03話 【House Dog!】


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03話 (犬) 【House Dog!】



“犬君”は祖母による命名だった。
腹を痛めて産んだ息子の名付けを許されなかった嫁は、異を唱える機会すら取り上げられた。
戌年でもないのに犬の字を入れられた。その身勝手さを、母はどう思ったろう?
不破家の嫁姑問題は代々根が深いのが特徴だが、それを覚悟の上で父と結ばれたのだろうか。
だとすれば、息子の風変りな名など、瑣末な問題だったろうか?


*

「お前ってさ、どっちかっつーと犬より猫だよな。不破犬君」
あろうことか平塚のロッカーは僕と同じ列にある。隣りでネクタイを外していた平塚は、人気のない男子更衣室に何気ない一言を放った。
「だって気紛れだろ? 忠実には程遠いし。ふらりとどこかへ行って、いつの間にか帰ってる。ほら、猫そっくりだ」
「……何を突然」
言い出すんだ、この男は。
つい2分前までは、やれ今日の客は美人が多かっただの、千早歴さんと言葉を交わしただのと抜かしておきながら。
今度は標的を僕に定め直し、哲学めいた分析でも繰り広げる算段か。
「オープン2日目で、もう頭が働かないほど疲弊したのか?」
ユナイソン・ネオナゴヤ店が開店してから2日目の夜を迎える。売り上げは予想を上回ったらしく、上層部の表情は明るい。
20時。店自体はまだ営業時間内。中番だったのはバッグ売り場の平塚も同じだったらしく、今から社宅マンションへ帰るところだった。
「飛ぶように売れたからな。ありがたいことに疲れとは無縁だよ。ただ腹は減ったかな。12時に飯食って以来何も口にしてねーから今にも倒れそうだ」
「時間配分を間違えたお前が悪い。14時ぐらいに10番に行けば良かったんだ」
10番は店内暗号で休憩を意味する。染み付いた習慣はそう易々とは抜けてくれないらしく、終業した今でさえユナイソンに縛られてしまっている。
「仕方ねーべ。色々あって、その時間にしか抜けられなかった」
溜息をつきながらロッカーを閉める平塚だったが、次の瞬間には明るい口調で話題をすり替えてきた。
「なぁ不破、これから一緒に飯食いに行かね? POSオペレータのお姉様方が、店の向かいにある飲み屋で女子会開いてるみたいだぜ。乱入しようや」
「どこからそんな話題……」
「言ったろ? 千早歴嬢と話す機会があったって。何でも、生まれて初めての飲み屋体験らしくて、あんま乗り気じゃなかったみてーだけど」
「女子会に乱入だって? 無粋なマネするなよ」
「どの口がそれを言うんだ? 愛しい潮透子嬢がいるっていうのに」
「愛しくない八女先輩が一緒だからだ」
「嫌いなのか?」
「いや、苦手なだけ。こんなにも疲れた状態で、今から八女先輩に散々っぱら可愛がられるのに耐える労力を考えると、割に合わない気がする。
それよか社宅マンションで酔って頬を染めた透子さんの帰りを待ち伏せてた方が賢い選択だと思わないか?」
「うわー、エロ犬ー」
露骨に軽蔑の目を作り、僕を見る平塚。何とでも言ってくれ。
「冗談はさておき、確かに腹減ったな……。平塚、どこか良い店知ってるか?」
「何食いたい?」
「あっさり目が良いな」
「なら、3階のテナントにお茶漬け専門店があるぜ」
「それめっちゃ嬉しい」
「んじゃ、行くべ」
平塚はパーカーのフードを被り、ポケットに手を突っ込んだ。童顔も手伝って大学生に見えなくもない。こいつが社会人とは、とてもじゃないが思えない。
だから気が緩んだ。
まさか僕が、こんな軽薄そうな男にペラペラと過去話を聞かせることになろうとは……。
まさか僕が、誰にも言うまいと決めていた潮さんへの恋心誕生の経緯を話すことになろうとは……。
恐らく、お茶漬けの中に自白剤が混入されていたに違いないのだ。


*

目的のお茶漬け専門店≪侘寂―Wabi/Sabi―≫には、良いタイミングで席に案内して貰うことができた。
あと数分遅ければ待たされたに違いない。実際、僕たちが通された後に来た客などは、店の外に置かれた椅子で長蛇の列を作っていた。
開店してまだ日が浅いこともあり、スタッフもがちがちな接客ではあったが、笑顔を作ろうと努力している点など、好感が持てる部分も多かった。
「何より、味が最高じゃね?」
『鯛のお茶漬け』を頬張る平塚を心酔させてしまうほど、1つ1つの素材が絶品と言う形で客の前に並んでいるのだった。
「結構量があるんだな……」
高菜の薬味を器に放り込みながら、僕は感嘆の吟を漏らす。「こっちの『佃煮の梅和え茶漬け』もなかなかイケるぞ」、と言い添えて。
「この店、成功するぜきっと。茶漬けってほら、老若男女問わず好きそうだしな」
「だな。暫くの間、通い詰めしそうだ。他の店に寄りたいのは山々だけど」
「ネオナゴヤに入ってる外食系テナントの数っつったら、そりゃもう半端ねーぜ? 全部の店を制覇するのも大変だ」
「そこで溜息をつく必要もないだろ?」
「お前はほんと分かってねーな。これは嬉し溜息ってヤツだよ」
「何だそれ」
「嬉しいけど困る。そんな時に使う表現だ」
「そうか。流行るといいな、嬉し溜息」
適当に相槌を打ったことで、平塚が「何だよそれ、冷たいなー」とぶつくさ文句を言い始めたのだが、当然聞き流す程度に留めておく。
内心、それどころではなくなったのだ。
なぜなら、厨房の暖簾をくぐって、ソマ先輩が店の方に出てきたから――。


*

恐らくソマ先輩は僕に気付いていない。
厨房から出てきたソマ先輩は、店のスタッフと二言三言交わすと、「じゃあな。また来るよ」と締め括り、こちらに近付いてきた。
思わず肘を付き、溜息を洩らした僕に、「お? 早速使ってくれるのか? 嬉し溜息!」などという平塚の馬鹿な声が右耳から左耳へ通過する。
「嬉しいワケないだろ。本来、溜息っつーのは絶望に追いやられた時に出るものなんだからな……」
視線をソマ先輩に向けていると、案の定、近くまで来ていたソマ先輩が気付いた。彼は進めていた歩を止め、僕を見下ろす。
「? 不破、知り合いか?」
「黙ってろ平塚」
ソマ先輩は私服だった。割烹着を脱いだ、見慣れない姿のソマ先輩は、自分の頭をガシガシ掻きながら舌打ちをする。
「お前か……」
「こんばんはー、ソマ先輩。会いたくなかったですけどね」
「こっちのセリフだっつの」
去りかけたソマ先輩の足をわざわざ止める無粋な輩が僕の真ん前にいた。平塚は首を傾げて尋ねる。
「……ん? 先輩ってことは、ユナイソン社員ですか?」
「杣庄だ。鮮魚担当」
「ソマ……。あ! 本社で公開告白したっていう、あの?」
「……。」
「あっ……あー、すんません! 俺、かなりのお調子者で。柾さんや麻生さんに、さんざん注意されてるンすけど、治ンなくて。
バッグ売り場担当の平塚です。不破とは同期です」
「同期? へぇ……。ま、宜しくな」
「はい、こちらこそ宜しくお願いしますっ」
「なんでソマ先輩がここに居るんです?」
痺れを切らした僕は、割り込むように口を挟んだ。
「ここの店長と知り合いなんだよ。朝早くから、市場で競り合ってる仲。1日遅れちまったけど、祝い酒を届けに来たんだ。ついでに魚も見せて貰った」
「す、すっげー。鮮魚の社員が市場で買い付けてくるって話は本当だったんだ……」
「いや? 買い付けは稀だけどな。寧ろ、買い付けに行かねぇ社員の方が多いんだ」
「じゃあ、なおさら凄いじゃないッスか! 自ら率先して競りに参加するなんて」
「ポリシーみてぇなもんだから、別に凄かねぇよ。魚は鮮度が一番。ならば市場へ行って買うべし。分かり易いだろ?」
「シンプル・イズ・ベスト!」
平塚の合いの手がイマイチ意味不明だが、どうやらコイツはソマ先輩に尊敬の念を抱いた様子だ。一体、何人の上司に心酔すれば気が済むのだろう。
「明日も朝早(は)えーんだ。これ以上お前らに付き合ってらんね。眠ィから帰るわ、俺」
欠伸をするソマ先輩に対し、
「是非またお話聞かせて下さい、ソマ先輩!」
早くも馴れ馴れしい呼び方をする平塚。
またしても溜息が出た。嬉し溜息ではない、本気の溜息が。


*

当然、予想していた問いが寄せられた。
「不破。何でお前、ソマ先輩に噛み付いてるワケ? すっげー良い人じゃん」
「色々とあったんだよ」
「岐阜店の頃に?」
「あぁ」
「潮さん絡み? としか考えられないよなぁ」
にたり、と平塚は笑った。先を促す悪魔の笑みだ。当然突っ撥ねる。
「言うワケないだろ」
既に冷めてしまった吸い物に口を付けると、平塚がイカの刺身を近付けて来た。
「不破クゥン。確か、軟体動物系は嫌いだったよねぇ?」
「何が不破クゥンだ。ふざけんな。そんな脅しが効くわけ……」
「あ、手が滑っちったー★」
「!!」
あろう事か、イカの刺身をお茶漬けの器に落とす平塚。気付いた時には「どかせ!」と口走っていた。……しまった。
「ま、マジかよ……。箸で掴めないぐらい嫌いなのか? こりゃ傑作だ! さぁ、取って欲しかったら吐けよ。楽になるぜ?」
「ぜ? じゃねぇ! 殺す平塚。せめて殴らせろ」 
「あらあら~? いつもの沈着冷静な犬君サマはどこへ行ったのかな~? ぷっくっく……」
「タチ悪ィ……」
満足したのか、平塚は笑うのをやめると、器からイカの刺身を取り出した。
「悪かったな、からかったりして」
それを口に含め、咀嚼する。嚥下し終えた平塚は、意外にも真面目な顔で言うのだった。
「ソマ先輩って、結局潮さんとは何でもなかったんだろ? 先輩の本命は八女女史って分かってるんだしさ、目くじら立てなくても良いじゃねぇか」
「……。」
「岐阜店で何があったんだよ? 何で今でもソマ先輩を目の敵にし続けてるワケ?」
「そんなに聞きたいのか?」
「スゴク」
しゃあしゃあと促す平塚。僕はメニュー表を手繰り寄せ、トントンと叩いた。
「ご破算で願いましてーは」
「ん?」
「佃煮の梅和え茶漬け1,100円。追加で抹茶500円、黒蜜白玉パフェ760円、しめて2,360円。Are you O.kay?」
「やっと話す気になったか。それぐらいお安い御用だ。食え食え」
「……猫ってのは言い得て妙だな。自分でもそう思えてきた」
「だろ? 番犬なんて柄じゃないんだよ、お前はさ」
平塚は不敵に笑うと、追加オーダーする為、通りかかった店員を呼び寄せるのだった。


*

「結局、ソマ先輩は伊神さんから透子さんの件をヨロシク頼まれていたから、あんな宣言をかましただけだったんだ。
およそ正々堂々って言えたもんじゃないだろ? だから嫌いなんだよ。ソマ先輩も、伊神さんも。勝手に潮協定を結ぶなんて、酷いにも程がある」
「いや、けどさぁ。それ、お前に言えた義理か? お前が潮さんを好きなのって、ストッキングの伝線に欲情したからだろ?」
話を聞き終えた平塚は肩を竦めると、パフェをスプーンで掬った。
「……悪いか」
テーブルの上に突っ伏す平塚の向こう脛を蹴る。
「信じらんね。まさかお前がそんなムッツリだったなんて。紳士とはまるで無縁じゃん。不破クン最低、不潔」
「だから言いたくなかったんだ」
「そりゃそうだろ。『あなたがエロかったから気になりました』なんて言う素直な馬鹿いねぇよ。それ絶対潮さん本人に言うなよ?」
「もうこうなったら、どうでも良いよ」
「おま……投げやりにも程があるだろう」
「はぁーあ。酔った透子さんが見たいなー。今頃家に帰ってるかなー。今ならチューぐらい出来るかなー」
「カミングアウトした途端それ!? 返せよ。俺の不破犬君像を返しやがれ」
「ふん」
話せと言ったり、やめろと言ったり、身勝手な男だ。
空になったパフェにスプーンを放ると、上着と鞄と伝票を掴み、平塚を立たせる。
「さぞかしイケてたであろう『不破犬君像』をぶち壊して悪かったな。お詫びに、今日の奢りはチャラにさせて貰う」
平塚は、もうお前には付いていけないという顔で呟いた。
「お前みたいな気紛れな猫は、どこかへ行ってしまえ」


2010.01.20
2019.12.04 改稿


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