25話 【十日話】


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25話 (合) 【十日話】―トオカノハナシ―


≪01:9月10日、9時40分、ユナイソン本部人事室≫


「荒利率40.39、改善度1.50、達成率137.02、前年比110.0か。……やってくれる」
出勤するなりPCを立ち上げたかと思うと、何度かクリック音をさせた千早凪は一言だけ漏らすなりソファーに深く沈んだ。
それとなく画面を覗きこんだ不破犬君も、その情報には息を呑まずにはいられなかった。
タイトルは『9月9日付ユナイソン店別商品成績』。4位に五条川店コスメ部門とある。千早凪を唸らせたのは、柾の確かな手腕に違いなかった。
「さすがです、柾さん……」
思わず口をついて出た感嘆は、凪に聞こえてしまっただろう。迂闊さを後悔しても遅い。
冷や冷やとソファーの方を見やった犬君はしかし、予想と大きくかけ離れた凪の表情に目を疑った。
(なぜあんな穏やかな顔でいられるんだ……? 柾さんが好成績を収めたと言うのに)
凪のことだ。柾の有能さについては、とっくの昔に調べ上げているのだろう。
それでも異例の異動から僅か1日で通常以上の結果を打ち出されては立つ瀬がないのではないか。単なる柾への嫌がらせにすぎない異動だったのだから。
千早歴と引き離すための左遷。『せいぜい慣れない店で同僚から冷たい視線でも浴びていろ』――そう思って異動させたのではないのか?
それがどうだ。五条川店にしてみれば「よくぞ柾を寄越してくれた! お陰で万年最下位から抜け出せた」という歓声が聞こえてきそうな朗報だ。
柾が抜けた名古屋店も、彼からノウハウを叩きこまれた三原、以下従業員が歯を食い縛っているのか、好成績をキープしているようだ。
「悔しいな。私の敗北だ」
目的達成のため、加納や都築と同じように『傀儡』に成り下がった凪は、昨日から何かを諦め、手放そうとしている。
尋常ではない意気消沈っぷりに、犬君は何か声を掛けなければと思った。
(千早さんも敵……なんだけど、どうも調子が狂うんだよなぁ、この人)
「千早さん、あの……」
犬君の声掛けは、人事部の扉をノックする音によって遮られてしまう。
「どうやら私もここまでのようだ」
相手が誰かも分からない内から両手を小さく挙げて降参のポーズを取る凪。犬君は寂しげに笑う凪を見て、『彼の負け』を確信した。
「不破君。開けてやってくれないか」
犬君に頼む凪の声はとても優しいもので。犬君としては、ただ従うしかない。
一体この扉の向こうに誰が立っているのか。昨日最終通告をした因香だろうか。犬君はドアを開ける。
因香ではなく、COO秘書の鬼無里火香が綺麗な姿勢で直立していた。だが凪を見据える顔は、どう見積もっても強張っているようにしかみえない。
「おはようございます、不破さん」
「……お、はようございます」
ただごとではない気配に犬君は面食らった。火香は有無を言わせず1歩、また1歩と歩み寄り、凪との距離を縮めていく。
「話があります」
火香のそれは、凪に向けられたものだった。
「俺にはないと言ったら?」
「ナギくん!」
まるで子供を叱りつけるような火香の言葉。凪は首をすくめておどける。
どうやら鬼無里火香と千早凪は親密な関係らしい。犬君はいつもの冷静さを取り戻すと視界に入らない位置まで移動し、ことの進展を見守った。
1つでも多くの情報が欲しい。自ら凪に問うつもりだったが、火香が真実に近い位置にいるのは確かで、ならば会話から拾わせて貰おうではないか。
「ナギくん、私の目を見て答えて。加納倭や都築基を使って接待をしていたのは本当なの?」
「嘘だと言ったら信じてくれるのか?」
「勿論信じるわ」
その言葉に、凪は微笑んだ。物凄く――満足気に。まるで『それが聞けただけで十分』とでも言うように。
だから次の瞬間、凪は泣きそうな顔へと変わった。
信じてくれる相手に嘘をつくのはフェアじゃない。けれど真実を語れば火香は打ちのめされるだろう。それが分かったから、凪は困った。
「ごめん。……本当なんだ」
火香の顔が歪む。とても辛いものを聞いたかのように。凪の頬を打つために挙げた掌が宙で止まった。
彼女が唇を噛み締めているのは、凪を責めたくても責められない、彼女の心境そのものを表しているのだろう。
「COOがお呼びです。お2人とも、すぐにいらして下さい」
「分かった」
完全に薄れてしまった凪の覇気。敗北の二文字は、確かに凪の自尊心を粉砕してしまったようだった。


≪02:9月10日、09時43分、ユナイソン本社1階ロビー≫

本社1階フロアには社内メールで呼び出された私服姿の歴が手持無沙汰で来客用ソファーに腰掛けていた。
呼び出した人物、COOに心当たりはあっても、呼び出された理由までは計りかね、一体何事だろうと考えては打ち消し、溜息をついた。
それに、本部の『どこへ』行けとも記載されておらず、歴はこのままここに居てもよいのだろうかと二重に戸惑ってしまう。
ただでさえ10時前という時間帯は人が多い。それはここ、本部が10時始業だからだ。
忙しなく行き来する者たちを見やり、知った人物がいないかきょろきょろしていると、「千早!」と背中から声を掛けられ、歴は咄嗟に振り向いた。
なぜ本部に呼ばれたのか分からず、困惑顔の芙蓉が入り口にいた。見慣れた歴の姿に安堵したのだろう、明らかにホッとした表情を浮かべていた。
「芙蓉先輩にもメールが……?」
「えぇ、COO名義でね。千早も?」
「そうなんです。どうして呼ばれたのか分からなくて心細かったので、芙蓉先輩がいらっしゃって、とても安心しました」
初めて訪れる母体組織に恐れをなした歴の素直な反応に元気を貰ったような気がして、芙蓉も微笑む。
奇しくも芙蓉は早朝から杣庄の電話によって、昨夜起きた都築の事件を聞いたばかりだった。
襲われた透子と負傷した伊神の様子が気になって仕方なかったため、透子に電話をしたものの、結局繋がらず今に至る。
気が滅入っていた芙蓉にとって、歴の優しさは身に沁みる栄養剤の役割も果たしているようにも思えた。
「メールでは本部のどことは書かれていなかったのよね。他には誰もいないのかしら」
「そもそも誰が呼ばれたかすら分かりませんものね」
受付で尋ねるのが手っ取り早いと結論づけた2人は奥まで進むと淡いピンクのブラウスを身につけた受付担当に声を掛けた。
「あの、おはようございます。COOからメールを受け取って参りました。千早歴と申します。どちらへ行けばよろしいでしょうか……?」
「おはようございます、千早様。そちらの件に関しましては担当の者がご案内させていただきます。
ですが生憎、5分ほど前に別の方々をご案内するためエレベータで上がってしまったため、戻るまで少々お待ち下さいませ」
「では、あちらのソファーで待たせていただきます」
後ろがつかえてしまうため、歴たちは受付から離れて目と鼻の先にあるソファーで待つことにした。
すぐに3基あるエレベータの一番左――Aと書かれた箱が下りて来たものの、それらしい人物は乗っていなかったようだ。大人しく次を待つ。
さらにC基が1階に到着するも、こちらも空振り。やがて真ん中のB基が下りて来た。
「……凄い人がいる」
芙蓉が呟いた言葉に反応して顔をあげると、我が物顔で堂々とロビーを突っ切ろうとしていた女性が歴たちに近付いてくるところだった。
『凄い人』は『服装が凄い人』だった。
ルブタンを履きこなし、黒のセットアップを着たその女性は、健常者だとしたら許されないであろう室内でのサングラスを堂々と着用していた。
女は途中で若い男性に声を掛けられ、足を止めた。道案内か、はたまた打ち合わせか。指を外に向けたところを考るに、どうやら前者のようだ。
方向を教えるタイミングで体勢を変えた時、彼女の背面に大きな楕円形が空いて肌が露わになっているのがポニーテール越しに見えた。
セクシーの権化のような女性に声を掛けるとは、実に勇気ある青年がいたものだ。
道案内を終えた女性は再び迷うことなく歴たちの元へやって来た。眼前で立ち止まる。身長はさほど変わらないのだろうが、ヒールの分だけ高い。
「……」
(一体会社で何をしているんだろう、この従姉妹は)
唖然として声のひとつも出てこない歴に対し、本部だというのに場違いな装いに身を包んだ女性を胡散臭そうに見ているのは芙蓉だった。
「はじめまして。ユナイソン専属経営コンサルタントの鬼無里因香です」
「鬼無里さん? ……鬼無里三姉妹?」
探るような芙蓉の目つきは、相手を警戒しているようだった。値踏みされていることに気付いた因香は楽しそうに反応する。
「おや、私を御存知なんですね」
「……噂で存知あげている程度です」
「どんな噂か興味あるわ」
因香が差し出した手を握り返しながら、芙蓉はちらりと歴を見る。
三原は確かに因香が歴に似ていると言っていた。だがとてもそうとは思えない。夜の蝶のような女王と歴とでは、どう見たって重ならない。
(噂はガセだったということなのかしら)
ただ、黒いサングラスが気に掛かる。その目は歴に似ているのだろうか? 肝心の歴が何も言わないところを見ると、2人に共通点はないのかもしれない。
「噂の内容ですか? 『本部に鬼無里三姉妹というやり手の女性がいる。彼女たちが通った後にはペンペン草も生えない』、と」
大胆に告げる芙蓉にケラケラ笑った因香は、「はー、久々に本気で笑ったわ」とサングラスの端から目尻を拭う仕草をして『噂』を面白がった。
「大丈夫よ。花は駄目かもだけど、雑草程度なら、しぶといから生えて来るって!」
そういう問題だろうか。芙蓉が首を傾げていると、因香は笑いを引っ込め、静かに言った。まるでさっきとは別人のようだ。
「ごめんなさいね、八女さん。あなたを救うのが、こんなにも遅くなってしまって」
パチパチと目を瞬かせた。その言葉の意味を咀嚼して理解した芙蓉は、ぎこちない笑みを口元に浮かべた。
「救う? 救うですって?」
自嘲じみた気配に気付いた歴は、ハラハラと成り行きを見守るしかない。
「まるで何があったか知ってるような口振りですね? 一体『何』から、どうやって私を救うと言うんです? こんな……いまさら……」
「私は、八女さんの身に何が起こったのかを知ってます。加納本人から話を伺いましたから」
芙蓉は用心に用心を重ね、尋ね返す。
「加納の言い分を信じるんですか。加害者の弁なんて、いい加減なものじゃないかしら」
「私もそう思うわ。だから今度は八女さんから話を聞きたいと思ったの」
「どうしていまさら」
「……ついて来てくださる? 今から説明するわ」
主導権を掌握されるのは当然のことだろう。彼女の言葉を欲した歴と芙蓉は後を追ってエレベータに乗り込む。ネイルに縁取られた細い指で因香は35階を押した。
長い沈黙が続き、やっと目的の部屋のドアノブに手を掛けた因香は、歴と芙蓉に告げた。
「皆にはツラくて醜い真実を知って貰います。それでも平気?」
「その為にここまで来たの。傷付くためじゃない、前に進むためよ。正しい運営を、ユナイソンにはして貰わなきゃ」
緊張した面持ちで芙蓉はきっぱり言い切る。心意気豊かな発言に触発された歴も、こくりと頷いた。
「因香さんは私のために『優しい嘘』をついて下さるのではなかったんですか? でもやっぱり……『綺麗な嘘』なんて真っ平ごめんです」
凡そ接点などないように思ったが、意外なことに歴は相手を下の名前で呼んだ。その事実に芙蓉は目を瞠る。
(2人は知り合いだったのね……)
覚悟を聞き届けた因香はニヤリと笑った。
「その心意気、上等よ」
因香はドアにドンと一発、拳を打ちたてた。ノックのつもりだろうが、どうにも喧嘩を売っているようにしか見えない。
「頼もーぅ!」
空気を読まない因香は相手の返事も待つことなく部屋に押し入った。当然室内にいた全員から視線が注がれる。その中に、歴がよく知る男性がいた気がした。
見間違いだろうか。確かに柾と麻生だったと思ったのだが――。もう一度確認しようとした歴に突然ハグをする者がいて、視界を塞がれてしまう。
戸惑いつつ誰だろうと顔を覗き込んだ歴は、予想外の人物に驚きを隠せない。
(火香姉さん……?)
「レキちゃん、あなたまで来てしまったのね……」
寂しげに呟いた火香が歴から離れると、室内の様子が目に飛び込んできた。
その円卓会議室はコンビニエンスストア店内を2分の1ほどにした広さで、モノトーンを基調とした、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
疎らに座っている合計5名の内、歴が知っている人物は柾、麻生、凪。芙蓉が知る人物は杣庄と犬君だった。
歴は一番近い位置にいた兄を見た。凪はその視線から逃れるように目を閉じる。
「兄さん」
きゅ、と拳を強く握る。どんな言葉を掛けるべきなのか、歴には分からなかった。
恐らく今から始まるのは千早凪への尋問だろう。ならば今はどんな慰めも責苦も不要に違いない。
「集まったようだね。では始めようか」
最後に入室してきた老体の存在に気付いた火香と因香は、すっと頭を下げた。 
風格の良さは権威の証。年老いても筋肉質なその男性は、胸に銀の紋章を付けていた。誰しもが、ついに来るべき時が来てしまったのだと悟る。
「……お爺様……」
老体の正体が歴の祖父だと言う。柾は「ようやく合点がいった」と溜息を漏らし、犬君も「……あ、かなり繋がった」と呟く。
「歴、八女さん。空いている席に座ってくださいな」
因香に促され、歴と芙蓉は隣り合うように着席する。20名ほどが座れるようになっているため、空席が目立つ卓ではある。
一番奥、上座の席についた老人は、柔らかい口調で話を進めていった。幸いにも、とても聞き取りやすい声だ。
「ユナイソンCOOの千早為葉です。皆さん、遠路遥々本部までお越しくださりありがとう。急なメールで呼び出してしまい、大変申し訳なく思ってます」
小売業界第2位である『(株)ユナイソン』の経営陣に君臨する社長兼COOを失礼にならない程度に見つめながら、柾は肩を竦ませる。
「千早という苗字で気付くべきでした。テレビ番組の『日本社長討論会』準レギュラーとしてメディアにも露出されていたのに、全く気付かなかった……」
「おや、あの番組を観てくれているのかい? それは嬉しいね」
心の底から嬉しそうに為葉は笑う。
「話を始める前に、紹介をさせていただこう。薄々気付いている方もいると思うが、きちんと挨拶させて欲しい。
そちらに控えているのが私の秘書、鬼無里火香だ。その隣りにいるのは当会社の専属コンサルタントを担う鬼無里因香。2人は姉妹だ」
「鬼無里さんは三姉妹だという話ですが……」
芙蓉の問い掛けに、為葉が頷く。
「長女、そよ香のことだね。彼女も本部に属す身だが、全く違う部署にいるんだ」
COO付きの秘書、経営コンサルタント、そしてどこかは分からないが本部に在籍している三姉妹。なるほど、道理で『噂』レベルに落ち着いているわけだ。
普通に業務をこなしていたら、そもそも三姉妹と知りあう機会などあるはずがないのだから、寧ろその存在を知らなくて当然なのだ。
「鬼無里三姉妹は、私の娘の子――つまり孫でもある。そしてそこの千早凪、歴も私の孫だ。こちらは私の息子の子なんだ」
「鬼無里三姉妹と千早兄妹は、いとこ……というわけですね」
「そうです」
(千早が因香さんに似ているという話は、そもそも血の繋がりがあったから本当のことなのね)
やっと腑に落ちた芙蓉は、やれやれと嘆息する。
「これだけ身内で固めてしまっているのだから、贔屓に思われるのも仕方がないと思っている。
とは言え、それぞれ資格も持っているし、面接は私とはノータッチで、純粋に行われたことだけは伝えておきたい。……凪を除いてね」
唐突に議題を持ち出され、全員が呆気に取られる。もう少しオブラートに包んでも良いのではと、逆に心配になるほどの性急さではないだろうか。
意外にも豪胆な球を打つ為葉は、無情にもノックをやめようとしない。
「凪のことは私も最近知ったばかりでね……。というのも、凪は引き抜きという形でこの会社に入ったんだ」
「引き抜き?」
「……私が説明する」
凪はソファーに座り直すと、誰とも視線を合わすことなく淡々と説明し始めた。
「大学卒業後の私の進路は、小売業界第1位の企業……ユナイソンの宿敵である『horizon(ホライズン)グループ』だった。
入社1年目からバイヤーになれたのは、ひとえに祖父の存在ゆえだった。私がユナイソンCOOの孫であることを、ホライズンの上層部は知っていたんだ。
彼らは明らかにユナイソンのノウハウ吸収とスパイ目的で、私を出世街道に組み込んだ。
所がだ、いくら経ってもユナイソンCOOの孫息子はユナイソンの実態について一切語ろうとしない。業を煮やしたホライズンは、ついに能無しを放逐した」
「つまり、おぼっちゃまは首を切られたってワケか」
柾はコメントを差し込んだ。凪は「そうじゃない」と首を振る。
「放逐とは言え、単に出世街道から外れただけであって、ホライズンには在籍していた。だがこんな会社にはもういられない――そう思った」
「なんでだ?」
尋ねたのは麻生である。純粋に不思議だった。
「ユナイソンを恐れる不安な気持ちは分からないでもないが、そこまでしなくても、と言いたくなるほど恐れ過ぎていた。
降格して平社員待遇になった私の耳に飛び込んできたのは、業界第4位『紅鴉(べにがらす)』の社長令嬢を迎え、私の後釜に据えたという話だ。
懲りない連中だと思った。ホライズンに嫌気が差していた私は、今度こそ見切りをつけて辞表を提出した。
弱気なホライズンの上層陣に、未来を託す気になれなかったのさ。ユナイソンから声が掛かったのはその頃だ。『打倒COO』を掲げるCEOからね」
凪の告白に、COOだけが面白そうに口元を緩める。
どのような裏切り行為や喧嘩も受けて立つよ、という自信に満ちた笑みは、たとえ反旗を翻されても、孫ならば受け入れるし、それでも愛している。
そんな慈愛も兼ねた表情だった。
「CEOって……おいおい、会長じゃないか。ユナイソンの会長と社長が、敵対し合っているって言うのか?」
「天敵です」
呆れる麻生たちに、火香が補足した。
「我がユナイソンは世襲制ではありません。ですので実際には、経営陣で派閥争いが激化しております」
「……やっぱりあったんだな、派閥争い」
説明を聞いて素直に納得したのは杣庄だった。あくまで噂のひとつとして耳にしていたのだろう。
「私はCEOのコネで入った。祖父側の勢力を潰す人材としてね。同じ『利用』でも、ホライズンとユナイソンでは大きく違う。
前者は恐れから来たもので、後者は先手必勝を狙ったもの。どちらが俺の性格に合っているか……歴なら分かるだろう?
CEOは『やれるだけやってみろ』と仰った。どうすれば祖父を出し抜けるか考え、1人でも多くの味方を作ろうとした」
「どうして? なぜお爺様と敵対しなくちゃいけいけなかったの?」
「どこへ行っても祖父の名がついてくる。それが役に立つ事は、確かに多かったさ。望めば意外にすんなり手に入る、恵まれた生活だったし。
だからかな? 俺は祖父を越えたかった。
たとえ祖父が敗れたとしても、ゆくゆくは私が面倒を見るという手もあったし、心のどこかでこの人には敵わないだろうという思いもあった」
「偉大な祖父をもつことのプレッシャーが、悪の道に駆り立てたのか……」
「重圧か、そうだね。柾の言う通りかも。余りにも壁が高すぎた」
「さっき、千早さんは『ここまでだったか』って仰いましたよね。何をしでかしたんです?」
淡々と話してきた凪が唯一言葉を詰まらせたのは、犬君の問いだった。ただ視線だけを歴に向ける。
因香や火香、芙蓉たち女性陣は、凪がしてきたことを歴が知るのは酷かもしれないと心中穏やかではない。
それでも歴は真実を望んだ。望んだからには、傷付いて貰うしかない。
「……接待の幹事役さ。乱痴気騒ぎのね」
歴は青ざめた。因香は歴守りたさのあまり、すかさず言い添えた。
「凪は最後まで男女間の接待には否定的だったの。味方に加納倭がいたのがマズかった。
始めの内は、お酒や談合でおさまっていたものの、結局は……性の取り引きが横行し始めてしまった……」
その答えでは満足できない人物がこの中にいた。芙蓉である。歴を守りたい気持ちは同じでも、それでは自分が浮かばれなさすぎた。
「あなたが加納を味方につけたのね!? だから私が枕営業させられる羽目に……!」
「えっ……!?」
本人から直接知らされていた犬君は驚かなかったが、歴は違う。初めて知る事実に愕然とする。
「そんな……芙蓉先輩が……」
「加納をかばって、本部のバイヤーとして引き入れたわよね!? 私は受付からPOSオペレータへ異動させられたっていうのに……!」
憎々しげに凪を見る芙蓉の目は、湛えていた涙によって真っ赤になっていた。すまない、本当にすまなかったと凪は頭を下げる。
「私は良いわよ。未遂に終わったし、POSに入ったことで沢山の後輩も出来た。何より、意外に楽しい仕事だって分かったから。
でも潮はどうなるの!? あなたの部下である都築が伊神を取り上げて、今度はわんちゃんまで取り上げた! 運命に翻弄されたあの子が可哀想だわ!」
「八女先輩。千早さんの肩を持つわけではないけど、僕を引き離したところで、透子さんは何とも思っていませんよ」
「どういう意味……?」
「昨日透子さんにお逢いしました。伊神さんにも。確かに逢えない3年間は不遇だったとしか言えませんけど……。雨降って地固まる、そんな雰囲気でした」
お似合いのお2人でしたよ、と笑う。
「……なに言ってるの? それじゃあわんちゃんが浮かばれないじゃない」
「まぁそうですけど。でもなぁ、こればかりは……。えぇと、続けましょうか」
「では僭越ながら、私から質問させて下さい。火香姉さんたちは、どうやって兄さんの不祥事を知ったの?」
まずは歴である。
「8月下旬だったかしら……、因香姉さんの個人用社内メールに1通のメールが送られてきた。
そこには加納倭が枕営業を斡旋している事や、都築基が職権を乱用している事が書いてあった……」
その話に心当たりがあった芙蓉は「あ」と呟く。
「その差出人って……」
「八女さんのお察しの通り、杣庄クンよ」
思えばワインフェアの頃だ――、杣庄は、やたら岐阜店に本部の人間が出入りしている事態を気に掛けていた。
『本部がきな臭くなってきたから自分が動く事にした』とは聞いていたが、実際どのように動いていたかまでは知らされていない。
経営コンサルタントである因香に相談・苦情・告発という形でメールを送っていたとは夢にも思わなかった。
杣庄は顔が広く、ネットワークは半端ない。加納と都築の両事件に関して熟知している彼ならば、メールを送ることなど造作もなかったに違いない。
「杣庄くんは、やたら支店に出入りする本部の人間が、新たに問題を起こすのではないかと恐れた」
そこで麻生は小さく手を挙げた。疑問は早い内に摘み取るに限る。
「ソマショウ? って……?」
「そこの彼よ。岐阜店の鮮魚担当」
名前を呼ばれ、杣庄は軽くどうもと頭を下げる。
「なるほど。続けてくれ」
「私たちは人事部の監視を始めた。すると幾つかの噂話を聞くことが出来た。同時に、水面下でおかしな異動話が進行していることも掴んだ」
凪は髪をくしゃくしゃと掻き回し、これ以上は何も言うことがないとばかりに再びソファーに沈んだ。為葉が言葉を引き継ぐ。
「八女さん。あなたと2人で話がしたい」
「何でもお聞き下さい。全てお答えます」
為葉が頷く。その話し合いの席には、COO自ら立ち合うつもりらしい。


≪03:9月10日、10時43分、ユナイソン本部円卓会議室≫

凪は何も言わず、ただソファーに深く腰掛け、目を閉じ、大人しくしている。歴は凪の背後へ近付いた。
「……兄さん。この前のこと……柾さんに謝って」
告げる声は震えていた。それでも、凪の目を開かせることには成功した。
「謝る? なぜ?」
「兄さん!」
「……歴。一連の事件についての責任を負う覚悟が、ようやくできたんだ。それについては、どれだけでも頭を下げたいと思っている。
だが、お前を取り巻く環境そのものに関しては話が別だ。お前の相手に柾は相応しくない。その思いは変わらないな」
聞きたくなくても耳に入ってしまう。柾は憮然としながら言った。
「おい、麻生」
「ん?」
「お前にも妹がいたな。このシスコンっぷりはどうなんだ? 許容範囲内か?」
「ちぃもいい歳だ、そろそろ妹離れしても良いんじゃないかね」
「麻生さんの言う通りよ。自分のことは自分で決めるわ」
「逆に訊くが、どうして柾は駄目なんだ?」
麻生が尋ねる。
「……加納は枕営業する仲間を探していた。真っ先に挙がったのが柾の名前だった」
凪の暴露に麻生はあちゃーと苦笑いを浮かべる。お世辞にもそこをフォロー出来ないのがつらいところだ。
枕営業に敵した性格かどうかはともかく、女性遍歴の多さは否定できない。
「柾さんの過去に関しては既に把握済みだと言ったじゃない」
「ちょっ……、ちぃ、待ってくれ。柾のドス黒い過去を知ってるのか? どうして……」
「女子更衣室を舐めないで下さい。あそこは情報のるつぼ、噂話の宝庫、嫉妬と憎悪の吹きだまり、事件の温床です」
「恐るべし、女子更衣室……」
「歴、お前は柾が好きなのか?」
似た者兄妹はお互いに手の内を晒すことも厭わず本音を飛び交わしていたが、この問いに関しては勢いを失った。
「……兄さんには……関係ないでしょう」
「何回言わせる気だ? 俺は柾を認めないと言っているだろう。どうせお前も捨てられる!」
一人称が変わったことなど気付きもせず、凪は必死に説得を試みる。
「人が大人しく聞いていれば、よくもまぁそこまで気持ち良く罵ってくれるもんだ。だったら麻生はどうだ?」
「何?」
「他の男だったらどうなんだと聞いてる。麻生環、つまりコイツだ。こいつはアリなのか、ナシなのか」
思い掛けない言葉に、凪は思案した。異動の際に身辺調査をしているので麻生についての知識は多少ある。
女性からストーカー行為を受け、彼女から逃れるために異動を重ねてきた。優秀だからこそ埋もれさせておくには勿体なく、本部へ連れてきたのだ。
「柾よりはよほどマシだ。麻生環になら歴を任せても構わない」
「へぇ。あながちただのシスコンってワケでもないようだ。確かに僕は許されないことをしてきたからな。麻生がOKだと聞いて安心したよ」
「そんな測り方があるか、ド阿呆」
「いや、麻生。これは結構重要だぞ。彼の言い分は間違っていない。
お前だってそうだろう? 大切な妹が同じ立場だったら、やっぱりお前だって良い顔はしないはずだ。違うか?」
麻生は自分の立場に置き換えてみる。なるほど、きっぱり「違う」と言い切れないことに、麻生は気付いてしまった。
「お前なぁ……だとしても冷静すぎるだろう……」
「僕は正式に離婚をしたし、親権問題も今週中には片がつくだろう。子供は元妻の連れ子で、僕に親権はない。僕は一人身だ」
「なるがいいさ、勝手にな。歴は渡さない」
「いや、彼女は僕が貰う」
柾は凪に向かって断言したハズだった。しかし次の瞬間、その目は麻生へと注がれていた。歴がその意味に気付くのは、もっと先の話である。


≪04:9月10日、10時50分、ユナイソン本部COOルーム≫

都築と加納の件について、芙蓉への質疑応答が終わろうとしていた。
主導権を握っていたのはこの部屋の主である為葉だ。火香は芙蓉の横に座り、ボイスレコーダーを扱う役割を担っていた。
話題が事件から仕事の内容へと移行し、場の空気が若干なごみ始めた頃、火香のスマホが着信メロディーを奏でた。
「谷城さんからです」
「構わないよ、出なさい。進展が知りたい」
為葉の返答いかんによっては席を外す気でいた火香は、許可を受けてその場で通話ボタンを押した。
「もしもし、鬼無里火香です。……そうですか、分かりました」
10秒にも満たないやり取りだった。火香はスマホをスカートに収めながら告げる。
「都築が警察署から戻って来たようです。駐車場に到着したと」
「そうか。では都築をここへ連れて来なさい」
「畏まりました」
火香の行動は早かった。いつもののろさが嘘のように、颯爽と部屋を出て行く。
為葉は芙蓉を正面から見据えると、優しい瞳で一語一句を丁寧に言い添えた。自分の孫に言い聞かせるときと同じ表情で。
「きみを始め、多くの社員を苦しませてしまった。今になって救済なんて、遅いにもほどがあるな……。
知らなかったとは言え……いや、知らなかったこと自体が既に罪だろう。本当に、申し訳なかった」
おもむろに、為葉は靴を脱ぐ。綺麗に揃えられた靴を見て、なぜこの人は靴など脱ぐのだろうと思った矢先、彼は芙蓉の前で土下座した。
「八女芙蓉さん。本当に、申し訳ありませんでした」
誠心誠意の謝罪だった。まるで自分が顧客になったような錯覚を覚え、芙蓉は目眩を起こしそうになる。
一体自分は何を目撃しているのだ?
己の目が確かならば、最高執行責任者兼社長がただの一社員に対し、膝をついている――。在り得ない光景だ。
「COO、分かりました! どうかお顔をあげて下さい!」
「いや、分かっていない。土下座ではまだ謝り足りないぐらいだ。私たち上層部の罪も重い」
これが責任を果たすということなのだろうか? 謝罪とはこういうことなのか。お詫びとはこういうものなのか。
芙蓉がいま目にしているものがそうだとしたら、責任者という肩書きが、単に名前だけにとどまらないことを少しだけ理解できた気がした。
(これは私たち『羊』に対する謝罪だ)
そう感じる一方で、一社員として、『責任の在り処』という尊い作法を教えられているのもまた、事実だった。
この会社に入って良かった。芙蓉は初めて心の底からそう思った。


≪05:9月10日、11時13分、ユナイソン本部≫

COOルームを出てすぐ、芙蓉は歴にコールする。これからの予定は決まっていないが、歴と合流しておくべきだと思ったからだ。
「1階のロビーにいます」という返事だったため、エレベータを使い1階まで降下する。ソファーには歴、柾、麻生、犬君、杣庄、因香の姿があった。
「芙蓉先輩、お話は終わりましたか?」
「えぇ、今日はもう帰っても良いみたい。また何かあったら、そのとき聞くからって」
「良かった」
「千早は大丈夫? 私で良ければ相談に乗るからね」
頼もしい上司の言葉に胸を打たれた歴は、はにかみながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
「さて、これからどうする? 無事用事も済んだことだし」
麻生が読みかけの経済新聞をラックに戻しながら、誰にともなく尋ねる。
「じゃあこれから食事でもいかが? COOからささやかな御礼よ。是非これを使って」
因香が差し出したのは飲食店で使える1万円分のカードだった。使える場所はカード加盟店に限られてしまうが、有り難い申し出であることは確かだ。
「ありがとうございます。海鮮丼とかどうスか? 俺、いい店知ってるんスよ。このカードも使えるはずなんで」
「賛成に一票! ソマ推薦ってことは、卸市場関係のお店よね?」
「新鮮さが売りで、しかも二つ星スよ」
「乗った」
賛成票が出揃い、満場一致で場所が決まる。やっと一息つける、各々がそう肩の力を抜いたその時だった。因香が息を飲み、小さく叫ぶ。
「……加納だわ! あいつ……さては逃げる気ね!?」
因香の視線を辿ってターゲットの位置を確認すると、杣庄は駆け出した。今にも入口の扉を潜らんとする、背の高い背広男めがけて。
「加納! 待ちやがれ、この野郎!」
追い付いた杣庄が背後から羽交い絞めにし、もつれた拍子に2人は床に倒れ込んだ。駆け付けた因香が、加納の手首を捻った。
苦痛の声ひとつ漏らさず、顔だけを歪めた加納の姿に、芙蓉は絶句したまま立ち竦む。
柾がネクタイを外し、杣庄へと放り投げた。そのネクタイを使って加納の両手を雁字搦めにした上で、今度は犬君から借りたネクタイで補強する。
「加納! COOが呼んでるって伝えたはずよね!? この後に及んで逃亡なんて、そうは問屋が卸さないよ!」
啖呵を切る因香に、加納はふっと笑う。
「とんだ誤解だ。逃げる気なんてさらさら無いさ」
言いつつ、加納は芙蓉の全身に視線を這わせる。まるで女性の身体を撫で回すような目で。
「まさかこんなところで会うとは……芙蓉」
声そのものがメデューサの呪いだった。額に汗の玉を浮かび上がらせた芙蓉は、対応する気力すら失っていた。
その反応に満足気な加納は余裕に微笑んでいる。彼が裏で仕組んでいた、えげつない工作を知らない者には効果があるだろう、色気が漂う笑みを。
すかさず、歴がかばうように芙蓉の前に立ちはだかった。加納は面白そうに目を細める。
「ほぅ! きみが凪の妹君か。なるほど、凪が可愛がりたくなるのも分かるね。――美しい」
高飛車な言い方にカチンときた柾と麻生が歴の前に進み出る。それでもまだ加納は余裕綽々だった。
「面白い。1人のお姫様にジェントルマンが2人……か。凪も気苦労が絶えないな。そこの紳士はどういう態度を見せてくれるのかな?」
全員と対峙する気でいるのだろうか。ふてぶてしい態度に呆れた犬君は、露骨に溜息をついた。
「わざわざ指名して下さったからには、期待に沿う努力をすべきなんでしょうね。
あなたがクビになった暁には、そのバイヤーの座を頂こうかな。だからとっとと裁かれて下さい。それから、牢にブチ込まれろ、女の敵!」
首の前で親指をスッと引く仕草をしてみせた犬君に、加納はフンと鼻で嗤う。
「せいぜい、なってみるが良い。少しは私の気持ちも分かるだろうさ」
因香が加納の手首を掴み、引っ立てる。――が、
「待てよ。まだ話は終わってねぇぞ、こら……!」
呼び止める声は低く、杣庄は呻くように荒々しく叫んだ。
「今すぐ八女芙蓉に謝罪しろ! 土下座して、『すみませんでした』って謝れ、加納!」
振り返った加納は、冷徹な目をしていた。その態度に杣庄は激昂する。加納の胸倉を掴み、離しやしないとばかりに杣庄は噛みついた。
「どうせ一度も謝ってねぇんだろうが? てめぇの所為で、彼女がどれだけ深い傷を負ってっか知らねぇだろ、あァ?
なぁ、八女芙蓉がいい女だってことは素直に認めてんだろ? そんな素晴らしい女性が次の恋に進めないのを、色男のあんたはどう思う?」
「そりゃあ……勿体ない話だな」
抜け抜けと言い放つ加納だが、そういう返事がかえってくるだろうと、ある程度の予想はついていた。「あぁ」と杣庄は頷く。
「勿体ない。マジで勿体ない。こんな美人で気風のいい女に恋人がいないなんてな。それもこれも誰の所為だ? てめぇの所為だろ!?」
「そうかな? 私はそうは思わないが。彼女自身の問題じゃないか?」
「じゃあ切り込む角度を変えてやるよ。てめぇが彼女にした行為について謝れ!」
「『接待』に関しては、私が彼女に強制したわけじゃないんだが。芙蓉が自ら志願してくれた。ただそれだけの話だ」
「謝る気はないのか?」
「謝る理由がないからね」
「そうか。じゃあ、いい」
掴んでいた胸倉をパッと離すと、杣庄は三歩ほど下がり――、あらん限りの拳を加納の腹に叩き込んだ。
「グ……ホッ……」
加納の口から出た血と吐瀉物が混じった液体が、床を汚した。
「顔は勘弁してやるよ、色男」
「ぎ……ざま……ァ!」
怒りと苦痛に満ちた加納が杣庄を捕らえる。
「で……出るところに……出るところに出てもいいんだぞ!? これは暴力だ! ここにいる全員が私への暴行を証言してくれる!」
「出るところに出る……? それはこっちの台詞だぜ。上等じゃねぇか、相手してやる。
俺は惚れた女を守る為なら、何度でも立ち向かってやるからな! 覚悟しておけよ!」
杣庄の激昂の理由が分かった加納は目を見開いた。芙蓉は芙蓉で頭がパニックになり、よろめいたところを柾が受け止める。
突然の告白に犬君は呆け、歴は目をぱちくりとさせた。
≪愛は何物にも勝る≫。
愛に背く行為を続けてきた加納だからこそ、その想いの強さと眩しさは身に沁みている。
愛などという言葉を振りかざす相手とやり合うなど御免だ。その言葉はもう懲り懲りだ。
関わりたくない。そう思った。そう願った。だからこそ、加納は吐瀉物の池に膝をついた。雁字搦めの両手首のまま床に手をつけた。
加納は八女芙蓉に対し、謝罪の言葉を述べた。
「芙蓉、今まで申し訳なかった」
短いけれど、それでも謝罪は謝罪。心が籠っているかまでは分からない。いやいや言っているのかも知れない。
へなへなとへたり込んでしまった芙蓉の前に腰を落とした歴は、芙蓉の顔を覗き込み、優しく告げる。
「芙蓉先輩、大丈夫ですか?」
「千早ぁ……」
犬君も歴の隣りにしゃがみ込むと右手を差し伸べる。その優しさに誰よりも驚いたのは芙蓉だった。
片想いの相手にだって毒舌で、気遣いに欠けた後輩だったはずなのに。どういう風の吹きまわしだろうか。
事情が事情だけに、今日の芙蓉に対しては優しく接しようという彼なりの気遣いだろうか。
「……わんちゃ~ん!」
芙蓉は犬君の手を握ると、そのままグイッと自分の方に引き寄せ、首根っこにしがみ付く。
「やれやれ……」
(本来こういう役目は『惚れている』なんて抜かしたソマ先輩が担うべきなんだけど……今日のところは仕方ない)
その当人は、上の階にいた谷城を呼んで加納を引き渡しているところだった。
「これにて一件落着か。良かったですね、八女先輩」
ハグに応える犬君の背を、ちょんちょんと人差し指で小突く人物がいた。
(やっと戻って来た)
最後に強く抱き締めると、犬君は芙蓉から離れた。入れ替わるように別の男が芙蓉を自らの胸に引き寄せ、背中に手を回す。
「……よく頑張ったな、八女サン」
杣庄の優しい声音を耳朶に受け、芙蓉は声をあげて泣いた。


≪06:9月10日、20時24分、ユナイソン本部屋上≫

夕立を経て夜を迎え、空には無数の星が瞬いていた。凪は服が汚れることも厭わず、無機質なコンクリートの上に白いカッターシャツのまま寝そべっていた。
どれぐらいそこに居ただろう? 数十分かもしれないし、数時間かもしれない。ただ無心でいたくて、気付いたらユナイソンの屋上に足が向かっていた。
「キーラーキーラーひーかーるー、おーそーらーのーほーしーよー」
思わず口ずさむ。手を頭上で広げ、空に向かって伸ばした。
「はは……届かないな……」
まるで祖父の背中を追いかけ続けている自分だ。
差は縮まるどころか広がるばかりで、悔しくて、悲しくて仕方ない。
手を下ろす。届かない星を求めるのに疲れたから。
誰かがここへ来たようだ。ドアが軋みながら開いた。ヒールの音が近付いてくる。
「やっぱりここにいたのね。ナギくん」
「……火香ちゃんは、いつも俺が落ち込んでる時に、こうして探してくれたよね」
「そう……だったかな?」
「歴の10歳の誕生日のときもそうだった。俺があいつのケーキをめちゃくちゃにして家を飛び出した時も、火香ちゃんが一緒に居てくれた」
「レキちゃんは私にとっては大事ないとこ。ナギくんも私にとって、大事ないとこです」
「……そうだね。俺も、何だかんだ言って君たち三姉妹が好きだし、歴が大事だ……」
「うん……知ってる」
見上げた空は、近いようで遠かった。それでも、包まれているように感じるのは何故だろう?
それは祖父そのものだった。祖父から与えられてきた愛情と、全く同じだった。
「見守られてるって、やっと気付いたんだ。ずっとずっと、気に掛けていてくれたってこと」
「話し合ったのね。お祖父様と」
「あぁ」
「そう。……じゃあ私、そろそろ行くね。ナギくん、風邪ひかないようにね」
ここへ来る前に立ち寄った社員食堂で買ったコーヒー缶を凪の手に握らせると、火香は踵を返した。
「火香ちゃん」
「なぁに?」
「……見捨てないでくれて、ありがとう」
「……お休みなさい、ナギくん」
遠ざかる火香の靴音。
凪は目を閉じる。目尻から一筋の涙が伝い、コンクリートに小さな染みを作った。
やっと終わったのだ。終わらせたかったことが。心から根絶を願っていた性接待――加納を止めることが、ようやく出来たのだ。
杣庄たちに感謝してもしきれない。安堵感が増して、とめどなく涙が流れてくるが仕方ない。今でも信じられないのだから。
(これから自分を待つのは地獄の毎日だろう。時には逃げだしたくなる場面に出くわすかもしれない。だが、罪には罰を。自分が蒔いた種は、刈り取らねば)
いくら祖父や鬼無里三姉妹が『大事だ』と言ってくれても、彼らの立場を思えば甘えることなど許されないし、情けを授かってもいけないのだ。
これから大きく勢力図が変わることだろう。当然ユナイソンに味方はいない。それどころか敵だらけだ。後ろ指をさされる覚悟をしなければならない。
だからと言って自主退職の道を選ぶのは安易な逃げだし、卑怯な手段だと思う。
(やってやる。1からやってやる)
深く息を吐く。次に空気を吸い込んだとき、凪は立ち上がっていた。
「……ひどいな、火香ちゃん。これ、ミルクコーヒーじゃん」
普段はブラックしか飲まない凪を知らないはずがない。ああ見えて優秀な秘書だ。人の嗜好を覚えることなど造作もないだろうに。
苦笑しながらも、プルタップを引いて一気に煽る。
既に温くて、甘くて、どうしようもない。普段なら胸やけを起こしそうだと飲むことを断念したかもしれない。
それでもその中に優しさが詰め込まれているような気がして、凪はごくごくと咽喉を鳴らしながら最後の一滴まで飲み干した。

(END)

2019.09.04 改稿


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