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1522年、尾張国で柴田勝義の子として生まれたと伝わる、柴田勝家織田信長の弟である信勝付きの家老となり、信勝の補佐をしていました信長の父・信秀没後、勝家は、信長を跡継ぎと認めず、信秀の葬式で抹香を祭壇に投げつけた信長を破り、信勝を擁立することを企てます1556年、信長に反乱し、稲生で対戦しましたが、敗戦。惨敗した勝家は 、信勝と共に降伏し、信長の忠実な臣となりました出陣にあたっては常に先陣を命じられ、殿軍を任される回数は一番多く、信長に一番の信頼を置かれていたと言われ、まさに信長の重臣中の重臣としての地位を不動のものにしていきました1570年、近江の光寺城に籠城中、六角勢に包囲され、城の水源を絶たれた際、水瓶を割って決死の覚悟で抗戦に挑んだことから”瓶割り柴田”の異名を得たと言われています本能寺の変で信長が没した後、織田氏の継嗣問題ならびに領地再分配会議でが開かれ、勝家は、信長の後継者に三男の信孝を擁立しようとしましたが、一方で羽柴秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立し、この会議においては、秀吉に主導権を握られることとなりましたその後、秀吉との対立を深めた勝家は、1583に賤ヶ岳で秀吉と戦い、敗戦。越前北ノ庄へ敗走し、秀吉軍に取り囲まれた北ノ庄城で、夫人お市の方と共に自害しました武将としての活躍が目立つ彼ですが、政治家としても優秀な人物であったと言われています。□辞世の句□「夏の夜の 夢路儚き 後の名を 雲井にあげよ 山不如帰(ほととぎす)」(短く儚い夏の夜の夢。同じように儚い人生を終えた私の名を、どうか山不如帰、遥か彼方の誰かに伝えておくれ)。 とても儚く、しかしながら武将として勇士を振るった彼の強さが表現された辞世だと感じます。彼が不如帰に託した想い、伝えたかった一番の人とは誰だったのでしょう。主君である信長の最期に上洛できなかった勝家。一度反抗した人物にも関わらず、一番の信頼を置かれた彼。彼の信長に対する忠誠心は測り知れない程深いものであったのでしょう。その誠実さと潔さが、彼を語る上で、今も人々の心に最も響くのではないでしょうか。
2009.09.03
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「美濃の蝮(マムシ)」の異名を持ち、下克上の典型的な戦国大名である斎藤道三元々は僧侶でしたが、油商人を経て、戦国大名にまで成り上がったと言われています油職人から、縁により、美濃守護、土岐氏 小守護代の長井長弘家臣となることに成功しましたその武芸と才学で次第に頭角をあらわした彼は、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得、頼芸が彼の兄、政頼との家督相続に敗れると、密かに策を講じ、1527年8月、政頼を急襲して越前へ追放し、頼芸の守護補任に大きく貢献しましたさらには主君である長井長弘の除去を計画し、殺害に至りました1541年、道三による、頼芸の弟である土岐頼満の毒殺が原因で、道三と頼芸との対立抗争が時始まりました道三は頼芸の居城である大桑城を攻め、頼芸と彼の息子・頼次を尾張国へ追放し、事実上、美濃国主となったとされていますしかし、織田信秀より後援を得た頼芸は、朝倉孝景より援助を受けていた頼純と連携を結び、織田氏と朝倉氏の後援を受け、美濃へ侵攻しました道三が織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだこと・頼純が病死したことにより、道三と織田信秀は和睦しています美濃の戦国領主として1554年まで君臨した後、彼は家督を子の斎藤義龍へ譲りましたが、義龍の弟らにより愛情を注いだため、道三と義龍の不和は顕在化し、1555年、義龍は弟らを殺害し、道三に対して挙兵しました。そして1556年の長良川の戦いで、自らの軍の7倍もの勢力を誇る義龍軍に破れ、最期を迎えました戦国の世において、下克上を成し遂げるには、余程の才覚が必要とされたことでしょうそして彼もまた下克上によって生涯を閉じたという事実は皮肉であり、それもまた彼の運命だったと言えるのかもしれませんね。
2009.08.26
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こんにちはお盆もあっという間に過ぎてしまいましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうかここ京都では、先日(8月16日)大文字の五山送り火が行われ、一目見ようと浴衣を着て街を歩く方が多く見られました京都の夏を代表する風物詩の一つである五山送り火。東山如意ケ嶽の「大文字」がもっともよく知られていますが、その他に、金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があり、これらが点火され、五山送り火と呼ばれてます私は、今年も自宅から見て、京の夏を堪能いたしました残暑が厳しいここ数日、お体ご自愛くださいませ
2009.08.19
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幕末の新選組副長として名高い土方歳三1835年、武蔵国(現在の東京都)に生まれました。1863年8月18日の政変後、新選組が発足。その後芹沢鴨などを暗殺。新撰組では副長の地位に就き、局長の近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたりました。勿論指揮官は局長とされていましたが、実際の指揮命令は彼から発されたようです新選組内部では、常に隊士らに新選組の規律を遵守させ、またれそれを破った隊士に対しては切腹を命じたことなどから、「鬼の副長」として隊士から恐れられていたと言われています1867年、徳川慶喜が征夷大将軍を辞して大政奉還し、幕府が事実上崩壊すると、1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発。歳三は重傷のため参戦できない局長近藤勇の代わりに新選組を率いて戦いましたが、新政府軍の前に敗北しました。近藤勇が捕らえられ処刑された後、新選組の生き残りを率い、宇都宮、今市・会津で官軍と戦い、仙台で榎本武揚の艦隊に合流し、蝦夷地函館に上陸しました。5月11日、新政府軍は函館総攻撃を開始しました。五稜郭城内にいた土方は、新選組を救うため、80人という少人数で騎馬にて出陣。そこで戦死。35歳という短い生涯を閉じました。下記が彼の辞世です「たとひ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は東の君や守らむ」「よしや身は 蝦夷の島辺に 朽ちぬとも 魂は吾妻の君や守らむ」「たとえ私が亡くなったとしても、私の心はあなたを守っています。」とても心が打たれる辞世だと感じました戦士を支えていたのは、やはり大切な人の存在なのでしょう
2009.08.13
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美濃の国に生まれた明智光秀。生まれは、享禄元年(1528年)と大永6年(1526年)、また永正12年(1515年)という説もあり、定かではありません。はじめは斎藤道三に仕え、1556年、道三とその子・義竜の争いが勃発した際、道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死しました。鉄砲の射撃技術を越前の朝倉義景かわれ、彼に仕えたのち、織田信長に仕えています。その頃、足利義昭は幕府の復興を願っていましたが、朝倉義景には天下の野心も器量もなかったため、義昭は、桶狭間の戦以来、勢力を増している織田信長を頼ることにしました。1567年、義昭に見込まれた光秀は朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となりました。そして常に義昭と信長の間を取り持ち、公家らとの交渉にも手腕を発揮したました。1575年6月、信長の命により、丹波の経略に着手しました。その任務を果たし、1582年5月、毛利討伐のために中国出兵の命を受けたときには、近畿を統率する地位に立っていました。ところが同年の6月2日、本能寺に泊っている信長の警護の手薄なのに乗じ、突然これを襲い自刃させ、その長男信忠も二条城で倒しています。豊臣秀吉があまりにも早く毛利氏と和して東上したために計画が狂い、山崎で秀吉らの連合軍と戦い、13日夜に敗死しました。このとき光秀は、「敵は本能寺にあり」と発言し、主君討伐の意を告げたといわれています。主君討伐の理由にはさまざまな説がありますが、信長が光秀の立場を考慮しない言動が度々あったため、溜まりに溜まった恨みが動機となったという説が有力です。
2009.08.07
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西陣刀剣HPにて、2009年07月の売れ筋ベスト20を発表いたしております。http://iaito.net/shop/show_unit_rank.html
2009.07.30
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新選組・二番隊組長として名高い永倉新八は、非常に剣術に長け、15歳の時、神道無念流を学び、18歳で本目録を受け取ります19歳で剣術修行の為に松前藩を脱藩、江戸府内の道場を回って手合わせを挑んでいるうちに、近藤勇と出会うことになりました新選組では二番隊組長を務め、数々の重要な任務を果たしました新選組時代としての永倉新八の活躍が目立つのは、池田屋事件で近藤隊として参戦してからのことです近藤勇らと長期にわたり行動を共にしてきた彼ですが、近藤と衝突が度々あり、新撰組を脱退 近藤勇と喧嘩別れした永倉でしたが、明治維新維新後、近藤・土方を弔うために、数少ない新選組幹部の生き残りとして、近藤勇が処刑された板橋に墓を建てています 永倉新八という剣士は、大変血の気の多い人だったようですまた、負けず嫌いな性格と、彼の人並みではない努力が剣の腕を物語っているのでしょうね
2009.07.24
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こんにちは7月も半ばに入り、思えば2009年も後半に突入しましたね京都では日本三大祭である祇園祭が、本日、見所である山鉾巡行を迎えていますね。全国からの大勢の観衆が京都の街に赴き、自分の住む街の魅力を改めて感じる瞬間でもあります街に響き渡るお囃子の音色と、立派な山鉾の数々が夏を感じさせてくれます夜に見る鉾も数々の提灯に照らされ、また風情のあるものですね
2009.07.17
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安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、智勇兼備の名将として知られる加藤清正。永禄5年(1562年)に尾張に生まれ、母が豊臣秀吉の生母の従姉妹にあたり、三歳の時に父を失ったあと秀吉に預けられ、秀吉とその正室ねねに養育を受けたと伝えられています秀吉の家臣であり、後に徳川家康に仕えていました天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦では、七本槍の筆頭に上げられています。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵し、慶長の役でも武勇を高めました関ヶ原の戦いでは九州に留まり、家康ら東軍に協力し、行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城・調略し、西軍勢力を破る活躍を果たしていますこのように、城造りの名人としても知られ、彼が築城した熊本城は、天下の名城として名高く、朝鮮出兵際に、技術を学び帰ったという説もあるそうです武将でありながらも別の方面でも技量の長けた彼たとえば絵画であったり、多方面に才能を生かした武将は多いですね。戦国の世において、鎧を覆っていない時の顔は、勇ましさや緊張感からは開放された素顔なのかもしれませんね
2009.07.09
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天下の信長・秀吉が讃えた戦国武将の中でも、最強を争える一人で、徳川四天王・十六神将の本多忠勝生涯57回の戦いにおいて、かすり傷一つ負わなかったと伝言われています勇将であった彼ですが、戦時に大数珠を身につけていたようで、これは、自らが葬った敵を弔うためであったと伝えられています。【忠勝愛用の槍 「蜻蛉切」】穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話があり、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられています彼の遺言の一説です。「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ。」この一説から、侍としての彼の人生観に圧倒されました戦時に大数珠を身につけていたということから、彼が決して戦を好んだ武将ではなかったということが感じられますね
2009.07.02
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陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれた沖田総司。8才頃に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられました十代のうちに免許皆伝に達し、10年後には塾頭となっています。剣技は天才的で、 試衛館道場の誰よりも剣の腕が立ったと言われています剣士の中でも、何番目かに腕が立つと言われる彼新選組時代には、副長助勤から一番隊隊長・撃剣師範を兼任していました。特に近藤勇・土方歳三とは仲が良かったといいます池田屋事件の際に喀血したと言われますが、はっきりしていないようです結核を患い、新選組が引き上げた後には、一人隠れるようにして療養生活に入り、若くして亡くなりました若くして亡くなりながらも、その名を世間に知らしめ、稽古の際には、弟子たちに恐れられていたという彼彼の場合、まさに時代を駆け抜けた男と言えるのではないでしょうか
2009.06.25
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こんにちは6月も半ばを過ぎ、梅雨にも関わらず、毎日暑い日が続いていますねみなさま如何お過ごしでしょうか。季節の変わり目ですので、体調には十分お気をつけくださいませ外国のお客様とお話をする機会が多いのですが、そこでいつも感じることは、世界中には数え切れない程の文化があるということです今まで知らなかった文化や言語に触れる度、今私たちがいる場所というのは、ごく限られた場所であることを日々実感致しております多くのことを学ばせていただきながら仕事をさせていただくことが出来ることを、すごく幸せだと感じています
2009.06.19
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「日本一の兵」と称えられた戦国きっての強者しかしながら、徳川家康に対抗しなければならなかった悲運の武将が真田幸村です。彼の旗印である『六連銭』とは、「不惜身命」、「六道銭」を表します三途の川を渡る際の船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことに由来し、真田幸村率いる軍隊の死の覚悟がうかがえます。大阪の陣では、豊臣側につき、家康の本陣を潰走させ後一歩のところまで追いつめ、真田軍の勢力に、家康は自害をも覚悟した程だったといいます最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、生涯を閉じました。大河ドラマ『天地人』を御覧になっておられる方も数多くいらっしゃるでしょう若い頃から人質生活を余儀なくされていた幸村ですが、、直江兼続は同等に接してくれ、幸村は兼続をまるで兄のように慕っていたといいます兼続が掲げた『義』と『愛』の精神は、幸村人気の影に確実に根付いているのではないでしょうか
2009.06.10
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「独眼竜」の名で知られ、「戦国最後の武将」とも言われる伊達政宗幼時期に疱瘡にかかり、右目を失明。その彼の異名である「独眼竜」とは、中国の後唐の第一世、昭宗・李克用が、彼もまた片目でありながら英雄であったため、独眼竜と呼ばれたこと由来しているそうです。才気煥発であり、家督相続からわずか6年程度で、東北地方に一大勢力を築きあげました。豊臣秀吉方の大名の芦名氏を滅ぼし、怒りを買い、秀吉の怒りを解くため、死装束を着て、秀吉の前に参上したのは有名な話でしょうか 政宗の死の覚悟と千利休の取りなしにより、死を免れたそうです。正宗は生涯、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光など、多くの天下人に仕えていました。戦国の世において、片目を失明しながらの彼の偉大なる勢力それ故に彼のあらゆる感覚は研ぎ澄まされ、それはどんな場面においても揺るぎないものだったのではないでしょうか
2009.06.04
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剣豪として名高い宮本武蔵二刀を使用することで有名な兵法二天一流の祖であり、佐々木小次郎との決戦である「巌流島の決闘」は、今や彼の代名詞と言えるのではないでしょうか巌流島とは、山口県に位置する船島で、小次郎の別名・巌流を採って、現在「巌流島」と呼ばれていますそのことからも、この戦いが実に歴史上、意味のある戦いであったかが分かりますねその佐々木小次郎は、剣士としても武蔵ほどの有名な武将ではなかったようで、この決闘に至った理由も、彼らの弟子らがお互いの師の優劣で揉めたことが発端と言われており、本人同士ではなく、門人達の争いが騒動を引き起こしたと言われていますお互いの師を敬う弟子達の気持ちの熱さが、戦国社会で有名な巌流島の決闘を引き起こしたのですね当時の弟子の師に対する情熱が感じられますね
2009.05.26
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言わずと知れた幕末期の新選組局長である近藤勇。武蔵国多摩郡上石原村、宮川久次郎の三男として生まれました。天然理心を学び、63年(文久3年)2月に、門下の土方歳三・沖田総司、山南啓助らを引き連れ、浪士組へ加わりました。京都守護職支配下に属し、新選組を組織・局長を務め、64年(元治1)6月、京都での池田屋事件で新選組の名を日本中に知らせました。68年の鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻り、官軍との戦いに敗れ、慶応4年、下総流山で新政府軍に投降しました。彼の愛刀とされる「虎徹」。それを模した刀の特徴的な柄糸色や造りは力強く、まさしく勇ましいという言葉がピッタリだと感じます
2009.05.20
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こんにちは5月も中盤に差し掛かろうとしておりますが、如何お過ごしでしょうかこの時期に最高気温が30℃と、真夏のような気温だったここ数日。真夏になると、どれだけ暑くなるのか・・・と、今から少し心配ですそしてそんな天候とは打って変わり、本日の京都は、少し肌寒いです季節の境目、みなさまも、風邪等おひきになりませんよう、ご自愛くださいませ
2009.05.13
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「花の慶次 -雲のかなたに-」の歴史漫画の主人公としても有名である前田慶次。 「花の慶次」の名の如く、奇矯な振る舞いを好んだ武将としても有名です。前田利家の義理の甥で、戦国末期~江戸初期にかけての武将。武勇・古今典籍・和歌に優れた一流の文人であった。長谷堂城の戦いでは、60歳を超えながら功名をあげた武将です。大風雅を楽しみつつ生涯を終えたという言い伝えがあります。いつの時代にも、他分野に渡り才能を発揮した人物は数多く存在したのですね☆才能に見合い、奇矯な振る舞いを好んだという点が、彼らしくあったのではないでしょうか
2009.05.06
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こんにちは!!先週末は、全国的に雨が降り、肌寒い日が続いていますねもう要らないと思って片付けてあったストーブが、本日再登場いたしましたさて、先日、京都清水の三年坂にございます、「清水三年坂美術館」へ行ってまいりました幕末・江戸の金工や七宝・蒔絵などが展示されている美術館です美術館に行くまでの間にも、京の町屋の情緒に触れ、大変穏やかな気持ちになりましたそして美術館では、目を見張る数々の芸術品を鑑賞いたしました。中には、非常に美しく、見惚れてしまうような鍔も展示されていましたこのような美術品に触れるとき、時間はとてもゆっくりと穏やかに流れ、日本の文化の素晴らしさを改めて実感することができます大変有意義な時間を過ごすことができました京都にお越しの際に、お立ち寄りになるのも宜しいかと思います☆清水三年坂美術館HP☆http://www.sannenzaka-museum.co.jp/
2009.04.27
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こんにちは気温の変化が慌しい今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか先日、桜の夜間拝観で二条城に行ってきました京都に住んでいても、なかなか機会がないとお城などには行かないものです二条城といえば、慶長8年に徳川将軍家康が、京都御所の守護ならびに将軍上洛時の宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構が移されるなどし、寛永3年に完成したものです。桃山時代の武家風書院造りの代表的な二の丸御殿、ここに入ると、江戸時代の風雅な世界が広がり、古の美を感じることができますこういった空間に居る時間が私はとても好きですまた、日中に見るお城と、夜間のそれとは風貌が異なり、それぞれに違った魅力が感じられますね
2009.04.20
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こんにちは最近、急に暑くなり、1ヶ月ほど前の気温が嘘のように、暖かい日が続いていますね今から真夏が少し心配になっていますみなさまは、お花見には参られましたでしょうか?日本の風物詩の代表とも言える桜は、古から変わることなく、人々の心を魅了し続けるのでしょう先日、二条城の夜間拝観に行って参りました。やはり満開の時期だけあって満員でした夜の桜は、昼のそれとはまた一味違う魅力があって素敵ですねさて、ここでお知らせをさせていただきます居合刀『嵐山』の金具の種類を追加いたしましたぜひご覧になってみてください
2009.04.13
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こんにちは3月に入り、時折暖かい日もございますが、まだまだ寒い日が続きますねさて、上撰居合刀 『西陣』の鍔と目貫の選択の変更のお知らせですこの度、上撰居合刀 『西陣』の鍔の種類が増えました更に、目貫が選んでいただけるようになりました上撰居合刀 『西陣』ぜひ貴方のお気に入りの1つを見つけてみてくださいね
2009.03.03
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今日は節分暦の上ではもう春立春ですね。でも、この時期が1ばーん寒い気がします。NHK大河ドラマ『天地人』で人気の直江兼続、「傾奇者」(かぶきもの)を代表する前田慶次郎、戦国武将のなかでも抜群の人気!伊達政宗のアンティークフィギアを販売開始いたしましたブロンズ調で渋くてかっこいいです
2009.02.03
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ここ数日、京都は暖かく過ごしやすい日々を送ってます寒いのが大の苦手で、冬は冬眠していたいくらい先日、お客様からお問合せの電話を頂き最後に「ブログがんばってくださいね」と激励のお言葉を頂きとっ~ても嬉しかったですこんな風に見て下さってる方がいるので、もっとがんばらねば
2009.01.30
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越後の守護代長尾為影の三男として生まれ、守護の上杉定実や兄の晴景を凌ぎ、越後一国を平定し戦国大名として活躍しました現在も謙信は生国越後(新潟県)で純情な英雄として慕われてたようですが、武田信玄や織田信長・徳川家康といった非情無残な武将たちがいるなかで、謙信の行動は、道徳的すぎるほどだったようです。信玄が相模の北条氏のために塩の輸入路を断たれ困却した際、越後の塩を甲斐に送らせ信玄の危急を救うなど“強きをくじき弱きを助ける”男気に富んでいたからのようです。また謙信が生涯妻をもたなかったのは、生母青岩院の影響を受けて真言宗に帰依し、不犯を説き肉食妻帯を禁じる戒律を厳守したことと、在欲的な一向宗徒に対する反発心からと見られています。阿部寛が大河ドラマ撮影のエピソードで新潟に行ったとき、妻夫木くんや他の俳優人を差し置いて「キャー謙信公さま~」と歓声がすごかったそうです。現在に至ってもそれほど人々に人気があるなんてやはり男前ですね男気のある人は、どの時代にも活躍したんでしょうね。
2009.01.28
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こんにちは今日は『西陣刀剣』より、かなりお買い得な情報をお届けいたします今月30日の24:00までに居合刀『嵐山』『鞍馬』のどちらかをご注文頂きましたお客様に な、な、なんと刀剣用金襴袋&房紐をサービスさせて頂きます期間限定またとないチャンスお見逃しなくご不明な点がございましたら、お気軽にお問合せ下さいませ
2009.01.26
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昨日の大河ドラマ見ましたかとまたもや、大河ドラマの話題ですが…与六たち、一気に大人になりましたね~妻夫木くんいいですね阿部寛の上杉謙信は、迫力があってかっこよくなかなかのはまり役色々な人間関係の動き面白いです。さてそれにちなんで、戦国武将Tシャツ販売してます。直江兼続・上杉謙信はもちろんのこと秀吉・信長・家康まで各種取り揃えてますなかなかスタイリッシュなデザインで色んなシーンで活躍するはずぜひ一度覗いて見てくださいそして、そして!!アンティークの新作刀も販売しております。お気軽にお問合せ下さいませ
2009.01.19
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大河ドラマ「天地人」始まりましたね直江兼続は、「愛」という字を前立にあしらった兜をかぶっていたことで有名「愛」は「愛染明王」(仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の1つ)又は「愛宕権現」(京都市の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰)からの由来といわれているが実際は不明。俗説として「仁愛」の精神に由来するとも言われています。愛宕山は、京都で一番高い山と言われていて、3歳までに登ると家が火事にならないとのいわれがあります。私は、小学校の6年間遠足で毎年登ってました3歳までに登ってないけど、これで火事にならないかな…兼続は、主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜きを何度も受けたが全て断るという忠義に厚い男でした。さらに妻・お船の方との夫婦仲は大変よく兼続は生涯側室を1人ももたなかったようです。 なんて一途な男なんでしょう 男の鏡ですね!この時代の後継ぎのことなどを考えると側室を持ち子どもをたくさん産んだ方がいいのかも知れませんが、やっぱり、一夫一婦制!一人の男性に自分だけを愛して欲しいと思いますよね
2009.01.09
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新年あけましておめでとうございます昨年はご愛顧賜りまして誠にありがとうございます本年も西陣刀剣・ブログ共々よろしくお願い致します。さて、新商品に並製角帯を追加いたしました。かなりお安くなっておりますので、ぜひこの機会にお買い求め下さいませ
2009.01.07
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今朝の京都は、雪が降って山々がうっすらと雪化粧していました。とっても寒くて滅入ってます。明日から年始4日まで弊社は、お休み頂いております。しばらくの間、ご迷惑をおかけいたしますがどうぞよろしくお願い致します。そして、カテゴリーに「ナイフ・和包丁」を追加しました。なんと、関の刀匠さんがつくる逸品のナイフを販売しておりますのでぜひぜひご覧下さいかなりかっこいいです!
2008.12.26
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“土方歳三”は、体格が華奢で色が白く頼りなく見えたようですしかも、防具の面紐にいつも赤を使用していたので女性剣士のように見られ「あれで竹刀が扱えるのだろうか」とささやかれていたそうです。それでも、あえて赤色を使っていたのは、彼のお洒落心だったんですね。さらに彼は、いち早く髷を切り洋服を着たことでも有名です龍馬さんのような、男らしい男性もいいですが、身の回りのことに気をつかえる男性も素敵ですよね
2008.12.24
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歴史は詳しくありませんが、歴史に関する本で司馬遼太郎さんの『竜馬が行く』は唯一読んだことがありますなので、第1回目は龍馬さんについて…この写真は長崎で撮った有名な写真ですが、短刀の差し方が不自然ですよね普通は帯に差しますが、そうすると短刀の柄部分しか写真に写らないということで、袴の紐に指し直したと言われています。この写真から、坂本龍馬が刀に愛着を持っていたことが伺えますね龍馬さんの刀の趣味は、19歳から生涯続いた唯一の趣味と言われているので、とても刀が好きだったんだな写真に収める残しておこうなんて、粋な男ですね
2008.12.22
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みなさま、はじめまして私は“西陣刀剣”という居合刀・居合用品を専門に扱うサイトを担当しています。歴史は、あまり詳しくありませんが少しずつ勉強したことをここで紹介していきたいと思います。このブログを通して、様々な方との交流、歴史に詳しい方から色々とご教授頂ければと思っておりますので、サイト・ブログ共々よろしくお願いします。
2008.12.19
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