たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「ごめんね、ありがとう」


「ごめんね、ありがとう」



 アジサイ、アイビー、オダマキなど。アパートの外廊下に、陶器の招き猫と並べて私の植木鉢が六つ七つある。ベランダがない小さなアパートだが、ありがたいことに私の部屋は二階の突き当たり。他の住人の通行がないので、クレームがこない。ここなら何とか、太陽の恩恵を受けられる。
 私はお花屋さんが好きだ。前を通りかかると覗き込む。切り花や鉢物を見て、嬉しくなる。道端の実生の花も、よそ様のお庭も、公園も山も、好きだ。だが、買ってきた鉢に土を足したりはしたことがなく、水をやり過ぎたりもする。結果、枯れてしまったものも数え切れない。「本当の花好きじゃあ、ないね」と言われることもしばしばだし、友人に「アーア。また枯らしちゃうんでしょう」と冗談めかして嘆かれる。
 かつて、自分が以前のように働けなくなったころ、気持ちが参っていた。私は何の役にも立っていない、という罪悪感。何かの生命を断つことで得られた「食べ物」をいただき、酸素を消費してしまうことが、私に限って、許されないように感じられた。何もかもが私を責めている気がして、植木の元気がないことも、私の能力不足や怠惰を責める、無言の抗議に思えた。そのころ私は自分という害虫を駆除したいと切望した。
 平凡な日常が、いつのまにか出口のない迷路に変わっていた。
 でも、出口は無かったのではなく、考えるという道を辿らなければ見えなかっただけだ。
 害虫って誰にとって害なの?役に立つって誰の?許されるって誰に?責めるって誰が?
「誰か」とは、「世間様」という名前のもの。多数の声、「世論」の認識が、その時代に於いては正しいことだと見なされる。そういうルールのなかに私は在る。そして今は、利益を生み出すことが善、という時代なのだ、と気づいた。そこが、出口だった。そして同時に、他の生命のためにできることは、害も益も同じものだと気づく。
 そもそも植木鉢なんかに入れられた花。でも、商品としてだからこそ、生まれるチャンスを得た花。太陽光を配慮してもらった鉢。根腐れた鉢。居るだけで周囲の者が楽しくなる乳幼児。他者からの世話を必要とする乳幼児。
 存在や限界を互いに認め合うと、「ごめんね」と「ありがとう」はコインの裏表のようだ。自動的に二つで一つ。だから、植木鉢に、私に、ペットの猫に、寝たきりだったお祖母ちゃんに、「ごめんね」「ありがとう」。ふざけんじゃねえよ、と怒鳴っている若者に、「ごめんね」「ありがとう」。
 先日、「植木マモール」という自動水やり機を買った。私は植木たちに「いつもごめんね」「いつもありがとう」と言った。植木鉢ももしかしたらそう言ってくれているのかな。今年もアジサイの新芽が少し大きくなっている。






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