「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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かにさん改めてそんちゃん。自適に生きる方法の模索
窓割れ理論~[日本語訳] 完
ジェームス・ウィルソン、ジョージ・ケリング共著
Broken Windows [日本語訳]
The police and neighborhood safety
By James Q.Wilson and George L.Kelling
訳:特定非営利活動法人日本ガーディアン・エンジェルス
監修:小宮信夫
論文(割れた窓ガラス ―警察と近隣の安全―)
ジェームス・ウィルソン、ジョージ・ケリング共著
1970年代半ば、アメリカ・ニュージャージー州は、市民生活の質の向上を目的とし、“セーフ・アンド・クリーン ネイバーフッド プログラム”(安全で清潔な近隣計画)を28の市で立ち上げた。このプログラムの一部として、州は、警察官がパトカーから降りて徒歩でパトロール出来るように資金を供給した。
州知事を含め州の役人らは、犯罪を減らす方法として徒歩でのパトロールを行うことに意気込んでいたが、一方多くの警察署長は、このプログラムに対して懐疑的であった。彼らの視点では、徒歩でのパトロールには信頼性がなかったのである。それは警察の可動力を減少させる、すなわち市民の要請に応えることが難しくなり、司令部によるパトロール警察官の制御力が弱まってしまうと思われていたのである。
多くの警察官もまた、違った理由からこの徒歩でのパトロールを嫌がっていた。それは重労働であり、寒い雨の夜も外にいなければならず、追跡して逮捕する機会を減らすものだったからである。徒歩でのパトロールを罰則として課す部署もいくつかあったほどである。
安全確保活動の学者らは、徒歩によるパトロールが犯罪率に影響を与えるとは考えていなかった。一般の意見に譲歩するかたちをとっただけだ、というのが多くの学者の意見であった。しかしながら、州が資金を供給してくれるので、地域の権威者らは従うことにした。
プログラムの開始から5年後、ワシントDCにある警察財団は、徒歩パトロール計画の評価を公表した。主としてニューアークで実行された実験の分析によると、誰も驚くことはないであろうことに、徒歩でのパトロールが犯罪率を下げることはなかった、と財団はまとめた。
しかしながら、徒歩でのパトロールが実行された地域の住民は、実行されなかった地域の住民よりも身の安全を感じ、犯罪が減ったとさえ思うようになり、犯罪から身を守る手段の度合いを下げるようになったようであった。(例えば家中の鍵を掛けて家の中に閉じこもることを止める、など)
その上、徒歩パトロール地域の住民は、他の地域の住民よりも、警察に対して好意的な意見を持っていることが分かった。そして、警察官も、徒歩パトロールを行っているものの方が高く、また、住民に対して好意的な態度をとっていた。この結果は、このプログラムに対して懐疑的だった人は正しかった、徒歩パトロールは犯罪には影響がなかった、ただ単に住民に以前よりも安全だと思わせるにすぎなかった、という証拠ともとれる。
しかし、私たちそして警察財団の報告書の著者ら(ケリングはその中の一人なのだが)の観点では、ニューアークの市民は決して騙されていたわけではないと思われる。彼らはパトロール警察官が何を行っていたのかを知っていたし、それが車を用いたものとは違うことも分かっていたし、パトロール警察官が実際に地域をより安全なものにしているということも理解していたのである。
しかし、犯罪率が下がっていず、実のところ上がっているにも関わらず、一体どうしてその地域がより安全なものになり得るのであろうか。この疑問に対する答えを見つけるのには、まず、公共の場で何がもっとも人々を怖がらせるかを知っておく必要がある。
多くの市民は、当然のことながら、主として犯罪、特に見知らぬ者による突然の暴力的な襲撃によって驚かされる。この危険性は、多くの大都市同様、ニューアークにも実在するのである。しかし、我々は恐怖の他の原因を見落としがちである。
無秩序の人々に侵害される恐怖である。暴力的ではなく、また犯罪者ではなくとも、評判の悪い、手に負えない、予測不可能な行動をとる人々である。乞食、酔っ払い、麻薬常用者、乱暴なティーンエイジャー、売春婦、ぶらぶら暮らす者、精神異常者などがそれである。
パトロール警察官が行ったことは、このような者のいる地域で出来る限り秩序を向上させるということである。その地域の住民は主に黒人であり、パトロール警察官は主に白人であったが、この秩序維持の活動は、どちらの人種も大体満足できるように行われた。
我々の一人(ケリング)は、ニューアークのパトロール警察官に長時間同行し、警察が秩序とは何であると定義し、どのようにそれを維持しようとしているのかを視察してみた。
ある一つのパトロールは象徴的なものであった。ニューアークの中心地、多くの放棄された建物、ぎりぎりの経営状態の店(ショーウインドウにナイフやかみそりなどが並べられている店もあった)、一つの大きなデパート、そして駅はいくつかの主要なバス停留所などがあるにぎやかで荒廃した地域。
荒廃した地域ではあったが、交通機関の主要な乗り入れ地であったため、通りには多くの人通りがあった。この地域で良い秩序を保つことは、その地域に住む者だけでなく、家と職場、またはスーパーなどを行き来する者にとっても重要であった。
通りにいる人々は主に黒人で、巡回している警察官は白人であった。通りにいる人々とは“地元の人”と“よそ者”の両者から成っていた。“地元の人”とは、普通の住民をはじめ、酔っ払い、浮浪者などを含み、そこに在住し、自らの身分をわきまえている者のことである。一方“よそ者”とは、そこに住んでいない人で、怪しげに、時には気遣って様子をうかがっている者のことである。
ある警察官(ケリーといいますが)は誰が“地元の人”であるかを把握しており、また彼らもケリーのことを知っていた。ケリーは仕事として、“よそ者”を監視し、また、秩序を乱すような住人が、非公式でその地域のものだがよく知られているルールを守るように目を配っていた。
酔っ払いや麻薬常用者は、玄関の階段に座るのは構わないが横になることは許されない。裏通りで飲酒するのは構わないが大通りでは許されない。また酒の瓶は紙袋で覆わないといけない。バス停でバスを待っている人に話し掛けたり、物をねだったりすることは厳しく禁じられていた。
商人と客との間で口論が起きた場合、商人の方が正しいとされた。客が“よそ者”の場合はなおさらである。“よそ者”がうろうろしているのを見つけると、ケリーはその者が何をしているのかを訊ね、納得のいく答えが返ってこない場合は追い返した。バス停で待っている人を困らせるなど、その地域のルールを破った者は逮捕された。
騒々しい若者は静にするように注意された。これらのルールは、通りにいる“地元の人”と共同して定義され、実施されたものであった。他の地域ではまた別のルールがあるのだろうが、これらはその地域では皆が理解しているルールであった。
もし誰かが住人を脅かした場合、“地元の人”はただケリーに助けを求めるのではなく、その侵害者を嘲った。ケリーがしたことは時には“法の執行”と受け止められるが、また、その地域が設定した望ましい秩序のレベルを守るために、非公式で、法律で処理しがたい処置を取ることもある。ケリーが取った処置の中には、法に沿ったものではないものもあるかもしれない。
断固とした懐疑者は、熟練した徒歩パトロール警察官が秩序を保つことが出来ることを認めるであろうが、しかし依然として、暴力的犯罪など住民が本当に恐れているものの根本的な解決にはならないと主張するであろう。それは正しくもある。しかし、次の二つの事を心にとめておかなければならない。
一つは、部外者が、様々な都市の住民が抱える心配事のうちどれほどが“実犯罪”から成り、どれほどが町の無秩序からなるものかを勝手に憶測すべきではないということである。ニューアークの人々は、彼らの行動やインタビューへの回答から判断すると、無秩序の方をより恐れ、警察に守られることによって非常に安心感を得ているのである。
もう一つは、無秩序と犯罪は切り離せないがつながりを持っているということである。無秩序が犯罪へと発展していくかのように、である。社会心理学者、警察官の両者とも認められていることに、1枚の割れたガラスを放置しておくと、外のすべての窓ガラスが割られてしまう、ということがある。これは、荒廃した地域に限ったことではなく、環境の良い地域でも同じ事が起きる。ガラスが割られる事は、必ずしも大規模で起こるわけではない。
というのは、“窓ガラス破壊者”が多く住んでいる地域もあるが、“窓ガラス愛好者”によって占められている地域もあるからである。むしろ、放置されたままの壊れた窓ガラスが、誰も関心を持っていない、他の窓ガラスを壊しても構わない、というサインになるのである。(窓ガラスを割るのは楽しいことでもある)
スタンフォードの心理学者、フィリップ・ジンバルドは、壊れた窓ガラス理論を試した実験結果を1969年に公表した。ナンバープレートを取り外し、ボンネットを開けたままにした乗用車を、ブロンクスとカリフォルニアのパロアルトのそれぞれに置いてみた。ブロンクスに置かれた車の方は、10分もたたないうちに“破壊者”によって襲われた。最初に手をつけたのは父親、母親、若い息子からなる一家族で、ラジエーターとバッテリーを持ち去った。24時間後には価値のあるものは全て取り去られた。
その後、手当たり次第破壊され始めた。窓ガラスは割られ、座席のカバーは裂かれ、様々なパーツが引き剥がされ、そして子供達は遊び場として用いた。ほとんどの大人の“破壊者”は、身なりの良い白人であった。一方パロアルトに置かれた車の方は、一週間以上誰も手をつけなかった。
そこでジンバルトが大槌で部分的に破壊してみたところ、すぐに通行人らが関与してきた。
数時間後には、車はひっくり返され、完全に破壊された。ここでも“破壊者”は身分の良い白人であった。
放棄された物は、楽しみを探してぶらぶらしている人だけではなく、普段法を犯すことなど考えた事もない人にとっても、利益をもたらす格好のターゲットになるのである。車の破壊や窃盗などが日常的に起こるブロンクスでは、“誰も気にしない”その地域性から、落ち着いた街であり個人の所有物は守られるべきだと考えられているパロアルトよりも先に破壊が始まったと思われる。
しかし、“誰も気にしない”というサインを出す行動によって、保たれてきた秩序を守ろうとする風潮が揺るがされたとき、破壊はどこでも起こり得るのである。
“ほったらかし”の行為もまた、地域秩序の崩壊へとつながると提唱したい。自らの過程を大切にし、近所の子供のことも気にかけ、不信な侵入者に対して眉をひそめるような家庭からなる秩序の安定した地域でも、数年または数ヵ月の間に荒れ果てた恐るべきジャングルと化すことがあるのである。
建物が放棄されると、窓ガラスは割られ、雑草が生い茂るようになる。大人が乱暴な子供を注意しなくなると、子供はますます乱暴になっていく。
住民がその地域から出ていくと、素性の知れない人々が移り住んでくる。
ティーンエイジャーらは街角にある店の前でたむろするようになる。店主が立ち去るように言うと彼らは拒み、争いが生じる。ごみが散乱するようになる。店の前で酒を飲むようになり、酔っ払いが通りで寝ることが許されるようになる。通行人は乞食にねだられるようになる。
この時点では、深刻な犯罪やよそ者に対する襲撃が必然的に多発するとはいえない。しかし住民らは、暴力的な犯罪が増えたと思い込み、行動を限定しようとする。通りに出る回数を減らし、通りに出た時には人から離れ、人と目を合わせないようにし、口を閉ざし、足早に通りすぎるのである。“巻き込まれない”ように。何人かの住民にとっては、この崩壊は大した問題ではない。
その地域が、彼らの“家”ではなくただ“住んでいる所”だからである。彼らはコスモポリタンであり、関心は他のところにある。しかし、世界での出来事より近所付き合いを大切にする住民にとっては一大事である。親しい付き合いの数人を除いて、近所付き合いというものが無くなってしまうのであるから。
そのような地域は犯罪による被害を受けやすい。必然的にではないが、住民が秩序の取り締まりに自信を持っている地域などと比べると、麻薬が売買されたり、売春婦が通りで勧誘したり、車が盗難にあったりする確率が高いのである。酔っ払いは愉快犯である少年達に襲われ、売春婦を買おうとしている者は待ちかまえていた男に襲われる、などの犯罪も起きる。
このような犯罪からもっとも逃れにくいのは、年老いた人々である。市民調査によると、年老いた人は若い人よりも犯罪の被害にあう確率は低いとされている。年老いた人の犯罪への恐怖心は大袈裟に伝えられていると推論する者もおり、年老いた人々を守るためのブログラムを組む必要はないし、むしろ彼らの誤った恐怖心を取り除くようにするべきだ、という意見さえある。
しかしこの意見は要点から外れている。手に負えないティーンエイジャーや酔っ払った乞食などと出会うかもしれないという恐れは、自分の身を守る術をもたない人にとっては、実際に強盗に遭うかもしれないというのと同じくらいの恐れなのである。
そして年老いた人が犯罪に遭う率が低いのは、鍵をかけた家の中に閉じこもるなどして身を守ろうとしているからなのである。若い男性が老女よりも頻繁に襲われるのは、襲いやすく有益なターゲットであるからではなく、通りによく出ているからなのである。
無秩序を恐れているのは、年老いた人に限ったことではない。ハーバード・ロースクールのスーザン・エストリッチは最近、人々が何に対して恐怖を覚えるかの調査結果をまとめた。オレゴン州ポートランドで行われた調査では、インタビューを受けた人のうち4分の3が、通りで若者の集団に出会った場合、通りの反対側へ渡って避けると言っていた。
バルチモアで行われた調査では、半分近くの人が、相手がたった一人の若者でも通りの反対側へ渡ると言っていた。住民環境に関する調査で、どこが最も危険な場所だと思うかとの質問に対して、実際に一度も犯罪が起こっていない場所であるにもかかわらず、若者が酒を飲んだり音楽を流したりしてたむろしている場所が挙げられた。ボストンの公共住宅事業は、犯罪率が最も高いところではなく、最も無秩序化した地域に住む人々が一番恐怖心を覚えているとした。
このことは、地下鉄の落書きなど、一見無害に思われる物が意味することを理解させてくれるのではないだろうか。ネイザン・グレイザーが記しているように、落書きの急増は地下鉄利用者に、毎日一時間程過ごさなければならないその場所が規制されておらず、また誰でも危害を加えることができるのだという考えを与えてしまうのである。
恐怖心から人々はお互いを避け、規制力が弱まっていく。時には警察に連絡が入り、パトカーが来て逮捕していくこともあるが、犯罪は無くならず無秩序が改善されることも無い。
住民は警察署長に抗議するが、人手不足でもあり、裁判でも軽犯罪や初犯の場合には裁かれないと説明される。住民にとって、パトカーで現れる警察は無能なものであり、警察にとって住民は生存競争をしている動物のようなものなのである。やがて住民は“無意味”だと、判断し、警察に連絡することを止めるであろう。
いわゆる都市の堕落は、どの都市でも何世紀かにわたって起こってきた。しかし今日起こっていることは、少なくとも二つの重要な点から見て異なる。まず、以前、第二次世界大戦の頃、都会生活者は、費用の面や交通手段、親族や教会などの繋がりなどの理由から、近所の問題から逃れるために容易に引っ越すことは出来なかった。引っ越すとしても、交通機関沿いになりがちであった。
今や、貧しいものや人種差別の壁に阻まれる者を除けば、移動はかなり簡単に出来るようになった。初期の犯罪の波には、自然と自己修正するようなメカニズムが備わっていたように思える。その地域の住民が、自らの力で秩序を回復させようとする風潮である。シカゴやニューヨーク、ボストンなどでは、犯罪などが起こった後、移動することが出来ない家族の力によって街の秩序が取り戻されていたのである。
もう一点は、その頃の警察は、その地域に代わって、体を張って治安維持に貢献していたということである。若者のギャングは手荒く扱われ、人々は容疑や放浪で逮捕され、売春婦や軽犯罪者も追放された。“権利”は善良な住民によって、そしておそらく弁護士を雇う余裕があり争いを避けたプロの犯罪者によっても守られていた。
その当時の警察のあり方は、正道をはずれたものでもなかったし、時折の過剰な行為の結果でもなかった。国が誕生して間もない頃から、警察の主な役割は、火事や野性動物、いかがわしい行為などから街を守る夜間の見張り人のようなものであった。犯罪を解決することは、警察の役割というよりも個人の問題として捉えられていた。1969年3月、我々の一人(ウィルソン)は、どのように警察の役割が秩序維持から犯罪に対処することに変わっていったのかを簡単な記事にまとめた。
変化は、被害を受けた人のためにその都度収入を得る形で働いた私立探偵(元犯罪者が多い)の出現から始まった。やがて探偵らは市の事務所に雇われ、一定の給与を支払われることを望むようになり、犯罪者を起訴する役割は、被害を受けた市民個人からプロの遂行者に移行された。この過程はほとんどの都市で20世紀まで完了されなかった。
1960年代、都市での暴動が深刻な問題だった頃、社会学者たちは警察の治安維持の職務を慎重に調査をし始め、集団的な暴動を減らして治安を向上させるための方法を提案した。秩序維持は、“コミュニティ関係”とかなり重なり合うようになっていた。しかし、1960年代初めに起こった犯罪の波はその後10年間減少することなく70年代に突入し、警察の役割が犯罪に立ち向かうものとなっていた。
秩序維持が役割であるとする警察の調査は中止され、代わりに、いかに多くの犯罪を解決し、多くの犯罪者を検挙することができるかが考えられ、警察に提案された。社会学者たちは、もしこれが実現すれば住民の恐怖感はかなり取り除かれると推測した。
その体制は、警察署長や外部の専門家の主張により、資金が配当され人員も配置されて大きく変化していった。その結果、警察は犯罪に対処する機関になることに成功した。秩序に対する責任が忘れられたわけではなかった。しかし、初期の頃あきらかであった秩序維持と犯罪防止の関係は忘れられてしまった。
その関係とは、初め1枚だった割られた窓ガラスが多くなっていくことと似ている。酔っ払いや乱暴な若者、物乞いする乞食などを恐れる住民は、単にその人達の行為に嫌悪感を覚え、無秩序な行為が野放しにされている地域で深刻な犯罪が起こるという住民の概念を訴えた。要するに、野放しにされた乞食が、初めの1枚の壊れた窓ガラスにあたるのである。
プロの犯行にしても咄嗟の犯行にしても、窃盗犯は、秩序の悪い通りで犯行を行えば逮捕されたり身元を認識されたりする可能性が低いと考えている。しつこい乞食が通行人にねだるのを放っておくような地域では、実際に強盗が起こった場合や起こりそうな場合でも警察に通報されないであろうと窃盗犯らは考えている。
警察幹部の中にはそれが実際に起こっていると認める者もいるが、車によるパトロールでも徒歩でと同様に対処できると論じている。我々はそう思えない。理論上では、車に乗った警察官は、徒歩での警察官と同じくらいよく監視でき、同じくらい多くの人に話し掛けることができるとされる。
しかし実際は、警察官と住民との接触は、車によって大きく変えられているのである。徒歩でのパトロール隊は、通りで人と自分自身を遠ざけることが出来ない。通りで人が近づいてきた場合、これから起こることを上手く処理する助けになるのは、着ている制服と警察官自身の人格である。そして何が起ころうとしているのか、
【道を尋ねられるのか、助けを求められるのか、怒りをぶつけられるのか、非難されるのか、おしゃべりに付き合わされるのか、脅かされるようなことをされるのか】が、全く予測できないのである。
車の中にいる警察官は、窓を開けて通りにいる人達を眺めるという形になる。ドアと窓は、近づいてくる住民を締め出す障壁と成り得るのである。一部の警察官は、この障壁を利用し、恐らく無意識にだと思われるが、徒歩でのパトロールの時とは違った態度をとることがある。我々はそのような光景を何度も目にした。パトカーが、若者がたむろしている街角にとまる。窓が下げられ、警察官が若者達をにらみつける。若者はにらみ返す。警察官は若者の一人に「こっちに来い」と言う。
若者は、仲間に自分が怖がっていないことを誇示するようにダラダラと歩み寄る。「名前は?」「チャック」「名字は?」「ジョーンズ」「何をしているんだ、チャック?」「別に」「仮出獄中か?」「違うさ」「本当か?」「ああ」「悪いことをしないようにしろ、チャッキー」この会話の間、他の若者達は、警察官をあざ笑うかのようにおしゃべりをしている。
警察官はさらに鋭くにらみつける。何を言われているのか分からず、中に入って行くことも出来ず、警察官をやりこめることは出来ないという力を誇示することもできない。先程のやりとりで、警察官が得られたことはほとんど無く、若者達は警察を気にする必要はないと考え、バカにさえするようになったであろう。
我々の経験から、ほとんどの住民が警察官と話をすることが好きであると言える、そのようなやりとりは必要である。世間話から情報を得ることが出来、また住民にとっては、心配事を伝え、またそれに関して何かをしたという意識を持つことが出来る。
車からよりも、徒歩での方が住民に近づきやすく、たやすく話し掛けることが出来る。その上、道端で警察官と話した方が目立たず、プライバシーを守ることが出来る。誰がバッグを盗んでいるか、また誰が盗んだテレビをあなたに売ろうとしたか、あなたが警察に伝えたいと考えてみてほしい。
都市部では、犯罪者はたいていすぐ近くに住んでいる。街角でパトカーを覗き込んで話をすることは、あなたが密告者だとまわりに知らせているようなものである。
秩序維持における警察の役割の真髄は、コミュニティによるインフォーマル・コントロールのメカニズムを強化することにある。警察は、莫大な費用を費やさない限り、そのインフォーマル・コントロールに代るものを提供することは出来ない。一方この自然な力を強化するために、警察はそれに適応しなければならず、ここに問題が生じるのである。
警察の街での活動は、その州の規定よりもそれぞれの地域の基準に合わせて行われた方がいいのであろうか? 過去20年以上の間に、警察の役割は秩序維持から法の執行へと、法の制限の下、メディアの非難によって引き起こされたり、裁判所の決定によって実施されたり、官僚に指示されたりしながら移行していった。
その結果、現在警察の秩序維持の役割は、警察と容疑者の関係をコントロールするために決められた規則によって支配されている。我々は、これを全く新しい展開だと思う。過去何世紀にもわたり、見張り人としての警察の役割は、適切な手順での応諾によってというよりも、望まれている状態に到達することによって主に評価されていた。その状態というのは秩序の保たれた状態である。
本質的に不明瞭なものではあるが、秩序が保たれている地域の住民は認識できるものである。その地域の住民が決然としていて勇敢であることが、その状態を得る手段であった。
一方、犯罪者を見つけて逮捕することは、目的到達への手段であって、それだけで目的に到達したというわけではなかった。司法による有罪・無罪の判決は、法執行形式の望まれた結果であった。法の厳重さは州によって違うものの、警察は、手順を明らかにして規定を守ることを初めから期待されていた。
犯罪者逮捕は、過剰な暴力を用いることなく、個人の人権を守りながら行われるものとされていた。暴力的な警察官は、裁判官や陪審員のような態度をとることがあり、そうするべきではないからである。有罪か無罪かの判断は、特別な手続きの元、共通の基準で下されるべきものなのである。
通常、裁判官も陪審員も、あるレベル以上の秩序の保たれた地域で起こった争いの中で逮捕された人物に会うことはまずない。ほとんどケースが通りで非公式に処理されているからだけではなく、一般の基準で無秩序の中で起こった争いを解決することは出来ないからである。従って裁判官が警察官よりも有能であるとは言えない。
ごく最近まで多くの都市で、また現在でもいくつかの都市で、警察は“容疑者”、“放浪”、“公共の場での酔っ払い”という法的には効力のない状態で逮捕していた。これは、地域の住民が、放浪者や酔っ払いを裁いて欲しかったからではなく、街の秩序を保つ努力をした上で上手くいかなかった場合に、警察官にそういう者を追い払う権限を持っていて欲しかったからである。
一般の基準を適用しながら活動する警察のあり方を考えてみると、何を基準に“望ましくない者”とし、なぜ放浪者や酔っ払いを“犯罪者”とすべきなのかを問う必要に迫られる。
正当に扱われたいという強く好ましい欲求を持つ私たちは、警察に漠然とした偏狭的基準で望ましくない人物を追放することを許してしまうのではないだろうか、と心配になる。
発展してきているがあまり好ましくないとされる功利主義は、他の人に害を与えなくても違法とするべきだとする点で我々に疑問を投げかける。そのため、警察を見ている人達の多くは、住民がして欲しいと思っていることを警察に行わせることを躊躇するのである。
他人を害してはいないいかがわしい行為を“批判罪化”する、すなわち警察が地域の秩序を保つのに行える行為の範囲を狭めることは、我々の考えでは間違いである。誰かに害を与えたという証拠のない酔っ払いを一人、放浪者を一人逮捕することは不条理に思える。
確かにそうかもしれない。
しかし20人の酔っ払い、100人の放浪者に対しても何もしないでいると、地域全体が破滅に向かうであろう。個々に対応するのに適した特殊なルールは、それが一般の基準とされて全てのケースに当てはめられるとふさわしいものではなくなる。
ほったらかしにされた一枚の壊れたガラスと何千枚もの壊れた窓ガラスとの関係を考慮に入れていないために、ふさわしいものではないとされるのである。勿論、警察以外の機関が酔っ払いや精神異常者が起こす問題に取り組むこともできるが、“非施設化”運動が高まっている地域などでは特に実施されない。公正さに関する懸念はより深刻なものである。同じ行為でもそれぞれの人によって感じられ方が違う。
年齢や肌の色、国籍などが、望ましい行為か否かの判断の基準にならないとは言い切れないのではないだろうか。要するに、警察が地域の固定観念によって動かされる機関になってしまう可能性がないとは言い切れないのではないか、ということである。
我々は、この重要な疑問に大して完全に満足の行く答えを述べることは出来ない。警察が訓練、指揮されることによって、一任された権限の客観的な制限を明確に説き聞かせられることを期待するということ以外に、満足のいく答えはないのではないかと思う。その制限とは、簡単に言うと、警察は行動を規制するために存在するものであって、その地域の人種や民族の純粋さを保つためにではないということである。
大規模な公営住宅プロジェクトの一つであるシカゴのロバート・テイラー・ホームズのケースを見てみるとしよう。サウスステート通りにある92エイカー(約37万平方メートル)もの住宅地に、2万人近くの黒人が暮らしている。1940年代にシカゴ住宅局長を勤めた黒人の名前からこの住宅名がつけられた。
開設から間もない1962年には、そこの住民と警察との関係がひどく悪化した。住民は、警察は無神経で残忍であると感じ、そして警察はいわれのない暴力を受けたと不平を訴えた。シカゴの警察官の中には、その住宅地域に入ることを恐れる者もいた。そして犯罪率は暴騰した。今日では様子は違っている。警察と住民の両者とも過去の経験から何かを学び取ったようで、両者の関係は改善されている。
最近では、ある少年が財布を盗むと、それを目撃した数人の若者がその少年に関する情報を他の住民に見られながらも警察に流す、しかし、住民を威嚇し、メンバーを増やし続けている若者のギャンググループの存在という問題がまだある。住民は警察がそれに関して何かをしてくれることを期待しており、警察もまたその期待に応えようとしている。
しかし、何をすればよいのだろうか。ギャングのメンバーが法に触れることをした時に警察が逮捕することはできるが、ギャングは又構成され、法に触れない程度に活動していくであろう。ギャングに関係する犯罪の一部を逮捕によって解決したとしても、住民の恐怖心は解消されない。
警察は希望を失い、住民はまた「警察は何もしてくれない」と思い始めるであろう。警察が実際にしていることは、よく知られたギャングのメンバーを敷地内から追い出すことである、ある警察官の言葉によると「尻を蹴飛ばす」だそうであり、住民もこのことを理解し、承認している。警察とギャングとの対立でギャングに勝ち目はないという警察の信念により、警察と住民の暗黙の同盟心は一層強いものとなっている。
このことを、適性手続きや公正な処遇と上手く調和させることは難しい。住民とギャングの両方ともが黒人であるので、人種が要因ではないことは分かる。それが要因になることもある。白人の住民と黒人のギャング、またはその反対の対立を想像してみるとよい。その場合、警察がどちらかの肩を持つのではないかと懸念するであろう。しかし実在する問題に変化はない。
公共の場での恐怖心を最小限のものにするために、警察はどのように地域のインフォーマルな社会統制のメカニズムを強化することができるであろうか。
法執行自体が答えにならない。ギャングは威嚇するような服装で乱暴な話し方をすることで、法に触れることなく地域を破壊することができるのであるから。
このような問題を考えるのは困難なことである。倫理的、また法律上の争点が複雑だからというだけではなく、私たちが法律を本質的に個人主義のものとして捉えるようになったためである。法律はワタシの権利に定義を下し、コノ危害のためにアノ警察官がソノ人物の行動を罰する。
この考え方から、個人にとってよいことは地域にとっても同様であり、個人にとって対して問題ではないことは多くの人に対して起こってもまた同様であると思われる。通常、これはもっともらしい仮設である。
しかし、ある一人の人にとってなんでもないことが他の多くの人にとっては我慢できないような場合、その多数の人の恐れ、撤退、脱出などの反応が、最初になんでもないと思っていた人も含む全ての人にとって、状況を悪い方向に向かわせる。
それは個人の必要性に反するあり方のコミュニティへ示す敏感な反応であり、なぜ小さな地域社会の住民の方が大都市に似たような地域の住民よりも警察に満足しているのかを表すものである。
インディアナ大学のエリノア・オストロムらは、警察の職務に対する理解度を、イリノイ州にある黒人の住む二つの街、フィニックスとイーストシカゴハイツそしてシカゴにあるやはり黒人の住む三つの街とを比較してみた。犯罪による被害のレベルや警察と地域住民との関係の質はどの街でも同じようなものであった。
しかし、シカゴ市内の住民よりもフィニックスとイーストシカゴハイツの住民の方が、犯罪を恐れて家に閉じこもることが少ないと言い、警察には問題解決のために、‘必要な行為’をとる権利があると考え、警察は一般住民が必要とする助けに注意を払うべきだと考えていることが分かった。
小さな地域の住民と警察は、そのコミュニティの一定のレベルを保つために共に努力するように努めているのに対し、大都市の住民と警察は、個人主義を基本にやり取りしているのではないかと考えられるのではないだろうか。
もしこれが本当であれば、警察は、どのように不十分な部隊を容量よく展開していけばいいのだろうか。誰にもその答えははっきりと分からないのだが、とるべき最も賢明な行為としては、ニューアークでの実験結果を活かして、どのような地域にどのような対応が必要かを正確に判断していくことが挙げられると思われる。
また、地域の秩序を維持するのに、可能な限り警察が関与しないで済む防護手段をとることである。いずれにしても、善良な住民の方が評判の悪い人物よりも多ければ、インフォーマルな社会統制の効果を上げることができるであろう。
たとえ荒廃しきった危険な地域でも、警察が関与しない住民による活動は効果的であろう。街角にたむろするのが好きな若者などと話し合うことによって、集まってよい場所や時間、人数などのルールをお互いの同意の元に設定することもできる。
ルールの設定に同意が得られない場合には、住民によるパトロールも効果的であろう。秩序維持に対する地域の関与には、二つの慣例がある。一つは、“コミュニティの見張り人”であり、これは新世界の開拓の頃からのものである。19世紀頃まで、警察官ではなくボランティアの監視人が秩序を保つために巡回していた。
それは、法を行使せずに、罰を与えたり暴力を振るったりすることなく行われた。彼らの存在は秩序破壊を思いとどまらせ、また住民に対しての警鐘となった。現在では、国中の多くの都市でこのような努力がなされている。最もよく知られているのはガーディアン・エンジェルスではないだろうか。
Tシャツに特徴的なべレー帽姿の武器を持たない若者のグループである。ニューヨークの地下鉄をパトロールすることで知られるようになったが、今ではアメリカの30都市に支部を持っている。犯罪に対するこのグループの効果は、残念ながらあまりないようである。しかしながら、彼らの存在が住民に安心感を与え、秩序を保つのに貢献していると思われるのである。
もう一つの慣例は、“自警団”である。東部の移住者が定住した開拓地で、政府が関与する以前に認められた、350以上の自警団があったとされ、その特徴は、警察官としてだけではく裁判官、陪審員、そしてしばしば執行人として、法を自らのものにしていたことである。
今日では、古い街が“都市開拓地”とされていることに住民が恐怖感を表しているにも関わらず、自警団は珍しいものとして捉えられている。しかし、ある地域での監視人たちはその団体との境界線を近いものとし、近い将来その線を越えるものもでてくるであろう。
ウォールストリートジャーナルで報告された両方ととれるケースは、ニュージャージー州シルバーレイク地域での市民によるパトロールである。リーダーは、“外部者に気を付けている”と言う。地域外からの若者数人がやってきた場合、どんなようか尋ね、若者が「ジョーンズさんに会いに着ました」と言えば通す。しかし本当にジョーンズさんに会いに行くのかを確かめるために後をつける、といった具合である。
住民の力も大きいが、秩序維持の鍵になるのはやはり警察である。まず、ロバートテイラーホームズのような住宅地域の多くは、自らの力だけでは秩序を守りきれない。また、たとえ落ち着いた地域の住民でも、バッヂをつけているような責任感は感じないと言う。
心理学者は、人々はなぜ他人が襲われて助けを求めている時に何もできないのか、ということに関して多くの研究をし、その原因は“無関心”や“自己中心”にあるのではなく、それぞれが持つべき基本的な責任感の欠如にあるとした。皮肉なことに、責任からの回避は周りに大勢の人がいる時の方がし易い。
秩序が必要とされる街の通りや公共の場所では、多くの人が“傍観者”になりやすく、その地域を守る人として行動する機会を少なくしている。警察官の制服が、必要とされた時に責任を果たすべき人とするのである。それに加え、住民に比べて警察官には、何が街の安全を守るために必要とされるのか、また何が単に人種の統一のためのことなのかの判断をまかせられるのである。
しかしながらアメリカ警察の人員は増えることなく、むしろ減っているのが現状である。いくつかの都市では、稼働可能な警察官の数の削減を余儀なくされた。今後もこのような状況はしばらく続くと思われる。そのため、どの部署でも元警察官に対しての配慮が必要とされる。
いくつかの地域は徒歩パトロールが役に立たない程犯罪が多く荒廃している。限られた数の警察官でできることは、必要とされる多くの要求に応えることである。落ち着いていて安全な、徒歩パトロールが不要な地域もあるのである。
秩序は崩壊しているがまだ改善の余地がある地域、人出はあるが恐れている人が多い通り、いつでも窓ガラスが割られているが全てが割られているのではなくすぐに修繕が必要な地域、などまだ改善するのに間に合う地域を見極めることが大切なのである。
ほとんどの警察署では、システム的にそのような地域を認識して警察官を配置するような体制ができていない。警察官は、犯罪率によって配置され(そのため治安が乱れてきているような場所は対象外とされ、改善不可能と思われるような地域での犯罪調査にあたることになる)、また出動要請の電話の数によって配置されるのである。(多少怖い思いをしたぐらいでは電話をしないものなのだが)。
パトロール警察官を的確に配置するには、地域の状態をよく見て、どこにより多くの警察官を置けば安全の向上に貢献できるかを、直に得た情報をもとに判断することが必要なのである。
限られた数の警察官の勤務枠を拡大する一つの方法が、いくつかの公営住宅プロジェクとで試されている。管理組合が、敷地内のパトロール役に勤務時間外の警察官を雇う方法である。住民一人あたりにかかる費用は大した額ではなく、警察官は収入が増えることに満足し、住民はより安全に感じる。このような方法は民間の警備員を雇うよりも良いのではないか、というふうにニューアークでの試みの結果が私たちに思わせる。
民間の警備員は、その存在によって犯罪や違法行為をやめさせ、助けを必要としている人のところに援助には向かうであろうが、秩序を乱す者に干渉することはないであろう。一方忠誠を誓った“本物”の警察官は、仕事に対する責任感、自信、またこの難しい仕事をするのに必要な権力のオーラのようなものを持っている。
パトロール警察官は、勤務先への移動中、バスや地下鉄など公共の乗り物の中でも、喫煙や飲酒、また他の治安を乱すような行為を取り締まることを期待されているであろう。取り締まりといっても、秩序破壊行為者を追い払う程度のものである。
(裁判官が必要とされるような犯罪が起こっている訳ではないのである)無作為ではあるけれども厳しいバスでの水準維持は、バス内の状況を現在飛行機内で当然とされているレベルの秩序に近づけることがおそらく出来るのではないだろうか。
しかしながら、最も要求されているのは、不安定な状況の中で治安を維持していくことはきわめて重大な仕事であるということをよく考えることである。警察はこれが職務の一つであることを理解し、また、犯罪捜査や出動要請に応えることを除外しては正しくなされないと信じている。
深刻で暴力的な犯罪に対する私たちの度重なる懸念によって、犯罪に対処する力量によって評価されるという考え方を警察官に与えてしまったと思われる。このことから今後も警察幹部は、犯罪率の高い地域に多くの警察官を配置し(今後犯罪の被害を受けやすいと思われる場所にではなく)、
法律や犯罪者逮捕のトレーニングに重点を置き(街の治安を保つためのトレーニングではなく)、そして“無害”と思われる行為を減らすキャンペーンに参加していく(どのプロの窃盗犯グループよりも早く、公共の場での酔っ払いや通りにいる売春婦やいかがわしい広告などの方が地域を破壊するにもかかわらず)のであろう。
とにかく、私たちは、警察は個人をそれぞれを守るのと同様にコミュニティも守るべきであるという長い間忘れ去られていた観点に戻らなくてはならない。私たちが出す犯罪の統計や被害化調査は、個人の損失を表しても地域の損失は表さない。
医者がただ病気を治療するよりも健康維持の重要性に気がついたように、警察そして私たちも割れている窓ガラスのない治安の保たれたコミュニティの重要性に気が付かなければならない。
以上
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