一即多、多即一

一即多、多即一

心臓で考える2


   小川捷之訳、みすず書房、1976.2
   p.22-24


 私は逆に置きかえたいのです。明らかにはじめに来るものが無意識であ
り、意識はまさしく無意識の状態から生ずると言いたいのです。児童期の
はじめは無意識の状態です。本能的な特質の最も重要な機能は無意識であ
り、意識はむしろ無意識の産物です。意識は大へんな努力を必要とする状
態なのです。意識状能が持続すると疲労します。意識によって消耗するか
らです。これは不自然な努力といってもよいものです。例えば未開人を観
察してみると、彼らは居眠りをしているときでさえも、われわれがそばに
いるだけで、何もしていないのに姿をくらましてしまいます。彼らは何時
間もずっと坐ったままでいます。彼らに、「何をしているのですか?」と
か「何か考えごとをしているのですか?」とたずねると怒り出します。な
ぜなら、「狂った人間だけが考える。奴らは頭で考える。私たちは考えた
りはしない」と言うはずです。もし、彼らが考えたとしても、彼らはおな
かか心で考えます。あるニグロの種族は、肝臓や腸や胃を混乱させる思考
しか実際に知らないので、われわれに思考がおなかに存在することを得心
させてくれます。言いかえれば、彼らは情動的な思考だけを意識している
のです。情動や感動は明らかに生理学的な神経性の興奮を随伴しているの
です。

 プエブロ・インディアンは、私にアメリカ人は皆狂っていると言ったの
でした。もちろん、私は、幾分驚いてその理由をたずねました。「そうで
すね、彼らは頭で考えるからです。しっかりした人は頭では考えません。
われわれは心で考えます」と言ったのでした。彼らは、まさに、ホメーロ
スの時代にいるのです。その時代は隔膜(phren=心・魂)が心的活動の
座でした。これはさまざまな心の局在性を意味しています。思考は、われ
われの意識では、最も威厳があるとされている頭に存在することになって
います。しかし、プエブロ・インディアンは感覚の強さから意識をひき出
しています。抽象的思考は彼らには存在しないのです。プエブロ・イン
ディアンは太陽崇拝をするので、彼らに聖アワグスティヌスの議論を試み
てみました。神が太陽なのではなくて、太陽を創造したのが神であるとい
うことを彼らに言ってみました。彼らはこの考えを受け入れることができ
ませんでした。というのは、彼らは自分たちの感覚や感情に基づく認識世
界を越えることができないからです。彼らの意識や思考は心臓に局在して
おります。他方、われわれについて言うと、心的活動はどこにも存在して
いません。われわれは夢や空想を「下のほう down below」に局在すると
考えているので、潜在意識 sub-conscious の心を意識の下にある
below consciousnessとみなします。

 こうした心のもつ独特の局在性はいわゆる未開心理学では大きな役割を
果していますが決して原始的なものではありません。例えは、タントリッ
ク・ヨガ Tantric Yoga やヒンドゥー心理学を研究すれば、会陰部から頭
の先にいたる意識の局在性、つまり、十分に検討を加えられた心の層に関
する系 system of psychic layers を発見するでしょう。これらの「中
心」はチャクラ chakras といわれるもので、ヨガの教えに見出されるだ
けでなく、ドイツの古い錬金術の本にも同様の考え方を発見できますが、
それはヨガの知識からもたらされたものではありません。

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