40話 【Dog Collar!】


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40話 (潮) 【Dog Collar!】


___01.PM14:24/POSルーム

千早さんと勤務時間が重なった日、私は彼女に協力を願い出た。休日、或いは勤務時間を交替してもらえないかと。
「構いませんよ。いつがよかったですか?」
千早さんは自身のスマホを取り出すとスケジュールアプリを立ち上げた。
「来週の火曜日は健康診断を予約してしまっているので、その日以外でしたらいつでも大丈夫です」
「千早さんだから正直に言うね。……不破犬君と話しがしたくて」
そう告げる声は我ながらとても小さく、果たして届いただろうかと懸念を抱くも、こんな恥ずかしい言葉は二度も繰り返せない。
千早さんはきょとんとしながらも黙っている。……これはあれだ。間違いなく頭の中で反芻してる。
やがてふにゃりと頬を緩ませ、とても女の子らしい、可愛い表情を作った。目をきらきらさせると、
「まぁ……まぁ……! 私には、いえ、私にだけ正直に心の内を吐露してくださるなんて……! 歴は嬉しいです!」
「あー、そっちかー」
千早さん的には、頼られたことの方が琴線に触れたようだ。
「なるほど、そうでしたか……不破さんと話がしたくて勤務時間を交代したいと……」
私の言葉はちゃんと伝わっていたようだ。それにしても念を押すようにリピートするのは小っ恥ずかしいから勘弁して欲しい。
「人目が気になるから職場は避けようと思ってるけどね。待ち伏せもNG」
「分かります。社宅マンションを訪ねるのもおすすめしません。私は先日実際に痛い目をみました」
さもあらんと千早さんは頷く。
「では、直接会いに行くのはどうですか? 無性に読みたくなった小説を取りに行くついでに今夜は御実家に泊まると仰ってました」
「はは……さすが今カノ……。ちゃんと彼氏の行動把握してて偉い偉い……」
「そんなに落ち込まないでください。私からは……ごめんなさい、話せませんが、不破さんから色々なお話が聞けるかもしれませんし」
「千早さん……」
本当にどんな理由だろう。深掘りしたくても、千早さんの口調から察するにこれ以上尋ねても教えては貰えないだろう。
なのに不破犬君ならば説明を聞くことも可能かもしれないと言う。向こうが主導権を握っているのだろうか。
「でも実家の住所知らないし、押し掛けたらストーカーっぽくない? 教えて貰うにしてもほら、個人情報保護法とやらは?」
「そこを突かれると何も言えませんが……。でも、この方法しか無くないですか?」
職場では会いづらい。社宅マンションも避けたい。確かに詰んでしまっている。
「私がお伝えしましょうか?」
「それで約束の場所に来なかったら?」
「不破さんが透子さんを避けるはず無いと思いますけど……」
「確実に捕まえなきゃ意味がないの。……不躾だけどアポ無し自宅訪問するしかなさそう」
「畏まりました」
10秒後、千早さんはメッセージアプリ経由で私宛てにメッセージを送信した。地図上の赤点は不破犬君の実家なのだろう。
「仕事が早い」
「ふふっ。バリバリに仕事をこなす芙蓉チーフと透子さんに憧れてますもの」
可愛くウインクすると顔の横でスマホを振る千早さん。この瞬間を見損ねた柾チーフたちに『勝った!』と心の中でガッツポーズをした。


___02

門前払い覚悟で電車と市バスを乗り継ぎ、午前10時、不破宅までやって来た。
不思議なのは、この界隈が古風な屋敷ばかりだということ。この地域に住まう人たち皆旧家なのか、或いは豪商の縄張りか。
気後れする前に虎穴に入ってしまえと、余計なことは考えず、勢いのまま不破家のインターホンを押した。
カメラとスピーカー機能が付いているタイプだったため、てっきりインターホン越しのやり取りがあるものだと思っていた。
ところが私の予想は呆気なく外れ、すぐに玄関から家人らしき男性が出て来た。すわ不破犬君本人かと思いきや、顔立ちが違うことに気付く。
相手が首を傾げたのは、私を見て記憶の誰とも一致しなかったせいだろうか。現に彼は「宅配便じゃなかったか」と残念そうだ。
「あの……犬君さんはご在宅ですか? 昨夜からこちらに戻っているとお聞きしました」
この情報は千早さんから得たもの。信憑性は高かったものの、答えを貰うまではドキドキしてしまう。
「あぁ、兄貴ですか」
ということは彼は不破犬君の実弟!? お互い相手を値踏みするような間が空く。
「兄貴なら母屋です。もうじき戻って来ると思いますけど……待ちます?」
「待たせて頂いてもよろしいのでしたら」
「いいですよ」
上がり框に足を置き掛けて気付く。そう言えば名乗っていなかった。得体の知れない女をほいほい家に上げさせてしまうのは申し訳ない。
「言いそびれてしまってごめんなさい。私は犬君さんと同じ、ネオナゴヤで働いている潮という者です」
「あぁ、これは御丁寧にどうも」
無頓着? 大して気にしていないみたいだ。
「ここで待っててください」
案内されたのは2階の一番奥の部屋だった。シンプルでモダンなインテリアが目に飛び込んできた。
ほとんどの調度品が黒とシルバーで統一されている。その空間は、大人の男性が住まう雰囲気そのものだった。
「……ここって」
「兄貴の部屋です」
「!?」
ふ、不破犬君の自室……!? 
足を踏み入れてはいけないような気がする。私は振り返り、弟さんに訴えた。
「いえ、あの、私たち、別にそういう関係じゃないんです。ただ仕事の話があって来ただけで!」
「そうなんですね。でも俺、応接室を占領したうえ散らかしちゃったし、この部屋が一番綺麗なんですよね。なのでやっぱりここにいて下さい」
「……」
アポ無し突撃で肩身が狭いうえ、家人にそう言われては、ここに留まるしかない。私は曖昧に頷くと、入り口に佇む。
「いや、普通に座って貰っていいですよ? そこの椅子使ってくれて構わないんで」
とても座り心地のよさそうな椅子だ。革張りで、腕置き場もあり、ふんぞり返ることも出来る。まるで歯医者さんのようだ。
そっと腰を下ろすと、予想通り快適さを実感した。不破犬君、なんていいモノを持っているのよ。
「犬君さんの弟さんなんですね。でも、似てないような」
言ってから、しまったと口を手で押さえる。よりによって、何て気の利かない会話を選んでしまったんだろう……!
ところが弟さんは気をよくしたようで、「本当ですか!?」と嬉しそうだ。
「ですよね、全然似てないでしょ!? いやぁ嬉しいなぁ。あなたはいい人だ」 
心底嬉しそうに言うので、こっちが戸惑ってしまう。
しかも気に入られてしまったようで、さっきまでのロー・トーンが嘘のようだ。まるで尻尾を振る犬のように懐いてきた。
「潮さんでしたっけ。職場の兄貴ってどんなです? ぶっちゃけヤなヤツでしょ?」
えぇ、ホントにヤなヤツ!
出会った頃ならハッキリキッパリ断言していたと思う。
でも今は違う。そう思わないし、嘘をつくことも出来ないので、「まぁ、司令官みたいな人だよね」とだけ答えておく。
「司令官か……。潮さん鋭いですね。そうだ。兄貴に彼女がいる話は知ってます? ネオナゴヤ店の千早歴さんって女性ですけど」
「……千早さんを知ってるの?」
「お婆様が縁談を薦めた相手ですから」
「……!」
2人の交際には何か特別な事情があると思ってた。でも、ここでいきなり真実に行き当たるとは。
弟さんは何を知っているんだろう? どうすれば上手に情報を引き出せる……?
さっきのやり取りを思い出す。どうやら彼は、兄に対して快い感情を持ち合わせていないようだ。
兄に対してコンプレックスを抱いてるのかもしれない。司令官と言った時に見せた表情は、それを物語っていた。
ギブ・アンド・テイク。情報には情報を。弟さんが欲しがってるネタを提供すれば成功するかもしれない。
ただしタイムリミットは不破犬君が戻って来るまで。そうとなれば時間が惜しい。早速カードを切った。
「えぇ、千早さんと付き合ってるみたいね。私、彼女と同じ部署なの。同じ社宅マンションに住んでるし、相談にもよく乗るわ」
千早さんが聞いたら図々しい・厚かましいと思うだろうが仕方ない。この場だけの発言だから、どうか許して欲しい。
「へぇ……! どんな人なんだろ。兄貴は何も教えてくれなくて」
「礼儀正しい大和撫子って言えば伝わるかな? 黒髪はさらさらで艶めいてて、肌もきめ細かくて、名家で大切にされてる日本人形みたいな存在」
「なるほど。そりゃあお婆様が気に入るわけだ」
お婆様。さっきからこればかりだ。縁談話を薦めたのもお婆様、千早さんを気に入ったのもお婆様。さてはキーパーソンだったりするのだろうか。
「でも兄貴の好みじゃなさそうだ。茶髪ふんわりガールが好きなはずだから。……あっ、そうそう、潮さんみたいな」
「……そう……」
それは要らない情報だな。
「まぁ縁談なんて、好みのタイプとは相容れないものだと決まっているけど」
「その縁談、どうして犬君さんは断らなかったの?」
「あー……、始めは凄い剣幕で怒ってたけどね。勝手に決めるな、進めるなって」
若干砕けた口調になってきた弟さんは、懐古するように乾いた笑い方をした。私は質問を被せる。
「どうして怒ってたの?」
「『好きな人がいるから』って。兄貴、今までずーっとお婆様の言うことを聞いてたから、とうとう我慢の限界がきたみたい。
お婆様はいつだって兄貴にばかり目を掛けていたんだよね。俺は次男だから常に控えていなきゃいけなくて、お婆様に相手にされてこなかったんだ。
だから、『これからは僕自身の道を選ぶ』だの、『これ以上は従えない』だの、勝手なことを抜かす兄貴に腹が立って仕方ない。
最近特にその傾向がひどくてさ。お婆様は、兄貴の制御が出来なくて不満を募らせてるんだ。
だけど俺が嫁選びを申し出たら、お婆様はよっぽど嬉しかったのか、『次の当主はお前を据えようか』なんて言ってくれてさ!
やっと俺を見てくれたことが嬉しくて仕方ないんだ。お婆様の望みなら叶えたいし、従いたい。
兄貴はそんな俺を『自ら率先して操り人形になりたがる』なんて言うけど、俺に言わせれば兄貴こそ恩を仇で返すような恥知らずだ」
なるほど、兄弟関係は何となく分かるようになった。「大変だったのね」と同情してみせると、弟さんは「だろ!?」と顔を上げる。
「いっそ兄貴の縁談なんて壊れちまえばいいんだ。そもそも始めは嫌がってたのに、なんで意趣返しして千早さんと仲良くしてんだか。わけわかんね」
本当だ。何故だろう?
「それは……千早さんが好きだからじゃない?」
「僕が好きなのは貴女だと常々言ってるでしょう、透子さん」
突如聞こえた第三者の声に、私と弟さんは背筋を伸ばすと恐る恐るドアの方を見る。そこには私服姿の不破犬君が立っていた。
急に鼓動が早くなり、脈打つのが自分でも分かる。
「女性の靴があったから、お前の彼女かと思った」
それは弟さんに対しての発言だった。言われた本人は、「彼女いねぇし」とむくれる。
「モデルなのにモテないのか。可哀想に」
あ……怒ってる。弟さん、物凄い顔で不破犬君を睨んでる……。カッチーンという音が聴こえてきそうだ。
今にも大股で出て行きそうな弟さんを、不破犬君は「貴君」と呼び止めた。弟さんは一応素直にその足を止める。
「破談だ。僕と歴さんの縁談を白紙にしてきた」
驚いた私たちは、食い入るように発言者を見た。その左頬はなぜか赤く腫れている。
「お咎めは頬にビンタ1発。勘当はナシ。僕が当主になる話も流れた。というか次期当主の座は刀自ではなく親父が決めることになった」
「な……んだよ、それ……。また俺がいない時に決めやがったな!?」
「別にお前を除け者にしたわけじゃない。僕の未来を、僕自身で作り上げてきただけだ」
「なに格好付けてんだよ! 満足か!? 余命幾許もないお婆様に反旗を翻して、兄貴はそれで満足かよ!?」
恨みがましい目で兄を見る弟。その弟の視線を真っすぐ受け止める兄。
――今回軍配が上がるのは兄の方だ。私も姉妹喧嘩をするから、場の治まり方を見極めるのは容易かったりする。
「残された時間が少ないからこそ、もう嘘はつきたくなかった。刀自には僕の本音を知って欲しかった。
自分の心に蓋をしてしまえば、きっと後悔する。それが分かったから曝け出したまでだ。お前に不誠実さをとやかく言われる筋合いはない」
正論を突き付けられた弟さんは、唇を噛み締めるばかり。
「分かってくれとは言わない。これが僕の本心だ」
「ちっとも分からねぇよ!」
今度こそ部屋を出て行った。バタン! と大きな音を立ててドアが閉まる。まるで彼が受けた心の傷の大きさを表すかのような音だった。
「追いかけなくていいの?」
「多分……親父のとこに文句を言いに行くんじゃないかと。でもまぁ後のことは親父に委ねれば大丈夫だと思います」
ベッドの縁に腰掛け、やれやれと深呼吸した彼は、そう言えばと私を見る。
「どうして透子さんがここへ?」
「え!? っとそれは……ど、どうして……かなぁ!? か、帰る。帰るね。お、お邪魔しました」
「待った」
パシッと腕を捕まえられる。振り解こうにも、何この腕力。ちょっと、振り解くの無理なんですけど!
「いやもう何がなんだか……。正直、僕もラスボスと一戦交えた後なんで疲れてるんです。お願いですからそこに座ってください」
確かに、言われてみれば満身創痍に見えなくもない。大人しく指で示された椅子に腰かけた。
「透子さんの話はあとで聞くので、僕から先に説明させてください」
「説明って」
「弟が何をどこまで話したか知りませんし、噂話しか御存知ないと思うので、一連の事情についてお話しします」


___03

突如持ち上がった縁談話。
その相手が鬼無里三姉妹から千早さんに切り替わった経緯。
千早さんが、柾チーフや麻生チーフからの告白をはねのけてまで、まやかしの一時恋人役を了承したワケ。
時系列ごとに組み立てられた1つ1つの出来事が、パズルのピースのようにカチカチとはまって行く。
それは概ね杣庄が予測した通りだった。そして不破犬君の説明で、やっと全体像を捉えることが出来た。
「でも、よくお婆様が破断を許してくれたわね」
「怒られるわ、泣かれるわ、散々でしたけどね。
でも、伊神さんが教えてくれたんです。呪縛から逃れることは可能だ、断固自分の意思を貫くべきだって。
意気地なしだった僕を突き動かしてくれたのは……180度変えてくれたのは、伊神さんなんです」
「伊神さんが? ……どういうこと? いつの間に話すようになったの?」
「ラッピング講座のときですよ。たまたま同じテーブルだったんです。
こっちはひたすら無視を決め込むつもりだったのに、速攻話し掛けてくるものだから参りましたよ。あんなお節介な人、見たことない」
えええ……。まさか伊神さんが、不破犬君にアドバイスをしていたなんて……。そしてそれを素直に聞く不破犬君にも驚きだ。
「さすが伊神さんだなって思いました。完敗です。透子さんが惚れ込むのも分かりますよ。強い人ですね。とても魅力的な人だ」
「まぁね! そうでしょう? 凄い人でしょう、伊神さんって!」
「だからって、惚気話は勘弁してくださいよ? 僕はひとりのオトコとして伊神さんを認めたのであって、って、透子さん?」
伊神さん。伊神さんを嫌ってた不破犬君が、貴方を認めてるよ? 
さすが伊神さんだね! いまの言葉、あぁ、伊神さんに直接聞かせてあげたかったなぁ……!
「ううん、何でもない。それで、千早さんの方は?」
「破談成功の件は、既に歴さんにも伝えてあります。歴さんの方も色々と大変だったみたいで」
「柾チーフたちも絡繰りを?」
「別ルートを通じて事情を知ったみたいですよ。『計画』が失敗したんで、凪さんだけが地団太を踏んでますけどね」
「とにかく……これで一件落着なのね?」
「えぇ、まぁ、ごたごたに関しては」
「なによ、その煮え切らない返事」
「だって、まだ肝心なことが残ってるじゃないですか」
「肝心なことって?」
「透子さんがなぜ僕の部屋にいるのか」
う。言い訳が出てこない……。
理由なんてない。居ても立ってもいられず、来ただけだ。
つまり、会いたかったからなんだけど――。
「その……恋人役だけど……さ? その……どうして千早さんに頼んだの? 他の人でもよかったじゃない?」
「他の人では駄目だったと思います。例えば祖母は、透子さんですら認めなかったと思いますよ。
それは僕が嫌だった。家族の誰からも、透子さんを否定する言葉など聞きたくなかった。巻き込みたくなかったし、それに伊神さんと付き合ってたし」
「社員旅行の頃から私を避けてたよね? あれ、すっごく傷付いた。千早さんと付き合ってること、大分後になって知らされたし」
「あのですね、それを言うなら僕だって、透子さんが伊神さんと付き合い始めた件は、周囲から聞かされたんですけど?
まぁそれは置いといて、水面下で縁談が持ち上がって、てんやわんやしながら駆け引きの応酬を繰り広げてたわけです。
透子さんには申し訳なかったです。短期間で祖母と決着を着けてしまいたかったので」
あとは――あとは――?
「それで? 透子さんはなぜ僕の……」
「あぁもううるさいうるさいうるさい! 来ちゃいけない!? 別にいいでしょ、どうだって!」
まるで小学生の言い訳だ。分かってる。恥ずかしいし、すこぶる虚しい。分かってるけど、でも、でも……!
言い切った私に、不破犬君が噴き出した。
「……あははっ! 分かりました。いいですよ、もう聞きませんから。でもありがとうございました。嬉しかったです、来てくださって」
「……あっそ」
椅子から立ち上がり、ドアを目指す。不破犬君は特別何を言うでもなく、私が退室するのを見ている。
「伊神さんと仲良くなってくれて、私も嬉しい。っていうか、伊神さんのよさ、やっと分かったの? って感じ」
「いやはや、その節は失敬。でもまぁ、恋は盲目なので許してくださいよ。坊主憎けりゃ袈裟までってね」
「伊神さんから何か言われた?」
「ですからさっきも言った通り、『不破くん、自棄にならないで。もっと自分を大事にしなよ』って――」
「違う。私のことで」
会話が途切れた。長い長い時間が流れ、やっと不破犬君は口にした。
「なんか……おかしなことを。『透子ちゃんを悲しませないであげてね』って」
胸がギュッと締め付けられる。それは伊神さんからの餞別だ。
「……透子さん?」
振り返り、向き直り、1歩、また1歩と近付く。見下ろす私、見上げる不破犬君。
お婆様にぶたれたという左頬に手を伸ばす。彼は一瞬ビクッとしたものの、そのままの体勢でいてくれた。
「痛い?」
「透子さんが撫でてくれるから、痛くありません」
そう言って、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「……私、貴方が好きみたい」
目を瞠る不破犬君は、心底意外そうで……。
「不破犬君。貴方が、好き」
至近距離で見つめ合う。
唇は果たして、どちらが近付けたものなのか。
今度は頬を撫でていた手を掴まれた。そのまま腕ごと引っ張られ、気付いた時にはマットレスの上に仰向け――。
そ、そうだった! ここ、ベッド……!
気付いてももう遅い。
「待っ……」
留める私に、不敵な笑みを浮かべた不破犬君が覆い被さる。
「待ちません。待てませんよ。知ってるでしょ?」
「知、らない……」
「僕は、初めて会った時から透子さんに惚れてましたから」
ひざ、太股、そしてその上へと伸びる左手は優しくて。
頬、あご、首、鎖骨、胸へと下がってくる右手は荒々しい。
その絶妙な力加減に、どうしても抗えない。
「好きです。大好きです。愛してます、透子さん」
思えば、ずっとそう言い続けてくれたね。こんな私を、最後まで。
「泣かないでください」
「違う。悲しくて泣いてるわけじゃないの」
「じゃあ、怒ってます?」
「……馬鹿ね。言ったでしょ、好きだって」
「……ありがとうございます。僕を選んでくれて」
そう言って、にっこり笑う。
いま気付いた。笑う頻度は伊神さんに引けを取らないのね。その優しさも。
常々、伊神さんと杣庄は紳士だと思ってた。
でも、貴方もなかなかのジェントルマンよ、不破犬君。


2014.07.31
2025.11.16


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