「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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たからくんが大人になるまで生きていたい日記
タイトル「雨垂れ」
「雨垂れ」
川柳教室の戸を叩いたのは、行き場を失った濁流を逃がす道が必要だったからだ。濁流はすでにコントロール不能なまでに膨れあがっていた。
不可能に思える困難にぶち当たったとき、ビジネスミーティングなどでも、まず問題を分割してみることがある。大きすぎて掴み所のない問題をモンスターのままにしておかず、小さい単位で、ひとつひとつ解決策を探るのだ。
結婚、同居、喧嘩、病気、別居、仕事、実家とのトラブル、兄弟との溝、入院。様々なものが同時進行でやって来た。今思えば、それらは私に精神的な親離れをさせてくれる良い苦難だった。だが当時、それらを捌いていくには、私はあまりにも経験不足だった。
私の櫂はすぐに折れて使えなくなった。足掻けば足掻くほどトラブルが重なって、それぞれに勢いのある流れが合流し濁流にまで膨れあがってしまったのだ。
だから、一つの波、一つの風に題材を絞る短詩を書き始めたのだろう。それ以外に私には濁流に対処できる櫂が思いつかなかった。
川柳教室で初めて出された題は「開く」だった。
開く、ひらく、ヒラク、……。いろいろな単語を辞書で見ては、自分の心の中を探った。そのとき私の中に沈んでいた「開く」は、母に対する私の開き方だった。
私は、中学生くらいからか、親に接する際の自分なりの基準を定めていた。嘘は言わないが事実は選択して話すという基準だ。良い出来事はすべて言う。良いことしか言わないと、「心配事を抱え込んでいるのではないか」と親が心配する恐れがあるし、その気遣いが親を寂しくさせるかもしれない。だから、良くないことも、笑い飛ばせる程度のことは伝えておく。出来るだけ、「うちの子は、良いことも良くないことも全部話してくれているから」と、親が無意識に安心出来るように。それが私のルールだった。
「開く」の題が出た時期、私には病名が与えられ、今後どう病気とつきあっていくかという頃だった。一生付き合っていかなければならない病気だ、と思うと不安だった。不安だったからこそ、母をも不安に巻き込む恐れがあるので、これは母には言わない事実へ私は分類したのだった。そんな中で、私が初めて教室で提出した川柳はこうである。
胸襟を開く加減も思いやり
幾つか、その頃の作品を書き出してみる。
つぶて呑むたび私の海がせり上がる
そうねとだけ言うゴミ箱でいてあげるよ
気遣いを気付かせぬよう気を遣う
胸の奥、腹の奥底から、想いの塊を掻き出してくる。そのどろどろと形が与えられていないただ重たいものに、言葉を与える。この気持ちは何だ? 怒りか、悲しみか、寂しさか、愛おしさか、嬉しさか? どんな情景だ? どんな物体がどんな音を立てている? まずたくさんの言葉を探し、とっかえひっかえしながら、五・七・五を基本とするリズムに研磨する。発音したときの響きはどうだ? 字面の漢字ひらがなカタカナの使い分けは、適切に息づかいを伝えているか? 韻はどうだ。濁音の配置は? 清音は? 響きを確かめたか?
そうやって、えぐり出してきた素材でしかなかった想いが、作品の形になったとき、歩くこともできないほど重かったはずの出来事が、作品という翼に乗せられて私から放たれる。私の手許には、何とか背負って生きられる程度の質量になった思い出だけが残るのだ。
出来事、相手からの言葉や自分の感情を呑み込んで、海の藻屑とならんばかりに沈んでいく私が、何とか浮いていられたのは、川柳で嘔吐していたからかもしれない。川柳と出会って十年近くになろうとしている。その間に、生き方も学んできた。
まず、いい人ぶらない。呑めないものを無理に呑み込まない。そして湧いてきた思いを呑み下さないこと。
昨年冬、二ヶ月ほど入院した。私が入院するときは大抵一人で病院へ行き、手続きし、入院し、支払いし、一人で帰った。このときもそのパターンだった。年末に帰省したとき、普段の会話の中で、母が
「東京に一週間行ったけど、病院へ行く時間が作れんかったけん、行けんかった。そやけど、あんたそんなこと気にせんやろ?」と言った。
かつての私なら、自分が子供の頃から定めたルールに従って、「ぜーんぜん気にせん」と答えながら、心の中に黒い尖った石の欠片がバラバラと降り積もるような寂しさを抱え込んでいただろうと思う。でも、ちょっと考えて、
「いやあ、寂しくて寂しくてウルウルしちゃったよ」と少し冗談めかした表現をオブラート代わりに自分の思いを伝えた。
母はそれを聞いてうろたえていた。私が眠ったと思ったのだろう。母は、行こうと思ったけれど行けなかったのだということを他の家族に一生懸命話していたのが、私には聞こえていた。
川柳の表現を教わりながら、降ってくる雨を無理矢理全て呑むような、無理をしなくてもいいんだよということを知ったように思う。敢えて呑み込まなくても、また敢えて弾かなくても、体に当たる雨粒は、そのまま、流れるままに私の体を伝って地面へ戻っていく。ただ、それだけのことだった。地面に返せばいいだけだったんだ。そんなことを最近思う。
絶望に逆らって立つ花カンナ
六年前の入院時に作った句だ。生命力が強い植物だからと、風が厳しく吹き付ける海岸やバイパスの分離帯などに植えられて、ぼろぼろに花びらを引きちぎられても、短い茎をまっすぐに立て、みっともないほどに傷んだ花びらを晒して、それでも咲いているカンナの花に自分を託した。
呑み込んだ毒を川柳で吐いてきた。十年、川柳に支えて貰った。
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