「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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21話 【七日話】
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21話 (合) 【七日話】―ナノカノハナシ―
≪01:9月7日、7時06分、ユナイソン岐阜店・セブンス≫
ユナイソン岐阜店の開店時間は10時だが、テナントによってはそれより早くからオープンしている。
テナントの1つであるハンバーガーショップ・セブンスが正にそうで、早朝7時から立ち寄ることができた。
何を隠そう潮透子はセブンスの常連客。週に1度はここで朝食を済ませている。
杣庄には透子が立ち寄る日が分かる。前日に「ホットドッグが食べたい」と呟けば、翌朝は確実にセブンスだ。
7時少し前に名古屋駅を経由してJR岐阜駅に着いた杣庄は、自転車でユナイソンまで乗り付けるとセブンスに直行した。
「いらっしゃませ、おはようございます!」という店員の明るい笑顔に出迎えられた杣庄の視界に、透子の背中を見付けた。ビンゴだ。
透子はまだ気付いていない。お気に入りのホットドッグにかぶり付きながら、空いた左手を使って器用にスマホを操っている。
杣庄はカウンターでクロワッサンとサラダ、コーヒーのセットを頼むと、トレイを片手で持ち、透子のテーブルに近付いた。
「よぅ」
頭上から声を掛けられた透子は顔を上げた。ホットドッグの欠片を飲み込むと、咳払いをして杣庄に尋ねる。
「嘘でしょ。どうしたの? こんな時間にいるなんて」
向かいに座っても? と尋ねようとした杣庄だったが、テーブル中に広げていた書類を掻き集めたからには、正面に座ってもいいのだろう。
空いたスペースにトレイを置くと、透子の前に座った。
「杣庄和食派でしょ? 珍しいじゃん」
「俺だって朝飯にファストフードを食べたくなる日もあるさ」
コーヒーを啜る杣庄に、透子は軽く「へぇ」と相槌を打つ。
彼女は気付いてない。本当の目的は透子の様子を探ることだった。慣れないジャンクフードも彼女のため。
杣庄は3口でクロワッサンを頬張り終えると透子に尋ねる。
「不破に会ったか?」
「昨日は会ってないよ」
意外な返答に、杣庄は戸惑いを隠せない。
「……おかしくねぇか? じきに伊神さんという強敵が帰って来るってのに、何の接触もナシ? 別れの挨拶も?」
「そうよ。あいつが私を『好き』だなんて、甚だ疑わしいよね。そもそも好きな理由を問い質しても一向に答えてもらえないし」
「普通ここは押すところだろうに。てっきり俺は、奴が何らかのアクションを起こすもんだと思ってたが」
「さぁね。そんなにも気になる? ソマって私のお父さんみたい。娘の恋路が気になって仕方がない父親」
「まぁそうかもな」
杣庄は両手を胸の辺りに挙げ、降参のポーズをしてみせた。確かに娘が心配な父親に見えなくもない。任務の最中に育まれた感情だろうか。
「不破犬君もだけどさ、八女チーフまでいなくなっちゃうから、なんだか寂しいね」
「あぁ聞いた。急遽教育係として1・2ヶ月ほど留守にするんだってな。あの人のことだから、どこへ行っても伝説を作りそうだ」
「伝説?」
「初日から、でっかいことやりそうじゃね?」
にっと笑う杣庄に、透子も同意した。
「言えてる」
(だとしたら、一体どんな? 八女チーフの武勇伝、風の便りにでも聞けるといいな)
透子は口元に笑みを浮かべた。が、杣庄の顔はなんとなく冴えない。
「どうしたの? 考えごと?」
「……ん? あぁ、ちょっとな」
「当ててみせようか。八女チーフのことでしょ」
言い当てられ、杣庄は苦々しい顔で笑った。初々しい反応を見られただけで、透子としては満足だ。やはり自分の推理は当たっていたらしい。
「好きなんでしょ? 八女チーフのこと」
「誰にも言わなかったんだが、気付くやつは気付くんだな」
「杣庄とは同期からずっと一緒にいたし、そりゃ気付くよ」
杣庄の情報を掴んだことで気を良くした透子に、杣庄は唇を上げて笑う。
「透子はどっちが好きなんだ?」
ストレート過ぎる質問に透子は顔を歪めた。その事について何も考えたくないという態度がみてとれる。
「いつまでも俺がナイトのままってワケにはいかねぇだろ」
「ちぇ。ソマの過保護っぷり、すごく居心地良かったんだけどなぁ」
「俺も楽しかったぜ。なんたって不破が逐一ムキになるサマが滑稽だったしよ。だが透子の返答次第では俺もお役御免だ。分かるだろ?」
「……分かってる。もうそろそろソマを解放してあげなくちゃね。そういう約束だったもの。……今までありがとね」
「いや、お礼を言われるほどのことはしてねぇよ」
「でも、いつから好きだったの? 八女チーフのこと」
「出逢った時から」
「……そんなに前からだったの……。ごめんね、杣庄」
「それはお前には関係ない。単に、俺なりのケジメの付け方だ。お前が責任を感じていたとしたら、それは大きな間違いだからな」
都築のような、権力を笠に着る輩から透子を守ること。それが伊神から託された、杣庄への『お願い』だった。
帰国したら自分が透子を守る。そう言って彼は香港へ飛び立って行ったのだ。伊神が帰国すれば、透子のお守期間は終わる。
(これで正々堂々、心のたけを打ち明けることが出来る。頃合いだって、丁度良い塩梅だ)
任務を全うした安心感。重圧からの解放。未来への期待と不安。様々な感情と共に、杣庄自身の時間も再び動き出す。
≪02:9月7日、7時35分、ユナイソン名古屋店POSルーム≫
昨日柾と麻生が顔を見せてくれたことは、歴にとっての元気回復に一役買っていた。
けれども現実は厳しく、一向に減らない書類の束を見るとどうしても意気消沈してしまう。
優先順位を付けてみたところで、どれも開店時間10時までがタイムリミット。それでも今まで培ってきた経験を活かし、順位をつけてみる。
開店時間が迫れば迫るほどオーダーは増えていく。何も昨日頼まれたものが仕事ではないのだ。通常通りの仕事もこなさなければならない。
挫けそうになりながらも、それでも折れなかったのは、ひとえに間に合わせなければならないからだ。
POSオペレータは開店までが勝負。パソコンの画面左端には7時35分の文字。
今日は広告が出ていないので作業は比較にならないほど楽だが、それでも経過が早いのが、この時間帯の特徴だ。
(心が折れるのは、今日を終えてからでいい……! 今はただひたすら入力をする。それだけ……!)
気合いを入れた時だった。コンコンと軽快なノック音がした。が、人が入って来る気配はない。不思議に思いながらも椅子から立ち上がると、歴はドアを開けた。
全面に迫る特大段ボールに驚く。加えて懐かしい香水の匂い。この匂いには覚えがある。でも、一体誰だっただろう?
「……あの……?」
歴が声を掛けると、その人物は特大段ボールをPOSルーム内に乱雑に放り投げた。空いた両手をバッと広げ、勢いよく歴に抱きついた。
「千早! 逢いたかったわ!」
「えっ……? なっ……」
「可愛い可愛い私の千早! 久し振りねぇ、うふふっ」
(まさか……)
「八女チーフ!?」
「八女チーフだなんて他人行儀な。芙蓉チーフって呼んで!」
(この方の命令は絶対)
教育指導されていた頃の記憶が蘇る。歴は素直に従った。
「芙蓉チーフ、お久し振りです! 御無沙汰しております。でもどうして名古屋店へ……?」
「あら、私はあなたが本部に人手不足を訴えたって聞いたわよ? だからここが落ち着くまでの間、私がヘルプとして入ることになったの。よろしくね!」
芙蓉の言葉に、歴は眉をひそめた。
(本部に直談判なんてしてないのにどうして?
確かに因香さんには「この大きな店舗にPOSオペレータひとりでは大変だ」と泣きごとを漏らしてしまったけれど、補充して貰えるとは思わなかった。
もしかして因香さんが手を回したのかしら。それとも兄が……?)
「正式な辞令を受け取ったのは、実は昨夜だったの」
「昨夜!? そんなに急だったのに、大丈夫だったんですか? 引き継ぎとか……」
「その点は大丈夫。引き継ぎは不要だったから。昨日まで岐阜店にいたんだけどね、性格は可愛くないけど優秀な子がいるから全然心配してないの。
それに私って、教育係として、比較的いつ抜けてもいいような店舗にいることの方が多いから」
言いながら、芙蓉はしばらく使われていなかった机とパソコンを自分用にカスタマイズし始めた。
「本部からは、『八女さんの準備が整い次第で構わないので』って言われてたんだけど、名古屋店にはあなたがいるじゃない?
逸る気持ちが抑えられなくて、さっさと来ちゃった!」
「岐阜店のオペレータの方は、引き留めなかったんですか?」
「あー……あの子、いま自分のことで頭がいっぱいで、それどころじゃないみたいなのよね。いっそ仕事を多めに振った方が、打ち込めていいんじゃないかしら」
「『それどころじゃない』?」
「さっきも言ったけど、あの子はあれで優秀だから大丈夫。それよりも」
キラリと目が輝いた。食い入るように歴を眺めすかめつ、芙蓉は悦に入った。
「千早ったら髪を伸ばしたのね。ますます私好みだわ~。でももうちょっとスカート丈を短くしましょうか。私の目の保養のために」
「……」
(芙蓉チーフの命令は絶対。……果たしてこれも? ううん、ここは無難に聞き逃すことにしよう)
考え方が男の人みたい、という言葉をすんでの所で飲み込んだ歴は、芙蓉の嗜好に関し、何も言うまいと決めた。
「積もる話が山ほどあるのよ。あ~ん、これから千早と毎日仕事が出来るなんて、考えただけでも嬉しいわ~♪」
「あの、あの、芙蓉チーフ? 私もチーフがいらっしゃって、とても心強くて嬉しいんですけど……いかんせん、仕事が……」
書類を指差す歴に、「あら」と芙蓉。「すごい量ねぇ。さすがヘルプを頼んだだけあるわね。……あら、でもこれって――」
見ただけで仕事量を見積もれるPOSオペレータ最高権力者、八女芙蓉に舌を巻きながら歴は頷く。
今置かれた状況を――正確には昨日からだが――話してしまおうか。いや、それより入力が先だ。
歴が取り掛かろうとすると、ノック音と共に昨日の女性たちが現れた。
「千早さん、おはよー。昨日頼んだ仕事は終わったかしら。あと15分よ。ちゃんと入力したでしょうね?」
「あとこれは追加よ。こっちもお願いねぇ。明日までよ」
歴はぎくりとした。昨日と同じ嵩ではないか。あの量を明日までにこなさなければならないのかと思うと、心臓がきゅっと縮こまる思いがしてしまう。
「あの……教えてください。一昨日の夜、POSの催しデータを全て強制終了にしたのは……あなた方ですか?」
勇気を振り絞って問いかける歴に、片方が「なにそれ」と言い返す。
「何の事? やめてよ。最近のPOS入力の遅延を、ひとの所為にしないでくれない? 証拠もないのに」
「そうそう。そもそもあなたが柾チーフや麻生さんに話し掛けたりしてさぼっていたツケが、今になって回ってきてるだけじゃないの?」
「私、そんなことは……いえ、す……すみませんでした」
「済んだことだし、いいじゃない。間に合ったんでしょ?」
「……!!」
歴の頭が一瞬真っ白になった。『間に合った』――何故それを知っているのだ。その言葉こそが犯行の自白ではないか。
すぐさま追及したいのに、声が出て来てくれない。言いたいことが山ほどある。この2人にどれだけ振り回されたことか――!
「じゃあね、千早さん」
歴を絶句させ、くすくすと笑い続ける2人のことを、それまで静観していた芙蓉が呼び止める。
「待ちなさい、あんたたち」
あんた呼ばわりされたのが気に食わなかったのか、見慣れぬ迫力美人に呼び止められた2人は反抗心をふんだんに込めた鋭い眼で芙蓉を見やる。
一方の芙蓉には痛くも痒くもない様子だ。『明日まで!』と赤ペンで書き込まれた紙の束をさっと確認するなり「やっぱりね」と呆れた口調で言った。
「入力期日は半月前よ。そう言えば、こっちの山積み書類も半月前になってるわよね? どうしてさっさと渡さなかったの?」
「こっちも忙しいのよ。つい忘れたの。よくある話でしょ?」
「1日でこの量が出来るとでも?」
「はぁ? やだ、それがPOSオペレータの仕事でしょ?」
芙蓉は真正面から相手の目を見据える。相手に威圧感を与えるその目力は半端ない。臆した拍子にほんの数センチ後ずさりするのを、芙蓉は見逃さなかった。
元より勝てる相手だと確信してはいた。だが効果なくして意味はない。言い募るならいま。このタイミングが最も効果的だろう。
芙蓉は相手に紙を突き返すとくるりと反転し、背を向けたまま腰に両手をあてた。
「そうね、あなた方の言い分は御尤もだわ。入力が私たちの仕事。でも、こんな理不尽な仕打ちは真っ平よ。やらないわ」
「なっ……!」
顔だけ振り向き、2人を睨みつける。
「さっさと売り場に戻ってちょうだい。これからずっとそんな態度を取るつもりなら、私たちPOSオペレータはストライキを起こす」
「ふざけないで! ストライキですって? 上司に……店長に報告するわよ!?」
「どうぞご随意に。でもあなたたちの身勝手さや横着さが原因だってことを忘れないで欲しいわね。
『忙しくて出し忘れちゃいました~。てへっ★』なんて言い訳、今どき歯を食い縛って頑張ってる新入社員だって言わないわよ」
「お、お……覚えてなさい!」
「あなたたちがね」
「店中に、『とんでもない仕事放棄人が来た』って言い触らしてやる!」
再び向き直った芙蓉は今度、憐れみの視線を2人に向ける。
「いいわよ。あなたたちの上司が誰なのか知らないけど、報告するなら、『八女芙蓉がそう言ってました』って言い添えてね」
「はぁ!? なんでそんなこと……」
「決まってるじゃない。上司全員が『八女芙蓉』の存在を知ってるからよ」
途端、相手の顔が青ざめた。やっと喧嘩を売ってはいけない人物だと気付いたようだ。2人はこれ以上部屋にいたくないとばかりに出て行く。
歴もとんでもないことになったと顔から血の気が引いていた。
「だ、大丈夫ですか? あんなことを言ってしまって。さすがにストライキを起こすという宣言は盛り過ぎたんじゃ……」
「盛り盛りに盛ったのはストライキの方じゃなくて『全員私を知ってる』云々のハッタリの方よ。そんなどうでもいいことよりも、千早!」
「ふぁ、ふぁい!」
「あなた、いつからこんな理不尽な目に遭ってるの? これってイジメじゃないの!」
「えっ、えー……と……。実は、昨日から……」
「昨日?」
「昨日出勤したら、全ての催しデータを抹消されてしまっていて。かと思えば大量の仕事が舞い込み……。
昨日は早番だったので残業してきちんと終わらせたかったんですけど、上司に許可をいただけなかったので、今朝早く出社して――」
(あ……だめ、私……泣いちゃう……。昨日麻生さんと柾さんに励まして貰ったのに、また……)
説明している最中にも悲しみが込み上げてきて、声が震える。そんな歴だったが、異様な気配を感じて顔を上げると、涙が引っ込んだ。
鬼の形相をした芙蓉がドアの方向を睨んでいた。今にも部屋を飛び出しかねない気がする。まさか……まさか……。
「……ねぇ、さっきの2人、どっちに行ったのか知らない? 取っ捕まえて、穿いてる下着を脱がして、丸見えの×××に太い×××を奥まで××て……」
(こっ……怖い! 芙蓉チーフの声が低い! 後半セクハラ! っていうか犯罪!)
「お、落ち着いてください、芙蓉チーフ!」
「あいつら……私の可愛い可愛い千早を……許せない……。あぁ、可哀想な私の千早」
何を思ったか歴を抱き締めると、「この胸で、たんとお泣き」と小芝居を始める。
「それより芙蓉チーフ、さっきあの人たちが仰っていた、期日が明日までの仕事をやらなくちゃいけませんよね!?
あの人たち、結局依頼書を持って行ってしまいましたから、今から紙を取りに行きましょうか?」
歴が芙蓉の両腕を掴みながら懇願すると、芙蓉はふぅと息を吐き、片方の手で自らの髪を後ろへと凪いだ。
「彼女たちがあの紙をこちらに寄越すとは思えないわ」
「そんな……」
「大丈夫よ。ちょっと待ってて」
芙蓉は歴にウインクをしながら『よしよし』と頭を撫でる。次に机の上の電話に手を伸ばした。どこかへかけるようだ。
「もしもし? おはよう黛。私よ。内線214に繋いでちょうだい」
相手が出るまでの間、芙蓉は受話器を肩で挟み、自由に使える両手を駆使してパソコンを操作する。歴が今まで見たことのない画面だった。
「潮? 私よ。……なに笑ってるの? 失礼しちゃうわね。まだ問題なんか起こしていないってば。
それより、開始日が今日以降になってる企画データを全て送信してくれないかしら。一切迷わなくていいわよ。取捨選択はこっちでやるから。
送れるだけじゃんじゃん送ってくれて構わない。バンドルセールとミックスマッチはいらないから」
隣りで聴いていた歴は、思わず唾を飲み込んだ。
なんと頼もしいオーダーだろう。芙蓉がいた岐阜店では、いつもこんなスピードで業務が遂行されていたのだろうか。
羨ましい気持ちが渦巻いたが、よくよく考えればその芙蓉は『ここ』に来た。ということは。
(私も仕事ができる……? たくさんの依頼を、迅速にこなせるような仕事が、私にも……?)
早鐘のように打ち続ける歴の心臓。そんなことなど知るよしもない芙蓉は、受話器を戻すと歴に向かってにこりと微笑んだ。
「さっきあの子たちが持ってきた企画の紙だけど、実は同じ催しを岐阜店でもやるの。
入力した覚えがあるから、岐阜店のPOSオペレータに頼んでデータを丸ごと送って貰ったわ。これでもう大丈夫よ」
「データを丸ごと!? ということは……」
「そう。あの子たちが『入力してくれませんでした』と騒いだとしても、実際には入力されたものがある。『ちゃんとあるじゃない』って言ってやれるわけ」
試しに更新ボタンを押してみると、≪催し一覧表≫の項目数が明らかに増えていた。リアルタイムで岐阜店から送信された分に違いない。
「……凄い! こんなことが出来るんですね」
「私を誰だとお思い? 八女芙蓉サマよ」
「あぁ……本当に、なんとお礼を言っていいのか……。とっても心強いです。あの、芙蓉チーフ。岐阜店のオペレータの方にも是非お礼を……」
「分かったわ。伝えておくわね」
入力も早いし、リストの作成もお手の物。芙蓉だけで社員2人分は働いているんじゃないかと感心する従業員はたくさんいた。
彼女の持論に『流れ』というものがあるらしく、『いかに無駄を省き、効率よく作業するか』を常に念頭に置いているというのだ。
歴が称賛の眼差しで見つめるなか、芙蓉は先ほどのデータをスピーディに仕分けしていった。次第に彼女の口角が上がっていく。
「最高。ありがたいわ。日付を変更すれば、ほとんどのデータが使えるじゃない! 千早、さっき『催しデータを全て消された』って言ったわよね?」
「は、はい。ここの部屋のパスワードは大抵皆知ってますし、パソコンも操作出来るようになってると思います。だから操作されてしまったわけですけど……」
「消されてマズい箇所だけはPOSオペレータしか操作できないよう、専任者外使用禁止にしましょう」
「そんなことも出来るんですか?」
「可能よ。岐阜店でもそうしてきたわ。心配しないで。やり方を教えてあげるから大丈夫よ。そんなに難しくないわ」
「ありがとうございます……!」
優しさが嬉しくて、目尻に涙が溢れてくる。そっと拭ったつもりだったが、芙蓉にはあっさりバレてしまったようだ。
よしよしと再度頭を撫でると、メモ帳を歴の前に滑り込ませた。
芙蓉がレクチャーしてくれた内容は初めて触れるものばかりで、歴にとっては朗報以外の何物でもない。
「ありがとうございます。私、こんなにもシステムが使えていなかったんですね……」
「私が教えてから結構経ってるし、その間に既に何度もバージョンアップしてるものね。仕方ないわよ。でも、これでこれからは安心ね」
「はい。私、これからは芙蓉チーフがいなくても、バージョンアップのたびに独学で覚える努力をします」
「そうこなくっちゃ! それでこそ私の自慢の教え子だわ。さ、これでた~っぷり自由な時間が取れるわね。1週間ほどゆっくりお話してても大丈夫なぐらいよ。
じゃあ今日は、今までどうしていたか、お話を聞かせてちょうだい。それでもって、一所懸命働いた分、今日は早く切り上げて帰りましょ!」
「……はい!」
芙蓉の明るい微笑みと言葉に、歴は久し振りに心の底から笑顔で応じることが出来た。
≪03:9月7日、11時46分、ユナイソン五条川店≫
周囲から反感を買っていたのは千早歴だけではなかった。五条川店に異動した柾にも魔手は伸びていた。
『女性社員の瞳が一斉に柾へと向いたから』というのが1つ目の理由。もう1つは『有能らしい』という噂だった。
女性にモテる上、仕事も出来るとあっては堪ったものではない。柾の存在を快く思わない男性社員らは、早速柾を手荒に歓迎した。
敵意を剥き出したのは柾に年の近い者たち。
コンプレックスを刺激したかと気付きつつも、幼稚なやり方には憤りを通り越し、呆れる柾である。
柾に仕事を押し付けた男がコスメ売り場の詰め所である小さな部屋から出てくるなり、待ち構えていた他の仲間に向かってほくそ笑んだ。
「これで半日は缶詰だろうぜ」
広告が入った関係で、今日は客が多い。チーフ職に就く者が売り場に居ないとあっては、話にならないのである。そこを突いての攻撃だった。
だが柾は30分と満たない内に部屋から出てきた。けしかけてきた男の胸に書類を押し付けると、柾は軽蔑の眼差しで男を見やる。
「実に下らない仕事だ。本当に必要な書類は、あの紙の束の中のたった5枚だ。書類の選別だけで10分掛かったが、どうにかならなかったのか?
まさか本当にあの紙の束を後生大事に取っていたとは言わないだろうな? だとしたら、キミたちの無能さ加減に反吐が出てしまいそうだ」
嫌悪感を顕わにした柾の迫力たるやそれは凄まじいもので、この後、柾に盾突こうとする者は誰一人現れなかった。
2019.07.28
2023.08.22
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