たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「さよなら、天使」


「さよなら、天使」



 十二年前、新卒で入社したとき、営業部に配属になりました。毎朝の課会、部会。そして、週一度の昼食時間課会。「個々人の売り上げノルマ達成へ、数字のヨミの甘さをどう補うつもりなのか」という責め。毎日の残業後は、「夜の課会」と居酒屋へ連れて行かれ、連日午前様で先輩の説教を聞いていました。
 この時代に私は「過食症と糖尿病」を貰いました。
「流れに逆らって逆らって、エンジンが焼けつくほど逆らって、何としても現状を逆流して……」。私にとっての営業は、産卵でもないのに「意志とか管理とか」で無理矢理遡上する鮭のようでした。
 バカの一つ覚えで、何でも、「頑張ればできる」「出来ないのは頑張りが足りないから」というやり方を適用し、乗り切ろうとしました。でも、糖尿病を良くしようとすると過食症が悪化し、過食症を良くしようとすると糖尿病が悪化するのです。
 調味料に至るまで食材を計量し、調理。一口二十回噛んで一時間かけて食べる。準備から片付けまで、一回の食事に二時間くらいかかりました。これを一日三回繰り返すだけで大変な時間を要します。一日一万歩以上歩き、三十分自転車漕ぎをしました。雨の日も発熱した日も、ジムで二、三時間過ごしました。仕事で迷惑は掛けられないとすると、しわ寄せはすべて睡眠時間にきます。
 自分で満足できる状態は四ヶ月ほどしか続けられませんでした。数年間は何とかバランスを保っていたつもりでしたが、実はみしみしと決壊に向かってダムにひびを増やしている時間でしか、ありませんでした。
 結局、会社に何とか出勤していても、一日に七回の過食嘔吐で朦朧としていて、とうとうダム決壊。鬱。廃人状態になって、初めて足を止めることが出来ました。ベルトコンベアーが止まっているのに、体がネジを絞める動作をやめられない、チャップリンの映画「モダンタイムス」みたいでした。「意志が弱い」「やる気がない」と、切り捨てられがちだったダメ患者は、内科と精神科でタイアップして診てくれる大学病院と巡り会って、ようやく、少し光を見た気がします。
 底なし沼は、やっぱり底がありませんでした。多くの仲間が自殺していきました。私にも底はなかったけれど、自傷行為と希死念慮あたりを必死で、もがきあがいている頃に、
「あがくから沈むんだ。ばかやろう、じっとして力を抜いてみろ」という愛情が耳に入るようになりました。底はなかったけれど、浮いていれば底の有無はどうでもいいことだったのだと今は思います。
 私自身には白昼夢での出来事のようで、あまり現実感がありません。確かに自分がやっていたことだけれど、自分のこととは思えないような……。狐につままれた一瞬、あれっと思うと十年以上が過ぎていた、そんな感じです。でも、夫は大変だったようで、前もって聞いていないのに私が携帯をとらないと、とうとう自殺が成功してしまったのではないかと、心配のあまり一時間に二百回以上コールしていたこともあったようです。
 どうしてその段階で私は止まれたのか、仲間は死んでしまったのか。それは、運に恵まれたから、としか思えません。
 今は、これからの「食いぶち稼ぎ」について思いを巡らせています。
 あがかず、じたばたせず、余計な力を抜きながら、でも商業活動が成立する。そんな「食いぶち稼ぎ」と巡り会いたいと願っているところです。
 そんなものはない、世の中そんなに甘くない、と妄信していました。だから簡単に絶望できたのだと思います。
 絶望は「死の恐怖」を麻痺させる麻酔みたいです。死を恐れる段階をすっ飛ばして、近道して命を終わらせることの出来るジョーカーのようでした。
 でも今は、「もしかしたら、そんな仕事もあるかもしれない。よく探していないから見つけられていないだけかもしれない」と思うのです。そう思い始めたら、以前のような強いエネルギーで絶望することは出来なくなりました。
 ただ、あの頃「過食症と糖尿病」を貰わなければ、立派に遡上して、子供も産まないのにぼろぼろになった体は、多分とっくに息絶えていただろうと思うのです。
 私を鬱にし、立ち止まらせてくれた摂食障害が、私から離れていこうとしているのが、今、実はとても寂しいです。長く私に寄り添ってくれた天使が、今もっと彼女を必要としている人のところへ行こうとしている。そんな気分です。
 一生、完全に治るということはないのだろうけれど、あれだけ濃密だった摂食障害とのハネムーンの季節はもう過ぎ去ってしまったのだと思います。さようなら、そしてありがとう。
 長年、高血糖を持続してきた体は、結構ガタガタだけど、これからは一日四回のインシュリン注射と一緒に、倦怠期の夫婦のように「糖尿病&プチ過食症」とポテポテ歩いて行こうと思っています。
 摂食障害って両刃の剣で、そうそう悪いだけのものでもないみたいです。





© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: