「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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たからくんが大人になるまで生きていたい日記
タイトル「小ささ」
「小ささ」
初めて訪ねた屋久島で、とても懐かしい気持ちになった。南国を旅してよく感じる異国という感覚はなく、だからといって、子供の頃に見た風景でもない。道路端に背丈より高いダチクが揺れ、そこかしこから草の匂いがした。もしかしたら、父や母、祖父や祖母が子供の頃に見た景色かもしれないと根拠もなく思った。そんな懐かしさだった。
永田集落のいなか浜にウミガメが産卵に帰るというので、せっかくだから見ておこうと出かけていった。十六年ほど前から、研究者やボランティアの人が浜を守っていた。ウミガメは、観光客のざわめきやカメラのフラッシュで産卵せずに海へ戻って卵を捨ててしまう。地元の人も観光客も一カ所で連絡を待ち、亀が落ち着いてからそっと近づいて産卵を見せて貰うのだ。
その亀は初産だそうで、産卵の穴を掘っては失敗して、私達は思いの外ながく待機していた。十六夜の月が驚くほど明るかった。二度目の穴で落ち着いて産卵を始めたらしいと連絡を受けて、若いボランティアの男性についてそっと浜を歩いた。私達の影が砂に黒く伸びた。亀はその穴を捨て移動して三度目の穴掘りを始め、これ以上怯えさせるわけにはいかないので、引き返せもせず、私達はその場に座り込んだ。
結局、四度目の穴でようやく産卵を始めた。すり鉢状の穴は急に深くなり底は茶筒のような円柱形に掘られていた。甲羅からのぞく生殖器やその周囲の肉は人の陰部のような動きをした。息んで卵が穴に落ちるとき、クーと鼻息が漏れた。一瞬、哭いているのかと思った。数十分くらい経っただろうか。卵を産み終わり、足ひれで砂を掛ける。捏ねるように丁寧に砂を持っていく足ひれの関節は人間の膝を見ているようだった。砂浜のハマゴウの茎をバチンバチンと引きちぎりながら数回砂を掛けると、疲れ果てたように足や首を地面に垂れてぐったりと休み、そしてまた全身の筋肉を使って砂を掛ける。その繰り返しだ。
砂を掛け終わった亀が海へ戻っていくとき、私達は沈黙のまま亀の両脇に立ち、見送るように波打ち際までついて歩いた。陸上で重い体を支え引きずってきた亀がやっと湿った砂に着いたとき、確かに安堵したように海水の匂いに反応していた。波が体にかかり、その波が引くのについて亀が海に戻った。二十人はいたであろう観光客の沈黙が残った。中年の女性がひとり拍手した。いつの間にか月に雲がかかり、空には天の川が満ちていた。
屋久島を離れる前日、もう一度亀を見に行きたいと思い立った。時間的に遅く、ボランティアの人たちは今日の集計をして受付を締めるところだった。
「今ちょうど産卵を始めるから見てもいい」とボランティアのおじさんは言った。後は片付けるからと、受付小屋の女性達を先に帰らせて。
地元で生まれ育ったその人は、携帯電話の音にも煙草の火にも無頓着で、腫れ物に触るかのようだった先日との違いにがっかりした。
「懐中電灯をつけて見せてあげてもいいんだけどね、研究者とかが見張ってるから。うるさいんだよ」
「鹿も猿も亀も保護だけが能じゃないんだけどね、鹿は蜜柑の木を痛めるし、猿は畑被害が出るし」
私は少し鼻白んだけれど、それでも、このおじさんはボランティアでここにいる、その事実を思い出して、複雑な愛情を思った。郷土愛とそしてもっと他の何かに対する愛情だ。
出発の朝、民宿のおじさんにお礼かたがた昨夜の話をした。おじさんは悲しい顔になった。「地元の問題をお客さんに見せるものではないのに」とこぼしたあと、子供の頃は亀の卵は食べ物だったからねと続けた。
「先輩に見つかって分け前を横取りされないように、仲間たちと卵を採りに行って、偽の足跡をこうして付けておいたりしてね」と、手足を動かして見せた。
「亀の卵は貴重なタンパク源で、不文律で子供だけに採る権利があった。数十個を残して、取った卵をみんなで分けて、食べる以外は、翌朝売り歩いて学費を作ったりした」
「蜆売りみたいに?」
「そうそう、亀の卵ぉーって言いながら。大きな亀をつかまえて、重すぎて持ち帰れないからと、肉の美味しい両手足だけを切断して放置していった人の話も聞いた。酷くて最後まで聞いていられなかった」とおじさんは話した。
両手足を切断されて、命の尽きるまでの間、その亀はどんな思いをしただろう。その酷さを地元の人たちは知っていて、そうしてきた時代。自分たちの無力さを悲しみ、命を譲ってくれた生き物たちへ頭を垂れていたのではないだろうかと思った。
屋久島の森で見た、多くの土埋木を私は思い出していた。樹齢千年を越えた杉だけを屋久杉と呼ぶ。その杉が切られては使いやすいところだけ取って、放置されていた。その放置された杉を土埋木と呼んでいる。数千年も生きていた生命を断っておいて、それを使い切ることなく次の樹を切ってきたことを、私は残念に感じていた。
でも、江戸時代、人の手で伐採し、人の背で運び降ろすには、人間に出来る力に限界があっただろうと理解した。その頃の人々は、その後、トロッコとチェーンソーで、きれいに余すところなく伐採していった頃の人々より、命を譲って貰っていることをちゃんと感じていたのかもしれない。自分の無力さと限界を日々実感していた人たちの方が、命を譲り受け、繋いでいることをしっかりと身をもって知っていただろうと思った。重くて亀が運べなかったり、巨木を使い切れなかったりすることが想像できずに、単純に非難の目を向けてしまうほど、人間の無力さを忘れている私よりずっと。
放置された土埋木に苔がむし、倒れた木の命は光の雨となって次の命を育てていた。森は力を失っていなかった。
民宿のオーナーや昨夜のボランティアのおじさんの言葉に、人もまた、まだ何かを失っていないように思えて、屋久島が何故懐かしいのか、何故美しいのか、またここに来てみたいと思った。
鹿児島へ発つ飛行機を待ちながら、もう次に訪れる計画を私は考え始めていた。
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