黒井丸の大分情報ブログ(九州歴史研究会)
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豊筑乱記という軍記物があります。作者不明。成立年月日不明。大分百科事典では『大友記』と内容は同一部分が多い。とあります。そこでバイトだけで暇だし、大友記の内容を切り張りしてキンドルで250円位で販売しようなどと思いながら、現代訳を開始してみたのですが、どうもこれ、内容が違いました。例えば初代大友能直の記載ですが大友記では『大友由来の事』の項目では (初代)大友能直(よしなお)は右大将(源)頼朝公の息子で上野國(群馬)の平氏の利根(大友経家)の娘を頼朝公が寵愛し懐妊させ、斎院次官の大友親義(中原(なかはら)親(ちか)能(よし))に預け、誕生した御曹司を市(いち)法師(ほうし)と名付けた。 (市法師が)9歳の春の時に頼朝は箱根へ参られ、親義は扇で顔を隠した女性を連れ頼朝公の御前に参り、頼朝は(彼女が経家の娘と)察し市法師殿を召し出し、仕官させた。 その後、曽我兄弟が仇の工藤祐経を討取ったとき頼朝公は鎧をつけ出陣したが11歳の市法師が背中にとりつき「君は征夷大将軍なのだから、このような夜討ちに軽々しく動くべきではありません」と説得した。 頼朝公も「もっともだ」と留まった。 その後、(頼朝は能直を)幼少なのに只者ではないと感じ、豊後豊前を与え、豊前(ぶぜん)守左近将監(のかみさこんしょうげん)能(よし)直(なお)と名乗り官位は従五位下となった。 大友は平氏だが頼朝の御子なので源の氏を与えられ源氏となった。 こうして能直は豊後國府内に下着し累代永年、今の義(よし)鎮(しげ)(宗麟)公まで18代、めでたく栄えた。 とありますが、豊筑乱記では『能直下向の事』として ここに大友左近将監従五位下(上か?)藤原朝臣能直。 俗姓は大職冠より13代の後胤、大友左近将監能成の息子で斎院次官親能の養子である。 実は右大将(源)頼朝公の息子で、母は上野國(群馬)の平氏の利根(大友経家)の娘を頼朝公が寵愛し懐妊させ、大友能成に預けたという。 承安2年に誕生し稚名を市(いち)法師(ほうし)という。 建久4年に豊後豊前を賜り、豊後に下った。 その理由は頼朝の弟、義経が平家を亡ぼし、代官として帝都を守護したが、佞人のため兄弟は不和となって出羽陸奥の領主、佐藤秀衝を頼ったが※打つことになった。その使者が能直だった。 能直は18歳だったがはなやかないでたちで300騎を率いて奥州康衝の館で綸旨を渡した。 (中略) 22才で豊後に下り、貞応2年11月21日(27日か)に52歳で逝去した。 と大友記の内容に訂正を加えながら、別の逸話を入れているのです。また10代目当主、大友親世までの逸話を大友記は省略しますが、豊筑乱記では丹念に記載します。ところが、大友宗麟の話になると急に内容が薄くなり、1556年の小原鑑元の乱を紹介したあと、毛利との戦いをあっさりと流したあと、大友記では書かれなかった1584年以降の出来事を丹念に記述し、秀吉が豊後に来て島津を征伐し、島津に味方した謀反人を、いかに処罰したかを書いて終わります。つまり、大友記と書いている内容は似ているけど、大友記で説明していることは豊筑乱記では書かれていないようなのです。宗麟がキリシタンになろうとしたり、万寿寺や住吉や檮原神社を迫害したというデマは一緒ですが内容が微妙に異なっており、重複する内容は大友記の記述と時系列が違っていたりします。まるで『大友記の内容追加分を出したので、これで補完してくれ』といわんばかりの内容のずれ。お陰で大友記の内容は使いまわせない事が判明しました。仮にこの本を訳すとしたら、大友記と比較した方が面白い気もしますが勘違いだと徒労になります。どなたかこの軍記について御存じの方、翻訳をてつだってもいいと言う方がいらっしゃいましたらお教えください。【中古】大友豊筑乱記・大友軍記資料
2019.08.06
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