たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「それでいい」


「それでいい」



 ウエディングベルは、ゴールではない。それまでの日々に挫折や成功があったように、教会のカリヨンを二人で鳴らしてブーケを投げてからも、今日までのところ、えっさえっさと落石を越えながら暮らしている。
 昨日、四回目の結婚記念日を二人で迎えた。
 五年前の昨日、既に結婚していた友人の忠告にも耳を貸さず、「取り敢えずやってみるわ。やるだけ努力してみる」と、立派な心意気で夫の両親や姉妹との同居生活をスタートさせたのだが、ゴミの始末から洗濯物の畳み方、味付けの味醂の使い具合に、親戚やご近所との付き合い方まで、誰かが他の誰かに合わせなければならない。
 私は段々と鬱になり、一年半で、姑の別居宣言発布となった。一度の喧嘩さえしもせずに。
 住宅ローンや仕事の都合で、夫は他の家族と家に残り、暫定的に、私が一人でアパートを借りた。そして、隔週で週末を共に過ごすため、夫が私を、私が夫を訪ねる。
 ところが、この「暫定」生活が、それ以前の結婚生活よりも長期間になってしまった。実家の両親や兄弟から、一体いつまでふらふらしているのかと非難を浴びる。家を出る、アパートを借りる、引っ越すなど、目に見える形での大きなアクションがないと、何もしていないように外野からは見えるのかもしれない。
 だが、私と夫は、毎日毎日「話し合」ってきた。昨日が今日と同じようにやってくると感じていた、同じ屋根の下で暮らした日々は、すれ違い勤務のために、「おはよう」「おやすみ」しか話さない日もあった二人が、別居してからは、一日たりとも連絡や相談を欠かしたことがない。体調はどう? 今日は何してた? 生活費は大丈夫? 辛い。これからについて考えてみたんだ。今日、こんなアドバイスを貰ったよ。……。
 不器用な二人は、別居を始めてから、まず、自分が何をどう感じているのか、言葉にして伝え合う練習から始めた。同じ本を一冊ずつ手許に置き、電話口で一章ずつ読む。そしてそこから感じたことや思い出したことなどを互いに伝え合うのだ。現在や二人が出会う前の気持ちを話すのは、実は結構難しいし面倒臭い。まず、自分で自分を見ることになるからだ。
 以前私に、「努力すれば謙虚になれると過信するほどに、実にあなたは傲慢だ」と言ってくれた先生がいた。表面上は社交的で、誰とでもそつなく話を合わせるが、大切な気持ちは一言も口にせず相手の意向を優先する。そんな、社会生活をこなすテクニックが、家族というシステムの中でも通用すると思い込んでいた。自分さえ貝になっていれば、家族は上手く維持されていくと疑いもしなかった。
 こんな夫婦が、会話をする毎日を漆のように重ねている。未来に、「静寂」という工程も必要かもしれない。でも今は、想いを伝えて共有することで、二人の土壌を耕しているのだ。
 結婚記念日だった昨日、スーパーマーケットからの帰りに少し回り道をして、二人で散歩した。
「すごいな。元気になったね。笑ってる」
 私のことを喜んでくれる夫が隣りに居た。
 ずるずるふらふらしているように見える一日一日が過ぎて、空っぽのコップだった私に夫の雫が蓄えられていた。その豊かさを手に実感するとき、ようやく、空っぽや貝でいなくてもいいと思えた。誰に失望されようとも、みっともなくても、私は私、それでいい。
 私は私、私達は私達。精算か続行か、二本の分かれ道で立ち止まって、いっしょに考えていたら、ひとりぼっちではなくなっていた。二人で、「そう思うのね」、「そう感じるのね」と頷き合っていたら、いつの間にか、自分の感情にも頷いてあげられるようになっていた。
 いい時間だったね。「それでいい」が持てたのだもの。







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