07話 【Captured Butterfly!】


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07話 (―) 【Captured Butterfly!】



ユナイソンネオナゴヤ店がオープンして、最初の日曜日を迎えた。
この日まで開店記念セール第1弾を組んでいるとあって、店は大賑わいをみせたのだが、開店早々ある事件が勃発した。
ユナイソン鮮魚担当社員である杣庄と、同じく精肉担当社員の記虎(きとら)、テナントとして入店している魚屋≪魚福≫店主・愛敬(あいけい)。
その3人が三つ巴さながら、売り場で睨み合っているのである。
「記虎さんなぁ、こんな商売されたら、こっちはどえりゃー困るんだわ」
怒りを抑えつつ、しかし憤怒を表す名古屋弁で、愛敬は肉屋に出来た行列に割り込む。
行列と言っても、その最後尾は肉屋どころか魚福を通り越してしまっている。つまり、愛敬の言い分はこうだった。
「おみゃーさんトコが最高級の黒毛和牛を安売りしとるかしらんけど、そっちの客がうちの店にまで並んどるがね。そんなおおちゃくしたらかんわァ。
行列のせいで、商品手に取れんがや。ちょっとどけてちょーさんか」
記虎には、愛敬が何を言っているのか分からない。が、行列についてのクレームであることだけは理解できた。
「黒毛和牛は、今日の目玉商品なんだよ! こっちだって売り上げがかかってンだ。ちょっとぐらい我慢して下さいよ」
憮然とした態度で応じる。そこへ現れたのは杣庄だった。
「ちょっと、愛敬さん!」
「なにぃ、杣庄くん」
独特のイントネーションで、愛敬は尋ねる。
「困りますよ! 何スか、刺身3パック2,000円って! そんな値段でやられたら、こっちが売れないじゃないッスか!」
「そんなん知らんがね。なぁ、それよりも肉屋の行列! なんとかしてちょーだゃあよ」
「うちの商売の邪魔するんですか? うちの肉が飛ぶように売れているからって、嫉妬しないでいただきたい」
「たわけ、嫉妬じゃにゃーわ。まぁかん! こっちも刺身3パック1,800円に下げたるでねぇ」
「ちょ……! 待ってよー。愛敬さんがそのつもりなら、こっちだって刺身で対抗したるわ!」
杣庄は生まれも育ちも名古屋の城下町、大須。普段は標準語を意識している杣庄も、愛敬にすっかり感化され、地である名古屋弁で反論した。
「……何やってんのよ、あの馬鹿は……」
騒ぎから僅かに離れた位置で、潮透子は、袖を捲り始めた杣庄を見て1人ごちた。
売り場には大勢の客がいる。身内のゴタゴタをこれ以上明るみに出すわけにはいかなかった。
「杣庄」
透子はまず杣庄の名を呼び、長年培ってきた阿吽の呼吸とも言うべきアイコンタクトでその場を退くよう命じる。
「……!」
杣庄は決して愚か者ではない。自分が置かれた立場を瞬時に理解すると、一呼吸置き、とっておきの笑顔を作った。
「うちも黙ってらんねぇな! 魚福さんの刺身や精肉の黒毛和牛を見たら、すっかり商人魂に火がついちまったぜ。今からタイムサービスだ。
さぁ、らっしゃいらっしゃい! 開店記念サービス、真鯛1尾700円だ! 日間賀島産の新鮮な真鯛だぜ」
「えっ、真鯛が? ねぇアナタ。さっき値札を見たときは1,000円だったわよ」
「3割引じゃないか。和牛も良いが、鯛も旨いよなぁ」
「でも、≪魚福≫さんの刺身も魅力的じゃない? こっちは3パック1,800円に下げたっていう話だし」
「全部買えば良いんじゃないか? どう考えたって安いんだしさ」
「それもそうね! 明日でも十分、新鮮なまま食べれそうだし……」
そんな会話がちらほらそこかしこで囁かれ、杣庄はほっと胸を撫で下ろす。愛敬や記虎に「悪かったな」と苦笑いで謝ると、
「いや、こっちも不案内だったし……。確かに営業妨害だったよ。もう少し考えるべきだった。魚福さん、すみませんでした」
「い、いやいや! 俺の方こそ、大人気なかったわ。杣庄くんも、堪忍な」
なんとか丸く治まり、杣庄は最後、透子に向かって頭を下げた。
「わりぃ、透子。ありがとな。お陰で助かったぜ」
「気にしないで。それより、勝手に鯛の値段を下げて良かったの? チーフに怒られない?」
「……間違いなく怒られるだろうな。あの鯛、1,000円でも十分アカ(赤字)なんだよ。やべぇな……」
「粗利なんて、夢のまた夢ね」
自分で撒いた種とは言え、思った以上の被害である。杣庄は上司に説明をする為、バックヤードへ戻る。透子はその後を追いながらPHSを取り出した。
「潮です。今すぐ背番号522の真鯛を700円にして下さい」
今日は千早歴が休みの為、POSルームの内線電話に出たのは八女芙蓉だった。「了解」という返事を受け取ると、PHSをスカートのポケットに戻す。
「値段はOKよ。直したわ」
「POPもOKだ。後は、俺がチーフの『馬鹿野郎!』を聞くだけだな」
やれやれと嘆きながら、前掛けを締め直す杣庄だった。


*

一連の報告を済ませた杣庄は、上司から「頭を冷やしてこい、この馬鹿たれ」と一喝され外に放り出された。外とは鮮魚の搬入口である。
2月の寒空の下、まるで廊下に立たされる不出来な生徒のように突っ立つ杣庄だが、いかんせん神経が図太いので、これ幸いとばかりに携帯電話を操る。
「いーけないんだ」
「透子。なんでお前がここにいるんだ?」
「元々、私は杣庄に用があったの。それにいまは昼休憩中だし」
「そうか。で? 用ってなんだ?」
促してみたものの、壁にもたれて膝を抱える透子からの返事はない。
「言い淀むってことは不破の野郎のことか? それとも伊神さんか」
「……まるで私がその悩みしか抱えていないみたいじゃない」
「違うのか?」
「……。」
その無言こそが透子の答えだった。
「どーしたよ」
メールを打っていた手を止め、携帯電話をポケットへ戻すと、杣庄もしゃがみ、透子の顔を覗き込む。
「……不破犬君がうざい」
透子はそれだけ言うと、肘ごと顔を覆ってしまった。
『あいつがうざいのは元々だろうが』。
出掛かった言葉を、すんでの所で飲み込む。透子が欲しがっているフレーズは、そんな言葉ではないと、ちゃんと知っているからだ。
「あいつの押しの一手にグラつきそうになってンのか? 傾きそうで怖いのか?」
「……。」
「……そうか。あいつの存在が、お前の中で大きく育っちまったんだな」
「……。」
果たしてそうなのだろうか。透子は自問する。ただ伊神さんと向き合えないだけなんじゃないの? ――あぁ、やっぱり分からない。
ぎゅっと目を瞑ると、杣庄の手の感触が髪に届いた。
ワシャワシャと掻き乱しているかのような手付き。不器用な男の、精一杯の励まし方に、透子はついつい漏らしてしまう。
「やっぱり杣庄の過保護っぷりは最高ね」
「じゃあせめてもっと感情をこめて言ってくれ」
忌々しく舌打ちして――ぐしゃぐしゃにしてしまった透子の髪を直しながら、杣庄はこれ以上ないほど優しい声で言った。
「透子。伊神さんは、お前と喋りたがってるぞ」
「……ほんと?」
「嘘つくわけないだろ。つーか、伊神さんがそういう人間じゃないってことは、お前がよく知ってるじゃねぇか」
「うん、知ってる」
「言ってくれりゃ、お膳立てくらいはしてやるからな。いつでも声かけてくれ」
「……ありがと。弱音吐いちゃってごめん。こんなこと、杣庄にしか言えなくて」
「いいって。俺とお前の仲じゃん」
「そうだね。うん、本当にありがとう。じゃあもう行くよ。杣庄、ここ、風が通過するしめちゃくちゃ寒いから、そろそろ中に入りなよ?」
「あぁ」
杣庄は透子を見送ると、店の中に戻るため腰を上げた。
カツン、というヒールの音に視線を向ければ、そこには八女芙蓉がいた。
「八女サン……」
思えば、こうして2人きりで向かい合うのは、本人を前に「惚れた女に何をする」発言を放った実に4ヶ月ぶりのこと。
杣庄は口を開きかけてはみたものの――結局ことばは出てこない。
「……ノレソレの品種って、なに?」
バツが悪そうに芙蓉は尋ねる。何のことだろうと眉を寄せる杣庄。
「のれ……? あぁ、稚魚だ。あなごの稚魚」
「分かったわ」
踵を返す芙蓉は、ここにはもう用が無いのだろうか。というよりなぜこんな搬入口にいるのだろう? 
(もしかして俺に会いに? なんてなー、ははは)
ないない、絶対ない。
情けないことに引き留める言葉も浮かばず、杣庄はただその後ろ姿を見送るだけ。だが、芙蓉の足は数歩の所で止まった。
「……潮と仲が良いのね」
「それ、嫉妬だと思って良い?」
今度は与えられた隙を見逃さなかった。
「別にそんなわけじゃ……。ただ、……いえ、何でもないわ」
明らかに取り乱していた芙蓉も、最後には持ち前のクールさを取り戻していた。だてに恋愛をこなしてはいない。
再び歩き始めた芙蓉の腕を、杣庄は咄嗟に掴み、引く。バランスを崩した芙蓉は、たたらを踏みながら杣庄の肩に寄り掛かった。
「あ……」
「……ったく。やっと捕まえた」
杣庄の真剣な目を見て察知する。これは駆け引きなのだと。
芙蓉は逃げようとして――捕らえられた。

手首が軋む。それは杣庄が強く握るから。
顔が火照る。それは杣庄の顔が近いから。
唇が重なる。短く、それから、長く……。

さながら、蜘蛛に拿捕された蝶のように――。


*

杣庄のキスは巧みだった。下唇を食み、かと思えば上唇に舌を這わせる。
主導権を握られた芙蓉のショックは大きい。そもそも不意打ちの時点で既に分が悪かった。
キスは次第に熱を帯び始めた。舌を絡められるのは時間の問題だった。
そうはさせまいと芙蓉は身を捩り、杣庄の双肩に手を置いて彼を引き離す。
肩で荒い息を吐く杣庄の焦点は曖昧で、傍目にも欲望が働いたとことが丸分かりだ。
芙蓉は呼吸を整えると、自身の舌で唇を一舐めしてから杣庄に近寄った。
「言いたいことが山ほどあるわ! 一体これはどういう了見? いきなりキスなんかして……。そもそも今は就業中よ?
何がむかつくって、思わず女性遍歴を尋ねたくなったことよ! 冗談じゃないわ。何で私が嫉妬なんてしなくちゃいけないわけ?」
杣庄は目をわずかに見開く。言葉の意味を素直に受け取れば、芙蓉が杣庄に嫉妬心を抱いていることになる。
「どこで覚えたのかって訊いてるの! ……あぁもう、屈辱だわ」
「覚える? 何言ってんだ? 何を覚えるんだ?」
(信じられない。何が信じられないって、もう一度さっきの情熱が欲しくてたまらない事実がよ……!)
数ヶ月前の告白でやっと杣庄の想いに気付いた芙蓉は、それから杣庄を恋人候補として頭の片隅に置くことだけはしていた。
加納の件以来、恋に本気になるまいと深く誓った芙蓉は、それでも恋人候補の数だけは多く、杣庄はその中の1人に過ぎなかった。
それなのに、忘れかけていた――正確には忘れるべきだとその存在すら屠った――触れ合いの素晴らしさを、いとも簡単に知らしめてくるなんて。
(ピラミッドの頂上まで一気に登りつめたと言うの? 杣庄が? キスひとつで?)
そもそも杣庄はやることが大胆だ。告白にしたって、あれはあまりに突然だった。
(理解不能というか、空気を読まないというか、自分の欲望に忠実というか、何というか……あぁもうもうもうもう! 不覚だわ!)
杣庄という男を知れば知るほど、見つめれば見つめるほど、芙蓉の顔は赤く火照る。
久々の恋は刺激が強過ぎた。昔の芙蓉ならば上手くさばけたものを、ブランクは思った以上に芙蓉を悩ませ、調子を狂わせた。
これでは千早歴を『恋知らず』と言える立場にない。その権利すらなかったことに今さら気付く。まさかここまで鈍くなっていたなんて。
杣庄はといえば、一瞬は芙蓉を見たものの、またもや視線を他に注いでいる。
(私より大事なものがあるって言うの? この男、どこまで人を馬鹿にすれば気が済む……って、え?)
芙蓉とのキスの余韻に酔い痴れることもなく、それどころか厳しい視線の先には不破犬君の姿。
なぜ彼が? とは愚かな質問だ。ここは段ボール庫へ通じる道でもあるのだから。この場合、疑問を抱く権利を持って良いのは犬君側だ。
潮透子にさえ見せたことはないであろう、胡散臭げかつ満面の笑みで、犬君は潰した用済み段ボールを積んだ台車を牽きながら杣庄に声を掛ける。
「おめでとうございます。やっと意中の女性とファーストキスですか?」
「……。」
「嬉しいですよね。分かりますよ、その気持ち。――凄くね」
露骨に含んだ物言いに、杣庄は敏感に反応した。本能に赴くまま噛み付くさまは、獰猛なサファリの獣だ。
「『分かります』だ? お前……透子に手ェ出しやがったのか!?」
「今更そんな昔の話を蒸し返されても困りますけど、話題を振ったのは僕だから仕方ないか。イエスです」
「なっ……」
初耳なのは芙蓉も同じだった。
(あらまぁ、わんちゃんったら、いつの間に?)
潮透子の性格を鑑みると、黙秘は当然な気がした。
(少し、いや、かなり寂しかったけれど。でも秘密だなんて水臭いじゃないの)
「てめぇ透子に何した!? まさか」
「野暮は言いっこなしですよ~。それに……伊神さんならともかく、ソマ先輩にそれを言う権利があるのかな~? なんて」
不敵に犬君は笑う。眼鏡がきらりと光るのを杣庄は見た。
「あァ? 一体どういう意味……」
口を塞がれた杣庄は、犬君に問い質すことが出来なかった。
文字通り、芙蓉の唇が杣庄のそれを塞ぎ――漏れるのはただくぐもった声だけ。
「ほら、バチが当たった」
(なんだよ、バチって!?)
問いたかった言葉に返事は無かった。犬君は台車を引っ張って行ってしまったから。答えをくれたのは芙蓉だった。
杣庄の口付けよりも長いキスをやめると、呆気にとられた杣庄の頬を小気味よく張り倒す。コンクリートの壁に、痛そうな音が反響した。
「わ、ワケ分かんねぇ! いきなりキスしたかと思えば張り手!? 八女サン、あんた気は確かか!?」
叩かれた左頬をさすりながら、杣庄は戸惑った顔で尋ねる。芙蓉は完全に怒っていた。表情も、声も、感情も、行動も。
「杣庄進! あんたが好きなのは一体誰なのよ!」
「は……?」
「答えなさい! 誰!?」
「や、八女サン」
言いにくそうに答える。
「伊神は帰国したわよね!? 当然、潮の御守は終わったのよね? 彼女を守るとかいう約束はもう果たし終えたのよね!?」
「あ? あぁ……」 
「じゃあ、何でいまだに潮の心配ばかりするのよ!? なんで真っ先に潮の心配をするのよ! どうして私だけを見ないの!?」
そこまで言われてやっと気付く。キスと、張り手の意味に。
そこまで言われなければ気付けない事実に愕然として、事の大きさに失望を隠せない。よくよく考えてみれば、これは浮気に近い。
潮透子に対し恋愛感情を抱いていたと誤解されても弁解の余地などないほど、過保護の域を超えていた。
「あああああ、そうか……。うわ、俺ってサイテーだな……」
「自覚はあるみたいね。良かったわ」
くるりと身を翻すと、芙蓉はヒールを鳴らしながらその場を去り始めた。
――ねぇ。退き際、間違えてない?
芙蓉の頭の中に、そう尋ねる自分がいる。
(そうね、確かに。ここは退く場面じゃない。……感覚が戻ってきたかも)
歩みを止め、振り返った芙蓉は「覚悟して」と告げる。杣庄が僅かに顔をしかめた。今度はどんな無理難題を吹っ掛けてくる気だ。
「私しか見えないようにしてあげるから」
杣庄は、そのセリフに溜息を漏らした。
「――八女サンは何も分かっちゃいない。今に透子への思いと、あんたへの想いの違いを思い知ることになるさ」
どちらがより深く愛しているのか。比重を語り出したらそれはもう成就したも同じ。
芙蓉が作り出した男性不信という名の心の殻に亀裂を入れたのは4ヶ月前の杣庄だ。
今日のキスにしたって、あやふやだった2人の関係に投石を投げ込んだ結果、なんとか綺麗な波を描けただけの話なのだ。
無鉄砲なまでの荒療治に、意外と手強い相手かもと危惧する芙蓉。
でも、だからこそ惚れてしまったのだろう。強引な杣庄に。強引さは、男らしさの象徴の1つだ。
(じゃあ、どうして私に好意を抱いてくれたの?)
それを尋ねる時間はたっぷりある。これから、いくらだって。
「その言葉に嘘偽りがないことを証明してみせて。懇切丁寧に、じっくりゆっくり、……でも強烈にね」
恋焦がれていた相手からあからさまな挑発を受けた杣庄は、愛しい恋人の情熱的な申し出を前にして、キスをしたい衝動を抑えるのに必死だった。
今は仕事中、ここは仕事場、と何度も何度も理性に訴えかける。彼女はじゃじゃ馬すぎて、馴らすには時間と理性が不可欠のようだ。
めでたい関係に落ち着いたことで胸を撫で下ろしたのは杣庄だけではない。
段ボール庫から出て来た犬君はその様子を見届けると『これでやっと動きやすくなった』と心から2人を祝福したのだった。


2010.03.18
2019.12.08 改稿


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