たからくんが大人になるまで生きていたい日記

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タイトル「渡る」



掌編小説「渡る」




 フェリーは台風が近づいているというのに、真っ黒な海から事も無げに接岸した。少しずつ勢いを強めてきた雨が、夜を一層暗くしている。
船を降りるために女は甲板に出た。湿気を帯びた風が吹きつけ、なま暖かい。海の潮が体中を取り巻いて、服の中まで染み込んでくるようだった。すぐ欠航する高速艇よりカーフェリーのほうが台風には強い。ゴツンと港に船体を添わせた音がして、下船口にスロープが取り付けられた。
 桟橋へのスロープを降りながら、女はフェリー乗り場を眺めた。島は何一つ変わっていないように思われる。船外に身を曝すと、さすがに波の音も大きく、真横に見るフェリーはとても穏やかとは言えない波に洗われていた。
屋根付きの下船スロープだが、雨が深い角度で吹きつけて、洋服の左側ばかりが濡れる。女は荷物を右手に持ち直した。
今日とうとう離婚届を出した。今このときの身の置き場に、他の土地は思い浮かばなかった。そして女は郷里へ着いた。トラックが船から一台一台と走り去って行った。もうこの時間だし、客待ちのタクシーもいない。いたとしても、何と行き先を告げればいいか。島には帰ってきたものの、待合室のベンチに座りこむしかなかった。
狭い木製のカウンターは古び、角がちびていて、ここで何度も切符を買ったことを思う。この島を出ていったときも。
 そのとき、誰かが待合室に入ってきた。畳みながら傘を大きく振って雫を切っている。
「あっ」
傘を振る後ろ姿で誰だかすぐに分かった。
「なによっ」と語尾を低くして女は斜めを向いた。大喧嘩をして飛び出して以来、九年ぶりに見た父親だった。
いずれ一度はきちんと会うつもりだった。でもこんなにいきなりなんて。女は動揺を、やり慣れた反抗的な態度で隠した。
「海の様子を見に来た」
民宿を営む父親はゆっくりと言った。
「なによ、そんな……」
見え透いた嘘だ。こんな日にお客がある筈がない。父親の足元と両肩が雨にぐっしょり濡れている。娘が乗っているかと何回もフェリーを桟橋まで見に行ったに違いなかった。傘を差していても打ち付ける雨の中、足や腕を濡らしながら、すべての乗客が降りてしまうまで娘を待ったのだろう。何隻も。
「誰も来てくれなんて言ってないわ」
申し訳ないと思うのになおなお口が止まらない。
「誰が知らせたのよあたしが帰るって、余計なことを」
「何だその口の利き方は。勝手にしろ」
父親は握りしめた傘を地面に叩きつけて雨の中へ出ていった。傘の柄のプラスチックが割れてはじけた。
 激しい後悔に一瞬が女を貫いた。と同時にその傘を鷲掴みにして父親の後を追って走り出していた。
目の前に父親の背中があって、でもどんな言葉も跳ね返されそうで、言葉が出せない。父親は黙ってつんのめるように歩き、女はその後ろを歩いた。
 いきなり父親が振り向いた。
「馬鹿が。傘持ってんだから差せ。おまえ濡れとるやないか」
「お父さんが壊したんやないの」
「馬鹿が。いいおばはんが子供みたいに」
 ひと気のない夜の港に、一台の白い軽ワゴン車が雨に弾かれて、薄ぼんやりと明るく見えた。
「父さん、あの……」
「もういい。どうでもええやないか」
…………。………………。
「うん。どうでも、ええね」
 夫、いや夫だったひとが私が戻ることを電話したのだろうかなんて。それに、あのときは、ごめんなさいなんて。
 雨が車のフロントガラスを打ち付け、シャワーの膜を引いたかのようだ。ライトが照らし出す夜道はぼんやりと少しずつ、だが途切れることなく車の先に浮かんだ。
「フェリーは欠航するだろうが、波の音を聞いてみろ。なあに、根こそぎやられっちまうような台風じゃない」
「この様子じゃあ、三日四日お客はないね」
「ま、六日は来ないな」と、島の天気を予測しながら、狭い海沿いの夜道を白い軽ワゴン車が縫っていった。







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