一即多、多即一

一即多、多即一

生きる理由


何のために人は生まれてきたのか」といったことである。今でもよく覚えている
のが、人が生まれ死にそれを繰り返していくが、ある日を境にその流れが永遠に
途絶えるのか、それとも永遠にそれを繰り返すのか、このような考えが浮かんだ
が、どちらにしても私にとっては恐怖だった。永遠の無も永遠の生き死にの繰り
返しも、私にとっては受け入れがたいものだった。

 しかし、このような私の悩みに答えてくれる人は誰もいなかった。そして成長
していくにつれ、このようなこともあまり考えなくなってしまった。
 こういったことを小さい頃に考えたことがある人は、案外多いのではないかと
思う。しかしたいていは私のように成長していくうちに考えなくなってしまうよ
うである。

 学生時代は今から思えばある程度友人にも恵まれたが、何か満たされないもの
を感じていた。そしていじめられたり、馬鹿にされたりすることも多く、生きる
ことに苦しみを感じることも多かった。
今となってはよい試練であったと肯定的にとらえられるが当時は苦痛であった。

 いじめられたり、馬鹿にされることは当然いやだったが、やり返すことはほと
んどなかった。自分が苦しむことは好きではなかったが、他人を苦しめることは
それ以上にいやだった。

 どうも周りの人と自分は違うようだ、という気持ちを、そのころから感じてい
た。他の人が楽しんだり、喜んだりしていることに自分は心底喜べない。そして、
いじめられたり馬鹿にされながらも、自分の持っているものはこんなものではな
いと考えていた。今から思えば、少々傲慢な意識だと思うが、そういった考えは
常にあった。

 大学に入り、期待することも多かったが、周りから自分が完全に浮き上がって
いるのを感じ、五月病ならぬ四月病になってしまった。授業にもでず、草っぱら
にねっころがってぼけーとしていることも多かった。

 そこでまた幼き頃の悩みがよみがえってきた。これを解決しないことには、自
分の感じている苦しみから解放されない。かなりこれは深刻な状態だった。

 結局私は仏教やヨガに巡り会い、その教えを学んだり実践することによって、
生きていく意味を見いだした。人は輪廻を繰り返していくが、そこから脱却する
道がある。その道を実践し、少しでも多くの人にそのことを知ってもらうこと、
簡単に言えば、それが私の生きる意味であった。私にとってこの結論に至ったこ
とは、ものすごく大きな出来事だった。

 生きる意味を見失っている人も多いのではないだろうか。私はそういう意味で
は幸福だと感じる。一人でも多くの人が生きる意義を見出せるようになってもら
いたいと思う。

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