サルデーニャの海と風と

サルデーニャの海と風と

1999年 運命の再々会


まあは大学のほかにAFSのボランティア活動にのめりこんでいき、
お互いの生活が忙しくなって連絡がだんだんと薄れていった。

1996年、東京からシドニーのグループホテルに6ヶ月の研修で飛ばされたとき、
まあは何回か私のアパートに電話をかけてきた。

その時期、彼はAFSでイタリアからオーストラリアとニュージーランドへ留学する学生たちの
添乗員としてやって来たついでに、ニュージーランドを旅行しており、
私に“ニュージーランドにおいでよ”としつこく迫っていたのである。

私は6ヶ月間だけの研修生という身分であったので、
もちろんニュージーランドへ行くようなお金もなければ休暇もなし。

私は反対に、“シドニーにおいでよ”と言ってみたが、
彼の予約した航空券は変更が利かず、結局会うことはできなかった。


1997年の春先に日本へ帰国したわたしは、向上心で燃えたきっていた。
シドニーで日本と違う部署で仕事をし、ホテルの仕事が一段と魅力的になった。

しかし私のそんな思いも、体調を壊したことと結婚を決めていた相手の希望によって断念することに。

1998年に私は結婚退職をした。


シドニーから帰国してすぐに私はコンピューターを買い、
それと同時にまあとのメール交換も始めていた。

瞬時に届くメールを使って、私たちはいろんなことを語り合った。
私の結婚の報告にも、まあはとても喜んでくれた。
しかしその後、まあとの連絡はすっかり途切れてしまった。


私の結婚はせにーのが生まれた1999年、早くも破局を迎えた。
生後間もないせにーのを連れて私は実家へ帰り、結婚直後からのストレスをまだまだ引きずっていた。

そんなある日、せにーのが生まれたときに母が病院へ持ってきてくれた、
まあからのクリスマスカードを思い出して早速メールを書いた。

まあは私のメールアドレスをなくしてしまったため、
連絡ができなくなってしまって私の実家にクリスマスカードを送ったのだった。


わたしはまず、せにーのが生まれたことを報告した。
そして次に、私の状況について簡潔に報告した。

まあも、付き合っている女の子とうまくいっていない話(相変わらず!)や、
お兄さんが結婚するのでやっと部屋がすべて自分のものになるという話などをしてくれた。

そして少しずつ、私たちは昔のようにすべてをさらけ出してお互いの人生を語り合うようになった。


約一ヶ月の間に私たちは何百というメールを交換した。

ICQを使うようになってからは、毎晩遅くまでチャットし続けた。

しかしそれでも物足りないときは、何時間も電話で話し続けた。

私たちはお互いに心から信頼できる相手であることを確信し、
深い友情で結ばれていた。


まあがある日、“気晴らしに、サルデーニャにおいでよ”と言ってきた。

ヨーロッパなんてそんな遠くに行ったことないし、せにーのはまだ生後3ヶ月だし、
“冗談でしょ”と言い返した。
“冗談なんかじゃないよ、海の近くに別荘があるんだ、一ヶ月ぐらいゆっくりしたら?”

そのときは笑ってごまかしてみたが、あとになってふと、
〔一ヶ月ぐらい知らないところにいって、前夫からのストレスから解放されてみたい〕
という思いに駆られた。

航空券を探してみると、ローシーズンのため結構安いチケットが見つかった。
両親に相談してみると、“ゆっくり気晴らししてきなさい”という温かい言葉。
もちろん、まあのことを知っているからという安心感もあったのだろうが。

こうして話がぽんぽんと進み、お誘いから約3週間後に出発が決まった。

初めての長距離便で、しかも生後3ヶ月の乳幼児を連れての旅ということもあって
インターネットで情報を集めまくって準備を整えた。



© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: