さんぽ すすんで にほ さがる

誕生!~4歳まで


 そして、数ヵ月後の1984年9月5日に生まれた。私はもちろん覚えていない。しかし母から聞いたことによると、父はほとんど毎日仕事で帰りが遅く、母は私と1才半違いの妹の世話を一人でしていたらしい。

だからといって父が私たち娘を可愛がっていなかったと言うわけではなく、寝つきの悪い私を夜中によくドライブに連れて行ってくれたし、仕事の合間の休憩のため家に帰ってくると私をお腹に乗せて一緒に寝たりもした。証拠写真もある。
 休みの日は家族で色々な所へ遊びに出かけた。私が一歳のとき父はふざけて私の頭にガムテープを貼り付けた。はがしたとき、ただでさえ髪の少ない私の頭はどうなったのだろう。

 ★JW★私が2歳のとき母がJWと聖書研究を始めた。母はこれこそ真理だと確信しJWの姉妹たちの話や週に3回もある集会で聞いた事柄をどんどん吸収し生活に当てはめていった。

 ★奉仕★ 例えば奉仕に定期的に出ること。母は妹を背中におぶり、私の手を引いて一日何時間も歩いて奉仕に参加した。しかも母は車を持っていなかったため、行き帰りもほとんど歩きで、夏・冬は特に大変だった。父は聖書を学ぶことを猛反対したが母は決してやめなかった。

 ★懲らしめ★ 母はJWの姉妹たちに教えられたとおり私達子供に懲らしめを与えた。懲らしめというのは、お尻をむち棒で叩くというものだ。
むち棒は最初30センチものさしで、私達が悪いことをする度に母は「お尻を出しなさい。」と言い、私達がやったことの悪さ加減に応じた回数をむち棒で叩いた。
集会場には懲らしめをする場所があり、集会中に兄弟の話をちゃんと聞いていなかったり寝ていたりするとその物置に連れて行かれ口をふさがれてむちをされた。

アパートでむちをされているとき逃げようとホフク前進をして生協の請求書が目の前にあったのを覚えている。
 また、母が父に私にむちをするよう頼んだとき、父はふすまを閉め、自分の手を鳴らしてむちをしたと見せかけた。父は小さい娘を叩いたりしたくなかったのだろう。今、幼児虐待を多く聞く中で父はいい人だと思う。

 叩いたあと、必ず母は私を抱きしめた。なぜだかその時は分からなかったが、その抱きしめるというのがあったから、叩かれてもすぐに機嫌を直し、立ち直れたのだと思う。もちろん幼かったというのもあるのだが。でも、その懲らしめは後に私と妹の心の傷となった。

★大会★ 大会の思い出は沢山ある。今はもう廃止されたが、喫茶と言うのがあって昼食には色々なものが出て、列に並んでおいしそうなものを選んで食べるのがとても楽しみだった。カレーやとろろそば、菓子パン、アイスなどもあり、まるでピクニックみたいだった。
 大会には色々な県の会衆の人々が集まり、席が近い人と親しくなった。だが、集会はもちろん大会の兄弟の話は退屈で時計ばかり気になってしょうがなかった。でも劇は楽しく、古代人に扮装した劇などは身を乗り出して見た。
母が巡回大会でバプテスマを受けて帰ってきたときのことを覚えている。その日私と妹は高熱を出してパジャマ姿で大会へ行った。母が別の場所でバプテスマを受けて帰ってきたとき、母と会えたときの喜びをなぜか今でも忘れない。


★Tハウス★ 私が4歳のときまで住んでいた古いアパート“Tハウス”はとても思い出深い。とても狭く6畳2間とキッチンがあるだけの部屋だったが、たくさんの思い出がつまっている。
 押入れで父と、かくれんぼをしたこと、ウサギの大きなぬいぐるみを抱いたままイスに座ろうとして熱した鉄板でぬいぐるみの頭を焦がしてしまったこと。(母に聞いたのだが、実はアイロンで焼いたらしい。)
 まねしんぼうの妹と自作の踊りをしたり、顔に沢山シールを貼ったり、Tハウスから近いゲートボール場で遊んだり、休みの日に父と公園で遊んだり、ひとつの部屋で家族4人布団を並べて寝ながら、「こんなに大きくなったんだ~。」と思ったり・・・思い出せばきりがない。

★新築★ 私が4歳のとき父方の祖父母の家の向かいに家を建てることになり、お払いをしに行ったが私と妹と母は参加せず違う場所にいた。急な引越しの話で母は自分の思い通りの家にすることはできなかった。夢のマイホームなのに。
 途中まで出来上がった家を見に行った時、書斎の床が一部出来ていなくて大きな穴が開いていて驚いた。
 Tハウスからの荷物整理の間、私達は近所のN姉妹宅に預けられた。引っ越した初日、オレンジ色の電気をつけて初めてベッドに寝て落ち着かなかった。変な気分だった。

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