00話 【捻くれた、感情の】


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00話 (―) 【捻くれた、感情の】



[1]

「あの志貴が? 何かの間違いじゃないの?」
誰かが言った。
誰しもが言った。
「落ちこぼれの志貴がネオナゴヤ店に配属されるだなんて、おかしいじゃない」
『そこ』は、出世が確約された者だけが配属されるのだと、実しやかに囁かれていた。
新店舗に集う有能社員たちは『社運の担い手』であり、『次世代の寵児』的存在でもあった。
その申し子たちの中に、問題児である志貴迦琳が含まれていたことに周囲は訝り、嫉妬まみれの中傷で彼女を苦しめるのだった。
(そんなこと言ったって仕方ないじゃない。そもそも異動に一番驚いているのは私自身なんだから!)
降って湧いたような辞令だった。何度も辞令書を確認した。そこに記された名前は本当に自分のものなのかと。
直接店長に尋ねたりもした。私なのかと。私で大丈夫なのかと。
「人事部は気でも狂ったんですか? 焼酎ワインビールカクテル日本酒卵酒料理酒を混ぜて、一気に煽ったに違いないわ。
でなければ、なんの功績もない私なんかをネオナゴヤに配属させるはずがありません」
「例えお酒のちゃんぽんが原因で人事部が気紛れを起こしたとしても、君にはそれを受け取って貰わなければ困るな」
君はネオナゴヤに行きたくないのかね? 代わりに私が異動したいぐらいだよ。――店長はそう付け加え、笑う。
「行っておいで。人事部自体も大幅改編されたばかりだし、君が疑いたくなる気持ちは分かるが、絶対に大丈夫だ」
その根拠はなんですか、と迦琳は問い返す。一種の博打。それも勝つ見込みのない、負け戦であることは明白なのに。
「人事部のことは知らないが、私は君を知ってるよ。この店で育ててきたからね。
功績などない? いや、決してそうは思わない。君が人知れず積み重ねて来た努力、私はちゃんと知ってるよ」
「努力?」
「そうだ。誰も買って出ない倉庫などの掃除をきちんとしてる。誰に言われるともなくね。
ごみ捨てもしてくれている。ごみ箱から溢れ出たものを拾って、時には分類して、きちんと袋を交換してくれる。
ラミネートに関しても、皆が使いやすいようにと、箱に切れ込みを入れたり工夫してるじゃないか。コピー用紙も然り。
そういう、行き届いた『采配』だよ。私も見てる。神様もちゃんと見ていて下さる。
皆も感謝しているよ。誰かのお陰でいつの間にか綺麗になっている、仕事がしやすいとね」
「そんなもの……貢献とは言いません。
売り上げを伸ばすこと、お客様を喜ばすこと、粗利を作ること。それが社員である私がしなければいけないことです。
掃除や図工の功績で認めて貰おうなんて思わないですし、そこを褒めていただいても嬉しくなんかありません」
迦琳の言葉に、最高責任者は悲しげな顔をした。そうではないのに。大事なことは、そんなことだけではないのに。
「カイゼンは知ってるね? 今ユナイソンが特に力を入れている分野だ」
「作業効率の向上や作業安全性の確保など、生産に関するボトムアップ活動のことを言います」
「結構。その通りだ。皆が使いやすいようにという理由でしてくれている志貴君の工夫は、カイゼンの一環でもあるんだよ。
君は知らず知らずの内に、率先してカイゼンをしてくれている。これを功績と言わずして、なんと言うんだい?
なにも売り上げを作ることだけが社員に与えられたノルマではない。それはそういうことを得意とする者に任せておけばいいんだ。
君は君にしか出来ないことで、君が得意とする分野で、まずはその能力を高めていけばいい。期待してるよ、志貴君」
そう送り出してくれた店長の期待に応えられただろうか。迦琳にはとてもそうは思えなかった。
ネオナゴヤ店の上司である青柳幹久が望んでいるのは、万能に全てをこなせる人材だ。例えば、部下である不破犬君のような。
ある分野の1つが突出しているだけでは駄目なのだ。決して褒めてなどくれないし、喜んでもくれないだろう。
青柳は他人にも、己自身にすら厳しい。よりにもよって、なぜそんな堅物に恋をしたのだろうと思うと溜息が出る。
(仕方ないじゃない。一目惚れだったんだもの)
時は、開店準備期間の初日にまで遡る。


[2]

きっかけは、ネオナゴヤへと続く道の途中だった。迦琳は通勤手段を模索していた。
その日は電車の利用を試したばかりで、1枚の地図を頼りに慣れない土地を歩いていた。
さっきまで大通りがあったかと思うと、油断していた頃に細い道が現れ、方向感覚を狂わせる。
あれ? と首を傾げること数回。やがて大きな建物が見えてきた。目標としていたユナイソンネオナゴヤ店だ。
本社のお膝元、名古屋という大都会に腰を下ろしたユナイソンの最終兵器にして、300店舗を統べる本店。
(あとはアレを目指せばいい)
安堵した迦琳の視界に、1人の男性の姿が入ってきた。
自分の前を歩くその人物はスーツを着、手にブリーフケースを持っていた。
歩く方向が一緒で、十中八九、ネオナゴヤに用事のある会社員のように思える。
(あの人について行けば大丈夫かな。例え見当違いだったとしても建物は見えてるわけだし、保険として、ね)
ところが男性は歩幅が大きかった。あっという間に引き離されてしまう。そのたびに迦琳は小走りで追い付いてみせた。
ふと、その男性の足が止まった。かと思うとその場にしゃがみ込んだ。靴紐でも解けたのだろうか。
そう思った迦琳は、その考えが間違っていたことに気付く。
スッと綺麗に立ち上がる男性の手には、ひしゃげたコーヒーの缶が握られていた。今しがた男性が拾い上げたものだ。
(缶を拾ってどうするんだろう? ひょっとして缶コーヒーに付いている応募シールでも剥がすのかしら。だとしたら滑稽だわ)
だが迦琳の思惑は大きく外れていた。
男性はそのまま暫く缶コーヒーを持ち続け、やがて道端の自動販売機に備え付けられていた空き缶入れのバケツへと収めたのだった。
その後は何もなかったかのように歩を進め、ネオナゴヤの従業員入り口へと入って行く。
(道端に落ちている缶を拾って捨てた。今日び、そんな人がいるなんて信じられない。人の目を気にしていないところも好感が持てるわ)
どんな好青年なのだろうと俄然興味が湧いた。迦琳は慌てて走り、身分証明書を提示している男性の隣りに並ぶ。
彼は、先に手続きを始めていた。警備員に対し、今度は口頭で身分を述べる。
「おはようございます。ドライの青柳です」
(ドライ担当の青柳さん!? 私の上司じゃない!)
喜びに震える。そんな迦琳の視線に気付いた青柳が微笑み、挨拶を寄越した。
「おはよう」
「あ、お……おはようございます!」
青柳はまだ、部下となる迦琳のことを知らない。青柳はそのまま奥へと進んで行ってしまうが、それも無理からぬ話だった。


[3]

その背中を、迦琳は追い続けることになる。
月日が流れるにつれ、迦琳の『好意』は歪み、『本音』はねじれ、2人の関係は悪化の一途を辿ることになる。
それは主に迦琳が原因だった。天邪鬼な性格は、迦琳を『問題児』と見なす要因にもなった。
だから青柳は知らない。自分に向けられていたものが嫌悪の目、憎悪の感情ではなく、『好意の目』だったということに。
出逢った瞬間から青柳のよいところをつぶさに拾い上げ、惚れ抜いていった、迦琳の本心に。
……そして、物語は始まる。



2012.06.01
2020.02.13 改稿


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