たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「雫」


「雫」



 児童合唱団に入ったのは偶然だった。
 進行性筋ジストロフィーという病気の祖母。私が物心付いたときから、祖母は寝返りも打てないのが普通で、祖母は動けないのだから動かせるものを祖母の周囲に配置することになる。ベッド。ベッドの横に電話。電話の横に椅子。そして、その向かいにテレビ。当時としてはまだ珍しいリモコン付きで、祖母のリモコンが勝つか、本体でチャンネルを変える私が勝つか。大抵私が勝っていた気がする。
 そのテレビで放送局児童合唱団の団員募集を見た。小学生らしく、すぐその気になって、「おばあちゃん、申込み葉書」とせがんだ。祖母は手首から先だけまだ辛うじて自由が残っていて、字を書くことができた。
 今思うと、下手くそな合唱団だった。上手になる技術よりも、歌うことの楽しさを先生たちは伝えようとしてくれたのかも知れない。週に三日、大きな声で楽しく歌って帰った。
 中学高校と進学する中で、「他の人の声をよく聴いて。合唱は自分だけ楽しく歌ってもダメ。互いに寄り添ったとき、全員の声が一粒の雫のように輝く」と、合唱としての意義を求められるようになった。何だか拘束されるように感じられて、合唱を、やめた。私には「聴く」ということができなかったのだろう。
 一日に何度か、祖母を抱きかかえてトイレに連れていく。トイレの帰りに洗面。着替えをさせて椅子に。食事の世話をする。三日に一度はお風呂の日。風呂場に簀の子を敷いてバスタオルを重ね、裸の祖母を裸の母が後ろから抱きかかえて座り、裸の叔母が祖母を洗った。
 祖母の入院時は母と叔母が交代で二十四時間泊まり込んだ。児童合唱団に入った頃から私は祖母の寝返り係で、祖母の部屋で寝起きし、パジャマの生地を引っ張って体の向きを変えていた。祖母は椅子に座らせてもらうと自分で紅を引いた。ブラシで髪をといてあげるととても喜んだ。
 家具だけでなく家族も、祖母を囲むように生活が組まれていた。だから、例えば私の入学式に親が来られないことがあっても、私には別段不思議なことではなかった。
 祖母は、私が十六歳の春旅立っていった。
 その十数年の後、私の人生に大波が重なって、余裕がなくなった時期、私は母を憎んだ。負担をかけまいとして子供の頃から話さずにきた思いは、ヘドロのような言葉になって母にまき散らされた。「私を見て。私を聴いて」何万語を費やしても、私はそれだけを言っていたのだと思う。波が少しずつ穏やかになるにつれ、あのヘドロは何だったのだろうと考える。相手を傷つける言葉でしか伝えられなかった、笹啼きのように未熟で必死な母恋歌だったのだろうか。
 先日、年長の友人たちが少し涙ぐみながら話している場に同席した。入院中の夫、愛が足りないと荒れる子供。自分の限界と罪悪感と怒りと悲しみとを分かち合っていた。
 その声は母の声ではなかったけれど、私にとっては母の言葉だった。私は、ぶつけるばかりで母を「聴く」力がなかったのだ。もっと友人たちの話を聴きたいと思った。きっと、その雫の中に母の声も溶け込んでいる。
 半年程前思い立って、新しい合唱団に入れてもらった。学生時代以来だ。響きを楽しむような少人数の団。休んでばかりだけど、なんだか嬉しい。








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