０２話【騒き戻り】 | 花夜

０２話　【騒き戻り】

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０２話　（柾）　【騒き戻り】―ゾメキモドリ―

「噂になってるわよ、柾。異動するんですって？」
「女性には書類なんて必要ないようだな。必要なのは、耳と口だけらしい」
「そうよ。伝聞。古典的で良いじゃない。それに、その口で……こんな素敵なことも出来るのよ」
カクテルの底に沈むチェリー。それを口で咥えると、蠱惑的な眼でこちらを見る。
首に回される両腕。沈みかかる肢体。唇に押し付けられるチェリー。そして唇。
この香水は何だったか。そんなどうでもいいことばかり考える。
身体を相手に預け、だから僕は、されるがまま。
「今日は受け身なのね」
「眠いんだ。すまない」
「眠ればいいじゃない。素敵な夢をみせる自信はあるわよ？」
「僕の異動先を知っているか？」
「それも聞いたわ。名古屋ですってね」
「会えなくなる」
「そうね」
「きっと今日が最後だ」
「そうね」
「なのに、寝ていてもいいのか？」
胸板を這う彼女の舌が、ピタリと止まる。
苦笑するような、悲しいような。そんな笑みを、彼女は僕に向けた。
そんな顔は、今まで一度だって見たことがない。
「いつだって、あなたはどこか夢現だったじゃない」
何をいまさらと、非難めいた口調。
「獲物が逃げればどんな手段を使ってでも勝ち取りに行くクセに。こっちが求めると、途端に素知らぬ振りをするんだから」
「そうかな？」
「今だってそうじゃない」
ベッドの上に寝転がる彼女。それを見下ろすだけの僕。
そそられない訳じゃない。なのに何故だろう。その気になれない。
「……白けたわ」
そう言って起き上がると、乱れた服を直し始めた。
「本当、私って無力で愚かな女だわ。結局あなたを最後まで振り向かせることが出来なかった」
去ると分かると追いたくなる。困った性。
キャリアウーマンの手本のように、寸分の隙もないスーツ姿に戻る彼女の手首を、僕は咄嗟に掴んだ。
「柾……っ」
しな垂れかかる身体を抱き締める。やはり思い出せない香水の名前。
「抱かれないわ。もう決めたんだから。私が何度あなたに打ちのめされたか、あなたは知らないのよ……」
「こんなツマラナイ男に、そんな立派な感情は要らない」
「……っ、好きよ柾、愛してる……。さっきはごめんなさい。やっぱり私……」
「……。」
口では彼女を求めておきながら、答えられない。……応えられない。
そんな僕の心中を察したのだろう。彼女は涙を湛えて僕を見上げ……睨む。
「最低！　地獄に落ちてよ……っ」
胸板を叩く彼女の拳は、ひどく弱々しい。なすがまま、僕はただ突っ立っていた。
一泣きした彼女は、そのまま何も言わず、鞄を持って部屋から出て行った。
きっとこれで最後。二度と会うこともない、他人の関係へ。
『地獄に落ちてよ』。最後のフレーズが頭にこびり付いて離れない。
地獄に……。
「……あぁ、それは間違いないだろうな」
つまらなくて、下らなくて、最低な下衆野郎だから。さぞかし僕には地獄が似合うことだろう。

***

コスメ売り場詰め所――商品の魅力を最大限に引き出すために設けられた、スタッフオンリーの展示物作成場所。
リムーバーが染み込んだ使用済みコットンがごみ箱から溢れそうで、室内はひどい有様だ。当然空気も悪い。
換気のため、窓ガラスを開ける。心なしか、これだけのことで少しはましになったような気がした。
ごみに関しては、気付いた者が『ゴミ庫』まで捨てに行く決まりになっているため、自ら買って出ることにした。
新しいごみ袋を棚から取り出していると、ドアをノックする音がして他部門の女子社員が顔を覗かせた。
「失礼します。あの、うちのチーフが、これを柾さんにお渡しするようにと……」
（うちのチーフ？）
誰のことだろうか。そもそも彼女にも見覚えがない。
差し出されたファイルの中身を見れば分かるかと思い近付くと、彼女は僅かに後退った。
（おいおい、まさか近付いただけで子供が出来るとか思ってるんじゃないだろうな？）
心がチリッと燃える。気付いた時には彼女の腕を掴んでいた。
その腕を引き、彼女を部屋の中に入れる。即座にドアを閉めると、ドア板に彼女の背を押し付けた。
マスカラを施した目が僕を見上げている。その深い茶色の虹彩には僕自身が映っていた。
（何て情けない顔をしているんだ？　これが僕なのか？）
どんな形容詞がぴたりと来るだろう。忍びがたい？　肌寂しい？　物足りない？　物侘しい？　物欲しい？
憐憫なる己の姿に、落胆を禁じ得なかった。
（こんな自分は、見たくない。見ていたくない……）
耐えられないとばかりに彼女の双肩を掴み、唇を近付けた。彼女の目が閉じられたことで、僕の姿はあっという間に消えた。
それが触れ合うかどうかのギリギリの位置で、やっと我に返る。
「！　……すまない……っ」
口元を手で覆い、顔を背ける僕に対し、彼女はその場に力なくしゃがみ込んだ。
「何が……起きたの……？」
彼女が茫然自失になるのも尤もだろう。僕にだって分からない。
（一体何をやってるんだ？　何をやらかした！？　そんなことよりまず、）
彼女を部屋から出さないと――。
彼女を起こそうと、僕は手を差し伸べる。
「本当に申し訳ない。悪い癖が出てしまうところだった。僕には近付かない方がいい。じゃないと……」
僕の言葉がここで途切れたのには訳がある。口を塞がれたのだ。
さっきまでへたり込んでいたはずの彼女が、どういうわけか僕の肩に手を回し――唇を重ねていた。
唖然とする間もなく、僕は体勢を崩した。彼女が僕を押し倒す形になっていた。
「おい、キミ……！」
「柾さん……っ」
潤んだ目に見つめられ、言葉を失った。
（またしても取り返しのつかないことをしてしまったのか？）
（考えるまでもない。彼女をこの部屋に引き込んだ時に、崩落は始まっていたんだ）
「駄目だ。こんなことをして何になる？　キミとは付き合えない。だから、」
「いいんです！　お願いします、今日だけ……今だけ……」
「やめてくれ、僕に近付くな。キミを幸せに出来ない」
「構いませんっ！　お願い、柾さん。私を否定しないで……！」
「否定なんかしない」
「だったら！」
「どうなっても知らないぞ。そんな覚悟があるのか？」
「……」
「明日からは廊下ですれ違っても上司と部下の関係だ。もう絶対に応えない」
「ひ、ひどい……」
「何だって？」
「だって……だって……。だって、先に誘ったのは柾さんじゃないですか！」
慟哭。そして嗚咽。わんわんと泣き散らす彼女。泣きやむ気配はない。
僕はドアを施錠し、その様子を暫く見ていた。しゃくり返し、止まらない涙。
（……脆いな。彼女の心も、僕の意志も……）
「……おいで」
差し伸べた手に、彼女は頬をすり寄せた。
（こうして僕は堕ち続けて行くんだな。僕の手だって、こうして汚れてく。彼女も汚すことになる）
（……いや、駄目だ。封印したい。二度とこんな想いはしたくない。こんなやり取りを繰り返すのもごめんだ）
突然力強く芽生えた正反対の感情に、戸惑いはなかった。
寧ろ、情けない自分を今すぐにでも切り離したくて仕方がない。
彼女の手を取ると、まずはその場に立たせた。彼女は目をぱちくりとさせている。
次に鍵を解錠し、ドアを大きく開放した。中廊下から第三者に室内の様子を覗かれても構わないように。
「戻るんだ。いいね？」
真剣な眼差しで訴えれば、まだ未練の残ったハの字型の眉をした彼女はしかし、小さく頷いたのだった。
「……取り乱したりして、すみませんでした……」
いや、僕が悪いのだ。彼女が謝るようなことは何もない。何ひとつとして。非はすべて、こちらにある。
「……五十嵐に、よろしく伝えておいてくれ」
ファイルの中身を見れば、彼女のボスが誰か、いとも容易く判明した。
彼女は右手を差し出した。僕はその手を握り返す。それは無言の契約だった。
『本当にすみませんでした』
『謝らなくていい。お互い、これからは何事もなかったかのように振る舞おう』
『はい、これからも宜しくお願いします』
僕たちは大人だ。
常識を優先させなければならないという判断力は、ちゃんと備わってくれている。――ありがたいことに。

***

（なんか……疲れたな）
近頃は虚しさすら感じ始めていた。
呆れた話だ。あんなにも女性との情事にハマり込んでいたというのに。
今ではもう、いつまでこんなことを続けるつもりなのかと己に問う毎日になっている。
生活の糧としていたものを手放せたら、楽になれるんだろうか？　と問う毎日に。
（僕は何が欲しかったのだろう？）
（女性の身体だろう）
（あぁ、それは否定しない）
（じゃあ続ければいいじゃないか。今までみたいに。やめる必要なんてない）
（いやだ。何だか心がもやもやして、虚しくなってくるんだ。何故だ？）
（分からない。だが、そうなると別の何かが欲しいんじゃないのか？）
（別の何かとは？　まさか『愛』なんて言わないよな？　よしてくれ、うんざりだ）
（もう自分を偽るな。そうさ、僕は愛して貰いたかった。誰かに僕を、愛して欲しかった）
（何人かは愛してくれていたじゃないか）
（そうだな。いつも身体を重ねたときだけ耳にしたな。それは覚えてる）
（じゃあ、どんな『愛』を求めてるんだ？）
（たった1人からの。複数ではなく、特別な人からの）
（既に僕の元から去ってしまった妻からではなく、他の誰かによる……純粋な、愛が欲しいとでも？）
（あぁ、欲しい）
（欲しいだけか？）
（……違う、与えたい。そうだ、僕は愛したい。男として愛したいんだ。僕も純粋に1人の女性を愛したい――！）
ならば清算するしかない。今を、過去を、女遊びを。
そして見付ける。手に入れる。僕だけのファム・ファタルを。
「もしもし、柾だ。……いや、そんな話をするために電話したんじゃない。……僕と別れてくれ」
「もしもし。僕だ。あぁ、柾だ。すまない、別れよう」
「もしもし。すまない、僕と別れてくれないか？」
僕の手から羽ばたいていく女性たちは、まるで蝶のようだ。1人、また1人と去って行く。
でもこれは、何かを掴むための前準備だと。僕は、愚かにも信じていたかったんだ――。

2008.01.23(WED)
2018.03.27(TUE)

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