから面倒だけれど階段を上って店内を見渡したら、あらまあいいじゃんって事になるのです。いかにも普通です。店のオーナーなのか店主なのかは知らぬけれどその彼も普通に感じのいいお兄さん。ぼくは日毎に、純喫茶好きという狭量さから徐々に心地の良い喫茶という緩くはあるけれどどこまでも広がりのある地平へと気持ちがシフトしているのかもしれない。それが果たして良い事か寂しい事かは判別が出来かねますが、近頃は無理のある事に頓着するだけの気力はなくなってしまいました。 歩いても十分程度の習志野駅にこれまで来なかったのは単なる怠慢でしかなかったのでありまして、しかしいざ習志野駅前に立つと、知人の言葉を真に受けたくなります。確かにこれといった酒場があるようには見えぬのです。とりあえず自衛隊のある方向に向かう事にしますが、自衛隊の通りの向かいは、住宅街をなしていて本当にこの辺に酒場があるのかと思い出した頃に不意に焼鳥の文字を見出すのです。隣近所は普通の民家ばかりなのに周囲に少なからず住環境を左右する影響を及ぼす焼鳥店が共存するのが不思議に思えます。「焼とり つるぎ」は、繁華街にあったとしたらうっかり見逃しかねぬさりげない構えのお店なのでした。店内は律儀な程にオーソドックスな造りで、カウンター席が7、8席に小上がりに2卓あるばかりの収容力は少ないけれど、贅沢に広々した席の配置なのが嬉しい。身を寄せ合うような窮屈なのも時には悪くないけれど、今のぼくならゆったりしたお店を選びたい。カウンター席には独り客ばかりです。ここが知人の言うところの自衛官たちが入り浸るたいうお店なのか。どうも今いる客はそうではなさそうだ。煮込みやら焼鳥を見繕い注文します。客にとって広いのは有り難いけれど、店の女将は行ったり来たりが難儀そうです。だからカウンター席で構わぬと申し出たんですが、そこは常連たちのためにキープしておきたいのでしょう。客たちは案外滞在時間が短いみたいです。余り無駄口を叩かずに食べるものを食べ適度に酒が回ったら未練も現さずに立ち去ってゆく。これが習志野流だとしたら我らもそれに倣うべきでしょう。しかし、ここが噂に聞く店なのかは分からず仕舞でした。さすがに店の方にここが自衛官の溜まり場酒場なのかとお尋ねする訳にもいかぬでしょうから。 折角習志野に来ているのだからもう一軒くらい立ち寄っておきたい。街灯も少ない夜道を歩いていると普段は見逃しがちな地味なお店もよく目立ちます。外観は新しい感じの「一休」 ですが、もう彷徨うのも面倒なので入ることにしました。中に入ってびっくり。先の店のようなオーソドックスな内装かと思いきや思いっ切り大衆酒場のそれだったのです。広いカウンター席のみが視界には入りますが、どうやら奥やもしかすると2階にも客席があるのかもしれません。というのはいかにも自衛官という精悍な顔付きの男たちが吸い込まれていくから容易に想像できるのです。こちらこそが自衛官の溜まり場のようです。しかし、カウンター席には女性客がいるばかりで、お通しの煮込みの鍋を火にかけて温めてくれたりします。ホッピーを頼むと発泡スチロールのリンゴ箱から勝手にとって、氷と焼酎―宝焼酎の一升瓶が無造作にどんと置かれています―も好きな量を入れて頂戴だって。これだけでもう大いにここが気に入りました。自衛官だけに利用させるなんてもったいない。女性客が振る舞ってくれた煮込も見るからに頑固者のオヤジが焼くやきとんもかなり良いのですよ。お任せのコースも三千円位でできるようで、ここならきっと酒代込みなんだろうな。だんまりのオヤジとお喋りかあちゃんがテキパキと用意する宴会コース風の料理も旨そうだなあ。手洗いを所望しようと店の奥に進むとそこには座敷席があって、ビッシリと屈強そうな男たちが身を寄せ合っているのだけれど、驚くべきなのが彼らは揃って押し黙って緊張した表情を称えていたのであります。アレは一体どういう状況だったのだろう。もしや不穏な企てなどを決起していたりしやしないだろうなあ。そんな事はないよねえ。。。
2019/02/07
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せっかく書き上げていたのにうっかりとすべて消去してしまったようです。改めて文章を書きなおすというのはとんでもなく虚しいものです。よく小説家や漫画家なんかの自伝的なものを読むと、こういう逸話がたびたび登場するものですが、いやはや彼らは実に性根が座っています。性根が腐っているぼくのようなだらしない人間にはとてつもない苦行としか思えない。しかも珍しいことにシェフの手書きメニューをせっせと下記写し、メモまでしていたのだからその喪失感は計り知れぬものがあるのです。この日は、年末のやるべきことをやえてホッとひと安心した開放感に満たされたうきうきした気分で目白台の退屈な夜道を歩いて店に向かったのでした。これから向かうお店のシェフは店名からも察せられるように亥年生まれで、タイトルは年男としたけれどそれは今現在の話であって、ここを訪れた時はまだ世の中は申年でありました。ここの年末恒例のクリスマスメニューを食するためにありとあらゆる雑事に始末をつけての食事であったため、気分爽快、呑む気まんまんという浮かれムードであったのです。その浮かれ過ぎがこうした結果を招いたとすると己の不覚に嘆きは昂じるばかりでありますが、やってしまったことは致し方ない。「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」のシェフはいつものようににこやかな笑顔でお迎えくださった。と書きたいところだが、どうも体調が思わしくないようです。というかあれだけ激しくせき込んでいるところを見ると、このクリスマス期間を乗り切れるか心配になるほどであります。それでもシャンパンをちびちびやりながら声を掛けると、笑顔を浮かべて今年は辛いですよ、若い頃は2回転をフルでこなせたもんだけど今じゃあ空席のある程度で目一杯ですよ。われわれは客の入替えの合間に旨く当て込んでもらえたようです。お陰様でこのお店ではついぞ目にしたことのない自分たち以外に誰もいない状況を享受できたのであります。これは極めて稀有な事態でありこれだけとってみても希少価値の高い経験をしたと思えます。料理は普段のプレフィックスメニューの盛合せと思えばそれまでだけれど、あれこれ迷わず目移りせずににいただけるのは非常にありがたいことです。 さて、この期間限定のお愉しみがもう一つあります。クリスマスらしくブッシュ ド ノエルが供されるのでありますが、これでもかとふんだんかつ贅沢にピスタチオクリームが使われていて、もう匙を振るう手の休まらぬ程の旨さなのであります。昔であれば〆にフロマージュ(チーズのことでありますね)などを盛合せてもらって、しつこく呑み続けたものですが今ではそんなことをすると胃がもたれて大変です。シェフと変わんないなあ。大人しく程よく寒い夜道を腹ごなしで歩いてから、自宅でのんびり呑むというのもオツなものです。来年もまた訪れることができるだろうか。ぜひ、そうしたいものです。
2019/02/06
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松戸在住の老婦人と呑む事になりました。老婦人と書きましたが、さすがに無遠慮なぼくでも当の本人を前にしてとてもそんな直接的な言い方はしません。っていうか、「おい、老婦人、最近の調子はどうですか」といった使い方はしません。口語としてというか呼び掛けの際に用いる類の単語じゃないということなのだろうと思うのです。まあそんな事はどうでも良くって、今時の80歳位ってこれはもう紛う事なく老人なのだろうし、見た目も昔の人に比べればすごく若くは見えるけれどもそれでもやはり老人以外の何者でもなくぼくの瞳には映るのです。女性たるもの年をとっても美しく有りたいと願うようで、それに異論を唱えるつもりなどないのですが、時折美しいの有り様を履き違えている人がいるから履き違いを指摘してもいいと思うのです。端的には年相応に見合った格好や振舞いをするべきであるという事です。剥落するんじゃないかと思わせる厚化粧に舌つ足らずな若者言葉を弄する老人はこの上なく醜悪なのです。それこそ老醜という言葉が適切です。若く見せたいという無理が滑稽を遥かに凌駕し畏怖や恐怖にすら至るという例であります。若い頃暮らしていたアパートのお向かいの二階に住んでいた老女は、終始ぼくの動向を監視していたようで出掛ける時や帰宅時にも頻繁に声を掛けてくるのです。それがもう怖いという事はないけれど不気味で仕方なかった。今、女性の事ばかり言っているけれど、そういう手合いは当然男にもいるのであって、いい年をした爺さんがストリート系とでもいうのかやけに若者向けのファッションを着こなしてるつもりで町を闊歩するのもどうかと思うのです。いや、もしそれが似合っているのなら文句を言うつもりはないけれど、単に若く見せたいというのであればそれはアイテムの選択を誤っているとしか思えぬのです。その点で松戸の老女はいつからか白髪染めを止めて、最初は長年染料で痛めてきたせいもあってかちょっとどうかなぁと見ていたけれど、今ではキレイな銀髪が年相応の美をたたえるに至ったと思えるのです。とこれはまあ自身に向けての自戒として書いたまでであり、今でも白髪染めをする度にこれを止めるタイミングを図っているのです。 あからさまな長引かせ作戦はここまでにして、この晩に訪れる事にしたのは松戸駅の西口を5分程行ったバス通りに面した一見何の店か判別し難い和食居酒屋なのです。「和 実花」という気取っているようだけれど、どうも輪郭の定まらぬ曖昧な店名のお店でした。以前、盛況により丁寧ではあったけれど有無を言わせぬ態度で断られた事があるので、今回はきっちり予約して行きました。日頃、予約の必要な店は避ける傾向のあるぼくではありますが、頑なにこれを拒む者ではありません。時と場合に応じては予約もやむなしと考えられる程度には分別があります。確保された席は4人掛けの卓席です。他の2卓では定員オーバーでお誕生日席が用意されているのだから少し客を取りすぎなんじゃないか。これじゃその席の人は落ち着いて呑もうとは思えぬだろう。ガード下の酒場じゃないんだからね。どうも初っ端からケチを付けたくなるのは良くない傾向であります。ぼくの難癖つけなどどこ吹く風、カウンター席はどんどん埋まっていきます。リラックスした表情を浮かべた夫婦連ればかりであります。世の夫婦はこんなに仲が良いものなのだろうか。何はともあれ結構なことです。贅沢にもフグとつぶ貝の刺し身を頂きました。これは美味しかったなあ。しかし、こちらはネットによれば出汁が自慢とのことなので里芋揚―少な!―と出汁巻きなど頂きましたがどうも感心しない。ぼくの舌にこそ原因を探るべきかもしれぬけれど何にせよぼくの好みとはとても言えぬ。いや、ぼくばかりでなく老女の口にも合わなかったようです。何故こちらはこれ程までに繁盛するのか。ぼくにはこの疑問は生涯掛けても解き明かせぬかもしれません。 何と言うに「鳥孝 松戸店」には、人生を終える日まで時折通いたいという気持ちに変わりはなさそうだからです。それは老境にとっくに足を踏み入れている彼女も同じ見解であるから、多少なりともぼくの感想を補完していると思うのです。いつもの様にとても賑わっていて、三階に通されます。二階と三階は座敷になっています。齢を取るにつれ座敷での呑みが辛くなってきましたが、ここはゆとりがあるから足も伸ばせて楽なんですね。ここの品書はパッと見にはお高目に思えるけれど、どれも量が多いから控えめに注文すべきであることは承知しています。ここの客層も少しづつ変化しているらしく背後には学生らしき年頃の娘さん3人組が鍋料理をメインに呑んでおられます。なるほど、鍋ねえそれも悪くないなあ。悪くないけどそうはしません。ここではどうしても定番を頼んでしまいます。鶏の店なのについ生野菜に手が出てしまうのです。焼鳥屋のサラダでレタス、キュウリにトマトとオーソドックスというか子供自分の家庭のサラダそのものなのだけれどこれがいい酒の肴になるんですねえ。急にまとめに入りますが、隠居後ももしこの居酒屋が残っていてそしてぼくも通って来れるような事があるとして、一つだけ憂慮すべき問題があります。それは、ここの落差の大きい階段の事です。ほろ酔い加減で勘定を済ませようとこの階段に足をかけた途端に一気に転げ落ちるという恐怖は、その頃には改善されているのだろうなあ。そうなるとここの緩く打ち解けたムードは削がれてしまっていることだろう。酒場の未来を思い遣るのは己の将来を思い描くのと同様に憂鬱なものです。
2019/02/05
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さて、喫茶巡りをメインに散歩しようと思っていたのですが、「レストラン 天竜」、「焼肉 丸福」、なんとか道場とかいうのも酒場なのかしら、これらはもう営業はやめてしまっているようですが、その佇まいひとつだけで想像力を掻き立てられます。「酔仙閣」という中華飯店も捨て難い魅力を放っています。「通りゃんせ」のマスターのお話によるとここはまだ現役続行中とのことなので、次の機会には是非お邪魔したいものであります。そう飯田では一軒どうしてもお伺いしておきたい大衆食堂があったのです。もう少し町を散策したいところですが、列車に揺られて腹もかなり減っているから駅方面に引き返す事になりルートとしては、不細工ではありますが、そちらに行ってみる事にしました。 向かった大衆食堂は、「八ツ橋食堂」です。十字路の角地にあり白い箱をそのまま置いただけのような素っ気なさが実直というか愚直な感じすらして、ぼくにはたまらなく魅力的に思えるのです。外観は箱型だったので店内も整然と単調なのかなと思っていたのですが、小上がりが分散して設置されていたり、卓席も様々な人数や用途に対応できるように工夫が凝らされていました。入口の脇は厨房になっていて、そこがそこまで広い必要があるのかいと思わせるほどに広くてとても立派です。お決まりの瓶ビールを注文し、さて何を食べようか空腹だからガッツリいくべきか、とも思ったけれど列車行で食べ過ぎは禁物です。鳥にかけそばなる聞き慣れぬ品があるからそれを頼むことにしました。出されたのはあっさり出汁に湯がいた鶏もも肉が乗せられるといういかにも想像通りの品でありましたが―と書いたけれど、ナルトや玉子焼きなどの具材も豊富で改めて見るとすごい旨そうだなあ―、不思議と箸を置く暇もない程の勢いで平らげてしまいました。もしかすると飯田の名物料理だったりするかもしれぬけれど、名物とするにはインパクトに欠ける気もする、けれどそれで良いんじゃないかな。だって変わってるということだけが名物たる所以ではないはずたからです。むしろ普通に見えてその実滅法旨いというほどホッとできる事はないのです。旅の途上でも安堵する瞬間はあって欲しいものです。調理はもっぱら高齢の主人が取り仕切っているようですが、後継ぎもおられるようだし、これから先も続けていってもらえるのだろうか。 駅前に戻ってきました。再び振り出しに戻って、緩やかな坂を下っていきます。いや、上り坂だったかそれすらもう思い出す事ができません。町を流れる川を背負うようにしてあったのが「すゞめ食堂」です。さっき通ったときにはまだ営業していませんでしたが、いつの間にか開店したようです。昼はとうに過ぎていたはずですが勘違いなのでしょうか。ともあれ、もはや説明は不用かと思いますが、どうですこの素晴らしき店舗は。ここのミニチュア模型がもしガチャガチャの商品だったとしたら、当たりが出るまで何度でも投資してしまいそうです。ちょっと盛られて高くなっている公園のわずか数段位の階段を降りると―丘の上の小屋など見上げた方が絵になる場合とこのように見下げた方が情緒がある場合があるけれど、それを隔てるのが何なのかは判然としないのです―、ガラリと戸を開けると思いの外に狭小な造りでした。卓席が4つあったでしょうか。またもビールを呑んだんだっけ。いや、立て続けのビールはないかなあ。酒は覚えていないけれど肴はハッキリ記憶しています。とんちゃんとおでんを頼みました。とんちゃんは容易に察しが付きますがホルモン炒めで甘味があったんだっけ、普段食べ慣れているのとちょっと違う感じ、おでんは味噌かなんか付けて食べたっけ、それとも醤油ベースのタレだったかな―写真を見たら、醤油ベースでした―。地方の料理っていうのはこういう個性が楽しいんだよななんて、さっきと全く逆の事をしやあしやあと語るのでありますが、余り覚えていないからその時楽しめたからそれでいいのだ。どうやら母娘でやっているようですが、母君の姿は最後まで拝めず声のみが届きました。帰宅後にネットで見ると別なスペースもあってそちらはカウンター席だけの造りのようです。夜に本腰据えて呑むならそっちがいいかな。そちらには多分、大女将が控えておられると思うから、また会いに来ると固く心に誓うのでした。
2019/02/04
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この飯田線乗り通しの旅の報告が中途になっているとは思わんなんだ。というよりか、トバ口に過ぎぬ豊橋の夜で中断していたとは、いい加減な事で申し訳ない事です。そして万が一にもおられるとは思わないけれどこの報告を参照してやろうなんて思っていてくれる方がいたとしたら平にご容赦頂きたい。不調に終止した豊橋の夜でありますが、当たり前に立ち寄れる豊橋なんぞはいくらでも充実した情報を他から得られるはずですなので、まあ良しとするとして、それらからは知り得ぬ情報を少しでも提供できたらいいなあなんてことを今は思っています。 さて、これからが旅の本番です。豊橋駅から飯田線に乗車し、最初の終着駅である天竜峡に向かいます。長丁場となる場合は適度に途中下車を挟むのが最近のぼくの18きっぷ利用のスタイルでありますが、飯田線ではその手法は必ずしも採用しかねるのであります。答えは簡単至極な事でありまして、迂闊に列車を離れてしまうと次まで延々と待たされることになるし、待たされている間に時間を潰せるような駅前を持つ停車駅もそう多くなさそうです。全駅下車をライフワークとする様な強者もおられるようだけれど、頑張るなあとは思うけれど真似したいとは少しも思わぬぼくには上り下りを上手く活用するなんてつもりも黙とうないのです。という訳でスンナリと天竜峡駅に到着すると、隣のホームにはすでに乗り継ぎの列車が待ち受けているけれどそれなりに待ち合わせの時間があったので改札を抜けて駅前を散策します。わずかの時間の散策でどうこう言うつもりはないけれど昔いくらかは栄えた時代の名残があって次の列車が30分後とかならもう少し歩いてみたかったですね。「黒田」なんていう食事処兼喫茶店がありますが、ここはやっていませんでした。「はこや」なる居酒屋も気になります。 乗り継いだ列車は、やがて列車は飯田駅に到着します。結構多くの乗客が乗り合わせていましたがここで下車する客は少数です。どうやら乗客の多くが鉄道ファンのようなのです。先にも書いたと思いますが飯田線には過去に何度か乗り通していますが、その時に途中下車したかどうかちっとも記憶にないのです。まあそれは一向に構わぬどころかむしろ望むところであります。思い出とかノスタルジーなどというものは、あのおセンチなセピア色の映画と同様にフィルターを据えることで、ありのままの現実や現物を歪めてしまう障害に過ぎぬのです。ならばどうしてブログなど書くのかという意見には目を背けたくなるけれど、あえて言うならば遠くない将来に真正面から向き合える現実な現物は失われゆくのだろうし、そうなった頃の自分がセピア色を求めたくなるかもしれないからそのときに備えてのことであるとでも言っておこうかな。ともあれ、飯田という町は実は思っていた以上に立派な町で、しかもうっかりするとノスタルジーの黄昏に引き込まれそうな気配をまとう町だったのです。 そんな町には喫茶店が相応しい。「カフェ BON(ボン)」、「LARNA」、「阿蘇」、「珈琲 蘭峰屋」、「パール」、「道草」など多くの喫茶店があったけれど、時間の都合もあったけれど無理すればあと1軒や2軒は回れたはずだけれど、あえてそうしなかったのは身震いしそうなほどに魅力のある町並みを改めて時間を掛けて訪れたいと思ったことが大きい。その時の散策のお愉しみに取っておきたいとも思ったのであります。そして何よりお邪魔せねば死ぬに死ねないと思わせる程にスゴい酒場が何軒かあったことが大きい。ぜひ泊まりを前提に訪れようとそう思ったのです。 最初に立ち寄った「純喫茶 笹貴」がまた素晴らしかった。暗く狭い空間は余りに濃密で甘美な年季を伴ってぼくの全身を包んでしまい、息苦しさすら感じる程です。カウンター席とテーブル席2卓のやっと十名程度が入れるかどうかというちっぽけな店が、そこに身を置くとその狭さからは想像も出来ないくらいに豊穣なイメージを喚起するのでした。ここではフィルターなどという小細工を弄せずとも、生身のままのセピア色の空間が顕現しているのです。あゝ、またも何事か語っているようでありながらホンの一欠片もこの喫茶の本質に迫れぬ無駄口を叩いてしまいました。いつも以上に下手っぴな写真も如何ほどに実際と異なっていることか。ここには杖を突いた紳士や、やけに声量の箍が外れた老婦人などがけして混むことはないのだろうけれど途切れることなく訪れます。それを迎えるママさんは一体どれほ多くの人生を見守ってきたのだろうか。 続いては、「通りゃんせ」であります。ここは先と異なり写真のまんまのお店であります。過度な装飾を排し、過剰にならぬ程度の快適さを提供するに留めています。豪奢さに仮に純喫茶という存在―があるとしたら―の美意識を見出すような方には、いかにも淡白すぎると思われるに違いないでしょう。ぼくも以前ならきっとそう思い、もしかしたら舌打ちすら放っていたかもしれません。こう書くと少なからず傲慢な物言いと不快に思う方もおられようが意図するのは多くの経験をすれば多様なタイプの喫茶を好きになるとかそういった事ではないのです。ぼくなんぞが足下にも及ばぬ程に喫茶を巡りそして愛し続ける方が少なくない事は知っていますし、ぼくなとはそんな人達からすると喫茶好きを自称するのは失礼だとお叱りを受けても仕方ないと思っています。おっ、コイツ何か今回はやけにしんみりとしたムードを漂わせているなあと思われたかもしれませんが、このお店はちっともジメジメしたところはなく、むしろマスターなどは茶目っ気があるお喋りな方で、お客さんが入れ代わり立ち代わり姿を見せるのでした。
2019/02/03
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ぼくはカレーが大好きです。どれ位好きかって一日一食がカレーだって構わぬ程であります。何なに、一日一食とはまだまだであるなと真正のカレー好きなら言うのだろう。確かにまだまだ己の命運は尽きぬと信じられる、もしくは命運は尽きたと悟る方たちであれば、好きなものだけひたすらに食い続けるという食い様もあるだろうけれどぼくのように長くもあり短いとも思われる未来を抱え、残りの食事の回数をカウントダウンするような者にとっては、まだまだカレーも食いたいし、未知なる味を追い求めたいという欲求とも無縁でおられぬのです。しかし、将来の日本の事を憂う身としては、いつまでもこんな酔狂に呑み歩く生活が続けられようとは思っていないのであります。しかも、町からは古くからある酒場は日々姿を暗ます今日この頃にあっては、宅呑み人生やむなしとの諦念もあるのです。同じ宅呑みをするならやはり本物の味を再現したいのです。カレーなりのご飯物でも酒の肴にしてしまうぼくであれば、身に着けておくべき料理は少なからずあります。恐らく今以上に食の減退するであろうぼくには、南インドのラッサムとかサンバルというようなさらりとしたカレーは大いに身に着けておくべきレパートリーとなるのです。だからこういう言い方は不遜でありますが、味試しのためにこの酒場の味を求めて時折再訪することになるのです。 大手町辺りの南インド料理の高級店にも行ったけれど、やはりぼくが範とすべき店はここ「A-RAJ(エー・ラージ)」なのであります。ここの味に自作のカレーの味を近づける事が将来のぼくのために求められる使命なのであるけれど、こちらにお邪魔してはその味を舌に留めおき、翌日には早速再現を試みるのであるけれど、これまではどうも似たようでいながら全く印象の異なる風味を感受し、己の舌と再現性の低さにガッカリしたのです。しかし、どうしたきっかけが理由化は知らぬけれど、突如として自作カレーに劇的な変化がもたらされたのであります。その理由は分からぬし、スパイスも厳密に計ったりするようなことをせぬ、大雑把な目分量によるものであることは変わらぬから、まったく見知らぬ間にインド人の遺伝子を移植されてしまったような気すらするほどなのです。近頃比較的親しいインド人がいて、一緒に有名インド料理店に行った時に斯様な処置を施されたのかもしれません。 それはともかくとして、新店舗に移転してからは初めての訪問となりますので、久々にマサラドーサを所望することにしました。ドーサとかの粉物は難しくはないけれど調理前の準備が面倒なのと調理後の掃除がかったるいので、つい敬遠してしまいます。ドーサとなると一晩かけての発酵過程が必要なので時間を要するというのもある。チャパティ位ならあっと言うまであるけれど、粉を入手するのもひと手間です。という訳で自宅ではこういう粉系は基本諦めて、バスティマスライスを奮発することになります。むっちりしていながらパリパリとした食感も楽しめるドーサはそのままでも大好きですが、ここのサンバルとココナッツチャツネと抜群に相性がいいのです。お店の綺麗なお姉さん―以前よりちょっとキツくなられた印象でした―にマサラ入り―実際はジャガイモもサブジとなるのですが、ニンジンなども入ったこの店で言うミックスのサブジでしたがこれは問題なし―ドーサに最初にサンバルとミントとココナッツのチャツネを塗して置くのがお勧めとのことなので、大人しく従うことにしました。ココナッツチャツネのレシピを入手したので自宅でもたまに拵えますが、作り過ぎてダメにしてしまうこともあり近頃ご無沙汰していました。だけどやはり旨いから今度作ることにしよう。さて、メインのミールスは、ノンベジ仕様にしようか迷ったけれど、やはりラッサムとサンバルという大定番を欠かすわけにはいかぬ、ということになります。サンバルに関しては、マサラドーサで既に頂いていますが、ざぶりとドーサに掛けてしまったので単品では味見していないのでした。やはり旨いなあ。小豆らしきダルカレーも重くなくていいですねえ。ダルカレーはいろんな豆を試したけれど、まだこれぞという豆に出会えていないけれど、小豆は胃の負担が軽くていいなあ。といった具合で時折ビールを挟みつつも、ついつい食べることにかまけてしまい、食べ終わった頃には満腹すぎてもはや水分すら喉を通らなくなるというのがお決まりです。前よりインドテイストの異郷感は薄れたけれど、店も拡張し窮屈な感じがせずまた次に訪れる機会も遠くなさそうです。 というわけで早速翌日、自家製ミールス調理に取り組みました。ぼくが作るとちょっと辛みが強くなってしまいますが、特にラッサムはなかなかの出来栄えで今回のミッションは無事果たせたと自画自賛することにします。
2019/02/02
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常磐線沿線の各駅、その駅前にはかつては多くの屋台が立ち並んだと聞きます。それらが、やがて外圧を受けてバラック長屋に押し込まれ、さらに時を経て今ではそれらの建物の耐用年数も尽き果て取り壊されています。建物の耐用年数に呼応するように店主たちも高齢化を余儀なくされるのは世の習いであります。それは残念ではあるけれど仕方のない事でもあります。ぼくは昭和を懐かしむという姿勢にはどうしても馴染めないけれど、間もなく終焉を迎えんとする平成という時代を懐かしむ世代が間違いなく出現することでしょう。その時、彼らが懐かしむのはどのような風景なのか、今のぼくには上手く思い描くことは出来そうもありません。少なくとも少なからぬ同世代が昭和という時代で想起するであろう出鱈目で混沌としたエネルギーに満ちたケバケバしいものとは違っていそうです。しかし、平成が終わる今でも昭和はしぶとく存続し続けています。ぼくなどは北小金駅の線路沿いもそうだし、紫陽花で知られる本土寺に至る裏路地のような目抜き通りにそれを見出します。そんな北小金ですが、駅の東口は余り歩いたことがない。という事でまずはそちらを散策することにしました。 西側と違い拓けて開発の進む東側はぼくには余り魅力はないのでした。しかし、それでもそんな退屈な町並みにどうした経緯からそうなったか知らぬけれど、町から締め出されたような暗くそして懐かしいエリアがかつての姿を留めていたりするのです。「食事処 お多福」もそんな裏通りに寂し気な様子で明かりを灯していました。今晩の一軒目はここにしました。同行したのは折に触れ登場の元獣医さんです。店の中は思いがけずに明るくて健康的な印象で、それにしてやられたと感じるのは誤りかもしれません。店主も思ったよりはお若い方で、とはいえ60際位なのだろうか。外観よりも内観のイメージに近い陽気で元気な方でした。酒とか肴とか一通り出揃うと待ってましたとばかりにカラオケを唄い出すのでありました。確かに歌い込んでるのは分かりますが、そう広くない店内に居合わせると少しばかり声量があり過ぎるように思われます。でもここのお客さんたちはホントに家族みたいに仲が良いですね。それも店主の爛漫な性格がなせるのでしょうけど、ぼくにはちょっとばかりムードが緩すぎるかな。ここまで書いたことを読まれると店主は単なる遊び人、趣味で店をやってるっぽいけれど―外れじゃないかもしれんけど―調理はちゃんとしてると思います。だって出される料理はどれもちゃんとしてたからね。でも鼻歌交じりなのを見るともなしに眺めるとやはり趣味なんだろうなと思うのであります。 さて、次は西側の線路沿いの酒場をお邪魔することにします。初めての酒場にしたかったですし、そう選り好んだつもりでしたが、どうしても足が向くのは己の好みに左右されるしかないようです。「かたしな」は、以前もお邪魔しているようです。間口も奥行きもない濃密で狭小な空間は余所者を排除しに掛かるのが常ですが、こちらは女将さんが率先して余所者の気分を盛り立ててくれます。三点盛りのお通しに続きメロンをご馳走になりました。こういう情緒も地元の方には日常の風景に過ぎぬのであり、余所者にとってもそこに腰を下ろしてみればなんてことはないのだけれど、コチラの女将さんがしてくれるようなさり気ないサービスひとつが忘れられぬ思い出へと昇華されることもあるのです。などと綺麗事を並べ立ててみても次にこの町に来たときにはそんな事などなかったかのようにして、またもこの酒場の暖簾をくぐることになるのかもしれません。
2019/02/01
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